石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年7月の世田谷村日記
 六月三〇日
 終日世田谷地下。世田谷村市場、つまり開放系デザイン市場、住宅、建築の戦略を練り直す。独人動かず、交わらず熟考する時だろう。今年の夏は厳しい夏になりそうだ。結局、三月四月の動き過ぎで、流石に疲れた体を休めるのに五月六月を費してしまった。

 六月二九日 日曜日
 堀田善衛の「方丈記私記」再読。定家の「明月記私記」と併読すると、よく理解できるような気がしてくる。何故仕切に、この時代すなわち平安から鎌倉への移行期に関する論述を読みたいと思うのかは明快には解らない。今の時勢への絶対的嫌悪とでも言うべきものなのか、コレワ。十六時読了。「世田谷村市場」について考えてみる。

 六月二七日
 十時六本木ギャラリーSAKA、院レクチャー。李祖原、J・グライターも参加。テラスで、建築・建築家の近未来について二人に話し合ってもらった。スタジオGの今年の目標を今夕話し合うことになった。

 六月二六日
 GA63号に藤森照信が茶室2題出していて面白い。写真も良かった。藤森は長生きすれば、ある独特の世界を作り上げるだろうな。茶の宗家の如き世界で、それは建築の世界よりも、個々人に則して考えるならば、よほど広い。ただし、日本をベースにしなければ成立しない。生花の世界とおなじだ。十時地下へ、利根町のプログラムを作成する。

 六月二五日
 十時李祖原の二回目のレクチャー。Gスタジオにて。
 午後、来客二組。伊万里の堤さんと久し振りに会えた。地方都市の事業家の困難さは痛切なものだろうと憶測する。十五時Gスタジオ。李祖原とダブルキャストで学生を指導。十九時前修了。李祖原のスピリッツが伝わると良いのだが。

 六月二四日
 十八時大学で雑用が一段落した後、野村悦子、丹羽太一と久し振りに話す。三〇才半端の人達が何を今感じているのかを知りたかった。

 六月二三日
 九時二〇分地下に降りる。利根町の百人スクールの概要考案する。久し振りの、謂わゆるまちづくりだ。今更、何を気負うでもない。これ迄の体験を生かして、淡々とやるだけ。と書き付けながら、淡々が、いつも痛烈になってしまうのが、これ迄の常だったから、抑制気味に考えを組み立ててみよう。十三時半ダイヤモンドホテルで名桜大学村上光信先生にお目にかかる。

 六月二二日 日曜日
 朝、原口さん来宅。三階のテラスによしずを建てかける。夏らしくなった。屋上菜園に生ゴミを埋める。暑くて、とても長くは居られない。十四時、国分寺岡さん宅。アパートの再生の件。十月頃からとりかかれるようだ。

 六月二一日
 十時半新宿。光嶋君と待ち合わせ、利根町へ。十二時取手。佐藤さん宅で昼食。十四時生涯学習センターの会場へ。参加者三十一名の会。少し総論的な話しをしてから、皆さんの話しをうかがう。普通の人の生活の話しの中から町を作り直す素材が出てくるのが理想なのだが。十六時半迄。修了後再び佐藤宅で次の展開に関して相談。要するに「オバさんのまちづくり」だな。次回の私の参加は八月中旬となり、取手より世田谷に戻る。二〇時前京王線車中でメモを記す。

 六月二〇日
 別にこれと言って何にもない一日だった。

 六月十九日
 やはり少々気持ちが高振っているのだろう。堀田善衛の「定家明月記私抄」読む。今、私達は白い廃墟に、定家同様に立ち尽している。七時二〇分レストランで朝食。磯崎さんと四方山話。八時ホテル発天理へ。天理工場にてコンペ最終審査。最優秀は無し、優秀二点。謂はゆる佳作五点を選出する。十四時社長、副社長、首脳陣に経過を磯崎さん説明。了承を得る。それぞれの案について若干の説明をした後、完了。十四時磯崎さんと車で天理市へ。天理市をグルリと見学して、参考館へ。古代中国、エジプト等の収蔵品を見る。思わぬ処に思わぬモノがあるものだ。後漢一世紀灰陶加彩楼閣(物見やぐら)等見事であった。見学後、磯崎さん、奈良の建築を一つ見てゆこうと言い出して、法隆寺に行く。百済観音の居る新しい宝物館その他見る。十六時半京都へ向かう。十八時京都祇園切り通し、四条上ル、おいと。浅田彰と三人でメシ。二〇時過、沢山食べて京都駅へ。のぞみで東京へ。二十三時半頃東京着。東京駅で磯崎さんと別れ世田谷村へ、〇時三〇分ごろ帰る。
 台風6号は日本海へ抜けた。法隆寺は人も少なく、良かった。が、次第にこの日本の古典らしきが怪しく見えてきているのも確かだ。磯崎の影響かコノ感じは。

 六月十八日
 今日の二時まで、興が乗ってエスキスを続けたので起床は八時。エスキスが上手くゆくと我ながら希望が湧いてくるからおかしい。全く建築人間だなこれでは。三物件に関して光が指し込んできたような気がする。昨日の午後、初めて表現論らしきを書き始めたのがキッカケなのだろうか。アイデアはいつも突然生まれてくるが、やっぱり手を動かしていないと私の場合は何も生まれない。スケッチブックに描かれる線を頭でコントロールし、言葉で励ましながら、建築らしき姿を建ち上げる。あぶり出しみたいなものだ。中国大連の大きなスケールの建築のエスキスを続けていたのも、別の仕事に良く影響したかも知れない。でもなァ、上手くいったと思った時が一番危ない状態でもあるから気をつけないと。十時地下打合わせ。十三時半出。十四時五三分発のぞみで磯崎さんと大阪へ。シャープ、コンペ審査。十八時過大阪帝国ホテルでシャープ社長さん達と会食。二〇時過終了。日航ホテルへ。Barで磯崎さんと話す。二三時前、部屋へ。はからずも、神話の話しが出たのが面白かった。しかし、相変らず磯崎さんと話しているとレクチャーを受けているばかりで情けない状態だ。そろそろ一矢くらい返したいものだが・・・。その形式が仲々視えてこない。磯崎さんに対するに技術論、流通論をやったって、失礼だしな。アン・ビルトを今取り出して、中国を凝視する磯崎の未来は、安定した退屈さを好まず、変化に変化を重層させる方法の行末は何処か。しかし、磯崎新と話していると、スリルがある。二三時過ぎにはBedに入ったのだが、三時に目覚めてメモを記している。

 六月十七日
 七時起床。今日の学部レクチャー、何を話すかまだ決まっていない。先週の七講でほぼ定番にしているものが終了した。折り返し地点である。きちんとやろうと決めてやる14回のレクチャーは大変だ。十二時レクチャー修了。今日の午後はどうなっているのかな。そういえば屋上菜園の鬼百合が満開だったな今朝は。午後インタビュー2件、いずれもコンバージョンについて。松村秀一先生は大変だろうな。

 六月十六日
 九時前寺町の妙高寺へ。自転車でゆく。新築物件の打合せ。寺院の会館風のものになるのかなあ。十一時前世田谷村に戻り地下打合せ。打合せも刺激が無いと面白くない。十五時室内原稿の目ざわりデザインのテーマを墓地と決めて資料を集め始める。野村の手を借りる。十八時書き始め二十三時迄かかる。台湾中原大学の黄先生より電話あり、この世田谷村日記を台湾で何かに使って良いかとの事。藤森照信の講義があったらしく、それと一緒にまとめるとの事だった。勿論OKである。中原大学もなつかしい処だ。

 六月十五日
 六時半目覚める。よく寝たが、よくは眠ってはいない。眠るのも体力だが、これは弱くなった。当然な事ではあるが・・・。仕方ない。七時半朝食。九時より学生が昨夜作ったモノの講評をする。手を抜かずにやった。十二時昼食。十四時東京へ出発。十七時高田馬場着解散。
 十八時世田谷村に戻る。疲れて予定していた室内原稿書けず。情けない。

 六月十四日
 九時大学。九時半追分へバス四台でスタート。建築学科の新入生オリエンテーションで軽井沢の追分セミナーハウスへ。十三時着。子供みたいな一年生と話す事は無いだろうと考えていたから、これ迄一度もこの会には出た事が無かったが。やはり一年生とは話す事が何も無いのでTAの院生をかまってみる事にした。李祖原も新入生の子供振りには仰天して、テリブル・スチューデント、テリブルの連発である。夕食は新入生と一緒にしなくてはならず、話しかけてくる奴がいて地獄であった。私には大学一年生と話す言葉が全く無いのである。漫画だなコレワ。欠席した方が良かったな。学生にとってもその方が安穏であろう。夕食時材料の輿石助教授と初めて色々と話しが出来たのが収穫であったが。
 私だって勿論大学一年生なんて恥ずかしい時があった。記憶をいくらたどっても、大学生活は何も思い出せない。ほとんど山登りに明け暮れしていたから、先生とも賢明にも接触しなかった。大学生活に帰還したのが、三年生の後半ぐらいからだった。実質的には四年次からだったな。学部一・二年生のライフスタイルは日本のそれには多大な問題があるような気がする。一般的な教養を低学年では身につけるべきじゃないかな。十九時過宿舎へ帰り、寝てしまう。体を休めなくては。二三時三〇分風呂を使い、色々と考える。学生の幼児的退行現象が指摘されて久しい。増々それは拍車がかかっているように思う。これから先、近未来のグローバル・スタンダードの熾烈さ、スピードについて行ける筈がない。又、その必要もない。これ迄の日本の産業社会は謂わゆる組織力と単純なモノへの好奇心で支えられてきた。私は基本的に日本はグローバル・スタンダードの速力から早く降りてしまうべきだろうと思う。国土に見合った人口まで総人口が減少するのを当然想定して、それなりのスケールの生産と消費モデルを作り、ある程度まで食料の自給率を上げて、その事に保有の技術力を使うべきであろう。工業化ではなく、科学化された自閉的農業を目指し、テクノロジーを組織化すべきだ。

 六月十三日つづき
 十時四〇分院レクチャー。光と建築について。琉球大学の学生が聴きに来ていて、レクチャー後少し話した。遠くからワザワザ、こういう学生は嬉しい。父親は沖縄で設計事務所をやっているそうだ。藤沢のTさんよりメール。引越すべきか否かの相談である。
 木枕、正三郎が売れ始めた。どんな反応があるか楽しみだが、インターネットを動かしている面白さはコレなのだ。
 十三時前研究室OG佐藤来室。高橋晶子さんのところに引き取って頂いた人間だが、元気そうで何よりである。七月にメシを喰う約束をする。何だか、私も次第に教育者然としてきてしまっているな。辛いが、これも又仕方ない。筑波大、院入学希望者に次いで、十四時OB大野来室。四年間社会勉強して院に戻る事を決心したそうだ。理想的なプログラムだな。しかも三年は牧師生活で、余りにも沢山の人間の人生と対面してきたそうだ。健闘を祈る。今日は色んな人間が来るな。
 十五時大連プロジェクトミーティング。十七時過、東大鈴木研究室へ。久し振りに伊藤先生にも会い、伊藤研で東大出版会の出版の件。京大山岸先生を交え、座談会。その後、近くの料理屋で会食。大人達との会食は語らぬところの間があって楽しい。

 六月十三日
 梅雨空でうっとおしいが、気持ちもうっとおしくしてはイカン、と自分で自分に言い聞かせるが、やっぱりうっとおしいのである。日記のメモが少ない時は、建築のスケッチブックの方の頁数が延びているのに気付く。とすれば、どちらが良いのかは、今のところ良く解らぬところがある。「森の学校」のエスキスを本格的にスタートしよう。朝山さんの娘さん、恵さんから手紙いただいた。彼女も日記を読んでいることが判明する。

 六月十二日
 朝宮脇愛子さんよりTELあり、「学生さん皆大人しいわね」佐賀の時の学生の方が元気だったと言う。全く同感である。終日世田谷地下で打合わせ。シンプルな一日だった。生活用品が少しずつではあるが動いているのが収穫だ。大連のプロジェクトのスケッチすすめる。

 六月十一 日
 十四時、スタジオG宮脇愛子さんレクチャー。学生大人しい。鈍いのかな矢張り。いい話しが出てるのにな。

 六月十日
 七時屋上菜園。朝顔が葉を出していた。カンボジヤの匂い草は顔を出していない。枝豆のツルをはわせる竹の棒を継ぎ足した。パンツ一丁でこんな事やってるのは廻りの人々はきっと視ているんだろうな。ズボンくらい身につけた方が良いかも知れんな。でも面倒くさい。裸じゃなければ良いか。
 十六時雑用を終えて研究室でボーッとしている。
 二十二時前京王線新宿駅。電車の中で手持ち無沙汰にしている。今眼前にしている車内の現実が真の現実とは言い切れぬところに現代の危機があるように思うが、確信はない。

 六月九日
 朝七時エゴン・シーレ読了。健全な自然はシーレを生まなかった。都市ウィーンがシーレを生んだ。エゴン・シーレの絵の、現代のカリカチュアとの異常な類似。現代のカリカチュア(特に日本の)のエロス、より直截なセクシュアリティへの関心、余りにも直接的なそれとの類似は何を意味しているのだろうか。TOKYOは一九〇〇年初頭のウィーンなのか。アドルフ・ロースの言説は一九〇〇年初頭のウィーンの崩壊、具体的には病気の蔓延状態と関係しているのだろう。エゴン・シーレの父、アドルフはニーチェ同様にどうやら梅毒で死んだらしい。その末期は精神錯乱状態であった。ウィーンは娼窟の巣でもあった。カフェ文化を介して、アドルフ・ロース、オットー・ワーグナーそして十代後半、二〇代の始まりのエゴン・シーレは接触していた。そこからロースの言説、装飾は罰であるが生まれた。今のTOKYOに梅毒がはびこっているとは思わぬが、同様の病巣が膨れあがっているのは確かだろう。ケイタイは梅毒である。オタク現象、引き込もり、ノンコミュニケーション社会的不感症は精神病の一種ではないか。エゴン・シーレを読了しての印象だ。近代絵画が芸術家の個性・才質を中心に生まれるようなものではないのは確かであろう。裸形の才質なぞはあり得ぬ事を坂崎乙郎は描いている。

 六月八日 日曜日
 今日は休める。六時「建築学の教科書」読む。鈴木さんの「建築の強さについて」読んだ。公共投資とは何かについて彼は考えているな。面白いもので文を読んでいると対面しているような気分になるな。藤森照信の「謎のお雇い建築家」読んでいると彼の背中を眺めているようだよ。「お城も宮殿も原爆ドームも」木下直之も面白かった。やっぱり歴史家の論述はイイものが多い。亡くなった坂崎乙郎の「エゴン・シーレ」岩波書店を読む。坂崎乙郎は高校時代のドイツ語の先生だった。エゴン・シーレは前から関心を持っていたウィーンの画家だが、この本を読む事で、彼が一九〇〇年代のオーストリア、なかんづく七〇〇年続いたハプスブルグ帝国のウィーンの崩壊と密接な関係を持つ鋭敏な感覚を持った画家である事を了解した。アドルフ・ロース、オットー・ワーグナーとも接触していたようだ。

 六月七日
 七時半屋上菜園に生ゴミを埋める。屋上は生命力に溢れている。九時地下ミーティング。十二時修了。十四時三〇分大学。昨日から同室に李祖原がいて、時々中国語で電話したりしているので、仲々変な雰囲気で良い。そう言えば鈴木博之にも随分会っていないが元気でやってるんだろうか。李祖源上海事務所より、大連プロジェクトの情報を得る。十五時公開講評会。二〇時半迄。どん底状態であった学科の設計製図も今年はようやく上向きで良かった。

 六月六日
 六時屋上菜園に上り二種類の朝顔の種をまく。二日程水につけておいた種なので今度は芽を出すだろう。菜園の朝は良い香りに包まれて気持が良い。。少しばかりの設計メモを記す。
 今日の院レクチャーで何を講じられるか、一時間半の時間は重要だ。時々、現場で良い考えを得るように、講議だって私にとってはある種の現場だからな。院レクチャーは設計の現場のライブでもある、時にはね。ズッーとやったら一人よがりの馬鹿だけれど、時にはやろう。
 十時四〇分よりレクチャー。眼の前で居眠りしている奴がいて話す意欲がそがれる。眠るくらいなら来ないでくれと叫びたい。私だって伝えたい事があるから話しているんだぜ。
 十四時李祖原と再会。上海スタジオの件、中国の仕事の件など話し合う。「早稲田スタジオGチャイナ」の名前でやろうと決めた。十二月にオープンさせる。十五時設計製図採点。少し気を入れて個人指導したので、ここ二、三年の体多落、低調さは払拭された。指導した者の大半はAクラスに入っていたので良かった。とすれば、ここ数年のドン底現象の一因は、教師の側にもあったと言う事である。李祖原と夕食を共にして世田谷に戻る。

 六月五日
 八時四十五分妙高寺へ。打ち合わせ。十時世田谷村。ユタ州の婦人二名帰国。十一時半大学橋本さん来室。昼食を一緒する。十三時教室会議。十八時三〇分明日のレクチャーの準備を終えて世田谷に戻る。

 六月四日
 朝顔とさやえんどうの種をまく。屋上菜園にうずくまって見ると、絶景である。今が一番かも知れぬ。地面、マ屋上だから地面じゃないから、土だな、その土に近づいて草花を見る楽しさがあるね。フッと思いついて、デジタルハリウッド社から出版した「建築家、突如雑貨商となり、至極満足に暮らす」読み直してみる。自分で自分の本を読み直すくらい馬鹿な事はないが、面白く読めた。この面白さは何かなと思う。自分に対する距離感だろうな。
 十二時前大学日常生活用品のページが動いていた。動かし続けるにはエネルギーが必要だが、やってみる価値はある。Gスタジオ二点程良いものが出てきた。ほっとする。早速インターネットにプレゼンテーションする段取りをする。オープンテックハウス#2渡辺さんよりメール。今年の3月に突然道路計画(三〇年前の)が降って湧いた様に立ち上り大深度工法により地下四〇メーターに都の基幹道路が計画されていて、渡辺さんの家の辺りにインターチェンジが出現するかも知れぬのだと言う。それは心配だろうし、怒るのも無理はない。どのように対応できるのか調べてみると手紙を書く。淡々とした日常生活を送る住宅地にいきなりダムを造ってしまうような事だコレワ。簡単に建設が許される訳がない。野村に調査を依頼した。中国の仕事N棟にも参加させる事にして、今、海日汗のレクチャーを彼等は受けている。コンバージョンがあれだけまとめられるのだからチャンスを与える。十九時二〇分、久し振りにデューク・エリントン、コルトレーンのバラードを聴く。十九時三〇分中国の件で野村からレクチャーを受ける。

 六月三日
 七時起床。チョッと本を読んで屋上菜園に上る。日々菜園は表情を変えるな。鬼沼から持ち帰った名も知らぬ草花に水をやる。一日休めれば種をまけるのにな。梅雨前にやらなくては。朝顔は屋上では日当たりが良過ぎるのかな。もうすぐ百合が咲くよ。地下で図面チェックして九時前家を出る。途中安田金物のオヤジさんが閉店した店の前で何やらしていたので声を掛けメシを近々一緒にしようということにした。彼はもっと働きたいんだろうな。十時前大学学部レクチャー準備。今日は集合住宅についてネクサスの仕事を介して話してみる。N棟Gスタジオの連中に頼んでいたコンバージョンのプロジェクトが仲々良いではないか。見直した。使えば、やるんだナァ。中国の仕事条件が良くなってきたのでやってみようか。
 十七時配島一弘氏来室。色々とお願いする。長く附合える会社になると良い。時々会ってみたい人物だ。フッと思い付いて一九八二年のバラック浄土を読んでみる。ズーッとあきもせず同じ事を言い続けていると我ながら思う。進歩が無いと言えばそれまでだが、表現形式には揺れがあるが、中枢はぐらつてはいない。中小工務店連合を作りたいんだよね本当は。職人連合は不可能であるにしろ、せめて弱小工務店連合はナァ。

 六月二日
 十時過地下。生活用具のすすめ方打合わせ。昼過、屋上菜園に昨日鬼沼より持帰った草花を植え込む。花咲き乱れ屋上は今、美しい。十七時メモ、トンレサップの水上集落について書く。キャプションも含め二〇時前修了。世田谷村市場のコピー原稿書く。ひばの木枕「夢枕正三郎」とオベリスク型照明「蝉折」について。ひばの木枕は注文が途切れないのでリバイバル生産する事にした。蝉折は木製の照明器具シリーズである。
 こういう小さな生活用品を少しづつ作って、販売してゆくのは私が珍らしく途切れる事なく、やり続けてきた事だ。百のアイテムに辿り着くことが出来たら少し整理して本格的に論じてみたい。もう一つの小さな市場を現実化してみたいと考えてはいるのだろう。

 六月一日
 一時半、何故か何をするでもなく起きている。南烏山町の安田金物店が閉店してしまった。見事な位に働き者のオヤジとオバさんの姿も消えた。毎朝あの街角を曲がるのが楽しみだったのに。「ヘイ、お早う。」の声も聞く事ができない。夫婦そろって働き者で正直者だった。働いているのが楽しみだった典型的な町の小売店鋪の、欲張らない商売人であった。閉店して小さなシャッターを閉めたマンマの町角を曲がるのは、もう楽しくなくなった。こうやって町は滅びてゆくんだと思う。働くのが楽しみで、楽しんで生活していた老夫婦が居なくなったそれだけで私にとっての町角の一つは消えた。安田金物店はそこで仕事する人を少し知るだけで、町角に意味が生まれることを私に知らせた。人の生活に小さくても意味がある事を知る事で、物理的なただの町角に、別の意味が生まれ得るのを私は知ったのだが・・・。私の地図から一つの町角が消えた。流通の合理化だけが商店街の目的ではあるまい。生活の楽しみの中に物のささやかな売り買いがくるまれているような、そんな価値を創り出さなくては商店街の意味は無くなるばかりだろう。しかし、あるいは、すでに商店街はあり得ぬモノとして考えるべきなんだろうか。大型店鋪はいずれ、コンピューターショッピングの無店舗商店街に敗けるに違いない。そうなって人々はようやく安田金物店の老夫婦を思い起こすのであろうか。
 まちづくり支援センターの店を閉めてから、だいぶ経った。昨日研究室の大テーブルの上にヒバの木枕が二つあったので、どうしたと聞いたら、まだまだ注文が来ていると言う。ウーム、困ったな。再開するか。しかし、これ以上拡散していってもな。よい人材がいれば話は別なのだが。
 八時友岡さん夫妻と猪苗代湖鬼沼へ。東北道を走る。昼前鬼沼着。雨の中を歩き土地検分、と言っても数十ヘクタールの土地で山あり、谷もあり、全長2KMくらいもあるので、全体の感じを把握するだけにとどまった。作って持って行った、こちらの案もどうやら、実際の土地には合っていない。仕切り直しだ。しかし鬼沼の土地そのモノは素晴らしかった。神話的風景とでも言おうか。夜叉や弘法大師伝説まで生み出しているのだから。十八時帰京。烏山の寿司屋で友岡さんにごちそうになる。二〇時帰宅。アメリカのユタ州から徳子がお世話になっていた婦人二名、来村。私は倒れるようにして寝た。

2003 年5月の世田谷村日記

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