石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年8月の世田谷村日記
 七月三一日 つづき
 難波和彦さんから電話あり、あいさつに伺いたいと言う。秋からの東大教授就任の件であろう。この件はだいぶん前から何故か知っていたのだが鈴木さんから、しゃべるなよ、黙っていろと言われていたので、勿論口外しなかった。安藤忠雄の後ガマに難波さんを持ってくるというのは意表を突くようではあるが、良く良く考えてみれば名人事なのだ。東大の人事にとやかく口を挟む筋合いではないが、東大建築はしっかりした人事をやるな。夕方会って飯でも喰おう。ともあれ、良かった。
 十四時広島より二名来室。市役所の塚田さん、広島の落語家櫛雅之さんとひろしまハウスの件で相談。広島の高校生とプノンペンの高校生との共同音楽会の企画が浮上した。プノンペンのひろしまハウスで音楽会が開催できたら面白いな。十六時早稲田の原さん宅へ。コンバージョンプロジェクトがようやく動き始める気配になってきた。今日の東京新聞に我々のコンバージョンプロジェクトが大きく出ていたのも幸いした。原さん一家が前向きに取り組んでくれれば良いなア。十七時研究室に戻る。十七時半難波さん来室。四方山話。高田馬場文流で食事。難波さんと直接会って話しするのは久し振りだが、ITで時々彼の日記をのぞいているのでその感もなく、何か変な感じである。難波さんが大阪から東京に戻り東大に納まる事になるのは、大変良い事だ。今の軟弱な無風状態に硬派の風穴を開けてもらいたい。新大久保に電車で移り、駅前のソバ屋で、再び飲む。あんまり酒は飲みたくはないのだが、今日はイイヤ。しかし、私も余程グラつかないで頑張らないとイカんなコレワ。しかし、山手線でハシゴ酒というのも難波さんと、私らしくて変で良かった。彼のBOXシリーズはすでに#96まで進行しており、師の池辺陽のナンバー・シリーズと同数に達したとの事。五年で成し遂げたのだから仲々のもんだ。私のオープン・テック・ハウスの連作は彼に言わせれば「ゲイジュツ」なんだそうだが、そうは簡単に問屋は降ろさせないぞ。ゲイジュツ的工務店活動はこれからが本番なのだ。

 七月三一日
 今日で七月も終わりか。八月を準備期間にして、九月から世田谷村日記の書き方を変えようと考えている。このメモはすでに私の個人的記録の意味を少し計り超えはじめている。見知らぬ人が多数読んでいるのは確かだし、それを考慮しなければメモ自体が成り立たぬ現実にもなった。私自身には守らねばならぬプライヴァシーは無いに等しいし、書いて良い事と、書いては人を傷つけてしまう事くらいのけじめは自分でつけているつもりだ。当然私だって出来るだけ多くの人に読んでもらおうと考えてこのメモを記している。新聞・TV・雑誌等既存のマスメディアを介しては言えぬ事、発表できにくい事を私のホームページを介して表現している積りだ。日記形式のの良いところはズルズルに、簡単にたれ流せる事だ。欠点も又同じところに在る。形式・方法が視えぬモノは建築だって私は好きじゃない。でも、その好きではない事に近い事をこのメモではやってきた。三年以上もやってきた。メモとして書いた量は膨大なものになっている。それはそれで私には価値があった。私的な記録としては自分にとっては、とても貴重だ。建築のエスキスブック、スケッチブックの類はほとんど全てを保管してある。これは捨てられぬ。十年も、二〇年も昔のエスキスブックに明日につながるアイデアが埋まっている事が時々ある。それと同じで、チョッとした思い付きを言葉でメモしておく事は私にとって、とても大事な事なのだ。しかし、先日もある高校生から、何故あなたは日記を公開するのかと問う手紙もいただいた。単なる自己露出欲だとも言えず、しばし考えた。明解な答えは得ていない。しかし、日記形式を超えるなんらかの書く方法、形式を持たぬと、こういう類の自然で真当な疑問には答えられぬ事も知った。
 一ヶ月の準備期間を置いて秋には少しマシなスタイルに進化させて、日記は続けたい。八月はそれのトレーニング期間だから、ちょっとスタイルは混乱するだろう。三年くらい前にこのメモを始めた時は、明らかに個人用の記録だった。あるいは友人達への近況報告の意味もあった。しかし、すでにその域を超えてしまった読者が生まれてしまった。その事実に対応する形式が必要になった。マ、考えようでは、その為に三年間のトレーニングを重ねてきたとも言えるだろう。

 七月三〇日
 朝大学へ。主任会の報告を聞くため。ついでにホームページの改善の事少し進めよう。世田谷村スタッフも一つ良い建築を設計出来たら一皮むけるのだろうに。今のままでは建築同好会サークルだな。十勝の地階の見積りがでてきた。少し高い。十一時半西谷主任とお茶を飲む。十三時半何人かの社会人、留学生の相談に乗る。しかし、世の中にはまだ居るんだナァ。本物のわからず屋が。十六時世田谷村へ帰ろうか。戻っても何があるわけでもないがね。J・グライターがベルリンへ帰ったので、研究室はまた一層空虚になった。世田谷地下は八月九月の大学夏期休暇中は大学に引越す事にした。李祖原、J・グライターも休みなので、彼等のスペースを使わせてもらう事にする。大学では設計はできぬと観念して、世田谷地下に移動したのだが、地下に移ってもさしたる成果が得られた訳でもない。それなら人の居ない夏休み中は大学の空きスペースを存分に使わせてもらおうと考えたのだ。十七時四五分三年生黒田設計を見る。

 七月二九日
 朝学部最終レクチャー。唐桑ものがたりについて話した。昼過ぎ突然淡路島の山田脩二来室。全く変わりがないな脩ちゃんは。これくらい変わらぬ人物も稀だ。研究室ミーティングに同席してもらい、夕方早々に新大久保駅前のソバ屋で飲む。良い酒だった。十八時半別れ。アト何回脩ちゃんとは飲めるかな。十九時過、J・グライターと会食。グライターとは十一月にヴェネチアで再会する事になるだろう。二十一時半世田谷村に戻る。聖徳寺打ち合わせ。ようやく仕事のペースがつかめてきたな森川は。

 七月二八日
 まだ梅雨が明けぬ。昨今の世情に似ている。今朝のミーティングはしっかりやろう。天気任せにはできない。終日打合わせ、その他。

 七月二六日
 十時院入試面接。石山研合格は四名、保留二名。厳しい結果になったが仕方無い事だ。十五時中川、友部、栗畑、聖徳寺住職来室。十九時赤坂中華料理屋、西谷主任慰労会。佐藤滋、入江正之両教授と二時過迄飲む。

 七月二五日
 七時半起床。まだ梅雨は明けない。昨日もらった「ひろしま平和貢献構想」報告書−祈る平和から創り出す平和へ−読む。プノンペンのひろしまハウスが構想の中に位置づけられている。そう言えば昨日、講演会場で唐桑の「カキ研究所」におられた関さんに再会できた。唐桑から広島へ移って、今は瀬戸内海水産研究所に居るとの事。懐かしい人に思わぬところで会えた。講演で話しながら思った事だが、唐桑では大変な事をやったんだな我々は。佐藤和則に感謝しなくてはならない。和則は町長になって二期目だが、何をやるかな。何かに協力したいのだが、こちらも力不足なのだ。分厚い黒雲で光も指さぬホテルの部屋でしばし考え込む。九時五二分、のぞみ一号で博多へ。十時五三分博多。忍田さんにお目にかかる。スラリとしてカラッとした仲々の人だった。車で浄水の現場へ。雨がザンザ降りだったが、雨の中で見た印象は仲々良かった。昭和二年に建てられた古い住宅が木々に囲まれて、ツタにおおわれてあった。家の前の持主篠原さんが家の内を案内して下さった。家の中は本当に良い家族が住み暮らしていた歴史がいたる所にあって、古いホコリの匂いとともに痛切なノスタルジィの中に侵入してゆく感あり。この家には得も言えぬ愛情が棲んでいる。篠原さんもそれを知っている。又、忍田さんは女性の直観でその家に住みついている愛情の存在を嗅ぎとったのだろう。この浄水の土地にのめり込むように引かれたのはそれだからだ。現場を見てこの仕事は無理をしてもやってみようときめた。この土地には歴史が棲んでいるよ。篠原さんより、「種を蒔いたら、福が来たよ。」のタイトルが附された小冊子いただく。この家に棲んでおられた四宮種美・福子御夫妻とその四人の子供達の記録である。福子さんが亡くなった一九九九年に私家本として発行された。この土地の住人であったお福さんは余程の人物だったようで、それがお福さんをしのぶ子供達の様々な言葉やらに良く表現されている。とても良い本だ。この土地には多分そのお福さんの愛情が棲みついていて、それで良く木が育ち、草々が家を守っているのだろう。福の神が居るんだな。高級住宅地の良い土地を忍田さんは選ばれた。
 すぐ近くのイタメシ屋で昼食。忍田さんの家作りの話をうかがう。忍田さんの今の家も見た。この人は正直な人だ。食後、再び土地を見て福岡国際センターへ。御主人の忍田勉さんが主催するカンサイフェアを見学する。福岡国際センターは大相撲九州場所の会場で、そこを一杯にして建築部材部品の販売プロモーションを開催していた。九州一円の卸業を営んでいるようだ。創業五十年、勉さんの父親が創業者である。忍田勉さんにもお目にかかった。エネルギッシュで明るい人物だ。これなら事業は拡大するだろう。そんな訳で、短い一日ではあったが忍田夫妻に会って、御主人、奥さん、共にその人間を大体把握できた。良い一日であった。この仕事は楽しんでやりたい。只今六時半過のぞみ28号が東広島を通過した。飛行機を避けて、わざわざのぞみで帰る事にしたのは、道中色々考えられるから。二〇時過京都。忍田邸は0シェルターの三番目のものにしよう。そのソーラー発電システム自体が御主人の(株)カンサイのシステムエンジニアリング商品になるように考えるのが合理的であろう。さてエスキスを始めようか。忍田邸、妙高寺エスキス。二十二時半頃東京着。さすがに疲れた。このところズーッと疲れが抜けていない。何とかしなくては。深夜世田谷村帰着。真栄寺の馬場照道と電話で話す。照道さんも健が居なくなってポッカリ空白が空いたママかな。

 七月二四日
 〇時四十分。今日は広島出張の予定。広島市で講演会。その後前市長平岡さん等とひろしまハウスの打ち合わせ。力を尽くそう。
 只今十一時四〇分のぞみ車中。名古屋を過ぎた辺り。講演のためのスライドを組み直し、準備は終えた。西へ向かうに連れて天気は回復し、久し振りに青空をみる。やはり気持は良い。今日はどんな人に会えるのかな。
 十四時半広島全日空ホテル3F講演会場。広島湾ベイエリア・海生都市圏研究協議会総会の講演会。「海からの視点」を一時間半。十六時終える。最後に「ひろしまハウス」の募金を述べたので、百数十名程の参加者のなにがしかが箱にお金を入れてくれた。宴席で秋葉市長と会う。池田商工会議所会長と話す。その後平岡さんとも再会。今、二十二時半ホテルに戻る。ホテルのBarで広島の人たちと少し計り飲んで戻った。ひろしまハウスのこれからはどうなる事かな。
 何かをやり遂げるという意志とは少しばかりギャップがあると思うけれど、これ以上の事は望めないのも確かな事だ。こんなもんだろう。ただ連絡だけは定期的にとらなくてはならない。広島県とのコンタクトが始まった事は一歩前進だ。

 七月二三日
 十四時半、J・グライターの「ニーチェと建築」レクチャー。ラビリンスというアイデアの誕生を巡る講義だった。講義のレジュメを読み直してみたい。
 グライターの講義を聞きながら思った事だが、彼は一時間半の講義の準備に一週間をかける。全て発言内容を原稿にして寸分違わずそれを述べる。私の講義が大方の筋は決めているが、草稿無しのアドリブまがいのものであるのと比較すれば雲泥の差がある。要するに言葉に対する価値観が全く違う。少し計り考え直さなくてはいけないかも知れない。G・スタジオ、J・グライター最終クリティーク。学生の質は少し上がったように思うが、どうかな。
 α若松社長来室。ロシアに行こうという話。ビジネス・チャンスが彼なりにあるという嗅覚がそう言わせているのだが、今はそういう遊びのゆとりがないのが正直なところ。αシェルターはこちらの都合で少し延ばして頂くことにした。安藤打合わせに同席させる。西早稲田コンバージョン打合わせ。ひろしまハウス打合わせ。終えて、若松氏と食事。二十三時世田谷村に帰る。スタッフ、院生の自主的な働きに少し任せてみようかと思う。

 七月二二日
 九時地下へ。今日から禁煙を試みる。今、最期の一本を吸うかどうか思案中。今朝のミーティングでは八月九月の方針と十月以降来春までの枠組みをスタッフに伝える。
 三〇年前の川合健二との遭遇、そして実験的な試み幻庵開拓者の家。そこで途切れているかに思える試みを再び明快な形式で浮上させる。要するに、開放系技術イメージの初歩的なモノは昔、二〇代のガキの頃ネジ式とか気取って言っていた事だ。三〇年前は時代が本格的な経済成長期の只中へと入るゲートに差し掛かっていた。そんな時に時代とはかけ離れた事をやっても見事に浮き上がるだけだった。支持してくれた人間は皆、やはり時代から少し浮いて孤立しかねぬ人達であった。が、それがあったからこそ、ここ迄細々とやってくる事も出来た。今、又、三〇年前の試みを再生させようと決断したのは、時代が余りにも空白状態になっているのを実感するからだ。しかし、時代状況ばかりが悪いのではない。明日の飯や金、そして今日の小さな成功のようなモノに眼をキョロつかせてきた自分も確実に居る。それはともかく、今は二〇代三〇代ではない。自分の内の核はハッキリしている。その核に手足をつけて柔軟にしてゆかねばならない。その手、足は場所と装飾だ。その集合体を社会に解りやすい形でプレゼンテーションする。
 十四時院入試製図採点。忘れていてアタフタと駆けつける。気が付けば煙草ブカブカ吸っている。全く、我ながらどうかしてる。何が禁煙だ。十八時稲田堤厚生館。増改築の件。現場を見てまわり、大方の方針を立てた。百合ケ丘の寿司屋で近藤理事長と会食。厚生館の仕事を介して世田谷村市場の製品数を増やしたい。

 七月二一日
 今日も何故か休日である。午後大学へ。野村、セバスチャンを含め六名程と西早稲田コンバージョン、及びひろしまハウス打ち合わせ。彼等が世田谷村と拮抗できる力を持つようになると展望が開けるのだが。猪苗代の0シェルターの建設プログラムを作り始める。
 夜世田谷村、月下美人八つ一緒に咲き、匂う。これは生まれて初めての体験だ。あたり一面芳香が漂う。何か良い事でも起きてくれるのだと思いたい。

 七月二〇日
 朝日ヘラルド・トリビューン紙のルイス・テンプラード氏より、先日インタビューされた東京都心の高層ビルラッシュに関する記事が掲載されたヘラルド・トリビューン・インターナショナル送られてくる。
 今の都心のハイライズ・ラッシュは誰の眼にも奇異なものとして映っているのだろう。眠れぬままに起き出してその英文記事を読んでいる。深夜三時である。これでは折角の休日が思いやられる。昼は寝不足でボーッとしているのだろう。時々、このような時差ボケ状態に落ち入るな。体力気力共に満足な状態ではないのだろう。五木寛之の他力、谷川健一の魔の系譜読む。何故家に五木の本があるのか知らぬが、端的に蓮如について書いている処は面白い。が、総じてこの人はノマドとか言ってしまうようなセンチメントにヴァーチャルなところがあるような気がする。自分でも自覚していて、その自覚が蓮如に託して吹き出ている。谷川健一の本は二〇代に読んだものを再読してみた。全体の構成が随分荒いのと、文章のキレギレさに仰天した。死者の建築について書いてみようと考えて読んだのだが、崇徳上皇の墓陵について沢山アンダーラインが引いてあって、二〇代の私がこんな事に関心を持っていた事の方が驚きであった。

 七月十九日 土曜日
 朝富永讓から頂いたル・コルビュジェ建築の詩読む。富永は私とは明らかに異なる感性抒情の持主だが、ここにきて彼のコルビュジェ研究に建築の詩とサブタイトルを附した、その点に富永の建築家としての未来の形が、と言うよりも彼の清澄な理想が示されている。しかし、第三章、主体の複数性コルビュジェと現代の章の書かれ方は不満である。ル・コルビュジェ的建築の生成のされ方と、今はハッキリと断絶している。コルビュジェの生きた時代と今は建築を支えるMONEYの本体の意味が異なっているのだ。資本は徹底的に自動成長と消失のニヒリズムをそれ自体が生きる様相を呈している。コルビュジェの建築を建てさせた、私的な詩の余白は今はない。輝く都市はすでに闇の都市へと変化している。十二才の子供が四才の子供をショッピングセンターのガレージの屋上から投げ殺す、そんな都市になっているのだ。渋谷では四人もの少女が密室に閉じ込められ、閉じ込めた男がその密室で死体になって発見されるという現実が昨日もあった。新聞TVの報道自体が全く浮わついた狂気の連続でもある。ル・コルビュジェはかって大西洋を大型客船で旅をして初めてニューヨークを訪ねた。マンハッタンは低過ぎると言った話が残されている。が、そのニューヨークのコルビュジェが初めてヨーロッパにはないモノを視た、その中心の摩天楼。そのシンボルであったミノル・ヤマサキ設計のワールド・トレード・センターはイスラム原理主義によってすでに消失させられてもいる。民族・宗教主義的テロリズムという新しい戦争の形によってである。富永のコルビュジェと現代の認識はその点に於いて、余りにも静的、余りにも自閉的であると言わねばならない。建築の生成と、その建築としての事物の内外に人間そのモノがありたい、と言うのが、富永のひかえめに書かれようとした意志なのだろう。しかし、そんな詩はあり得ない。圧倒的な絶望と不安と、それ等さえも呑み込んでゆく闇。しかも人間が人間として作り出そうとしている闇を直視する事から、それだけが建築を生み直す契機になるだろう。梅雨のうっとうしい最中に、富永の本を読み、一抹の清涼を感じ、同時に大きな不足も感じたので、その感想を述べておきたい。しかし、富永譲とは十年に一度か二度会うか、会はぬかの仲であるが、一冊の書物を読む事で、そんな空白は埋められるものだ。これからもなるべく、会わずに過ごしてゆこう。私の如き成熟を期待できぬタイプの人間の、それでもエレガントでありたい親交の形式は、富永の如き日本的成熟が約束されているような人間とは、そう言う事になるしかない。
 十一時地下に降りる。七名の人間が居る。大学のN棟にほぼ同数が居て、今の私の仕事を支えている。十五名の小さな集団をどんな風に統率して、しかも自由を確保するかに細心の、しかも現実的な工夫が必要だ。設計事務所の如きものを始めて、もう三十数年になるが、ズーッとそれが一番の難問ではある。川合さんの自由は徹底した個人であり続け、決して組織らしきを持とうとしなかった事にあるが、又それが彼の限界でもあったのだ。
 十四時研究室OG松井絵里子来室。九州のOB高木の女房殿である。色々と将来の事を考えているらしく楽しく雑談をした。松井も三〇才を過ぎて、ようやく大人になってきたな。しかし、私の三〇才の頃を思い起こしてみると、実にボー然としてしまう位の馬鹿男だった。他人に偉そうな事言える筋合いではない。本当に三〇才の頃の私と言えば、幻庵を作り終えて、開拓者の家の現場に通い始めたばかり。どうやって喰っていたのか定かではない。多分喰べてはいなかったんだろう。女房は本当に米が無い、米が無いと毎日の様に言っていたし、水飲んで、塩なめて暮していた様な記憶もある。でも弱らなかった。高木も松井もそんな事は無いようだから安心だ。でも、一度そうなってみたら、その時考える事は本当にリアルなレベルに達するような気もするけれど。なる必要は全くないけれど、私の場合は、本当に貧乏したから、楽しかった。今も、そんな頃と本質的には変わらぬ生活をしているし。駆け廻っていた原っぱや、高原が世田谷村という人工物になっただけの事だ。十六時四十五分友岡社長と会う為に五反田へ発つ。
 十七時前五反田TOC内トモコーポレーション。不思議な商売だな友岡さんの仕事は。世界中の民芸品特産物を一万店くらいある日本中の小売店へとさばいている。私の町づくり支援センターの仕事を大規模に実業化しているようなものだ。美術品の売買と基本的には同じなのだ。十八時過すぐ近くの友岡邸へ。五階建のビルで屋上緑化、太陽光発電を実施し、自邸の電気はまかなっている。立派なものだ。猪苗代の計画に関しても話し合う。手織物の工房作り位からスタートする事になるのかな。二十二時過世田谷村に帰る。八月中に猪苗代に行き、前進基地の場所を決めようという事になった。いよいよ開放系技術らしいモノが出来るかも知れない。開拓者の家、再来という事か。0シェルターの考えが、プラスされるのが強みだろう。αシェルターよりも先に実現される事になる可能性が出てきたな。

 七月十八日
 朝院レクチャー。都市について少々述べる。まだ上手に話しきれる段階ではないのは自覚している。最近大学の問題に関わり過ぎているな。
 世田谷の柴原よりFAXで新製品の名前候補を送ってくる。葩(は)かさねを選ぶ。平安時代には“おしゃれ”という意味があったそうで、重ね着という意味だと言う。
 楊馥妃の博士論文「近代中国・台湾・日本の迎賓館庭園の比較研究―ナショナル・アイデンティティは造園に如何に表現されたか―」中国清華大学に同じような事をやっている人がいるようだ。国家級の政治中心広場比較研究、朱清模。読んでみるとまだ荒いもので、楊の論文はより精妙である。
 十四時半、コンバージョン西早稲田の打合わせ。基本方針を決め、野村以下三名に進めさせる。
 開放系技術教本。道しるべとしての事例集の編集作業を始める。フェイズ3・D、アポロ 13 号事故のディテール、ロビンソン・クルーソーの家、南極昭和基地、クリストファー・アレギザンダー・イン・ペルー、バッキー・フラー・イン・チャイナ、から始めた。
 十七時前京王線車中。向いのシートにじゃりが三名。皆立派で派手なスニーカーをはいている。このスニーカーの明らかな装飾性は何処から生み出されているのだろう。Tシャツのキャラクターはウルトラマンだから、きっとその周辺なのだろうが。
 夜世田谷村日用生活用品の打合わせ。聖徳寺その他諸々の打合わせ。石山研のHPは住宅のページがそれ程読まれていないことが判明した。よくよく見直してみれば全く魅力のないページで、こんなモノをよく垂れ流していたなと反省する事仕切りだ。一気に作り直すのは不可能だろうが、今日から少しずつ手を入れ直すのは始めた。

 七月十七日
 小さな仕事が又、幾つか増えるので、事務所の態勢を整え直さなくてはならぬ。
 妙高寺会館の進め方を考える。観音寺、聖徳寺、妙高寺と三つ目の寺のプロジェクトだ。佐藤健の手引きなのかな。十三時教室会議、学部再編の件が中心。十五時教授会に久し振りに出る。白井総長より早大生レイプサークル事件の説明があった。学部再編は十一月に議決となる。中川研で博士論文の審査会。十八時過高田馬場で数名の教授で小会談。
 京都の古山修一さんからメールいただく。今度京都に立ち寄る機会があればお目にかかりたい。

 七月十六日
 昼過フィンランド芸術工芸大のソタマ学長のところに預ってもらう事になった尾島研の女性があいさつに来る。二十八才の学士入学の女性だ。ソタマのところに行ったら真正面から生活道具のデザインに取り組むように忠言する。女性が一人ヘルシンキで学ぶのは大変だろうが、アジア系の学生は意外と多いから心細くはないだろう。十五時スタジオG。J・グライターのクリティーク。学生の英語力が急速に上がっている。この人達はこういう事は上手なのだ。デザインはチョボチョボで考える力は極めて幼児退嬰的でもある。十七時猪苗代鬼沼のオーナー友岡社長の息子来室。彼はプノンペンのレンガ積みツアーの参加者でもあり、春からズーッとアジアを巡っていたようだ。八月中旬から、インド、ネパール、チベットへ年内行くというから、そろそろヒッピー生活は止める潮時だぜと話した。ヒッピー止めて、親の仕事を手伝えと、流石に私も説教レクチャーが多くなった。マアしかし見処のある奴は厳しくしつけないと本当に恐いくらいに安易に崩壊するからな。夕食を共にして、二十一時過世田谷に戻る。妙高寺住職夫人来所。息子さんの会館イメージプランを渡される。仲々この仕事も一筋縄ではいかぬな。

 七月十五日
 早朝室内原稿資料読み、書き始める。総じて今やっている事を磐石の礎として揺らがずに行きたい。竹の如くに少しばかりのしなりは見せても根迄動かす様な事があってはならない。
 十時半大学。学部レクチャーもう正式には授業は終わっているが、話し足りぬ事があるのでやった。夏休みにもう一度やる。ノルマではないしレクチャーはこっちも気分がいいから、我ながらクオリティーも上がるのが自覚できる。レクチャーの取得は学生に話しながら、時に話している自分の中に新しい発見がある事だ。先日、中川武教授から言われた鈴木博之氏の中央公論、論文読む。十六時西早稲田のコンバージョン計画ビルオーナー原さん、親娘来室。すぐにビルを一緒に見に行く。四階建ての二階と四階を学生宿舎にしてみたいとの事。これは比較的容易に実現できるだろうと直観した。十七時過研究室に戻る。室内原稿書き上げる。グライターとビールを飲んで帰る。

 七月十四日
 昨日のオープンハウス#3のまとめをしなければ、遠くまで、あの雨の中をやって来てくれた八〇名の人達へのフォローを、学生達も含めて行い、次の八月三日のプログラムを充実させよう。月に一回位はやれるだろう。十時地下会議。今日は室内の原稿を書く。十六時過大学。結局昨日の伊豆の#3藤井邸の会の参加者は百名を超えたそうだ。ひろしまハウスの最終図チェック。ひろしまハウスはゆっくり進んでいる。十八時過、尾島、中川両先生と会食。中川先生と私は余程しっかりしなくてはならぬな、これからは。建築学科の将来をアレコレ考えると。やらねばならぬ事が多過ぎて仲々辛いものがあるが、仕方ないだろう。

 七月十三日 日曜日
 只今、九時過、TV番組製作会社ルーカスの連中と東名を走り沼津で降り、柿田川湧水を通り過ぎたところ。今日は#3藤井邸のオープンハウスで、現場に向っている。驚いた事に雨の中十時半、伊豆西海岸安良里の現場に着いてしまう。早速ルーカスの面々はカメラを廻し始める。十三時半入場開始。八〇名程の参加者だった。雨の中良く集まってくれた。少しばかりの説明、あいさつ、施主の藤井晴正紹介、ハンマのあいさつ。松崎町役場森さん及び役所の方々の紹介、T一家の紹介、群馬の大工市根井君紹介。それ等を済ませて小邨でそば。十六時過伊豆の長八美術館を経て一路東京へ。
 今度の、この様な会は八月三日の朝山邸建前の会を予定しているが、キチンと準備して行えば実りのある会になってゆくだろうと考えた。

 七月十二日 土曜日
 流石にこの季節になると、三階から地下に下りると空気はヒヤリとして気持ちが良い。地下で二十三°Cだから、上は二十七°Cくらいまで気温は上がっているだろう。
 聖徳寺打ち合わせ。だんだん煮つまってきた。久し振りの衝撃的なモノに仕上げてやる。十五時大学配島工業社長来室。雑談。#5朝山邸の基礎工事はキチンと進めてくれているようだ。夕刻人気の少ない研究室でスケッチをすすめる。様々なアイデアがたまり過ぎて飽和状態に近い。中国のプロジェクトには我ながら繊細過ぎるし、日本の、今抱えているモノでは小さ過ぎる。小さなモノに色んなアイデアをブチ込み過ぎて、これ迄は苦い目にあって来たから、少しは用心深くなっている、自分を冷たく視ているところかな。
 佐藤健が亡くなって、もう七ヶ月位経つ。一人でエスキスしていたりの時間に、フッと空白が出来てしまった時に痛烈な寂寥感が襲ってくる事がある。コンピューターで昨年の四月の日記を読んで彼の生前をしのんでみたりするが、そんな事で埋め合わせがつくものではない。今夕は研究室OGの佐藤が訪ねてくるが佐藤健の話しでもしてみるか。二十五才の女性と話す話題がとりたてて無いな。

 七月十一日
 朝院レクチャー。メディアアーキテクチャーとキャピタリズム、その疑似神話性について。整理して話せる迄にはなってないが面白い事に気付いている様な気がしている。サインボード・アーキテクチャーは情報資本主義のデカダンス的シグナルで、それは宗教的建築の、特にゴシック建築のスタイルの生成と酷似しているという観方である。新宿駅西口地下のサイン・ボード類が驚く位に明度、輝度を増している現象と原宿スタイルの建築の問題点は同じである。
 十四時過ぎ東武緑地建設来室。聖徳寺墓地工事に関して打合わせ。十五時半修了。宮崎の藤野さんと電話で話す。現代っ子ミュージアムの壁が前の二度の台風で少しやられた様だ。対処を考えなくてはならない。べーシーの菅原と電話で話す。坂田明の音楽が良くなったそうだ。人間少し弱ると良いモノが出るらしい。救いだなコレワ。
 N棟ミーティング、猪苗代、利根、プノンペン。少しづつでも前に進みたい。二〇時半世田谷、少々の打合わせ。柴原から#3藤井邸の写真を見せてもらう。世田谷村市場の照明クリップがキレイに取り付いていた。和室も良く出来ている。ハンマは喜んでくれているだろうか。小さなモノでも手を抜かずにやっていれば、小さな喜びは得られるものだ。クリップはバリエイションを展開させてみよう。

 七月十日
 昨夕はJ・グライターとビールを飲んでくつろいでしまったが、学科の諸々の事で西谷主任は大変な苦労をしているようだ。しかし、この時期に主任が彼で良かった。氷河期に入るな建築は。何とか生き延びたい。
 八月三日に#5朝山邸のたてまえを行うのを決める。あの太径の荒馬みたいな木を組み上げるのは見物だろう。十五時半研究室に十勝の後藤さん来室。十勝プロジェクトの展開について話し合う。二〇時世田谷村。二件打ち合わせ。

 七月九日
 朝J・グライターのレクチャー「 From Virtual Reality To Virtual Materiality : Architecture in the Age of Mass Media 」聞く。デカダンスと表層、つまり最近の流行建築、ルイ・ヴィトン等の原宿スタイルの関係を歴史的に説いた。大学院生には勿体ないようなレクチャーであった。江戸末のデカダンスと今の状況を比較考究してみるかな。でも今の状況はむしろ平安末期だろうな。オープン・テック・ハウス#5朝山邸のH・Pへのプレゼンテーション方法を考える。これはオープン・テック・ハウスの筋道にとっては問題児だな。

 七月八日
 朝学部レクチャー。課題に「日用生活用品」を出したら、驚くべき収穫があった。今の学生はこういうところで並々ならぬ才能と情熱を発揮するんだ。全ての提出物をコピーして保管する。この世代はすでに、近未来の産業構造を身近で感じとっているのかも知れないな。今、二十一時五〇分京王線新宿発の車内。何だか逆風の中の電車に乗り込んでいる感じ。と言うよりも氷河期の中に閉じ込められている風でもある。建築という形式は、特に近代以降の形式は消失への経を転げ落ちている最中なのだろうか。文化としての建築という概念は遂に日本では成立し得ないのか。瀬戸際だと思う今は。しかし、環境という概念には核が無い。カゲローみたいなモノだ。この枠に、簡単に移行させる訳にはいかない。技術的な基盤なしに環境を唱えている人物の思想的、と言うよりも人間としての品格の貪相さには眼をそむけたくなるモノがある。

 七月七日
 朝世田谷地下ミーティング。二十三時迄打ち合わせ続く。今夜も月下美人咲く。

 七月六日 日曜日
 夜中、月下美人咲く。先日は一つ咲いたのに気付かなかった。本当に音も無く、アッと言い間に咲いて、フッとしおれてしまうのだ。今日は終日、猪苗代スケッチ。夕方、散歩して栄寿司に行く。夜、中川さん、友部さん、栗畑君来宅。聖徳寺の打合わせ。

 七月五日
 茅野行。因製材所下の藤森照信の地所で作業が行われていた。#5朝山邸の木組を見る。想像を超えた木の大きさだ。安藤の図面その他で考えていた考え方を変えねばならぬのを直観した。大工の細田佑二さん達と夕方茅野駅近くで食事。あの小住宅には異様な大きさの材をどう手なづけてゆくか、あの材は荒馬だ、どう乗りこなせば良いか。深夜、世田谷村帰着。

 七月四日
 朝猪苗代湖のアイデアがまとまりかかる。院レクチャーは休みにして昼迄エスキスに没頭する。マスタープランはともあれ、二期計画までは大体視えてきた。すぐにでもとりかからねばならぬ一期計画は世田谷で、二期はN棟スタジオにやらせてみるか。N棟の建て直しにもなるだろう。

 七月三日
 教室会議後稲門建築会幹事会。久し振りにOB諸氏にお目にかかる。猪苗代の計画をスケッチする。面白いアイデアが生まれて、乗り始めた。大学の帰り道、電子情報生命工学科の松本隆教授と一緒になる。理工学部の将来についてお互い、シニカルになっていて、ヤル時はヤルかと理由の知れぬ事をつぶやき合った。彼は学院時代の同級生で、早稲田文学というのは本質的に民の大学で、野の精神を持たねば深いところでの文化的価値は無いのを高校の時から、マ植え付けられているからな。信頼できる。国立大学の尻を追って何が早稲田だ。

 七月二日
 べーシー論一応書き上げた。散逸した風のモノになったが私の開放系技術論は一歩前へ進んだと思う。人間の自由の不可能性の時代への戦略として論は進められるだろう。世田谷村市場最新商品二点のアルミ製照明器具は、ようやくプロダクトと呼べる水準に辿り着いたと言いたい自信作である。開放系技術・デザインの考えが少し日常生活用品のレベルで表現できるようになった。
 鈴木隆之君より「東京激安的住居」とやらのオープンハウスの案内をいただく。健在なようで何よりだ。世田谷村の程近くなのでいつか見てみよう。私と似たような事やってるんだ。珍しいね。
 住宅が幾つか出来上がるので秋には面白くプレゼンテーションしたいと思い藤塚光政に相談の電話をする。資料をとりそろえて、話し合う事になる。淡路の山田脩二とも電話で話す。Gスタジオ修了後、藤江和子さん来室。自作の最新作品パンフをいただく。大版で美しいものだった。モノマガジンをパラパラ繰っていたら、九州の高木正三郎の顔が突然出現したので驚いた。色んな風に頑張っているんだ。

 七月一日
 世田谷村市場は要するに開放系デザイン市場である。ホーム・ページの読者は皆市場への来訪者だと勝手に自覚して展開してゆきたい。私の古典的な友人の数は少ない。残りわずかだと言って良い位だ。それに対するにインターネットを介して得る知り合いは、私の新しい時代の友人だと考えてしまう事にしよう。MEMO連載第5回セルフ・ビルド、一ノ関べーシーを書く。同誌には鈴木博之が、「場所に聞く - 世界の中の記憶」をすでに10回連載している。だから,という訳でもないが、手は抜けない。マア、この年になって何事も手抜きは命取りになりかねぬのは確かであるな。GA杉田君と住宅その他の発表の件で話し合う。

2003 年6月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
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