石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年4月の世田谷村日記
 三月三十一日
 当り前だが今日で三月も終わりだ。朝、佐藤健との対談のゲラに手を入れ終わる。自分で言うのも恥ずかしいが、面白い対話になっている。屋上に上り生ゴミを埋める。富士山が見える。九時半世田谷村一階で河野鉄工河野君と打ち合わせ。書庫の大方の方針を決める。十二時前研究室。馬場邸の打ち合わせを河野君と。面白いモノを作りたいという人間は大事にしなくては、特に職人の気質を持つ人はことさらである。十三時半、日建設計シビル・エンジニアリング橋本氏来室。雑事多数こなす。忍田邸の内部、西岡を軸にやってみることに決めよう。夜、デービッド、アベルと森の学校打ち合わせ。二十二時前まで。

 三月三〇日
 十一時松尾建設来室。九州の権藤君の紹介である。忍田邸図面チェック中に忍田さんより連絡あり、進行状況を心配している様子で申し訳なく思うが、進めているので御安心願いたい。クライアントとの連絡は密にしていないといけないのだが、それが仲々できていない。設計はクライアントあってのものだというのを肝に命じなければ。十五時五反田TOC、友岡社長打合わせ。十八時、森川を鉄建建設、梅沢良三事務所に廻らせて研究室に戻る。十九時高山夫妻来室。高山さんは、今、先端のアニメ製作会社の方で、色々と考えている事を聞くのは楽しい。アニメーション・ビジネスの事などもっと知りたいと思うが、仕事を介して良い付き合いになってくれるとよいのだけれど。
 ますます時間が流れるのが速くなっている。この速さに巻き込まれたら、おぼれてしまうような。栄久庵憲司小論を書いたINAXREPORT一五八が送られてきた。磯崎さんが「和尚ヘラブナを釣る」と題した軽妙極まるエッセイを書いていて、一読大笑した。栄久庵さんとしたら、そりゃあ磯崎よりも、黒川紀章、菊竹清訓等のシンプルなビジネスマン型の人達の方が気楽に附合い易いだろうとは思ったが。コンラッド・ワックスマンも磯崎によるとプレファブ棺オケ職人になってしまい、何とも神話性もへったくれもない。

 三月二十九日
 十二時頃、研究室。今日中にプロダクトの攻撃的方法の仮説を立てて、実行への足取りも決めたい。桜は八分咲きである。世田谷村を出て、団地の突き当たりの桜は今年も見事な姿になってきた。午後プロダクトミーティング。もう足かけ何年になる挑戦であろうか。失敗の連続であるのだが、これはなんとかしなくては立つ瀬がない。十数名にデザインを割り振ってはみたけれど、自分でやらなきゃ駄目かも知れないな。

 三月二十八日 日曜日
 何もしないで過した。「おたくの精神史」大塚英志ほぼ読了。ほぼと言うのは後半は飛ばし読みにした。おたく業界内オタク的小史の趣あり。噂の真相が休刊になるようで、別冊追悼版は精読した。岡留編集長的な精神はわかる様な気がする。少し重い足取りの、ヒット・エンド・ランなんだ。しかし、大方の人はヒット・エンド・ランを人生に一度しか出来ぬ不自由さの中に在るから、妙にその一回性がベットリ、眼に写りかねないのだ。

 三月二十七日
 十一時五反田トモコーポレーション。猪苗代湖鬼沼のサイトに五月タイの高僧が来訪することになった。国際的なメディテーション・センター建設の話しが現れそうだ。夕方より、幸脇さん一家と打ち合わせ。

 三月二十六日
 夕方、α若松社長来室。ロシアの話しを聞く。
 一度モスクワに出掛けるかな。動かないと決心したつもりなのに。

 三月二十五日
 六時起床。今日は再び沖縄へ。委員会に出席のため。十時三〇分目覚めれば、雲の上。ANA一二三便機中である。離陸したのを覚えているような、忘れているような、夢うつつ。十一時半那覇空港着。国建宮城部長と大宜味村へ。印鑑を又も忘れて、那覇でスーパーや文具店三件探すも、「石山」は無し。羽田空港でも無かった。小さな事だが気になり始める。ようやく名護市役所横のハンコ屋で「石山」を発見。沖縄では馴染みの薄い名字なんだ。今日は沖縄での委員会の最終日なのだ。十四時半大宜味村着。尚弘子先生に再会。十五時定刻通り委員会始まる。冒頭で十五分ワークショップからの提案、及び回収したアンケートより、皆さんの意見等を要約して紹介する。全ての提案がうまく報告書に組み込まれていたので、私は敢えて発言しなかった。これで、ワークショップは一段落。参加者の皆さんの努力が何かの形になると、本当に良いのだが。希望を持って、しばし待とう。十七時委員会修了。ラダックのコーヒーに心ひかれたが帰りの飛行機便もあり、断念する。又、来れるかな。たそがれの中を那覇へ。昔はこういう、たそがれの空の下動いたりすると妙にセンチメンタルになったりしたものだが、今ではそんな頃が懐かしい。そういえば昨日から佐藤健といつだったか対談した、五合庵と良寛に関するゲラを読んでいるが、あの頃の健さんはさえていたな。ゲラを読んでいるとそれが解る。あの人は語りが良かったのを今更のように思い起こしている。しかし、あの原宿の何処かでの対談のあと、健さんと飲んだ覚えがないから、健さんは何か用事があったのだったかもう忘れた。
 佐藤健とは酒を良く呑んだ。呑んで話しているのが楽しかった。何よりも健と話していると建築を忘れる事ができた。建築から自由になれたというのが正確か。佐藤健は闘病の果てに死んでしまったが、彼は末期の頃はわずかではあったが自由になっていたな。今、二十一時、二〇時十分那覇発の便で東京に向っているうちに急に佐藤健を思い出してしまっている。人は思い出す毎に生き返る。四月五日は何処にも出掛けずに東京にジッーとしていよう。動いて何かが視えてくる時節ではないし、無駄はできるだけそいでゆきたい。。できるかな。二十一時四〇分飛行機は次第に高度を下げ始めている。今日中に世田谷村に帰れるかもしれないな。

 三月二十四日つづき
 九時半五反田TOCトモコーポレーション。社長打合わせ。新木場は大づめ。猪苗代を四月より施工開始となる。十二時前研究室。うどん屋で素うどんの昼食。十三時教室会議。主任より四月より石山は長期休暇となる事が述べられた。かと言って何処へ行くでもなし、学校には来るけれど、校務はやらないからね私。夕方、デービッド、アベル等と森の学校の本格的スタディを始めた。新しいプロジェクトは楽しい。まだまだアイディアはビシビシ湧いて出るな。

 三月二十四日
 一時半、NHKTVを深夜見る。バクダッドの栄枯盛衰に関して、勉強させられた。TVのこういう番組は凄い水準になっているな。なまじな本よりも伝達力の総合性が強いと思う。

 三月二十三日
 一週間振りの研究室。二十一時まで、打ち合わせとミィーティングを続ける。ここはワークショップ程うまくはいかない。何故だろうか。やはり、大学という悪場所だからなんだろうか。それとも、そんな事言ってないでもっと沢山のワークショップを構えるべきなのだろうか。

 三月二十二日
 六時半ホテルレストランで朝食。七時発、九時過那覇空港国際線ターミナルで台北に戻る李祖原と別れる。「シー・ユー」いつも李はさっぱりと別れるな。グライターと私は国内線。十二時〇五分の便で東京へ。今日は新潟の長岡泊りだと言う。グライターと東京駅で別れ、十六時半頃世田谷村に戻る。何はともあれ、すぐ眠る。アッという間に眠りに落ちて、明朝まで深く眠り続けた。仲々、他人には解ってもらえないだろうが、この形式での動きは私には向いているようだ。しかし、鈴木博之に言われた、これは典型的なゲリラ戦だよというのが耳に残って離れない。言われてみれば、そうなんだけれど、ゲリラ戦にしては大型な武将を隊列にそろえているんだけどなあ。年がいもなく、野戦を構えているのは確かだが、野原に居るのが好きなんだから仕方ないのだ。田舎者なんだな、どうしても。

 三月二十一日
 八時半起床。朝食はグライターと。李祖原、昨日の台湾総統選挙の結果に考えるところあるらしく、朝食には現われず。我々日本人は誠に平和ボケ民族である。彼の政治情勢に対するシリアスな様子を見ているとそれが良くわかる。彼にとっては台湾独立派の総統が再選された事は中国本土の彼の仕事の将来にとっては極めて困難な状況になるのであろう。彼は本格的に上海に動くかも知れないな。
 沖縄ワークショップはある成果を得た。
 一、具体的な(リアルな)目標を与えると、このスタイルは機能できることがわかった。
 二、チーム・リーダーにプロフェッショナルな人材を登用し、アマチュア(学生)を指導させることが可能な事も解った。
 三、問題の現場でのワークショップは一週間程度が効果的である。
 四、チーム・リーダーを信頼して、ある程度任せた方が良い。当り前の事だが、リーダーの選択に力を集中してあとは、私はブラブラしていた方が良いらしい。
 以上の事を要約すれば、私のワークショップの次の段階は集団で取り組んだ方が良い現場(地域)を得れば、この方式は極めて効果的であることを知った。何はともあれ、ここでの成果は、小さな本の形式にまとめなくてはならない。
 十二時過大宜味小学校。展示物のレイアウト最終チェック。十三時シンポジウム下打合わせ。十四時シンポジウム開始観客は二百五〇名程。パネリストは尚弘子、金城清両氏と我々三名。石山、李、グライター。
 ワークショップの六グループ
 一、ぶながやの里チームが大宜味長寿文化賞の創立と、それに伴う様々なプログラムを提案。
 二、集落再生チームが、大宜味大工倶楽部設立(六十五才以上の、リタイアーした大工さんのクラブ作り)と彼等による集落の再生、及び旧役場の再利用の提案。
 三、長寿の里チームは、李祖原による埋立て地への、中国大陸からの視点による提案。上海から見た沖縄の構図。李のプレゼンテーションは強烈であった。
 四、シークヮーサーの里チームは道の駅のシークヮーサー専門店への特化の提案。
 五、共同店舗チームは共同店舗の品ぞろえの健康長寿商品の特化等の提案と、共同店舗の一部を高齢者室内トレーニング場への転用計画。
 六、芭蕉布の里チームはもう一つの芭蕉布拠点作りの提案。
等、極めて具体的なプランが発表された。その提案を受け、その後の討論会では金城氏より薬草農園作りの提案などがあった。会場からの質疑も活発で、先ずは一応の成果は得られたのではあるまいか。十六時半、時間を三〇分超過して会は修了。ホッと一息ついて、喜如嘉公民館へ。おなじみになったラダックでコーヒー・ブレイク。十九時からのお別れパーティーを待つ。十九時、役所の職員が朝から浜辺で用意してくれたシャコ貝などでバーベキュー。ビールで、村長さんの音頭で乾杯。修了証を参加者全員に手渡す。十八才の沖縄の高校生から六十九才の沖縄の平和ガイドさん、チリからベルリンからの多様極まる参加者による一週間のワークショップは幕を閉じた。あとは三日後の委員会でどういう方向付けがなされるかだ。
 具体的な目標のあるワークショップは有効なのを知った。これは、くどいようだが、きちんとまとめたい。

 三月二〇日
 七時起床。今朝は曇天。七時半ホテルレストランで山川先生と食事。九時山川先生レクチャー。理工学部再編の最中、沖縄で機械Bの先生方がどんな研究をされているのかの話しを山川先生からレクチャーの形でうかがえたのは大変良かった。東京に帰ったら、建築学科の先生方と機械Bの先生方で一度、食事の会でもしましょうと約束して、お別れした。学問領域は流動し、混合する時に本格的に新しいモノが生まれるのだから、この道はゆっくりと進めるべきだろう。十三時半、ファイナル中間講評会。明日のシンポジウム発表会のリハーサルも兼ねた。夕方、地元の青年が訪れて、話しをした。骨のある人のようだから、すぐに自宅まで連れていってもらってお茶をいただき話し合う。聞けば帯広畜産大の出身者で、私が十勝と関わりを持つ以前に十勝に居たという。色々な話しが出来て良かった。ホテルに戻り、李、グライターと遅い食事。李は台湾総統選挙でナーバスになっている。李は台湾独立派なのか、中国との融合派なのか聞きはしなかったが、彼にとってはこの総統選は大事な選挙だったらしい。リーディング・アーキテクトは国家を背負うから大変だな。

 三月十九日
 朝七時起床。七時半レストランでいつもの通り、李、グライターと食事。九時ワークショップ会場。グライター、レクチャー。グランド・ツアーと建築。ゲーテ、ピラネージ、ル・コルビュジェ等の旅と建築の関係についての話しだった。良いレクチャーであった。グライターのレクチャーはいつも入念な準備のもとになされていて、頭が下がる。彼の考えのベースはヨーロッパの遺跡に対するヨーロッパ人のメランコリア、そしてそれを核にした思想への強い信頼感がある。十三時公民館で昼食。ラダックのコーヒーを飲んだりで、千村君丹羽君等と過ごす。十五時百二才のお婆と別の公民館で皆と会う。十八時半夕食。十九時半プレゼンテーション・チェック。二十一時半まで。参加者は良く頑張っている。ワークショップも具体的な目標が在れば、何らかの成果は上がるのだ。プロジェクトさえ立ち上がれば、良い人材を短期間有効に集める事ができるのを良く理解する事ができた。二十二時半ホテルに戻る。機械工学科の山川宏先生とロビーで会う。理工学部再編の相談。学科主任の入江先生と電話で話し、相談。二十三時半部屋に戻る。そろそろ、体力を使い果たしている状態になってきた。あと二日だ。

 三月十八日
 七時起床。七時四〇分朝食。九時佐藤滋レクチャー。住民参加のまちづくり。良い講義であった。彼の論説はますます広い支持を得てゆくであろう。十一時質疑応答も含め修了。その後、少し計りオペレーション。昼食後リーダーミーティング。六名のグループリーダーとオペレーション・ミーティング。十六時前迄。公民館前の喫茶室ラダックで佐藤氏他と話したり、ぶながやの径を歩いたりで過す。千村君親子、丹羽太一ファミリー参加。障害者二名の参加でワークショップの密度は非常に深まる。おいしい地元食の夕食後、ホテルに佐藤氏と戻る。ホテルレストランで午後休息中のCY・LEE、J.グライターと再会。ビールを少々飲んで歓談。二〇時部屋に戻る。あと三日だ。何とかやろう。

 三月十七日
 七時起床。同三〇分ホテル・レストラン。今朝もCY・LEE&グライターと朝食。八時四十五分大宜味着。今日は仕事場を変えてみよう。あの公民館の吹き抜けは気持が良過ぎて、仕事には向かない。九時李祖原講義。漢方医療の方法からの視点で生命観を述べる。本当に宇宙の律動、波動、共振現象って何だろう。宇宙と人体を同様に見たてた考えを、中国人から聞かされるとリアリティあるんだな。十一時半まで、通訳が上手だったので、皆にも少しは通じたのではないか。これ迄の李祖原のレクチャーでは最良のものであった。私も触発されて二時間半のレクチャーの最中に、沖縄大宜味村での計画のはじまりのイメージをまとめることができた。十二時過公民館で昼食。佐藤滋来。十三時内閣府岡さん来訪。十五時西岡チームから六チームの中間発表始める。西岡チームの出来は二日間の作業である事を考えれば大変良かった。他も予想より良い出来であった。ゲリラ達もやるもんだ。これならば上手に導いてゆけばなんとかモノになるかも知れない。喜ぶのはまだ早いが、失望することはない。十八時頃までクリティーク。十九時夕食後、二〇時名護のホテルに戻り、先生方でビールを一杯飲んで、部屋に帰る。ともあれ、今回のワークショップの成果は何かの形でまとめる。

 三月十六日
 七時過起床。七時半ロビー。鈴木博之先生と会う。少し太ったな。こっちはやせ細るばかりなので、うらやましい。李祖原、グライターと共に朝食。周りは昨日同様異様な和服姿のオバさん一連隊で、何か落ち着かない。着物着付スクールの卒業旅行か、和服セールスマン養成研修なんだろうか。野本運転の車で大宜味へ。野本は連日のドライバーでかなり疲れ気味のようだ。あれで結構気を使っているのであろう。九時定刻通り鈴木博之先生レクチャー。共同体会所について。いつもの様に整然としたものであった。が、テーマ自体を自分の日本建築論に振り向けて話した趣あり。楼閣、茶席といった異化された空間の系譜について語ったが、寝殿、政所の正統日本建築の系譜との差異の発生がもう少し知りたかった。が、それはぜいたくというモノだ。十時半了。二講目は昨夜の続きの設計作業のチーム作り作業にあてた。十二時公民館の一Fピロティで昼食。今日も風が柔らかく気持が良い。「オイ、これは高山建築学校だぜ」と鈴木博之に言われてビックリしてしまった。そうだとしたら、かなり困った事なのだ。高山学校主倉田康男の自己満足への自閉が乗り移っているように視えたのだろうか。暮々も用心しなくては。ワークショップ独自のプロジェクトを案出できなくては、何も言えないのだけれど。色々と参加者に指示していたら、再び鈴木博之からこれは典型的なゲリラ戦だと指適されてしまった。そうか、私のワーク・ショップは昔懐かしのゲリラの如くに鈴木の眼には写っているのか。六〇才のゲリラはキツイな。マア、言われてみれば、確かにこれはゲリラ戦のようなものだな。鈴木博之に折角だから小トリップしてもらおうと考えて、北端の国頭、義本王の墓を見学に。ついでに奥集落まで足をのばした。午後の陽差しの中で奥は静まり返っていた。中心部アサギマーの下、前にスケッチしたことがあるヌンドゥルチのほこらではノロの如きうらない師が、何やら儀式めいた事をしていた。写真はとってはならないと言う。山道を大宜味に戻るが、意外に時間がかかってしまい、鈴木さんの帰りの飛行機に間に合うかどうかになってしまう。大宜味で別れて再び公民館へ。前の茶店でコーヒーを飲む。夕食の沖縄ソバを食べて、CY、グライターと名護のホテルに戻る。
 ワークショップはゲリラ戦か。確かに名も知れぬオジさん、オバさん、そしてドングリみたいな若い学生の混成部隊で何かをしてやろうと言うのだから、鈴木博之の指摘は的を射ているな。そろそろ戦果を得なければ、戦いにもなってないと言われるのがオチなんだが、今更引くわけにもいかんから。明日の昼に九チーム全てに的確な指示を与えなければいけない。研究室からFAXが入っていて、東京もゲリラ戦だねコレワ。

 三月十五日
 六時半起床。七時ホテルレストランで李祖原、グライターと食事。七時半ホテル発。八時過大宜味村農村環境改善センター着。八時半ワークショップ参加者六〇名程にガイダンス。九時石山レクチャー。予定を少しオーバー。十時半過尚弘子先生レクチャー。十二時修了。十二時半前迄質疑応答。昼食は公民館一Fのピロティで皆と。簡素だが仲々美味な食事である。食事後作業に入る。大宜味村内の古い墓場など見学した後、十八時半頃夕食。公民館一Fで。十九時半過、クリティーク及びチーム編成作業。二十三時過名護のホテルに戻る。
 今日は夕暮れ近く、村内を一人で散歩して、スケッチできたのが良かった。参加者中、何人かの年を経た人間の発表が良かった。彼等に期待しよう。西岡が役に立ちそうでひとまず安心した。彼女には今回少しばかり過剰な課題を負わせてみよう。今が成長期だな。

 三月十四日 日曜日
 ANA一二七便で沖縄に飛んでいる。只今十四時十五分、先程十八番ゲート待合ロビーでベルリンからワークショップ参加のJ・グライター教授と再会。明日からの沖縄北部大宜味村でのワークショップの一週間の時間は大事にしないと。考えられるだけ、考えて、体は休ませるだけ、休ませよう。
 羽田空港内の書店で本を三冊購入。「熊から王へ」中沢新一、「おたくの精神史」大塚英志、「神の誕生」中沢新一。中沢の本が多いのは沖縄ぶながやの森での一週間と関連しているとの予感があるからだろう。キルティプールでのワークショップで、もっとスケッチをしていれば良かったと今頃考えている。プノンペンでも上海でもワイマールでも、ロクなスケッチ(エスキス)を残していない。一週間でどれ程のエスキス、スケッチが残せるか、静かに覚悟している。十五時十分、飛行機は降下開始している。那覇空港着は十五時三十五分の予定。那覇に着いて、グライターに首里城近くの尚家の王稜を案内する。明日は尚弘子先生に会うのだから当然である。遅い昼食というか、早い夕食を真嘉比の田そばで、これはおいしかった。空港に戻り、国際線待合室で上海から来るCYを待つ。十九時三〇分CYと再会、車で名護へ。名護のホテルへ。二〇時半過ぎホテル着。ホテル内レストランで夕食を共にする。談論風発。しかし、世界中閉塞しているのがしれる。上海も見かけはともかく、大変なようだ。農村部と都市のあまりのギャップは近い将来の中国を揺り動かすのではないか。二十二時過部屋に戻り、室内原稿を書く。明日のレクチャーの筋道を再チェック。

 三月十一日
 朝、久し振りに安藤忠雄さんに頼み事の電話をする。相変らず、即断即決の人であった。九時、杏林病院、ここも久し振りで、私の方も少し病院アレルギーは薄くなったようだ。もう空気は春だ。
 今年は四月から半年間私の大学での仕事は休みを取る事が決まっている。この半年間の休みは上手に使いたい。先ず四月に二週間程の完全休養を取る事を決心する。医者からも仙人みたいな生活をしばらくしなさいと忠告された。確かに、不規則の極みの如き状態が続いているからなあ。昼食は新宿で鯖みそ煮込みとみそ汁の定食。五反田のコーヒーショップでコーヒーを飲んで三〇分程の時間をつぶしている。十四時TOCトモコーポレーション。十七時過迄打合わせ。十八時大学近くで中川先生他と打合わせ。十九時に予定していた打合わせは急にキャンセルされ、フッと空白の時間が出現。二十二時過早めに世田谷村に戻る。

 三月十日
 八時起床。昨夜は泥のように眠った。沖縄のカレーがまだ胃にもたれている。TVをつけるも、うるさくて、すぐに消す。TVの諸テーストと比較すれば、沖縄のカレーだって、まだましか。ホテルで朝食をとり、九時半、国建の車で尚弘子先生をお宅にてピックアップして北部、大宜味村へ。車の中で尚先生の琉球王朝からの歴史、食文化の事。色々とお話しをうかがう。駐日アメリカ大使も無視できぬ存在である。沖縄駐留アメリカ軍の事等、尚先生のアメリカに対するアンビバレンツな深い感覚が知れて面白かった。尚先生は、謂わゆる高校時代は無く、沖縄特有のハイスクール時代を経てアメリカの大学に留学された。そのアメリカが戦勝国として琉球王朝の始まりを作った尚家の歴史の中の自分史の琉球へ、つまり沖縄の何分の一かを占領し基地としている、現実。それを淡々と話して下さったのだが、尚弘子さんの口から話していただくと、実に大きなリアリティーが感じられるのだった。遂々、尚先生に沖縄のカレーはまずいなんて、言わずもがなの事を口走ってしまい市場の中においしいカレー屋があるし、インドカレーだって良い店ありますよと軽く一蹴されてしまった。私としては、沖縄固有の食文化、それは中国の影響が大きいと聞くが、そのアイデンティティを過剰な程に重視したいと言いたかったのだが、その話しの組み立て方が下手で、入口の沖縄のカレーはまずいという所で、話しは終ってしまった。沖縄の食文化の最高権威に言いがかりをつける結果になってしまい、又も深く恥じた。よく、こういう事をやるんだナア、私は。尚先生は車中隣の座席で、この馬鹿オヤジ急に何を言いだすのだ、という表情で聞き流していたが、眼はキラリと光った。確かに。琉球王朝の眼だったな、その時は。十二時前大宜味村着。村長、助役にあいさつ。昼食は道の駅で尚先生と沖縄そば。店で売っていた木酢液の原液、なんとなく気になって買い込む。十三時、委員会。十五時過修了。役場で東参事、野村、照屋君とワークショップ準備の打合わせ。私は一足先に十七時大宜味村を発つ。十九時那覇空港着。このメモを記している。
 沖縄のワークショップで試みたいのは「長寿村の設計」という、建築、都市の概念を離れた、もう少し広々とした、万人とは言わなくても、多くの人間が身近に感じている、それぞれの現実生活を支えている生命、(これは生きる実感、リアリティと言い換えられるのだが)と、生命維持と人間関係、コミュニティ、自然の力を生かしたフィールド(農園)を視える形にしたい、と考えている。これまでの数々のワークショップ活動で得られた体験に、初めて、一つの現実的な枠組の中でプロジェクトを作ってみる。ユイマール、集住体の可能性。二十一世紀の反都市的農場。長寿・いやし研究所のソフト設計。などなどを、ブナガヤの里、芭蕉布の里、シークァーサーの里のチームに別れて、知恵を出し合ってみたい。
 三月十五日、初日の課題は、私が主催したワークショップに共通して課した、「あなたの母さんが死を迎える家」を出題して、それぞれの参加者の能力を見極め、夕方にプレゼンテーション、十五日の夜にはチーム編成をしよう。先ず、四つのチームの主題を先に示し、次に「母の家」の課題を課せば、その人間の才質の大方は解るだろう。明日、参加者全員に、第一の半日課題をメールで送ろう。メールは、「沖縄北部大宜味村のワークショップに参加していただき、ありがとう。ところで、初日、第二講、尚弘子先生のレクチャー後に開始されるワークショップの第一課題は、あなたの年老いたお母さんが、アト二年位の余命であると医師から宣告されました。そのお母さんのそれからのライフスタイルと支援介護を設計せよ、にする。建築寄りの人は家、又は部屋、その他の人は人生のプログラムを設計しなさい。」「死を待つ、母の家」というものにしよう。尚先生のレクチャーが十二時一〇分に終るから、昼食と散歩、を入れて、十四時に作業開始。十九時修了。二〇時クリティーク開始して、二十三時修了。二十四時迄にチームづくりを終えたい。大宜味村小学校の子供達をワークショップに参加させたい。明日、野村に指示しよう。マザーテレサの死を待つ人の家、ヘレン・ケラー記念塔、ツリーハウス、難民のための超ハイテク病院、コロ島コンペ案(生命都市)、松崎町のまちづくり、唐桑町、気仙沼、バリ島、「唐桑ものがたり」をレクチャーのはじまりにするぞ。あの計画も箱をつくらずに何処まで行けるかっていうものであった。大体、視えてきた。今、二十二時前、まもなく飛行機は降下を始めるだろう。羽田着二十二時三〇分。
 〇時三〇分世田谷村帰着。
 磯崎新のGAドキュメント77の論文読む。

 三月九日
 今、二十一時ANA一三一便で沖縄へ飛んでいる。今朝は十時から研究室ミーティング。今年、前半の目標(イヤな言葉だな)を述べる。又、研究室のプロジェクトを大きく三つの島に区分けして、それぞれの島の役割についても、概略を述べた。これで通じればこれ位楽な事はないのだが、繰り返し、繰り返し、手を変え品を変え説き続けなくてはならない。これじゃ、説教坊主だ。午後は個別のプロジェクトをそれぞれ見た。これ位の事で疲れてはいけないのだが、消耗はするね。十八時研究室を出て、今こうして沖縄便の機中。
 那覇空港着、モノレールを使って旭橋下車。なんでこんな処を深夜に歩いているのかといぶかしみながらも、歩いてオーシャンビューホテルチェックイン二十三時過。家内に電話したら、朝の腰痛は針で治したそうだ。ホッとする。機内でサンドイッチを喰べたのだが、流石に空腹でルームサービスを取る。ビーフカレー。寂しいもんだ。我ながら、こんなに働いて、深夜に一人ビーフカレーだって。畜生。沖縄のカレーは不味かったのを思い出して、一人舌打ちしているところ。ため息をつくか、舌うちするかしか他にする事がないものね。ルームサービスで運び込まれたビーフカレーはやはり不味かった。善意で解釈すれば沖縄は固有の食文化が強いので、カレー的グローバリゼーションは浸透し難いのだろうか。

 三月八日
 十時研究室。伊藤さん来室。大室山の件十三時前まで相談。十七時馬場さん夫妻来室。十八時学部再編会議。学内政治に夢中になっている人間というのは下品な奴が多いな。田舎芝居の科白みたいな暴言を吐く奴もいるし品格の水準は三流政治家以下だ。こんな人達と混じり合っていたら、こちらまで御同類になってしまう。

 三月七日 日曜日
 七時過起床。昨夜はグッスリ眠れた。メモを少しばかり記して、八時前チェックアウト。駅迄歩く。雪道を転ばぬように歩く。朝の光が雪に反射して美しいが、それ位で気持が晴れる程若くはない。一ノ関駅は東口が新しく出来ていて、菅原が言っていたように、そのデザインは悪い。品格が無い。当然誰かが設計しているのだろうが、こういうのは犯罪に近い。こういう風景を見続けてきたからこそ、日本人の品格全体が落ちてしまった。マ、こんなモンで怒るのも馬鹿馬鹿しいけれど。八時半の「はやて」で東京へ。十一時半研究室。十三時のすまい学教室の準備。二〇名程の参加者で十五時過迄。明日のプレゼンテーションの黒田の仕事を見る。

 三月六日
 今、九時前、八時二十分発の「はやて五号」で青森県八戸に向かっている。二月末に大雪で北海道に閉じ込められて、行く事がかなわなかった下田町を訪問する為に。昨日は朝から晩まで大学に居た。レヴィ・ストロースの悲しき熱帯、第II巻をまだ読んでいるのだが、要するにこの本は民俗学者とは何者なのだろうかという彼の独白であり、その独白の表現なのだ。
 宮本常一、姫田忠義という大きな民俗学者を少し計り知っている。姫田さんはレヴィ・ストロースの研究所に所属していた。その姫田さんから、アイヌ、沖縄、バスク民俗の血液には同根のモノがあるという話しを聞いた。十勝と沖縄の仕事をしようとしているのはそんな体験もあるからだ。民俗学と歴史学は現代に於いて、つまり、情報の惑乱状態の中にある社会では、明快な焦点を持つ中心である事は間違いない。哲学と共に最後尾の、しかし前線に立たぬ事が不可能な思想の形式にならざるを得ない。要するに、いずれ存在しなくなってしまう人々や、モノの側に立って考えようとする人々の事なんだな。歴史家、民俗学、あるいは哲学者というのは。消えてゆくモノや人や出来事を消さぬのが歴史学であろう。それは、つまり、消さぬ事によって作るという一見最後尾に映らざるを得ぬ創作である。私が建築設計を介して今やろうとしている事も実ワ同じ事なのだ。アノ東京オリンピックの少し前にアジア大会というのが東京国立競技場で開催された。当時、中学生であった私は学校に動員されて、見物に出掛けた。スポーツにはあんまり関心が無かったからつまらぬものであった。ただ一つだけ鮮烈に記憶に残って消えぬ光景がある。一万メーター競争であったか五千だったか、何人もの選手達がグルグル、トラックを周っている内に、誰がトップなのか、ドン尻なのか解らなくなってしまった。しかし、時間が経ち、自然に競技は終ろうとしていた。しかし、何処か、アフリカであったか、東南アジアであったかの選手が一人走り続けているではないか。背中につける筈のゼッケン(番号)がお尻に垂れ下がっていたのを覚えている。何だあれは、とガキだった私は思った。満員の観衆もあきれ返っていたように記憶している。ヤレヤレ、もうゴールかこのビリは、と思ったら、更に、一周、又一周と、この何処の国の者かも知れぬ選手はそれから何周もトラックを廻った。一周遅れどころじゃ無かったのだ。国立競技場はシーンと静まり返った。しかし、やがてそれでもゴールはやってくる。マア、終わりは俗っぽく、万雷の拍手、という事になったのだが・・・。歴史学、民俗学、哲学というのはこれなんじゃないか。これというのは何周も遅れて終末には単独になってしまいながら走り続けて、競技場(社会)にとっては遅れ過ぎる事によって単独に視えてしまう状態。しかも、万雷の拍手という俗な観客も居ない。皆競技場から帰ってしまっている。でも、観客の何がしかは帰ってしまってから、不思議な後悔にとらわれ始める。まだ、アノ、何周遅れも解らぬ人間は深夜のトラックを走り続けているのじゃないか。そう思う人間の数は決して少なくはないだろう。歴史、民俗、哲学というのはそういうものなんじゃあるまいか。今、十時二〇分位かな仙台に到着しようとしている。途中、降雪のため、新幹線は停止した。飛行機を選んでいたら、又、下田町には辿り着けなかったかも知れない。しかし、汽車は大分遅れている。一周遅れくらい遅れている。もしかしたら、万が一、再び雪の中に閉じ込められるのかの期待が浮かんでは消えている最中である。
 再び妄想の世界へ戻る。建築設計は現実社会の中では当然、実利の世界のモノである。商売である。しかしながら私は別にそんなに金は必要ない。カスカスに喰えて、何がしかのスタッフを食べさせられたらそれで良い。しかし、私の設計は何周も、何周も遅れる必要がある。今は、まだ遅れ方が足りない。だから、一見前衛建築家風に視えてしまう弱点を持つ。石川淳が狂風記で述べたように、過去へ過去へ、ズーッと記憶の涯よりも過去へ遡行してゆくと、ボッと未来へと出てしまうような、あるいは民俗学者の研究対象になるような超少数民族が、いきなり設計技術を持ってしまったら、どうするかと想像するような、そんな建築設計をしたいのだ。汽車は降雪の只中、白い吹雪の中を走り続けている。精神障害の子供たちだって、何周遅れのトラックを走っている民族の一員なんだから、まさに私と同じ目的を持つ人々なのだ。昼過、少し遅れて八戸着。新幹線改札口に山崎さん迎えて下さる。今日も又、この辺には稀な豪雪で縁が無い人なのかもしれないと下田町長が言ってるとかで大笑い。車で先ずは建設予定地を見る。雪景色、雪降る中で説明を受ける。その後、、白鳥到来の湖、現白鳥会作業所を見て、昼食。馬肉鍋。白鳥館で袴田下田町長に会って、知的障害児施設ぎんなん寮見学。ほとんど吹雪状態となる。山崎氏の事務所に戻る。大体、建築の構想は頭の中でまとまり、スケジュールの相談を車の中でしながら八戸駅へ。十六時四分の汽車で一ノ関へ向う。盛岡ではやてをやまびこに乗り変えるのに、四十五分待つ。要するに「はやて」は途中駅は考慮していないシステムなので、途中下車してみようかと考える、私のような者には不都合が生じてしまうのだ。新花巻、北上、水沢江差を経て一ノ関着、十八時頃。改札口に菅原の友人である高橋邦夫さん迎えて下さる。べ−シーにて菅原と再会。ボソボソと色々話す。三〇年間何も変わらないできたのだろうなベーシーは。菅原の化石的宝石ベーシーでの生活はまさに民俗学者の、しかも一流の民俗学者の思索の趣きを持っているのである。駅頭に迎えに来て下さったから言うのではないが、高橋さんて人物も実に興味深い。ベーシーの客に過ぎぬのだが、客を越えた客で、菅原の物腰と実に似通ったものを感じる。まあ、一言で言えば品格があるのである。菅原の選曲は、私がベーシーに居る時は、当然私向けになる。今日は、ジョン・コルトレーンのスターダストで終るかなと思ってたら、ツァラストラが繰り出されてまことに良かった。ベーシーに時々来れるように八戸の仕事は手を抜かずにやってみよう。菅原もあとせいぜい二〇年頑張れればもう良いだろうが、ラストベーシーを何処か森の中の草原に建ててあげたい。トロントで食事をして、ホテル「倉」一ノ関に一時前に戻る。

 三月四日
 十時研究室。国建コンサル来室。十一時陸海。十三時教室会議、教授会。十六時フジタ来室。鉄鋼の値上がりは想像を超えたものである。中国の北京オリンピックの影響とゼネコンは嬉しそうに説明するが、冗談じゃない。産業界の闇カルテル的なところが、こういう時に吹き出るのだ。不況状態の長期化で折角芽生えた本格的な価格競争が、これで又、しぼんでしまうかも知れぬ。十八時三〇分、少し遅れて東大へ。途中、木場プロジェクトの対応策をいくつか打つ。東大難波研究室の技術と歴史研究会の第二回目は名古屋大学の佐々木睦郎氏の大空間に於けるリダンダンシーの考え方。修了後東大近くの料理屋で会食。鈴木博之、松村秀一等と一緒。青山アルクールで一杯やっている内に佐々木氏と話しのウマが合い始め、帰りがけに世田谷村でお茶を飲んでいただいた。二時くらいだったかな。車で経堂の自宅まで送って再び世田谷村に戻る。明日は眠い一日になるナァ。

 三月三日
 終日研究室で雑事。

 三月二日
 午後目白GKにて栄久庵憲司さんとお目にかかる。色んな話しをした。

 三月一日
 十時研究室ミィーティング。十二時過五反田待合せ。トモコーポレーション社長、専務と国際コンテナ販売へ。現在のコンテナの殆ど大半は中国製で驚く程の値段で流通しているのを知る。すでに中国の時代になっているのだな。十六時研究室戻り。北園君来室。研究室レクチャーをしていただく。しかし、私は学部再編の会があり聴けず。十八時再び学部再編の会。

2004 年2月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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