石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2004 年3月の世田谷村日記 |
二月二十七日 |
朝八時前、国建スタッフにピックアップされ、尚弘子先生宅へ。尚先生は琉球王朝創立の尚家の御子孫で、いわば沖縄の顔である。非常にかっ達なお人柄で、流石と思わせるモノが随所に仄見えて楽しい。国建の車で大宜味村まで二時間弱御一緒した。 十時過大宜味村着。村長、助役にあいさつ。十一時、尚先生を座長にした委員会開催。検討委員会、ワーキング・グループ共の会議で総勢二〇名以上の大世帯である。古川真一氏と久し振りに再会。三月中にあと二回この委員会を開催することになるようで、ハードだ。ワークショップでの提案が委員会での議題になるようにしなければならない。次回委員会までに議論の対象となるような案件を作っておく必要がある。十二時半会は修了。弁当をいただいて、東参事とワークショップ開催の具体的な会場その他の打合わせ。太田、野村到着打ち合わせに加わる。公民館を主会場にする事に決定。象設計集団設計の建築である。宿泊施設も公民館内を主に、近くの空き部屋も使える事となり、参加者が一つにまとまれるようになってホッとした。少し村内を歩く。暑い位の天気で、民家の庭にハイビスカスの花咲き乱れ、沖縄らしい風景に接して心和む。 深夜世田谷村帰着。大宜味村の模型作りを急がなくては。
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二月二十六日 |
八時起床。昨夜は深夜まで「行間の空間」磯崎新・福田和也読みふけっていて、ボーッとしたまま起きた。前の畑の梅林の花も咲き誇っていて、鳥が沢山やってくる。十時野田邸現場。野田氏、森川と。十二時終了。只今十三時前向ヶ丘遊園から新宿に向っている。十五時四十五分の沖縄ANAで発つ。夕方遅く那覇着。慣れていないモノレールに乗って旭橋駅下車。少し歩きオーシャンビューHOTELにチェックイン。チェックイン後、国建コンサルでしばしの打合わせ。その後、夕食。
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二月二十五日 |
十三時大学院入試面接二次。一人だけとる。今年は予定通り、設計製図上位五名だけ。キッチリ育てるつもり。早速、作業を割当てて、WORK。雑打合わせいくつか。十九時前、中川さん等来室。聖徳寺初代、二代目住職来室。厳しい打合わせ、二十二時まで。終了後スタッフと雑談。一息つく。二十三時半世田谷村戻る。
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二月二十四日 |
七時頃目ざめる。昨日は本当に良い休息であった。天の配慮だろう。休みをとらせていただいたという事はまだまだ、やる事があるぞという事でもあろう。仕事が休息である様な事が理想なのだろう、それは知っている。幻庵や開拓者の家を作っていた頃、二〇代の終りから、三〇代にかけての状態は設計は義務ではなくって完全に遊びであった。七〇才を過ぎたら、あの状態に戻そうと思っているが、六〇代はどうするか、それが少々思案のしどころなのだ。 八時過、ホテルのTVをつける。BBC放送から、何から何まで余りにも過剰な情報。アフリカでの戦争からアメリカ大統領選挙情報まで。世界で起きている事が詳細に伝えられている現実がある。その全てに反応できるわけもないし情報の全てが正確であるという保証もない。過剰な情報と私は中途半端な関係しか持てない状態だ。昨日の大雪でストップした列車で大半の乗客はケイタイをしまくっていた。しかし恐らく誰も正確な情報は得られなかったのであろう。私は車しょうの車内放送だけが頼りだった。その車しょうも又、ケイタイで彼の職場の友人のTV情報から我々に放送をしていたのである。私の個人的な情報では、なんて言ってたからな。 あの状態と、今のTVを中心にした情報の現実とは同じなんだ。だからTV回路を一時断って、それこそ自己内情報の検索に入っても、それ程に現実と遊離してしまうわけではない。情報による現実自体がすでに現実からバーチャルしてるわけだから。休息する必要は、とどのつまり、そんなヴァーチャルな情報の錯綜状態から身体を切り離すという事なのかも知れないな。十時半まえ、悲しき熱帯Iほぼ読了。十一時後藤さんホテルに。帯広空港まで送っていただく。色々な話しをした。良い人に出会ったなと思った。十三時三十五分JASで東京へ。十六時研究室に戻る。十八時過TOC・トモコーポ。社長と打合わせ。ヴェトナム料理を喰べて世田谷村に戻る。
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二月二十三日 |
六時過起床。まだ雪は降り続いている。千歳からの飛行機は飛ぶのだろうか。モール温泉につかり、七時前まで休む。これくらいの休み方で満足しようじゃないか。朝食を真白い森を眺めながら喰べ、ホテルのバスで帯広駅へ。駅前を歩いていたら見事に足をすべらせ、スッテンコロリン。女の子に笑われてしまう。こいつ、道内人じゃないなの笑いである。七時五十二分発特急十勝で札幌方向へ。今日、もしもサッポロ→三沢の便が飛んでいなかったら小樽の土地を見に行こうと決めた。驚いた事に、座席に座っていたら後藤さん昨日の新田牧場のチーズを持って見送りに現われた。昨夜あれ程独人で発つからと言っておいたのに。しかし、さっきのスッテンコロリンは何であったのか。偶然といえば、ただの偶然だろうが、郵便配達夫シュヴァルはある日、道を歩いていて、小さな石につまづき、その石との、つまづきを啓示に、あの南仏の夢の宮殿を作り始めたんだからナア。何故、俺には何の啓示も出現しないのかね。これでは、ただのすべり損じゃネェか。十時前、汽車はしんゆうばり駅でストップ。今、車内放送で千歳空港よりの飛行機は午前中は全て欠航と知らせられた。札幌周辺は大雪のためレールのポイント切換えが不可能となって、汽車も動けなくなっているらしい。これでは小樽にも行けないな。レヴィ・ストロースの悲しき熱帯、ちょうど船に閉じこもったまま、ヨーロッパからブラジルへの途次の事の下り、を読んでいたところで、マア、ブラジルへの船旅程じゃないけれど、俺も雪の中、夕張に停まったまんまの汽車に閉じ込められるのも悪くはないかと、考えているところ。 今、発車の見込みは全く立っていないと放送があった。JR駅員は放送で仕切りに申し訳ありません、申し訳ないと繰り返すが、この大雪じゃ仕方ないだろう。こちらの方こそ、大雪になると天気予報で知りながら無理矢理北海道にやってきて、仕事をしちゃおう、なんて考えて、申し訳ないと言わなくてはならないのは、こっちの方だ。弁当買い占めておいた方がいいなコレワ、と商社マン風の浅知恵を働かせている最中である。どうやって、東京に帰るかの算段した方がいいな。朝食、ホテルで取っておいて良かった。天の恵みだよ、この空白の時間は。私を待っていて下さる青森・下田町の方々には申しわけないが、思わずホホもゆるむね。又、車中放送あり、お急ぎのところ誠に申し訳ありません、と言う。もう全然お急ぎではないんだからねこっちは。しんゆうばりで車中に閉じ込もって温泉気分なんだから、ほっといてくれってえの。もう、服ぬいで、浴衣に着替えちゃおうか。只今十二時列車はピクリとも動かない。極楽だ。 プラット・フォームを降り、駅の売店で味噌味ラーメンを作ってもらい昼食とする。駅舎に積もっている雪も大分、厚みを増した。十四時半列車は再び走り始めた。十五時列車は追分に着く。車内放送の情報より、これは帯広に戻った方が良かろうと判断し、追分で降りた。駅前広場には冷たい風が吹いている。待ち合い室は人でごった返している。敦煌空港を思い出すな。追分で釧路行特急大空なん号六時間遅れに乗って帯広に戻る。十八時過。 後藤さんに再会。北海道ホテルに戻る。坂本氏と北の屋台で食事。銀河ソバのオヤジはネパールに行ってしまったそうだ。そうだろうな。今日は、天の恵みの休日であった。しかし、休みには際限が無いのに御用心なんである。屋台でラーメン喰べて二十一時頃ホテルに帰って眠る。
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二月二十二日 日曜日 |
家内に車で送ってもらい、朝九時過羽田へ。十時過のJASで帯広へ。只今、十一時四〇分、もうすぐ飛行機は高度を下げ始める。昨日のメモを記し終わったところだ。十二時過帯広空港着陸。後藤さん出迎えて下さる。車で昼食。田舎ソバ工房。十四時過、ヘレンケラー塔四階で宮坂建設スタッフとセミナー棟建設打合わせ。雪降りしきる。修了後、スノーフィールドカフェへ。渡辺シェフと再会。にぎわっているようだ。十六時半北海道ホテル、チェックイン。モール温泉につかり、一時休む。この一時間程の休息で本当に一息ついた。明日の青森下田町関係の資料読む。十八時半坂本、後藤両氏ホテル来。共にスノーフィールドカフェでのディナーへ。二〇時前北海道ホテルに戻る。再びモール温泉につかり、体を休める。雪は降り続いている。
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二月二十一日 |
七時頃起床。二階でボーッとしている。梅の木の頭が下に視えて花盛りが眼下にある。十時研究室渡辺打合わせ。今の状態を突破してくれと思うばかりだ。楽しみなさい設計を、とその事に尽きるな。十三時半東大難波研究室。今日の公開講評会会場である安田講堂には長蛇の行列であった。安藤忠雄さんはしかし、欠席との事。行列の何分の一かは安藤人気であろうから少なからぬ観客は失望するだろう。十四時クリティーク開始。スケジュール通り十七時修了。安田講堂は満員の盛況であった。阿部・塚本・曽我部・五十嵐と私のクリティークの距離が面白かった。彼等、ユニット派と言うのかな、それに共通して流れている気分らしきものは・・・・典型的な、アメリカ人と共通するフランクさ、妙なわけへだての無さだろう。アメリカン・デモクラシーの日本的表われとでも言おうか。あの人達は移植されたアメリカ文化が戦後六〇年経って日本にようやく根付いたアメリカ的なモノを体現している人達なのだ。山本夏彦言うところのニセ毛唐の典型である。移植されたものが実ったのだから、ある意味では人工的であり、変な匂いがない。ワシントンに咲く桜みたいに、日本に育って咲いたカリフォルニア・ポピーの感じかな。だから、彼等と東大の学生達の間には本質的なところで相通じるものがある。双方共に人工的な感じ、移植されたものがベースになっているのではないか。それ故、私には異和感がつきまとった。私は、時に私は何者だろうかと考える。それ故、どうしてもデザインにオリジナリティーを求める。当然の事ながら何処かに私を表わしたいと願う。彼等にはそれが無い。そして薄々それが自覚されている。計画というのはデザインを支える基盤だと鈴木成文先生に言われたけれど、学生達の設計は生のまんまの計画であり、何にも発酵していない。学生達に通じるモノ哀しさは、それがホンノリと自覚されているからであろう。 クリティークは押え気味にしたが、二十八日だったかは早稲田の大隈講堂で公開講評会を催すのだが、修士設計、四年生の課題共に、今年の早稲田は水準が恐ろしく低いので、あんまり大口たたけなかったのだ。 講評修了後、懇親パーティー。その後、近くの日本料理屋で会食。アルクールで軽く飲んで帰る。しかし、難波先生は良く安田講堂を満員にした。それが一番印象的でもあった。
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二月二〇日 |
一階というより、地べたに生えている梅の木が八分咲きになった。この白梅を二階の台所から眺められるようにというのが家内の強い望みだったから、今の季節は本当は世田谷村は家内の季節なのだ。うさぎのツトムにトイレの場所を教えるために、バラバラに解体していたカサブランカっていう名のソファーが久し振りに再登場し、ツトムのトイレにならぬように今、そこに座らされている。しかし、そんな風にお地蔵さんみたいに安楽椅子に座っているだけで、休んでいる気持ちになるものだなあ。しかし、いいモノ作るのが一番の休みになるのをもう知っているから。今のまま作り続けるしかない。うまく空白の時間を作る工夫をしないと。朝風呂に入る。青森ヒバの木の風呂で、客観的に考えてみれば梅の花を眺め、朝ヒバの風呂につかっているのは、充分な休みである。私は充分に休んでいるのである。そう自分に言い聞かせる。九時三〇分研究室。日本建設来室。十時大田区伊藤さん来室。伊豆高原に家を建てる事の相談。十二時丹羽君ホームページ編集の件打ち合わせ。十二時三〇分講談社園部さん来室。幾つかの興味ある件の相談。十四時卒論説明会。住宅打合わせ。十五時陸海、博士論文相談。配島工業来室。十七時第一次大学院面接。十九時新井薬師野田宅訪問。二〇時半研究室に戻る。三ノ輪藤井邸打ち合わせ。ともすれば実務だけの堂々巡りに終りかねぬスタッフに、少しばかりの造形論的レクチャー。シュールレアリズムと建築的発想の私的連関性について。建築デザインの奥深さは社会の俗性と、それでも時に生まれる私的聖性との振り子状の運動性にある。 今日は大学院の一回目の面接もやってしまった。二十五日を二回目の面接とした。上海Gスタジオまでやってきた優秀な連中の大半が入室希望で、今年の春からが楽しみである。彼等も参加し得るいくつかのプロジェクトをおこそう。
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二月十九日 |
九時半研究室。雑事。十時高山邸打ち合わせ。十一時銀花青戸さん来室。十二時フジタ来室。十三時博士論文審査会。十七時前中川さん、友部さん、栗畑君来室。聖徳寺いよいよ陣頭指揮しなければいけなくなってきた。体がもう一つあって欲しいが、依頼主から見れば、どうしても私に依頼したのだから私が全てやって欲しいと考えるのは当たり前だろう。一人だけでは出来ぬ仕事の辛いところである。しかし、出来上がった時には喜んでいただけるだろうと信じてやるしかない。十八時小笠原さん、ピースウィンドスタッフ来室。二〇時過まで会談。小笠原(ナーリ)さんと遅い会食。考えてみれば、今日初めての食事だった。小笠原さんからこんな生活していてはダメだと叱られた。本当だ。でも仕方ない。二十三時半世田谷村に戻る。夜食をとる。
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二月十八日 |
朝屋上菜園にあがり、生ゴミを埋める。群生し始めた仏の座を引き抜く。雑草は強い。富士山が鮮明な姿で眺められる。今日は利根町の百人スクールへ出掛ける。考える時間が無い状態になっているのは解っている。しかし、今は仕方無いだろう。十一時前常磐線車中。クロード・レヴィストロースの悲しき熱帯、ゆっくり読んでいる。インディアン(原住民)の居なくなったサンパウロ郊外の風景と常磐線の車窓から眺めている都市、及び都市郊外の風景と、それ程の違いはない。この風景の無惨さの中を通り過ぎるのも又、旅なのだ。かって旅の時代があったと、彼は書いている。まだ風景が汚されていない、無垢な、それこそ民俗学者を狂喜させるような、それぞれの民俗が多様で個別な文化を所有していた頃の事だ。今は、恐らく地球上の何処にもそんな風景は存在していない。そんなに、大ゲサに言わなくても、常磐線からの風景中には、存在していない。汚されたと言うよりも、この風景は廃虚なのだ。私たちの都市の日常は廃虚の只中での生活なのだ。若者がバーチャル風景の中に逃亡したがるのは、極く極く自然ななりゆきなのである。十一時取手。佐藤さん出迎え。佐藤宅で、昼食のソバいただく。十四時文間小学校。昨年会った子供達と再会。四十分のレクチャー。小学生から老人まで聴いているので仲々難しい。その後、文間小学校六年生十七名による「鎌倉街道」の創作オペラを観る。前回、利根町に来た時子供達には少々失礼な事を言ったので、今回は、悪かったな、とあやまった。十六時迄、百人スクールのこれからについて相談。桜植樹、たぶの樹植樹の件と、百人スクール事務局の場所の二件である。十七時過、利根町を去る。只今、十八時常磐線車中。夜は研究室で幾つかの打合わせをこなさなければならない。十九時研究室に戻る。打ち合わせ。二十二時過修了。二十三時過世田谷村に戻る。
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二月十七日 |
朝屋上菜園に上る。生ゴミを埋め、草花樹木に水をやる。水仙、クリスマス・ローズ等が咲いている。一時間程屋上で過し十二時過大学へ。十四時入試「空間表現」採点。この世にあり得ない植物を描けという問題で、仲々良いドローイングが多かった。今の若者も馬鹿にしたものではない。しかし、想像力のベースが違っている。我々の時代の想像力らしきは自然観察や実体験の組合わせから生まれたような気がする。世にこれ程まで情報が溢れていなかったから。対するに今の若い人達のそれは、映画やアニメーションの如き情報から生まれている。つまり、この世にあり得ないという問題設定自体が少々古めかしいのであって、マトリックスという映画があやふやな形式ではあるが示そうとしているように、今のこの世の現実自体も又バーチャルなのだという、情報化時代の特質が、高校生位の若い人達の才質の根幹にすでに侵入しているような気がする。それに深刻な事のように考えられもするのは、彼等が「この世にあり得ない」という指示を与えられなければそして入試という制度の中の指示がなければ、かくの如き想像力を動かさぬ事だろう。
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二月十六日 |
六時過起床。冗談じゃないが、今日は義務で大学入試の試験カントク。イヤーな一日だ。七時五〇分大学。九時二〇分試験開始なのに何故こんなに早く集めるのか。受験生の顔つきが毎年幼くなっている様な気がする。女の子は妙に大人びたのが居る。私の担当する部屋の受験生は総勢四〇名。内、女性が七名。もしかしたらこの教室は建築学科志望かもしれない(違った)。受験生の全てと言って良い位皆シャープペンシルを使い、鉛筆を使っているのは今時珍らしいツメエリの制服姿の男子のみ。それでこの学生はどこか地方の学生と知れる。今年も又、時計は全員種類が異なる。時計という高度工業化商品がいかに多品種の生産であるのかが知れる。身につけるものなのでそうなるのか、値段帯の枠がそうなさしめているのか。一時期受験生が一様にやっていた鉛筆を右手で上手にクルクル廻すのは今年はどうやら一人だけになった。シャープペンシルは少し重いのと材質で廻しにくいのであろうか。靴は全員スニーカーと思いきや、例のツメエリの男子が革靴で他に二名編上げのスエードの靴であった。女子はハイヒール一名ペチャンコの靴一名、他は足許をジロジロ見れないので不明。男子一人のみ左利き。十五時二限の理科が終わる。室内の原稿一応終わる。十七時十分三限の英語終了。このクラスは化学科志望のクラスだった。せめて建築学科の教師は建築志望のクラスに配置せよ。マア、来年は私はもうやらないけれど。十七時半やっと研究室に戻る。
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二月十五日 日曜日 |
十四時二〇分南青山の梅窓院祖師堂ホール。日中建築デザインシンポジューム。浜野安宏、隅研吾がお膳立てしたもののようだ。顔馴じみの張永和北京大学教授等と話し合う。日本側は隅、石山、山本、北山、浜野。中国側は張の他に文未未、刻家昆、王謝。終了後の懇親会はワインを一口すすって退散する。隅は良くこまめに動いているな。十九時半世田谷村。室内原稿書く。
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二月十四日 |
九時前起きる。今日は休もう。と思ってはみたものの、ジーッとしておられず、十時過世田谷村を出る。小田実の会に行こうと我孫子の真栄寺に向かう。佐藤健の墓参りもしてこよう。しかしまだ墓はないか。今十二時過常盤線車中。十三時過天王台寺で死ぬ程まずい立喰いソバを喰べて、TAXIで真栄寺へ。照道師と再会。小田実と会う。佐藤健を介した縁だ。十三時半過小田実講演、本堂で。小田実の話しをまとめる事は不可能だが、最近の彼の関心がヒト・ゲノムの生命工学の特許、所有権の問題、すなわち核の外からのプレッシャーとは反対の人間の内側への外的権力の侵入の問題へと移行しているのが感じ取れた。時間を大巾にオーバーして十六時前まで質疑応答が続いた。修了後会食。十九時過迄。小田実、興が乗って、もう一度レクチャー。ギリシャ時代の政治的概念の原理について。仏教伝道協会事務局の方がみえていたので、フィンランドのパビリオンのパンフレットを渡し説明する。小田実も七十二才位になったようだが、言っている事は四十年前とピクリとも変わっていない。そこの処が信頼できるのだ。沖縄の比嘉永吉は信用できると言っていたが、この一連のラインは何なのだろうか。死んだ佐藤健の勘は凄かったと言うしかない。佐藤健の通夜に用意されていて、真栄寺が隠し持っていた銘酒がふるまわれ、良い会になった。上野で加藤等と食事。二十二時半修了。今、山手線で新宿に向っている。今日は久し振りに小田実に会えて、色々と話しできて良かった。
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二月十三日 |
只今、三時二〇分。グリーンアロー社に原稿FAXにて送附。一息ついている。八時半起床。十一時研究室。十一時半全体ミーティング。十三時修了。十三時半清水建設来室。十四時半アトリエ海佐々木氏鉄建建設と来室。十六時半日本建設。十七時半馬場夫妻来室。一度だけお目にかかったお兄さんが入院されたとの事。馬場兄弟は正しい庶民の典型の風があって好きだ。良いものを作ってあげなければな。夜、友人と会食。
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二月十二日 |
七時温泉につかる、濃霧で何も見えず。昨日この天気であれば土地の印象は違うものになっていただろう。幸脇夫妻は所用で早朝東京へ戻った。本当にかえって良い休みを与えていただいて恐縮してしまう。八時過霧がスーッと引いて浅間山が姿を現わした。マチャプチャレを眺めて忘然としていたのを思いだす。浅間山も火山なりにマア良くやっているヨ。デカさが違うけれど。八時半一人で朝食。十時過、もう一度午前中の光で土地を見て信濃追分へ。十一時過軽井沢、新幹線で東京へ。車中、海日汗の博士論文読み赤を入れる。モンゴルのゲルの方位に関する論文で仲々面白い。十三時大学、教室会議。論文審査会。十六時梅沢さん来室、何物件かの構造打ち合わせ。台湾の蘇睿弼さんインタビュー。二〇時過世田谷村。セルフビルド原稿。GA原稿書く。
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二月十一日 |
今日はどうやら休日らしいが何の休日であるかは知らぬ。十時五十二分のあさま五一三号で軽井沢へ。幸脇さんの土地を見るため。昨夜の上海の登さんと若松社長との会食は面白かった。若松さんは今、ロシアに気持ちが向いていて、そう言えば今日はモスクワに発つと言ってた。登さんは上海の二〇二〇年にフォーカスを絞っている。登さんは今日は台北だ。二人共、実感をベースにしたインスピレーションで動いている人だが、フワフワと現実から浮いて見えるところが面白く、まさに現代的な人間像を体現している。ライフ・スタイルがリアルであればある程、マネーの世界に入り込めば入り込む程、その現実がミラージュの如くに眼に写るのだ。アッという間にもうすぐ軽井沢だ。伊豆への踊り子の時間と、新幹線の時間はやはり違う。移動の速力が異なる時間を生み出している。異なる時間は異なる思考を生み出す可能性がある。人間は永遠に光より速く動けないらしいがそんな速力の中で考えてる事は違う世界なのだろう。昼前軽井沢着。追分鉄道に乗り換えて信濃追分へ。車で幸脇さんの土地のクラブハウスへ。チェックイン。昼食後、土地見学。考えていた建築の軸を九〇度回転させなければならない。眺望の素晴らしい土地だ。周辺の山荘を車で見て廻り十五時半クラブハウスに戻る。温泉に入り、グッタリ休む。十九時半クラブのレストランで夕食。二十二時半就寝。海日汗の博士論文持ってきたが読めず。明日に持ち越す。
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二月十日 |
十時修士論文審査発表会。十八時計画系四研究室発表全て修了。今年の修士設計は格段に低調。論文も一人に不合格を採点することになる。石山研槌谷の論文「商品化住宅広告史」早苗賞受賞。十九時突然千代田さん来室。十九時過ぎ上海の登先生来室。同三〇分α社長若松氏来室。二人を引き合わせる。高田馬場文隆にて会食。二十二時三〇分世田谷村へ。
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二月九日 |
十時修士論文審査発表会。十九時半、ピースウィンド、三好シュタークひろしまハウス打ち合わせ。
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二月八日 日曜日 |
十一時過研究室。昨日の土浦、桑原弘明氏の取材でMemoの連載は修了となった。本にするスタイルを考えなくては。研究室にはデービッド、渡辺が出ていた。陽だまりの中でくつろぐ。十三時前約束の時間よりもだいぶ早く千葉の高橋さん夫妻来室。私も多分早く来るだろうと思っていたので、良かった。奥さんは相変わらず元気一杯で、思う存分エネルギッシュだ。安藤が用意した模型、絵、図面で第一回のプレゼンテーション。不難な三角形平面のモノと、思い切り大胆な案との二案。大胆な案はここ二〇年位温め続けているアイデアで、チャンスが無くて実現されていないモノ。コルゲート・シートで人工の丘を作り、その内・外に家を作り込むというモノ。驚いた事に高橋さんはコレで良いという。私に任せて、これでやってみようと言う。いいんですか、と何度も念を入れて尋ねたが、一向に動じず、こっちの案の方が石山も一生懸命になりそうだから、そっちの方が良いと言って下さる。私も思わず笑い出してしまい、じゃあ全力挙げてやってみましょうという事になった。出来たら、これは世界に二つとないモノになるぞ。新型の建築を呈示できそうだ。十五時半世田谷村に戻る。少しばかり、眠る。夕方、ソバを喰べて、栄久庵憲司論書く。仲々うまく書けずに四苦八苦する。
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二月七日 |
七時半起床。今日は中里氏と取材の日だな。少しゆっくり出来るが、いくつかの〆を過ぎた原稿の事がズッシリと頭に重くよどみ始めている。MRIでは写し出されぬストレスだ。うさぎのツトムがすっかりなついて、足許にじゃれつく。トイレまでついてくるのはやり過ぎだぜ。ツトムのおかげで世田谷村の茶の間に置いてある植物は皆、下半分は丸坊主になってしまった。しかし、一様の高さ、つまりツトムの背が届く範囲内が丸坊主なので、非常に建築的で良い。TVや家具もかじりまくってくれれば良いのに。しかし、気が付いてみれば最近は毎日スケジュールが一杯でセコセコ動いてばかりの日々であった。それなりに充実している様な気分になりやすいのだが、用心しないと何も残っていない事になりかねない。残ったのはこのメモだけなんて悲惨な事になりかねない。しかし建築の設計という仕事は雑用の固まりだな。このゴミが集積して一個の造形物に立ち上ると理解しても良い位だ。三〇代の空白期間を今になって埋めている実感がある。三〇代は一人で勝手な事をしていた。あきれ返る程に。それが私の中心を作っているのも確かだが、もう少し雑用もこなしていれば良かったと思う。そうすれば五〇代の終りにこんな日々を送らなくて済んだかも知れない。マ、しかし全て仕方のない事だ。巡り合わせとあきらめるしかないだろう。時間というのは悲哀に満ち満ちたものなのだ。 二時間程世田谷村の朝をくつろぐ。梅の香が室内にただよってきて、心和む。今日も一日なんとかしのいでゆこう。
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二月六日 |
七時起床。レヴィ・ストロースの悲しき熱帯読み続けているが、やはりこの哲学者の思考の基調低音は抑制されたペシミズム(ニヒリズムとは少し異なる)なのを感じてしまう。大きな意味でそれは仕方のない事なのだが(知識人の宿命とも言うべき事なのだが)、やはりそれを簡単には乗り越える事はできない。九時前研究室。上海の登さん来室。筆談を交えて今年から将来の計画について話し合う。人それぞれにそれぞれの場所で苦労を重ねているのだろう事を前提に附合ってゆかねばならない。登さんの一見楽天的で屈託のない身振り、生き方の裏に、深い孤独と、しんさんをなめつくすような悲哀を感じた。十時山梨の方来室。住宅づくりの相談。十二時半調布馬場さん来室住宅の相談。十四時修了。十五時過上福岡千代田さんの現場へ。十六時過、東上線で東京に戻る。五反田のトモ・コーポレーションへ向かう。今、十七時頃、東上線車中。落日が西の空に見事な光を散乱させている。十八時五反田駅前で史上最悪のソバを喰べ、TOC内トモ・コーポレーションへ。一時間早く着いたが、打合わせ始める。社長、専務と三人で。大方の重要事項全て決める。十九時半修了。社長、専務とビルの地下で夕食、仕事の話しを離れ談論風発。二十一時過お開き、二十二時山手線新宿。京王線へ。二十三時世田谷村に戻る。今日も夜は原稿書けない。
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二月五日 |
十時フジタ来室。十一時社会人特別選考その他。十三時教室会議。十五時過打合わせ幾つか。十八時半土木学科、現社会工学科との懇親会、高田馬場のイタ飯屋で。土木の先生との会合。私はそれでも関心があって出席したのだが、つまらぬ会であった。こんな会は二度とやる必要はない。旧土木、二名大巾に遅刻。土木からの申し入れの会であることを忘れたのであろうか。やはり感性の土台がまるで別世界だな。そんな印象は益々強まった。早稲田大学理工学部再編に対する私個人の考えは本日でゆるぎないモノに確定した。
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二月四日 |
七時二〇分起床。昨夜はあんまり眠れなかった。八時世田谷村発。青空だけが救いである。九時東京駅踊り子で蓮台寺へ。今、隣りに森田兼次さんと長谷川さんが居る。今日は電話で研究室の連中に、昨夜考えた事を指示しなければならない。十一時四〇分蓮台寺着。松崎町の車で婆娑羅峠を越えて松崎町へ。十二時半町役場の方々と打合わせ。十四時過修了。十五時蓮台寺発踊り子で東京へ。 美術館前の立ち話ではあったが、大事な案件も浮上したように思う。 十七時四〇分東京着。駅内のレストランで夕食。森田さんのお元気な間に、面白い事やりましょう、楽しみましょう、実質の伴なった職人のユニオンを作れないか、の話などして別れる。二〇時過研究室。幾つかの指示を出し、二〇時半出。二十一時半頃世田谷村に戻る。 森田さん達、日本中の左官職人達との附合いも、そろそろ実体としてまとめなくてはならぬ時期になった。行き帰り、五時間半の汽車で色々と考える事が出来だのが収穫であった。
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二月三日 |
十時河野鉄工来室。世田谷村二期工事その他打合わせ。この会社とも長い附合いになりそうだ。十一時軽井沢の家の基本構想を決める。面白いモノになるかも知れない。スグ模型作りを依頼。アベルの仕事を見る。彼の仕事に初めてOKを出す。力あるぞこいつ。十三時内閣府来室。十六時梅沢良三先生構造打合わせ。十八時高山さん来室打合わせ。十九時半修了。野田さんの件の打合わせスケジュールを決める。最近スタッフと無駄話するヒマも無かった。一息いれて、おしゃべり。二十二時過研究室を出る。二十三時過世田谷村に戻る。
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二月二日 |
十一時研究室。十六時前迄雑打ち合わせ。十七時院生の仕事を見て絶句。怒り出しそうになっている自分をなだめ、一月三十一日の今年の三年の作品を見ろと言う。研究室のスクリーンに三年生の仕事を写し出して、勉強しろと言う。設計教育には共通に想定されるべきハードルがある筈で、教える方も、学ぶ方も気持ちの中にそのハードル(水準)は共有されていなければならない。
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二月一日 日曜日 |
今年の卒論のテーマを決める。久し振りに優秀な学年のようだから、本気で行こう。研究室のテーマと言うよりも、私のテーマを卒論のテーマとする。 1) 開放系技術・デザインの研究 2) マイノリティの建築への基礎的研究 3) モバイル建築の基礎的研究 4) 現代建築デザイン思潮研究 5) 現代住宅デザインの研究 6) 生命と共同体の設計・研究 7) 上海の研究 8) ブッディズムと建築概念 栄久庵憲司論を書くため、道具論その他読む。レヴィ・ストロース悲しき熱帯再読始める。こういう本は一回位読んでもわからないからなァ。
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2004 年1月の世田谷村日記
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
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