石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年5月の世田谷村日記
 四月三〇日
 七時前起床。八時河野鉄工来世田谷。第二期工事現場開始。九時半まで見る。十時半研究室幸脇夫妻来室。十三時グリーン・アロー小川さん来室、Memo小特集の件。十四時青森はくちょう家族会会長さん来室。十六時学科会議室入江主任。戸田育英財団来室。十六時半研究室退。十七時四〇分世田谷村現場。地下室の穴をとり囲む壁が一枚出来上っていた。よろしい。考えていた通りのモノである。鉄の壁一枚建ち上ったくらいでこんなに嬉しいのは我ながらおかしい。やっぱり自分は根っからの鉄好きなところがあるのが解る。
 夜、「室内」連載を何回分か読み返してみた。同じ事を繰り返し書いているところがあって一人冷汗をかいた。キチンとしなければいけない。

 四月二十九日
 六時十分起床。午前中は世田谷村にて過す。菜園に種をまいたり、小さなスケッチをしたりで遊んだ。
 十三時研究室。幾つかの打合わせ。十五時馬場さん夫妻来室。十六時五反田へ。十七時トモコーポレーション。十九時打合わせ修了。夕食後、青物横丁品川寺へ。アチャン・光男・カヴェサコ師と会う。猪苗代にメディテーション・センター設立の可能性についての試みがスタートされた様に感じられるが、まだ良くわからぬ事が多い。

 四月二十八日
 五時四十五分起床。今日は富士嶺聖徳寺の現場行。久し振りに群馬の左官職達、森田親子、中沢さん等に会える。内部の壁の色はうまく出せているだろうか。吊り構造の仮サポートを外す頃合いをそろそろ決めないと。世田谷村二期工事の詳細をつめてゆくのも急ぎたい。二期工事に関しては色んな実験を試みるが、その成果を進行中のプロジェクトに反映させよう。銅版画の事はもう忘れた。
 十年くらい続く建築現場に棲み暮らしたら、どんなに幸福だろうか。プノンペン・ウナロム寺院の「ひろしまハウス」は、あの十倍くらいのスケールだったら、いずれ死ぬ迄の数年を賭けても良かったが、少々大きさが足りぬ。公共建築や商業建築ではそんな事は発生しようが無い。やはり、ある種の宗教的建築か、個人に類する、時代を超えた考えの持主を依頼主にするしかない。そんな依頼主と巡り会える戦略を立てなくてはいけないな。
 十三時前、聖徳寺現場。良い色が出ていた、老いたりとはいえ,流石森田のオヤジさんはカンがいい。中沢さんも親子で仕事をして下さっていた。皆、二代目が成長しているんだ。気心の知れた職人さんとの仕事は間違いが少ない。外構を上手に仕上げたい。内は大方良い。仕上がると、外の風景と内が相互貫入する筈なので、その息使いをスムースに流さなければ。十五時半名残は尽きぬが現場を去る。現場にいるといろんな事が考えられるのが不思議だ。十八時頃世田谷村に戻る。屋上菜園に上り、クワをふるう。二十三時就寝。

 四月二十七日
 朝六時五〇分、六点目の銅版画を仕上げる。これは少々、趣向を変えてみた。主題は同じである。針で銅板をひっかき続けたのは変りない。針先が意のままにならず、あらぬ方向へ勝手に動いてしまうのが実に面白く、妙味がある。しばらく時間を置いて、又、製作する気持ちが湧いてくるのかどうか、自己観察してみよう。ともあれ、一週間程を楽しんだ。又、お陰様で規則正しい生活の連続であったので、鋭気を養う事もできた。八時半、スケッチ一点製作。流石に少し計り疲れた。九時半、六点の銅版画を最終チェックする。十時半、六点をパッケージして、全ての作業を修了。どんな刷り上がりになるのか楽しみだ。ここに描いたモノが何を意味するのか全く自分では解らない。少し時間が経ったら解るのかも知れぬが、解っても仕方ない事なのかも知れない。

 日本の夏、田舎の小さな海沿いの町に居る。大通りを走る車も少ない。路地に人影も無い。自分だけが小さく短い影と共に居る。セミの声が騒然と渦巻いている。太陽は頭上に停止したようだ。そうか、今は盆休みなんだ。沢山な死者が、それぞれの家に戻る日である。だから、町は仏壇の中の様に静寂そのものだ。「カーン」と何かの音が響き渡った。虚空からの高い音だ。この音の感じを銅版に彫ってみた。
 シシリアの春。海沿いの古い都市を歩いている。古い神殿の遺跡を幾つか巡り歩いている。遠い国の神話を思い起こしてみたりする。散乱した石柱の巨大な破片や、石畳の陰に、小さな花々が咲き乱れている。ここでも「カーン」と音が響くのが聴こえる。
 そんな音の感じを彫ってみた。
 随分多くの遺跡を巡ってきた。けれど、どこでも、この音がつきまとってくる。最近は、今の都市、今、自分が住み暮らしている町を歩いていても、この町が何だか遺跡そのもののように思えてしまう時がある。小汚い遺跡だけれど、同じ様に、全てが失われて、何もかもが空虚である。死者の影が満ちている。今、現在がすでに崩壊しているような気がしてならない。
 そんな感じを銅板に彫ってみた。

 四月二十六日
 銅板を彫るのが良いと思えるのは、描くべき主題を定めて次にしかるべきある形態を決めて下図をイメージした後は、ほぼ自動的に作業が進められる事だ。コツコツと銅をひっかいていれば良い。その手の感触と、適度な筋肉の疲れが、何かやってるぞという自己満足をもたらせる。コツコツひっかいていれば、何となくさまになってくる気配も濃厚になってくるから始末に終えない。図面にゴリゴリ、テクスチャーを描き込んだり、影を描き込んでゆく、まがいの充実感と酷似している。
 しかし、これは何を描こうとするのかという問題とは程遠い作業であるのは確かで、マア、例えてみれば傷口にできた、かゆいかさぶたをボリボリひっかいているのと変わりはない。しかし、人間も動物の一類であるからね。それをあんまり否定してもしょうがないか。

 四月二十五日 日曜日
 銅版画五点製作終了する。一日二、三時間刻んで五日程かかった。こんな事をするのは一生に一度の事かも知れぬから、良い体験であった。描きたいモノを描いた。やっぱり建築的風景になってしまうのは、もうやむを得ないか。廃墟の黙示録のような主題を描き続けた。ミャンマのパガンの遺跡の記憶が強くよみがえってきた。ユーラシア大陸、他で数多く眺めてきた遺跡の印象がこれ程強かったのかと、自分でも驚いた。ペルセポリスで視た竜巻きの記憶が突然、出現してきたのにも驚いた。他人様にお見せ出来る位のスケッチもほんの数点描けた様に思うので、秋の展覧会は何とかなるだろう。宮崎の現代っ子ミュージアムにも一週間くらい閉じ込もって製作したら面白いだろうなと考えた。松崎町の蔵も製作場所には良いな。これからは無駄な事は極力省いて、ワガママを押し通す。ベーシーの菅原の忠告が今頃になって、リアルに身体にしみてきている。「無駄な力はもう使わない方が良い。」確かに余計な事が多過ぎたな。今日現在と同じように、やりたい事だけを夢中にやるのが合理的なのだ。
 綿貫氏から渡された銅板は残り一枚である。何を描くか。別の感じに取り組んでみようか、あるいは遺跡シリーズを続けようか。

 四月二十四日
 今日は世田谷村に第二期工事の鉄材が運び込まれる予定になっている。この工事で私の世田谷村での仕事場の空間を拡充する。
 地下の作業所には本格的な屋根が架かることなる。屋根は船底の如くに下にゆるくカーブしているから、船底を、水の内から見上げるようなスペースが出現する事になる。この空間は強く重いものになるだろう。南面して、西際の壁面から、高い明るい光が糸状に指し込む。地中深い感じをデフォルメしている。地下の一部は天井に湾曲したコルゲートシートが露出している。床は石張りにしたいのだが、金が足りぬかも知れない。何とか安く石を手に入れたい。地下の一部には床暖房を施さなくてはならないだろうな。新築となる一階二階部分は南だけが開いた少しゆがんだ箱になる。南からの光は地下室まで指し込むように工夫される。壁、屋根、床、開口部枠、全て鉄を使うが、鉄という材料と自然をいかに馴染ませるかの、幾つかの実験をしてみる。依頼主、その他との打ち合わせも、世田谷村で 1/2 は行う事になるので、それなりに空間を用意したい。小空間ではあるが、私の鉄の体験を投入して、次の段階に進みたい。
 この二期工事に関しては、沢山のスケッチを描いたので、いずれ絵日記の方で全て公開する。

 四月二十三日
 人間の身体というものは、なんとも不自由なものだ。色々なプロジェクト他のスケッチに明け暮れしていたら、もう一週間近くこのメモをつけ忘れていたのに気がついた。三島由紀夫が「作家論」で述べていた事だが、認識と創造(それ程大仰なもの言いではなく、むしろ遊びと呼んだ方が良い)はコインの裏表の関係であり、幸せに混合することはない、というような事。スケッチ(エスキス)をしていれば記録も忘れてしまい、記録を克明と言わずとも定期的につけていれば、スケッチは少なくなる。
 今度、ホトホト解った事でもあるが、建築を離れて(具体的な与件がすでに存在している案件を離れて)、白紙を前に何かを描こうとすると、これ位困難な事はない。禅の修行僧が公案に対するに禅画を持って対する、あるいは仏教的無の様相をイメージするに、絵、あるいは書の技術を持って対しようとするのが殆ど瞬時に描かれるものなのを思い起こしたりもした。言葉による思案の過程は、スケッチや絵による考案とは数層倍の困難さを持つ。思考の精密さが異なる。
 ただし、白紙を前に建築的与件(仕事と言っても良い)もなく何かを描こうとする絶望感と比較すれば、言葉は容易な気もしないではないが、私のメモ程度でそんな事いうのも少々どころでは無く大いにおこがましい。いずれにせよ、言葉をもってするにせよ造形でするにせよ、ある一定の視えやすい水準を超えたいと願う時に、この困難さは出現する。万人、誰もこの定理から自由な者はいない。

 「住宅」に対する方法をようやくにして考えついた。
 一、設計図書は生産・流通の指示書である原則に立ち返り、生産の方法、流通の方法を具体的に指示する図、又は書式を附する。
 二、一つ一つの住宅に対して依頼主の力量、予算、他によって、設計を出発させる前に、戦術を明快にする。それも設計図書に記録として残す。
 三、設計、流通設計、生産設計の過程を公開する(依頼主の了解を得て)。その過程を介して、依頼者が住宅設計に参与する径を開ける。
 四、究極的には自分の身のまわりは自分で作ろう、という開放系技術論の一部として成立させるが、開放度という規準を設け、段階を設ける。
 五、日本の家づくりスタンダードである事を認識する(スタッフ教育)。

 四月十九日
 昨日は気まぐれにコーヒーの自販機をスケッチしてみた。ネスカフェの、様々なタイプのインスタントコーヒーを消費者が自己選択できるタイプの型である。スケッチしていて気がついた。
 キッチュでポップなデザインだなと思い、それとその傍らに何気なく置かれていた掃除用モップの汚れ方の対比が面白いと考えたからだ。しかし、描いているうちにこれは、並々ならぬモノがあるなと考え始めた。色彩や形態(全て、グラフィカルなもの)が実に微妙にコントロールされているのである。樹木や草花を描いている時に気付く細妙さのようなモノがネスカフェの自販機の表面にはあるのだ。これはキッチュでもポップでもない。人間の眼に不快感を与えずに、ネスカフェを知らせる、実に巧妙な設計が確実にある。特に使われている色彩は殆んど絶妙であると言って良い。単純な赤、プリミティーフな青、強い黒は避けられている。全て、微妙なフィルターの如きものがかけられ、ブラッシュ・ダウンされている。コーヒーカップ(イスラム文様のようなモノが施されている)にたっぷり、注ぎ込まれたインスタントコーヒーの色彩だけが妙に生々しく、他は全て概念化されていると言ってよい。いかなる概念に基づいているかと言えば、商品よりも際立つな、脇役でいろ、つまり背景として機能せよと言う概念である。色々な色彩が使用されてはいるが、それは眼ざわりでないように消失させられている。GKチェスタートンが愛すべきブラウン神父に言わせたように、葉っぱを隠すのには森の中が一番だ、の例えである。しかも、自販機全体の表面としては、決して都市の風景の中に埋没はさせない。うるさい程にその存在を叫び立てている。ネスカフェはスイスを代表する世界企業である。すでにその企業活動には国境は失くなっている。そのインスタントコーヒーはコカコーラ、ペプシコーラ以上の世界商品である。その販売促進に投じられている資金は途方もない水準に達しているだろう。この途方もない資金が、この自販機の表面を作り出している。それは絶妙な擬態である。何を擬態しているのか。自然なのか。そうではない。日本の「水」の自販機の如くに、谷川岳や南アルプスのグラフィックだけを前に押し出してくるのではない。アレはまだまだ単純な水準である。ネスカフェの自販機は人間の身体そのモノを演技させようとしている。コンセプトは人間の身体なのだろう。食欲も身体から発動される。それ故、自販機という、まだ箱状の物体は、その表面処理によって、ある種の人間を想定したロボットとして設計されなければならない。ネスカフェの自販機の表面に施されているグラフィックデザインは人間の身体の内部を仄かに擬態させている、ロボット的デザインなのだ。世界市場を渡り歩く自働機械なのである。しかしながら、日本人程、自販機好き名民族も世界には居ないらしいから、ネスカフェも良い実験市場だと、考えているのだろう。

 四月十六日
 室内の為のスケッチ七枚描く。興が乗って面白かった。研究室からかなり多くの図面届く。見るべきものは少ない。仕方無い。自分でやるしか無い。
 イラクの反米レジスタンスにとらわれていた日本人三名が釈放された。何はともあれ人の命は何よりもかけがえのないものだから、彼等が命をとりとめた事は良かった。しかし、国際的なTVネット網により送られてくる彼等の映像は、現実の酷薄なリアリティとはかけ離れた、幼児性を帯びたものであった。TVを見ている限りでは、彼等は日本政府のネゴシエイションによって解放されたわけではなく、イスラム宗教家のテレビでの呼びかけによって救われたと言って良いものらしい。イタリア人の四人の人質のうち一人は射殺されているから、彼等の解放は運が良かったと言わねばならないものだろう。
 小泉首相はイラクに残りたいと発言した日本人の人質に関して、流石に、自覚が足りない、とTVインタビューに答えていた。公明党の幹事長は、大変な公金を使って救出したのだから、何がしかは支払ってもらわねば、の発言をしていた。いかにも日本の政治である。しかし、このケースは山岳での遭難と殆ど同じ状況のものであるから、山岳での救助活動がそうであるように、何がしか彼等に請求するのは当然であろう。勿論、解放されたからこそ言える事だが、彼等の如き典型的平和ボケ日本人を自覚させるには、巨額な請求書しかないのではあるまいか。しかし、自衛隊出兵を敢行してしまった小泉首相を支えているのが、同じようなボケ民衆なのだから、何をか言わんやなのである。イラクは戦争の最中なのである。戦争は単純なヒューマニズムが通用する場所ではない。しかし、TVは新しい権力を施行していること、はなはだしい。今度の事件も、国際的なTVネット(アルジャジーラを含めて)が存在しなければ、我々は知りもしなかったろう。情報の即時性、高速な流通性は瞬時に世論を形成する。事件や出来事の当事者達の顔の表情、仕草、そして何気ない発言が、TVカメラによって、瞬時に全世界に流通してしまう。そして、好き嫌い、好ましい、不愉快であると言う類の感情を喚起させ、集合して、世論、あるいは風評の如きものが生まれる。イラクの人質事件では、恐らくTさんという女性のTVで放映された表情、仕草が多くの人に、ささいな不快感を与えていたのではあるまいか。彼女の発言は自己責任が確立していれば、全く正しい発言(イラクにとどまり、イラクの子供達の助けになりたいという)なのだが、彼女の表情が、その発言を自己責任とは程遠いものにしてしまっていた。TVが彼女とは異なるタイプの女性をアイドルに育てあげるメカ二ズムを視たように思った。
 まだ銅版画製作のきっかけが得られない。描きたい気持ちは強いのだが、描かせる力が身体の動きにつながらない。明日に期待しよう。しかし、我ながらまわりくどい事をしている。建築の絵になるのか、そうはならないのか、それが知りたいだけなんだが。

 四月十五日
 考えては眠り、眠っては考えている。珍しく考える人である。室内、原稿書く。開放系技術について、月々のノート風に書いてみようかと思い付いた。

 四月十四日
 午前中チョムスキー読了。私が不定期に続けている「住まい塾」を「自分たちで家を考える学校」に名称変更することを思い付く。あれはアト数回現状のようにグズグズやり続けて、秋から、もう少しキチンとしたプログラムを持ったコースを併設する事にしたい。講談社のDIY本の準備研究がその土台になれば良いのだが、研究室の担当者達にそれをまず伝える必要がある。DIY本の五名に増えた担当者達は先ず何よりも自分達の中に巣喰っている浅い良識、薄べったい消費者感覚を脱ぎ捨てるトレーニングを課さなければいけない。想像力の貧困は他者への思い、つまり共同作業の芽をつんでしまう。加藤は今の状態を早々に抜けないとどうにもならない。しかも抜け出るのに一番必要なのは自由への、ほんの少しばかりの希求なのだという実に困難な事でもあるというのを危機感を持って自覚してもらいたい。今のまんまでは君はただの平板極まるお真面目で不自由な俗人であるに過ぎない。安藤も自分の感性のカチカチの不自由さを直視しないと自由にはなれない。感性が俗っぽいのではない、まさに絵に描いた如くに不自由なのだ。自己否定する覚悟を持つしかないだろう。しかももう瀬戸際だろう。西岡は二人と比較すればまだ柔らかい自分を持っているようだから、ここしばらくは今のママで良いが、次々に新しいハードルが立つから御用心。敢えて学生の年齢ではない三人の女性に感じている事を申し上げたが、これはWebで公表しても差し支えのない、ある意味では読者諸賢にも、のぞき見以上の役に立つものであろうと考えて、そうしている。丹羽君に、編集人の丹羽君にも、この際申し上げておく。君は、世に言う重度の障害者であることは言うまでもない。その君にWebの編集・実務作業一切を任せている事に僕はある種の誇りを持ってきた。それはマイノリティーに対するヒューマニティーなんて言う、持たなければいけないが、甘く俗っぽいレベルではないと明快に言えるところからだ。コンピュータのキーボードを片手でゆっくり操作できる他は、君の神経は完全に麻痺している。足腰も動きようがない。それ故に、僕は君のWeb編集に希望を託した。君の健全な頭脳はコンピューターと連絡して、我々、常人とは異なる世界を拓くのではないかと、君の友人の千村君が、我々のワークショップでかつて言明したように君の頭脳(意識)は身体と分離しているという、それこそ特権を持っている。確かにページも自分一人ではくれないから、新しい知識を得る事のスピードは困難であろう。意識と身体が分離している、という事を積極的にとらえようとしている僕の現実は、そうなってみなければ考えられぬ観念の中の思考だと、指摘されてもおかしくはない。しかし、僕は敢えて言うね。丹羽君、君はこのWebの編集において、君の才能を類いまれな状況に置かれている君の才能を生かしてはいない。我々常人とはハッキリ異なる、異人としての君を生かしていない。僕は少々、それを残念に今、思っている。君がどのようにこれからを生きてゆくのか、僕は深く考えた事はない。むしろ、その現実を避けてきた。五体満足なスタッフや院生の将来はそれぞれの個人が切り拓いてゆくべきだという、僕の考えはハッキリしている。それ故、強い個人でないと僕のところでは成長し得ないのも知り抜いている。それに迷った羊みたいな人間が時々、僕の牧場には迷い込むけれど、それはそれで仕方の無い事で、迷い続けようと、ダメになってつぶれようと、それは個々人の問題であると僕は考え、そのように処して来た。それ故、丹羽君、君の編集に対する感覚、方針、情熱その大方に対して、いささか不満を持っている事、その不満はスピードが遅いとかの、君の身体的問題に起因する事ではなく、君の頭脳(意識)に関する世界での事なのだ。もう少しWeb全体の構成を明快にかつ混沌とさせてくれないか。イメージとしてはWeb全体が新聞状になる事。住まい塾を名称変更して、充実させる事、利根町百人スクールの活動も報告して欲しい事などを新しい軸にして混入させて欲しい。三好シュタークのボスニア便りも入れて欲しい。書き手の人材も発掘して欲しい。よく見渡してみれば書き手がいるかも知れない。試してみたらどうか。ただし、サークル的にしてはダメ。絶対にダメ。野放しにしていたら若いのは皆サークル=消費者感覚的感覚の中に埋没しているのだから、それから抜け出しそうなモノだけをピックアップしてくれたまえ。それこそが編集長の役割だよ。二週間で組み直すように。アイデアが出ただろう頃連絡します。

 四月十三日
 ノーム・チョムスキーの本を読む。まだ銅版画は何を描こうというテーマを思い付く事ができない。ほとんど一日、読書とすい眠。二十一時眠りに入る。

石山は四月十三日より二週間、版画・絵画制作の為、都内某所にこもります。全ての仕事にはさしさわりがありませんが、直接の連絡は断ちます。還暦祝いと思って笑って下さい。

 四月十二日
 朝、屋上に上る。クワをふるって、生ゴミを埋める。チューリップが一輪咲き、緑が少しづつ面積を増やしている。花の名前、草木の名前がどうしても覚えられない。もう少しディテールを書けたら楽しいだろうに、残念だ。十一時研究室。明日から隠れ家に引きこもるので、二十三時迄、できる限りの打ち合わせを続ける。一つ一つの物件に関して、もっと綿密にディテールまで決め込みたいが、時間が足りない。ホセ・武田君が院入学を前にメキシコに帰ることになったので、お別れの話しをする。この青年とは面白い縁になると考えていたのだが、恐らくはもう二度と会う事はないだろう。花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ、と井伏鱒二は漢詩を、いかにも日本的な芸の中に訳してしまったが、ホセには、痛切に生きて欲しいとだけ言い残してサヨナラだ。彼がもしも建築を深く好きになるチャンスがあれば、又、会う事があるかも知れぬ。

 四月十一日 日曜日
 七時半起床。磐梯山がかすんでいて美しい。十時間ほど深い眠りを得た。ありがたい。朝食はパン。次回の天幕食は石山研で用意したい。九時撤収作業。十時過鬼沼へ。私と友岡社長は縄文遺跡近くの畦道に寝ころんで午睡。若者三名は山へ上る。十二時過眼ざめる。何とマア、自然の中では良く眠れることよ。十二時半、車に戻り、帰途へつく。途中そば屋で昼食。十八時過大学着。正門前で皆と別れ、研究室へ。昨日と今日のメモをノート。鬼沼はアジア工芸村にする予定ではあるが、その前に清秀君の人脈を使って、アジア・メディテーション・センターの構想をトライする積り。二日間浮世離れした生活をさせてもらい、心身共に・・・疲れたけれどエネルギーを注入した。時々はあっても良いな、こういう子供みたいな生活が。研究室には二名程出ていて何かやっていた。明後日から版画とスケッチの制作活動に入るので、その準備をする。二〇時前聖徳寺二代目住職来室。若干の交渉の後八十八人分の永代使用受諾証書を作成してもらい受領。二十二時修了。二十三時過世田谷村戻り。中川さん、栗畑君と共に来宅。証書をお渡しする。何はともあれ一山は越えた。一時修了。遅い夕食ならぬ深夜食をとる。

 四月十日 土曜日
 八時半友岡さん親子、石井上田世田谷村来。車で猪苗代へ。郡山インターで東北高速道を降り、ソバ屋で昼食後、十三時前鬼沼現場。前進基地位置出し。五人総掛かりで十六時頃までかかる。カマ、オノ、つるはし、スキまでくり出しての作業。ハンマーで杭を打ち、業者が整理可能な迄は出来た。十五時地元業者と積算打ち合わせ。十六時過、猪苗代湖畔の浜辺へ。天幕設営。大型テントを張りおえて、十五時前近くの共同浴場へ。十七時半より、たき火をつけて夕食。こんな事は一昨年のネパール以来だ。二十一時過、食事をおえる。近くのお百姓がくれたネギを焼いたモノが美味であった。満天の星空。二十一時半、寝袋にもぐり込んで眠りに入る。暖かく快適な睡眠。夢も見ず、何も考えず眠った。

 四月九日
 イラクで若い日本人三名人質にとられ、自衛隊撤退をテログループより要求されるとの事件起きる。戦争体験の無い我々には、何とも言えぬ。言うことが困難な事件だ。三人は危機に直面するだろう。それぞれボランティア、ジャーナリストの三名だが、戦場へわざわざ身を自ら運んだのだから、当然それなりの覚悟はあったに違いないだろうと憶測するしかない。
 九時新宿で石井、上田より白鳥会図面受け取り、その場でチェック。森川と新木場へ。木場木材組合理事長以下近隣の方々への建築説明会。トモ・コーポレーション物流センター計画の説明をする。十三時研究室。青森県白鳥会へのプレゼンテーション準備。十四時前、白鳥会会長夫妻来室。打ち合わせ。図面だけでは理解しにくいのがわかり、すぐ模型を作らせる。一時間弱で模型が作られ、なんとかOKとなる。二人の若者は良く頑張った。このスピードは気持良い。モンゴルより海日汗の父君が来室。海日汗博士号取得の礼をかねたごあいさつ。モンゴルの民族衣装一式をいただき、早速着用、記念写真。ブラジルよりアンドレイ城間君来室。研究室は益々外国人でにぎわう事になった。十六時高山夫妻来室。打ち合わせ。高山氏より氏の会社のキャラクター商品、何点かいただく。興味深し。十八時修了。その後二十二時半迄、幾つかの打ち合わせ。二十三時四〇分世田谷村に戻る。

 四月八日
 六時半起床。朝食をホテル内でとろうとしたが、電話連絡が色々とあって、朝食は抜き。八時二〇分福岡空港。昨夜の忍田氏との話で、完全電化ハウス、住宅設備のカンサイ的モデルハウスとして忍田邸を考えようという方針が合意された。換気、排気、循環空気等の為のソフトな装置のデザインは考えたい。柔らかいロボットみたいな建築。そのロボットが擬人化せず、擬建築化しているって感じかな。研究室のシステムに関しては今日、第一段階の決断をする。十時半羽田着。十二時大学。人事小委。十三時栃木の西村氏石山研ゼミ講義。十五時OB野口修来室。十八時東大。技術と歴史研究会。第三回目の今日は中川武先生の講義。エジプト、アジアの古代建築を介して、建築的構想力が如何に共同体を介して表出されるのかと言う問題を考えようとしている事、その問題意識があり得るであろう事が語られた。東大の伊藤先生より、権力と言わずにそれを共同体と敢えて呼ぶところが不思議であると、講義後持たれた会食での感想が的を射ていると思った。古代の王権的建築形式を成り立たせていたのは、権力の顕現が建築形式を使用しやすかった事ではないのか。十二時前世田谷村に戻る。今日は午後、雑誌室内の塩野君、時の忘れモノの綿貫氏が来室され、九月に私のスケッチの展覧会を開く事が決められてしまった。マ、六〇才を過ぎたのだから、イイカ。照れずにやってみるかと決めた。銅版画の銅版まで置いてゆかれた。

 四月七日
 七時半世田谷村を発つ。家内に羽田まで送ってもらい、九時十分の便で福岡へ。機内で一時間半程スケッチ。青森下田町の計画まとめる。エスキスしている時間はアッという間に過ぎるが、確かにデザインってのは思い付きの連続だな。思い付き(飛躍)の断片をなめらかに連続させてゆくのが、直観的論理というか、図形判断への気持の中の心棒みたいなものだ。手を動かしている事が脳を刺激するらしい。福岡にもう着くが、研究室の石井にすぐスケッチをFAXしなくては。上田を参加させた方がいいな。
 十二時前、福岡着。松尾建設権藤氏迎えてくれて、松尾建設社屋で東京新木場の件打合わせ。近くで昼食をとり、十四時半、忍田邸へ。十八時過迄打合わせ。石山研安藤からの資料仲々届かず、迷惑至極。彼女は中心的なスタッフとしては問題あるかなと初めて自ら建てた方針に不安を感じる。周りが皆、不安だと言う人間を支持するまでのことは無いのかも知れない。明日結論を出す。
 忍田夫人との打合わせは、それでも面白かった。十七時半、ホテル日航福岡内のスシ屋で忍田夫妻と会食。忍田さんご主人とゆっくり話すのは初めてで、良かった。と言うよりも、必然だなこの対面は。忍田氏は九州最大の建築、電気部材の問屋カンサイの社長で、色々ときたんの無い話しをさせていただいた。忍田邸設計の主題がようやく浮彫りにされた。二十三時過会食了。楽しい会食であった。ホテル・ニューオータニ福岡泊。日本の流通の複雑な問題に痛く関心を持つ私に対し、忍田氏は問屋は「工場を持たぬメーカーである」と言う考えを示された。問屋も超サブコン機能を持つ可能性があるのを知った。

 四月六日
 朝九時から十八時迄研究室で各種打合わせ。その間グリーン・アロー社小川氏、エクスナレッジ・ホーム来訪。セルフ・ビルド出版の件、他。十八時過機械学科B、各先生のロボット研究、水素エネルギー等の話しをうかがう。二〇時修了。二〇時半大学を出る。二十一時過世田谷村。遅い夕食。食後中川さん来村。研究室では無駄なミーティングと無駄ではないミーティングの落差がはっきりしてきた。建築を扱う(物質として)ことよりも、人間を扱う事の困難さよ。アントニ・ガウディとはだれか、磯崎新著、王国社、読む。磯崎さん流のガウディ神話解体の本になっている。磯崎さんだからこそ、自らが空洞化できたものへの裏腹な渇望が行間から浮かび上がっている様な読後感もあった。磯崎新とはだれか、の本だこれは。

 四月五日
 七時半起床。十時前、ミセス原稿書きおえる。すぐにFAXで編集者に送附。六〇才になったのだからチョッと我ママな原稿にした。もともと、私は人に気を使い過ぎるのが欠点だから、これは是正したい。足の痛みは、昨日よりはマシになったが、まだまだ歩ける状態ではない。今日のスケジュールはどうするかな。午前中は動くのは止そう。足は痛いが、腹だけは減るな。本当に人間の身体そのものは精神性に欠けるものなのだ。世田谷村二階から、満開の桜を眺めているのも悪くはない。来年は花見は世田谷村でやる事にしよう。これで十分である。FAXその他で研究室と交信。十一時過痛む足をひきづって車に乗り、西早稲田観音寺墓参。私のデザインした寺だが、久し振りに来てみれば、マアマアの出来だったかも知れない。昔の仕事は皆嫌いで一つも見たくないのが正直なところであるが、どうしたことであろう。観音寺は低くつぶれた様なところが良いと感じた。正面の濃い紅色の壁も悪くはない。ネパールから持ち帰った真鍮の壺を埋め込んだものに、花を生けてきた。墓参後目白大村屋でソバ、揚子江で遅い昼飯をとって、十七時半世田谷村に戻る。
 夜、研究室とやりとり。

 四月四日 日曜日
 一夜明けて、事故で打った右足が痛い。口ビルもはれている。OBに連絡して、他二名の状況を聞かせる。事故をおこした国際自動車から電話あり。今後の件で、つまり治療の件見舞いの件でうかがいたいと言う。やっぱり事故だった、のを実感する。現実と非現実とは薄皮一枚でへだたっているんだな。十一時頃、痛む足をひきづって世田谷村を出る。今日は富士山の観音堂の開山式。全国から沢山の人が集まるので、行かなくてはならない。十三時前、濃い霧の中を富士山嶺着。沢山の車と人で寺はごった返していた。こんなサイの河原みたいなところに、人が集まるのも不思議である事だ。初代聖徳寺住職に永代供養の証書の件でつめ寄り強談判。小雪降り始める中、下山する。途中中川さんの別荘マンションに寄る。十六時三〇分去る。本格的な雪になった。満開の桜と雪。十九時過武蔵野市緑町の母親のところに寄る。めっきり母も老けた。同じ事を繰り返し、繰り返しするところなど、ボケ始めかも知れない。気も弱くなった。早く世田谷村に来させなくては。二十二時世田谷村着。本当は動いてはいけない一日だったと思う。右足激痛で歩ける状態ではなくなっている。昨夜は笑っていたけれど、笑い事ではないぞコレワ。ミセス、原稿書こうと思うも書けず。困ったな。

 四月三日
 朝、河野鉄工世田谷村に。早速地下室の地上にポッカリ開いた穴をふさいでいたバラックの木造をとり壊し始める。書庫増築の準備工事。良い陽気でズーッと工事を眺めていた。楽しいね、職人達が手際良く働いているのを見ているのは。森川君達が地上に残したトイレの修繕をやっているのも見た。ハハハ、職人の動きとは全然ちがうね。職人は頭が良い。半日で取り壊し修了。現場で庭の事その他いくつかのアイデアを得る。十五時過河野君と研究室へ。三ノ輪の図面をわたす。今年は幾つかの現場を依頼する。十六時五〇分、木場の屋台船へ、私の六〇才のお祝いを研究室OB、七回生までが催してくれた。夕刻の良い時間で隅田川の桜を楽しむ。皆、大人になって、それぞれにやっているようだ。こんな時にチョッピリ先生やっててひどい目に会ってるけど、マア少しは良かったかも知れないと思う。驚いた事に寺本がバルセロナまで行って外尾悦郎の私の還暦祝いのビデオインタビューをとってくれていた。又、同じく川合健二夫人花子さんのインタビューも。これには正直、うれしかった。石山研の奴はここまでやるかと思ったね。三時間程で修了。何人かでタクシーを使い帰途、途中これも仰天、タクシーが交差点で右から入った車と衝突。私と他二名は救急車で深川の病院に運び込まれ、レントゲン、その他というアクシデントに見舞われた。大した事故だった様で二台の車がクラッシュして相手方の車は銀行かなんかのビルの一階を大破させて、つぶれていた。死亡事故でなければ良いが、こちらはアレヨ、アレヨの間に救急車で何も解らず。病院をおえて指示に従って深川警察へ。ノロマな対応にいらつき、遂々声をはり上げてしまった。事故調査書を取られ他二名、心配してついてきたOB達総勢六名で警察の二階にたむろす。柳本君のコブの大きさが心配だが、私の足の方は時間が経ってから痛み始めた。助手席に乗ったんだから当然私のダメージが大きい筈なのだが、良くわからん。ともあれ私の六〇代はこのような形で幕を開けたのだった。良かったと思う。OB達も深夜再び青山のアルクールに集まりしんみりとしたのだが、まことに石山研らしい祝還暦の会であったと言うのが、皆の印象だったようだ。後続車の連中の方が驚いていたのがわかった。眼の前で石山の乗った車がクラッシュしたんだから。事故車の中から私がピョッコリ出てきた時は又、驚いたらしい。事故を起こしたタクシーの運転手も警察で会ったが青い顔はしていたが、何か夢心地のようであった。タクシー運転手が一番ダメージがなかったな。しかし、事故というものは、そんなものらしい事がわかった。OB達が世田谷村、研究室双方に事故に遭遇したけれど平気だから心配しない様に連絡したので、大騒ぎにはならぬようにしたつもり。だが、どうなる事か。マ、これが私の六〇代の始まりであった。一時過、世田谷村帰還。

 四月二日
 十時前研究室。十時半住宅ミィーティング。長引いて十五時迄。スタッフ、院生をあの手この手で励ましながら、生き生きとさせようとしてるんだが、これが仲々通じない。十六時東京ガスオゾン。島崎日本フィンランドデザイン協会理事長と会う。フィンランドに計画するパビリオンの件。十七時前修了。空腹で倒れそうになりながら、五反田へ。朝、昼食べてないんだ。十八時トモコーポレーション。友岡社長打合せ。新木場モバイル倉庫、煮つまってきた。打合せを重ねる毎に良い案になってきている。一人で考えているよりも社長と対話しながら作っているスタイルが我ながら面白い。ライブで設計してるって感じかな。二十一時修了。友岡清秀君と三人で食事。猪苗代湖の計画等を話し合う。メディテーションセンターの話しは面白い。前に進むような気がするな、この話しは。四月十日は猪苗代にテント泊まりで行こう、という事になった。二十三時食事をおえて別れる。世田谷村戻り二十四時。

 四月一日
 七時世田谷村発。中央高速を走り富士嶺の現場へ。八時半現場着。沢山の工事車輌クレーン、職人さんで活気を呈している。ようやくにして七割方建築はでき上がりつつある。良い仕上がり具合で気持ちも和む。ここ数年の建築では一番納得のゆくモノになるだろう。墓場の方も湿り気のない明るい感じで出来上がりそうだ。八十八基のステンレスの墓が林立する様は現実離れしていて仲々良い。中川さん等と現場で会う。気に入ってくれている様だ。富士山を建築の内外にとり込んだのが成功した。これなら二川幸夫に見せても良いだろう。これに文句つけるようだったらオヤジも眼が無いね絶対。十二時過現場を去る。十五時半講談社園部さん来室。家いじりの本の件。研究室の女性たちでまとめさせるつもりだが出来るかな。本を作るのが結構大変なのを知るのも良いだろう。明日の住宅ミィーティングの中心の話題にする予定。十八時北園君来室。皆が私の誕生日を祝ってくれた。照れるところが私もまだ若い。今日は富士山の現場が何とかなりそうで、それが何よりの救いになった。建築一つの出来不出来で喜んだり、悔やんだり。変な事を続けてるって自覚はあるが止めようがない。

2004 年3月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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