石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年6月の世田谷村日記
 五月三十一日
 朝七時過起床。今年は風が強く吹く日が例年になく多い。何か変だな天候が。天災が再び襲来しなければ良いが。九時一階屋外で世田谷村ゼミ。各メンバーの報告を聞く。今日はヘンリー・デ―ビット・ソローの森の生活が中心となった。十二時前まで。西岡さん世田谷村見学。ゼミの聴講について可否を問われたが、このゼミはある目的とハードルを持っているので、残念ながらそれは出来ないと答えた。意地悪で言っているのではない。狭い門だって世の中にはある。十二時四〇分世田谷発。十三時過京王稲田堤星の子愛児園増築現場。十三時半竣工調査。M0五名事務所引越しの手伝いさせる。上九一色村聖徳寺観音堂に続き今年二件目の物が出来た。夜銅版画製作。銅版も建築も二、三回作るのは容易だが、連続して作り続けるのは仲々難しい。面白く思えなければ続けられないから。何だか意地になってしまい二点仕上げた。

 五月三〇日 日曜日
 十三時半素人家づくりワークショップ。二〇名程の参加。聖徳寺観音堂ができたので、上九一色村のオウム真理教事件のサティアンについて言及することができるようになった。一九九五年の二つの事件について話す。このワークショップも方向性を皆に示す頃合いになった。塩野君から新しい大きな銅板を渡される。この大きさを彫るのは別の鉄筆も必要になるな。

 五月二十九日
 一時、何故か眠れず、起き出して世田谷村 II 期工事のディテール、スケッチ。三ノ輪の物件のアイデア練る。新木場プロジェクトのコストダウンの方法少し計り思い浮かぶ。朝は八時過に河野鉄骨工業が世田谷村の現場に来るので、その前に地下天井のコルゲートをカットするラインを入れておかねばならない。だから早く眠っておかねばならないのだが、何故か頭が色々と考え始めて駄目だ。
 開放系技術が眼に視える形で目指そうとするのは先ずルーズさ、それによって引き起こされる美学的まとまりの意図的放棄などによって引き起こされる非商品性への逸脱である。テクノロジーはすでに国家の枠を超えて資本主義化されている。つまり疑似共同体の幻想を超えている。その現実を更に超えようと欲するならば、テクノロジーを徹底的に個人化、固有化するしかない。個人の想像力(デザイン)の自由さえすでに幻想であろう。個人の主体性の砦としての想像力さえも資本主義化=商品化されていると考えなくてはならない。それを認めた上での人間の自由を考えるならば、それは個人に内在したテクノロジーを仮想するしかない。レヴィ=ストロースのブリコラージュの概念を民俗学的世界から資本主義的現実の只中に引き出して赤裸々に対置してみる必然がある。破壊しながら、同時に再構築してみせる方法を探る必要がる。モダニズムのデザインは必然的に完成され尽した商品性のニヒリズムへと突き進むしかない。そういう自動律の中に在る。
 民俗学的退行の中のイコンにその方法を視るのではなく、(神はやはり死んでいるのだから)宇宙船という徹底した資本主義的商品の無目的な限界を見なくてはならない。宇宙船は資本主義のイコンだから。それだから、アポロ十三号の故障と、その資本主義的欠陥の克服による宇宙飛行士たちの帰還の物語りの現実の中に一つの別体系のイコンを視る可能性がある。あの帰還の物語り、宇宙飛行士達の情報世界の(地球と宇宙船との)中のブリコラージュ的営為、巨大な資本主義的装置(宇宙船)の故障の克服の歴史的切断面とでも呼ぶべき事件の物語りの中にイコンを視る正当性があるのだ。
 六時四〇分起床。下の現場へ。コルゲートに深夜考えたカットラインを描く。随分考えた筈なのに現場で現物に触れ、又、未完状態の裸の物体の中に居ると、思い描いていたラインは修正され、残ったのは考えの原型だけだった。曲面に対応しようとすると頭脳がその三次元の複雑なからみについていけぬ。八時過までかかって5M程の一本のジグザグなカットラインをコルゲートシートに描き込む。終りかかる頃に丁度河野鉄工所の社長と職人さん現場に現われた。社長といっても自分で技術を持つ職人さんであるから営業だけのセールスマンではない。営業はモノや労働を商品として扱う専門家でもあるから。
 北朝鮮拉致問題に関して、我々は軽々しく意見や感想を述べるべきではない。彼等が対面している現実も又、我々の想像力を超えているからだ。オウム真理教事件に対面してしまった人々の闘を共有できないのと同じ事である。
 十時二〇分新宿駅よりバス。多分ホームレスの人なんだろう、ブリキのバケツに沢山の花ビラとそして驚いた事に金魚を泳がせているのを、無雑作にバス・ステーションのシェルターの陽陰に置いてあった。開放系芸術だな。私の母親もそんな事が好きな人であるのを思い起したりした。

 五月二十八日
 私の世田谷村の特徴は先ず何よりも物質が物質として裸形に表わされているのが特徴だな。往時のブルータリズム程余計に荒々しくはなく。そのマンマの姿である。本当は昔の民家と同じたたずまいなんだけれど、それではインダストリアル・ヴァナキュラーという二〇世紀後半の概念だろうと言われかねない。ここで言う裸形の物質性というのは情報に対する主体的即応性も包含しており、その点が開放系技術論の要である。
 上九一色村富士嶺聖徳寺観音堂と墓地はオウム真理教事件、特に信者たちのサティアン建築が提示した現代建築への暴力的否定(深く今の日本全体にある)へのささやかな、私の批判作業である。数日をかけて事件後の全てのサティアンをリサーチした際のえも言えぬ建築作家としての無力感を忘れる事はできない。一九九五年からすでに十年弱の年月が経ってしまった。建築物は愚鈍な物質の固まりである。文字や映像と異なるリアリティを持たざるを得ない。その愚鈍さが(私の非力もあった)事件後十年を経てサティアン批判としての小建築を遅ればせながら建てさせた。これは遅刻の建築である。しかし、人々はもうオウム真理教事件をわすれているように思えてならない。建築は愚鈍な物質の固まりであるが故に、表現するのに手間ヒマがかかる。それ故にこそ、又、消えにくい。この小建築はオウム真理教事件の備忘録でもある。同時にいささかの死者達への鎮魂歌でもありたい。

 昼、研究室。雑事を数件片付ける。富士山の現場より連絡あり、二川幸夫氏今日聖徳寺観音堂の撮影に入っているようだ。あいにく富士山が姿を見せておらず、再び撮るらしい。十四時カンボジアの渋井修氏来室。ひろしまハウスの件。石山修武画文集のちらし上る。李祖原が第一号の購買者となる。十六時過石山研OB野口修博士論文の件で来室。志を忘れずにいるようで良かった。十七時講談社園部氏来室。DIY本の件。十八時松尾建設権藤氏、東京支店長来室。二〇時過研究室退。

 五月二十七日
 七時起床。昨夜は十八時より磯崎さん李祖原とアトリエ近くのレストランで会食。完全なベジタリアンである李の為メニューが用意された。実にうまかった。年に何回も会う機会はないが相変わらず刺激的で広範な考えを聞くことができた。磯崎新論を磯崎さんだったらどう書くかと問うたら福田和也の安土桃山文化に関しての竹生島紀行エッセイを渡された。最近の磯さんの旅の道連れは、浅田彰に加えて福田和也が登場することが多い。建築界で話し相手になる人間は居ないのだろう。七〇代半ばにさしかかり、まだ知的に進化し続けているのは本当に驚く。私も余程しっかり精進しないと磯崎さんの背中さえ視えなくなってしまいそうだ。ハッキリと別の道を歩き始めてはいるのだが、磯崎さんと話していると勉強不足を痛感してしまう。これ程相対化思考の力を持ち合わせながら創作者のディオニソス的カオスも又あわせ持つ人は日本文化史上、稀なのではないか。ハッキリと別の道を歩かなくてはならない。
 午後星の子愛児園増築現場。十四時担当者急病の為、いくつかの物件の構造打合わせの為梅沢良三先生の成城のオフィスへ。梅沢さんのオフィスは私には少しまとまり過ぎてキレイ過ぎる建築だ。もう少し構造が、赤裸々な物質性が露出していても良かったのではないか。十六時半頃修了。打合わせも全てみるのは大変だけれど一人で全部みるのもいいんじゃない。倒れるかも知れないけど、そえはそれで仕方ないだろう。  夜、何となく、佐藤健の生きる者の記録を読み直す。健は本当に良く闘ったと思う。やっぱり自分をどうしても表記したかったのだ。新聞記者として良い形で残ったと思う。よくやった。

 五月二十六日
 七時起床。世田谷村八時四〇分発つ。十時調布現場地鎮祭。安藤、渡辺、祭事出席。愛想の良い神主さんで「一尽の風と共に、ハイお神酒」だって。不動産屋の若者も出席したので、賃貸しアパート部の平面見てもらう。女性を主客に考えたいと言うことで、彼の意見をとり入れてアパート部北側玄関案でゆくことにする。若いのにしっかりした意見を言う人間がまだいるんだ。デザイナーズマンションは人気があるけど意外と住みづらくて早く出ていってしまう人が多いらしい。こういうのを現場の声って言うんだな。馬場さんのアパートは厳しい予算だが、なんとか借り手殺到になるようにしてあげよう。十二時頃新宿、昼食は地下街のそば屋でせいろ。食事後少し時間が空いたのでコーヒーショップ・ユーロカフェで休み、メモを付ける。次の銅版をどう彫るか思案したりする。十三時四〇分森川、加藤と五反田待ち合わせ、TOCトモコーポレーション、新木場倉庫打ち合わせ。社長の中国での交渉の結果を聞くのが楽しみだが、このプロジェクトも金との闘いだな。銅版画製作の世界とはかけ離れた世界だが、よくよく考えてみれば私の銅版画だって売れなかったらこの径は閉ざされてしまうのだから、同じことか。自分の銅版画のセールス用名刺を持ち歩くかな。私は押し売りは出来るんだが自然に和やかに売るのは下手だ、明らかに、商売人ではないのだろう、やっぱり。十四時から十六時過まで新木場プロジェクト打合わせ。友岡社長より上海のコンテナ工場の話しを聞く。電力不足でコンテナ製造工場は夜だけしか稼働していないそうだ。新木場にメイドIN CHINAを作るこの計画は日本の建設業の流通の保守性というより守旧的体質に刺激を与える、そういう価値がある筈だ。十七時新宿のプラットホームで一〇分程の打合わせをして大江戸線で六本木へ。十七時三〇分礒崎アトリエ近くのコーヒーショップで休む。新木場プロジェクトの名前をモヴァイル・フロム・チャイナIN TOKYOとすることに決める。コンテナの可能性を突きつめてみる。今夜は李祖原と磯崎さんに会うが、磯崎さんに聞いてみたい事がいくつかあるので楽しみである。

 五月二十五日
 九時星の子愛児園現場、左官仕上げ指示。十時半まで。今日は晴れて左官の塗り壁の乾きが早い。デリケートな仕上げは曇りの日の方が良いのかも知れない。昨日は近藤理事長も現場に来て左官の仕事を楽しまれた。今は左官の仕事を眼の当りにするのも本当に珍しくなった。塗り壁特有の品格をわかる人が少なくなったのだ。星の子愛児園は増築して、やっと私らしいモノになってくれた。子供たちも喜んでくれるやも知れぬ。良質な左官の仕上げは時間と共に変化するのが良い。人間の皮フと同じように。新建材、工業化製品にはそれが無い。工業化製品、鉄、アルミ、ガラスとの組み合せをもっと本格的に考えたい。十二時研究室。午後、銅版画刷り上がってきた。プリンターが上手だったのだろう。予想をこえてうまく刷り上がった。ときの忘れものギャラリーの秋の展覧会に向けてゆっくりと準備をすすめているが、銅版はもう少しやってみたい。室内、塩野君の尽力でちらしも出来たのでオリジナル版画の入った本も自分で売らなくては。予約価格三一、五〇〇円との事。知り合い諸氏は御用心、私と会わないようにせぬと売りつけられますよ。十八時星の子愛児園にて高山夫妻と会い、高山邸住宅に使用する素材を説明する。岡邸も見たいと言う。

 五月二十四日
 午前中三回目の世田谷村開放系技術ゼミ。午後星の子愛児園増築現場。森田左官の仕上げを指示。硝炎の黒を色々と試してみた。これは使える。結局午後の研究室での打合わせを全てキャンセルして、十八時迄現場にはりついてしまった。左官の仕事で特別な事をやろうとすると現場に立ち会わねば駄目だ。職人さんの力を引き出すことができる。人間の手は実に複雑な表情をつくりだす。十九時前調布馬場さん宅打合わせ。設計変更の説明その他。深夜帰宅。これは値段がギリギリの設計になるな。

 五月二十三日 日曜日
 七時過起床。八時デービッド来る。富士嶺の現場へ。十時過着。研究室の連中が何人か最後の仕上げにいそしんでいた。いくつかの修正を指示する。まだまだ現場を任せ切れないのは辛いものだが、これが建築なのだろう。仕方ない。十二時現場を去る。昼食、ほうとうを喰べ、十六時前、国分寺岡邸へ。岡夫妻に久し振りにお目にかかり、あいさつ。三十数年前に建てた吉祥寺のアパートを取り壊す事になったので、その段取りの報告。国分寺でデービッドと別れ十七時過世田谷村に帰る。何だかあっという間にせわしない生活に戻ってしまったな。屋上菜園に上りいささかの苗を植えた。毒だみを抜いたので手にそのに匂いがしみ込んでいる。

 五月二十二日
 六時起床。屋上菜園に生ゴミ埋める。今年はトマトが育ちそうだ。カラス対策を考えなければ。萩が見事に咲き乱れた。真紅のスイートピイも咲いた。
 八時過新宿西口のコーヒーショップでコーヒー一杯の休息。世田谷村の二期工事の区切りを決めて何人かのスタッフを早く大学から移動させなくては。十時取手にて佐藤さんに会う。十時半柳田国男記念館。文間小学校生徒の語りを聞く。加納さん宅で昼食をいただき、十三時半文間小学校。利根町百人スクール開催。十七時コーヒーショップで利根町のご婦人方とおしゃべりをして東京に戻る。研究室の三好シュタークは少々日本のおばさん達のリアルパワーにカルチャーショックを受けたようで良かったのではないか。十七時過研究室に戻る。二十二時半まで打合わせ。二十四時世田谷村に戻る。田中純氏より「死者たちの都市へ」送附されて読み始める。同様なテーマを考えていたので興味深い。

 五月二十一日
 十一時生活学会真島副会長来室。李祖原と雑談。十三時半伊藤さん来室。

 十七時小田急線町田南テニスクラブで古木さん、近藤さん等と森の学校定例第一回打合わせ。十九時過迄。デービッド、野村同席。八月末着工の日程となる。森の中の良いロケーションに建てる建築である。建てる事を楽しみたい。二十一時頃世田谷村に戻る。

 五月二〇日
 十時半五反田、ミネルバ宮本茂紀氏と椅子の件で打合わせ。十三時過トモコーポレーション友岡社長。研究室に戻り二十三時迄打合わせ。李祖原東京に来る。

 五月十九日
 世田谷村開放系技術ゼミの一項目にアウトドア・スポーツ用技術と軍隊の野戦用装置の歴史を一つ入れてみよう。

 九州忍田邸打合わせの為松下電工へ。オール電化ハウス実現の為松下側の担当者を紹介される。午後配島工業社長。演習G。北海道十勝後藤氏来室。夜忍田さんと打合わせ。

 五月十八日
 世田谷村 II 期工事、階段二つ入る。屋上部ウイング取付け。

 五月十七日
 九時第二回世田谷村ゼミ。六名の参加。開放系技術を中心としたゼミである。六ヶ月を一ユニットとする予定。それぞれからそれぞれの関心の持ち方を主にした報告を聞き、それに対してコメントする形式を今のところはとっている。開放系技術という主題が大き過ぎるので、先ずは各個人の主体性を大事にしようと考えているので、それぞれの関心を育てるという段階である。アポロ十三号の故障の問題でも、まだ彼等には抽象的過ぎるのが判明した。少しプログラムを組み直しする。十三時星の子愛児園増築現場八大建設西山社長と打合わせ。馬場邸現場、高山邸現場を見てもらう。

 五月十六日
 友岡君と十時新大久保待ち合わせ。天王台真栄寺。映画監督松林宗恵氏、俳優佐藤充氏と会う。馬場照道住職相変らず元気そうで良かった。真栄寺は発展の一途を辿っているな。大きい坊主になりそうだ照道さんは。二〇時過世田谷村戻り。室内原稿書く。十七日一時半終了。室内FAX送付。又、長井を心配させたな。

 五月十五日
 朝三〇分程銅版に取り組む。一気にやってしまおうとする気持を押さえるのに苦労する。ひろしまハウスのレンガ積みと同じだ。建築のエスキスを銅に彫りつけているのではないかと薄々気付いている。二つの距離が遠ければ遠い程良い。

 五月十四日
 六時半起床。やりたい事は山程あるのに、まだまだ成果は微々たるものだ。七〇才までに何とかしたい。高い山に登らなくては、深い海に潜らなくては。昨夜は日課として決めていた銅版画の一彫りもできなかった。と、いうわけで八時過ぎまで新しく二点の銅版画に手をつける。銅は線を彫り込もうとする時に反撥して、自由な線を描かせてくれない。クニャッと曲がったり、グリッとずれたり、させられてしまう。その偶然の力学関係の連続を丹念に使いつづけてゆくところが建築設計と酷似している。面白い。自由に描くつもりが、自由に出来ない。そのズレがポイントだな。銅と身体で遊ぶという感じだ。

 五月十三日
 七時過起床。昨日の午後は研究室で二二時三〇分迄打合わせの連続。晩飯を喰べそこねた。夜半にProductで一つ提案がペイヤオからあり、仲々良いモノであった。ウェブサイトに公開したい。
 階下の現場で独人の時間を過ごし、九時前世田谷村を発つ。

 九時半研究室。十時大学院推薦入学面接。十一時過新木場倉庫設計のチーム編成。十二時デービッド森の学校打合わせ。十五時中央林間にて古木氏等と森の学校打合わせ。その場で野村を役所とのコーディネーション、その他事務的な仕事、そして現場も見させる事を決定する。コンバージョン、および再生プロジェクトだけに使い方を限定する積りであったが、そう論理的に割り切れるものではない。ここらでひと働きしてもらおう。私の高望みのクセは骨身にしみて知っているだろう。私をアシストしてくれる人間の気持のグレードは大事だ。世間知らずの馬鹿に任せるわけにもいかないし、かと言って世間ズレしたセンスの悪い者に割り振るわけにもいかない。クライアントとの打合わせを終えデービッドと渋谷で別れて、世田谷村に戻る。デービッドの構成力との組み合わせは上手くゆくかも知れない。あとは、プロダクツの担当者を固定して、今年の前半は乗り切る。

 五月十二日
 七時起床。九時前銅版画一点彫り終わる。何を彫り込んでいるのか自分でも解らないが、このスタイルをしばらく続けてみる。一時間でもカリコリやっていると何も考えなくなるのが利点だね。ある種の薬だな。午後は研究室に出て幾つかの打合わせをこなすが、その打合わせによって作られる実物の建築の質と、遊びで彫っている銅版の表現の質を比較したら、どうなのか良くわからない。

 五月十一日
 七時過起床。屋上に生ゴミを埋める。雨の日の後の屋上は緑がみずみずしくて気持が良い。まいた種、名前はもう忘れたが、芽をいくつか出していて嬉しい。人間と違って植物は手入れをすれば必ず芽を出すから、より因果応報的物質である。
 銅版の面白いところは、色々考えながら彫り始めて、しかし、これはうまくゆきそうにない事が解ってしまう。しかし、あきらめずに闇雲にカリカリ彫り込んでゆくのを止めないでいると、何とか径が開けてくるところがあるところだ。失敗だと思ってからが勝負なんだな。しかし、そのカリカリ、ゴリゴリの止めどころが実に難しい。彫らぬ余白に物言はせる妙味があるのだろう。
 十時京王稲田堤星の子愛児園増築現場。群馬の森田さん親子と会って、左官仕上げの相談。世田谷村に寄ってもらい仕上げの打合わせ。世田谷村では一切これまで左官の手を入れていなかった。森田のオヤジさんもそれを気にしていつ、左官を呼ぶのかと気にしてくれていたようで、五年振りに自宅に寄ってもらって相談した。絵に描いたような義理と人情編で我ながら笑ったが、それはそれなりに筋は通っているのだ。森田親子にそうめんの昼食を喰べていただき、その後大学へ。若干の打合わせ。十六時目白GKへ。栄久庵さん等と日本フィンランド・デザイン協会打合わせ。フィンランドの小パビリオンプロジェクトには鈴木博之さんに登場していただこう。十八時研究室戻り。日建シビル橋本氏来室。高田馬場文流で会食。色々と話し込む。二十一時過世田谷村に戻る。
 今日は本当に久し振りに栄久庵さんのところで、ワインをグラス一杯いただき、橋本氏とも赤ワイン一本あけた。自然に、飲みたい時に飲む酒はうまいものだ。

 五月十日
 昨日は終日世田谷村にこもって休み。何本かのビデオを観る。新しく銅板をホンの少しばかり彫った。
 六時四十分起床。今朝はM0が世田谷に来るので進行中の現場でゼミナールの一回目を始める。今日出来ぬ事は、来年も出来ない、常々学生に言ってる事を私が先ずやり始めよう。八時前初回の世田谷村ゼミ始める。今日はどのように進めるのか説明と学ぶ人間達の意志の確認。毎週月曜日のAM 9 時〜 12 時。場所は世田谷村現場。テーマは「開放系デザインの可能性について。」初回は昨年に続けて、「アポロ 13 号の故障」について。五名のメンバーにそれぞれ (1) ロケット及び宇宙船の歴史、 (2) 兵器を含めた巨大ハイテクの世界、 (3) 宇宙船のデザイン、 (4) ハイテクの故障、 (5) アポロ 13 号事件とメディア(社会的関心)について研究させるつもりである。同時に世田谷村 II 期、 III 期のデザインを進行させる。現場=現在進行形の中で、実物に触れながら設計をさせる。十時半終了。このスタジオは世界最強のスタジオにするぞ。スタディ・ハードなのだ。

 十六時研究室雑用、アンドレイ・城間、アベル等との相談。住宅打合わせ。古市徹雄君より突然電話あり、今日が彼の処女著書の出版パーティなので出てくれとのこと。古市君らしい押しの強さに負けて十八時過六本木の国際文化会館へ。短いスピーチをして、すぐ引き上げる。久し振りだな、こういう設計業界の集まりに顔を出したのは。帰りは六本木地下鉄大江戸線駅まで歩いた。磯崎事務所に近いので、磯崎さんの顔を見たくなったけれど、居るか居ないかわからないのでやっぱり止めてしまった。二十一時頃世田谷村に戻る。古市君には悪いけれど、私は設計業界との附合いはとっくに足を洗っているのだ。面白くネェよ設計屋達の集まりは。
 夜、銅版を彫るが、あんまり進まず。

 五月八日
 七時過起床。八時前下の現場へ。M0黒田打合わせ。八時より現場作業。書庫兼私の仕事場の裸形の床が出来上る。一〇〇ミリのデッキプレートの床工事は速かった。仕上げをしない鉄はまことに良い。ここ数日の現場暮しで鉄の感触を体に再びしみ込ませた。十四時五反田トモコーポレーション、友岡社長と打合わせ。十七時修了。十八時研究室。住宅打合わせ。担当者のプレゼンテーションを受けているうちに、自然に情けなくなって、思わず長口舌をふるってしまう。生え出る芽の無い者に何を言っても無駄なのは解ってはいるのだが、言わざるを得ない。言わなければ教師やっている意味もない。徒労だろうが、やるだけの事はやっておく。反応の無い奴をかまっている無駄はしたくないのだが。皆、努力の桁が違うんだな。情熱の絶対量が小さ過ぎるのだ。

 五月七日
 七時過起床。七時半河野鉄工現場入り。現場で職人さん達の仕事を眺めながら、アレコレと考えたりボーッとしていたりの至福の時間を過す。十七時過デービット、柴原両名打合わせで来村。一階ピロティ部で十勝プロジェクト、森の学校の打合わせ。何はともあれ、大学に居るよりはズーッと気持が良い。鉄材で幾つかの実験的試みをしているのだが、こういう勉強の仕方は久しぶりだ。三〇年位も昔に、鉄まみれになっていた頃の鉄の現場の匂いと、今の現場のにおいは大分異なっているのを実感している。鉄を加工する道具が変わったのか、鉄そのものの素材が変化したのか、両方なんだろう。線材ではない、面材としての鉄、あるいは複雑な線の組み合わせとしての鉄材の可能性はまだまだ未知なものがあると思われる。二十一時調布、聖徳寺床の色合いについて打ち合わせに出掛けた。

 五月六日
 七時前起床。今日も肌寒い日が続いている。八時前河野鉄工世田谷村現場へ入る。少し難しいところがあるので指示。昼過ぎまで職人さんの仕事を見る。現場で赤裸々な材料に触れていると色んなアイデアが生まれるのが嬉しい。十四時前研究室。大室山の計画で伊藤さん来室打合わせ。十五時過修了。住宅のプロジェクトを全て個別に打合わせ。十九時聖徳時現場の打合わせ。二〇時過さぬきうどんの夕食。二十二時半までM0と打合わせ。世田谷村 II 期工事に関して。今年のM0は聴く耳を持っているので教えていても手応えがある。二十三時半世田谷村に戻る。現場がだいぶん進んでいて、暗い中のぞいてみた。〇時半迄、現場の暗闇の中を徘徊して、心身共に元気を取り戻す。作っている最中、途次の状態というのは設計者にとっては異常な作用をもたらすものだ。南面の開口部のデザインは鉄を痛め抜いて、力強く動きに満ちたものにしてみよう。

 五月五日
 小雨。今日迄休みか。明日は又、世田谷村の現場が始まる。階段、何処まで出来てくるか楽しみである。今日は午後ワールドフォトプレスの小川氏との打合わせがある。Memoの小特集はもうチョッとフォーカスを絞らないといけない。十一時頃に、ホンノリとした陽光が指してきた。下の庭を犬のように歩きまわり、現場をアレコレと眺める。鉄材や材木が散乱するのをボーッとただただ眺めているのが何か救いだネ。ここ数日、乱読を続けているが、書物に沈潜する度に、あらゆる事はすでに成されているという絶望に落ち込むばかりだ。
 十三時研究室。休みの日の大学は誰も居ないのが良い。グリーン・アロー小川さんと小特集の打合わせ。インタビュー。十六時前修了。家づくり教室の場所を世田谷村に移したいのだが、世田谷村にはエレベーターがないので、足の不自由な人の事を考えると、色々とむずかしいな。でも大学という場所には、あの教室は合っていないのは歴然としている。院生が三名程来ていたのでお茶を飲みながら、今年のゼミのテーマは何にしようか等の話をしばらくした。十七時半研究室を去る。十八時半世田谷村着。一人で夕食を宗柳で食べる。一人で憮然としている私を見て宗柳のお母さんが珍説奇説辞典とやらの部厚い本を、こんなのどうですかとすすめてくれた。何故、こんな本をすすめるんだろうとフト妙な気分になったが、すすめられるままにページを繰ってみるとそれなりに面白いのであった。本が面白いのか、宗柳のお母さんが私にこんな本をすすめたのが面白いのかが、よく解らぬままに、バッテラ寿司とあたたかいカケソバの定食をいただき、それなりに満足して帰った。何となく、内田百ケンの本を拾い読みしているので、書き方がすぐに百鬼園先生になっているのが我ながらおかしい。全く私は俗人極まるな。

 五月四日
 六時前起床。誰の所有物か知らぬが家にあった何気なく読み始めた「異貌の中世」蔵持不三也、読んでいるが、これが意外に面白く、読み続けている。キリスト教とモダ二ズムデザインの関係を知りたいと考えているのだが、ヨーロッパの中世民衆の宗教観の中に、キリスト者を笑う、愚者として眺める視点があるのが書かれている。モダ二ズム・デザインの世界に笑い(道化的)の要素が無い事に気付いてはいるのだが、それからの展開の方法が見つけられないでいる。アイロニーの方向でなく、笑いの方向があったのではないか。午前中「滑稽な巨人」津野海太郎平凡社読む。逍遥は「天地間一大戯場」という言葉が好きだったようだ。今、室内の私の連載のタイトルが、そのままのものなのだが、巡り巡って坪内逍遥論になるのか、仰天した。熱海の双柿舎の会津八一の額の字の由縁や、そのデザインについて、もう一度双柿舎には行ってみたい。津野の結論らしきは、坪内逍遥に限界芸術の先駆け性を視るという事である。森鴎外等の正統モダ二ストには無い、今のところ変なとしか呼びようのない独自性(世界的な展望の中での)を視ている点である。シェイクスピアも教育も家庭も皆小運動だったんだ。
 今日は一日中強い風が吹き荒れて、三階の寝室の屋根の一部のゴム膜が吹き飛ばされた。修理しなくては。

 五月三日
 七時半起床。小雨模様の朝である。今日は下の庭に小さな畑を作ろうと考えていたのに、残念。朝食後土いじりで過す。屋上に上ったり下の庭に降りたり。ズーッとやりたいなと思っていた事をやってみた。雨も降らないようなので、植木屋に出掛けて、トマトの苗、その他買い込んで屋上に植えた。下の庭にも花を植えたり、タロイモの鉢を変えたり、鉄の柱にジャスミンをからみつかせようとあんばいしたり、我ながら夢中に土いじりを続けた。午後遅く、流石に疲れてフラフラになって止めた。こんな事していていいんだろうかと不安になるところが私の貧乏グセの限界だ。しかし、草花や野菜づくりに何故一生懸命になるのであろうか。出会ったばかりの頃の川合健二は確か、五十八才で花子夫人とミカン畑や野菜作りにいそしんでいたのを思い出す。野菜や土をいじっていると突然良いアイデアが浮かぶのだと言っていた。私にはそんな事は訪れてこないが、普段アブストラクトなことばかり考えているから、それで具象物に触れたい欲求が生まれるのだろうか。世田谷村という鉄の架構体を植物で覆い尽くしたいという願望があるのだろうか。小さな小屋を屋上や三階のテラスに幾つか置いてみると、考えている事がハッキリ表現できるかも知れない。

 五月二日 日曜日
 七時前起床。高山建築学校の事が本になるようで、その最終のゲラが送られてきたのを読み返した。三〇年昔のあの建築学校の懐しさは格別のものであるが、まだ昔を振り返るべき年ではない。しかし、読んでいるうちに懐旧の念が溢れ返るばかりになった。危い、危い。高山学校の教師陣で生き残っているのは、木田元先生、鈴木博之先生そして、私だけになってしまった。アトは皆、居なくなった。心して、前へ進もう。  十時半まで現場の内外を見て廻る。近所の方が、又何が始まるのかと関心を持って、道端で話しかけてくる。見て廻ると言う程大きくない現場なんだが、上下、水平に移動して、アレコレ考えているとアッという間に時間が経つ。今日から謂わゆる連休だな。
 十二時半研究室。十三時、第四回目の家づくりスクール。二〇名程の参加者であった。千村君のスケッチが面白く、成長していた。住宅(家)設計は誰にでも出来るという事を、実践的に立証するスクールであるが、どう展開するのか自分でもおぼつかぬところがある。室内、塩野君に銅版画わたす。新しい銅板を渡された。 十五時三〇分九州忍田さん来室。十九時過迄打ち合わせ。修了後、高田馬場文流にて会食。二十一時過まで。二十二時世田谷村に戻る。
 住宅設計は誰にでも出来るという開放系的理想と、誰にでも出来るという水準の問題の設定の必然がある事は別種の問題設定なんだが、この水準の問題が実に様々な、趣味の水準、つまり人間の品格の問題まで含んでしまうんだな。

 五月一日
 五時二〇分起床。チョッと変なアイデアが浮かんできたのでスケッチに残しておこう。世田谷村の地下のエクステンションを考えていたら、そのアイデアが独人歩きして別の方向に進展しそうだ。こんな建築できたら面白いのにナァ。
 屋上菜園に生ゴミを埋め、雑草抜きをしばし。八時前河野鉄工来村。すぐに工事始める。現場で階段のデザインする。今、工場にあるという材料を使って大方のことを決めた。連休中は工事が出来ないので、工場で階段を作ると言っている。十一時頃研究室。十二時Tさん夫妻来室。明るいなこの夫婦は。面白いモノを作って差し上げよう。演習Gを見て、世田谷村の現場へ。壁が少しずつ出来上っている。石井、上田を連れてきたので、現場の床にチョークで原寸図を描かせて鉄というモノ自体を教える。まだ少し早いかとも思ったが鉄は熱いうちにたたけというのがあるからね。物質の性向を身体で理解しなければ、設計していても面白くないだろうと思うからだ。この現場で見所のあるのは教え込んでみよう。現場というのは物質が赤裸々に露出していて、物体の展示場みたいで、それだからこそ面白いのだ。研究室OBの関岡英之君から最新著文春新書「拒否できない日本・アメリカの日本改造が進んでいる」送られてきた。彼の事は気になってはいるのだがどうにもしてあげる事ができずにいるのだが、とり敢えず元気にしているようで、ホッとした。建築家としてはまだロクな人間が育っていないけれど、他の分野に進んだ者は少しずつ成果を挙げ始めているようだ。関岡君には読了後感想文でも送ってみようかと考えた。

2004 年4月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
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