石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2004 年9月の世田谷村日記 |
八月三十一日 |
昨夜は一晩中台風の風が荒れて、世田谷村はヨットの如くに揺れた。変な家だと我ながら笑う。私は笑えるが家内は笑わない。いささかのやり取りがあった。十一時研究室。雑事。夕方迄。十九時前、α社長若松氏来室。新大久保駅前の近江屋ソバ店へ。若松氏にチョッとした頼み事を申し出てアッという間に了解され、準備周到に用意されていたものの如く手渡される。不思議極まるね人生って。二十二時京王線笹塚通過。
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八月三十日 |
七時新宿待合わせ、石井君等と川越へ。川越で河野鉄骨河野君に拾ってもらい信濃追分けへ。十時信濃追分け。オーナーズヒルクラブで幸脇夫人と会う。打ち合わせ後現場へ。昼食後、町役場法務局、佐久市役所を廻り、十六時前、前橋へ向かう。十八時大分遅れて前橋着。森田親子にソバをごちそうなる。新職人ユニオンの構想を森田兼次氏に話す。二十一時過東京。荻窪駅前でビールを飲んで散会。タクシーで世田谷村に戻る。二十二時過。夜半、台風の風強し。
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八月二十六日 |
十時三〇分東京丸の内にて打合わせ。十二時前修了。十四時新木場にて定例打合わせ。十五時半研究室へ。十七時群馬の森田兼次左官大将と伊豆松崎、伊豆の長八美術館改修工事に関する打ち合わせ。必要があり、松崎町役場の森秀巳さんと久し振りに電話で話す。友人というのは有難いものだ。沈んでいる気持ちがフット浮いてくるのを実感する。十八時頃新大久保駅前のソバ屋で森田親子と飲む。森田さんの人徳であろう、随分気持ちが平安になる。
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八月二十五日 |
昼過より研究室で打合わせ幾つか。夕方厚生館現場。二十時頃世田谷村に戻る。夜半迄銅版画に取り組む。
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八月二十四日 |
十時前世田谷村発、九月の展覧会の打ち合わせの為、青山の「ときの忘れものギャラリー」に向かう。ロシアでもらったカゼが抜けず、体調悪し。十一時ときの忘れものギャラリー。綿貫さん、塩野君打合わせ。スケジュールがそろそろきつくなってきた。昼食を近くのアジア料理屋でごちそうになる。十三時四〇分まで。体調思わしくなく世田谷村に戻る。
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八月二十三日 |
八時半野村と新宿待ち合わせ。小田急線鶴間。十時、大和市役所福祉センターで森の学校の公開入札説明。その後古木理事長等と打ち合わせ。昼前修了。野村はここ一週間程ズーッと研究室泊りで頑張ったようだ。昼過新宿でねぎらいの昼食をとる。野村と久し振りに色んな話しができて良かった。十四時半頃新宿高島屋十何階かのソバ屋でのごくろうさんの会終わる。野村には私が今考えていて私がもう出来そうにない事を幾つか伝えた。マア、これが先生と言はれる程のバカは無し、されど先生の特権だろう。百年の計とは言わぬが、三十年の計くらいは考えているのだ。少し、昼からビール位で酔ったな。世田谷村に一度戻って三時間くらい休もう。今年の後半は進行中の現場の山になる。皆見なくてはならぬから、体には悪いぜこれは。十七時前、世田谷村発新宿へ。チョッとした用件を片付ける。二〇時前世田谷村戻り。
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八月二十二日 日曜日 |
朝八時過起床。ニコライが朝からじゃれついてくる。猫の暮しは誠にシンプルでうらやましい限りだ。何の物音もない朝である。ここしばらくTVを観ていないのでアテネ・オリンピックも遠い出来事である。メダルラッシュの日本人選手達のものおじしない態度が話題になっているようだが、どうもピンと来ない。スポーツは結果が出やすいが、生活は簡単にはそれが出にくい。ニコライの独人あそびをボーッと眺めながら、無為の時を過ごす。友美より電話入る。バークレーでアパートも決まり何とかやっているとの事。十二時前、研究室。野村が一人森の学校のまとめを頑張っていた。明日の入札の打合わせ。本当に建築設計業は苦労、心労が多くて、報われる事が少ない。しかし、やり抜くしかない。イヤな事も必ず通り過ぎてくれるのだろう。あと十五年、走り続ける事ができたら良い。一人で、他人に迷惑をかけぬようにしなくては。支援してくれる人も少なくはない。けれど、それを頼りにしてはいけない。要するに一人だ。十五時二〇分京王線明大前附近。新大久保駅前のソバ屋で遅い昼食を取った帰り。二十一時宗柳で軽井沢から戻った家内と遅い夕食をとる。
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八月二十一日 |
家内、軽井沢へ。体調を少しづつ回復させる。体あっての気力だ。そんな真理が最近ことさら身にしみる。今日は利根町行。百人スクールで少しまとまりのある話しができると良いな。おばさん達はしたたかだけれど、活力がある。小さな本格的な自力農園運動に育てたい。十時十分新宿待ち合わせ。十一時半取手着。佐藤さん迎えて下さる。十二時頃佐藤宅で利根町産の心尽しの昼食をいただく。十四時蛟もう神社下の角田さん宅で百人スクール定例会。ロシアのダーチャについて先週の体験を交えながら述べる。十五時過修了。その後、約二十名程の利根町の人々から意見その他活発に出る。長島さんの決断によって、百人スクールは四反部の田畑を、考え行動する対象として手中にした。長島さんに感謝。長島さんより、先ず一反部で白菜を秋より種まきしたい旨の提案、そして百人スクールのメンバーよりもう一反でソバを作りたいの提案があり、会は活発な意見、その他が入り乱れた。その後、石川さんの菜園を再訪。ロシアのダーチャよりも本格的な菜園で、つけものその他をいただきながらビール、お茶を飲む。風良し。こんな事で充足してしまって良いのだろうかという不安もありながら、でも充足してしまう。十七時過まで。十九時上野駅で友岡君とチリワインを飲み、二十一時三〇分過、世田谷村に戻る。今日は戻っても一人で猫とウサギしか迎えてくれない。
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八月二〇日 |
午前中、世田谷村で休む。広島の塚田君、ニセ・ガンジーに葉書きを書く。今、動いた方が良い様な気がしきりにするのだ。皆が疲れて停滞している今のような時こそ、風を吹かせる必要がある。どんな風でも、何かが広島の人間の気持ちの中に少しでも流れ込めば良い。十二時前、世田谷を発つ。研究室で雑事をすませた後、十七時五反田へ。打ち合わせ修了後十九時過より友岡社長と会食。友岡社長のインドビジネスの現在の話しが妙にリアリティーがあった。二十一時半山手線で帰る途次。二十二時過世田谷村帰着。
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八月十九日 |
六時前起床。七時五〇分東京発のぞみ5号で広島へ。車内で講演用のスライド整理。流石にウトウトとし続けた。十一時四十五分頃広島着。八丁堀シャンテへ。広島町村長会研修会の会場へ。昼食後、講演。十四時十五分、定刻通り修了。その後、前広島市長平岡さん等とミーティング。十六時広島NPO、NGO団体と会合。十七時過修了。広島駅グランヴェールホテル地下で平岡さん、国近さん、塚田君、黒田さん、ニセ・ガンジー等とビールを飲む。広島市との附合いも、実感としてはようやく本格的なものになってきた。平岡さんも市長職を捨て、本音を語り始めているし、国近さんもオバさんの直観を語り始めている。市役所の塚田君も、チョッと現実の壁に対面して、複雑な大人になり始めた。要するに皆、成熟し始めているのだ。幸か不幸か、広島とは良質の人格と附合わせてもらっている。この人物達との附合いは大事にしなければ。人生というのは、下らない言い方になってしまわざるを得ないのだが、膨大な無駄の蓄積の山からかろうじて、カビの様な花が咲く機会が出現するものらしい。只今、二〇時。十九時三十一分発ののぞみが十分遅れで広島を発ち、岡山に向けて走っている。只今、二十一時過大阪を過ぎた。流石に一時間半程正体もなく眠ってしまった。広島との附合いは大事にしなくては、の実感を身体の奥底から得たのが、今度の広島行の収穫であった。二十三時五〇分東京駅より中央線で新宿へ。二十四時四〇分世田谷村帰着。
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八月十八日 |
朝五時半起床。朝食。六時友岡君迎えに来て猪苗代へ。九時二〇分郡山南インター出口。十時猪苗代湖鬼沼、アジア農芸村前進基地現場。コルゲートパイプ一本と受水管2本の組立てが完了していた。三〇年振りのコルゲートパイプ・アーチ型との再会である。地元業者と打ち合わせ。コルゲート上の土の被覆、山側のよう壁の件等。十一時三〇分修了。東京へとんぼ返り。只今十七時東北道を走り、首都高王子北を厚生館現場へ向けて走っている。十八時過厚生館現場。雲描き島倉二千六さんの天井、壁画を見る。木本君のザクロ見る。双方共に見事な出来栄えであった。近藤理事長、西山氏と会食。二十三時世田谷村に戻る。
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八月十七日 |
午前中世田谷村。昼過研究室。ロシア疲れいまだ抜けず、そんな日常の体力と気持の狭間で、決して平安な日々ではない。昼過ぎ研究室。モスクワ大学より、早大総長へのFAX届く。シェラトンホテルから送った手紙やFAXの一切が届いていないのに、モスクワ大学に代表される官僚機構だけはしっかりしてる。気に入らない。十九日の広島での講演のシナリオ作成。雑打ち合わせ。十九時過α社長若松氏来室。早稲田通りのもめん屋で会食。お互いにロシア疲れのカゼ気味であったが、少し飲む。若松氏は明後日からカザフ行との事。油田だな。二十一時修了。二十二時世田谷村。明日は早朝六時に迎えが来て猪苗代まで行かねばならない。キツイがマア仕方ないか。本当にゆっくりと休みたいのだが、そのチャンスは死ぬ迄無いな。忍田邸のチョッとしたアイディア浮かぶ。
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八月十六日 |
午前中、世田谷村で休む。十三時過研究室。打ち合わせ。十五時幸脇夫妻来室。その後、再び打ち合わせ。十九時半迄。
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八月十五日 日曜日 |
午前中、少し寝過ごしたが、八時より〆を過ぎてしまった室内原稿書く。今夕までに送らなくては本当にダメだと工作社長井から言われている。十二時前何とか書き上げる。当然、ロシアのダーチャについて書くも紙数が足りない。山本夏彦さん程の短文の技術も知識量も無いから、紙数がどうしても必要となってしまう。手を入れて十四時頃最終稿を工作社に送附した。念の為、工作社に電話したら、元気な女性が応答。勿論日曜日だと言うのに長井もいて、私の原稿にキチンと注文をつけた。すでに、女性の時代になっているんだ。十五時研究室へ発つ。野村、渡辺と打ち合わせ。石井の図面を見る。十九時前、研究室を発ち、二〇時世田谷村、雄大が合宿所より戻っていたので三人で食事。長男も大学は体育会系の運動部に所属したので、何とかまともにやれている。ヨット部に行きたいというのを、最初は何を考えているのかと怒りもしたが、アレは私が間違っていた。 私たちは自分自身では何も作れぬ人種になってしまっているのではないか、と考えるようになって久しい。身の廻りのモノ一切合切を買って、買いまくって暮らしている。余ったモノはこれも又捨てまくる。それで出現している大量のゴミの山。世田谷村だって凄いゴミを毎週出している。その象徴が日本の戸建住宅である。あれはそんな大量消費生活のパッケージだ。住宅自体も又、何も生産しない。エネルギーも食料も。つまり、日本の戸建住宅のほとんどの実体はゴミなのだ。総合性の世界から眺めればそうだ。戸建住宅の未来は何処にあるのかな。そのデザインに大事な意味を発見できるのか、屋上菜園くらいしか無いんじゃないか。
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八月十四日 |
十時、難波和彦先生他十名程世田谷村来。サスティナブル・ハウス研究の取材。十二時過迄。難波さん、家内と宗柳で昼食。十五時過迄。研究室へ。打ち合わせ。二〇時前修了。世田谷村戻り。今日は家内の誕生日で食事をする。大きな家に二人切りと言うのも仲々のものだ。
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八月十三日 |
午前中世田谷村。午後研究室。二十三時過迄打合わせ。二十四時半世田谷村に戻る。
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八月十二日 |
サンクトペテルブルグ、モスクワ経由で今日の十時前NRTに戻った。モスクワからの飛行機では何も食べず、何も飲まず、ただただ眠った。余程疲れていたのだろう。十時前NRT着。若松氏の車で品川へ。京浜急行品川で家内と待ち合わせて、十三時四〇分頃三崎口へ。駅前の食堂でまぐろ丼食べる。タクシーで油壺マリーナへ。早大ヨット部OBの並木氏別荘月光ハウスへ。十四時半過、江ノ島よりヨットで白井総長着く。モスクワ大学よりの依頼状説明して渡す。ななかまどのウォッカをヨット部に差し上げる。キャビアも。十六時過まで。ヨット部のOBに送っていただき、三崎口へ。只今十九時品川で乗り換えて山手線車中。高山建築学校の会で駒込に向かっている。二〇時前、駒込のPLAN 21 で木田元先生、鈴木博之先生、趙海光氏等と高山建築学校の記録本の出版お祝いの会。久し振りに木田元先生とお目にかかる。楽しい会であった。今日は鈴木博之とは別の電車で帰ったので、行き先を間違える事もなく、平穏に帰れた。木田元先生は相も変わらず泰然自若としてらして、今はもう七十六才。俺の方がどうやら長生きしそうだ、と豪語されていた。そうなってしまうかも知れないと思わぬでもない。二十二時四〇分現在、山手線池袋を通り過ぎた。二十三時半世田谷村帰着。
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八月十一日 |
一時過ホテルに戻る。サンクトペテルブルグでは十一時位迄明るいので、時間感覚がゆらぐ。 ここで一番驚いたのは、私が今、製作している銅版画に彫り込んでいる建築群の一部があった事である。まさかこんなモノ、無いだろうと思いながらの製作自体も又、ゆらぐ。海軍省の建築なんかはそのモノ、ズバリであった。私の想像力なんて他愛ないものだ。しかし何故、スラブバロックなのだろう。それにしても、サンクトペテルブルグはなにしろ寒くて風邪をひいてしまった。ホテルのバスルームの豪華さと比較して、その鏡に写っている私の顔の貧相な事よ。上手に年令を積み重ねていないな実に。八時朝食を一人でとる。今日はモスクワ経由、東京迄の長旅である。体調悪し。明日は総長と葉山で会ったり、高山建築学校の会で鈴木博之、木田元両先生と夜会わなくてはならぬから、体力を温存しておかなくては。飛行機はズーッと眠ってゆく事に決める。鼻水がグズグズして情けない。十時前部屋に戻って休む。帰り仕度も全て終えた。十一時チェックアウトを終えて、空港へ発つ。サンクトペテルブルグのガイドの女学生は吉本ばななと村上春樹のファンであり、ポスト・モダニズムの小説は自分達のフィーリングと近いと言うような事を述べていたのも印象深い。バスの中で遂にダウン。熱は無いようだが、鼻水が苦しい。バスの最後部座席で横になって寝た。今、十四時半空港内部待合い室で待たされている。
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八月十日 |
八時前、ホテルのレストランで若松氏と朝食。八時半迎えのバスで出発。エルミタージュ美術館冬の王宮横の船付場よりネヴァ川をピョートル大帝の夏の王宮、ペトロドヴァレェツへ。三〇分程の船旅といっても飛行機みたいな水中翼船。フィンランド湾に面した場所へ。フィンランドまで二五〇キロメーターとの事。フィンランドのロシア嫌いが良く解るような気がする。近すぎるのだ。バロックというよりもグロテスクとでも呼びたい程のスーパーキッチュの大噴水は、ここまでやるかと言う位のスーパーキッチュさである。宮殿内も、これでもか、これでもかのあくどさで日本の安土桃山文化あるいはブルーノ・タウトが毛嫌いした日光東照宮などは実に、ささやかなモノである。スラブ民族、というよりロシア皇帝はまさにタウトの言う通り将軍の文化中の大将軍の文化であるな。徳川将軍のえげつなさ位で怒ってもらっては困る。ちなみにドイツ軍はこの離宮を焼き払ったが旧ソビエトは一九五八年までにこれを復元した。今、これは度外れたスラブバロックとしてロシアの宝となっている。ここも人又人の行列である。いくつかの噴水を見学して、帰途につく。帰りは陸路バスで。高級ダーチャが並ぶ中、プーチン現大統領がサンクトペテルブルグの宿泊場としている王宮もバスの窓から眺めた。権力者は王宮がお好きなのだ。ブッシュのホワイトハウスも、そう言えばヨーロッパの王宮を模したものなのか?アレはチョッと違うか。サンクトペテルブルグに戻り、エルミタージュ美術館へ。美術館広場に面したレストランで昼食。半分嫌々入館したエルミタージュ美術館はここも又、人間の行列の大群であったが、展示物は凄かった。レオナルド・ダ・ヴィンチの聖母像、ラファエロのものミケランジェロの彫刻、そしてレンブラントのコレクションとしては最高のものだと言う部屋を走るように巡った。帰りがけにチラッと見たエジプトの部屋が凄かったが、これをじっくり見ていたら数日かかるであろう。十五時半、ホテルアストリアに戻って小休。家より若松氏のα社経由で社長のケイタイに連絡が入り、若松氏も事故かと思い私の部屋にかけつけてくれたが、息子雄大のヨット部に白井早大総長が十二日午後来るとの事で、お目にかかる事にした。モスクワ大学からの依頼も伝える事が出来て、良いタイミングであった。十九時二十五分ホテル発、アレクサンドル劇場へ。二〇時レニングラード交響楽団の多分二軍による演奏によるロシアバレエを観る。ひどく退屈。私はロシアバレエはわかりません。それでも幕間を挟んで二幕二時間を眠りながら、ガマンする。二十二時修了。サァー、メシ喰うぞとホテルの近くの日本料理に行くもダメで又、劇場近くの「焼鳥」なる日本レストランに長征するも満員で入れず。仕方なく近くの太平洋という名の日本料理屋に行く。若松氏と日本酒を飲む。馬に乗って通り過ぎる娘達がいた。
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八月九日 |
七時半ホテルのビュッフェで朝食後ピックアップされて空港へ。九時半の飛行機でサンクトペテルブルグへ。十時半頃サンクトペテルブルグ着。ガイドが迎えてくれてイサク大聖堂横のホテル、アストリアへチェックイン。小休後、昼食へ「京都」日本食レストランへ。サンクトペテルブルグも日本食レストラン多い。色々とガイドしたがるガイド二人を尻目に今日は休みを決め込んで、ホテルに戻り眠る。疲労のドン底に居る。夜半起きて、近くのカラオケレストランで夜食。眠りながら喰べている感じであった。明方の二時頃ホテルに戻り、ベッドに倒れ込む。
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八月八日 日曜日 |
五時前、目ざめて、メモを少々記すが、再び眠る。五時半起きてしまう。モスクワ三日目である。何と、視たくも無いと拒否している赤の広場の玉ネギ、アイスクリーム状建築の姿が頭にこびりついて離れないではないか。どうした事か。イヤだと言う意識を無意識が侵蝕している。アレはガウディのカサ・ミラの屋上の造形群がスラブの大地に降下したものなのだろうか。巨大リムジン群と玉ねぎソフトクリーム建築は何処かで結び着いているのだろうか。リムジンの過剰と玉ネギ建築の過剰とグロテスクは同根なのだろうか。双方共に装飾的産物なのか。民衆は本来的に装飾を介して力そのものを渇望する者なのか。レーニン廟のデザインとモスクワ中にあふれ返る銅像群、ガガリン、ドストエフスキー、レーニン、レーニン夫人、ピョートル大帝のモニュメントは、リムジンと玉ネギ建築と同じ種類のものなのであろうか。少々、頭が混乱してくる。しかし、久し振りに越境している自分を感じているのも確かである。ソビエト連邦の崩壊は二〇世紀最大級の出来事であった。あの革命がなければ赤の広場にリンカーン・コンチネンタルのリムジンが群がる風景はなかった。モスクワ市の中心の高圧線下に秋葉原建材バザールが出現する事も無かった。とすれば、民衆の自由とは何なのか、謎である。 七時半朝食。八時出発。モスクワの北東二百二〇KMの古都スズダリへ。途中、各種ダーチャを見学して廻る。仲々、先入観としてあるダーチャに巡り合わない。車の幹線は大体往復四車線の立派なモノ。その道路沿いに昔風のダーチャがあるのだが、車公害にやられて見る影もない。しかし、六〇坪程度の土地面積に平屋の小屋が林立する風景は仲々のモノである。一日でダーチャを視て廻るなんて事は不可能なのをすぐに知った。昼過ぎスズダリ着。ここの建築は良い。十三世紀の修道院その他が残っている。ここのダーチャは仲々良く、二、三軒庭園(菜園)をのぞかせてもらった。フィルムが足りない。昼食を修道院内の良く整えられたレストランで。ここの冬は素晴らしいだろうと思わせる、伝統的な木造建築が博物館状に整備されていて、見学。十五時頃スズダリを去る。途中、余りにもダーチャ、ダーチャと私がうるさく言うので、ドライバーのセルゲイが、彼の友人のダーチャへ行ってみるかと言う。ものは試しだと半ば期待もせずに、途中、モスクワから一〇〇KM程のところで寄り道をする。チョコレートの手みやげを買って、シベリア鉄道駅ポクロフ近辺で鉄道を横切る。それからが凄かった。赤マツの原生林を越え、白カバの原生林も抜けて、古い小さな教会や、土葬の墓地も越えて、道なき道を延々と行く。もう今日は、モスクワへは帰れないなと覚悟を決めた頃、ようやくにして、ボブダルナ(神様の好きな所)にたどり着く。グエルマンさんのダーチャ訪問。古い住宅部分は百年前大工だった祖父が作ったと言う。ダーチャらしいダーチャに本当にたどり着いてしまった。利根町の石川よう子さんの菜園とそっくりなのに驚く。しばらく至福の時を過ごす。サウナ小屋、その他三つ程の小屋は全てグエルマンさんの手作りらしい。木と木の間のすき間には森のコケをつめ込んでいる。お茶とビールを林の中の食卓でいただく。十八時半頃帰途につく。近くの小さな湖に寄る。美しいところであった。再び原生林の中の径を戻り、ハイウェイへ。一路モスクワへ。途中、面白いガラスの小建築に寄る。二十三時シェラトン・ホテル帰着。ヘロヘロになってベッドにもぐり込む。今日は目一杯であった。
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八月七日 |
四時四〇分起床。夜半、ブツ切りに目がさめる。仕方ない。研究室からのFAXに目を通し、返信をしたため、プランに手を入れる。五時半修了。夜が長い、というよりも朝が長い。昨日は若松氏より、研究室ゼミ用資料として、モスクワ市内のアパート他のカタログ入手、今日はアパートのサイト、ホームセンター、できればダーチャを見て廻る予定。ホテルのある目抜き通りに面して、若松氏が借りた百坪程のフロアーは家賃月百万との事。しかし、これは天井が落ちてキャンセルしたとの事。三ヶ月分の家賃は戻ってこなかったと言う。彼の祖父は年を取ってから東欧とロシアを三ヶ月程旅したらしい。その血を引いているのだろうか。みちのくの人間の根深い北方志向かな。 昨夜のボリショイサーカスの空間について考えてみたい。人体と空間が実に濃厚な関係を持っていたのは確かだし、観客との関係も濃かった。身体とそれを視る視線が作り出す空間だった。佐藤健が死を覚悟してからの一年間、生きた時間は濃密なものであったろう。それを取り巻く我々にとってもそうだった。あれはサーカスだった。言い方は良くないが実にリアルな時間であった。我々は刻一刻死に向けて生きている。それを自覚した時、一秒一分が濃いい時間になり、人と人との関係が自然に演劇性を帯びざるを得ない。刻一刻を生きている時間を自覚し、それを他者との関係世界にさらす事だもの。それを自覚する事によって日常空間は時に変質する可能性を持つ。そこに別の空間が生まれるのだ。建築が空間を作るのではない。人間の意識がそれを生み出す。構造体も装置も、装飾も、その意識を覚醒させる道具なのだ。ボリショイサーカスの空間はまさに身体と視線の覚醒による、スペクタクルであった。そういう空間を目指してきたような気がする。私の建築の演劇性とは、無意識の中にそれを追いかけてきていたのではなかろうか。全ては装飾であり、構造はそれを支える枠組みなのだ。頭を冷やして、もう少し考えてみたい。 研究室に部屋からFAX送附。着信しているかどうか不明。九時前朝食。十時ターニャがピックアップしてくれて、若松氏のアパートへ。モスクワ川のほとりの一九五〇年代の十一階建ての6階。一〇三平米で家賃が千七〇〇$。買えば三千万円との事。3DKである。エレベーターが旧式でメンテナンスしてなさそうなのを除けば豊か。窓は全て二重。玄関扉も二重。モスクワ川沿いをアエロフロート航空まで歩く。日差しが強い。その後、クレムリン宮殿見学を促す通訳ターニャの言をしりぞけ、ホーム・センターへ。モスクワ市の地下鉄で中心から十五分位のところに位置するカシリスカヤ駅の近くの、カシリスキー・ドヴォール(中庭)へ。ここは仰天すべき建材市場であった。私の理想とする建築部品の自由市場が現存していたのである。高圧線下の、多分建築不可地域に、日本の戦後の闇市の如くの巨大市場があった。まさに建築の秋葉原マーケットである。何千という、ありとあらゆる建材屋が軒を連ね、土曜日であるから、次から次へと引きも切らぬ購買者が車で訪れている。まさに建材バザールであった。大型トラックで買い付けにくる専門家も素人の女性も皆同じプライスであるようだ。全て廻るのには一日かかっても無理だろう。何故モスクワにこんなアナーキーな建材市場が出現したのであろうか。五年前からの事だと言う。重量鉄骨やトイレ便器、レンガ、セメントその他ありとあらゆる物が売られている。モスクワのアパートのほとんどが古く、人々は修理を強いられる。そのマーケットは膨大である。余りにも大きなマーケット故に市民は自分の家は自分で再生せざるを得ず、又、それを苦にしない。ターニャ女史も自分のアパートを自分で修理するし、そんな事は当たり前の事らしいのだ。モスクワのダーチャの実体を探訪すべく訪ねて、秋葉原に出会うの図であった。驚いた。様々なアイデアが湧きに、湧いてくる。十四時郊外のレストランで昼食。きのこスープ他。道中、別荘群を案内されるが、これは私の求めるダーチャではない。私の見たいのは、モスクワホーム社が作る日本のハウスメーカー風の成金ハウスではない。極く極く普通の市民のダーチャなのだ。ガイドは、やはりモスクワの良い所と思われるモノを見せたいと考えるのは人情だろうが、私の求めるモノとは大きなスレ違いがある。帰途、どこかの公園で、結婚式のカップルの大群と遭遇する。巨大なリムジンがこれでもかこれでもかという位に並び、異様な風景である。モスクワは、リンカーン・コンチネンタルのリムジンを買い占めたのであろうか。ガイドのターニャがどうしてもクレムリンを見学しろというので、渋々、赤の広場へ再び行く。ここも又、結婚式カップルの大群であった。そして、リムジンの群れ。まるでリムジンのアパッチ砦のようで、玉ねぎ状のディズニ−ランド・スタイルの建築など吹き飛んでしまう。レーニン廟を横目に赤の広場を横切る。見るべきモノは無い。ミラノのガレリア状のガラスのアーケードを持つデパートの中を通って戻る。ターニャには悪いけれど私の関心はピクリとも動かなかった。若松さんのおすすめで、モスクワ川にかけられたガラスの天蓋を持つ橋を見学。何だコリャーという感じであった。どうも私のモスクワの建築群に対する感性は拒否に次ぐ拒否なのであった。十七時過、シェラトン・ホテルに戻り、休む。今日一日の印象を整理するのには時間がかかるだろう。十九時四十五分現在、夕食のピックアップを待ちながらホテルの部屋でメモを記す。考える事が多過ぎて、とりとめがない。しかし、若松氏はどうやら本気で、モスクワにビジネスの拠点を構える気持ちのようだ。彼の親戚は川崎汽船の役員をしていたらしく、私の交友関係と不思議にクロスしているのも奇遇である。三〇年前、私の初めての材木輸入の窓口は川崎汽船であった。川合健二と一緒に川崎汽船には度々足を運んだのを昨日の事のように思い出す。二〇時過近くの日本食レストランで会食。男の従業員がサムライまがいの格好をしている変なところ。二十二時頃了。ホテルまで歩いて帰る。
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八月六日 |
朝五時目覚めてしまいメモを附し、色々と考える。若松社長は四十五才、今がまさに動き盛りだ。先日、東京で李祖原が言っていた。五十五才くらいから、ようやく世の中が良く視えてくるって。私は六〇才だが、視えてきているような増々視えなくなって壁が厚くなっているような、不安だけが大きくなっているというのが本当のところであろう。ここはモスクワの中心の通りに面しているが、六時前、車の数はまだ少ない。昨夜はスターリンが好んだと言う、グルジア産の赤ワインを飲んだが甘過ぎた。ロシアの第一印象はとスピーチを求められたので、スターリンの印象はとてもハードだが、こんなにスウィートだとは知らなかった、と述べた。ロシアは外と内とは異なる、それは建築も同じだろうとウィットに富んだ答えが返ってきた。一般的に日本人は旧ソビエト連邦にはネガティブな感じを持っていると思うが、新ロシアとは言わずとも、人間一人一人にその印象を当て嵌めてはいけない事を、当然ながら了解する。しかし、通訳の女性はサンクトペテルブルク出身だと言うがいかにもハードである。もっと具体的にやれる事を言えと言われても、着いたばかりの人間にそれは無理だろう。個々の問題に対する人間の力や性向を計りながら、計画を立てるのが私のやり方だ。と、いい返してやった。しかし、今日のモスクワ大学副学長との会には、もう少し具体的なプログラムを呈示したい。七時過、プログラム作成修了。これで押してみよう。研究室に通信文作成。下のモスクワの大通りは七時半になっても車、人間共に少なく、実に静かである。地図を見ると、ここは赤の広場のすぐ近くでモスクワのまさに中心に居るようだ。通勤ラッシュというのが無いのか、それとも、ヴァケーションに入っているのか、しかし異常だ。そう感じる、こちらがおかしいのかも。八時過七階フロアーの小さな朝食ビュッフェで朝食をとる。朝食のジャガイモとキノコの煮つけたのはとても塩からい。ヨーグルトは甘過ぎて残した。イチゴも異常に甘い。黒パンは良い味。空は日本の秋を想わせて少々物悲しい。北国のゆううつだな。しかし、部屋に一人で居るのもハードだし、どのみち一人の時間はハードなのだ。シェラトンホテルの前は今、コンストラクションサイト。隣の古い大きな建物は空屋で何も入っていない。ところどころに妙なスタイルの新しい建築が建っているのを散歩しながら見る。ホテルで手紙を出してくれと頼んだら、1$と言われ、マネーチェンジしてくれと言ったらグランドフロアーでやってくれ、グランドフロアーに行ったらあと二〇分待ってくれと言われた。成程、ロシアは待たせる国である。昨日の今すぐ、具体案を出せと言うのが、オカシイよ。コレワ。十時過ピックアップされて、モスクワ大学へ。凄まじい全体主義的建築様式だが、ここまでやればディズニーランド的で笑いを誘う。十一時前ウラジミール・ソホロフモスクワ大学副学長、アレクセイ・サルニコフ氏と会う。色々と頼まれたり、依頼したり。十二時修了。十三時ロシア料理の昼食。赤カブのスープが美味であった。十四時、了。その後、赤の広場、救世主聖堂を見て廻る。全てイカモノである。イカモノの本物として見れば面白いのだろうか。十五時半、ホテルに戻る。メモを記して昼休み。雷が鳴って雲行きが怪しくなっている。モスクワ大学、オリンピック・スタジアム、救世主聖堂、クレムリンと一本軸が貫いていたのが印象に残る。全体主義の中には常に建築的意志が内在する。十八時二〇分若松氏にピックアップされて、何とサーカス見学に行くと言う。参ったナァと渋々ついていったら、ボリショイ・サーカスの劇場というか常設国営テント小屋であった。観光バスがズラリと並んで異様な風景。何でサーカス見学せにゃならんのだと内心ブツブツであった。三千人程収容する半円型のテント小屋の最前列の席に座る。象やラクダ、そしてワニ、ヘビの見世物が見物席の周囲をとり囲んで、人気を博している。アー、イヤダ、イヤダと思いながら、開演を待った。やがて開演。瞬時に、これは並々ならぬモノを見ているという実感に襲われる。ダテや酔狂の見世物ではない事がすぐに解った。出演者が皆真剣そのモノ。日本のお笑い芸とはレベルがちがう。二人組のピエロの芸に始まり、山羊と犬の芸、そして馬の芸、二人組の男女の空中アクロバット、圧巻は二人の男性のオリンピック級の力技体操ヘラクルス芸、チンパンジーの芸、その他と続々と繰り拡げられる芸術的見世物に圧倒されてしまい、ほとんど感動してしまう。映画や、コンピューターによる合成映像のアンリアルな見世物に自然に慣らされてしまっていた眼には、実に驚くべきリアルな身体の息使いが伝わってくる。芸の連続に圧倒された。劇場のオバさんにグイと腕をつかまれて、案内されたぬくもりも相まって、東京では全く体験する事ができぬ迫真の虚像と実体の狭間体験であった。これが演劇の中の演劇であると本当に想った。夢中で写真をとっていたら、劇場のオバさんからカメラは駄目だと叱られたが、その前の数ショットは見逃してくれる温情もあった。大満足。午後に見学した救世主聖堂の駄目さ加減も皆すっ飛んでしまう。アッという間の一時間であった。幕間の休憩時間に若松氏がもう夕食を喰べに出ましょうと言うので、今度はまだいたいのにと仕方なくボリショイ・サーカスを後にしてしまった。正直心残りであった。これは凄かった。磨き抜かれた身体芸を実感した。スポーツと芸術の合体。観客もそれをキチンと共有していた。良い空間であった。後髪を引かれる想いで、日本食レストランへ。寿司を食す。感動引かず。凄いモノがまだあるものだ。余韻さめやらず夕食をとる。十時過修了。二十三時ホテルに戻る。今日は良いモノを体験した。二十三時十五分、ベッドに入る。もしかしたら、サーカスの夢を見るかも知れない。研究室からFAXが入っていたが、キチンと見る気がしない。申し訳ナシ。何か、よいモノをつかんだような気がする夜であった。
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八月五日 |
六時前起床。荷作り。ロシアは初めてなのでよく解らないのだが、とり敢えずフィンランドの夏を想定して荷を作る。八時半、家内に見送られて発つ。階下に群馬の左官職森田 Jr がいた。新宿西口でα社長若松氏にピックアップされて車で成田へ。アエロフロート五八四便にチェックイン。ラウンジでビールを飲み、飛行機にすべり込む。アエロフロートは記憶では乗った事がない。機内の映像は、過日磯崎さんのとこで見たドキュメンント映画と似た感じで、色の種類が極度に少なくて仲々良い。モスクワ迄七五一五 km しかし、アエロフロートの機体はボーイング七七七であるのだから何をか言わんやである。ソビエト連邦が崩壊する以前はこんな事はあり得なかった。ロシアはEUのエアーバスを購入するよりも、USAのボーイングを選択したんだな。つまりUSAに負けるのは仕方ないが、EUに対しては過去の大国としての誇りがあるというわけだ。十二時二〇分離陸。隣りの座席では若松社長が早くもグッすり眠っている。この人物はタフだ。今回のロシア行は全て若松氏のアレンジで私はただただ彼のひいたレールの上をトロッコで走るだけなのだ。それ故、何が起きるのか全く解らない。それが面白い。若松社長はロシアで色んな会社を買いまくっているらしいが、私をモスクワに引きずり込もうとしている真意は良く解らない。が、しかし、私だってそういう行動に出る事はこれ迄も多々あったから、ここは彼の用意してくれたレールに乗るのもあながち悪くはないだろう。東京ではこのところせせこましい事ばかりだったので、こういう実におおまかな行動も必要なのだ、と自分に言い聞かせている。只今、日本時間二十一時前、モスクワ迄一時間弱のところを飛んでいる。モスクワの気温はC 27 度との事。日本時間十時ロシア時間五時頃空港着。若松氏入国審査で大分コリゴリした体験(五時間待たされた)があるとの事でVIP入国ルートを使う。しかし、少々待たされている。通訳のターニャさんともう一人の女性が迎えてくれた。もう任せるまま。女性二人共ケイタイを使う。仲々、パスポートが戻ってこない。待合い室のインテリアは何となく一九五〇年代風である。六時五〇分現在、モスクワ・シェラトン・ホテルにて熱い風呂に入り一息ついている。空港からモスクワ市内まで小一時間程の車の移動。何処の国でも見られる風景であった。郊外の量販店、車の渋滞等々。ホテルはとてものんびりと運営されている様で、時間がゆったりとしている。上階のVIPフロアーに部屋が取られていた。少し眠ろう。今、日本は二十四時、こちらはこれから一時間後にディナーを一緒しなくてはならない。十九時半頃スーツに着替えて、部屋で一人ポツ然としている。二〇時、モスクワ国立経済アカデミー・ディレクター、セルゲー・カレンジャン氏等総勢六名と通訳入りで会食。仲々、積極的な人で、何かをすぐに出来ないかと言うのだが、私の方はロシアは何分初めての事なので、珍しく用心深い。ドイツとの人脈が深い人物のようだ。二十二時過修了。丸一日起きて動いていた。ホテルに戻り倒れるようにベッドにもぐり込む。
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八月四日 |
十時半研究室、佐々木睦朗氏打ち合わせ。昼食抜きで十五時半迄。サンドイッチをほおり込んで馬場さん打ち合わせ。十七時雑打ち合わせ。森の学校、打ち合わせ。面白くなってきた。若い人の力を信じてみる試みも必要だ。その演劇的空間の中でやり抜いてみよう。十九時研究室発。二〇時世田谷村に戻る。二十一時過中川幸美先生来。明日のモスクワ行の荷作を中途にして十二時頃眠る。
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八月三日 |
このところ、何故か気持ちにゆとりが無くて、このメモも少々雑になっていた。五日からロシアに行かねばならぬので、しておかなければならぬ事が山のようにあるのだが、少ししか手がつかない。時間の空白は必需品だな。十一時研究室、十五時迄雑事打合わせ。その後、世界の住宅価格比較ゼミ。十七時半迄。十八時半磯崎アトリエ。鈴木博之先生と久し振りに会う。磯崎さんと批評と理論の会の展開方法に関して話し合う。十九時半、旧森ビルの何階かの寿司屋で会食。磯崎さんはイモ焼酎、我々は冷酒を飲む。批評と理論の会は何はともあれ続行しようという事になる。第一段階のくくりは磯崎新と一九六八年革命(騒乱)とする事になった。この主題はハードである。二十二時過会食修了。磯崎さんと別れ、鈴木さんと地下鉄へ。鈴木博之が君はこちらの電車、俺はこちらと自信満々に指示するので率直に従って、鈴木さんと反対側の車輌に乗ったのが運の尽き、俺も馬鹿で洗足の先まで乗ってしまい、ようやくこれはおかしいと気附き、つばめ返しどころではなく愚鈍なイタチ返しの如く、きた道を再び戻り山王溜池、つまり先程、鈴木博之と別れたところを越えて数駅戻り、更に乗り継いで、只今二十三時半都営新宿線を経て京王線に辿り着いた。もしかしたら鈴木博之先生も逆方向の電車に乗ったのではないか。坂口安吾の小林秀雄評だったか風博士の短文を思い出した。小林秀雄と汽車に乗って、二人共少し酔った。途中駅で降りる安吾の荷物を俺が持ってやると、プラットフォームまで運んでくれた。じゃ、サヨナラと小林の乗った汽車を見送ってさてと気が付いたら、そこはプラットフォームではなく細い荷台のような所で、反対側に立派なプラットフォームがあったという話。そこで安吾は風に吹かれて立ち尽くし、笑ったらしい。記憶が定かではないが、そんな事があったと言う。精密な頭脳を持つ人間は時に無意識の中にポカリと何かが抜けることがあるという事だろう。こういう事があるから人生は時に面白い。
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八月二日 |
十一時過ぎ研究室、森の学校打ち合わせ。十四時伊藤さん来室。十七時迄打合わせ。再び森の学校打合わせ。十八時過大学を出て、一九時過京王稲田堤、厚生館現場へ。近藤理事長、八大建設西山社長と打ち合わせ。二〇時現場を発ち、二〇時三〇分新宿へ戻り、コーヒーショップでデービッド、石井と再び森の学校打ち合わせ。二十一時半修了。二十二時、世田谷に戻り、今日初めての食事。飯位キチンと食べたい。
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−書評− 「高山建築学校の伝説」 |
伝説などという、いささか実態よりも過分な書名が附されたこの書物は、一九七二年に飛騨高山の数河峠を起点に運営された、建築家倉田康男を校主とする私塾の記録である。 今も、姿形を変えながらこの私塾は開催されている様だが、校主・倉田康男はすでに亡く、私の考えでは関わってきた主要と思われる人間の大半は故人となった。教師陣で生きて動いているのは哲学の木田元先生と、建築史の鈴木博之、そして私くらいなものだろう。 虎穴に入らずば虎児を得ず、のことわざがあるが、この私塾はバタバタと教師が亡くなる経過を見つめる限りは、墓穴を掘らずば本性も視えず、の感がある私塾であったのが良く解るのが、この書物の功績であろう。特に倉田康男の姿形はこの書物によって初めて明らかになっている。人間は、死んで初めて姿形がハッキリする。三〇年経って視えてきたのは、七二年開校の高山建築学校も又、一九六八年の騒乱、異議申し立ての大事件の明らかな産物であった事である。 ありとあらゆる事件、出来事には歴史的連関があり、関数が働いている。その事実が鈴木博之、木田元へのインタビューで浮き彫りにされている。しかも具体的に。高山建築学校という小さなドキュメントが一九六八年という近代と現代の境界の時を視えるようにしている面白さがある。一九六八年は近代の終わりを知らせる変革の年であり、その余震はいまだに続いている。
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八月一日 日曜日 |
十七時NHKTVスタッフ、藤森照信来る。藤森さんの番組に出演する。世田谷村二階で、スライドを写して、三番勝負とやらを録画した。二十二時過までかかる。異常なる大食漢であった藤森さんも、少しばかり大食ぶりが小振りになりつつあるようで、つまり常人に戻りつつあるようで、何となくホッとする。六〇才近くなってあの大食が続いているようだと、何だかあまり食べなくなっているこちらは悲しくなってしまうからな。
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2004 年7月の世田谷村日記
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