石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2004 年8月の世田谷村日記 |
七月三十一日 |
終日雑事に忙殺される。十八時半調布馬場さん宅。打合わせ。終了後烏山に戻り、河野君大野君等と会食。二十二時半修了。明日のNHK藤森番組取材に世田谷村が賛助出演する為に世田谷村は片付けで大騒ぎ。
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七月三〇日 |
昨夜は磯崎さんのところで藤森の巨石文化を少しばかり楽しみ過ぎた。十一時半過世田谷村発。十二時五〇分五反田TOC、トモコーポ物流センター建設定例打合わせ。十七時大学、森の学校打合わせ。その他。
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七月二十九日 |
八時四十分杏林病院。昨年末来、二度の事故の後始末とでも言うべき事に時間がかかっている。しかし、アノ事故は天の恵みでもあった。この際、徹底的に身体と精神のくたびれているところをオーバーホールしてしまうつもり。人体を飛行機に例えるならば、金属疲労の部分のメンテナンスをおこたると、一気に破壊墜落という取り返しのつかぬ事になってしまう。十二時三〇分京王稲田堤。昼食冷し中華。十三時過厚生館現場。十四時八大建設西山社長打ち合わせ。十五時過新宿西口コーヒーショップにて、野村と森の学校打ち合わせ。チョッとガウディ風になり過ぎているな。ガウディをバラバラにして組み立て直すような事ができないか。フリーハンドをバラバラにして、その部分をあるルールをもってアッセンブルする。口で言うのはたやすいが、スケッチにおとすのは至難の技だ。十七時半六本木。三〇日まで不在だと聞かされている鈴木博之先生に電話してみたら、今日帰国との事。しかし、家にはまだ戻っていない。今日は、藤森照信の巨石文化を巡る旅の、サマータイムレクチャーを磯崎アトリエできこうという、面白い会があるのに鈴木さんは残念な事をしたな。十八時磯崎アトリエ、磯崎さん、アレクサンドロ・ソクーロフのタジキスタンでの記録映画を視ていた。「精神の声」と題された延々五時間にも及ぶもの。タジキスタンとアフガニスタンとの国境警備隊の日常の戦争をとったもの。砂漠の戦争の現実がとてもゆっくりとした時間の中で、行われている恐さが描かれている。兵士達のゆっくりとした日常の中で、突然戦争が起きる。何のギャップもきれつもない。画面が赤っぽくて、砂漠の戦争の現実をよく写し出しているような気がした。一時間程見て、藤森照信の巨石文化を巡る旅のスライドレクチャー。エジプト以前の建築の発祥に眼をつけているようだ。六千年前、日本の縄文時代の建築である。二〇メーターの巨石が立ち上がっていた事実もあったらしい。太陽神信仰、生と死の儀式がそのまま建築の原型になっているのを、彼は確かめたかったのだ。修了後、三人で近くのイタメシ屋で会食。藤森さん相変わらず良く喰べる。つられて、私も少々食べ過ぎた。ブランクーシ、イサム・ノグチの形は巨石文化への関心から来たものらしい。昨年の夏、藤森さんから巨石の葉書を二通もいただいて以来、気になっていたので、その感動の素を遅ればせながら体験できたのは嬉しい。藤森があれ程感動しているんだから、キッと非常に大事なモノがあるのだ。やっぱり、あいつは旧石器時代人の想像力の持主だな。
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七月二十八日 |
昨夜、帰宅したら鹿島出版から高山建築学校の伝説と名付けられた本が届いていた。編集の海光君は御苦労様であった。熱心に読んでしまい、深夜二時頃眠った。
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七月二十七日 |
家の小猫の名は二つある。私がつけたのはイワノフ、他はニコライと呼び、時々それが入れ変わる。何故だか双方、ロシア風の名前なのは小猫の風情から来ているらしい。白猫で、両眼の色が違う。片方の眼は金色、もう片方は緑色である。金と緑の組み合わせが、ロシアの何かを想わせたのだろう。家族は誰もロシアに足を運んでいないから、その何かは本や、広告や、TVによってもたらされている。そんな何かが世界のもう一つの現実を形作っている。昔も今も、それは変わりがないが、現代はそれが加速しているのが特徴だろう。我ながら、意味あり気な事を述べて恥ずかしい。 八時半、世田谷村地下、左官屋入る。地下の現場テラゾーとぎ出しはそれなりにうまくいっているが、スペイン・カタロニアのテラゾー制作技術とは、私の知る範囲ではまだ、月とスッポンポンである。九時前、河野鉄骨、河野君と打ち合わせ。九時半修了。十一時研究室、佐々木睦郎氏と打ち合わせ。十二時半迄。さぬきうどんの昼食後、十三時より幾つかの雑事。雑事、雑事。十七時迄。十八時半、五反田、トモコーポレーション社長と打ち合わせ。二〇時過、とり敢えず修了。地下の寿司屋で友岡清秀君と夕食。二十一時過了。二十二時前、五反田駅前でいま一度ビールを飲んで散会。只今、二十三時十分、京王線桜上水、今日中には世田谷村に帰れるだろう。
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七月二十六日 |
六時過ぎ目覚めてしまう。磯崎さんが芸術・文化の領域で才月をかけて世界に張り巡らせてきたネットワークの広さと深さを再び痛感するが、これはもう誰も真似する事が出来ないだろう。私事に始まり、私事を超えた力になっている。どんな組織もこの力を引継ぐ事ができない。例え国家のそれであってもだ。不思議な個人の形式が在る。そう言えば批評と理論の会の展開をどうすれば良いのかキチンとしなければならない。鈴木さんと相談しなくては。暑さ負けしているヒマはないんだけれど、やっぱり、負けるときは負けるね、例え相手が暑さであっても。七時過上の家へ。お茶をいただき、七時四〇分三泉庵に出掛ける家内を見送り、再び下の家で眠る。とりとめもない事を考えながら、まどろむ。九時過上のテラスで朝食。雨模様の空が少し明るくなってきた。十一時過の新幹線あさまで磯崎さんと東京に戻る。車中、中国の話し、世界中のコンペにまつわる建築家たちの話し等、聞く。記録をとっておけば、面白い本になるのになと思いながら聞いていた。十二時過東京着。磯崎さんと別れ、大学へ。十三時過、森の学校その他打ち合わせ。十八時迄。夕食鴨汁せいろ喰べて、二十時前、世田谷村に戻る。
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七月二十五日 日曜日 |
朝食、スッポンオカユ。昨日、利根町の石川菜園からいただいてきた野菜は昨夜すぐ喰べたが、その残りを食す。これは勿論、農薬を使用しない有機農法によるものである。十時二十八分発あさまで、軽井沢へ。磯崎新宅でソバをごちそうになる予定。十二時前、三笠山中の磯崎宅に着く。磯崎夫妻とコーヒー。十三時車で下山し、ソバ屋へ。磯崎さん愛用のソバ屋らしい。地酒を冷酒でいただく。これは美味。ダテマキ卵も柔らかく出来ていた。ソバは二種類。十五時前、三笠に戻り、磯崎さんはトリエンナーレの打合わせ。私は昼寝。まことに申し訳ない。利根町、猪苗代、古川の農園ネットを作れないかのアイデア浮かぶ。磯崎宅で読もうと考えていた辺見庸の「もの食う人々」読む。開高健の文体と似ているが、違う。同様にジャーナリストの嗅覚を感じるが、似ているようで、違うのだ。何故、磯崎宅で読もうと考えたのか、不思議。開高、辺見共に磯崎とは異なる世界の人だと思うが。十九時夕食。七名。昨日、大分のギャラリーのシェフが来て、料理を作ったそうで、その五穀リゾットが美味であった。ほおづきを初めて喰べた。佐賀牛も。二十一時頃、東京へ二人戻り、二十三時半頃まで、夫妻と家内を交えて談笑。磯崎さんは精神も肉体も、老いていない。
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七月二十四日 |
七時過、下で物音がするので何かと思えば左官屋であった。都内では工事は九時前からなんだけど、働き者の職人は早朝から仕事したいのだろう。森田さんなんかは朝は三時半に目覚めちゃう、と言うのだから。職人の規準と一般的な都市生活者の規準はズレているのだが、一律に約束事は決められてしまうからね。八時四十五分新宿。四名で利根町へ。十時過取手着。佐藤さん出迎え。蛟もう神社隣の民家へ。笑う農園実施予定地の四反部の土地を見て、戻る。平坦な四反は広い。利根町あたりでは農家は大体一反百万円位で畑を手離しているようだ。東北では結城氏によれば一反六〇万円だから、まあ理解できない数字ではない。約二十名程の百人スクールのメンバーが集まって、バーベキュー大会。良い民家と作業所で、ここを百人スクールの拠点にできたらイイネ。風が良く抜けて気持良い。先程訪ねた矢尻塚の風を思い起こす。ヤキソバ、野菜、ビール、西瓜等を腹一杯いただく。眠くなって、民家に上がり込み三〇分程眠る。百人スクール農園の将来等を話し合い、十四時過会は修了する。十五時過石川よう子さんの小農園訪問。石川さんは百人スクールの初回からの参会者で、何度か強い印象を持っていた。いつも、前に出ようとはしないのだが、後でしっかり支えてくれているような、そんな感じ。何か背骨がしっかりしている感じがあって、一度訪ねてみたいと考えていた。案の定、石川さんの一・八反の菜園は見事なモノでゴーヤ、ズッキーニ、ナス、トマト、中国菜、ブドウ、西瓜等多彩な野菜が栽培されていた。畑の中央に気持ちの良い小屋が建てられていて、近所の人やクラスメートの会所になっている。石川さんは七十三才だが、やはり、これだけの見事な菜園を作られているだけあって元気そのもの、まさに、これからの高齢社会の理想的なライフスタイルを、体現している人である。東北の結城登美雄が語り百姓であるなら、石川さんは、すでにその理想を体現している風があった。利根町は、この石川さんの菜園をモデルにして、一〇〇人の共同菜園運動を繰り拡げれば良い。スクール主催の朝市、朝塾もしたら良い。十七時取手駅でビールを飲んで、二〇時頃世田谷村に戻る。夜、雄大の友人のスワ君来て宿泊。
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七月二十三日 |
昨日より、群馬左官大将森田さん親子、中沢兄弟が世田谷村の現場に乗り込んできている。いつも何の連絡もなしに、フッと現れて仕事しているのが、いかにもドン、森田兼次らしくて困ったものだが面白くもある。十一時乃木坂の白井版画工房。刷師の白井さんに中版の三点刷ってもらい、仕上げを試みる。ときの忘れもの・綿貫氏と会う。室内・塩野君も来る。昼食、眠々・民族食堂にて、コレは美味なラーメンとギョーザ。十九時すぎまで作業。グッタリ。流石に研究室に帰る気力なく、野村・デービッドに新宿迄出てきてもらう事にして、二〇時新宿待ち合わせ。コーヒー・ショップで森の学校の打ち合わせ。なんとかアイディアをまとめる。私のこれまでの建築の中でも特別なものになるかもしれない。松崎町那賀川の河岸フェンスでの試み、現代っ子ギャラリーのデザインを展開させたものになる。全体の形は無い。徹底して進もう。二十一時半修了。スタッフは御苦労さんだった。二十二時半世田谷村に戻る。今日は精一杯だったが、幸脇さんとの打ち合わせに出られずに申し訳ない事をした。少し計りワガママさせてもらった。
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七月二十二日 |
今日、次女友美がアメリカに発つ。三年間の留学となる。早朝まで荷造りに追われていた。朝一番で車の国際ライセンスを取得し、午後三時にNRT発らしい。 十時厚生館現場、増築部分の姿が見えてきた。改築部契約立会い。八月二〇日過に完成予定。島倉二千六さんの空は盆明けの製作予定。α社長若松氏との約束三〇分遅れで十三時過研究室。早く仕事場を大学から全て移さないと、人間自体が駄目になるな。先生と言われる程のバカはナシ。建築家も時に先生と呼ばれるから、私の場合はダブルバカ、トリプルバカになりかねない。先生と呼ばれぬ様に努力しなくてはならない。只今、十二時二〇分、京王線で新宿に向かっている。友美はうまくNRTに向かっているかなア。あの子は私を色濃く継いだ娘だから、うまく育ってほしいが、誰も先の事はわからない。十三時過研究室。α社長若松氏モスクワよりの帰りがてら寄ってくれて、打合わせ。八月のロシア、モスクワ大学訪問の件。松尾建設権藤氏来室。十五時半五反田トモ・コーポレーション定例会。十八時了。十八時四十五分大学研究室雑事指示。十九時もめん屋、集会。機械Bの先生方と建築の先生方。二十三時過修了。建築学科の若手先生方と話し合う。 木本一之君に頼んだ「ざくろ」。私の若いスタッフに作図させた。光その1、光その2、そして、ガウディもどきの鉄のツタ、島倉二千六さんの偽の空。フルーツ模様のラオスのペーパー等々。この(厚生館)建築では無意識の内のような意識の中のような、浮遊状態のままに幾つかの試みをしていた。
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七月二十一日 |
昨日、東京は三十九度五分という観測史上最高の暑さであったらしい。地球温暖化、ヒートアイランド現象が入り混じった都市異常気象に突入しているのだろう。これこそ、まさに環境問題の最たるものであろうが、打つべき手があるのだろうか。都市緑化、屋上緑化以前に、都市生活そのもののスタイルを変えてゆく必要があり、それが第一なのだが、生活スタイルを変えてゆくのには個々人の価値観そのものを、修正しなければならないのは自明の理である。それこそ改革せねばならんのは、個々人の意識、そしてそれを支えている無意識、つまり趣味の品格といった深層心理なのだろう。そういうレベルでは世田谷村のヤセガマンは良いとは思うのだが、家族のクレームも又厳しい。しかし、この暑さはやはり問題だな。 十一時大学、森の学校打ち合わせ。十三時松尾建設、十四時昼食、今日もさぬきうどん、これじゃ、夏負けするよ。十九時迄大学雑事。
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七月二〇日 |
只今、十一時、のぞみ3号で広島を過ぎ博多に向けて走っている。十二時前博多着。忍田さんと昼食後デザインセンターにて打ち合わせ。その後、カンサイ本社にて打ち合わせ。十七時二十二分発新幹線。チョムスキー世界を語る、再読了。
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七月十九日 |
海の日とやらで何なんだ海の日というのは、だが休日。 広島の木本君とのささやかな共同作業ほんの少し計りすすむ。終日、考え、手を動かす。夜、流石に少々疲れてバローロを少々。考えないのが休息であろうと思われるが、目覚めていれば考えるからナァ。 銅版画の充実と、空白との併存について直観するに、たかが芸術は謂はゆる世間様と無関係であり得るが、ベンヤミンを引くまでもなく、最良の芸術は他者、すなわち世間そのものでもある。私の銅版画は、多分私が現実世界で作っている建築よりも、はるかに良い。何故ならリアライズされ得ぬモノを彫っているから。しかし、花田清輝の「洛中洛外図」の論評を超えるものになっているか、どうか、大いに不安である。現代とは言わぬが、今の特質というのは知的把握力が、無意識界を陵辱し尽くしている現実があるからネ。そこらの非都市計画的路地をさまよっている、老人や婆さんの気持=記憶を考慮の対象とし得ぬ計画なぞ、情報化時代の計画とは言えぬ、という、それだけの直観はあるのだが・・・・。
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七月十八日 日曜日 |
終日、考え、作業をすすめた。夜、流石に疲れて赤ワインを少し計り。これ位の慰労は良いだろう。
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七月十七日 |
只今十時三〇分頃新幹線のぞみで岡山に向かっている。新神戸を過ぎた辺りで、間もなく岡山だろう。 昨日見た山口勝弘のヴィトリーヌはやはり良かった。半世紀前にあのような試みがなされていたのを知るのは少々の驚きでもある。ガラスの透明性と同時に在る物質感、そして見る者の動きと反応する運動性(変容性)がすでに的確に表現されていた。今のガラス建築の流行は山口のヴィトリーヌと比較すれば、ガラスのステレオ・タイプな俗性が表現されているに過ぎない。山口の存在は確かに「前衛」であったのを、失礼な言い方になるが、初めて理解できた。展覧会の場所も良かった。汐留の倉庫の中のギャラリーで、展示は小じんまりとしたものであったが、それも又的が絞られていて良かった。ヴィトリーヌの一点だけでもOKだったんじゃないか。カタログに山口が記していた。「新しい表現方法の開拓と古い表現を批判的に継承し表現領域の総合を行うことの精神を貫くことが、未だに私の中に生きております」の言は誠に山口勝弘の現在を言い抜いていると思う。私は真の芸術家と出会っていたのだ、という事を実感する。 岡山、倉敷、笠岡を廻り雑事をこなす。十八時三〇分頃、最終地は京都先斗町ますだ。会食を二〇時半迄。只今二十二時のぞみ最終便で東京に向けて走っている。色々と考えさせられて良い一日であった。 今朝の新幹線のぞみ車中で、つづけている銅版画シリーズの次の展開をいくつかスケッチした。しかし、本当にこんな事やっていて良いのかという疑問も又大きく育ってもいる。要するに中途半端はもう許されない。そんな時間も残されてはいない、という不安は大きい。建築設計に対する考えを明瞭にする為の、銅版画製作であるのなら、そんなモノはする必要がない。建築設計ではどうしてもやり切れぬ、限界があると考えを突きつめたところから始めるのならば、その作業には意味がある。要するに銅版画製作が単なる気まぐれでなければ良いのだけれど。
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七月十六日 |
朝から暑い。今日は幾つかの雑事をこなさなくてはならない。暑さ負けしているヒマはない。 十一時丸の内、雑事。十四時了。十四時半汐留、YOKOTA画廊。山口勝弘展<一九五〇年代>見る。
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七月十五日 |
河野鉄骨世田谷村二期工事一Fの鉄の床製作。十二時研究室。昼食はさぬきざるうどん。中盛りを喰べ残した。情ない。十五時野口君博士論文審査分科会。入江、渡辺両先生より、幾つかの注文が出た。雑用をすませて、十七時大学を出て、東大へ。十八時前東大難波研究室。十八時伊藤毅先生の講義「歴史のなかの都市グリッド」聴講。大きな網を投げかけているヴィジョンが感じられる講義であった。イコノグラフィクの極とも言うべきグリッドという概念で都市の歴史を論じたいという意志の顕現。二〇時修了。近くのすっかりおなじみになった料理屋宮本で会食。談論風発。二十二時半まで。只今二十三時過新宿京王線車中。伊藤先生の講義の中枢は、やはり歴史家特有の何とかあらゆる事象を説明し切りたいという意欲の現われがあったという事であろう。都市史という比較的新しい分野の歴史家の考えの一端に触れる事ができた。二十四時前世田谷村に戻る。
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七月十四日 |
こんなに時間がズルズルとパンツのヒモがゆるむように過ぎてしまっていいのだろうかと思わぬでもない。私の研究室の陸海の中国非自発移住者の住宅政策と住宅建設に関する研究に関しては、日本で評価できる学者がいるのだろうか、といささかな疑問がある。国際化とはハードなものだ。 八時前起床。まだ涼しいが九時頃から温度は上るそうだ。八時半河野鉄骨オヤジさん来る。増築部分一階の床張りにとりかかる。少々の段取りを打合わせ。十時松下電器空調&断熱性能の打ち合わせ。十二時迄。昼食、サンドイッチ、ミルク。デービット他と森の学校、打ち合わせ。十三時半、伊藤さん来室。伊豆の件。十五時過まで。ペーパー・プロダクトのリサーチ報告を聞く。十六時研究室発、厚生館現場へ。広島の木本君に発注する照明の予算をひねり出さなくては。八大建設西山社長、近藤理事長と打ち合わせ。会食。
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七月十三日 |
九時起床。広島の木本君より、スケッチ届く。写真館を営んでおられる父君が健康を害し、そのケアーでしばらく作業がすすまなかった旨の手紙がそえられていた。広島の片田舎で家族を大事にしながら、しかも独人でコツコツと仕事を続けている木本君の姿が眼に浮かんだ。私なんかの研究室での生活なぞはまことに甘いのを、こういう便りから思い知らされる。木本の作品はどうしても私の建築に使おうと再び決意を新たにする。午前中、世田谷で休む。十三時過大学。十四時陸海博士論文相談。十五時講談社園部さん、打ち合わせ。十七時迄。 松崎町大沢温泉ホテルの依田博之氏からお手紙をいただく。大沢温泉ホテルのリノベーションに関しての相談である。大沢温泉ホテルは先代の依田敬一氏が今和次郎さんの手を借りながら作り上げた伊豆半島有数の名門ホテルである。喜んで相談にうかがう事にした。こういう話しは嬉しい。松崎町の名町長だった依田敬一氏が亡くなられてから幾才月になるかな。 十七時過より室内連載原稿書く。「カタリベチーノ・結城、大いに語る」興が乗って十八時過ぎ書き終える。全ての原稿をこのスピードで書ければライターなんだけれど、そうはいかないのです。大久保駅前ソバ屋でビールを飲んで世田谷村に二十二時帰る。室内の原稿の表題だが、カタリベチーノ・結城よりもカタリベルティ・結城の方が良かったかな。人物を書くのが一番面白いのだが、その人物は実に平凡な、名も無い人物のほうが奥深いのだ。結城さんはでに顕在化し過ぎている。
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七月十二日 |
四時半目覚めてトイレへ。六時迄再び眠る。ベーシーと百姓生活の結城とを昨日は渡り歩いた、変な一日であったが、深く刺激された一日であった。六時より、結城に再び話を聞く。ロシアのダーチャの事、結城の新農村構想について。これに関しては早いうちに絵にして、結城に送る事とする。川合健二の農園計画、沖縄の自給自足、ロシアのダーチャ、若者のプータロー現象等が頭の中でグルグル廻り始める。七時半、朝食。卵の目玉焼、ハム、味噌汁、魚など盛り沢山。選挙の結果をTVで見る。八時半、再び農機具などを見学。四〇分、夫人に車で古川まで送っていただく。道々、夫人が色々な話をしてくれたのが実に印象的であった。女性の話しは、足が地に着いている。だからと言って男達の話しが宙に浮いていると言うのではない。視点が驚く程に違うのだ。九時過古川駅着。夫人にお別れを言って、九時三十五分のやまびこで東京へ。百姓になろうとして、行動に移した結城家を訪ね、良く学んだ二日だった。十二時東京着。駅構内のレストランで昼食。ざるラーメン。貧しい食文化です、我ながら。毎日の食事と結城さんの百姓暮しは結びついているのだが、さりとて、どうすれば良いのか。十三時小田急線喜多見駅、十三時半高山邸地鎮祭。十五時境界のフェンスの件等で建売業者と少し強面の打合わせ。十六時修了。狛江より電車を乗り継ぎ南町田へ。なんとも東京周辺は動くのに気を使うな。しかし、東京は実感として白い廃墟だな。十七時十五分南町田。古木理事長に迎えられて、いつものテニス・クラブへ。森の学校、最終打合わせ。何とかプランはまとまりそうだが、まだまだ。十九時半終了。じゃがいもとトマトをもらって帰る。只今二〇時十五分田園都市線溝ノ口を通過。何だか疲れた。二十一時半世田谷村に戻る。
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七月十一日 日曜日 |
五時半起床。玉ネギ、卵、ごはんの朝食。六時十五分下に降りる。石井が眠そうな顔で待っていた。六時三〇分友岡父子車で迎えに来る。出発。首都高速を走り東北道を一路、一ノ関へ。途中、清秀君が運転中眠りそうな状態で、九時前宇都宮あたりで彼を仮眠させる。若いのは本当に良く眠くなるな。私はガキの頃、川合健二から超スパルタ教育されて、夜は眠っちゃ駄目。眠るのはイワシなの、なんて理屈にならないシゴキ方されているから、あんまり眠くなったりはしない。学生というのは本当に弱い生物である。勉強なんかしないで、運動場で腕立て伏せ百回してた方が本当は良いのだ。今日はベーシーで菅原に会い、次に古川で結城登美雄に会う予定なんである。今日は良い休日になるだろう。只今十時半過。福島西通過。友岡社長・清秀とアジアの手漉き紙によるテーブル・ウェアーその他の話をする。建築用に使う話しは簡単なのだが、食器の方は仲々難しい。しかし、食器その他のマーケットの方がはるかに大きい。十二時半一ノ関ベーシー着。菅原のすすめで富沢魚店の焼魚定食、大きなさばを食す。美味であった。ベーシーでひとときを過す。高橋さんとも再会。フランク若松をしのび、シナトラを聴き、あわただしくベーシーを去り、再び東北自動車道を筑館で降りる。田野の中を走り、結城宅へ。十六時過、道端に立って待っていて下さった奥さんに導かれて、百姓になって初めての結城登美雄に再会。まん丸い顔がますます丸い、初々しい百姓姿が懐しかった。座敷に上り込み、話を聞く。三十一才の元教員の息子さんが主体の農家のようだ。登美雄さん、大いに語る。語り部百姓の趣あり、しかし、それが一向に嫌味ではない。話しが一段落したところで一町五反(一・五ha)のゆるい棚田状の畑を案内してくれた。トマト、ナス、インゲン、大豆、カボチャ、キューリ、じゃがイモ、他雑多な野菜を実験的に作っている。一町五反が二つに別れて、五反の田んぼは少し計り離れたところにある。その全てを住宅や納屋、作業所付で千五〇〇万円程で入手したのだという。田畑は一反、五〇万円で買えるそうだ。要するに日本に三百二〇万世帯の農家は毎年六万人づつ減少している。パチンコ、外食、サラ金が農村風景の背景にあるのだと言う。それで、そんな法外とも思える値段で田畑が手放されている。聞きしに勝る農村風景だな。三ヶ所の畑、田んぼを案内され、十八時過結城宅に戻り、食事をふるまわれる。じゃがいもがおいしかった。ベーシーに戻るのを断念して、菅原に電話。申し訳ないが、今夜は結城登美雄と語り合うのが筋だと判断。二〇時頃、友岡父子、石井明日の地鎮祭のために猪苗代に発つ。私は結城宅にとどまる。ここに来るのは結構大変だな。結城におおいに教えられ二十二時過一段落。家族とTVで参院選の経過などをみているうちに、結城、自然に寝てしまう。私も二十二時半、座敷に床をのべていただいて休む。涼しくて、蚊もおらず、グッスリと眠りに落ちた。室内の連載は結城、百姓になるを書くことに決めた。
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七月十日 |
十時研究室。十時半池上、伊藤さん来室。打合わせ。十二時迄。昼食、野菜ソバ。このところ暑さに負けてソバばかりだ。雑事を少し計り。十六時過研究室発。その間、藤森昭信の本読む。エクスナレッジのイサム・ノグチ生誕百周年特集も読む。これにも藤森が丹下健三とノグチに関して書いている。藤森の兄弟筋の赤瀬川源平さんも書いている。何だか、同じようなところに着目しているようで感じ悪い。要するに、イサム・ノグチの庭園美術館は未知の領域のニュアンスが内在しているのに、二人共気付いている。こういう事に気付いているのは自分だけという喜びが少し傷つけられて、残念であるが、マ、仕方ないだろう。マル族の記憶と称して、私がイサム&B・フラーについて書いた中枢は、イサムもフラーも丸い頭をしていて彼等の仕事は謂わゆる画家達の自画像の連続だったという事。マル族はプレ・モダーンの総合性とポスト・モダーンの未知の可能性の双方を混濁させている、カオスを持つという事であった。又、イサム家の前の「マル」と呼ばれる地蔵さんの居る古代的場所の創造に於いて、それを藤森は時間と存在と、シンプルに呼ぶのだが、その「マル」の創造によってイサムはB・フラーの成し遂げ得なかった領域を創出したという事。「マル」には古代的なニュアンスが横溢しているという事。王権や神によらないイコンの複合か。創造という事が、歴史家の手付、物腰と極めて接近している世界の可能性が表されている事。それ等を指摘したのだが、藤森、赤瀬川義兄弟組は、その事にどうやら気付いているようなのがはなはだ気分悪いのであった。十七時過、世田谷村に戻る。銅版画をすすめた。十九時半、烏山の中華料理屋で家内と夕食。二十一時家に戻る。マア、こんな風にだらしない生活を一年位続けさせてもらえれば、エネルギーは再びたまるだろうと思うが、今迄こんなに休んだ事がないから、その度胸があるがチョッと自分でも心配だ。六〇才になって本格的な休息をとるのは、本格的な不安も又、ともなうのだが、マア、自然でもあるのだろう。
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七月九日 |
朝、FAXで研究室にいささかの指示。久し振りに石井のスケッチに心地良いモノを感じた。この人の感応力は良い。猛暑の中、杏林病院へ。下のコンクリート土間で再び、怪猫ドン兵衛と会う。ドン兵衛の眼つきは実にイヤなモノがあるのだが、何処かで見た事があるぜ、この眼付き。昼前、世田谷村に戻る。今日はここで色々とヤル。伊東豊雄さんより久し振りに電話あり、何かたのまれた。伊東さんじゃ、イヤと言えないね。只今、十四時二〇分。うだるような暑さの中で、家の中を片付けたりしている。工夫して風が通るようにした。銅版画にとりかかる。十六時河野鉄骨来。これからの事など相談する。京王稲田堤の二つの保育園の現場を見せて、次に何をしたいと考えているのかを伝えた。すぐ実験してみるとの事である。ヨシ。十八時世田谷に戻る。屋上庭園に上り、小一時間程落日を眺めながら散水。十九時再び銅版に取り組む。烏山神社の黒い森を眺めながら風呂につかっていると、何か変なモノが身体を動かせてくるようだ。夜半、北の風が家の中を吹き抜けて心地よい。
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七月八日 |
七時過起床。今日も猛暑である。樹木はソヨとも動かぬが家の中の空気は微妙に動いている。ウサギのツトムは暑さの中で哲学者になり、小猫のイワノフは相も変らぬ普通に元気な猫だ。昨日、一階のコンクリート土間で、怪猫ドン兵衛と面会した。ドン兵衛は大きな白黒ブチの野良猫で都市の中のフテクサレ・ホームレス猫である。人間をねめつける眼つきが凄い。町の中で生きるのは大変だろうと思わせる。流石に私も野良猫とニラミ合う気力は今は無い。圧力を感じてこちらの方が眼を伏せるようになってしまった。二週間程TVが故障していて、TVを視ない生活が続いているが、確実にその分、読書、銅版画はすすんでいる。多愛ないものだ。人間も動物なのを実感してるんだろう。 十時半研究室、照明デザイナーと打合わせ。十二時昼食さぬきうどん。三〇分外国人特別入試面接。私の部屋のチリのアベル面接。合格となる。十三時過雑事。十四時半研究室を出て、目白GKへ。十五時栄久庵憲次さんと会う。フィンランド・プロジェクトに関して。十六時四〇分研究室に戻る。十七時大阪より来客。十七時半友岡清秀来室。アジアの紙の見本持参。研究室発。只今十八時過新宿より京王線稲田堤へ移動中。栄久庵さんに富士嶺観音堂の写真を送らねば。和歌山の道具寺のプロジェクトが良い方向に動くとよいが。十八時半厚生館現場。十九時、理事長、雲描き島倉さん、八大建設西山さん等と打ち合せ。二〇時半修了。その後会食。島倉さん、大いに語る。妹尾河童の話しも出たりしてなつかしかった。妹尾太郎も何しているんだろうね。二十三時前修了。二十四時前世田谷村に戻る。
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七月七日 |
七時頃起床。今日は七夕だな。風の無い蒸し暑い朝である。十時三〇分研究室。GA杉田君インタビュー。なかなか難しい話になってしまった。杉田君が話そうとしている事が仲々理解できぬようになった。アブナイな、コレワ。十二時修了。十三時半松下電器空調。忍田邸打合わせ。十五時半Gスタジオ。十六時半石山研ゼミ。世界の住宅価格の比較研究。それぞれの院生の才質が視え始める。M1より二名ピックアップして昨日まで考えていたアジアの和紙(民俗的生産方法による紙)の日本での市場に関するプロジェクト、つまりテーブル・ウェアーのデザインを依頼する。キチンとしたリサーチからデザインをすすめられるかどうかは本人達次第だ。十八時半厚生館打合わせ。二〇時迄。新大久保駅前ソバ屋で夕食。幾つかの懸案事項を打合せ。二十一時半迄。世田谷村に二十二時半到着。暑苦しい一日であった。銅板に取り組もうとしたが、力なし。広島の木本君に便りを書く。独人で努力を続けていてくれているだろうか。協力者達は大事にしなくてはならぬと自分に言い聞かせる。身近なスタッフとも本来ならば同様に附合わねばとは思うのだが、笛吹けど兵踊らずの日々が続くなあ。仕方ネェ。ぜいたくは言うまい。二十四時休む。
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七月六日 |
いくつかの現場での工務店情報によれば工事量の激減を一番ストレートに喰らっているのが左官職だそうだ。絶滅の危機に直面しているのだな。職人学校なんて言ってるヒマはもう無い。リアルな現場をしかも多く作らなくては駄目だ。 昨夜、東北の結城登美雄と久し振りに電話で話した。結城さんは仙台で大きな広告代理店を主宰していたが、バブルの崩壊と同時に閉店。その後一人の民俗研究家となり、日本中を巡り農業の実体を見聞した。その間の事情はいくつかの結城さんの書き物で知っていた。一年前、彼は東北に田畑と農家を求めて、遂に百姓になった。今は百姓半分、他を半分の生活らしい。外から眺めるに、これは人生としては理想的なものである。内に入れば色々と過酷な事があるのだろうが、ともあれ友人達の中では一番勇気ある決断をしたのは確かである。今週末結城さんの生活を見学に行けるかな。職人達も半農半職の生活に戻る手もあるぞと考える。森田さんの群馬左官会館だって、群馬の野菜売り場にしながら職人訓練学校を細々と続ける手もあるのではなかろうか。十時現在、新木場に向かう有楽町線車中。今日はトモ・コーポレーション物流センター新築の地鎮祭である。良い建築になるかどうかはこれからの努力次第だ。ゼネコンとの闘いだな。トモ・コーポのアジアの手すき紙、クロスを建築用資材として利用する事が考えられないか、と再び思い付く。十一時トモ・コーポレーション物流センター起工式。暑い。十三時芝浦にて昼食会。その後、定例の打合わせ。只今十九時、松尾建設スタッフと別れ、帰途についている。良い建築になるか、どうかはゼネコンとの附合いで決まるものではないのは、勿論知り尽くしているが、附合いは附合いである。 ネパールその他の紙製品を日本に流通させるプロジェクトを左官職達と出来ないか、というような闇雲な考えが湧いている。何しろ、左官職達は日本国中に千五〇〇ヶ所以上の事業所を構えているのだから、これは強烈なシステムになり得るんだよな。私に赤裸々なビジネス感覚があれば、一気に事業を起せるのだけれど、残念ながら、私は金が本来的に、それ程欲しくはないんだナァ。事業に成功する人間の本質は金が欲しい奴なんだよね。二〇時半世田谷村に帰る。独人で色々と考えていると、次第に妄想じみてくるのが自分でもわかる。夜、結城登美雄に連絡して、今週末の訪問を伝える。友岡父子が猪苗代前進基地の地鎮祭に出掛ける予定を組んでいるので、その足で訪問する事にしよう。ネパールの和紙の件は清忠とM0を動かしてみる。紙で食器やテーブル・ウェアーがつくれると良いのだが。
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七月五日 |
七時起床。昨日は夜、本の拾い読みをしていて面白い事に気付いた。山本夏彦にしても佐藤健にしても、生前よりも亡くなってからの方が、書物に書かれている事がハッキリしてくるのだ。私の友人達もそれぞれに知人を亡くしている筈だが皆、そんな実感を持っているに違いない。世界は膨大な死者によって形作られている。九時世田谷村ゼミ。上田食文化と水。青臭いがコレは仕方ない。マアマアである。その他。一人欠席聞けば体調を崩しているとの事。青年は体が一番大事だから養生して欲しい。しかし、体調も運、不運があるから、自分の若い頃を思い起こしても、どう養生していたか、全く記憶がない。十一時半過池袋より東上線で上福岡、千代田さんコンバージョン現場へ。コンビニエンスストアーを居室及び私設ギャラリーにするもの。小品だが、私の研究室のコンバージョンの一号になる。早稲田周辺のまち再生を含んだコンバージョンが仲々動かないので、こういう変型のものが最初の事例になった。十二時半現場。近くのソバ屋でソバ一合半食べて仕事。群馬の森田オヤジ(元日左連会長)他が待っていた。十五時迄。十五時過、森田のオヤジさんがチョッと飲みたそうだったので、二人で駅前の焼鳥屋へ。森田兼次七十七才、日本の職人の大親分もいささか年老いた。しかし、意気ケンコーたるものもあるのだが、悲哀に満ちている。往時三十七万人いた日本最大の職人の組合であった日本左官業組合連合会も今や十数万人の小人数になった。大工の組合である全建連よりも少し多いくらいの小人数だ。森田会長以後、池本会長が継いだが、これは職人の中心というよりも、ゼネコンの下請けを代表するような人物であった。要するに親分としては役不足。職人の職人たる由縁を考えられようもない人物であった。他も皆雑魚だった。わずかに金沢のイスルギ位だったろう。そのイスルギも今は無い。要するに職人の自立をうながせるような人物が居なくなった。これは哀しい事なのだ。職人世界は組織者(オルガナイザー)が不在だ。要するにゼネコンというのは職人世界の理念無きオルガナイザーであった。十三才の時から職人を自他共に張っていた森田兼次は、本当は職人世界の最期の大親分であったのだ。「もう駄目です、・・・」と彼は言う。確かに、勝ち目はもうない。しかし、そう簡単に負ければ良いという問題ではない。職人の組合活動の可能性について考えてみたい。十六時四〇分、群馬に帰る森田さんと別れて、上福岡駅へ。只今十七時東上線志木である。十七時四十五分新宿。柄谷行人のナムの会は本格的にやるのだったら、建設業の実体を支えている職人組合をオーガナイズする位でなければ駄目なんだ。中途半端な柄谷ファンとインテリをいくら集めたって、社会的にはへのつっかい棒にもならない。森田兼次が生きている間に、負けの職人の最左翼である左官職の、小さな組合を作るのに時間を割いてみようかと考えている。このアイディアは十五年位前から持っていたものだ。仕事を作らねばどうにもならぬ、のはハッキリしている。
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七月四日 日曜日 |
七時前起床。おだやかな初夏の朝だ。今日は終日銅版画に取組む。森の学校のデザインに少し光明が視えてきている。八時過二点目の大判銅板彫りすすめ小休。一点目にも手を入れる。次は一番大きい奴に手をつけてみるか。無心になれるのが救いだなコレワ。九時半二点目ほぼ目途がつく。朝食。十二時前三点目。午後にエネルギーが残っていたら四点までいけるだろう。少休。流石につかれた。十六時前三点目ほぼ終了。急ぎ過ぎてもいけないので手を休める。一番大きいのは手がつかないか。十七時原口氏来宅。二〇時前銅版に向かうのに疲れ小休。今日は三点手がついた位で満足しなくてはならないか。時間のスキマで佐藤健の「阿弥陀が来た道」「ルポ・仏教」フェリックス・ガタリのカオス・モード読む。読み直してみると佐藤健は仲々のものである。二十二時四〇分、本の拾い読みを終えて、休む。今日はもう銅版に取組む気力がない。色々と考えた日曜日だった。銅版に彫り続けているモノが何なのか、まだ解らないが、いずれ解るのだろうという予感はある。銅版を見た原口氏はノアの方舟なんじゃないと言ったが不思議なインスピレーションを持った人だな。トルコのアララット山の頂近くにノアの方舟が埋まっているらしい事を知ったのはもう二〇年近くも昔のアナトリア高原の旅であった。以来この神話だけは非常にリアルに信じられる自分を知っていた。その類のモノへの神話学的憧憬が彫られているのかも知れないな。
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七月三日 |
六時前起床。昨夜半彫りあげた銅版に再び手を入れる。ようやく、マアマアの感じになってきたので小休止。これ以上は一度プリントしてもらってから手を入れた方が良い。七時半過再び寝る。大版の銅版に彫りたいモノが湧いてきているので、今日、明日で六枚全部やってしまおうか。しかし、バウハウスのセオリー・センター構想は興味深い。ツィンマーマン学長はその為にずっとハイレベルの国際的カンファレンスを開催してきた。日本からは柄谷行人も呼ばれた。ボードリヤールも来た。シカゴのサスキア・サッセンともワイマールで会った。その蓄積がバウハウス・セオリー・センターになってゆく。こういう考え方、構築性というか、背骨が日本では仲々視えない。全て個人の努力に帰してしまう。日本語文化の限界か。しかし、私の語学力ではどうにもならない。せいぜい眼で視えるモノで考えを伝えていくしかないな。 十時半屋上菜園に上る。春に雑草抜きを丹念にしておいたので、今年の夏の屋上は荒れていない。程々の草花と程々の雑草が混在している。トマトは今年も駄目だ。陽光が強過ぎるか、土がやせているのか、風が通り過ぎるのか。ていねいに育てなければ野菜はダメだな。十三時研究室α社若松社長と会う。若松さんの熱意に押し切られて夏にモスクワに出掛けなければならなくなった。ロシアも今や日本の高度経済成長期のようだ。何しろ、行って見てくれというわけである。ITビジネスの人間は感性先行型の人間が多いのだろうか。十五時幸脇夫妻来室。軽井沢の家がほぼまとめられる迄になった。十六時プロダクトミーティング。ペイヤオのセンスが光っている。近々住宅をやらせてみる事を決断する。雑務を少々こなして十八時過大学を出る。夏の夕暮れらしい空気の中を帰る。こんな時には様々に色んな考えが湧いて出たものだが、今はそれはない。年令ではない。体調が良くないのだろう。十九時烏山宗柳で夕食。宗柳のオヤジと久し振りに話す。オヤジもけがをしたり、何やらで大変だったらしいが、まずはキチンと生きていて良かったね。長女徳子にごちそうになった。
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七月二日 |
八時起床。さわやかな朝だ。少し計り体に力があるようなので銅版画と取り組む。調子が出てきたところで休止。十時研究室。高山夫妻八大建設契約に立ち会う。十二時過想いたって世田谷村へ。十四時迄銅版製作。宗柳で昼食。真夏のような陽光で気持よい。 高山夫妻は新世代のクライアントだ。ドアノブもインターネット・オークションでアンティークなものを購入しようとしたり、バスタブもドイツから気に入ったモノを取り寄せようとしたりで、正直、こちらは仲々、その相談に一つ一つ乗るのは大変なのだが、良く良く考えてみれば、このやり方は私の持論としてきた事なので、逃げるわけにはいかないのだ。 十五時前烏山発。十六時田園都市線南町田森の学校定例会議。古木理事長さん達と会食。二〇時半新宿にてJ・グライター教授と会食。今日二度目の夕食であるが、何とか頑張る。グライターとはニヒリズムに関して彼の持論である遺跡とメランコリアに関して、その他私の貧しい語学力の枠はあったが、実に面白い会話を交わした。日本人同士では仲々出来ぬ話しだったような気がする。李祖原、J・グライター共に、友人として広がりのある地平を感じさせてくれる。J・グライターは十一月より、ワイマールのバウハウス大学で再びゼミナールを持つ事になったようだ。二年間早稲田の建築学科に教授として腰かけてもらったのだが、それはそれで良かったのではないか。アーキテクチュアル・セオリー・センター in ヨーロッパをバウハウスにツィンマーマン学部長と創立するプログラムが実現されるようだ。セオリー・センターか、と・・・・・。ツィンマーマンバウハウス元学長のヨーロッパ的ポリティカル・ストラテジーの骨格を感じたね。アジアには特に日本にはこれが全く欠落しているんだナァ。理論センターという構想が日本には無い。今の日本に欠けているというよりも全くイメージとしても構想されていないのはこの骨格なんだけれど・・・・・、駄目なんだろうな。十年後にワイマールで新しい建築理論の骨格が構築される事に期待しよう。二十三時、明日、ベルリンに帰るJ・グライターとサヨナラして、二十四時頃世田谷村に帰る。 今夜の月は昨日の白い透明な表情ではなく、黄褐色に混濁している。日々、月の色も変わっているのだナァ。全て同じところにとどまっていない。大版銅版画一時過彫り上げる。
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七月一日 |
まあ、なんと月日の経つのが速い事か。アッという間に六月は終った。消えていったという感じだな。九時三〇分J・グライター講義。ヨーロッパの建築文化と日本のそれとの相違について。一、日本には遺跡が無い。二、ヨーロッパのモダニティはアヴァンギャルドによって成立したが、日本のモダニティはアヴァンギャルドの不在の中でなされた。三、ニヒリズムに関しての態度の相違、という様な事を中心に二時間にわたるものであった。グライターのレクチャーはニーチェ研究家であることからも、らせん状に時間が現在、過去、未来とレクチャーのテーマ自体が動いているのが面白い。昼食は冷しなめこそば。十三時松尾建設、新木場物流センターの最終デザインについて。十五時迄。十五時過プロダクトミーティング。十七時半大学発。十八時半世田谷村に戻る。塩野君よりとくそくされている石山画文集のまえ書きを書く。二十一時過修了。キレイな白い色の月夜である。
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2004 年6月の世田谷村日記
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