石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年10月の世田谷村日記
 九月三〇日
 昨夜は台風が又も来襲したがグッスリ眠った。
 テーブルに九月二〇日付のベーシー菅原からのファックスが書類の山の下から出て来た。時すでに遅し、菅原上京のスケジュールが記されていたが、一昨日、菅原は一ノ関に戻っていた。誰が悪いというのでもない、時にこういうスレ違いがある。非常に多くあると言っても良い位だ。十時半新宿駅でパッタリ、山田脩二の娘と会う。淡路島のお母さんもお元気だそうだ。  十三時早大本部。ミーティング十四時半修了。十五時研究室に戻り、三年の設計製図課題発表とグライター教授レクチャー、私の小レクチャー。十七時過修了。特別休暇が明けてしまい半年振りに学生に語りかけたが、どうだったか。
 グライター教授が明日ドイツに戻るので、今日は簡単な夕食を共にしよう。明日から十月か。  只今二〇時十五分、新宿駅京王線内。J・グライターとお別れディナーを終わって、世田谷村に帰る途中。実感するに、体力の沈降現象は、ほぼ今日で停止したようだ。この辺りが我ながら間抜けなんだが、明日の十月からは体力、気力共に上昇気流に乗るつもりでいたい。間抜けは間抜けで仕方ない。明日からの十月を想えば、やっぱり「十月はたそがれの国」。十月はメランコリーな幻想ばかりを生み出しやすい季節の代表でもあるから、用心しなくては。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 九月二十九日
 十時過研究室。十時半幸脇さん打合わせ。十三時過まで。雑用、打合わせ、十九時過まで。丹羽太一本ページ編集人いわく、石山は研究室には居ない事があるが、ページの中にいつも居る。これは仲々の名言かも知れない。丹羽君と話せるのは月に一回あるか無いかだから。二十一時世田谷村。

 九月二十八日
 ワーグナーのバイロイトのオペラハウスの外見上のみにくさは機能主義の原点であったかも知れない。オペラを楽しむ単一的機能を純粋に追うというよりも劇場を一つの楽器として想像する。幕間にロビーやらでシャンペーンやワインを楽しみ、着飾ったそれぞれを見せ合う楽しみは捨てる。そういう割り切り方がバウハウス流の機能主義の始原であった。
 李祖原の超大型建築の本来的な価値は、その単一機能追求とは様相を異にする。力なんだろうと憶測しているが、まだ良く解らない。それ以外の意味は地球規模ではあり得ない。
 十一時研究室。李祖原の中国大陸での仕事の現実を聞く。聞きしに勝る、ほとんど死闘だな。それでも、北京オリンピックの主会場横のモルガン財閥の超高層及びコンプレックスを獲るのだから、異常とも思える力である。ミルクにサンドイッチの昼食をとりながら雑用に次ぐ雑用、十六時四十五分、研究室発。十七時二〇分新宿。聖跡桜ヶ丘へ、近藤理事長、島倉二千六氏、西山社長と会食。

 九月二十七日
 朝、ときの忘れものの為にひと働き。十一時半世田谷村発。十三時新木場、現場定例会。トモ社長、専務等と。十六時過修了。杭打ちは全て修了。大学へ。
 十七時過研究室。ドイツよりJ・グライター特別講義の為来日。十七時半李祖原、J・グライター連続講義、稲門建築会主催。二人の講義は好対照を示していた。この開きの中に現代建築が抱える幾つかの重要な問題がある。J・グライターが何故、講義の主題を劇場にしたのか、アンドレ・パラディオからリチャード・ワーグナーに来て少し解った。ワーグナーとニーチェの関係は実に濃密で、又、激烈な相反を招くものでもあったのは良く知られるが、ニーチェ研究を介してワーグナーに接近したんだろう。パリのオペラ座とバイロイトのワーグナーの劇場を比較して、アナーキストとしてのワーグナーのシアターの性格を浮彫りにしようとしている。次は、ワルター・グロピウスのトータル・シアター。世界観の反映としての劇場の小史を開陳している。一九二七年のシアタークラス at バウハウス。これ以降のシアターは劇場のタイポロジーとしては歴史に逆行、退行しているというのが彼の意見。次にヨルン・ウッツォンのシドニーオペラハウス。次がハンス・シャルーンのプロジェクト。フランク・O・ゲーリーのディズニーホール。二〇時四五分修了。二十一時過、高田馬場地中海料理文隆にて二人と夕食。二十三時前修了。二十四時前世田谷村に戻る。

 九月二十六日 日曜日
 九時、世田谷村発、芳賀牧師を訪ねる為、東長崎の教会へ向かう。十時十五分豊島北教会。住宅街の中の小さな教会で威圧的でなく好ましいたたずまいである。芳賀牧師が教会前に立って迎えて下さる。来訪者には皆そうしているようだ。十時三〇分、日曜日の聖集会はじまる。十一時四十五分修了。芳賀牧師に皆さんに紹介される。長老の方にお目にかかるなどして十二時過までお茶をいただき、帰途につく。只今、十二時五〇分山の手線高田馬場駅通過。新宿で昼食をとり、十四時世田谷に戻る。小林秀雄「ピカソ」読む。模倣と抽象について、随分深い考えを持っていた事を知る。若い頃、読んでもわからなかった。やっぱり大変な人なんだ。

 九月二十五日
 朝、松崎町役場の森町長公室長に電話。今日は伊豆の長八美術館二〇周年記念の会があるのだが出席できぬかも知れぬ旨をお伝えする。淡路島の山田脩二に電話、彼がもしや松崎町に行っているやも知れぬと危惧しての事。幸い山田は東京の明大前に居た。これから研究室に出ていくつかの雑用を片付けねばならない。十一時研究室。図面チェック他。
 夕方、ときの忘れものギャラリーへの案内状送付先について太田とミーティングをする。何せペインターとしての展覧会は初めての事なので、どの当たりの人に招待状を出したら良いのかつかみかねているが、努力してみよう。二〇時修了。世田谷村に戻るも、一人であった。

 九月二十四日
 昨日は、お彼岸の休日だった。終日坂田明の「赤とんぼ」を聴きながらのドローイングに明け暮れした。大判一点、中判一点を製作できた。こういう暮らしも良いが、これはこれなりに自身との対面を続けなければならぬので、仲々にしんどいものがある。描きたいものがあるうちは良いが、失くなった時の空白感は凄まじいだろう。
 今度の展覧会に際して描いた銅版画、ドローイングの自分なりの特質を考えるに、建築からの自由って事だったのではなかろうか。六〇才になって、何かと不自由になってる自分を感じていた。自由とは自堕落とは異なる。放埒とも異なる。身体の不可能性からの離脱への希求のことだ。その為には何よりも自身の気持ちの中に深く降下していく必要がある。自分を動かしている核を解らずして、自身からの解放はありえない。
 都バスの運転手が新宿西口に着いて客を皆降ろして後、車内を念入りに点検するようになって久しい。〇一年の九・一一テロを他人事でなく感じる一瞬だ。十時半研究室。十五時半迄忍田邸打合わせ。室内展開図の大半を押さえる。集中したので五時間がいいところだった。十六時半青山、ときの忘れものギャラリー。ナイトスタディーハウスの催し始まる。ギャラリーでチョッとごあいさつをして、タクシーで西早稲田の観音寺へ。三〇人位の人が集まった。十八時話し始める。四十分程で切り上げ皆さんからの質問その他いただき、できる限り答える。十九時四〇分修了。綿貫さん、豊島北教会の芳賀牧師さん達と近くのレストランんで会食。二十二時過修了。皆と別れタクシーで新宿へ。二十三時過世田谷村に戻る。

 九月二十三日 休日
 「赤とんぼ」  夜は、坂田明の「赤とんぼ」「家路」を聴きながら、いつの間にか、深い眠りに落ちた。何の作為も視えぬ自然体の音楽だった。一時健康を害し、休養したと聞いていたが、坂田明は彼の身体を介して一種のドン底を視たのだろう。この底の知れぬ程に柔らかく開放的な音楽は、彼の身体が暗闇にあった状態からの帰り道、固くいえば平安への帰還の状態が表現されているように直観した。坂田は身体の闇を体験し、身体の平安状態がいかに奇跡的なものであるか、その平安がいつでも突然崩壊していまう現実に対面し得たのではないか。
 音楽は時間の芸術である。刻一刻の音の変化、配列の妙を楽しみ尽くそうとするものだ。常に流動、変転する。ここに表現されているのは、その原理のフォルムのようなものだろう。山田耕筰作曲の「赤とんぼ」は日本の高度経済成長以前の、つまりアメリカ文化化する以前の日本人の抒情の質を代表するものの一つだった。詩とあいまってその叙情の透明性は俗なセンチメンタリズムを超えていた。感傷性はしかし、確実に抒情の一角を占める。坂田の抒情は彼の身体の暗闇状態を経て、無常の平安の感性に辿り着き、その事によって感傷の傷も自然に乗り越えてしまった。我々に共通するかも知れぬ抒情の姿が明快に示されようとしている。
 その抒情がJAZZというアメリカン・モダニズムの極とも言うべき方法で生み出されているのが実に興味深い。聞きかじりではあるが、JAZZの源泉はアフリカからアメリカ大陸に移送された黒人の悲哀の音楽ブルースであったらしい。坂田はJAZZの中でもフリージャズと呼ばれる前衛的なフィールドで活躍してきた。その体験、病の経験等を経て、坂田は何処かに深く帰りつつある。生老病死は、誰もが対面しなければならぬ宿命であり、現実だ。坂田の「赤とんぼ」の驚くべき内的充実と抑制は恐らく、その現実への対面を経て得られたものであろう。
 急に坂田明の声が聞きたくなって、家に電話してみたら、何と居た。二十七日からアメリカだそうだ。眠そうな声だったからまだ寝ていたんだ。悪かったと思い早めに切り上げた。絵描いてるらしいんじゃない、って言ってたから、私の展覧会の知らせは行っているらしい。俺はたいした人間じゃないが、友人だけは凄いのがそろってる。赤とんぼ聴いてそう確信した。坂田も来年は還暦だ。お互い自然に、帰り道に入っていくのだが、マァ自然に、自然に突張りたいものです。
 坂田の生身の声を聴いていたら、何故かデューク・エリントンとコルトレーンのイン・ナ・センチメンタルムードも聴いてみようと思い付き、今聴いている。この曲の抒情の構築性も凄いが、坂田の「赤とんぼ」はデューク、コルトレーンという巨匠が残した成果とは違う、未開の縁に満ちた、それでも荒野を示し得ている。JAZZの分野で黄色人種として、アメリカの黒人に互していくのは大変なハンデがあるだろう。坂田明の「赤とんぼ」は、その可能性をも示し得ている。分野の壁を超えている自由がある。これを入手するには、坂田明いわく、「この作品を、巷で見つけて『おっ!なんじゃこれは』ということはまずございませんので。」というわけで〒335−0001埼玉県蕨市北町4−4−30DAPHHNIAまで¥2625円と送料を同封して申し込んで下さい。又、坂田明のサイトは http://homepage3.nifty.com/sakata/ 。淡路島の山田修二に早速電話して「赤とんぼ」すすめた。もっと多くの友人に電話してみようとも思ったのだが、「赤とんぼ」かよ、とか言われそうなので止めた。
 今日は一人きりの世田谷村でもの想いにふけりがちになるといかんなと考えて、昼食後、大判のドローイングにとりかかる。綿貫さんが送ってきた一番大きな紙に挑戦する。十七時過、大きなの一点仕上げる。集中したので完璧に疲れた。「荒地を横切る」と名付ける。坂田の「赤とんぼ」をズーッと聴きながらやったので、少しはあたたかく、明るい空気のドローイングになったような気がするがどうか。  塩野君、十九時世田谷村に出来上がったドローイングとりに来る。ときの忘れものに持ち帰ってすぐ展示にかかるつもりらしい。絵を描く人は要するにロボットだな。しかし、描きたいモノがあるうちに沢山描いておこう。あんまりこういう機会は多くないだろうから。

 九月二十二日
 八時半新宿。野村と鶴間へ。現場説明会。十時現説。七社参加。十三時前小田急線にて新宿へ。古木理事長等と中央林間のコーヒーショップで話し合う。建築工事は絵のようには自由にできないところが面白いと考えたいのだが、本当に雑事の山である。昼飯を食べ損じて空腹の極み。新宿でソバ喰べて、十四時半丸の内へ。雑用。十六時前修了。銅版画大判のモノに彩色するために青山のときの忘れものギャラリーへ。十九時前彩色の仕事修了。綿貫さん、福井の荒井さん、塩野君等と会食。二十一時過世田谷村に戻る。坂田明から最新作CD「赤とんぼ」送られてくる。

 九月二十一日
 七時過うさぎのツトム(最近はおっちゃん、おっちゃんと呼ばれている)が淡い光の溢れている東の空を眺めている。そう言えば昨夜、猫のイワノフも窓の外のちょっとしたレール部分に乗り出して、夜空を見上げていた。ネパールの高地で、ボーッとヒマラヤの嶺々を眺めている人間やヤクが沢山居るのを良く知っている。うさぎや猫やヤク、人間は時に遠くを眺める習性があるのかな。
 九時明大前。昨日彩色した版画を忘れてしまい、家に電話して家内に今夕のときの忘れもの展覧会のオープニングに持ってきてもらう事にした。九時半過武蔵境着。約束の時間より三〇分も早いので駅前のHOTEL・METSのコーヒーショップでエスプレッソ。武蔵境は毛綱の一周忌以来だな。あの時に咲いていた紅白二双のサルスベリの花は今年も又、咲いているのだろうか。あの花は毛綱の生れ変わりだぜ、きっと。毛綱がのめり込んでいったオリエンタル、コスモロジー、そして風水のキッチュが主人不在の哀切の中で真夏の抜けるような青空に旗印の如くに浮いていた。ああいうハッキリとした才能の形には毛綱が去って以来、誰一人として会っていない。皆、相対的思考という一見すると極めて倫理的な思考の中でキョロキョロしている人ばかりだ。その点毛綱は絶対的一点を希求し続けた。十時三〇分配島工業の若者と十川アパート取壊し現場へ。二十代前半の仕事だったが、すでに草ボーボーの空地になったのを確認する。十一時西武新宿線田無駅。今日は四時頃青山のギャラリーに行かねばならぬのだが、午後の時間が中途半端だな。十二時研究室。十五時半青山、ときの忘れもの展覧会場。新しく仕上がった銅版画にサインを入れたりする。十七時頃よりオープニング。三々五々と顔見知りの顔や、知らぬ顔の人が集まってくれた。何点かの作品も買ってもらった。十九時過、皆さんと近くの中華料理屋へ。二十一時修了。世田谷村に戻る。何だか初めてのような体験でいささか疲れた。建築の展覧会は何度か経験しているが、それは展示物そのものが商品として、値がつけられ販売されるというものではない。美術的な品物は展示物そのものが不思議な商品になっているのが、面白い。

 九月二〇日 休日
 今日も休養。午前中銅版画に彩色。終日読書。村上春樹の軟弱なウィスキーの本、もし僕らの言葉がウィスキーであったなら。この人のエッセイは実につまらないが、ホッとさせられるのも確かだ。村上龍「ライン」、これは全然ホッとしない。かと言って深く考え込むわけでもない。不完全。堀田善衛定家明記再読。井上ひさし父と暮らせばシナリオ、ボードリヤール等を乱読する。十六時前原口氏来宅、四方山話し。原口氏との会話の方が諸作家の作品よりもシリアスであった。原民喜の本を本格的に読んでみようと思った。ひろしまハウスと取組んでいるのだから、それ位はエチケットだったのだな。
 父と暮らせばのシナリオを読んで色々と考えた。世の中は、健常者そして生きている人間ばかりで成り立っているわけではない。体や気持ちに傷を負った人と混在しながら世界は成立している。この現実を的確に把握した社会論が必要な気がしてならない。それをベースにした論の成立も急務であろう。と、偉そうな事言う前に、これは私がやらなければならない。モダニズム・デザインへの本能的な距離感は、そのデザインの枠組みが抽象的思考、あるいは趣向を成立させ得る知識人、教養人をベースにし、又、それを対象としている事なのだ。

 九月十九日
 終日、休養と読書。ちなみに読んだのは村上龍のタナトス、ボードリヤールのパワー・インフェルノ、そして横尾忠則の対談集。我ながら脈絡が無い。もう一冊ひどいホラー小説も読んだがコレはゴミだったので名は記さぬ。タナトスは明らかに形式として失敗している。村上龍のキューバへの個人的関心をベースに、シャーマニズムの神話的世界、そして、その神話のベースとしての性にまつわる物語のトライアングル構造なのだが、全体の構成が余りにも非対称で、バランスに欠けていた。書きたい主題へのエネルギーは強いのだけれど、それを形として抑制する力が明らかに欠けていて、習作の域を出ていない。ここらが村上春樹の書き物との違いだろうと思う。横尾忠則の対談集は総じてつまらないが、唯一、鶴見俊輔との対談中、鶴見の発言が痛烈に面白かった。知性において少しばかり落差があり過ぎて、鶴見の発言、横尾は商業主義の真只中に居て、ただその台風の眼の中に在るので色んな事を良い水準で発言できるのだ、と言う指摘を横尾は理解できていない。あるいは受け容れようとしていない。感性も商業主義的になってしまっているんだろう。しかし、こういう対談集の中でも鶴見の確かな卓見は際立っているのは驚くべきものがある。

 九月十八日
 昨夕、久し振りに研究室のスタッフ丹羽太一君と話した。このホームページの編集者である。丹羽君は十二年前に突如病に犯され首から下が不自由になった。その前は普通以上に元気な青年であったから、事故としか言い様のない身体の激変を受け入れるのは実に困難であったろうと、今だから想像できる。当時は私も、ただただ驚くばかりであった。
 年を経て、私もいささかの経験を積み、人並みに体力も落ちてきた。まだまだ何かをしなくてはという情熱だけは衰弱していないのだが、それを支えるべき身体の衰弱は、眼に視えて自覚せざるを得ない。そんな今、丹羽君の存在が私の視界に明快な点として入ってきている。決して自然にとは言えぬが、多分に意図的な趣もあるのだが、丹羽君の身体と私の生活空間の関係が決して無縁では無い事が解ってきた。少なくともそう考えたいと思い始めている。いつもの悪い癖で、こんな風に書き出してしまうと肩に力がはいってしまい、大論文を書くような気持ちになってしまう。で、はやる気持ちを抑えて、ここらでとり敢えずプツンといきなり、この事は中断してしまう。日記だから仕方ないのだ。要するに私がこれから十年かけてやろうとしている事と丹羽君の不自由な身体とは関係が無くもない予感を言おうとしている。その予感は、私も当然加速度をつけて不自由な身体になっていくだろう、自由な身体があるとも思えぬが、つまり、丹羽君の今の身体状態を身近に共有、あるいは少しはリアルに感じる事ができるようになり始めている事と関係している。
 屋上のカラスがウルサいなァ。
 丹羽君が昨夕言ってた事で唯一リアルにその音声が聴こえたのは、何が口惜しいかと言って、コンピュターのキーボードを操作するのが片手の少しは自由が利く方の手でポツンポツンとしかできないという事であった。つまり、思考の速力が身体の不自由さに枠づけらているという事である。で、私はこう言った。
「でもさ、丹羽、そのポツンポツンという不自由な速力ってのが、これからとても大事になってくると思うんだけど。」
 スローフード・ファッションかぶれ程のバカではないが、たんなる思いつきで言ったにしては上出来だったと思う。マア、悪いクセでその場当りの、はげましをしてしまったのだが、その悪いクセだって私の身体の現実が作り出しているのである。
 十一時前、富士嶺観音堂に向けて中央高速道を走っている。二十五KMの大渋滞である。原口夫妻が同乗。家内と原口夫人のおしゃべりがもう一時間程途切れもせず続いている。近隣の事、身近な話しの連続である。デイサービス、介護等の話題が中心である。今日は富士嶺観音堂のオープニングで、身体や気持ちに悩みを持つ人が沢山集まるらしい。観音堂の事実上のオーナーである中川さんから、何か話してくださいと言われているのだが、丹羽君の事でもはなしてみようかとボンヤリ考えている。河口湖近くのソバ屋砂場で昼食。十四時頃観音堂につく。百名程の人が集まっていた。深い霧で富士山も何も視えず。何か話をせよとの指示なので、二、三○分この建築にまつわる話しを皆さんに聞いていただく。丹羽君の話はしなかった。オーナーよりカサブランカの大輪の花束いただく。内部は人が沢山いる方が面白い空間になっている。カレーライスとおいしいコーヒーいただく。内外の写真を沢山撮った。しかし、富士山がきっちりと視える日の写真をとっておかなくてはならない。帰りがけに、五、六才の子供たち六、七人に「どうもありがとうございました」と言われ、不覚にも「こちらこそ、ありがとう」と答えてしまう。マア、本音が出てしまったんだね。子供に、こんな風に作った建築を感謝されてしまったのは、これ迄三〇年に渡る建築渡世でも無かった。小さくて、弱くって、大人とは異なる感性と想像力を持つ子供と、不自由な身体の持主である丹羽太一とは、同種族である様な気がするのだが、まだ良く考えることが出来ていない。十七時前富士ヶ嶺を去る。川口の小作でほうとうの夕食を喰べ、帰りは順調に高速を走り、二〇時半東京着。世田谷村二十一時戻り。

 九月十七日
 七時起床。猫のニコライ(私はイワノフと呼びたかった)がなついて、眠っていてもつきまといもぐり込んでくるので少々大変。しかし、動物になつかれるのは初めての体験なので、むずかゆいような感じもある。十時研究室、松下、旭化成、日立の各専門家たちと打合わせ。α社長若松氏、李祖原と昼食。十四時、TBS・TVスタッフと高橋工業社長来室。高橋工業が主役の番組に花をそえる役で研究室にて収録。十五時修了。十川アパートの取壊し完了テェック行くに行けず来週にしてもらう。十七時半森の学校関連打合わせ。十九時半修了。故宮院コンペ案はどうやら遅れて届いてしまったらしい。夜、がっかりしている台湾人留学生をなぐさめる。海外のコンペは連戦連アクシデントだな。

 九月十六日
 六時十五分起床。七時四〇分小田急線喜多見駅。八時高山邸現場。高山さん、八大建設、梅沢構造事務所打合わせ。十時半迄。十二時研究室。李祖原と昼食。昨夜の東大でのレクチャーも含めて、中国建築の将来及び中国人建築がインターナショナルな存在になる可能性について議論する。 Mr 李は単刀直入なところがまことに良い。十四時清水建設G来室。十五時半芸術新聞社インタビュー、十六時半新しいバウハウスからのドイツ人学生来室。十七時 Dr コースの大津君メキシコ留学より帰り来室。一年のメキシコ留学ですっかり明るくなって帰ってきた。メキシコで明るくならないでどうするという感もあるが、とり敢えず良かった。十七時過、野口君来室。目まぐるしい程に人が訪ねてくれて嬉しいような、疲れたような。二〇時前、調布の馬場さん宅へ、河野鉄骨同行。工事契約。二十一時半修了。来週より工事にかかる。二十二時過世田谷村に戻る。

 九月十五日
 七時室内原稿七枚書く。十時四〇分研究室。台湾、新故宮南院コンペの仕上がりテェック。今日が送附のリミット。十一時M1世界の住宅価格ゼミナール。十三時過李祖原と讃岐うどん昼食。李祖原はうどんの大を頼んだが、大方残した。テリブルだって。食後、残りの原稿を書く。ゲラが出てから手を入れよう。十三時半新木場現場定例会。六十Mの杭打ちが少し遅れている。十四時半途中で抜けて、東大へ。今日は技術と歴史研究会の例会で、李祖原のレクチャーが予定されている。六本木のトモ・コーポの曼陀羅展は人は入っているのだが・・・これからです、との事。十万から七十万の値を付けた美術商品にフリーの客があり得ぬ現実を友岡 Jr も学んでいるのだろう。私の銅版画だって似たようなモノだ。十七時三〇分東大。十八時李祖原レクチャー。いつもの事ながら彼のレクチャーというかプレゼンテーションは、大方の聴衆に大きなとまどいを与える。そのとまどいの素は彼の成功のベースになっているものが仲々に解らぬからだろう。つまり、中国人建築家として、最大、最高(物理的に)の仕事を何故獲得し得ているのかが、誰の眼にも耳にも良く知り得ぬ所が大だからだ。成功する者はいつでもその様な不可思議さの最中に在るものかも知れぬ。十九時半レクチャー修了。いつもの通り、料理屋宮本で食事。食後、李祖原を地下鉄早稲田まで送り、世田谷村に二十三時戻る。
 山口勝弘先生から葉書が届いていた.先生にも会いに出掛けねばならないのだが、何とも体がいう事を聞かぬ。体が時間を作れぬのだ。弱くなった。明日は早起きせねばならぬ。

 九月十四日
 午前中雑用。午後研究室に戻り、台湾新故宮南院のコンペ作業を行う。海外でのプロポーザルのエクササイズと考えて、集中した。二十一時迄ぶっ続け、九時間の作業で一応の形は整えた。流石に消耗する。二十二時過世田谷村に戻る。室内原稿に取り組もうとするがうまくいかない。疲れて眠ってしまった 。一日に出来る事にはかぎりがある。

 九月十三日
 午後研究室打合せ。十六時半日本福祉大学西垣さん一行来室 。

 九月十二日 日曜日
 六時半より、十八時半迄、連続して製作。まだ、こういうエネルギーが残っていたのかと自分でも驚く。独人でやり切れる自由があるね、絵は。ドローイング大版4点、銅版3点仕上げ、刷り上がった版画15点に着色する。これ位が限界だろう。塩野君に電話して取りに来て貰う事にした。十九時前、綿貫さんと二人で世田谷村来。これで展覧会の最小限の物は用意できたと思う。まだまだ描けるけれど、来週のなりゆきにしよう。

 九月十一日
 終日、製作。銅版3点手を入れる。ドローイング2点。

 九月十日
 十時、ときの忘れもの綿貫さん、刷師白井さん、室内塩野君世田谷村に来る。大版交えて五点の銅版を渡す。刷り上がった銅版にサインを入れる。昼食を宗柳で。午後、展覧会用の製作。夜迄。

 九月九日
 十時丸の内、打ち合わせ。午後、九州忍田さんと打ち合わせ。十九時過迄。良い打ち合わせだった。その後新宿で別の打ち合わせ。二十二時世田谷村に戻る。

 九月八日
 終日、各プロジェクトの考案、及び銅版画製作。午後河野鉄骨専務河野君と食事、そして話し合う。苦あればこそ楽があるのだと若い工場運営者をはげましたが、これは自分自身に言い聞かせた風がある。

 九月七日
 十四時大和市鶴間、森の学校入札。第一回の入札は不調に終わる。対応策を講じ、すぐ動き、十七時了。イヤハヤ、こんな日は一人で少し計り飲みたい。

 九月六日
 十時半研究室。雑用。十四時新木場現場、 60 Mの試験杭が打ち込まれた。第四回定例会。十七時五反田トモコーポレーションへ。猪苗代前進基地計画打合わせ。只今十八時半、山手線渋谷通過。猪苗代の計画は三本のコルゲートパイプが土に覆われて視えなくなりようやく、絵になってきた。写真で見る限りなかなか良い風景である。この上にブドウ畑でも作り始めれば今年はもうそれでいいか。なにしろ早く今の体調に底を打たせないといけない。二〇時世田谷村戻り、二十一時より銅版画二点に取組む。面白い世界が開けてきた。深夜まで製作。

 九月五日 日曜日
 午後大判銅版仕上げる。終日、読書と版画。と書けば格好はつくが、要するに粗大ゴミ状態であった。

 九月四日
 昼過研究室。三件雑打合わせ。FAX、手紙送附。十七時半修了。世田谷村に戻る。

 九月三日
 朝方、故佐藤健のルポルタージュ仏教再読する。健の遺言で長男の論と毎日新聞記者がインド・ベナレスに行き、ガンガに遺骨を流したのは聞いていた。健にしては、ベナレスのガンガに骨を流して、魚に喰われたいと言うのは少々通俗に過ぎると考えていた。しかし、読み直した本の中に、健の初めてのベナレス体験、そしてガンガの水に入った体験が書かれてあり、すでにガンガの中程から水面すれすれに眺めた河岸のベナレスの現実の町を、死後の世界から眺めている現実(歴史)の風景のようだとの記述があった。あれは感傷的な思い付きではなかった様だ。健は死に際して、本当に生きる事を願ったに違いない。正しくは再生を希求した、つまり輪廻を信じようとした。夢想、観念の類いではなく、リアルな再生を信じようとした。世界の何処かで再生した健がすでに生きているかも知れない。魚になってか、虫か鳥か、再び人間かそれは解らない。それをようやく感得できた。考えてみれば私は健を自分と同類と見て、それ故にあなどっていたところがあった。何度となく、私にヘロドトスを読めと言い残したのも聞き流していた。読んでみたい。
 十一時前新宿西口よりバスで研究室へ。十三時よりミーティング、松下空調忍田邸打ち合わせ。M1ゼミ、GA杉田インタビュー等。十八時目白椿山荘にて、西沢健さんをしのぶ会。栄久庵憲司さんにお目にかかる。。十九時過会場を抜ける。二十一時半世田谷村帰着。栄久庵さんと色々話したい事があったけれど、余りに人が多くて、出来なかった。早めに会わなくては。

 九月二日
 午前中杏林病院定期検診。担当医より酒しばらく止めろと宣告される。ロシア行以来毎日飲んでるからな。昼、世田谷村に戻り、一人で昼食と小休。何だか仕切りに佐藤健の本が読みたくなって、一、二冊パラパラと拾い読み。死ぬ迄アイツは肉声で書いていた。しかし、今の私の状態は佐藤健が酒に頼り始めたのと似ているような気もする。まさか、アッチから呼んでいるんじゃないだろうな。十五時半研究室。大沢温泉ホテルの件すすめ方を決める。忍田邸、伊藤邸、幸脇邸打ち合わせ。今朝、医者から本当に少し休んだ方がいいですよと忠告されたのだが、これでも本人は休んでいる積りなのだから我ながらあきれる。大沢温泉ホテルの件は、広報を含めた企画書を作る事を決めた。久し振りのコマーシャル戦線である。名門中の名門ホテルのデザイン戦略のディテールプランするのは面白い。若いスタッフの教育にも良いだろう。

 九月一日
 七時半聖跡桜ヶ丘待ち合わせ。八大建設西山社長等と伊豆半島へ。十時過伊東市役所。十一時過伊豆高原。縄張り、位置決め。十三時地鎮祭。陽射しがきつい。十三時半過修了。打ち合わせ。十四時過発、松崎へ。十五時半伊豆多賀経由松崎町大沢、大沢温泉ホテル着。依田専務とホテル改修の打ち合わせ。十七時迄。亡くなった依田敬一前松崎町長には大変お世話になり、勉強もさせていただいた。恩返しだと思って、一生懸命取り組んでみる。社長の依田夫人にもお目にかかり、あいさつ申し上げる。十七時過松崎町役場。森秀己町長公室長等と美術館の改修の件で打ち合わせ。なつかしい役場の皆さんとお目にかかれて良かった。十八時松崎発。修善寺、沼津、東名、中央道を経て深夜世田谷村に戻る。ハードな一日だった。

2004 年8月の世田谷村日記

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