石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年12月の世田谷村日記
 十一月三〇日
 アッという間に十一月もたそがれた。月並みだが早い。時間がパッパッと通り過ぎてゆく。十時研究室。十時半伊藤さん来室。自作の陶器の照明試作を持ってこられた。仲々良いので驚いてしまった。前のと比較すれば格段の進化を遂げている。この、オブジェクトを七つ、製作していただく事になった。細々とした打合わせを続けた。十二時半過迄。昼食は例によってサンドイッチとミルク。住宅数軒打合わせ。ひろしまハウス打合わせ。大沢温泉ホテルリノベーション打合わせ。二〇時迄。二〇時半新大久保駅前、近江屋でビール飲んで、二十二時過世田谷村に戻る。明日はガウディが百年前に作った百三十MのNYのホテルプロジェクトを東京に建てたいという謎の人物が研究室に夕方来るので楽しみ。どうせホラなら、ドカーンとあっけらかんと打ち上げて心地よく夢を見させてくれと居直って待つ。近世稀にみる大型ミラージュ打ち上げ花火ではあるな。同じ話が何人もの建築家達のイリュージョンをふくらませているのだろう。

 十一月二十九日
 十時前研究室。シャープとの打合わせ。十一時頃モスクワのTV局突如来室。短い取材。十二時住宅打合わせ。十四時半迄、木場の現場へ。十七時半木場現場定例。十九時前、五反田トモ・コーポレーション。社長& Jr といくばくかの打合わせ。二〇時前修了。地下のレストランで友岡 Jr と食事。彼もガキなりに色々と考えているようだが、二十二才位で考える事はほとんど無意味に近いという原理に考えが及ばぬところが、深い浅ハカ見附なのだがね。二十一時半世田谷村に戻る。
 上海プロジェクトは「都市溶融業計画」みたいなものではある。

 十一月二十八日 日曜日
 九時過新宿に向っている。藤森照信に呼ばれて茅野の高過庵を訪問する予定。藤森じゃなかったら「俺ん家、見に来いよな」なんて仕打ちは許さないのだが、私も鈴木博之先生も「藤森だから仕方ないよ」と思っている。照信のこれが人徳だろう。十時特急スーパーあずさで茅野へ。鈴木先生とは車内で会う。同じ車輌に松村秀一、富永護氏等が居て、学会賞の審査だと言う。まだそんなモノがあるんだ。鈴木先生と詩人キーツやらの四方山話にふける内に、十二時過茅野着。駅に藤森照信が迎えに来てくれていた。ヤアヤアと、TAXIで藤森宅へ。御両親にお目にかかり、手づくりの昼食をいただく。おいしかった。食後、歩いて高過庵へ。神長宮守矢記念館を左手に眺めながら山を登ってゆくとゆく手の守矢山をバックにお目当の高過庵が視えてきた。写真でお馴染みになってはいるが不思議な風景ではある。庵の足許には御柱の元締めの大工が、二人で藤森家の小さな社を作っていた。バリ島みたいな所だ。藤森先生いきなりタキ火を始める。何かと思えば6M上に浮いた茶室にしつらえられた炉の炭にするため。作ったばかりの炭やマホウビン、茶菓子を持って急な梯子を登る。中途の踊り場でクツを脱ぎアトは裸足で茶室にもぐり込む。うわさに聞いていた通り大いに揺れる。不思議な揺れ方である。樹木の力と人間の重みがバランスをとり合っている風情あり。天井のトップライトの黄金ハクが面白い。ミャンマーでこんなのの巨大なのを視たな。黄金が藤森の中にあるとは気が付かなかった。大小の窓からの眺望は素晴しい。ブリューゲルの絵みたいとの鈴木評は誉め過ぎだけれど。風景の中に居る農夫や農婦のたたずまいの角度が確かに何とも言えず良い。程々の距離に藤森の処女作である神長官守矢記念館があり、二つ目の藤森作品で風景が少しばかり内部化した。高過庵の影が東に伸びている。鈴木、藤森両氏は流石に史家同士、談論風発だった。私は少しばかり沈黙気味。お茶をいただき、十五時頃地上に降りる。藤森小社はすでにほぼ出来上がっていた。藤森、大工さんと話し合っていた。梯子を外し、藤森、鈴木両氏で運びおろしている姿には思わず笑った。藤森宅に戻り、TAXIで茅野駅へ。ベロベロに酔っていた山田脩二氏と連絡。長野から今、茅野に向かっているらしい、が、山田のこの酔い方は危ないと思い、東京へ逃げる事にした。十八時前八王子。十八時三〇分、高尾のうかい亭で、藤森が夕食をごちそうしてくれた。鈴木博之先生、詩人の入沢康夫について語る。オルフェウスを女の立場から唄った入沢の詩を朗唱してくれた。本当にこの人達は変な、しかも正統な才能の持主だな。彼等を越えてゆく若手は出現するのだろうか。彼等と比較すれば私は実に凡々たる者だ。悲哀を感じる。京王八王子より烏山に戻る。世田谷村着二十三時前。風呂にも入らず、すぐ眠った。
 しかし、鈴木、藤森両氏共に良く喰べ、良く語る。人物と言える様な人間は、要するにエネルギーだね。私もつられて久し振りに牛肉の分厚いのを食し、その他大食して、気持良いが、体調が心配になるってところが情ない。しかし、今更、死んでも良いからって、そんな事はしない。そんな事には対面したくはない。当たり前です。何と大ゲサな書きっぷりでしょう。藤森氏は山の人、鈴木氏は都市の人、それが明快すぎる程に浮き彫りになった一日であった。

 十一月二十七日
 昨夜は何故か深夜までミッキー・スピレーンのマイク・ハマーを読んだ。いわゆるハード・ボイルドの古典だ。自分でも何故なのか解らない。うさぎ「オッチャン」が居なくなって、少しばかり、ふさぎ込んでいる自分が嫌になったのであろう。今日は午後、研究室でMMAの企画書をまとめる。
 只今二十一時三十五分、新宿京王線車中。今日もロクな一日じゃなかったが、何とかしのいだという感じ。今はしのいでいなければならぬ時なのだ。今日の無為の一日の中に明日の糧があるなんて、お為ごかしの馬鹿は言えない。今日の無為は明日の無為に大方つながっている、のだが・・・・・。ところで、ここで一歩踏みとどまって、そんな簡単な無常はイヤだ、ニヒリズムは当然、着衣せざるを得ない近代の衣だが・・・・・背骨のしっかりしないニヒリズム風の私的世界への侵蝕現象はどうしたって許せないと考えをせんじつめると、闘う荒野がそこに出現してしまう。荒野のガンマン太郎助六になってしまう。コレって何言ってるんだろうか。

 十一月二十六日
 朝、庭の椿の樹の根元に埋めたツトムの墓におまいりする。十時研究室。住宅打合わせ。十一時過、南雲建設社長来室。森の学校打合わせ。その後ひろしまハウスの打合わせ。十五時設計製図。長野の川上先生の看板建築のスライド見る。十八時、ひろしまハウス作業。住宅作業。二〇時半修了。二十一時四〇分世田谷村に戻る。今日はひろしまハウスの作業が進んだのが収穫だった。

 十一月二十五日
 早朝、ウサギのツトムの埋葬場所を椿の木の下に決める。彼もたった一年ここで過ごしただけであったが、可愛がられて幸せであったと思いたい。何かに生まれ変わるのだろうか。  九時三〇分GA。十時二川幸夫、塚本君と対談。二川幸夫の独壇場であった。こんな時期だ、それで良い。十四時前、昼食をいただき、GAを去る。気分がすぐれず、世田谷村に戻る。今はこれで仕方ないだろう。只今桜上水、午後の陽光が心なしか弱く感じられる。

 十一月二十四日
 午前中諸々の連絡、通信。星の子愛児園。十四時二〇分新宿。十五時前研究室。打合わせ十九時迄。新大久保駅前近江屋でビール飲んで、世田谷村に戻る。モスクワの若松氏より連絡あり。世田谷村に戻ると、何とウサギのツトム(最近はオッチャンと呼ばれていた)が死んでしまっていた。ネコのニコライに殺された。昨日くらいからニコライが凶暴にオッチャンに飛びかかり、かみつき、押さえつけていた。オッチャンはそれがショックで弱り果て、死んでしまった。外傷は小さく、ショック死である。ウサギはデリケートなのだ。猫を殺そうかと思ったが、その感情は抑えた。動物は動物なのだから仕方がないのだ。家中悲しみに沈む。私も、初めて可愛がった動物だったので、寂しさを強く感じた。やっぱりウサギは家の中だとは言え、小屋の中に保護してしかるべきであった。私達が悪かった。猫のニコライに責任は無い。当たり前である。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十一月二十三日
 深夜三時半目覚めてしまい。起きて色々考えている。富士嶺観音堂は今のところGAにしか発表してないが、もっと広いメディアに出す事を考えた方が良いかも知れない。アレは建築はともかく、あの場所の意味の方がズーッと面白い筈のものだ。四時過眠くなったので、再び眠る。

 十一月二十二日
 昨夜は、長い時間眠った。観音堂に行った後は必ず眠る。身体、精神共に科学で説明できぬ事が多くある。
 七時過起床。今日も良い天気だ。良いアイデアが生まれると良いのだが、これも又運を天に任せるしかない。アト一つ、アイデアが必要だ。それが生まれれば攻撃に転じる事が出来る。十時研究室ゼミ。低調である。この人材の軽さに合わせた方法を私が発見できないのが原因なのか、ただただ素材が悪いのか。マア、私としては忘然とするしかない。十四時新潮社インタビュー。永江郎君と久し振りに会う。永江君も今や、マルチライターで活躍中である。建築住宅系のジャーナリストで言えば植田実、中原洋さん等の、おいしい生活系だな。身の丈にあった生活派だ。しかしながら、良く生きて、なんとか良く喰べているところが、えらいのだ。若いのに自分の家まで建ててしまって。生活上手なんだな。十七時新大久保駅前の近江家でビール飲んでいたら、清水建設の大山君にパッタリ会った。彼とは建築観、世界観共にまるで違うところ迄離れてしまった。十九時世田谷村に戻る。

 十一月二十一日 日曜日
 八時三十五分世田谷村発、車で家内と富士嶺観音堂へ向う。中川幸美さんの御母堂が亡くなられ、そのおくやみを申し上げるのが目的。昨夜はユリイカの藤森特集をゆっくり再読した。二度読むと理解が深まる。藤森は再びじっくり考えてみる必要がある。途中鳴沢のレストエリアで休み、少しの買い物をして十一時観音堂着。中央高速を走っていた時には良く見えていた富士山は暗い雲の中に隠れてしまった。観音堂建設前には良く見えていたのだが・・・。

 「富士嶺観音堂」
 例えば、バルセロナの冬の日曜日、ランブラス通りから横丁に入ったサンタマリア・デルピ教会(十五世紀)にまぎれ込んだとする。観音信仰に似たマリア信仰とは言え、小聖堂の内部は森閑として、しわぶき一つ聴こえない。人々は暗闇に差し込むステインド・グラスの色光や、淡い自然光の中で祈り、黙考する。ここ富士嶺の観音堂では、わざわざ富士山まで日曜日とは言え足を運んだ人々は、私も含めてカレーライスを喰べ、コーヒーを飲み、明るい住宅みたいな光の中で談笑し、世間話しに花を咲かせる。時々、マリアならぬ観音像に手を合わせる人は出現するが、森閑とした孤独の中で祈る人はほとんど居ない。
 この観音堂を建てたのは中川幸美さんを中心とした、何百人かの集団である。新興宗教とは異なるが、中川幸美さん個人の異能振りに魅かれ、その力を求心力にして集合した集団である。この集団は小さい飛躍を許していただければ、ある意味では宗教的集団の始まりの原型のようなものだ。ここ十数年この集団とお附き合いしているが、私はこの集まりの場所程に多くの人間の死の現場に立ち合った経験が無い。死を逃れられぬ宿命に対面した人や、その家族が中川さんの異能振りを頼りに訪れるからだ。時に奇跡的に生を得た人も居るようだが、生老病死からの自由はあり得ぬから、必然的に私はこの集まりの中で多くの人間の死を眺めてきた。そして極く極く自然に日常の中に死を見る姿勢を身につけつつあるように思う。
 観音堂の内の、一向に森閑としない日常性の本体は何だろうか。ここまでやって来る人は勿論物見遊山が目的ではない。大方の人が心の内に深い不安と、絶望に近いものを宿しているに違いない。不治の病と対面している人も少なくない筈だ。家族の何某が、飛んでもない境遇にある人もいるだろう。キリスト教の完成された教義と、その儀式の器としてのカテドラル。儀礼、儀式以外の祈りの形は、あくまでも個人対神である。それ故、そこには森閑とした孤独な空間が出現する。

 十四時三〇分中川幸美さんに御母堂のお悔やみを申し上げて、まだざわめきの残る観音堂を去る。原口夫妻同乗。原口家の九〇才になる老婆の話し等聞くうちにアットいうまに東京着。世田谷村十六時三〇分帰着。

 観音堂に寄り集る人間達のそれぞれの境遇を全て知る由も無いが、個々人が対面している問題は深刻であろう。癌になったり、白内障になったり、子供が重度の知恵遅れであったり、医者からアト数ヶ月の命を宣告されたりの人が多い筈だ。それでなければここには来ない。重度障害者の子供を連れて死のうと決心した事のある、今は表向きはとても明るいKさんは今日は姿が視えぬ。が、その深刻な状況の筈なのに、この観音堂内の空気の明るい平坦な日常性、つまり無限の繰り返し性のようなものは何なのだろうか。世間話の充満の中に深い不安や絶望が解消されるわけもない。そんな事は当り前だ。それでは、この人達は対面している問題にキチンと対峙しようとせずに、安易な逃げを打ち続けているのであろうか。ようするに、ここの人達はイヤシ、なぐさめ合い、の空気を求めてここに参集しているのだろうか。そうではあるまい。
 危機に落ち入った時に人間はその本性を赤裸裸にせざるを得ない。抽象的な思索、イデオロギー、思想らしきなんてものは当然吹き飛んでしまう。アナタ、ガンですよと、アト一年の命だぜと宣告された人間が、それでも抽象的な思考を続けるとは考えられぬ。今でも尊敬して止まぬ故佐藤健だって、キチンとそうだった。身近な死と対面した時に人間は全て抽象的思考を捨て去る。「アト、何ヶ月生きられるか」「旅に出ても良いのか」「メシを思う存分喰べても良いか」の恐ろしい位の生物的即物性の只中に生きざるを得ないのだ。それでは、その様な方向性で考えるならば、観音堂内の明るい、繰り返し性の日常は全く肯定されてしかるべきモノなのか。つまり、アブストラクトな価値観は人間の生死の問題とは余りにも距離があり過ぎるという、小学生でも理解できる社会学の前に、一切の抽象性は捨象されて然るべきなのだろうか。 

 十一月二〇日
 朝、快晴で気分も良いので利根町に出掛ける事にした。只今、十時日暮里より常磐線車中。こういう時間も大事。十時四〇分取手。佐藤さんと共に実行されつつある利根町百人スクール百笑園農園見学。マ、一年目に成功するわけがない。竜ヶ崎のスーパー四Fのギャラリーで石川礼子さんの俳句と写真展を見る。農村集落センターの、百人スクールソバ打ちの会。竜ヶ崎の男性が料理をする会のメンバー十名程のソバを御ちそうになる。つけもの、まんじゅう等も用意され、まんじゅうは商品にする事を始めている。前田さんの手作りまんじゅうである。食事後、百人スクール、桜の樹を百本いよいよ植える事になり、その相談。ゆっくりだが百人スクールは進んでいる。佐藤宅で石川陽子さんのつけもの他、キクのつけモノ等、例によって沢山おみやげをいただき取手まで送ってもらう。車の中で女性同志のおしゃべりをウトウトしながら聴いていると世間の一端を知る事ができる。只今、十五時半頃常磐線で上野へ走っている。眠い。

 十一月十九日
 雨模様の暗い朝だ。十一時研究室。打合わせ数件。十三時日本経済新聞社インタビュー。十五時設計製図。十七時半研究室にて雑務処理、およびMMA開発企画書作成。二〇時半修了。忍田さんに新しいプランのFAX送る。伊藤邸明日UPの予定。明日は利根町に行かねばならぬのだが、体が少々しんどい。行くか行かぬかは明朝決めよう。

 十一月十八日
 十時山本哲史、十勝の後藤氏来室。山本氏の構想を聞く。十一時過より幾つかの打合わせ。十二時四十五分学科会議室。嘉納先生と打合わせ。十三時教室会議。十五時教授会。今日は理工学部が三分割されそのCグループの学部である我々建築学科が属する創造理工学部の学部長準備室長選挙があるので、教授達の出席率は高い。三つに分かれた学部の我々の学部だけが選挙で、他は話し合いでトップを決めてしまった。建築は社会環境と名を変えた土木、資源と最後まで考え方に開きが残り、機械(ロボット)の代表をトップに押して,学科独自の候補は立てなかった。十七時投票を開始。二度の投票で建築が押した候補が当選となる。色々と途中で学内政治的圧力がかかり危惧していたが、まずは良かった。安堵の胸をなでおろす。学科主任も良くやった。私としても,久し振りの一勝であった。十八時半新大久保駅前の近江屋で一人祝勝のビールを飲む。山本啓史、後藤氏、そしてα社長若松氏参集。ロシアにおける食材ビジネスに関して話し合う。山本氏はウクライナに詳しい。日本のマーケットの枠外の話はリアリティがある。二十一時散会。この類いの集りで何かが簡単に動くとも思えぬが、座して待つよりは良いだろう。日本はもう内側に居て、内側からの発想ではどうにもならない。外から視て、外から働きかけた方が良い。というよりも、その視線無くしては深く有効な考えは生まれない。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十一月十七日
 七時過起床。メディア建築開発のシンプルな企画書をメモする。十時シャープの面々来室。打合わせ。十一時半修了。雑事。細かい打合わせ。忍田邸スケッチを四〇分程集中。十六時半幸脇夫妻来室。十八時修了。十九時過新大久保の近江屋で若松社長と会食。ロシアでの話を聞く。二十一時半迄。

 十一月十六日
 九時四〇分研究室。十時三沢千代治氏来室。中国でのプロジェクトの相談。モスクワの話し等する。ミサワホームの創業者だが、今は独立してミサワ・インターナショナルを興し、中国でのリサイクル部材の供給ビジネスを再び創業している最中である。御一緒に仕事ができると良いと考えて、お越しいただいた。四〇年以上日本の住宅産業の最前線を走り抜いてきた経営者だ。そのノウハウは活用させていただきたい。十一時過修了。三沢さんの人脈の奥深さを感じた。シャープに依頼して中途半端になっていた、ソーラーパネルにも関心を示された。十三時十五分野口修、博士論文審査会。十五時大学発。十六時新木場現場定例会。十八時修了。友岡社長は実にねばり強く頑張る人だ。見習いたいが・・・・・。二〇時前世田谷村。『室内』原稿書く。手こずって夜半三時過迄かかる。明方四時前休む。

 十一月十五日
 十時研究室。ゼミ及びスタッフミーティング。二〇分の昼食をはさんで一八時迄。二〇時半世田谷村に戻る。北京の李祖原、モスクワの若松氏と連絡を取る。

 十一月十四日 日曜日
 七時過起床。暗い天気の日曜日だ。今日は一日AO入試に附合わなくてはならない。八時四〇分学科会議室。九時創生入試打合わせ。ほぼ学科全員の教師が集まる。九時四十五分入試面接開始。昼食十五分をはさんで十六時迄。入試希望者は年々小粒になるが、何となく整ってきている気はする。何に対して整っているかは知らぬが。十八時過迄教室会議。建築学科は大氷河期に突入しつつあるのをどれだけの人間が厳しく認識しているか、少し疑問だな。十八時四十分過只今笹塚京王線車中。  早稲田建築研究所構想を今夜中にまとめられるか。メディア建築研究所計画上海、モスクワ・ダーチャ開発計画の企画もまとめなくては。

 十一月十三日 土曜日
 九時過河野鉄骨来る。渡辺と共に調布の馬場さん宅。打合わせ。十二時過修了。馬場邸現場に寄り、十三時世田谷宗柳で昼食。石井を大学から呼び幸脇邸打合わせ、河野君に設備積算等依頼。十五時過世田谷村一階で打合わせ。十八時迄休む。今日は野村と夕食をするつもりだったが、世田谷村に来てもらう事にする。十九時四〇分野村世田谷村に。二十二時迄会食。彼女も学生時代からすれば十数年の附合いになる。良い素質を持っているのだから、一度爆発させなければいけない。人材の自発的自由を認めながら、それを育てようと欲する事の困難さよ。しかし、建築を作る事の面白さもさる事ながら、人間を育てる事の難しさ、複雑さの迷宮状の闇の深さを考える。

 十一月十二日
 六時三〇分起床。八時前帝国ホテルで気仙沼の臼井賢志さんと朝食。相談。臼井さんとは久し振りに話し合う事が出来て本当に良かった。十時大学、卒論発表会。十九時過迄。モスクワの若松氏と話す。ミサワ・インターナショナルの三沢千代治さんと来週会う事を約す。二十二時三〇分世田谷村に戻る。昨日、家内がオレオレさぎに巻き込まれそうになったが、砂漠みたいな世間になっているな。油断もスキもあったものではない。

 十一月十一日
 終日、学務。十九時銀座で人事小委員会のメンバーと会食。建築学科は氷河期を迎えるな。

 十一月十日
 十時過ののぞみで神戸へ。神戸芸工大講演会。深夜東京に戻る。

 十一月九日
 十八時磯崎アトリエ。鈴木博之氏と磯崎さんと、批評と理論の会のまとめを話す。二十一時修了。鈴木さんと六本木で食事。

 十一月八日
 十時M2M1ゼミ。十二時三〇分石山研ミーティング。これは久し振りのスタッフミーティングであった。スタッフと早く呼びたいね。幾つかの用件を済ませ、十五時過新木場現場定例会。十七時三〇分、地下鉄その他を乗り継いで京王稲田堤、厚生会へ。近藤理事長、南雲建設社長と森の学校打合わせ。建築家はクライアント次第で生きるし、又死ぬ事もあるのだが、マア、色々と考えさせられる。二十二時会食修了。今、京王線で烏山に向けて走っている。

 十一月七日 日曜日
 十二時家内の運転で伊豆松崎へ。十六時前大沢温泉ホテル。打ち合わせ。二十四時前東京帰着。我ながら、動いている。体、大丈夫かね。

 十一月六日
 九時小田急線喜多見高山邸現場。十一時京王線稲田堤星の子愛児園。近藤御夫妻と打ち合わせ、十三時修了。十五時製図講評会。二〇時迄。

 十一月五日
 雑事に明け暮れる。

 十一月四日
 十五時シャープ来室。十七時三〇分GA二川親子とJ・グライター、李祖原と会う。その後、新宿でグライター、李と会食。

 十一月二日
 十一時TOTO来室。十三時過新木場現場。十六時伊藤さん宅打合わせ。

 十一月一日
 十時ゼミ。十六時青山佐々木事務所。十九時J・グライター、李祖原と磯崎アトリエ。

2004 年10月の世田谷村日記

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