石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年11月の世田谷村日記
 十月三〇日
 十時半中央林間。十一時森の学校地鎮祭。十六時世田谷村に戻り、ひと休み。十八時半新宿にてα社長若松氏と打合せ。会食。若松氏は、ロシアから原油を日本に輸出するビジネスの径を拓いてしまったようだ。輸入でないところが凄いんだな。つまり、すでに日本という国に依拠していない。ロシアから原油を出す側に立っていて、しかも原油をコリアでガソリンに精製して、それを日本に売りつけようとしているのが、面白い。ヨーロッパではすでにあるビジネスらしい。

 十月二十九日
 雑事に明け暮れる。十七時山下設計橋本氏他来室。李祖原を交え打合わせ。その後赤坂で会食。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十月二十八日
 朝より雑事をこなし、十七時東大へ。十八時より「開放系技術について」レクチャー。二〇時過まで。李祖原来日。

 十月二十七日
 十三時森の学校現場。二十一時半迄ハードな打合わせ。

 十月二十六日
 八時半大学、野本君が用意してくれてるレクチャーの編集をチェック。良くやってくれてる。結局、こういう男が力になるのだ。十時八大建設、伊豆の家打合わせ。十二時野村打合わせ。十四時新木場現場定例。終了後友岡社長と駅のコーヒーショップで話す。社長の経営のこれからの事などうかがう。実に参考になる。頑張っているな、社長は。これから帰って、銀行とドル立ての為替の話し合いだと言う。私には出来ないな、彼のような、ねばり強い戦いは。東銀座の竹葉亭に向かう。山本伊吾さんとの会食の予定。雨の銀座をだいぶ歩く。十九時工作社山本伊吾さん、長井さんと会食。楽しかった。久し振りに日本酒を飲む。二十一時半頃修了。車で世田谷村へ。

 十月二十三日
 何とか煙草は止めたいと思いながら、それが出来ずに吸い続けている。最近は質量ともに過重になった。一時煙草を吸いたい時はもらい煙草にしようと、変な方法を思い付いて実行した。周りは迷惑しただろう。この男何て奴なんだと思われたかも知れぬ。その恥ずかしさの連続の中で煙草は自然に止められると考えた。これが一向に駄目で、乞食さんの如き、もらい煙草状態が続いた。今は夜半、早朝に近くの自販機に買いに出る。どうしようもない。しかし、止めたいのだ本当に。八時、それ程の覚悟もなく、これを最後の一本にしようと、三本連続して吸った。
 来週は激しい日々になりそうだ。
 今日は夕方、磯崎アトリエで鈴木博之先生と共に磯崎さんに会う。批評と理論の会の、まとめをする。大方の枠組みは予測しているが、論客中の論客を相手に、そうスンナリと話しは展開しないであろう。
 十六時半六本木磯崎アトリエ近くのコーヒーショップで今日の話しの私なりのフレームを考える。十八時アトリエ。三回程地震でゆれて後、開始。二〇時半終了。近くのレストランで会食。二十四時過世田谷村に帰る。結局、話しは今日だけでは修了せず、十一月にもう一度という事になった。先程の揺れは新潟の大地震であった。災害が続く。

 十月二十二日
 明日の「批評と理論」小委員会の「磯崎新と一九六八年」(仮)及び、二十八日の「技術と歴史」の会での私の「開放系技術について」のレクチャーは共に、気合いを入れて臨むつもりだ。一つの峠だな。六〇代の仕事の出発としたい。技術と正面切って言えるかどうか不明ではあるが、開放系デザインと言い切るにはまだ蓄積が過小である。
 午前中は杏林病院で眼科の検査。良好であるとの事。そう言われても、何か自身の実感としては良くないのである。河野鉄骨による世田谷村改修すすむ。ゆっくり姿形が変ってくれると良い。十五時より十九時前まで設計製図。その後若干の打合わせ。二十一時半迄、開放系技術レクチャーの準備。M1に手伝ってもらい、小ゼミの様相を呈してきた。東大での伝説的なワックスマン・ゼミナールの写真も入った。只今二十二時京王線新宿。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十月二十一日 「体調」
 ここしばらく、医者のすすめで体重を減量したり食事制限したりで体に気をつかっている。変なことだが、気をつかい始めて体重も減り医者は仲々良いと喜んでくれるのだが、私の方の体調は良くない方へ向かうばかりである。昨日は昼食を藤塚光政と共にしたが、藤塚も少し計り細くなり、前よりは上品な風体になっていたので「どうした」と尋ねたら、案の定、私と同じに医者のすすめで減量したんだけれど、以来どうも体調が良くないとこぼしていた。「気力がね、特に闘争心がいまひとつなんだ」私は思わず藤塚のホッソリした顔を自分の顔を見るように眺めた。私の今の気分とウリ二つなのである。身体の各種数値やレントゲンその他の測定可能な世界は医者も喜ぶ位に良いのだけれど、だけれども、気力がいけない。ダイエットしたらどうも気力が充分に湧き上がらない。年令その他の現実を直視してみれば、この状態は身体の転形期なのかと思はざるを得ないが、それにしても今の私の具合は極めて面白くない。良くないと記せば、変な憶測が飛び交ってしまうだろうから面白くないと表現するしか無いのだが、何と言えば良いか、要するに気持と身体がビターッと貼りついた、コインの裏表状態になってしまっている。研究室の丹羽太一や、車椅子の千村君、そして藤沢のTさんの事を考えるに、私の今の身心状態を、より突きつめた状態なのであろうと憶測する。気持ち、意志はあっても体が言う事をきかない。体が言う事をきかないから、気持が応ずる事をしない。その連続なのだろう。彼等と同様に、私も又、そう簡単にはこの状態を抜け出す事はできないだろう。そう考えておいた方が良い。この状態はある種の必然であると受け入れた方が良いようだ。ただ、受け入れると言う事は、悪あがきはせぬ、無駄な抵抗はしないと言う事で、あきらめてしまう事ではない。人間は愚かな者だから、丹羽君や千村君、そしてTさんの状態と比べれば、自分の体調の悪さ等は極楽だと、詰まらぬなぐさめをしかねないところがある。

 私が今、理解できるようになったのは元気という単純な表現の体調と、不調、不具合としか言い様のない体調とは、ほとんど何の変りが無い世界だと言う事である。紙一重の境界線しかなく、それは連続している。あっさり同じだ、と割切ってよいだろう。

 では、今できる最良の事は何かを考えてみる。最良の事というのは当たっていない。一番深い事。私にもあるやも知れぬ本来やらねばならぬ事に近づく事は何であるか、を良く考えて、少しでも成すことだろう。  つづく

 十月二〇日 「有名・無名」
 昨日工作社より「室内」連載ゲラの最終稿が送られてきた。「人相は終のデザインか」と題した今回の原稿はともかく、川合健二、ミース・ファン・デル・ローエの顔写真のセレクトが良くて、書いた文章が引立っていた。長い連載で初めての事であったような気がする。昔、十数年に渡って「現代の職人」と題する連載をした。藤塚光政の写真とのコンビネーションだった。藤塚の写真は毎回とても良かったが、今回のような事は無かった。今回も川合健二の写真は藤塚のものであったが、ミースのモノは良く見る有名なものだった。誰の写真か失念した。
 何故良いと思ったのだろうと考える。建築・デザインの世界ではミース・ファン・デル・ローエは有名である。歴史上の人物だ。対するに川合は全くの無名とは言えぬが、ミース程には有名ではない。その有名、無名が見開きのページの左右に並んだのが良かったのではあるまいか。それだけで読者は何かしらのドラマを感じ取る。人物写真はその人物が有名であればある程に大小の歴史性を帯びている。つまり、様々な物語を背負っている。例えばミースであれば第三世代のバウハウスの校長であった事。その後第二次世界大戦に際し、ナチズムの台頭によりアメリカに亡命した事。等々。世界史的な背景を思わせる迄のものがある。人物写真一葉でそれを思わせる事ができる。それ故に、それと並べた川合の写真は、オヤ誰なんだコレワと言う事になり、そこに自然にドラマが生まれてしまうのだ。面白い発見であった。もっとも、ミース・ファン・デル・ローエを知らぬ人は多いだろう。今の日本では安藤忠雄の方が良く知られているに違いない。「室内」の読者の知的階層が奈辺にあるかを私は知らぬが、マ、そんなところだろう。しかし、ミースと安藤忠雄を並べるドラマよりはミースと川合を並べて見せる芝居のほうがはるかに上等のエッセンスを持つだろう事は言える。つまり、有名の内実には諸々の多様がある。今をときめくタレントや女の裸も又、物を言うけれど、それは歴史にならぬ事が多い。人物写真の力は、要するにその人物の歴史性に尽きる。
 ところで、藤塚光政の写真はともかく、藤塚自身の人相写真は余り知られていない。「室内」連載は新編集長山本伊吾の方針で、ほとんど全てを切り換えるという荒事になるらしい。私が山本伊吾だったら、やはり同じ事をするだろうと思うから、この試みは良いと思う。誰が父親の引いたレールの上をトロッコですべるだけを望むだろうか。で、私の連載も終了という事になった。それで最終回は藤塚光政の事を書いて終わりにしたい。今日、「室内」に連絡して、その旨伝え、藤塚の資料を送ってもらおう。藤塚の人相と、誰の人相を並べるかが考えどころである。
 十三時新大久保駅前のソバ屋近江屋で藤塚光政と昼食。このソバ屋は駅前ソバ屋なのだが、故佐藤健に教えてもらっただけであって、烏山の宗柳と並ぶ、仲々のすぐれソバ屋なのである。ダッタンソバがすごかったのだが、今はない。アレを喰いたいために新大久保にまで遠くから来ていた人々を近江屋は捨てたのだけれどそれは時代の流れで仕方がない。本当にここは駅前ソバ屋としては日本一なのである、今のところは。そこで藤塚と久し振りにビールを飲んだ。藤塚も少し年を取ってそれなりに大人になっている。大人といったって、彼はすでに六十四才来年からは、誰はばかることない老人なのだ。又、色々とめどなく話したが、すぐれた写真家には、もともと思考のフレームは無いのだから、藤塚は本来写真家の中では一番芸術家なんだけれど、私の友人でもある宮本隆司やなんだらかんたらの非芸術家振りとは異るのだけれど、芸術家特有の恥らいがシティボーイのバカさ加減とあいまってありすぎだよね。藤塚は自分の中の芸術家をそろそろ自覚しなければいけない。宮本隆司は、商業写真家の凄さに思いをはせなければいけないような気がする。

 十月十九日
 八時半河野鉄骨来。工事始める。キチンと段取り通りすすめているのが見事。オヤジの力だろう。今日は遅くまで研究室に居るつもり。雨が降り始め、九時過養生を済ませ、河野チーム帰る。又、台風が二つも来るようだ。何とも言い難いこの台風の来かたはほとんど天変地異じゃないか。世田谷村で暮らしていると実に生活感情の起伏が天候と同調しやすいのを知る。十時半より研究室で雑用。十五時馬場さん来室。十九時迄、細かい打合わせ連続。二十一時過研究室発。雨の中を新大久保まで歩いて帰る。

 十月十八日
 七時起床。八時過河野鉄骨世田谷村アルミ板空気膜構造の撤去と改修屋根工事に来る。二日間の工事の予定。決して小さくはない実験であったが、授業料だ。他人の家で試み失敗するよりは良い。天気良し。実際にモノを作る工事者、特に体を使って作る職人はうらやましい。彼等には彼等なりの悩みや困難があるのだろうが、日々体を使って、キチンと疲れて、それなりの充足も又ハッキリあるだろう。デザインは頭は疲れるのだが、頭が疲れると目がさえて眠れないなんて身体の矛盾がおきるからな。
 十時研究室。M0、M2合同ゼミ。十三時過迄。M0とM2は全員チェックできた。十四時半過新木場定例。十七時過迄。只今十八時、京王線新宿駅。ここで研究室に立寄れなくなっている今がある。体と仕事の成果のバランスである。世田谷村に戻って連絡を入れる事にする。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十月十七日 日曜日
 七時前起床、朝食後富士嶺観音堂へ。原口氏同行。今日は富士山が見えるかな。十一時過富士嶺着。驚いた事に、聖徳寺境内には百人以上のヒッピーもどきが集まり、大音響を響かせ、おどり狂っていた。聞けば、六本木のイベント屋らしい若いのがネットで呼びかけ一人三千円の会員で集めたものらしい。道端にはフラフラになったらしきも倒れていたりで、乱痴気さわぎそのもの。テントも三〇位張られヒッピー村もどきになっていた。昨夜からの集まりらしい。観音堂にも入り込もうとする馬鹿もいて妙な事になっていた。住職が許可してしまったのだろう。ここの住職は時にふてくされるとヤクザの眼付きになる。用心したい。しかし、オウム真理教事件の渦中に巻き込まれた上九一色村で、この騒ぎは無いだろう。住職には猛省をうながしたい。富士嶺造園のオヤジさんにも来てもらい、地元からの抗議とする。十四時河野鉄骨来。屋根にのぼり、台風による雨もりの原因を突き止める。比較的単純なミスであった。屋根屋の施工に問題があった。十五時富士嶺を去る。只今十七時過中央高速談合坂を過ぎたところ。十数キロの渋滞である。

 十月十六日
  六時三〇分起床。技術と歴史の研究会でのレクチャーのシナリオをつくり始める。九時過レクチャーのシナリオ案修了する。これで東大出版会の原稿も書けるだろう。十一時研究室。十四時過まで幾つかの用件をこなす。十五時市ヶ谷法政大学。高山建築学校の本の出版記念パーティに出席。故倉田康男先生の奥様や、これも亡くなった秋沢健二さんの奥さん、木田元先生、鈴木博之先生他にお目にかかる。若い会った事もない学生、女学生が沢山来ていたが、何の接点も無い。私も関心が無い。遠巻きにジロジロ見られている風な感があった。十七時会場を鈴木先生と共に去り、新宿で会食。いささか酔った。弱くなった。

 十月十五日
 七時起床。十一時四〇分室内原稿修了。自分でも少し考えている事がゆっくり変り始めているのを知る。
 十四時研究室。十五時三年設計製図。十八時迄。十九時研究室発つ。二〇時過世田谷村に戻る。考えている事と身体はまだ同調していない。急ぐ事もないが、しっかり身体を整えたい。

 十月十四日
 七時起床。昨日、一昨日と良く体を動かして疲れた。九時烏山より喜多見へ。高山邸定例。住宅の現場は本当に大変だ。標準化をしたくなる気持ちは良く解る。十二時迄。十三時過大学。久し振りに教室会議に出席。色んな事が動いているようだが、全体としては良い方向に行っているとは思えない。十五時半、来客あり。時々、変な人が来るな。用心しなくては。十七時過東京ガス、オゾン6Fで日本フィンランド・デザイン協会の島崎さん、村井さんと会う。十八時半、三階のスウェーデンのデザイナーの展覧会のオープニングをのぞき、若宮オゾン館長にも再会。すぐに去る。二〇時頃世田谷村に戻る。食事をしてすぐ眠る。

 十月十三日
 四時起床。あつい味噌汁と朝食をとり、予定通り四時五十七分の京王線始発電車に乗る。満員ではないが随分沢山の人が車内には居る。庶民は頑張っているな。東上線川越駅にて河野君と待ち合わせ、軽井沢へ。建築の位置決めと樹木の伐採の指示。茅野より若い木コリ達(今風に言えば林業者)が来て作業する。この人達の顔付が余りにも我々都市の住民と異なるのに驚いた。山の樹木を相手の仕事はこんなにも人相を変えてしまうのかと思った。「室内」に業界人相図書いてみようか。十五時過まで幸脇さんも現場に来て、赤松の枝振りを切る指示などされて楽しそうであった。樹を相手だと皆、専門家、非専門家の区別無く物を言うのが面白い。十六時過、近くの生コン屋で聞いて、浅間産の石屋を訪ねる。幸運にも、良い石屋を見つける事ができた。初めて石積みに挑戦する事になるかも知れない。軽井沢を過ぎ松井田より高速道に乗り十八時半頃川越。まだ河野鉄骨の工場を見た事が無かったので、帰りがけに工場に寄る。社長であるお父さん、気さくなお母さんに会う。ビールをごちそうになり、二〇時頃失礼する。川越、池袋経由二十三時頃世田谷村に戻る。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十月十二日
 今日も雨模様。六時半起床。森の学校の工事が始まるので朝、森の中に入らねばならぬ。ビッショリぬれるなこれでは。八時新宿、九時中央林間の森の現場。森の中を歩き廻って六十七本の残す樹木と同じ位の伐ってしまう樹木をマークする。伐る樹木は最小限にとどめた。森の中で二時間強歩き廻り、作業をして、体は良いリズムになったような気がする。昼食は古木理事長と森のソバ屋で。十三時南雲建設にてチョッピリハードな打合わせ。十六時半修了。理事長と寿司屋へ。十八時半まで会食。仲々、建築の仕事はスンナリとはいかない。銭金が大いにからむからね。この辺の事を肩代わりしてくれるスタッフがいてくれると、私の寿命はほどほど迄は延びるんだけれど、今の状況は仲々難しいと思わざるを得ない。又、しかし、突破するしか無いもんね。電話連絡によれば明日は早朝四時五十七分の烏山始発に乗らねばならないらしい。チョッとキツイよねコレワ。
 只今、十九時半成城学園で烏山へのバスを待っている。今日は二十二時には寝なくては。睡眠五時間か。

 十月十一日
 今日は何かの休日らしい
 天気は相変わらず良くない。七時半起床。昨日一気に書いたユリイカの藤森論読み直す。マア読めるものになっているか。九時四〇分世田谷村発。西早稲田観音寺へ。今日は父親興武の十七回忌。年月が去るのは実に速い。観音寺の荒川住職が亡くなって三年になるが、住職の息子がもう十八になると言う。彼が寺を引継ぐそうだ。十二時前供養終わる。妹に久し振りに会った。観音寺も建てて八年経った。時間が経って風景になじんできた。建築と舗装された道路のすき間にほんの少し帯状に残した土に、雑草が生えてそれがうまく働いている。新宿南口小松庵で昼食をとり、世田谷に戻る。

 十月十日 日曜日
 今日は藤森照信についてエッセイを書くつもり。午後、書き始めて、二十一時修了。興が乗ってペンが進み過ぎたきらいがあるが、書きながら発見した事もあり、面白かった。

 十月九日
 大型台風接近。展覧会最終日。十一時世田谷村発、南青山ときの忘れもの、会場へ向う。京王線はそれでも沢山の人が電車に乗っている。ここ十年で最大級の嵐が来るというのに、皆さんタフなんだな。あるいは無防備というか。子供の姿が多いのも奇異である。十二時前展覧会場。十九時迄、台風下、沢山の人に会えた。終了間際佐藤健の一人息子論が来て、有終の美。終わり良ければ全て良し。論に連れられて、池尻のBarに寄って、帰宅。池尻のBarは健が生前良く立ち寄っていて、論と時々会ったという、話には聞いていたところ。これで一区切ついた。展覧会はやって良かった。

 十月八日
 八時二〇分新宿。鶴間へ。十時より森の学校、第二回目の入札。森の学校、工事業者決まる。十一時半古木理事長と昼食。ようやく前へ進める。十四時半大学。連絡事項をチェックしただけで、打ち合わせもできず。すぐに3年設計製図。これではいけないと思いつつも、どうしようもない。十七時過大学発。十八時神田、岩戸へ。馬場照道、仏教伝道協会松林氏、広島前市長平岡敬氏と会食。只今、二十一時四十五分新宿発京王線車中。ひろしまハウス IN カンボジア、静けさのパビリオン IN フィンランド共に、価値ある仕事なのだが、金にならないところが切ないところだね。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十月七日
 九時四〇分杏林病院の六階のカフェテラスでコーヒーを飲んでいる。久し振りの病院は少しばかり懐かしい。河野鉄骨の世田谷村改装工事が今朝から着手。
 ここ半年間身体の洞穴の中で薄闇をみつづけていた様な気がする。六〇才になる迄一度も病院のお世話になる事もなく、平穏に過ごしてきた。それが私の通俗性や、平板な人格を形づくってきた事もあるだろう。六〇才になった途端の病院通いは、ある意味では好運であった。二年遅れたら、もう「時」はとり返しがつかなかったろう。気力を振りしぼったり、身体を酷使して難問に取り組む年令ではない。自分の元々あるやも知れぬ地、つまり基礎体力を信じて、自然にやるしかないだろう。
 今日は午後、仙台からアトリエ海の佐々木さん、奈良から渡辺豊和が、私の展覧会を訪ねてくれるので、会場に出掛けてみなくてはならない。驚いた事に杏林病院の担当医の先生も展覧会場に足を運んでくれたようだ。十一時、2ヶ月前に入れてしまった明日の予約を変更するために5Fに移動して待っている。待つのもあんまり苦にならなくなってきた。十四時南青山へ向かう。十五時半、ときの忘れもの着。意外や意外、沢山の人が展覧会場に来て下さっていた。藤森照信と会場で会う。彼のTV番組への出演以来である。藤森はいつ会っても藤森である。十七時過渡辺豊和と東大本郷へ。技術と歴史の会。十八時東大。鈴木博之レクチャー。装飾と技術。彼の建築の世紀末に描かれていた世界が継承されていた。三〇年前と全く変わりがない思想である。再び安心する。鈴木もいつ会っても鈴木だ。建築に於ける近代批判が鈴木博之の原点であった。原点という言葉の古さ、荒さを考えてみても、それは確固として在る原基点であった。今日のレクチャーはそれを良く示していたように思う。言葉の言い廻しや、使う素材の変化はあっても深部は揺らいでいない。

 十月六日
 渡辺豊和さんから送られてきた二一〇〇年庭園曼陀羅都市を詳読しようと探すも、見当たらない。二Fの吹抜けの、作業テーブルの上に置いておいた筈なのに、姿が見えない。良くこういう事はあるが、神隠しならぬ本隠しだろう。何日か振りに良く晴れた朝を迎えられた。やっぱり本は二階のテーブルの上にキチンと置いてあった。本来先ず探すべき処にあった。余程気をつけないと、コレはボケかも知らんな。渡辺さんの最新本は確信犯的能動性ボケ本である。毛綱が死んで、かくの如きヴァーチャルとリアルの境界を行ったり来たりするつまり通俗的に言えばボケ状態、気取って言えばシュールレアリズム状態の建築作家はいなくなってしまったと思われたが、渡辺豊和の著作活動はまさに、その事をボケ状態として体現しているように思われる。今、現実に触れている実物と、頭の中に思い描いているモノとはそれ程の違いはないというのを渡辺が自覚して、これ等の本を著述しているかどうかは知らぬが、少なくとも視覚のリアル、ヴァーチャルの境界はとり払われているように考えられる。それを自覚してなければ、ただの馬鹿だよ。ボケは実にシュールレアリズム状態の自然な身体的現実なのである。
 十九時、新木場現場の定例会を終えて、只今地下鉄市ヶ谷駅。新木場から世田谷村へ動く途中で、方々に電話を入れる。しかも、時代遅れの公衆電話から。ケイタイはとり敢えず死ぬ迄持たぬと決めたが、それ自体が何か差しさわりがあるわけではない。しかし、まわりの人間のほとんど全てが持っている現実がある。マア一種の、一周遅れの孤立状態になっているわけだが、この孤立には何の誇示も感じられぬところが切ない。自転車に乗れないとか、自動車の運転も出来ないとか、そういう類の、もはや身体的なハンディキャップ状態なのかも知れない。でもケイタイは持たない。いずれ電話も使わなくする。手紙、葉書きだけのコミュニケーションにするのが夢だ。その先は想うだけの交通が良い。

 十月五日
 十一時前研究室。台北の李榮杰氏来室。台湾の幾つかのプロジェクトについて。その後、幾つかの相談。
 丹羽太一君が重い腰を上げて淵瀬問答のページをオープンした。のぞいてみる。新しい場所についての理屈が述べられていた。要するに丹羽君にとっては、この問答が在るコンピューター内の場所が社会との接続点なのだろうが、その場所の意味と、自分の不自由な身体への考察が述べられていた。私が丹羽君や彼の友人の千村君、そして藤沢のTさん、それに山口勝弘先生といった身体に痛みを持つ方々に大きな関心を持つ由縁は、私の身体も確実におとろえていゆくであろう事の予感があるからだ。別に私だけが抱え込む問題ではない。万人共通の問題である。だから丹羽君のこのページは私にとってある種のオペレイションになるだろうと期待している。一言一句味読したい。人間は愚かなもので、自分の身体が弱くなってみないと、身体の弱い人がリアルに抱える問題を理解できぬ。又、その独自性の価値を本当に理解する事は出来ない。私もそうだった。そして弱い人、独特の感性や感情のあり方が在るのを今は知る。その形式は今の時代にとても大事なものだと考える。本当はズーッと昔から大事な事だったのだが、少なくとも私は気附かなかった。

 十月四日
 今朝より、世田谷村ゼミナールを再開する。三ヶ月弱の休養期間中、参加者がどれ程頭に、そして身体に栄養をつけたのかが知れるだろう。九時スタートだが、秋のプログラムは彼らに提案させるつもり。共通テーマと一人一人の個別テーマを分けよう。今日の舵取りは重要である。
 二十一時前迄ゼミを続けた。それぞれのゲートは開けたから、あとは走って貰うしかない。十四時より博士課程の大津、ゼミに参加。大津の言う事はマアマア大人であった。十二時間ぶっ続けで、私も私なりに若い人との会話を通して研究室の将来を考えてみたいと思ったのだが、会話は仲々成立しない。文学部の友岡君のモノおじしない姿勢だけが印象的であった。早稲田ではここ数年で、一番良い人材を集めたつもりでいたのだが・・・・対話は困難だ。特にリアルな場所に於いては。期待する方がお人好しだったのだろう。教えたいモノがあるから教師をまだ続けているのだが、教える方には、それを聴き分けるだけの素材だって必要なのだ。しかし、私の言っていることは導師と弟子の関係の如くに、本来通り一辺の大学教育の場などではあり得ぬ、高望みなのであろう。益々、独人になってゆくばかりだ。

□世田谷村日記 淵瀬問答
 十月三日 日曜日
 毎日新聞の六車より電話あり。九日に展覧会会場で会おうという事になる。イチローの事、佐藤健の事などの話しになった。やはり。人間は仲々、死なぬものだ。昼間、武蔵野市の母のところに行く。夕方河野鉄骨の河野君来る。

 十月二日
 午前中喜多見現場。十四時前研究室。十五時三年生設計製図公開講評会。十九時前まで附合う。久し振りに設計の先生方にお目にかかる。イチローが大リーグの年間安打数記録を更新した。佐藤健はイチロー物語の著作作業を介して彼と友人になり、健の闘病生活に際しては、使用しているスパイクを送ってきたりしていた。足の大きさ、形状が全く同じだったらしい。病に負けず走れというメッセージだった。そんな事を思い出した。

 十月一日
 朝の陽光が清冽である。六時過起床。昨日は奈良の渡辺豊和さんから電話をいただき、七日に私の展覧会を見に上京するとの事であった。嬉しいが、チョッと気味も悪い。渡辺豊和さんが何らかの反応を示す要因が展覧会の知らせにあったという事だから。
 「荒れ地に満ちるものたち」と題した、ときの忘れものでの展覧会は私自身にとって大変興味深いものであった。自分で自分の展覧会を興味深いと言うのもおかしなものだが、実はこの展覧会は自分の中の未知を探ろうとする私の実験でもあった。六〇才になって、友人、知人の幾たりかを失った。体力も明らかに落ちた。このうえ、気力、想像力の類までも落ちているようなら、もう先はあんまり明るくはない。それで一度本格的な自己検診をしてみようと考えたのだった。不幸中の幸いがあって、現実の身体の方は病院で検査し尽くした。幾つかの難点が発見されたが、年相応のものでもあり、さし当たって命には別状はないようだ。で、気持ちの方の検診をどうするかと考えた。気まぐれで始めた世田谷村日記は、自分でも驚く程に長続きしている。これはこれで自分の生活を客観化できて、私にとっては意味ある事なのだが、気持ちのより深いところにあるらしき、自分でもコントロールし難い部分、想像力、感性、飛躍力といった部分を検診することは出来難い。それで、絵を描いてみようと考えた。短期間で出来るだけ沢山描いてみようと思った。フロイトやユングの夢判断じゃあるまいし、とも考えたが、私は無意識に手を動かしている事が少なくはないから、悪い試みであるとも考えられなかった。現実の身体の方の検査を集中的に施す為に春に検査入院した。頭から、内蔵、心臓、筋肉、血液、尿その他徹底的にやられた。ほとんど恐怖に近い程の日々であった。我ながら身体のいたみ等には弱い人間である。うたれる注射器の針の先を正視できない。銅版画の数点程は、その際に製作した。検査、検診の合い間を縫って作った。現実の身体を昼間、徹底的に探られ、その合い間と夜に行う製作だった。外部との連絡は一切合切断ったから、まさに自分の身体と気持ちの中に降下してゆく旅のような作業だった。病室で描かれたドローイングは展覧会には出展していない。銅版画の小品のほとんどが、閉じ込められた病室で作られた。何も自分を美化したり、演技したりの必要性がほとんど無い状況だった。だから、これらの銅版画はある種の自画像なのだ。身体の中へ、記憶の中へ、気持ちの中へと降りてゆく旅の風景が描かれている。そこに描かれた風景は荒地としか呼びようのないものだった。壮大な墓標、ピラミッド群、廃墟、竜巻き、洞穴、打ち捨てられた船のようなものが描かれている。荒涼とした風景である。少しばかり、じゃないか、大変なうぬぼれを自覚して言えば、ある種の神話的世界が描かれている様な気もした。それで、絵の題名を「登っても、登っても混沌」「荒地巡礼する眼玉之命」「眼玉内の地霊都市」等と名付けて遊んだ。そんな題名のような主題が先にあったわけでは決してない。描かれたモノ、出現してしまったモノに名を付けてみた、というのが本当のところなのだ。多分、ここの当りに渡辺豊和が反応したのだろうと予測する。彼が追い求めている神話的世界と共振したのだろうと思われる。これらの風景は砂漠と山の風景だろうと思われる。インナーヒマラヤの旅での記憶、シルクロードやアジアハイウェイの記憶、特にミャンマーのパガン遺跡との遭遇の記憶が浮いて出てきている。シシリアやギリシャの記憶もあるのかも知れぬ。あれ等の遺跡群、すでに荒地としか言い様のない風景の中に、それでも確固として残存している数々のイコンが描かれているのだろう。
 近代社会はそれ以前の宗教的、神話的イコンを破壊してきた。そして、結果として資本主義的イコンを林立させた。資本主義的イコンは身の廻りに数々の商品の形式で溢れ返っている。その代表の一つがNYのWTCであった。建築は凍れる音楽だと言う例えがあったが、超高層ビルは資本主義が、貨幣の力そのものが形になったとも考えられる。そのイコンがイスラムの原理主義によって破壊された。現代は資本主義が作り続けている商品のイコンが破壊されている時代でもあるようだ。別の言い方をすれば、資本主義的社会が自動的に創生しているニヒリズムの神話的状況とも呼ぶべきものさえも崩壊の兆しを見せ始めている。
 十二時地下鉄銀座線外苑前近くのコヒーショップでメモを記している。十三時に山下設計の橋本氏とときの忘れもので会う約束があって、まだだいぶ間がある。先程、長男の雄大から八十五才になった私の母の事で批判された。要するに早く一緒に世田谷村に住めるようにせよと言う。八十五才の老人が安楽に暮らせる状態に早くしろと言うのだ。昨日、彼は母に会ったようで、足腰も弱くなっている。私だって片時も頭を離れた事は無い事なので、早速母に電話して今週日曜日に会いに行く事にした。気の強い母で、独人の方が良いと言いはってはいるが、それも限界なのだ。全く、自分の母親の事も満足に処せぬのに、二〇世紀のイコンの崩壊もネェのだけれど、かと言って、見栄や体裁でこんな事考えているわけでもないのだ。武蔵野市で八十五才の独人暮らしをしている私の母も現実ならば、私の制作した版画やドローイングもフワフワ浮いているだけのバーチャル世界ではなくって、もう一つの現実であるのだけれど。こんな事、雄大に言っても、せせら笑うだけであろう。ときの忘れものにて、山下設計の橋本氏と会う。版画数点求めてくれた。近くのレストランで昼食。これから先の事等話し合う。十四時過修了。

2004 年9月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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