石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年1月の世田谷村日記
 十二月三十一日
 昼過ぎより雪降りしきる。アッという間に白い風景となる。
 二〇時過、磯崎新宅へ。年越しの会。磯崎さんがゆでたソバは今年のは非常にうまかったので三杯おかわりする。
 十二月三〇日
 九時過、大住広人夫妻世田谷村に迎えに来て、我孫子真栄寺へ。十一時着。顔なじみが集まり、モチつき。佐藤健の墓石も何にも無い仲々いかした墓参りをして、酒を呑む。真栄寺の墓所はもう少し工夫して、あの石だらけの重苦しさを解放した方が良い。チョッと石の密度が濃すぎるな。十八時世田谷村に戻る。山口勝弘先生より一足早い年賀状が届いていて、この賀状で、あんまり良い事が無かった今年は終った。明日から新年だ。
 十二月二十九日
 昼過、雪が降りしきる中を中央林間の森の学校現場へ。鉄骨部、木造部、ほぼ完了していて、南雲建設は良く頑張った。野村も良くしのいだ。
 十二月二十八日
 午後遅く、野本君をつかまえて新大久保駅前の近江屋で説教。先生している自分はその本性の根の深いところで説教好きなところがある。ある筈だ。自分に即して考えれば必ずそうだ。説教好きの最たる者はイエス・キリストで、彼はその余りの説教好き故に十字架にかけられ殺された。説教というのは根底にそういう避けられぬ深い、他者を傷つけざるを得ない性格を持っている。
 年長の者が年少の人間をさとす、説教する、つまり教育しようとするのには幾つかの仕組みがある。
 説教する側の攻撃欲、他者の人格に対する破壊欲を満たす欲望の故にそうする。
 間抜けな説教者は本当にさとしたい、教えたいと幻想してしまう。しかし、明らかにこのレベルは間抜け過ぎる。鈍い人間、感応しない人間の大半はほうっておけば良いのだという世間の現実を知らぬだけなのだ。そうしたほうが資本主義社会の現実の効率には即している。馬鹿は馬鹿のままに野放しにしておいた方が良いのは明らかだ。もしかしたら自分はそれ程馬鹿ではない、略奪する側、階層にいるのかも知れぬという幻想の為に説教はあるのだろうか。
 晶文社から今一生のゲスト・ハウスに住もう、送られてきて読んでいる。今一生氏には一度インタビューで会った事がある。我の強い人のが印象があって、このテーマはピンとこない。
 十二月二十七日
 朝刊はインドネシアの大地震の報道が大きく報道されている。津波による死者も含めて八千人以上とも、六千人以上ともあった。九・一一WTCテロ以上の犠牲者が出たようだ。ドン・キホーテテロの報道はこの天災による被害報道に隠されて小さいものであった。細部が描けないと大論も空疎なものになってしまうが、マスメディア自体も当然ながら自然とも思われる力学に支配されているのを知る。
 午前中プノンペンの渋井さん、ピースウインズの根木さん来室。ひろしまハウスの打合わせ。朝広島から平岡さんの電話も入り、2005年には完成させるぞという気持ちになってきた。十四時過新木場現場へ。十七時過迄。二十二時世田谷村にて中川さんと打合わせ。
 十二月二十六日 日曜日
 終日、開放系技術・デザイン論ノート書きすすめる。夕方環八沿いのドン・キホーテ火災現場取材。深夜、頭を少し休ませようとカバーコラムを書こうと試みるも頭ばコラム向きにならず一行も書けず。しかしながら一日の成果に久し振りに満足する。頭脳も身体の一部であるのを思い知る。切り換えはそんなに簡単ではないのだ。
 この調子で進められれば正月明け迄に百枚くらいは行けるかも知れぬ。論が順調に行けば、デザインはあとから自然に湧いて生まれてくるのを信じよう。
 十二月二十五日
 九時四五分小田急線喜多見。現場で職人さん達と打合わせ。職人との打合わせは面白い。昼過もう一つの現場を見て廻る。来年以降のプログラムを考え始めている。体力はどうやら底を打って、明らかに上向いている。調子に乗らずにグデグデと復調したい。
 はるかに過去になってから良く考えてみる事にするが、私の六〇才は仲々であったかはこれから作ろうとしているモノに現われるだろう。又、身の処し方にも反映される筈だ。
 十二月二十四日
 大学は冬季休日に入ったのか学生の姿も少なく非常に快適である。これ位の人口密度が本来望ましいのではなかろうか。北京計画の細部を考案。カナダ国籍の中国人で認知神経科(電気)を学んでいる学生から連絡あり、研究室に入室したいと言う。上海Gスタジオやマイノリティーのための仕事に興味を持ったとの事。ホームページを見ての照会である。何処でどう読まれているか全く解らないのがITの現実だな。
 十六時ソウルへ出掛けていた若松氏が今、成田に着いてすぐ研究室へ来ると言う。明日はモスクワだって。十七時過朝日新聞の若い記者来室。藤森建築について小インタビュー。これでは何か最近俺は藤森評論家になってしまったな。マ、イイヤ。
 夕方新大久保駅前ガード下ソバ屋近江屋でα社長若松氏と会う。オイルビジネスがうまくいっている様で元気だ。私の周辺では中国も含めて彼くらいではないかな、古典的な意味合いで前向きで、いわゆる元気振りなのは。二〇時半迄、ソバとおでんと何がしかで気持ちを休ませた。彼は明日からモスクワで、ハードネゴシエーションを続けなければならないようだ。私にはもう彼のような粘り強いエネルギーは失せている。残念ながらこんな風に走るのは彼に任せなければならない。しかし、若松氏の精神のリアルさは今でも理解できるような気がする。堀田善衛が「インドで考えたコト」で述べていた、インドに向かう飛行機の中で隣に座っていた商社マンの、腹巻きに万札をしこたまはさみ込んだ風の人間のリアルさである。まだ誰もそんな事を考えてもみなかった頃、インドの綿に商機を見て動いている本物の商人の精神である。今、若松氏はその最中にある。しかも、集団の一員としてそれを成そうとせず、単独行で成し遂げようとしている。信長、秀吉の時代の堺の商人を想はせるものがあるではないか。いささかオーバーだね。気が弱くなっているのだろうか。用心、用心。
 明日は朝、現場で打ち合わせ。その後、少し打ち合わせをしなくてはならぬ。
□世田谷村日記 淵瀬問答
 十二月二十二日
 昨夜は夜中に二回程目覚めたか。ここは駅ホテルなのだが別に取り立てて何の感慨もなし。何の感慨もしくは感傷さえも湧き起こらぬように全てのシステムが動いている。そのシステムと人間は赤裸々に対面しなくてはならない。空間にまだ存在意義があるとすれば、それはシステムと人間の関係のクッション材だな。三階で朝食後駅へ。プラットホームでこのメモを記している。大阪、東京へ次々と列車が発着して目まぐるしい。磯崎新の、名前は変わったが西日本シティ銀行が赤茶の姿を昔日と変わりなく何本ものプラットホームの向こうに姿を浮かばせている。何本ものプラットホームにはスタイルがどんどん変わるモダーンスタイルの列車が入れ替わり立ち替わり姿を見せる。まるでマシーンのファッションショーだ。赤茶けた重い固まりの建築はそれ等と比較すれば余りに愚鈍に周囲の風景とは浮いている。勿論人々はこの赤茶けた建築の色がインドのアグラから運ばれたものとは知る由もない。ファティプールシクリの死せる都市から磯崎の観念によって持ち込まれたものだとは誰も知らないだろう。あるいはすでに忘れ去られたか。しかし赤茶けたインド砂岩の建築は巌然としてそこに在る。このたたずまいを私は好きだ。最新型の新幹線やファッションショーの如くに入れ替わり立ち替わり駅舎のステージに現れるマシーン達。赤茶けたデクの棒みたいな、ウドの大木みたいな建築。磯崎の言説の知的な素振りと似ても似つかぬ、そのたたずまい。都市の中での愚鈍とも視える建築のたたずまい。
 新幹線で小倉に着いたら、車窓から又も磯崎の建築が視えた。船のマストを形取った展示場と、遊戯的思考のカラフルな確か港湾施設だったか。これ等からは博多駅で持った感慨は湧いてこない。何故か建築家は辛いのだナァと知るばかりだ。アレやコレヤの手を打たねばならぬ現実に埋没してしまう必然だってある。
 しかし博多の赤茶けた愚か者奴と言いたくなる建築のたたずまいには、現実さえも現実に埋没してしまう、つまり産業や生活の本来在るのだろう現実さえも、何か嘘っぽい、ニセモノの気配がしてしまう今の日本の現実に埋もれ切らぬモノが在る。
 ニューヘブンのルイスカーンの遺作ブリティッシュアートミュージアムの体験もこれに似たモノであったが、あれは内部の光も体験したから殊更であった。ルイスカーンが辿り着いたマテリアルは焼き過ぎステンレススティール。そして多重フィルターによる波動光空間であった。ただし、ニューヘブンは福岡と比べれば余りにも静澄な大学の町。
 アレコレ考えているうちに今、広島に着いたところ。広島には丹下健三のピースセンターがあるな。
 十二時過新大阪より地下鉄を乗り継いで谷町四丁目大阪NHKのアトリウム。シーザ・ペリが設計チームに入ったもののようだが、これは三流品以下だな。コーヒーショップでおち合い、近くの合同庁舎十七階で打ち合わせ。十五時迄。その後、村野藤吾の歌舞伎座、心斎橋地下等を所用で見る。十五時四〇分新大阪よりのぞみで東京に向かっている。李祖原本日台北へ戻ったが、明日はソウル日帰りだそうだ。
 昨日や今日の午前中の事がもう夢幻のようだ。
 十二月二十一日
 七時半世田谷村発。車で羽田、九時半着。ANAは新しい第二ターミナルに引越していて、新しいだけの何の取得もない建築である。十二時過福岡。忍田さんと山中へ。二階で十五時半迄打合わせ。十六時現場近くの会館で三菱地所、竹中工務店と打合わせ。十七時地元工務店と打合わせ。十八時御所ヶ谷自治会会合に出席。二〇時忍田さんと夕食。焼魚。二一時時過博多駅前クリオコートにチェック IN 。二一時半想い立って三吉橋のまめ丹へ。何故かここに来るとホッとして休まるのだ。森千代子さんも相変わらずお元気で年を取った風には見えない。一つの都市に一つの小料理屋を知っていると、その都市は生きてくる。福岡では、やっぱりここだな。二十三時前ホテルに帰り、すぐ休む。明日は大阪か。
 十二月二〇日
 早朝批評と理論連続討議の最終回の草稿の編集を二時間半程。磯崎新、鈴木博之のダイアローグの組み代えは困難なので頭に和様化の問題をまとめて入れて、あとは自然に流れに任す編集としてみた。今日は昼前に三沢千代治氏と会い、午後新木場の現場へ、夕方研究室に戻らねばならない。
 昨日は久し振りに辻邦生の安土往還記、開高健等を通読、乱読した。李祖原を真似てベジタリアンになってみるか、少なくとも酒は三年位やめてみようかと決心した。やめられなくとも、せめて一杯だけとか、二杯までとか、ようするに克己心の問題である。六〇才になってこんな事しているようでは救いも何も無い現実である。辻邦生の大殿、つまり信長の生き方、事を成すことへの合理性を全く私は持たないのだ。酒呑みたくなったら日記のメモか、カバーコラム書くのも良いだろう。問題は友人と会う時だ。酒ヤメタとは言えないか。コレワ。李はしかし、スッパリ止めてしまったからなぁ。李の生き方は実に大殿的であるな。十一時三〇分新宿ヒルトンHOTEL三沢千代治さん李祖原と昼食。十四時東京駅。新木場現場へ。十七時前迄。十八時研究室。M2ゼミその他二十一時過迄。
 十二月十九日 日曜日
 午前中西早稲田観音寺。
 午後読書。一日休み。
 十二月十八日
 ここ数日中国大陸のプロジェクトの件で李祖原と行動を共にしている。色んな議論もした。強い人間と話すのは相変わらず面白い。が、エネルギーに押され気味。又、強い奴は同じ事を繰り返し繰り返し強く続けて主張する単純さを持っていて、それに対応するのは私は少々苦手なのだ。バウハウス大学では Mr. Zimmermanが学長に再選された。J・グライターにとっては願ってもない事だ。年内に来年の運動拠点の構想を確定しなくては。ようやくにして、体力気力が少し回復してきているのを感じている。今日は午前中、スタジオボイスの原稿「森の生活」を書き上げ、午後油壺の月光ハウスに月光号オーナーの並木氏を李祖原と共に訪ねた。若松氏より依頼されていたロシアのスター級ヨットのチャンピオンが日本にコネクションを求めているので、その件の依頼。長男が並木氏のオーシャン・クロスヨットのクルーになったので、そのあいさつも兼ねてうかがった。十七時過おいとまする。
 十二月十五日
 昨日塩野君から渡されたナイトスタディハウスのリポートを読む。
 豊島区北教会の芳賀繁浩牧師の「西早稲田観音寺」に関するエッセイを興味深く読んだ。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というヨハネの言葉をその中に見い出して、とても懐かしい想いにかられた。気仙沼の日の出凧仙人高橋純〇(すみお)さんを思い出したからだ。高橋純〇さんは宮城県気仙沼に私が通っていた時に友人になった人物で、話せば語り尽せず、とめどなくなるので、知りたければ『現代の職人』(晶文社)に書いているので一読されたい。要するに高橋純〇さんは本物の純粋さのようなものを持っていた人で、それを自覚せざるを得ない現実にとり囲まれていたからこそ、自分の名の純夫がイヤでたまらず、純〇(じゅんゼロ)と名乗ったのだ。そんな人だった。それで気仙沼では変人奇人としか受けいれられぬ人であった。
 高橋純〇さんは亡くなり、私は気仙沼に出掛けて弔辞を述べた。その時に私が高橋純〇さんに贈った言葉が、「預言者故郷に容れられず」であった。
 気仙沼の人のみならず、広く俗世間は高橋純〇を良く理解できなかった。理解したとしても、それを認める事は自分達の品性の卑しさを認めざるを得ぬ事と同義であったのだ。それ故、彼の言動に耳を傾けること少なかった。見て知らぬ振りをし続けた。言ってみれば、彼は世間に稀有な芸術家であった。
 私には高橋さんはまぶしい人であった。かなわぬ人であった。私は私の中の俗人を良く知っている。それがイヤでたまらぬ事も多いが、それから抜け出せぬ自分の現実を知っている。それ故芳賀牧師が私の俗な身振りを眺めて、預言者の如くになぞらえてくれても私はただ身の置き処に困るばかりだ。
 預言者のくだりはともかく、芳賀牧師は観音寺設計の中心を良く直観していると考えた。時に設計者である私よりもその形、材料の意味を適確につかんでいるところがあった。設計は欲している意志に実体を与える作業だ。そして、常に意志そのもの、思考つまりロゴスよりも物質の現実は厳然としているものなのだ。それ故に、設計されて出現した物体は設計過程の諸観念とは無関係な物質として、そこに在る。だからその物体を体験して得る体験者の観念は設計者のそれと遠く離れていて当然なのだ。その意味では体験者も又、創作者である。
 悠久の時間を形にする事はできぬ。しかしながら悠久、つまり永遠への渇望というような気持を造形する事が宗教建築の中枢であろう。絶対者、超越者に対する帰依の気持とは自分の卑俗の認識とそれからの離脱の実践の意志だ。宗教者とはそれに尽きる。芳賀牧師も又、その意志の生成、変転の只中におられるのだろう。希求しても得られぬ悠久の時、求めても得られぬ故に、そこに慈愛という、キリスト教で言えば愛、仏教でいえば哀しみ、の観念が宗教者、信者の相互に生まれてくる。宗教建築がその中枢に持たねばならぬのはこのニュアンスだ。
 芳賀牧師は観音寺を体験して、色々な感慨、観念を得られた。それこそが観音寺の作品である。観音寺はその作品を媒介し、契機になったのである。観賞者あるいは観相者の想像力は時に制作者のそれをはるかに超える事がある。
 十二月十四日
 毎日新聞に「生きる者の記録」の連載が再開された。萩尾信也記者。末期がんの佐藤健の死の床に最期まで付き添いルポルタージュを続けた記者だ。先日の池尻での佐藤健の会でも久し振りに会った。今回の記事は盲目の八〇才の青木優牧師の生き方を追うもののようだ。佐藤健の短い生涯は阿弥陀の来た道の探求で終わってしまった。佐藤健の後継者になるやも知れぬ萩尾信也が「生きる者の記録」をキリスト者を追う事で再開したのは良く解る。編集局長他もさぞかし知恵を絞ったのであろう。宗教を扱う事に経験が多い毎日ならではの配慮が感じられる。
 第一報は少しばかり荒いが歯切れも良く及第だろう。仏教の無常、キリスト教の構築を医師の卵だった青木氏が牧師になってゆく道筋とダブらせて書ければ凄いルポルタージュになるだろう。萩尾記者は阿弥陀、つまり浄土真宗の教えの中で死こそ光であるというのを良く知らずに、佐藤健の死の床での「生は光、死は闇、人間は一瞬の流れ星だ」というつぶやきを、そのまんま記事にして、浄土真宗の僧侶である馬場照道と「あの佐藤健がそんな事言うわけない。訂正記事出せ」「イヤ、健さんは確かにそう言ったんだ」の口論になったいきさつがあった。私は佐藤健ならそう言ったんだろうと思った。健さんは仏教に関して博識ではあったが仏教者ではなかったから。そしてその徹底した在世振りがよいところでもあったのだから。
 萩尾記者に対して生前、死を覚悟してからの佐藤健は俺の後継者として育つかも知れないと言っていた。萩尾の今日の記事を読む限り、素材の引っ張り出し方はむしろ佐藤健よりも適確である。きちんとした俗人振りも匂ってくる。あとはどう書き進めてゆくか、ここ二年の研鑽振りを見せて貰いたい。
 同じ毎日に磯崎新横浜トリエンナーレ・ディレクター辞任、川俣正後任に就任の記事があった。その小さな記事だけで日本の美術界の停滞と、俗ではあるが小じんまりとした保守化の動きがうかがえる。磯崎のアンテナが横浜からの脱出をうながしたのだろう。朝日には読むところがなかった。
 早朝、眼覚めてしまい山本夏彦の「一寸さきはヤミがいい」再読。山本夏彦八十八才、佐藤健六〇才。二十八才の生きた年月の開きを痛烈に想う。長生きはそれだけで智恵の表現である。
 十八時過、青山ときの忘れもの。秋の展覧会の作品にサイン入れる。何がしかの版画に彩色を施す。綿貫夫妻、室内塩野君と食事。ヴェトナム料理。食事後塩野君とアルクール。久し振りに勝ちゃんに会う。二十四時過世田谷村。
 綿貫さんから、「ひろしまハウス」の巡回展について提案があり、お寺を巡回してゆくのも面白いナアと言う事になった。
 十二月十二日 日曜日
 十二時過、中央高速を走り、今、樹海を走っている。十三時上九一色村富士嶺観音堂。この前の強風豪雨も大丈夫だった様でホッとする。ここは風速七、八十メーターは吹きそうだから。雨もりも止まった。屋根の笠木の未接合部分から強風にあおられての水であった。自然は恐い。冬富士を間近に、光に満ちた観音堂になってきた。
 ステンレス製の墓の群の端に座り、冬の風に吹かれて、しばし観音堂と富士山を眺める。まだ誰も認めてくれてはいないが、この観音堂は革新的な建築だと思う。富士山を間近にしたこの場所にはこの形しか無かった。水道も無く、水を得るのは天水が頼りだから、屋根は雨水を溜め込む装置にならざるを得ない。東京都西早稲田観音寺で試みた屋根の考えが踏襲されている。小さいけれど烈々と富士山に対面しているのだ。墓地は死者の累々たる記憶によって生み出される場所だが、ここでは、その記憶の集積が、集まる人の時にして弱々しい生命力に力を注入するようなモノでありたいと考えた。ここ迄来る人は自身の生命の力に何等かの疑いを持つのが多いのだろうから。観音堂はエネルギーそのものであるが如き生命の有様を形にしようと考えた由縁である。
 しかも、ここはオウム真理教事件のサティアン遺跡群の中心地だ。密教的造形は極力排除しなければならない。まぎらわしいスキャンダルの通俗に落ち込む事だって無いわけではない。用心して材料、形を非密教的な世界に持っていかねばならぬ。それで、こんな風な飛ばない飛行機みたいな物体にした。
 世界には異人とも呼ぶべき人が確かに居る。観音堂のクライアントもその一人である。この建築はその人物の異人振りをそのまま形にしたとも言える。その事は何回かに分けて表紙ギャラリーで書いてみたい。
 只今、十五時そろそろ東京に戻ろうか。作った建築につかの間の自信が持てただけでも良い一日であった。小さな時から知っていたマサ君が観音堂に来ていて、しっかり口もきけるようになっていたので驚いた。十六時過中央高速八王子料金所。富士嶺観音堂から帰りは一時間か、近い。しかし、距離も時間も金で買っている。

 先程、観音堂で墓地及び建築の夜景写真をいただいた。ステンレスの表面に光の反射光を宿し建築も天地に裂けながら光っている。その光の中に、ひときわ大きな丸い光が写っている。それは観音光だと写真をくれた人は説明した。クライアントは観音玉光だと言う。私はその類を信じない。しかし変な光が写っていることは認めざるを得ない。現実世界にも科学的合理だけでは説明できぬ事がどうやらある事実は受け入れても良いと考え始めている。人間には明らかに個別な尊厳が在る。ようするに個性がある。その事実を認めると異人、異能の存在は論理的には認めざるを得ない。さすれば異常現象の出現もなくはないであろう事へと自然に思考は拡張せざるを得ないだろう。

 十二月十一日
 九時半小田急線喜多見駅前。朝の陽光の中で一人広場に面したコーヒーショップの外のテーブルに居る。紙の照明でチョッとしたアイデアを思い付いたところ。小さいモノのデザインの場合思いつくのは楽なのだが、それを一つに絞り上げてゆくのがむずかしい。
 午後、研究室でTさんファミリーと久し振りにお目にかかる。進行性の難病の渦中にあるご主人を中心に奥さんと子供達。希望の家なんて言う幼いセンチメンタリズムは一切捨てて、親子が現実の冷たさと対面し、自立して生活を営んでゆく為の家を考えなければ。天井高2・8Mの上海の箱が使えれば下階の女子寮部分はOKなのだけれど。上階は木造の光に溢れた空間が良いだろう。平塚の柳本君も関心を寄せてくれるやも知れぬ。
 十七時渋谷東急INロビーで松林宗恵、馬場昭道両氏と会う。フィンランドに日本の寺院スタイルのパビリオンを建設する件。松林氏からは長い映画監督としてのキャリアから適確なアドバイスをいただいた。天松の天婦羅をごちそうになった。お二人に何度かお目にかかっているうちに段々私の方もフィンランドのプロジェクトのイメージがハッキリしてきた。阿弥陀堂+鐘楼に十数名程宿泊可能なスペースに事務、収蔵庫。松林さんの意見を取り入れて、夕焼けの中で山のお寺の鐘がなる、風景でやってみよう。
 二〇時過、昭道さんと池尻の佐藤健の会へ。六車氏、イチローからのメッセージを皆に伝え、健さん所蔵のイチローのスパイクを有難く拝謁する。二十三時過ぎ、名残り惜しいが去る。懐かしい顔が全く変わりもなく顔を揃えていた。なつかしさに負けて度々会おうなんて言い出したら、もうおしまいです。年に一度が良い。
 十二月十日
 三年生の設計製図を見ていて考えた。彼等は指導すればする程、教えれば教える程に少しずつ上達する。要するに設計(デザイン)は学ぶもの、勉強するものだと考えているらしい節がある。優秀な学生程、そんな傾向が強い。教師をやっていてこれは禁句であろうが、私は心の奥底では設計は自分で上達するもので他人から学ぶものではないと考えている。つまり人間には抜き難い個性らしきがあって、それぞれの才質があって、それを掘り起こすのも又、自分自身でしか無いと言う事だ。
 しかし、彼等は学ぼうとする。それ故に教えれば皆同じようになってゆく。一人一人の才質に対応してゆこうとするのは大変なエネルギーを要する。これは禅の修行と同じで、書き物、つまりマニュアルではなく口伝がすべてとなる。個別な才質を発見して開花させようとするのは、又、それなりの才質を持たねば出来ない。多分、それはモノを作るよりは余程困難なことではある。それをやるのは本当の師弟関係しかあり得ない。それをするのは一度切りだろう。それ故教える方法はどうしてもアブストラクトな性格を帯びざるを得ない。で、そうする。設計製図は又、高度な水準になればなる程に全人格的な性格をも帯びてくる。
 それ故に、教えれば教える程に、学生の設計製図は皆同じようなものになってゆく。
 学生ばかりではない。最近の若い建築家達の仕事が皆同じような類型のものに収斂している現象の正体は、実にそういうところにあるのではないか。
 先日、GAの対談で東工大の塚本君と話した時に彼が言っていた。どうしても僕等は皆同じように考えるようになっている、というのもその根底には、デザインを学ぶという姿勢があるのではないか。それを私は民主的な姿勢と簡単に言ってしまったのだが、あれは個々人の才質の開花の方法について言おうとしたのだと、今日気が付いた。対談はどうも苦手だ。なるべく出ないようにしたい。
 夕方、研究室の石井君と少し話をした。優秀な学生で、特に感性は柔らかい。彼も又、一生懸命、学ぼうとする。私は彼くらいの才質があれば自分で勝手にドンドンやれば良いのにとも思うのだが、そこのところのズレが仲々伝えにくい。
 要するに若い諸君は皆おしなべて学ぶ人種になっているらしい。学校ってところは学ぶところだろうと言う当たり前の枠の外で今、考えている。ようやく日本の民主主義的教育が成熟したと考えるべきか、飽和状態と受け取るのか。しかし、この状態からは本格的な新しさは出ない。
 十二月八日
 木本一之様  石山修武
 大沢温泉ホテルの石灯ろうですが、先ずは工房近くの川があれば、丸く削られた河原の石を幾つか拾い集めて下さい。正月の鏡もちのように下から大中小と積み上げて、姿形を吟味して下さい。その時点で写真を送って下さい。意見を申し上げます。
 中国地方の山地は日本でも有数の古生層、つまり老年期の山で、河原の石も年をとって(何千万年の年かな、調べてみて下さい。)けれん味のない、すりへらされた姿のモノが多いのではないかと期待しています。
 その鏡もちをフッと空中に浮かび上がらせる感じの石灯ろうにしたい。先日送ったスケッチは石の上にライトがありましたが、三つの石の下からライトを当てても良いかなと気付きました。

 一番上の石は少し不安定な感じが良いかと思います。三つの石が三角のフレームに包まれて浮いているのが望ましい。フレームの材質、形状を考えて下さい。

 このズングリと、けれどもグッと浮いた石灯ろうが置かれる場所は西伊豆山中の三〇〇年の歴史を持つ大民家を中心に増改築を重ねた大沢温泉の大浴場の外テラスです。テラスは引き込んだ川に面しています。
 何年かを掛けてこの民家風ホテルのリノベーションをしてゆこうと思います。四〇年位昔、今和次郎がこのホテルの改修に何らかの形でかかわったようです。私としても初の本格的リノベーションの仕事で、相手にとって不足はないので力を入れてみようと思っています。

 十二月七日
 昨夜から輿が乗って、大沢温泉ホテルの庭、その他のスケッチを続けた。今朝も一つアイデアが生まれてノートに描きつけた。鉄と石と土と瓦と草花を組み合わせたものだ。河原に転がっている丸い石、これは何万年も時間を経た造形で、その姿形には何とも文句のつけようがない。小さな地ぶくれみたいなものを作ってみたい。この仕事はヒョッとすると私に別の世界をのぞかせてくれるものになるかも知れない。十四時前、西伊豆大沢温泉ホテルの依田博之氏にFAXを送附。新しい仕事はどんなものでもワクワクする。これがある限りは大丈夫だろう。
 十二月六日
 十四時柳本君来室。研究室の一期生である。彼は今神奈川で建設会社の社長である。今度宣伝工芸事業に進出したようなので、私も何か仕事を創らねばと考えて、来て貰った。研究室に在籍した頃は鼻柱の強い前向きな人間だったが、社長になってもそれは変わりがなく、頼もしい。
 一期生、二期生達は今から考えれば元気があった。私も体力に限りが無かったから、ほとんど際限も無く附き合った。
 彼等がこれから社会で何をやってくれるか、楽しみなのだが、それは私の何がしかが、彼等に少しは移植されているだろうという、教師としての自負があるからだ。あんなに長い時間、しかも濃密な時間を共にしたんだから、当然、育つべきなのである。柳本社長には是非共事業を成功させて、私のところにロールス・ロイスで乗りつけて、ドカーンと事業成功の祝いなんかをやってみせてもらいたい。彼ならできるだろう。今年の四月の私の六〇才の祝いの会では、帰りに一緒に乗った車がドカーンと銀行だったかに玉突き衝突した。あのドカーンはもうイヤだ。今度のドカーンは華やかにやってもらいたい。
 ちなみに柳本君の遠州建設は社名をえるぷす株式会社と社名変更した。私のところの一期生なので、ごひいきに願いたい。
 十二月五日 日曜日
 今日は用事があって、油壷の月光ハウスに並木さんを訪ねる予定にしていた。朝電話したら、早朝の嵐もあってスケジュールを変更したいと言う。それでいきなり手持無沙汰の日曜日になった。頭も体も、今日は月光ハウスになってしまっていたから切り換えるのが大変だ。こんな時間の空白には得てして懐旧の念やらが入り込み易いぞ、と用心していたら、案の定それが侵入してきた。

 こういう手持無沙汰で思い出すのは、佐藤健との恒例になっていた酔庵での忘年会だ。暮も押し迫った頃、一日、二日、時には三日に渡って天王台の酔庵に押しかけて、グデグデとした時間を過ごしていた。何をするではない、朝からビールを飲んで、昼はウィスキーになり、夜は酒になったりした。何を話していたかは全く思い出せない。思い出せはしないが、よくしゃべっていた。常に笑いが絶えなかった。近くの真栄寺の馬場昭道も時々顔を見せ、毎日新聞の連中も集まった。忙しい筈の新聞記者がよくもまあ、あんな時間を過ごせたものだと思う。皆、社会の現実を否応なしに視続けなければならぬ人間達だったので、酔庵のグデグデの数日は良い息抜きになったのかも知れぬ。あるいは時代の風を良く感じられる人達であったから、こう言うグデグデの時代になり始めているのを感じ取っていたのだろうか。退屈な日常が延々と続く、チェーホフの小説みたいな世界である。知識人はこういう時間に弱い。アレコレ無駄な事を考えてしまう。今の百姓は良く知らぬが、帝制ロシア時代の農奴の日常らしきを想えば、彼等はこういう時間に耐えるのが、それこそが人生だったのだろう。これは少し大ゲサな例えだ。私達、消費社会の消費人は実に他愛無く、こんな時間をもて余してしまう。酒や読書や無駄話に逃避する。
 明らかに佐藤健はその生来の資質と見比べるならば仕事をやり残して死んだ。仏教を中心とした日本思想通史を書きたいと酔って繰り返し続けてもいた。彼ならば、面白く、解りやすくそんな通史を書けたに違いない。

 一日ポッカリと空いた時間の空白を私も、もて余している。長い日曜日になった。庭の草刈りしても、空白は簡単には埋める事ができない。何とかしないと佐藤健の歩いた径を歩き始めている様な気がしないでもない。

 十二月四日
 驚く程に時間が経つのが速い。早朝四時半眼が覚めてしまい、独人、大テーブルの席に灯りをつけて座っている。確かに年を取るって現実には酷薄なものがある。しかも、今、暮らしている東京そのものつまり都市そのもの、の時間に同様の性格がある。東京は急速に老化した資本主義社会の様相を露呈して、バラック状の廃墟へと凍結している最中にある。都市に満ち溢れている哀切さは自身の身体が内に溢れ返させている同類の反映なのだろうが。それにしても辛い時代になったものだ。私の最初の本のタイトルは「バラック浄土」であった。直観だけで生きていた頃の典型的な思い付きの産物タイトルであった。が、このタイトルは今の時代にむしろピッタリな感がしないでもない。途切れ途切れではあるが「ひろしまハウス」の作図を進めていると、ある感慨に辿り着く。この建築はカンボジアの首都プノンペンに建てるよりも、むしろ東京に建てるべき建築ではなかったか。東京の今にこそ、この建築は立ち現れるべきものではなかったか。
 広島の木本君に厚生館愛児園から依頼された二つ目のオブジェクトに関して、少々長い手紙を書く。
 十二月三日
 十七時半NPOピースウィンズの根木さんと研究室で会う。根木さんはカンボジア・プノンペンの「ひろしまハウス」の建設、運営に強い関心を寄せて下さって、色々と力添えをしてくれている。今日は「ひろしまハウス」の一部を使用可能にする為の資金集めの方策として、彼女が考えてくれた案をフォローする為の会合だった。カンボジアの日本大使館も心配してくれているようだ。私の研究室としても、根木さんの意欲に応えようと四名のスタッフを1週間「ひろしまハウス」工事用図の作図にかかり切りにして、彼女の気持ちに応えた。野本、尾澤、早崎、三好シュタークの四名である。勿論この努力を無償の行為だと、それを知らしめたいとしているわけではない。これ位の事はやる。当たり前だ。やりたいからやっている。私に時間を与えてくれればナァ。「ひろしまハウス」の大ドローイングを沢山描いて、それを投げ売りして、建設資金の足しにするんだが。この際時間は無くても、時間欠乏症であってもやってみようかと迷う。何はなくても、金の欲しさよ、だな。資本主義社会の定理から自由になる事は・・・あり得ないのである。「ひろしまハウス」 in プノンペンで、私達が試みようとしている事の一つは、税金の集積で作られる公共建築ではなく、資本投資の対象としての商業建築でもない。個人個人のお布施が集合して出来上がる、共同の意志の固まりとしての建築のイメージなんだけれど。マ、そんな事今の時代に言っても解られないだろう。ともあれ、根木女史の意欲と意志には応えたい。人は気持ちだけで動く時がある。
 十二月二日
 穏やかな冬日和の朝だ。
 藤沢のTさん一家より御手紙いただく。御主人の健康状態等気になりながら、一家の家づくりに何の力も出せず心苦しく思っていた。御手紙はチョッと早目のクリスマス・カード形式で、開いたら、音楽がこぼれ出てきた。一家の皆さんの元気そうな写真も同封されていて、私としては、かえって心苦しさに胸がつまる思いがした。困っている人達に何の力にもなれていない。相変わらず非力だ。家の問題に本当に苦しんでいる人達は、いわゆる建築家に設計料らしきを満足に払いたくても払えない、のが現実なのだ。何とかして差し上げたいのはヤマヤマなのだ。何か答えはないものかな。来週末お目にかかれるよう返事を書く。
 十二月一日
 九時過、小田急千歳船橋駅のプラットホーム待合室。小さなガラスの箱の中に、人間が木枯らしを避け少しばかりの暖をとるために、しばし閉じ込もっている。向かい側のホームにも同じような箱があり、同じように人間が入っている。標本箱みたいだ。電車も中に入ってみるとこれも動く標本箱である。ガラス窓を介して外を視るという事は、同時に視られているという事でもある。誰に視られているのか。不特定多数の無数の眼に視られている。ひそやかな相互監視ととるか、情報の公開的空間ととるか。電車の中はケイタイと小型コンピューターに没頭する人が多い。彼等はここに居て、同時にここに居ない。距離によって生まれる古典的パースペクティブの外に居る。こうして風景、空間は情報という無数の記号や言葉によって侵蝕されてゆく。無数の記号は空間浮遊し、散在するのではない。それは空間をむしばんでいる。むしばまれた空間を我々はそれでも生きてゆかねばならない。
 そんな中で、野本君は私の研究室では貴重な人材である。私のバウハウスとのワークショップからの成果の人材が、かくの如き人間であるのなら、私はそれを素材に、各論としての教育を出発させた方が良かろうと考える。俗世間で言うところの優秀な要領の良い人間ではなく、ゆっくりと耐えて、あきらめない人間とでも言うか。
 野本君の父親は福岡で設計事務所を経営している。父親の野本君に対する期待は大きいものがあるだろう。それが色んな事情の困難に会うことになった。野本君も人生で初めて本格的な難問に対面する事になっている。これで大人にならなければ、もう二度と抜け出るチャンスは無いだろう。
 来年の春迄、野本君は研究室にあずかる事にした。「ひろしまハウス」と福岡の住宅への、広島の木本一之君の参加へのコーディネート、利根町プロジェクトへの参加を十二月の彼の仕事にする。
 十三時過森の学校の打合わせを教え、再び小田急線車中。先程森の学校の敷地を通り過ぎた。十七時過、ガウディのNYホテル案(高さ三百三十メーター)を、お台場に建てたいという人物来室。十九時前まで話しを聞く。又、もう少しプランが煮つまったらお目にかかりましょう、と言う事になった。どうせ、やるなら丹下さんのフジTV前の土地にしてくれと申し上げた。十九時研究室研修生の野本君の父君来室。野本君の将来計画について相談。野本君は早稲田・バウハウス・ワークショップの一期から学生で、向学心は強いのだが、マア謂はゆる試験みたいなモノに弱い人で、色々とうまくゆかない事もあった。しかし、早稲田の大学院生レベルはアメリカの一流大学の院生の努力のエネルギーと比較すればその勉強のレベルは低いのは歴然としているし、体力、気力も弱い。日本の大学生、院生のすべからく、それは言える。一人一人の人材はそれぞれに大事にしなくてはいけないという当り前の事を野本親子から教えられもした。
 帰宅すると、故佐藤健の息子、論から手紙が着いていた。周囲は皆、二代目の時代に移行している。
2004 年11月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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