石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年6月の世田谷村日記
 五月三十一日
 一時、就寝する。頭の中にまだ色々なモノが出没して仲々眠る事ができない。八時過起床。十時研究室。学部レクチャー準備。十時四〇分レクチャー。マイノリティーの建築。デザインの問題の前に、社会、歴史観を前提とした主題の問題があるだろうという講義。十二時十五分迄。北京計画の模型写真をチェック。撮り直し。明日から六月だ世田谷村日記のスタイルを少し計り変えよう。前からズーッと考えている事なのだがこれが難しい。
 十六時モスクワより今日戻ったα社若松氏来室。モスクワでの幾つかの物件の相談。まだまだロシア風に荒っぽい話だが、少し細部が出てきたのが進化である。十九時迄。二〇時過研究室の博士課程カナダ国籍の中国人、蔡さんと新大久保駅前近江屋で夕食。蔡さんには最近の中国、台湾とのやり取りのシビアーなトランスレーションをお願いしているので、一度、御礼をしたいと思っていた。蔡さんは不思議極まるインテリジェンシーの持ち主である。三島由紀夫の研究者でもあり、ブッディストでありながら単純なニヒリズムに落ち込まぬ複雑さも所有している。様々な体験を経ているのだろう事は充分に察しられる。二〇代の日本人学生の平板さと比べれば話しをしていても当然の事ながら歯応えがあるのだが、何故、蔡さんは存分に建築デザインに紆余曲折しながらも突き進まぬのかが良く解らぬママだ。決断する事の粗雑な無謀さを恥じているのだろうか。一人一人の人間を深く見据えようとすれば、一人の人間が備えている膨大無限な細部の影の細妙さに、実にそれこそボー然とするばかりだ。いささか学生としては時の積み重ねを肩に背負い過ぎているようにも思う。この人物を。モスクワに力づくで突込んでみるかという、我ながら妙な情動が湧いてくる。他人の人生に踏み入って、その敷かれたレールをを切り換えるデザイン程、面白い事は無い。今日で、早、五月も終わった。面白くもあり、たまらなく退屈でもあった五月だった。
 山本夏彦は「旅をしても、ロバはロバのままで帰る」と、多分ディテールは違うが言った。翁独自な名言だと心服していたのだが、今日、祭さんから「牛到北京還是牛」という言が台湾にあるのを教えられた。要するに北京にまではるばる行っても、牛は牛のまま戻るのだと、夏彦翁のロバが、牛に取って代わっただけの事である。私の貧しい英語で何をしたってロバはロバのママだの、笑えるニヒリズムを伝えたら、たちどころに中国の牛が返されてきたのが、蔡さんの力である。彼の淡々とした、何の答えも得ようとしない高等遊民のニヒリズムを感じられて、何やら得をした感があった。
 二十三時前世田谷村。農文協の方から送られてきた。ダーチャの資料を読む。ダーチャは沖縄の自給自足菜園と同じだ。
 五月三〇日
 小雨、昨夕のうちに拡げた畑に農作物や花の種をまいておけば良かったと悔やむ。たった十米の高度差でも屋上の風と地上の風とでは温度も強さも異なるのを昨日実感した。屋上には能登の間垣のような竹の防風防日射しの垣根を作るのが理想だろうが、周囲に自然植生の竹ヤブがあるわけじゃなし、誰か二〇〇本程度の竹をゆずってくれる人いないかな。利根町の佐藤さんに頼んでみるか。あそこなら竹林が多いから、何とかなるかも知れない。あるいは馬場昭道だなコレワ。
 十四時研究室。北京プロジェクトチェック。明日迄にはまとまるだろう。モスクワより連絡あり、文化センターのサイトが具体的に幾つか絞られてきた。MAZDAのロシア企業ディーラー参入の件は、競争が厳しそうだ。MSP社長野口氏には御足労をかけている。オイルと自動車は基幹産業だから、新規参入は熾烈な競争であるとの事。そうだろう。李祖原と連絡。日本の外の仕事が動いているが足を地につけて行きたい。十八時迄北京プロジェクトのモデル作りをチェックしたが、意を決して今日中にまとめる事にした。つきっきりで夕食も抜いて、モデル製作。二十三時過、なんとかまとめる。全長七百米,高さ百二〇米程の計画となった。明日、写真を撮って、夕方打合わせの予定。もう少し、高さを抑えた案を作っておいた方が良いだろう。二十四時十五分世田谷村に戻る。二十四時三〇分、軽く夜食を取る。
 五月二十九日 日曜日
 十一時半迄眠る。昼食後下の菜園の拡張作業。取り壊してしまった家の離れがあった場所で、ツルハシで土を掘り返しているとガチリ、ガチンと石や瓦の破片にぶち当たり、仲々大変な作業である。三時間程かけて、それでも八坪程の土を掘り返した。掘り返した石と瓦でアゼ道をつくる。下の土地の丁度真中に梅の木があり、西側には月桂樹やらがはえているので、下にはどんなに広げても三〇坪位しか菜園を作る事は出来ないだろう。とすれば、今日は将来の菜園計画の四分の一程を耕した事になる。満足である、が疲れた。疲れついでに上の菜園に上り、水をまく。屋上の菜園は二十五坪程あるので、今は三十三坪程の菜園を育てている事になる。日曜日毎に拡張したり、育てたりで、五〇坪程の菜園になれば、沖縄の人達の自給自足菜園の広さに充分追いつけると思う。今日も屋上のサマーレタスで昼食、夕食はまかなえた。夜は畑の計画で遊ぶ。
 五月二十八日
 六時起床。十二時迄大沢温泉ホテルのチェックなど。外国人に日本の伝統的な建築のスタイル、構法を設計を介して教えるのは至難な業だな。アントニー・レーモンドの木造みたいな感じになってしまい、どうしても気に入らない。モスクワ・ダーチャ・ワークショップはそろそろ準備を急がないといけない。サイエンス&ビジネス研究所の発足趣旨考案。十四時四〇分研究室。諸々の打合わせ。北京計画等。スタッフに一九八九年のガウディの城を見せる。マア、研究室にはパワーあったなあの頃は。もう少し元気出して欲しいのだがね。二〇時打合わせ了。北京の大筋のアイディアがまとまりつつあるが、もう一歩も二歩も三歩もだな。モスクワのアイディアも、激しいモノになってくる。やっぱり、桁外れたのが好みだ。農村計画もバランスをとらなくては。二〇時半京王線車中。九時烏山、ネパール料理ラ・パパスでモモ、ガーリックナン、サグマッシュルーム、ヒマラヤンラム。ラムに一人酔う。六千メーターのトロン峠はもう体力的に越えられないだろうが、三千五百メーターのマナンにはカトマンドゥから飛行機で行けるようだ。できれば再訪したい。今冬は友人とアイルランドにウィスキーを飲みに行く約束をしているので、来年になるかなぁ。
 五月二十七日
 六時起床。朝刊二紙読む。日中関係への論評が明らかに保守寄りに転回している。いずれにしても中国側の国内事情の分析は米国の情報頼りで、二〇二〇年には中国、インドがアジアの中心勢力になる事は明白であるとしながら、そのシミュレーションに対する対応をジャーナリズム(マスメディア)は描けていない。政治家が描く事が出来ぬのだから、新聞ジャーナルはそれ位の事はしなければ。どうやら一番腰が据わっていないのは新聞ではないのか。信用できない。
 十時研究室、レクチャー準備。十時四〇分から十二時過まで大学院レクチャー。イギリスのハイテク建築について。ノーマン・フォスターのセンズベリーのアートギャラリーを中心に、ロジャースの建築等。イギリスの産業革命以来の脈々と流れる機械好みについて。十三時北京P打合わせ。昼食はサンドイッチとミルク。石井よりGスタジオの報告聞く。中谷、森川両先生に頑張ってもらっている。十五時前照明デザイナー長町志穂さん来室。九州O邸打合わせ。十八時迄。その後北京計画打合わせ。
 北京PのあとO邸他住宅設計打合わせ。ヘルベルト、大沢温泉打合わせ。二十二時四十五分迄。二十四時前世田谷村。晩飯抜きだったので一人おそい夜食を食べる。二十五時休む。
 五月二十六日
 十時大学。修士推薦面接。結局五人枠を守る。十二時前迄。十三時教室会議、十五時半迄。その後教授会に出席し、十六時過新木場トモコーポレーション社屋へ。大小とり混ぜての仕事が交錯して頭をクリアーにしておくのに力がいる。
 十七時過新木場着。友岡社長と久し振りに会う。松尾建設はアフターケアをしてくれないといけない。ドア・エンジンが2ヶ所外れてブラ下がっていた。スティール建具にビス止めの当たり前のディテールなのだが、こんな事は初めてである。ドア取付の職人がずさんなのか。飛行機のビスがこんなだったら大事故になっている。
 猪苗代前進基地の進行状況を聞く。前進基地の話しをしている社長は楽しそうで、思わずこちらの顔もゆるむ。十八時過迄。新木場で研究室に戻る渡辺と別れ、世田谷村への帰途につく。二〇時前烏山のネパール料理屋ラ・パパスで夕食。モモチキンティカ他、飲物はヒマラヤククリラムを飲む。ネパール料理のファミリーレストランみたいな店で、若い人でにぎわっている。ネパール・カトマンドゥのジィニーは今、どうしているのだろうか。河口慧海が滞在したトゥクチェの豪族の子孫で、ネパール有数のファミリーの一員だったが、タイのプーケットに土地を買い求め事業を起こそうとした最中にあの津波に遭ってしまった筈なのだが、消息は今は得られぬ。二十一時世田谷村に帰る。ここの生垣は我ながら仲々良いのであるが、今年は夜目にもハコネウツギの花の乱れ咲きが見事である。二十一時半、カバーコラム一本書く。「友岡さんの開放系技術建築」。ようやくこのウェブサイトに書きたい事が自分にも視えてきたような気がするが、明日になってみれば又解らないのだろう。やっぱり、モノがあって、はじめて何か言えるのだな。この商売の宿命か。
 
 五月二十五日
 七時五〇分世田谷村発。九時前研究室。九時シャープ富田氏小川さん来室。十時迄打合わせ。その後北京プロジェクトのスケッチ。
 五月二十四日
 十時過ぎ研究室。学部レクチャー準備。
 十時四〇分学部レクチャー。アントニオ・ガウディとサイモン・ロディア。十二時迄。十三時大野君相談。昼食後松尾建設来室。その後北京プロジェクト他打合わせ。O邸S邸他打合わせ。十九時過迄。
 五月二十三日
 六時十五分起床。今日は地鎮祭で軽井沢へ。八時地下鉄有楽町線氷川台。Sさんと車で北へ。十時半軽井沢現場。尾根の上のサイトに岩が出て幸和建設はいささか悪戦苦闘中。しかし、何とか乗り切ってくれている。北側はほとんど七〇度以上の急斜面だ。十一時過上田真田町の神官による地鎮祭。浅間山が間近に眺められる。十二時三〇分管理事務所のレストランで昼食。信濃風パスタ。昼食後S夫妻は草津へ。私は上田の池田大工の木工場へ。石井の教育の為。池田大工は真当に木を刻んでくれていた。十四時十六分佐久平、新幹線で帰京。十六時新宿で石井と別れ、京王稲田堤へ。愛児園の現場確認して世田谷村に帰着。中国の呉儀副首相が小泉首相との会談をキャンセルして帰国。国会予算委員会での靖国神社参拝発言に対する中国政府の反発である。小泉首相の大失態と言って良いだろう。外交の本質を理解しているとも思えない。北京オリンピック会場前の仕事を進めようと頭を巡らせている当方としても小泉首相の対応は迷惑極まる。
 五月二十二日
 昨日は小淵沢のケニーズラジオの進藤氏、作曲家北条直彦氏等と新宿駅東口にあったアカシヤのロールキャベツの話し、六〇年代の話しを樹陰で交して楽しかった。朝屋上菜園に生ゴミ埋める。
 北京に行っていた間に強風が吹いて私の屋上の仕事を吹き倒していた。情けない。サマーレタス、しそ、いちご、採取して昼食に食す。十五時府中八大建設西山氏と待ち合わせ。フィンランドの寺の図面を渡す。
 十六時二〇分打合わせ修了。明日早朝から動かねばならぬので真直ぐ世田谷村に戻る。
 五月二十一日
 六時起床。銀河鉄道計画。七時半下の畑の写真を撮る。八時前新宿駅。小田急線構内のコーヒーショップ。今日は中央林間に完成した十六山保育園のお披露目の会。この建築はただただ南雲建設の頑張りに尽きるモノだった。社長の弟さんの工事部長がこの現場を完成させた後、亡くなってしまった。九時南雲建設おくやみ。十時過森の学校。お披露目会出席。大和市長土谷侯保氏等とコンサートを楽しむ。パーティではミュージシャン達と話しがはずむ。十八時新大久保タイ料理クンメーで若松氏と会い、二十一時世田谷村に戻る。
 五月二〇日
 十時研究室。大学院レクチャー準備。十時四〇分、ミースのバルセロナ・パヴィリオンとフィリップ・ジョンソンのニューキャナンのガラスの家について。ジョンソンのガラスの家の情報化時代に於ける意味合いについて講じた。院生には解るわけないが、いつか思い出してくれればヨイ。まだ中国の疲れが残っていて勿論ベストな体調ではない。十四時半、北京プロジェクト他、住宅等の打合わせ。信州大学生来室。博士課程の陸海、蔡さんとは歩きながらの相談になっていまった。十五時過京王線府中で八大建設西山社長と待ち合せ。O邸メンテナンス現場へ。十六時半修了。十七時過府中へ。八大建設西山社長はバルセロナでガウディを見てきたようで、凄かったと話してくれた。ああいうのをいつか作りたいねと話す。作れるさ、きっと。
 五月十九日
 二十四時四〇分、北京M社スタッフ空港出迎え。車で香港市内へ。インターコンチネンタルホテル着一時二〇分。八〇八号室に入ったのが一時三〇分であった。香港には久し振りに来た。深夜になってしまったが夜景は相変らず息を呑む程に美しい。インターコンチネンタルホテルの海側の部屋が用意されていた。当然、2MX4Mの大きな窓が取られている。バスその他の設備も北京のホテルと比較すると比べものにならぬ位にアカ抜けている。このバスルームを見て、使わぬ手は無いと深夜シャワー入浴、洗髪。終ったのが二時二〇分。少し休んで眠りに入ろうとする。
 八時前目覚める。今日のプレゼンテーションの準備。眼前の香港の風景の変化におどろく。香港上海バンクは周囲の超高層ビルに囲まれ、もう影がうすく、ようやく見つけ出せる程のものになっている。IMペイの中国銀行もしかり。資本主義の風景、超高層ビル群は資本の森である。シーザ・ペリのハイライズが目立っているが、つまらない建築だ。九時前朝食の為ロビーに降りる。九時過ぎ朝食2Fレストラン。香港サイトはマンハッタンになった。十時二〇分部屋に戻り小休。十一時北京M社オーナー、 Mr. コーとミィーティング一〇〇〇号室へ。インターコンチネンタルホテルのコーナーの最上等の室を借り切って、香港マネーのコレクティングをしている一ヶ月であるようだ。非常に良い印象の男であった。中国人離れした合理性と予知力を持つ男だ。全く新しい世代の中国人エリートの典型だろう。十五分で友人になった。もう一日香港に泊ってゆけという話しになったが仕事の中枢の話しに突入。彼のプロジェクトの価値とリスクを指摘し、率直な意見を交換する。彼の中華人民共和国でのアイデンティティの中枢も知る事ができた。李祖原のおかげで中国で最良の人脈に当たったという確信を得た。ビジネスモデルを提示し、コー氏の責任分担を指摘。昼食をとりながら、ホテル2Fの会議室で密度の高いミーティング。充分な成果を得た。十五時前迄。「ユー・アー・マイ・フレンド」の別れの言葉を交わして、香港空港へ。李祖原は香港に残る。十五時過、キャセイパシフィック、チェックイン。M社アレンジでフリーパス。十六時過CX508便にてNRTへ向けて離陸。NRT→北京→香港→NRTのトライアングルトリップはとりあえず終了。 Mr. KWOKとは中国人民大会修了後、TOKYOで再会を約した。成田には二十一時過到着予定との事。仲々ハードな旅ではあった。中国に良い、若い友人を得たアッという間の三日間であった。二十三時前車で世田谷村着。今夜は恐らく疲れ過ぎて眠れないかも知れぬ。
 五月十八日
 七時起床、ホテルの窓から眺めると北京市はクレーンが林立していてクレーンの街だ。ゆっくりバスを使う。今日もハードだ。今日と明日だけでも小泉日本国首相が変な発言をしない事を望む。ホテル周辺には反日デモの気配も感じられぬ。
 プレゼンテーション用の図面を整理する。九時一階レストランで李祖原と朝食。今日のスケジュールの再確認。十時、ホテル間近のオリンピックサイト前の北京M社を訪ねる。三階建ての立派なオフィスであった。広い社長室でロケーション他の説明を受け、質疑応答。その後、オリンピックサイトの反対側の北京Mセンターの建設現場を訪ねる。オリンピックサイトが余りにも広大なので、六百メーターの長さ、百八十米の高さが、感じられない。北京では普通のスケールの計画だな。サイト上の印象は工事が中途でストップしている事もあり、多くの人が将来も来るのかなの疑問も浮かぶ、静かなサイトの印象であった。東京の銀座、渋谷、新宿の盛り場の感じで対応したら間違いを犯すコレワ。ナンバー4のリングロードと天安門の軸とがクロスする場所であるのは確かだが、今、ここを超一等地である事を認識するのはオリンピック以降の都市計画を知り、十年先を予測し得る都市計画家しか不可能だろう。李祖原北京オフィスを訪ねた後、彼は午後は別の仕事。我々は北京M社のスタッフと昼食を共にする。昼食後、再びMセンターのサイトを調査。リングロード4を往復して様々な可能性及びリスクを探る。十五時三〇分クラウンホテルに戻り、ラゲージをピックアップ。十六時HOTEL発。北京M社オフィスへ。色々と頼み事をする。李祖原十六時五〇分M社オフィス来。今日のサイト訪問とこの計画に対しての極めて率直な印象を話し、ミーティング。十八時過、北京M社のプライベートレストランで夕食。アン、アンの友人のニューヨーク在住のリサ、北京M社スタッフ同席。M社オーナーはプライベートキッチンを持ち、数名のコック、及びウェイターを持つ贅沢振りである。美味であった。一つ明日のプレゼンテーションのアイデアが浮かぶ。十九時ディナー修了。車で北京空港へ。M社スタッフと共にVIPルートを使用。北京到着時と同様である。KA997便にチェックイン。美しい夕焼である。二〇時三〇分ラウンジからウェイティングロビーへ。二〇時五〇分過北京発。今朝、ホテルの窓から北京市の風景を眺め、北京はクレーンタワーが林立する街だの印象を得たが、あのクレーンの風景は北京Mセンター建設現場のクレーンとオリンピック会場建設のクレーンであった。明日は北京M社のオーナーに会って大事なミーティングとなる。二十四時二〇分香港空港着。ハードな一日はまだ続く。
 五月十七日
 七時前荷づくり。朝食、ホウレン草、玉ネギ、ヒラメ、白飯。今日、明日はハードだ。しっかり腹ごしらえをしておこう。八時二〇分発。九時半研究室。高橋君が頑張ってCEMAモデルを作成してくれた。九時半磯崎アトリエ山本君磯崎宙君来室。ウズベキスタンPについて、概要を聞く。十時五〇分学部講義。提出物の発表とクリティーク。十二時二〇分迄。十四時迄北京・香港プレゼンテーション準備。十四時過研究室発新宿へ、十四時四十二分NRTエクスプレスで成田へ。十七時五〇分JL 789 便で北京へ。
 新宿駅で成田エクスプレスを待っていたら、小学校の時の同級生だった橋爪君に声を掛けられた。四十数年振りの再会である。ビックリした。何かいい風が吹くような気がする。勝手ながら。  二〇時三五分北京空港着。先週の台北便と違いJALは北京便には新鋭機を充てている。ビジネスクラスも満席であった。李祖原とスタッフ空港内まで迎えに来てくれる。飛行機のドアを出たらすぐに居たので、マ、驚いた。大きな車に乗せられてホテルへ。クラウンホテル、これもデッカイホテル。すぐに小食を摂りながら打合わせ。北京市、及び中国政府の電子部分への許可を取るのに金がかかるかも知れないとの事。明日のスケジュールを決めて、休む。李も同じホテルである。アンにも再会。二十二時四〇分シャワーも使わず寝る。
 五月十六日
 十時前研究室。十時定例。十時半学務。十二時半修了。昼食は室内でサンドイッチとミルク。十四時映像館の方取材。ケーブルTVのネットだそうだ。女性一人がカメラをまわし、同時にインタビューはさぞかし大変だろう。十五時半北京の件打合わせ。十七時INAXビルの座談会へ。
 十六時若松氏来室、北京のビジネスモデルの打合わせ。十七時半過、京橋INAXショールーム。リノベーション・フォーラム。難波和彦松村修一両先生及び太田君と会う。十八時より一時間小レクチャー。三先生と雑談。二〇時過修了。修了後パーティー。その後三先生と近くの飯屋で飲む。二十三時半世田谷村に戻る。明日の午後から、北京へオリンピックサイトを訪ね、李祖原北京事務所で打合わせ後、香港で北京M社オーナーとハードな会合を持つスケジュールとなった。マ、存分に闘ってこようという気分である。〇時二〇分休む。
 五月十五日
 七時半起床。新聞を読む。ウズベキスタンは暴動状態になっている。ソ連邦の崩壊は中枢のロシアではなく、周縁に混乱状態を引き起し続けている。
 藤森照信氏より「人類と建築の歴史」送られて、読む。相変わらず面白い。縄文建築、巨石文化の体験からの直観が歴史の形式を借りて述べられている。カバーコラムで書評してみるつもりになる。最終章のまとめは余りにも大胆な仮説で、これが藤森流なのだが、私なりにいささか荒いと感じた。しかしながら、読み始めると終りまで止まらない筆力は益々高まっているようだ。
 午後より土いじり、下の菜園にトウモロコシ、キュウリを植え込む。ひまわりも植えた。屋上菜園には夕顔、ひまわり、矢車草、風船かづらの種をまいた。十五時半修了。と同時に雷をともなった激しい夕立来る。実に良いタイミングであった。十六時前、日曜日をつぶして北京のビジネスモデル作成している若松氏に電話を入れる。銀河鉄道計画モスクワスケッチ。
 五月十四日
 朝屋上菜園に生ゴミ埋め、雑草取り他。イチゴをつんで喰べる。甘酸っぱい味でおいしい。思い立って下の菜園にナス、トマト、ピーマンの苗植える。レンギョ、ノコギリ草も植える。上の菜園に再び上り、ナス、ピーマン、サルビアを植える。十二時半迄土いじりで過ごす。十五時研究室。いくつかのプロジェクトをすすめる。Gスタジオの為に森川嘉一郎君来室。手違いがあり、Gスタジオは学生不在で、森川氏と若干のミーティング。ドイツ、ワイマールのバウハウス大学でJ・グライターが建ち上げたインターナショナルGスタジオのプラン、これは世界中を共に動こうという、我々のアイデアだったか、J・グライターは持前のステディーな企画力でドイツで先ず実現しようとしているのだが、そのGスタジオとTOKYO・Gスタジオの連携をリアライズする事を決めた。森川君の出番である。未来は仲々に困難さに満ちているが、Gスタジオの一つの核が少しは視えてきたように思う。上海、モスクワ、ウウベキスタンを関連づけたい。森川君、石井君等と早大前のファミリーレストランで談笑し、十七時半研究室に戻る。α社長若松氏と連絡、今夕会う事になるかな。来週は北京に行かねばならないので、その準備をする。
 十八時半若松氏来室。プロジェクトCに関してのビジネスモデルに関しての打合わせ。十九時半高田馬場もめん屋で若松氏と会食。モスクワ、チェルノゴロフカ・ワークショップの打合わせで安藤十五分程参会するも実りなし。二十三時迄、青森若松家の話し等を聞き、色々と考えさせられた。若松氏のα社は現在、日本で六、七番目位のITカンパニーなのだが、ITビジネスは一、二番じゃなくては世界には通用しない現実があり、それで若松氏は頑張って他領域まで踏み込んでいるわけで、そこの辺りが解らぬと新世界はのぞき込めない。人それぞれに苦しい試行を重ねている。二十三時四〇分世田谷村に戻る。明日は、いささか熟慮をして、プロジェクトの担当に関して、週初めに決断する。
 五月十三日
 昨日は山田さんにすっかり、生活のリズムを狂わされてしまったが、時には良いものだ。しかし、彼のように生身をさらして生きてゆくには仲々に困難な時代になっている。カメラマンからカワラマンになって淡路に去った時が今のところは山田さんの時分の華だったろう。時分の華を続けることは不可能な事だ。早く炭焼きになて、枯れた華になってゆく姿をエレガントに社会にさらすしかないだろう。六十六才になった山田脩二と久し振りに再会した印象だ。私だって、世田谷村の百姓の真似事生活をネットにさらして生きてゆくスタイルに変えているんだから。しかし、山田さんの困難さはそのまま私の困難さにもつながるところがあるので、山田脩二を視ていると少々歪んだ鏡に写った自分を見ている風があって、仲々に寂しいものだ。
 七時起床して、メモを記し、今日の院レクチャーの準備。南泰裕さんから送っていただいた「ブリコラージュの伝言」アートン社、読む。南さんには数度お目にかかった事があるだけだが、感情や情熱を抑制して生きている人だなと言う印象が強かった。この本は、その抑制の内側が時に露出していて面白かった。著者と一度でもお目にかかり、言葉を交わした経験があると、それだけでその本は別の読み方ができてしまうもののようだ。
 十時研究室。大学院レクチャー準備。十時四〇分より十二時迄レクチャー。サントリーニ、ル・コルビュジェ、ロンシャン、ラトゥーレット、ドイツ表現主義を巡って。ハンス・シャルーンとコルブを並立させて論じた。建築デザインは広大な世界から産みだされていたという話しである。十三時半エドカ工業。ビニール製レンズの説明を聞く。十五時前昼食。冷やし納豆ソバ。
 幾つかの打合わせを終え、十八時近江屋で若松氏と夕食。何がしかのビジネスモデルの相談。十九時半修了。二〇時前研究室に戻り、台北李祖原と連絡。来週の北京行の相談。CEMA打合わせ、二十二時迄。MAZDA自動車のモスクワの話しもうまく行けばよいのだが、MAZDAヨーロッパの情報を聞くに、ロシアの自動車ビジネス、オイルビジネス共に大変な活況の様で、中国よりは信用できる市場のようだ。高度経済急成長の地域にビジネスチャンスが多発するという常識に最近は身につまされ続けているが、人間の品格はそれにゆり動かされても、流されぬところに在る事は忘れまい。私に金もうけが出来るわけもなし。もともと金に興味が余りにも無さ過ぎるのが、傷なんだから。輪廻転生来世に生まれ変わったら一度は金の亡者になってみるのも良いな。
 五月十二日
 朝屋上菜園に上る。変わりなし。サマーレタスが大分大きく育っていた。今年は収穫できるか。今日はスタッフにCEMAのオペレーション。十一時半研究室ミーティング。モスクワ、東京、北京、それぞれのプロジェクトの概要説明。十二時過竹内ラウンジで中川武先生、山田脩二と会う。山田さんは既に酒が入り御機嫌であった。十三時過教室会議。十五時半まで。その後打ち合わせ。小さい物件程打合わせが綿密にならざるを得ないのが仲々に辛い。MSP社長野口氏と連絡。他。二〇時山田修二と新大久保駅前近江屋で会食。二十一時迄。山田氏相変わらずだが、流石に少し計り弱くなったに見受けた。仙川泊りの山田氏と京王線烏山で別れ、二十二時世田谷村に帰る。
 五月十一日
 七時半起床。昨夜は、流石に疲れて良く眠った。今度の訪台では古い友人にも再会できて良かった。皆それぞれに年をとりながらそれなりにやっているようだ。
 私と李祖原は全く違うタイプの建築家だが、どうやらこの男が友人の中では一番頑固者だな。何言っても全く変わらないんだから。ホテルの窓から、隣りにそそり立つ五百八メーターの101ビルを見上げながら、つくづくそう思う。
 十時過ホテル発。十時半前李祖原事務所。CEMA打合わせ。十一時半昼食。十三時迄。ズーッと建築の話し。何をどう言っても彼は自論を曲げない。そうだろうな。桃園空港十四時前着。チェックインしてラウンジで休む。今、十四時二〇分くらいだろうか。時計を持たぬ、ケイタイを持たぬと仲々、不思議な浮遊感の中に送り込まれる。十六時前EG二〇六便は水平飛行に移り、梅雨の空を抜け日本に向けて飛んでいる。北京CEMAで試みようとしているのは、電子建築の可能性への試みだ。全ての建築は例えそれがハイテクスタイルと呼ばれようとも、どうしようもなくローテクの産物である。現代の技術的成果の精華をそこに眼に視える形で注入する事は困難である。建築の本体はローテクの集積で良い。しかし、今迄とは違う方法で、そのスタイルにもう一つ別の体系の、インヴィジブルなハイテクスタイルをモンタージュ出来ないかがCEMAの研究課題である。面白い命題である。何とか糸口を見つけたい。機中で北京に持ってゆく案をまとめる。明日から五日間で、この案を作図させてモデルを作らせよう。何とかなるかもしれない。アト三〇分でNRT着、十九時NRT着。二十一時半過世田谷村帰着。
 五月十日
 十時李祖原ホテルにてピックアップ。事務所へ。打合わせ。十一時半昼食。若松氏空港へ。十三時過シャープ富田氏と李祖原事務所で会う。CEMAミーティング。富田氏台北101見学。101オーナーと会う。十五時過富田氏空港へ。十六時李祖原事務所でCP・王に再会後、所員に小レクチャー。李祖原の建築のこれから。友人だから、かなり厳しい事も言わざるを得なかった。十九時修了。質疑応答が続いた。二十一時過夕食をすませてホテルへ。
 五月九日
 六時半起床。CEMA計画で台北の李祖原事務所へ。
 十一時半EG二〇三便で台北へ。十四時過台北着、李祖原氏空港まで迎えに来る。台北は梅雨に入り強い雨。台北101間近のグランドハイアット台北にチェックイン。すぐに李祖原事務所へ。CEMA打合わせ。ソーラーエアーシップの案は中国政府の許可が得られなかった。残念。又、別の案を案出しなくては。アドバタイジングのビジネスモデル作りに、良いプランが浮かび上がる。若松氏提案のもの。夕食は前の李祖原事務所があったビルの地下で。二十三時前ホテルに帰着。
 五月八日 日曜日
 屋上菜園に小さな風除けの木のサクを作り、瓦を動かし、西南のコーナーの畑を充実させる。下の畑にお茶の小木を植え込む。
 五月七日
 十一時世田谷村発。屋上にセットした筈の日除けのスダレがもう一部崩れている。これ位の事がチャンと出来ないで、良く建築家だなんて言ってられるなと我ながら唖然とする。十三時研究室ゼミ。十八時迄。基本的には学生から新しい問題は提起されぬ空漠さはあるが、期待しても仕方ない事ではある。銀河鉄道計画を割りふったM0の学生から思いもかけぬ誠実な応答があった事だけが救いであった。十八時半過原宿、しゃぶ膳紫波へ。松坂屋東京店長となった山田日出男氏と本当に久し振りの再会。名古屋世界デザイン博ガウディの城以来の再会である。積もる話しをるる話し合う。山田氏は昨年病から奇跡的に立ち直り、今、銀座の松坂屋店舗を中心とした銀座再開発の責任者として頑張っていると言う。一度死んだ体だからケチな考えを捨てて、銀座再開発をやってみるという覚悟のようだ。自然に再び一緒に何か出来たらいいねの話しとなる。二十二時前散会。良い再会であった。二十二時半頃世田谷村に帰着。
 五月六日
 昨夜は昼の作業で疲れて早々と眠ってしまったので、早朝四時前に目覚めてしまい、読書。再び休む。曇天、風も無し。屋上でカラスが何かやってる気配あり。
 十時研究室。同四〇分大学院レクチャー。十二時半より各種打合わせ。CEMA北京、モスクワプロジェクト等々。二十二時世田谷村に戻る。
 五月五日
 昨夜は思い立って本間俊太郎元宮城県知事の日本魂のデザイナー読む。本間氏は刑務所で本当に良く勉強していたのを痛感した。死ぬ気で勉強したのだろう。この本を読む限りでは仏教の哲理を身につけた首長がいても良いのにと思うが、彼が再び表舞台に立つ機会があっても良いと考えるが、どうなんだろう。朝食、おむすび、野菜。昼飯、そうめん、野菜。午後妙高寺墓参り。植木屋でバジル、秋明菊、イタリアンパセリの苗を求める。午後、下の庭を手入れ、畑を作ろうと一坪弱の土を掘りおこす。上の畑、つまり屋上菜園に上り、畑の手入れ、及び上の畑の南側に陽除け、風除けの竹スダレをセットする作業に取り組む。屋上菜園のゴーヤは昨年は風でダメだったのが口惜しかったからだ。汗ばむ程に働いてしまい、いささかの満足を得る。十八時迄作業を続けた。屋上菜園のラベンダーは切って、二階に生けても生けても、全然減らぬ位に大株に育った。夕方、一人ビールを飲みながら思い付いてしまったのだが、東北一ノ関辺りに、結城方式で農地を求めて花でも育て、養蜂業でも、ひとかじりするのも一興かも知れないな。昼は蜜蜂、夜はベーシーでJAZZというのも、いいだろうな。ま、しかし夢の又、夢だろう。しかし、何年か前、世田谷の家の庭の梅の木に、蜂が大きな巣を作った事を記憶しているから、ここで養蜂はあり得ると思う。まちづくり支援センターで長野のアカシヤの花を主としたミツバチのミツを売っていた事を思い出す。
 五月四日 昼&夜
 十一時半大学。キャンパスは休日で静まり返っていて、実に気持良い。李祖原と北京CEMA打合わせ。基本的な方針の合意を得る。これで九日の訪台の条件が整った。十三時前代々木、GAに李祖原と二川幸夫氏を訪ねる。久し振りに会う二川氏は自然に年は取られたが元気そうだった。二川由夫にも会う。ヨーロッパでのレム・コールハースが絶好調だ、という話しを聞く。二川さんは相も変わらずだ。十五時大学近くで讃岐うどん喰べて、九日台北での再会を約し、李祖原と別れる。十五時半、モスクワ・プロジェクト打合わせ。十七時半終了。大久保駅前近江屋でビール飲んで十九時過世田谷村に戻る。鎌田君等と宗柳で夕食。よもぎそば、美味であった。帰り径、ジャスミンを一枚、花ドロボーして戻り、小グラスに生ける。芳香部屋中にむせ返る。
 五月四日
 銀河鉄道計画の原稿読み直す。気負いがあるところが、我ながらまだ若い。モスクワの日本文化センターのサイトが四つも候補地が上がってしまったようだ。クレムリンに一番近いモスクワ川のほとりはどうやら借地料が法外な値段で望ましくないらしい。今日は昼に李祖原に会い、CEMAの打合わせを続ける。このプロジェクトも中国の反日デモやクライアントの資金力を巡る問題で、行方定かではないが、二重、三重に対応していく手段は用意しているので、簡単には後退せぬ。複雑に前進していくつもりである。銀河鉄道計画は車輌の二、三台は模型をつくる必要があるな。九時屋上菜園。ゴーヤ植える。生ゴミ大量に埋める。風強し。
 五月三日
 朝食、きゅうり、カニのサラダ、半熟ゆで卵、ウニ少々とごはん。サラダがおいしかった。十時半世田谷文学館企画展宇野千代に足を運ぶ。十二時半迄。有名無名を問わず、一人の人間の一生の記録というのは克明に観察するに足るものがあるナア、というのが実感であった。流石にお年をめした方の入館が目立ったが、体が縮んで小さくなったようなお婆さん達のそれぞれの記録だって、充分宇野千代の一生に匹敵するものがあるに違いない。同じ人達がTVのバラエティ、お笑い番組を見ているとはとても思えないのだが、どうか。一人一人の人間は姿形がハッキリしているのだが、集合すると顔が消えてしまうのかな。ゴーヤの苗を買って帰る。昼食は、そうめん、おむすび、野菜サラダ、貝。これで腹一杯になってしまうのだから、胃袋が縮んでいるのだろう。十五時半、近くのコーヒーショップ。十七時半頃まで原稿書く。宗柳に寄り、一人ビールを飲む。ホタルイカの酢づけ、小松菜の漬物、合鴨の柳川ナベと小碗一杯のゴハン。結局夕食になってしまう。一人が良い時が多くなった。世田谷村に戻り、早々に眠ってしまう。
 五月二日
 七時頃起床。昨夜はイヤになる程眠った。郵便ポスト迄ねぼけ眼で足を運び新聞を読むも、読む記事が無い。事件、事故、戦争の合い間の生活になっている様な気もするが、こんな時にこそ、書かれるべきモノがある様な気もするが、気もするが気もするがの連続で何ともさえない朝である。
 十時研究室。李祖原ミーティング。CEMA計画。中国の対日抗議デモ等でスケジュールは変更せざるを得ないが、ここ一ヶ月の予定を組む。午後、幾つかの打合わせ。十九時六本木、レストラン五穀。磯崎アトリエ網谷さん、久し振りにお目にかかった堀氏と会食。少し遅れて磯崎さん。李祖原と歓談。春の終わりに上海で、バウハウスの連中を交えた小さなミーティングを持つ事、そのアレンジを李祖原(CY・LEE)が受け持つ事を約して散会。二十四時前世田谷村に戻る。
 五月一日 日曜日
 朝、久し振りにTVをつけてみたが、余りの馬鹿馬鹿しさに呆れ返り、すぐ消してしまった。昼過ぎ、小さな自転車に乗って烏山センター前の植木市へ。今年のセンター前の植木市は出品数も少なく少々寂しい趣き。シソ、枝豆、サマーレタス、シシトウガラシの苗を買い込み、屋上菜園に植えた。花より団子である。何もせずに休む一日はやっぱり私には何とも言えぬ不安感をもたらせる。
 中国の反日デモは中国国内の民衆のストレスの吐け口が日本に向けられたというのが真相か。都市間、更には先年実体験した農村と都市との経済格差に対する中国国民の不満、そして中国政府の情報管理体制に対する不満が、仮想目標としての日本に向けて噴き出したものではないか。中国政府が反日デモ、暴力行為をコントロール出来ぬ現実を改善出来ぬならば、第二、第三の天安門事件に発展する可能性すらあり得るだろう。ITネットに主導された反日運動の実体は、すでに中国共産党政府の古い水準の情報操作がITの煽動力、速力に追い付く事が出来ぬ現実を示しているのではないか。昨夜、李祖原が来日した。明日早朝からCEMAプロジェクトの打合わせを詰めるスケジュールに入る。中国の反日デモの動きがプロジェクトにどう反映してくるのか、今は何とも言えぬ。
2005 年4月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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