石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年5月の世田谷村日記
 四月三〇日 夜
 二〇時前世田谷村に戻り、夕刊二紙読んで特に毎日新聞のテリー伊藤の現場チャンネルなる大きなコラム読んであきれた。このコラムは新聞メディアの、TVメディア特に芸能界への批評の意味が込められているのだろうが、要するにスーパースター論であり、郷ひろみという昔のスターを知り合いとして得意気にTV芸能界特有の馴れ合いの中で書いているのだが、実に平板な俗論の垂れ流しであり、こんな書きモノにコレ程のスペースを割く事に今の毎日新聞の弱体振りがうかがえるのである。郷ひろみが何故日本脱出ならぬニューヨーク住まいで、離婚したとかしないとかを論じるのに、これ程のスペースを割く見識とは何か。毎日新聞の命運極まれりの感深し。毎日新聞記者故佐藤健を介して毎日新聞には親近感を持つ身なので余計に残念である。テリー伊藤が良き野党精神を体現しているとは考えられぬし、考えの浅さが庶民を代表しているとも思えぬ。テリー伊藤がバカなのではない、もともと俗なんだから、伊藤にこんなに書かせている愚かなジャーナリストが居るって事。新聞人が新聞にツバを吐きかけているようなものだ。TVバラエティーが好まれ続ける消費社会が続くならば新聞は堂々と負けて亡びてゆけば良いのだ。TVに勝ったり負けたりを考えては、ライブドアの社長と同じ世界に落ちてしまう。
 四月三〇日
 朝に光の中で見る山口勝弘さんの絵は実にたおやかで美しい。世田谷村はチョッとしたギャラリーの様相を呈してきたな。今朝は研究室の定例ミーティング、昼からゼミ、午後のGスタジオと終日大学だな。
 四月二十九日
 昨日は午後、早稲田の国際会議場井深記念ホールで『批評と理論』出版シンポジウム、「丹下健三あるいは建築状況二〇〇五」出席。磯崎新、鈴木博之、福田和也の論客達の司会を務めた。十三時半から十六時半迄。終了後大隈会館でシンポジウム手伝いの学生達を交え小パーティー。その後、磯崎さん達と六本木の「五穀」で和食焼酎。磯崎さんはアガ・カーンのユーラシア・プロジェクトの進め方に独特な方法を考えているらしいというのが、新しい展開だな。二十三時過世田谷村に戻った。
 今日は午前中、屋上菜園に上り、土いじり。日射しが強い。尼崎JR脱線事故は死者百人を超える大惨事となった。ハイテクの矛盾を示した事故だ。人間は技術的成果を充二分に制御できる程有能ではない。つまらぬ事であせったり、逆上したりの弱い生物である。弱い生物であるのを露呈した二三才の運転士の逆上によって、百名を超す生命が失われた。いつか近未来、新幹線が二百 km 超の速力を全開している途中で事故を起こしたらと考えると恐ろしい。恐らく現実はアクシデントと紙一重の境界線上を走っているに違いない。あらゆる便利は危険に通じる。
 昼、昨日バルセロナの丹下敏明氏から松坂屋山田日出夫氏東京店栄転の話しを聞き、電話してみる。山口勝弘氏訪問の約束。十五時前たまプラーザの山口勝弘氏訪問。ヴィトリーヌの北京プロジェクトへの応用を相談するも、困難そうである。一時間半程話して、そろそろ帰ろうかという時、突然先生は「この絵持って帰って」とおっしゃった。壁に掛けてある、「スペインの夕餉アダージョ」という題をつけられた、それは美しい小品である。大分以前にも、別の絵だったがもし気に入ってくれたら、あげるよ、と言われた事があり、その時は遠慮して、いただかなかった。いまでも時々、その遠慮を悔やむ事があって、自分の気の小ささを悔やんでいたので、今度ばかりはすぐ、いただきますと率直に言った。おだやかな色合いの抽象画で、毎度、たまプラーザに来る度に、いいなと思っていた絵なので本当に嬉しい。山口勝弘さんの気が変わらぬうちにと、そそくさと持ち帰る。
 朝昼食共にそうめんだったので空腹極まり、十八時過烏山大昌園で焼き肉。二〇時松坂屋山田氏と連絡がとれて、連休明けに会う事になった。名古屋世界デザイン博の時、ガウディの城を名古屋城に作った時のスポンサーが名古屋松坂屋で、彼はその時の担当者であった。あのプロジェクトは磯崎アトリエの丹下氏、藤江氏とも一緒だったし、山口勝弘さんも映像で協同した。巡り合わせを感じる。今日は四月には異常な暑さだった。
 四月二十七日
 屋上で生ゴミ埋め、草取りしながら一週一案の構想をまとめる。一時間程を屋上の菜園で過ごす。日射しが強い。午前中明日のシンポジウムの準備で、いささかのつけ焼き刃的読書を試みる。いささかジタバタしたが結局、ジタバタしても仕方ない、成り行きに任せようという事にした。
 四月二十六日 晩
 二十一時前世田谷村に戻る。今日は午前学部レクチャー。午後調布B邸引渡し。夕方、新大久保近江屋でα社長若松氏と会食であった。長い間暖めていた一日一プロジェクトという思い付きがはっきりした形で浮かび上がってきたが、流石にこれは不可能そうだ。アイデアはその速力で浮かぶだろうが、他人様に見ていただくのには、やはりそれなりの時間がかかると計算した。一週間一プロジェクトをとり敢えず半年間続けてみるのを決心する。マ、自分にどれ程の力が残されているのかを赤裸々にチェックしてみるのも良いだろう。ダメなら、もうダメなのだ。半年間 走り続ける事が出来たら、一冊の本にまとめてみたい。
 ホームページは私の世田谷村日記、カバーコラム、そして一週一件プロジェクトの三軸にする。これ位が能力の限界であろう。昨日、結城登美雄とこれからは関節の力をポキリ、ポキリと抜いて、脱力してゆこうと話し合ったばかりなのに、いきなりそれとは正反対の決断に辿り着いてしまったようだが、これが私の地なんだろうと思う。ジタバタ走り続けるのが不幸せなのは解っているのだが、矢張り抜き差しならぬ好みなのだ。だからそれに自然に従ってゆくのが好いと思い知る。
 一週一件プロジェクト第一回は北海道十勝原野への銀河鉄道計画とする。二回は東京新宿への「不安の素ミュージアム」でやってみる。三回は千葉県、真間山へのソバ屋の提案。四回は、まだ内緒という事にする。
 四月二十六日
 秩父から持ち帰った山吹の小枝がテーブルの上に満開の花を咲かせている。生垣近くに数年前植えたのだが、道の側に花を咲かせていたのが年々、内へ、つまり庭側にだけ花をつけるようになったのを少しばかり切ってテーブルに生けたのが見事。屋上菜園に生ゴミを埋める。連休には種をまこう。
 四月二十五日 晩
 二十三時過世田谷村に戻る。今日は夕方東大鈴木博之研究室へ。東大出版会の件最終打合わせ、というよりも又も鈴木さんより発破をかけられにノコノコ出掛けた。しかしながら、夏のロシア行の了解を得る。その後十九時東京駅八重洲口地下街にて結城登美雄と会食。結城氏とロシアの件、東北の件打合わせ。結城は九州由布院での会合からの帰りでいささか疲れ気味であった。約束通り二〇時頃鈴木氏に電話しようと試みるも結城も私もケイ帯電話を持たず、公衆電話を探して地下街を駆け廻るも、見当たらず。店の番に公衆電話ありませんかと尋ねてもポカンとされるばかり。ケイ帯を持たぬ人間は明らかに少数派になり、すでに差別されているな。かなりの不都合が発生するようになった。しかし、今更持てるかと居直りたい。
 結城氏とロシア・ダーチャワークショップは宮沢賢治の農民芸術概論でゆこうかとあいなった。高村光太郎の岩手のバラック農家の事例もあるようで、いくつかの糸口が視えてきた。結城氏はいささか気持良さ気に酔う。帰りの電車で河出書房新社の「宮本常一」再読。対馬・五島・種子島を語った、かなたの大陸を夢見た島、がやはり圧巻である。もういくら勉強してもとても追いつけるものではないとあきらめるしか無いなこの世界は。何を読んでも、こんな実感ばかりだな最近は。只今、世田谷村二十四時少し前。大変な電車の事故があったようで、これでは何時何処でどんな目に会うか解らぬ日々になった。不安が日常になったのだ。
 四月二十五日
 昨日は世田谷村内で過した。辻邦生の「西行花伝」、池波正太郎「人斬り半次郎」上・下読む。午前中は歩いて五分の世田谷文学館訪問。世田谷に縁の深い文学者達の記録を見る。世田谷村の外の現実にもう1つの世田谷村があったのを実感する。今の中に歴史が在り歴史が連綿と持続しているのを知る。大宅壮一が松沢病院の隣で自給自足の生活を試みていたのも写真で確認した。精神病院の隣地は土地の価格が安かったからだと教えられた。ノンフィクションの人であった。一九五〇年以前の世田谷はまさに村であった。私の世田谷村の一階に残そうとした築五〇年の木造住宅はその名残であった。一部便所だけでも残しておいて良かったと思う。西郷隆盛が薩摩に引き下がって試みようとした学校と農村生活の直観は今再び注視したい。西郷の近代との対面を単なるローカルな保守主義、地域主義の枠内で見るのには大きな不足があろう。西郷はあまりにも芸術家的理想主義者であったという池波正太郎の言にはうなずかされた。今日は九時前に世田谷村を発つ。
 四月二十二日
 十時過研究室。結城登美雄を待つ。
 四月二十一日
 中谷礼仁は大阪で独立独歩で頑張っているようだが、スタジオGをきっかけにして上京の機会を多く作るように努力したい。研究室の体制も更に整えなくてはならない。「自由教室」に鈴木了二、赤坂喜顕両先生の参加を求めよう。これは色々に展開できるだろう。屋上菜園の草取り。生ゴミ埋める。
 十三時教室会議。十五時半迄。十六時半よりM1相談。十九時迄。二〇時高田馬場一角で赤坂先生歓迎会。一時半迄。タクシーで世田谷村に戻る。いささか飲んだ。
 四月二〇日
 曇天。昨日も忙しい日であった。今日はゆっくり出来るかな。
 屋上菜園に生ゴミ埋める。西側に少し土の面積を広げる。十時四十五分研究室。十一時大阪市立大中谷礼仁氏来室。スタジオGの進め方について相談。年間テーマを「自由教室」とする。良い課題だと思うが、学生はどうかな。十二時スタジオG第二課題提出。中谷氏と目を通す。十五時Gスタジオ。
 十六時過迄。十七時研究室ゼミ。二〇時迄。二十二時過世田谷村に戻る。一日学務に明け暮れた。
 四月十九日
 十時研究室。昨夜固まってきた北京CEMAのアイデアを自己点検。これなら良いだろうの結論。世界初の試みになるからクライアントも満足するだろう。
 十時四〇分学部レクチャー。近代住宅史を一時間半で。高田馬場駅近くのソバ屋で昼食。只今十三時半新木場へ向かう途中。昔、バウハウス大学から来ていたウルフ・プライネスが地下鉄に乗る度にベルリンの地下鉄の音と東京の地下鉄の音とは全く違うと言っていたのを思い出す。機械とか地下トンネルとかの無機的なモノにも確かな個別性があると言う事だったのか。いつまでも忘れられない事ではある。十四時半新木場。社長、専務と打合わせ。猪苗代計画の事等。十六時半終了。今日は仏教伝道協会のお祝いの会があり、その会場に向かう。十七時十分飯田橋。時間が空いて、駅前のコーヒーショップで休む。  猪苗代鬼沼の計画では現在施工中の地中に埋めたコルゲートの上の農園計画と、もう一つ長い、猪苗代湖に向けた、タイム・トンネルみたいな計画を作ってみる事にする。  十八時椿山荘「オリオン」馬場昭道と待ち合わせ。仏教伝道協会設立 40 周年記念集会。大変な盛会で千人に及ぶかと思われる参会者。本願寺派勧学中西智海乾杯。仏教伝道教会理事長信楽峻麿挨拶。仏教伝道教会会長沼田智秀挨拶等で会は進んだ。日本仏教界の縮図だな。杉全泰、大住広人と再会。会修了後、フォーシーズンで談笑。二十一時半了。散会。二十二時半世田谷村に戻る。昭道さんに沢山、人間を紹介してもらったな、今日は。
 四月十八日
 昨夜はゆっくり休んだ。朝屋上菜園に生ゴミを埋める。西の方角へ畑を三〇 cm 程拡げた。たった三〇 cm でも広くなったと感じる。一階の空地にも小さな畑を作ろうと考えている。
 十時研究室。渡辺、安藤ミーティング。十一時迄。高野打合わせ。十一時半、丹羽君打合わせ。今週末、CEMA打合わせで北京行きを決める。
 台北の李祖原と話し、四月二十三日に私が香港に行くか三〇日にCYが東京に来るかにする事になった。中国本土の排日の動きはどうかと尋ねたら、あんな事は心配するなとの事。北京は再始動したとの事。十四時九州竹内土建来室。打合わせ、十六時迄。CEMA計画プレゼンテーションの指針決める。
 十九時半新大久保駅前のソバ店近江屋。定例ミーティング。CEMAの基本アイデアに関して情報収集。クライアントを伏せながらのミーティングで仲々苦しいが仕方ない。私のアイデアに関してネガティブな意見を幾つかもらう。ソーラー映像ロボットのアイデアが別系で浮上。二十一時四十五分修了。単発の荒いアイデアだけでしのげるものではない。時間、パフォーマンス、経済効果の全てを満足させなければならない。今週末の北京行は避けた方が良いと極めて常識的なアドバイスをもらう。マア、そうかも知れない。明日連絡して、打合わせの場所を台北に移す事を考える。只今、二十二時京王線車中。
 四月十七日 日曜日
 十三時研究室。Sさん夫妻、幸和建設契約。十四時過修了。S邸担当の石井君等と新大久保駅前近江屋で昼食。ゆったりとした昼飯を喰べる。十七時世田谷村に戻る。
 四月十六日
 八時前、道に出たら向こうの方に野本君が、どうやら別れをわざわざ言う為に待ち構えていて、小走りにやってきてワインをくれた。ほんの四年ほどの附合いであったが、東京の学生には無い一時代前の誠実さがある青年であった。烏山の四つ角で別れる。八時半府中駅、八大建設西山社長と会い、国分寺O邸現場へ。十一時過迄。十二時四十五分研究室。渡辺、石井と打合わせ。木本君にスケッチ送る。同時に木本君より子供のオブジェクトのスケッチ送られてくる。木本君の考えの方が私のものより、ズーッと良かったので、木本案でゆこうと電話する。負けて嬉しい花一文目♪。十六時若松氏迎えに来てくれて、十六時半虎ノ門パストラルの結城登美雄講演会、及びパーティー出席。講演を聞きながら、「農村計画」のアイデアが得られた。沖縄ワークショップ「生命と共同体」の成果整理。九〇才以上の高齢者の聞き書きのまとめ。を何人かの学生にさせたらどうかな。アレは石山研の大事な蓄積である。沖縄の共同体5つの財。 1. あたい(自給の畑) 2. ゆんたく(おしゃべり、茶のみ) 3. ゆいまーる(結、共同体) 4. 共同店 5. てーげー(マアマア)と結城は沖縄での共同作業をまとめた。パーティーの後、森まゆみさん林のり子さん、共同通信の松本氏、無明舎阿部氏等と結城登美雄を囲み東京駅レストランで二次会。沖縄料理屋で三次会と続いた。古い友人達は安心である。二十三時頃世田谷村に戻る。いささか飲んだ。
 四月十五日
 十時前研究室。十時四〇分大学院レクチャー。十二時半研究室雑打合わせ。十五時設計製図課題説明の際に二十八日のシンポジウムの案内。十六時日本アニメーション高山氏、モスクワ帰りの若松氏来室。アニメーションビジネスの展開に関して打合わせ。只今十八時半。昼飯を抜いてしまい腹ペコ。
 十九時渡辺、石井等と新大久保近江屋でそばを喰う。その後、若松社長近江屋に来る。ガゼン話しはリアルに面白くなり、私も薄々感じていたなにがしかの疑問は氷解した。二十二時過修了。二十三時世田谷村に戻る。スタッフのなにがしかの去就に関して決断した。
 四月十四日
 昨日はドタバタした一日だった。一日中学生と対面していた感あり。演習Gの来週のプログラムは中谷礼仁のユニットだから理工学部キャンパスのサイト周辺の歴史を調べ、中庭にその歴史から学んだ、ミニマムギャラリーを設計せよ、提出は来週水曜日とする。今日掲示を出そう。六時四〇分課題作り終える。野村にレクチャーを依頼する。七時休む。
 十時過研究室。十時半結城登美雄氏来室。「日本の農業」レクチャー。農村計画は数層に複層化させて戦略化しないと困難だな。十一時四十五分せかされるように研究室を発つ。結城氏と高田馬場で別れ、大宮へ。手ちがいがあって、一時間以上大宮で足止め。何のためにせわしく動かねばならぬのか解らなくなってしまうね、コレデワ。十三時五十四分のあさまで軽井沢へ。十四時四〇分軽井沢。Oさん夫妻、幸和建設社長と会い、Oさんの所有地検分。面白い土地だが、問題もある。その後、南軽井沢のS邸縄張りチェック。少し西への角度を振る。十七時前上田の幸和建設、打合わせ。十七時四十五分修了。再び軽井沢へUターン、十八時二〇分軽井沢駅でOさんと会い、Oさんの住まいへ。十九時前迄打合わせ。十九時〇四分軽井沢のあさまで帰京。十九時五〇分大宮着。二十二時前世田谷村帰着。
 四月十三日
 九時前まで眠ってしまう。今朝もレクチャーがあるので、あわてて飛び起きる。
 十時半、大学院先端建築学論なる講義を一つ。十二時過迄。十二時半森川嘉一郎来室。演習Gの打合わせ。十四時メディア・デザイン研究所来、批評と理論井深ホールでのシンポジウム打合わせ。十五時演習Gスタジオ。このスタジオは国際水準の質を保つ積りである。バウハウスのヘルベルト、チリのアベル他等も参加。日本人、学生、すなわち早大生の不勉強振りが目に余るがガマンしよう。十八時迄手を抜かずにそれでもやった。その後M0、M1他を交えて研究室ゼミ。学部学生の直接指導はM1に任せる積り。二〇時前迄。その後森川嘉一郎と新大久保駅前近江屋で食事、二十一時迄。二十二時世田谷村に帰り着く。
 四月十二日
 八時半京王線稲田堤星の子愛児園、弥彦工務店打合わせ。ブリッジ増築に関して。九時二〇分発。
 十時四〇分大学講義。十二時半迄。住居学。十四時発汐留へ。十五時松下電工ショールーム。十六時迄。新宿迄戻り、小田急線鶴川へ。小野君の通夜。冬に戻ったような寒い夕方になった。十七時半頃鶴川着。駅前のコーヒーショップで休み、十八時前蓮清寺敬信殿へ。小野威君通夜。寺院前の咲き終わってしまった桜がもの哀しい。久米設計岡本社長以下の面々をはじめとした人々が多数参会していた。建築学科同級生達も二〇名程集まる。皆それぞれに多様に年を取っていて面白い。通夜の席を終え、鶴川駅前の飲み屋の二次会へ。これもほぼ同級生全員参会。小野君をしのびながらも皆、妙に生き生きと盛り上がってしまう。許せ、小野君。同級生達はそれぞれ、社長になっていたり、高血圧になっていたり、六〇才をこえて子供が産まれたりで、それぞれがそれぞれなりに精一杯生きている様である。二十二時前、散会。小田急線で皆と一緒に戻る。二十三時頃世田谷村に戻る。阿部有史君と連休明けに会う事を約す。今日は小野君のお陰で思いもかけぬ人に多く会えて良かった。
 四月十一日
 八時、室内の丹下健三追悼文に手を入れる。十時半研究室。定例ミーティング。ゼミ等の骨子を決める。十三時松下電器来室。九州の電化住宅の打合わせ。セキュリティその他を含めると電気ロボット住宅みたいになるなコレワ。十六時迄。マスターミーティング。今年前半の研究テーマを決める。東京(都市)切断計画(東京研究)。都市を幾つかのコンセプトで切断する事によって現在を浮き上がらせる試みとする。
一、娯楽機械 二、自動機械 三、管理機械(監視メディア) 四、擬似共同体機械 五、自動記述機械
これは全体として東京を消費の機械として切断する方法。明日から始める住居論は、一、窓 二、出入口 三、階段 四、屋根 五、素材 六、部屋 七、音 八、気配 九、歴史 十、装飾 十一、色 十二、収納 十三、ドアノブ 十四、家具 十五、照明 十六、壁 十七、方角 十八、台所 十九、便所 二〇、風呂 二十一、洗面 二十二、テラス 二十三、庭 といった部分についてそれぞれ考察せよ、が前期テーマ。七、音 八、気配 九、歴史(記憶)十七、方角 二十四、自分と家との関係、は各自研究という事で、全て、実習とクリティークを実験的に試みるつもり。先ず、全体を二〇グループに分けて、 16 回で一巡するようにプログラムする。故に項目は十六に絞らねば。
 四月十日 日曜日
 グデグデと、三島由紀夫等読んで過ごす。午後は村上春樹までグデグデを拡げる。村上のエッセイの類は三島のものと読み比べてみると明らかに質が落ちる。三島は読者に文学の本義らしきを持って何かをつきつけられると幻想し、やがて、絶望して自死した。本の印税収入とは何かと考えて、それによって生きる自分を嫌悪した。ある意味では文学の力、自分の力を信じるところがあった。村上は読者をマーケットとして視る。村上春樹は極めて消費資本主義的作家なのだ。山本夏彦言うところのニセ毛唐、ニセアメリカ人風のところがまさにある。夕方室内の原稿、丹下健三追悼文書く。二十一時修了。旭ガラスの伊勢谷君より電話あり、久米設計の役員、同級生の小野君死去の知らせであった。小野君は組織事務所を率いる建築家としての品格を持つ人間であった。小野君は病死であったらしいが、余りに早過ぎる死である。残念だ。十二日の通夜には出席したい。
 四月九日
 二階の南面、カロライン・ジャスミンが花盛りだ。四メーター位の天井まで育ったのは数年前だったが、花をこんなに咲かせたのは初めて。レモン・イエローの花はいかにもカロラインの名にふさわしく、湿った気配をまき散らさぬのが良い、と思いたい。こんなに育ってしまったからには、今更、反米でゆこうと切り倒せない。屋上菜園に生ゴミ埋めて、いささかの草取り。仏の座という雑草は名前とは裏腹に仏の座帝国軍と呼びたいくらいに繁殖力が旺盛で、根も太く強くはびこっている。知らぬ間に何がしかの花が咲き、すももの木の花は散ったようだ。世田谷村は屋上を仏の座軍団に占拠され、二階はカロライン空挺部隊に降下占有され、一階は廃材の山の廃虚状態である。
 十五時大隈講堂新入生ガイダンス。年に一度の全教員のミニレクチャー。それぞれの教師の考えを知る事ができる。十八時リーガロイヤルホテルで非常勤講師の先生方との会。二〇数名の方が集まった。建築学研究所発足の報告をする。二〇時頃散会。二十一時前世田谷村に戻る。何人かの参会者より「批評と理論」出版に関する感想等をいただいた。閉塞状態の建築界に小さな一石位にはなって欲しいと思う。
 今日は何故か知れぬが昭和五十一年出刊河出書房新社の文芸読本中原中也を読み直してみた。中也に限らず、日本の詩人一般にそれ程の関心を持つわけではないが、小林秀雄の「中原中也の思ひ出」という短文に強烈な印象を受けた記憶があったからだ。再読して、アアと思った。小林秀雄のこの短文に中也のすべてが批評し尽くされている。
 四月八日
 昨夕の難波和彦氏との会合で、氏は箱の住宅シリーズの名称を変えると言明された。皆、色んな戦術をこらしているのだと痛感したが、戦術の転換は戦略の骨格があって、初めて生きるのは必定であり、それに対する視界は私共々、霧の中に在り続けている感がある。「批評と理論」→技術と歴史への研究会の転換も又、その風がある。頑張る時代ではないのだろうが、この点だけは少し気合いを入れる必要があると考えた。十一時研究室。石井君と打合わせの予定。
 十三時長野県上田、幸和建設来室。十四時半軽井沢O氏来室。アトリエ+住宅の相談。十八時過、渡辺、野本と大学周辺の桜の花を観る。野本とは仲々会えなくなるので、それなりのいささか大時代めいた「花」の話しなどしたのだが、全て空振り。自分で球を投げて、自分で空振りしていた風があって、我ながらおかしい。
 四月七日
 十二時建築学研究所の件で会合。十三時教室会議十五時半迄。赤坂氏芸術学校教授就任あいさつ。十八時新大久保駅前近江屋にて東大難波先生と久し振りに会う。十九時若松氏何故か出現。近江屋会合も定着してしまったようだ。難波和彦氏は相変わらずお元気のようだった。安心する。二〇時過修了。研究室に電話するも誰も出ない。良い事だ。何しろ、私自身が居ないのだから、コレワ仕方の無い事ではある。只今、二〇時半京王線車中。世田谷村に戻る途上。
 四月六日
 農村計画、自力建設、開放系技術、0エネルギー計画、生命と共同体等のテーマを混成してロシア・ダーチャ計画に統合できるだろう。東北の結城農場とのコンビネーションも組入れるつもり。四ヶ月の準備期間と多くの経験があるから、ロシアのワークショップはうまくいくだろう。
 十五時過研究室。産経新聞社「正論」5月号送られてきて研究室OBの関岡英之が、ライブドア問題特集に寄稿していた。「志しを喪失した時代の象徴として」がタイトルである。他の論者も大方ライブドア社長ホリエモン氏バッシングである。ほとんどの論が堀江貴文嫌いの感情をベースにしているのが、少々奇異であるように感じた。今はそれ位しか言えない。
 台湾のインテリア雑誌室内INTERIOR送られてきて、我々の上海ワークショップの模様が紹介されていた。
 十七時日本アニメーション高山氏他来室、打合わせ。十八時半迄。新宿高島屋 12 Fのソバ屋で会食。二十一時半迄。二十三時新宿南口でワインを飲んで散会。体は限界だが、気持ちはフォローできている。二十四時前世田谷村に戻る。こんな人生でいいのかね。本当に疑問。
 四月五日
 今日は少し計りゆっくりさせてもらう。昨夜は二〇時過世田谷村に辿り着いた。
 山田脩二、冷水隆治氏より知らせ届く。共に個展の知らせ。冷水さんのは明日四日六日から十九日迄、神戸大丸カーポートギャラリーで。京町家の世界と題したシリーズ。山田さんのは来年二月四日より兵庫県立美術館で、山田脩二の軌跡−写真、瓦、炭・・・。脩ちゃんのは回顧展みたいで大丈夫かな。ともかく、おじさん二人の悠々たる頑張りを喜びたい。
 十四時研究室。定例ミーティング。十七時若松社長来室。十八時新大久保駅前近江屋で定例近江屋会議。近江屋のオバさん達から、疲れが顔に出てると言われてしまった。そりゃあ、疲れもするさ。ユーラシア・サイエンス&ビジネス研究所開設準備室第一回プロジェクトを決定する。
「モスクワに自力建設によるダーチャを計画する、衣食住全てに提案を求める」
にする。八月十七日より二週間、場所はモスクワ、 20 MX 30 Mの実在する土地に小屋と農園を実際に建設する計画、という課題。サブ・テーマは自給自足。コミュニズム崩壊後の資本主義的ライフスタイルの再構築。 etc である。募集人員は六〇名。学生参加費は十六万五千円。二週間の宿泊費、飛行機代を含む。企業参加はロシアでのビジネス情報、指導込みで五十万円。若干、左右に振れるかも知れぬが、大筋は変えない。二〇時過修了。何とか道筋が視えてきた。東京、佐賀、ドイツ・ワイマール、ネパール・キルティプール、カンボジア・プノンペン、中国・上海そして沖縄と動いてきた我々のワークショップは自然に、夏のロシアに居留地を動かす事になりそうだ。
 四月四日
 ホテル内八時朝食。九時一〇分チェック・アウト。九時三〇分三菱電機打合わせ。十一時前竹内土建の住宅見学。十二時前、芸工大近くのボンジュールなる妙なフランス的学生食堂風レストランで昼食。マ、学生風味であったが、頑張っているレストランだ。隣席の女学生に声を掛けられる。今日はこれで見知らぬ人に声を掛けられるのが三度目であり、自分が何日か前にTVに出ていたのを知る。何かの再放送だろう。十三時咲田建設の住宅見学。これならこの会社はついて来れるかも知れない。
 十四時過、福岡空港、十六時半の便を取る。空港内レストランで一人ビールを飲む。この三日間は体も頭も、空中浮遊する位疲れた。十六時、空港内レストランでビールを飲んでいる中で、向かいの席の初老の男のケイタイでの会話に耳を傾けざるを得なかった。つまり盗み聞きという奴。この男はどうやら福岡の瓦職人組合の長であるか、どうか、仕切り屋だろう。福岡には県北、県中央、県南にエリアは別れているが、現在二十七社の、要するに瓦屋さんが存在しているらしい。一社平均十人の職人を持つ。今度の福岡震災で、屋根の修復が目前の課題になっているようだ。この人物はこれから名古屋に飛び、多分、三州瓦のマテリアルと職人の調達に行く途次のようだ。瓦職人の一日の手間は二万七千円、それで一週間、十人工の手間が必要だと、彼は誰かに主張している。赤字を出してまで、災害の修復に協力するのは、どうかと言っている。酒を飲みつつ、天プラをつまみながら、彼は主張している。相手はどうやら新聞社だ。偉いと思った。一生ケン命自分の立場から瓦業界を精一杯に守ろうと、アピールしているのが良く解った。この人物が属する瓦業界は、要するに負けの産業界である。どう考えても未来がある業界ではない。しかし、男は、そんな事は解っていながら三〇〇人程度なのだろう組合のメンバーの為に手を打とうとしている。人物は現代社会では無名のママに終わるだろうが、しかし、仲々、決然とした良い生き方のように思った。私には出来ない。
 職人を束ねて良く闘うのは、こういう度量を持つ人物なのであろう。只今、十七時半、あと三〇分位で羽田に着陸か。
 四月三日 日曜日
 時間がヒューヒュー音を立てながら吹き過ぎてゆく感あり。本格的な事が何も出来ていないからだろう。八時前広島の木本君と連絡。今夕、博多で会う事を約す。木本君に色んな頼み事をしている事もきちんと全体の中に位置づけなければ。ウェブサイトをどう動かしてゆくかで全体が認知できるようにするつもりなのだが。八時ホテル二F和食レストランで朝食。九時半下関山下建設打合わせ。十一時福岡、西田建設企画。昼食は一蘭ラーメン。九州竹中工務店の下の暗いところ、若い人に人気あるらしい、私はこの味はハッキリ、好みではない。単純に辛過ぎる。自分で味を選択してるような気分になるところが、オタク的人間には良いのだろうが。十三時咲田建設。十五時安川工務店。十六時過、松尾建設マーベックと打合わせ。木本君来。厚生館モニュメント他の打合わせ。十九時前、ザ・ハウス OF パシフィックなる、アジア風アーバンリゾートレストランで食事。料理の味はマアマアで良かった。福岡はこういうところで頑張っているんだ。二十一時過、木本君、Oさんとお別れ。都ホテルに戻る。少々疲れた。一人ホテル内Barで、ドライ・マティーニ。二杯目は注文つけたので、マアマアの出来になった。二十二時十五分、617号室に戻る。ベッドに倒れ込む。すぐ眠りに落ちた。
 四月二日
 只今九時、モノレール車中。羽田第二ターミナル 65 ゲートでANA249便を待つ。そう言えば雲の上は久し振りだな。十二時十分福岡空港着。Oさんと空港内で昼食。十四時カンサイ本社で竹内土建と打合わせ。十五時、アトム工事部長と打ち合わせ。十七時、浄水、現場。解体屋さんと打合わせの予定だったが、打ち合わせる前に問題解決。マ、要するに何がしかの金銭の問題であったのだが、現場に乗り込んだら、相手の姿が見えなくなっていたという感じだった。余計なトラブルは回避できた。十八時迄、キッチンの打合わせ。キッチン設計の専門家と。十九時過まで。二〇時終了。春吉橋近くの、まめ丹で夕食。二十一時半迄食事。いつもながら、まめ丹のお母さんの立居振舞いに心和む。二十二時博多駅前、都ホテルにチェックイン。研究室OBの高木君には連絡できなかった。マ、あわただしい一日ではあった。明日はもっとあわただしい一日になる予定。李祖原より研究室に連絡あったようだが、蔡さんしか居らず、要を得ない。
 四月一日
 十時三〇分研究室。軽井沢S邸打合わせ。四月着工とする。ドイツ・ワイマール、グライター教授より着信。上田幸和建設と連絡。九州の工務店他と連絡取る。広島の木本君とも日曜の夜福岡で会う事にした。十七時小休。
 夕方、さんさんごごと研究室OB、集まる。そうなんだ。今日は私の誕生日であった。α社の若松社長、見知らぬロシア人まで来てくれて小さな宴会となる。OB達、稲門建築会等早大への失望を述べる。それなら、君、新しい組織に組み変えたらいいのだよ、私もホラを吹いたり、実は本音なのだが、OB会は世代を一新した方がいい。
 昨日の夕刊に井上章一の弥生神殿についての探訪記があった。要するに、樹、山、巨石、川等に神を視ていた古代人の自然崇拝(アニミズム)にとって建築としての神殿は必要なかった。あっても建築という形式まではたどり着かなかった。仏教が導入され寺院という建築に接し、弥生の人々は自然物崇拝にも建築という形式があると便利だと考え直すようになった。それで神社が生まれた。神殿の意味変遷は仏教寺院との関係が色濃く作用している。
 この人は考えてみれば、当たり前の事をを上手に表現する。
 只今、二十二時京王線車中。建築学科教室の新研究所を中心に、より実質的なビジネス情報のネットをつくれば良いかも知れない。宮坂に出来るかな。二十二時半世田谷村に戻る。
2005 年3月の世田谷村日記

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