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 石山研究室制作ノート
開放系技術論 世田谷村日記 制作ノート
石山修武
 5/22

 B piece of story in Dun Huang, the Gobi desert
Setagayamura Nikki
世田谷村日記
 5/21

 A piece of Story in Setagaya Village
Setagayamura Nikki
世田谷村日記
 2/27
 開放系技術論16
 英国に於ける庭園作り、菜園作りの実際を良く知るわけではない。しかし、それが英国王家と深い関係を持つらしい事は容易に想像できる。日本の天皇が恒例として毎年、田植え時に、皇居内にある天皇の田に苗植えする姿は必ずと言って良い程、報道される。その姿からインスピレーションを得て小さな畑作りを始めた、なんて事は一切合財無い。だろうと思われる。しかし、私の血、DNAには土に触れたい、自然の中に包まれていたいと願う傾向が強いのも確かだ。稲を植えたいとは思えない。だから、強く農夫願望、農業回帰的心性があるとも思えない。
 しかし、百姓願望はどうやらある。昔からある。それが、世田谷村の菜園作り、畑作り体験で少しハッキリした。百姓をこのように定義すればだ。
 百姓は二十一世紀企業社会、企業世界との健全なバランスを得る為に必要不可欠な人間の生活形式を言う。百の性を持つ人を言う。
 日本の皇室はそれ程深く日本の庭作り、菜園作りに関与している現実は無い。
 英国には英国王立園芸協会(Royal Horticultural Society:略称 RHS)がある。1804年発足である。現在、38万人程の会員によって支えられている。協会は植物、草花に関する様々な情報の体系的収集、そして会報「THE GARDEN」等による発信、そして園芸技術、造園技術の発展、向上を介して、総合的な園芸文化の継続的進化を旨としている、特別公益法人である。世界の園芸史に大きな影響を与え、業績も残している。園芸史を歴然と主導してきたと言えるだろう。ロンドンの緯度は、繰り返すが札幌よりも北寄り、つまり高い。
 英国王室からサー(貴族)の爵位を授けられたサー・ノーマン・フォスターに代表されるハイテク建築様式とは何か。ハイテク建築様式とは英国のガーデニングの歴史の上に築かれた歴史的様式ではないか。英国の気候は決して植物の栽培に適した、温暖なものではない。南の緯度の国々、つまり亜熱帯の国々で暖房技術が決して生まれ得なかった如くに、そこでは暖房技術が必然的に要求され、歴史的必然の許に進歩発展してきた。
 庭園の暖房化の必要性が生まれ、それで「温室」が発明され、様々に工夫、デザインされ進歩してきた。工業化標準化建築の大掛かりな実現の祖とされる一八五一年ロンドン万国博覧会の巨大パビリオンであった、ジョセフ・パクストンによるクリスタル・パレス(水晶宮)は、まさに巨大温室そのものであった。他の何者でもない。サー・ノーマン・フォスターの完成されたハイテク建築はそれをベースに生まれていることを考えたい。無数に近い園芸技術の外縁には、当然温室の形式があった。高度な園芸、つまり人工的である事を前提にした園芸技術の外縁に温室製造技術があった。しかも、園芸、造園は英国文化の創造性の中心であり、王室と歴史的絆帯も深い。つまり、国家の意思がそこに確実にある。
 クリスタル・パレスからセインズベリーのアート・センター迄の流れは英国の技術の歴史そのものでもあった。フォスターのみならず、ロジャースのロンドン・シティ中心のロイズ本社ビルだって、その中心はまさに温室技術そのものでないか。近代建築史の名作、ジェームス・スターリング、J・ゴーワンのレスター工科大学校舎、ケンブリッジ大学図書館も、基本は温室技術の踏襲であった。
 今、世界を席巻しているかにも視えるハイテク建築様式、それは英国の歴史、風土、文化が産み出した、イギリス型ハイテク様式と呼ぶのが正しいだろう、と述べてきた。和風建築が日本に固有な様式であるのは歴然として世界に共有される考えだろうと思われるが、それと同様に、ハイテク様式はイギリスが生み出した技術的歴史様式なのである。
 フィンランドの近代建築の良質なものの総合を、フィンランドのナショナルロマンチシズムと呼ぶ。フィンランドは歴史的にドイツ、旧ソビエト連邦現ロシア、そして強国スウェーデンに取り囲まれた小国の宿命の歴史を持つ。強国に取り囲まれた民族が内的に持たざるを得ないナショナリズムの精華でもある。
 英国のハイテク建築様式は英国のナショナル、ロマンチシズムの産物なのだろうか。英国はフィンランドとは異なり、その国家の歴史に世界制覇、英国帝国構築の経験がある。常に、国家の意思として外延、拡張、輸出の性向が確固として存在する。英国式庭園が生み出したと想われる英国特有のファンタジー文学までも、世界に輸出してきた歴史さえある位に。
2/27 世田谷村日記
 2/20
 開放系技術論15
 ハイテク建築の歴史的宿命とは。
 それがイギリス、スコットランドの社会、歴史と深い関係を持つ事実から生まれる。世田谷村での庭作り、畑作りの生活が到底イギリスのガーデニングの歴史と深い関係を持ち得ず、むしろ近代世田谷の地主制度、農業の現実、文化人、芸術家達のコロニーの夢の歴史と関係を持たざるを得ないのと同様なのだ。

 サー・ノーマン・フォスターのハイテク建築を探訪するためにイギリスを旅した際に実感したのは、イギリスに於ける温室作りの歴史の重要性と同じ位、あるいはそれ以上にスコットランドの田舎の農家、あるいはロンドン近郊の都市生活者達の家の庭の充実、そして花の種類が一時代前、つまり、日本の高度成長期以前の貧しい家に美しく咲き誇っていた花の数々に酷似していることの驚きだった。そして、私の原体験の一つである、故郷の家の裏庭に咲いていた花や、育てられていた作物の数々の風景との酷似でもあった。

 一九四四年生まれの私の庭の原風景とも言うべきは、母の故郷であった岡山県吉井川流域の田舎の集落、和気郡佐伯、矢田集落にある。
 一九五〇年代、池田内閣による所得倍増計画に始まる、日本近代の高度経済成長政策による米国との戦争による敗戦からの復興政策とその合目的的実施の過程と私の個人史は完全に同一である。吉井川中流の小集落の近代化は、母の家の裏庭の畑、花畑の消滅の歴史でもあり、川沿いの竹林近くにあった水瓜畑、作物畑の消滅の歴史でもあった。
 私の庭園の花の知識は典型的に高度経済成長と共に生きてきた年代特有の性向と同様に極め付きに小さく、身体性に欠ける。花の名前も、樹木も苔も、その名を皆無に近く知らない。菜園や小さな畑をやり始めてはみたものの、手入れしているはずの花や作物の名前が一向に覚えられない。個人的才質も勿論あるだろうが、それにしてもこの花の、樹木の名前拒絶症状は度を超えていると自覚だけはできる。高度経済成長=建設の時代が、そのまんま身体にすり込まれているとしか考えられない。ましてや職業を建築関係として、教育もその枠内で受けているから、その傾向は普通の人達より、つまり市民の水準をはるかに異常に超過し、偏向してもいるであろう。それで、身体の奥深く、精神のさらに奥底にあるだろう本能が花と樹木と苔を拒絶させているに違いない。
 そんな草花拒絶症状にある私の花の名前の知識は実に限られている。桜・梅クラスは別とする。これは右側通行と同様な、またそれでしか無い、常識の範疇のモノ達である。
 一九五〇年代の都市近郊の農家に在った花々。それは「庭の千草」であった。

「庭の千草」は良く知られ、人口に膾炙された小学唱歌である。小学唱歌は正確には尋常小学読本唱歌であり、編者は文部省、つまり国家であり、一九一〇年明治期に編まれた。その細部には触れない。「庭の千草」はアイルランド民謡に里見義(さとみ・ただし)が詩をつけたもので、日本近代の人間の抒情の質を良く表現したものでもある。
  庭の千草も 虫の音も かれてさびしく なりにけり
  ああ白菊 ああ白菊 ひとりおくれて さきにけり
  露にたわむや 菊の花 霜におごるや 菊の花
  ああ あわれあわれ、、、
と二番迄つづく。
 花尽くしの如くに花の名が続くものではない。

 尋常小学読本唱歌はその原曲を少なからずアイルランド、スコットランド民謡におっている。明治期にジョサイア・コンドルによって日本に持ち込まれた様式がイギリスの近代建築様式であったのと同様に。

2/20 世田谷村日記
 2/13
 開放系技術論14
 米国東海岸の小都市ニューヘブン。ボストンに近い北の町だ。イェール大学を中心とする学園都市でもある。ここにルイス・カーンの遺作とも思われる、ブリティッシュ・アート・センター(1974 年)が残されている。すでに古典的遺跡の如き風格を町に晒している。
 二〇世紀地球上の風景を決定的に変化させたのは近代建築様式であり、それを成立させた思想、美学であった。
 近代建築様式は一つの様式の枠として意味付けられ、その枠内で多様に発展し、一見複雑に見える様相も呈した。
 それが開放系技術論の主たる目的ではないが、私自身もその体系の内に属さざるを得ぬ現実としての近代建築様式、それ自体の読み通し作業が皆無であれば、開放系技術論はまたしても近代建築様式の生誕時の如くに歴史から遊離、分離することを主目的に存在理由を求める愚を犯しかねぬ。それ故に、ここでは近代建築のそれ自体のいささか自律性過多な歴史的性向が生み出した名作の数々を考えることで、つまり少しばかり非近代建築様式とも意図された傾向の中で、それらを考え直してみようと試みているのである。

 ニューヘブンの地球上の位置、つまり緯度は北緯四〇度近辺。日本では北海道南部、ヨーロッパ(EU)ではスペインの商都バルセロナと同様な位置関係にある。
 近代建築を考えようとする。特に気候風土との関連で考え直してみようとする時、そてその得られた空間を光との関係で把握しようと試みる時に、地球上の位置は非常に重要である。太陽光の地球上での諸性格は主にそれを得る地球上の位置によって枠付けられる。誰もこの理を疑うことはできない。

 近代建築の主傾向の成果の一つがいわゆるハイテク建築である。建築家の代表の一人がサー・ノーマン・フォスターであろう。さらにノーマン・フォスターの代表作を一つ選べと言われれば、たちどころにセインズベリー・ヴィジュアル・アーツ・センターであると答えたい。ロンドンから北、北緯五十二、三度の位置にあるミュージアムだ。
 ノーマン・フォスターには他にも多くの建築が地球上に存在する。香港上海銀行、ベルリンのドイツ国会議事堂等もある。ロンドンにはロイヤル・アカデミーの仕事もあり、これはミース・ファン・デル・ローエの成果を意識したものである。全て実見したが、ロイヤル・アカデミーの仕事は近代建築の継承、リノベーションの絶対の与条件がありながらも、ミースには到底及ばないの感が深かった。何故にそんな断言をするのかの大疑問は当然あるのだが、そう言い切っても将来恥はかくまいの確信も今はある。なにしろ、そんじょそこらのリノベーション、増築の仕事とは水準が全く異なるけれども、ミースのファンズワース邸、バルセロナ・パビリオンには及ばなかった。そこに、いわゆるハイテク建築が内在させる歴史的宿命も見てとらざるを得ないのである。

2/13 世田谷村日記
 2/6
 開放系技術論13
 モダニズムの建築群の中にも歴然とした階層性がある事を喚起する為に、いささかの寄道をしている。開放系技術論が目指そうとする世界とバルセロナ・パビリオンは遠い。ラ・トゥーレットもより遠い。対極にあると言っても良い位だ。しかしながら通底しているものもある。それを考える手段としての寄道である。
 自分の考えをウェブサイトで多くの人間に伝えることは非常に難しい。何故ならばコミュニケーションの手段としてのメディアにも歴然たる階層があるからだ。ウェブ・サイトはパソコンを所有して電源さえあれば誰でもが自分を他者(広く言えば社会)に表現することが出来る。言語の壁はまだ存在するけれど、距離の壁は完全に0に帰した。現にこのサイトも世界中の各地域に読者が居る。決して多数とは言えなくても既製の専門誌等のメディアより多くの人々に接しているのは確かだ。しかし、情報の送り手としての私にまだ充分にその事実に対応し得る技術が不充分なのだ。
 バルセロナ・パビリオンについて記し、ウェブサイト上に表現する時の読者と、畑仕事や庭の塀作りについて記しているのを読んでくれる読者は恐らく少し違う世界の住民であろう。少しのズレがある事は確かだ。日々のヒット数にその事実は歴然として表れてくる。バルセロナ・パビリオンに関して記すサイトは暫時読者数を失い、庭仕事を記す私 はある程度の読者を得ている。その事実は私にとってはある種の世論調査マーケット・リサーチの如きものだ。地球上のどの地域に、いか程の読者が存在するのかを瞬時に把握できる事は、その関係性について熟知するならば、多くの人々の賛同を得る事はそれほどの困難さは伴わぬであろう。要するにTVCMの如くに伝わりやすい映像を多用して、言葉を少なくすれば良いのだろう。しかし、その伝わり易さは、当然の事ではあるがある種の、敢えて言うが階層性に属する集団に対するものでしか無い。大衆と呼ぶには適さない。ましてや民衆とも言えぬ。新種の情報過多症の人間達だろう。映像的感性界の人々でもある。感覚的に共有するモノを渇望し続ける人種であるかも知れぬ。俗論に過ぎているやも知れぬが、この種の人々の感覚的把握力は鋭い。しかし、余りにも移ろい易い。
 TVの映像の伝播力は今のところ最大最強である。次が新聞、大衆誌,雑誌、専門誌と続く。しかし波及力の強さは時間的持続力に反比例する。マスメディアでの情報は瞬時に消費され、忘れ去られる。故に、CMは繰り返し繰り返し無意味な位の反復を旨とする。むしろ繰り返しの反復が確固として方法化されるから、その内容の形式もそれに従属せざるを得ない。意味性の薄い形式の表面性が重視される事になるのは当然である。この繰り返し、反復性は強い形式となり世界に蔓延する事になる。つまり、アメリカ型の大量生産、大量消費の生活形式を更に補強する機能を担う事になる。
 開放系技術論はそれとは別の総合的形式を示そうとする。しかも、その考えの伝達をウェブサイトの形式内で始めようとしている。いずれは重い活字に書物の形式で係留しなくてはならないだろうが、しばらくは電子の海に浮遊ささてみようと考えている。それ故に浮遊させる技術と、消費されぬ技術の二律背反性を内に持つ事が必要となる。あるいは浮遊、消費と別体系らしきのリズムを持つ事を自覚しなければならない。
 それでは小むづかしい屁理屈まがいのモダニズム建築の名品は非モダニズム的要素を多分に含んでいたという指摘をもう少し続けたい。
2/6 世田谷村日記
 2/2
 開放系技術論12
 バルセロナ・パビリオンの床に這いつくばり、床下に潜り込み、何を視ようとしたのか。モダニズムの文字通り記念碑になったこの建築には近代合理主義的思考には納まり切らぬ性格が秘められており、それがこの建築の眼には視えにくい力となっているのではないかという事。むしろある種の宗教建築が自然に所有せざるを得ない力を秘めているという事実である。
 バルセロナにはアントニオ・ガウディの建築が幾つかある。それ等はモダニズムの建築の枠には納まらぬものとして考えられてきた。しかし、モダニズムの枠内で捉えられてきた建築群の中には、その概念には入り切らぬものがあるのではないか。しかも、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パビリオンに視た様に、モダニズム建築とされる建築の最良の作品の中にこそ、その傾向が強いのではあるまいか。その傾向は明らかに表現主義的傾向、しかも過度とも思える傾向を読みとるのが、むしろ自然な事のようにも考えられるのではないか。ル・コルビュジェのラ・トゥーレットの修道院しかり、ましてやロンシャンの教会堂は明らかに彼の提唱した近代建築の五原則を全て否定する、極めて表現主義的建築であった。しかも、ミース・ファン・デル・ローエと同様に極めて秘儀的傾向の強い性格が明らかに内在しているのである。
 ラ・トゥーレットの修道院はル・コルビュジェの恐らくは最高傑作であろうが、この建築にも実は奇妙なとしか言いようの無い表現が隠されている。ル・コルビュジェ自身がキャノン砲と呼んだ三つの筒を持つ礼拝堂の外壁を見よ。小さな円筒状の符号としか呼びようの無い、これも又、装飾物群が念入りに附け加えられている。五線譜に踊る音符の如くに見えたりもするから、それはコルビュジェのスタッフであったクセナキスのアイデアであったかも知れぬ。明らかにクセナキスのヴィジョンの反映だろうと思はれる部分が他にも随所に見受けられる。あみだクジのゲーム状の窓割りは明らかに、これも又数学的世界を直喩する秘儀性の表現である。
 数学者、音楽家でもあったクセナキスは、形態に頼らざるを得なかった視覚の人、ル・コルビュジェとは異なる才質の持ち主であった。音楽家としてのクセナキスは現代音楽、特にコンピュータによる音作りの祖とされる人物で、彼の作り出した数学を応用した作曲技法はデジタル・サウンドの母体ともなった。ジョン・ケージ、そして高橋悠治等にそれは継承されてゆく。
 バルセロナ・パビリオンの床下に秘匿された神秘主義的傾向は、ラ・トゥーレットではより端的に壁面に呪文の如くに表されるのである。
 ユダヤ教はその礼拝堂シナゴーグに装飾を禁じた。しかし、その聖堂内には装飾よりも余程装飾性を帯びた光が満ち満ちていた事を忘れてはならない。光が装飾的あるいは演技性を帯びたモノとして使用されていた。それはルイス・カーンによって現代に再現された。
2/2 世田谷村日記
 1/30
 開放系技術論11
 何度目かのバルセロナ・パビリオン訪問の朝、その日はパビリオン床下のメンテナンス工事の最中であった。トラバーチンの床が一枚外されて床下に闇がポカリと顔をのぞかせている。そうか、石の床が取り外せるように設計されているのかと気付く。床の下に潜り込んでみる。誰もとがめる人はいない。床下の闇に這いつくばって入り仰天した。床下の闇と思はれた地面には細い光が格子状に写し出されているではないか。
 石の床の目地は埋められず完全な空虚になっていて、その数ミリメーターの空虚=空間から光が漏れて差し込んでいる。それが整然としたグリッド(格子)になって大地を照らし出している。太陽の運行につれて、光格子は少しずつ大地を動く。宇宙の運動と迄は言わずとも、地球の自転状態が明らさまに、その床下の闇に表現されている。この状態を出現させる為に設計者は異常な工夫を凝らしている。1メーター角程の大理石の厚い板の、それぞれに大きな基礎を設けているのだ。床を高く持ち上げる為の柱に必要な基礎ではない。
 格子状の光を床下に落とす為の数多くの基礎である。それには異常なコスト(建設原価)が費やされたであろう。しかも、この闇の中の、神秘的としか言いようの無い光は誰も見ることは無い。今日のように、たまたま修理その他のメンテナンスで床下にも潜り込まれねばならぬ職人達だけがそれを見るだけだ。

 設計当初、ミース・ファンデル・ローエはこの建築に博覧会のパビリオン建築らしく、夜間の光のページェントを構想していたと聞く。床下に投光器を仕込んで、今日とは逆に地中から光の格子を天空に写し出そうと考えたようだ。シュペアーの光の柱のスタジアム、スペクタルと同様な考えである。
 私が視た床下の光格子はミース・ファン・デル・ローエの意図したものの外の様相であったかも知れない。そもそも設計者はこの仮設のパビリオン建築が建築史上の記念碑的存在となりパーマネントに保存されるようになるとは考えてもいなかっただろう。しかし、この設計者の意図とは天地が逆転してしまった超越的視点の様相は、やはり設計者の力量に帰属させるべきものであろう。ミース・ファン・デル・ローエが半ば無意識に秘匿し、封印した神秘としか言い様のない地下風景は、ミース・ファン・デル・ローエの力量そのものが生み出したものである。
 これ等の床下に秘められた様相は決して合理的と呼ばれる精神の働きからのみで、生まれるものではない。

 一、石壁を同じ石の床から浮かせる努力
 二、石の持つ装飾的紋様を、曼荼羅的図形に再編成しようとする情熱
 三、地から天へ、そうして天から地へと光の格子を投影しようとする意志

 これ等のデザインの営みの原動力になる精神を、何と呼ぶべきか。何かを表現しようとしていた事は歴然としている。しかも近代の合理・機能を旨とした観念ではない。それは人間の日常生活から生まれる価値観から、ある意味では遠くに離反した観念ではなかったのか。

1/30 世田谷村日記
 1/26
 開放系技術論10
 ミース・ファン・デル・ローエと修験道との類似など言い立てようとするのではない。が、しかし、パビリオン内部の赤茶の壁の大きな花弁としか視えない紋様と対面し、ミース、均質空間、近代デザインという皮相な常識を忘れて、それを眺め、視入るならば、これ等は明らかに過度な装飾意識、表現意識が生み出そうとしたものである事を了解するだろう。そこには人間の描いた装飾物は無い。しかし、地球が生み出した装飾物が歴然として組み立てられている。ミースは赤茶の色を石によって作り出したのではない。その花弁の如き斑紋をも作り出し、表現したかった。
 曼荼羅の如き、そのうごめく生命力を模し、鉱物質の内に固定しようとするに必要であった設計者のエネルギーは計り知れぬものがあったであろう。大きな壁いっぱいに花弁の斑紋を出現させる困難さを想像して見給え。ある大理石の山を切り出している。その石切の現場に美しい生命力そのものの如き斑紋の断片が発見される。その情報はミースに伝えられたであろう。ミースはたちどころにこの石の斑紋をバルセロナ・パビリオンの主役の一つに据えようと考えた。そう考えさせる生命力が大理石にあったのだ。石の生命力を表した斑紋は更に組み合わされて、曼荼羅状の花弁として表現しようとミースに意図された。断片、破片にしか過ぎなかった斑紋は縦横共に対称形に構成された。観念の中の曼荼羅を描くのは比較的容易だ。ユング等の素人でも出来る。しかし、地球の産物である鉱物の斑紋を生かしながら、それを成し遂げるのは大変だ。キチンと対称形を作り出せるような斑紋の石を切り出す必要がある。これを実現するに、少なからぬ石が切り出され廃棄されたに違いない。恐るべき蕩尽の現場がそこにはあっただろう。ミースの錬金術師の姿がそこにはあった。そうでなければこんなモノは現世に出現しようが無い。ここには人間の手ならぬ、地球の意志とも言うべきモノがミースを介して表現される曼荼羅が厳然として在る。石の斑紋は石の表面にあるだけではない。石の内部へと深く連続し濃密さを深める。ミースは石の切断面に表われた斑紋に魅いられ、吸い寄せられた。地球の内部風景への鉱物的想像力をかきたてられたに違いない。
 ここに、現実に存在する壁に表現されていたのはそのようなミース・ファン・デル・ローエの詩的直観、そして深く、強い表現の意志であった。
 ル・コルビュジェとは違って、ミースはプロパガンダの人ではなかった。そして、同時にミースが奥深く考え感じていた事は語るに有利な事ではなかった。自分は錬金術師の手付きでモノに触れ、作ろうとしている事など当時の社会では何の有利な意味もありようが無かったから。だから、ミースは黙して語らなかっただけの事だ。
 ミース・ファン・デル・ローエの寡黙には語らぬが故の自己批評も隠されていた。
1/26 世田谷村日記
 1/23
 開放系技術論09
 ある日の早朝バルセロナ・パビリオンを訪れた。前の夜は友人と飲んだ。ゴシック街のユダヤ人地区でしたたか酔った。二日酔い気味の状態すなわち学習して刷り込まれてきた常識の縛りが少し緩くなっていた。理性と常識通念は紙一重の近さにある。別の言い方をすれば、理念と非常識も又、紙一重の近似世界でもあるのだ。
 バルセロナ・パビリオンには外に座る場所が少ない。きちんと立って歩くのが少し計り困難で、人の眼が少ないのを幸いに、大地から少し持ち上げられたトラバーチンの外の床に寝そべった。冷たい大理石の肌が気持ち良かった。ほとんど石の床と同じ高さに眼の位置があった。床スレスレの眼で建築を眺めてみた。池の水面はさざ波も立たず、静かな鏡面そのものだ。朝の光がモンジュークの、つまりユダヤ人の住む丘の麓に低い位置からの太陽の光線を降り注いでいる。
 オヤ、池の向いの、床と同じ大理石の壁と床との間に強いラインが視えるではないか。朦朧とした酔眼のフォーカスを絞り込んでみる。ラインは明らかに光の筋だ。壁と床は接合し、一体となっているのが常識である。この常識は近代の教育によって刷り込まれる以前のものだ。誰もが疑ってみもしないだろう。ところが、明らかにバルセロナ・パビリオンの壁と床の間には光が射し込んでいる。つまり、石の壁は、石の床からほんの数ミリメーター浮かされている。その浮いた間隔は一定で明らかに意図されたものだ。すなわちこの状態はデザインされている。ミース・ファン・デル・ローエが意図したものに違いない。壁と床が分離して光が射し込むような状態が表現されているのである。ミース・ファン・デル・ローエは何を表現しようとしたのだろうか。巨大な疑問符が脳内に出現し、アッという間に酔いは覚めた。
 パビリオンの内に入る。
 装飾は罪だ。アドルフ・ロースの装飾批判の余りにも著名なスローガンである。バウハウスのグロピウス等のデザイン教育運動はその枠内にあった。それが機能主義という考えを生み出し、モダニズムデザインの主流を構成した。我々の観念の中にも強く刷り込まれ、強く育った。しかし、機能というのも表現されねば解り難い。共有し難い観念の一つなのだ。それは産業革命の産物、機械を模倣した観念だった。先ず、機械が出現し、そのモデルを模倣して多くの考えや、二次的モデルが生まれた。
 ミース・ファン・デル・ローエ設計のバルセロナ・パビリオンには機械モデルとは同一視し難いモノがある。外の白い壁とは異なる色調の内壁、そして奥の壁。それは明らかに大量生産された製品が持つ人口の色調とは異なっている。単純な話し、それは白いフラットな奥行きの無いものではない。全て、特別な石という鉱物で成り立たされている。トラバーチンの白であり、瑪瑙に近い大理石の特別な赤茶色であり、濃緑色なのだ。全てが地球の生命力、歴史の生み出した物質である。全ての石の壁、床は鉱物独特の斑紋で埋め尽くされている。ゲーテはファウストの幕開けにゲルマン、アーリア民族特有のとしか言い様のない不気味なグロテスク極まる錬金術的風景を描き出している。キッチュと同根であろうグロテスク風景である。禿げ山を背景に、錬金術にふける魔女が、グラグラと煮込む鍋の舞台である。
 日本に置き換えれば完全に修験道の世界だ。
1/23 世田谷村日記
 1/19
ONINUMA
ONINUMA
ONINUMA
ONINUMA
鬼沼計画の山の上のエネルギー複合体
1/19 世田谷村日記
 1/19
 開放系技術論08
 バルセロナ・パビリオンの水の鏡には何が写り込むわけではない。そんな事は意図されていない。この鏡はひたすらに空虚そのものを表すものなのだ。空虚に顔を向けた造形の精神は抽象への志向でもある。その奇妙な傾向は二〇世紀に出現して世界を制覇した。

 アブストラクト(抽象)な造形志向は、モノを制作する人間達の中に新種の階層、職種を生み出した。それについて述べる前にバルセロナ・パビリオンの抽象性について具体的に指摘しておきたい。大方の評価としてこのミース・ファン・デル・ローエ設計のパビリオン建築であるバルセロナ・パビリオンは二〇世紀を代表する名建築であるとされる。そう評価するのは専門家達の世界でもある。建築史家、評論家建築家達の評価であり、それが総合化された建築教育の世界でもある。
 多くの非専門家世界の人々はこのパビリオンの存在すら知らないであろう。バルセロナでも訪れる人の数はアントニオ・ガウディの建築の方が圧倒的に多い。その数は桁違いである。大衆動員力がその存在の価値を決めるわけもないが、それにしてもこの落差は大きあ過ぎるのではなかろうか。
 今井兼次によって一九五〇年代に初めて日本の建築界に紹介されたアントニオ・ガウディは早稲田大学建築学科等一部の大学の教育に取り上げられたのを除けば、アール・ヌーボー様式に繰り込まれる等、スペイン・カタロニアの奇異な存在でしかなかった。半世紀の時が流れ二十一世紀初頭の今、ガウディは日本では広く最も知られる建築家であり、子供でも知る存在になっている。建築家の存在、そして建築物の作品としての意味はハイアートと同様に教育の成果として表面化するのが常であった。特に近代建築は美術館等で紹介される機会も少なく、その価値の伝達は主に大学教育の現場に於いてなされ、それがかろうじて社会化されるという構図がとられざるを得なかった。日本の建築教育の現場は建築史を除けば、その大半は技術系の実利教育であり、その文化的意味合いを教育する事は少なかった。その人材も居なかった。その大半は建築ジャーナリズムの手にゆだねられてきたと言わねばならない。アントニオ・ガウディはその端的な事例である。ガウディはTVのCM等を介して広く諸メディアによって大衆(民衆)=市民に伝わった。諸メディアの関係者がその大衆性=市民性を直観的に把握したからに違いない。ガウディの造形は直接市民に訴えかける何者かを持っていたのである。その対極にバルセロナ・パビリオンすなわちミース・ファン・デル・ローエの抽象がある。この価値は美術館、博物館を含む教育的体系がつくり出してきたものだ。

 モダーン・デザインの中枢にバルセロナ・パビリオンはある。その具体を探ってみよう。モンドリアンの抽象絵画との類似、バウハウス流のコンポジションの方法的実現などにはこの際目を向ける事はしない。それだけの事で、この作品が世界に流布したわけが無い。

 1/18
 開放系技術論07
 スペイン・カタロニア地方の地中海に面した商業都市バルセロナ。オリンピックが開催されたモンジュイックの丘の麓にこのパビリオンは建っている。当初は一九二九年の万国博覧会のドイツ・パビリオンとして建設された。パビリオンは仮設建築であるから、当然解体された。しかし一九八六年に今度は記念館として再建された、という歴史を持つ。
 モンジュイックの丘は大墓地だ。膨大な死者が眠る山である。そのスケールは並大抵のものではない。日本古代の天皇陵は巨大であった。モンジュイックの墓はその大きさをはるかに超えて巨大だ。それは死者の都市と呼べる程の大きさを持っている。カタロニア文化の中心都市であるバルセロナの歴史はこの死者の都市と共に積み上げられてきた。バルセロナが持つ特異な都市の深度ともいうべきもの、それは死者の都市と対にして築かれてきた歴史による。
 日本人は山中他界の観念を育ててきた。沖縄の人々、アイヌの人々の文化はそれとは異なる性格を持つが、大方のいわゆる日本人は自然の王としての山は死者の霊が住むところ、すなわち神の棲むところとして恐れ、そして敬した。
 モンジュイックの丘はそのような観念中の他界ではない。リアルに死者が累積する、まさに歴史として在る。歴史は死者によってその基礎が構築される現実なのだ。
 バルセロナの街も他のヨーロッパの都市と同様にローマ時代からの遺跡の上に築かれている。近代に築かれた都市は前近代の都市の上に積み重ねられている。だからバルセロナの地下には近代以前、ローマ時代にいたる迄の墓地も在る。モンジュイックの丘が墓山として築かれ始めたのは十世紀初頭頃のことだ。人口の増大によって死者のためのスペースを日常の都市の内に設けることが不可能になり、それで都市に隣接した丘に近代の死者の都市を建設し始めた。
 バルセロナ・パビリオンは死者の山岳都市の麓に位置している。
 しかし、その近代の宿命とも呼ぶべき歴史と根底に於いて余りにも酷似し、通底しているのだ。
 バルセロナ・パビリオンの本質は死者の都市、墓地の東屋なのである。

 パビリオンには池が設けられている。厳生な比率を持つ長方形の池だ。しかし、この池は日本人の池の観念とは程遠い。日本のみならず東アジアの池とは全く異なる。そこには蓮の花は咲きようが無いし、まちがっても蛙などが飛び込むこともない。ましてや錦鯉も金魚も泳ぎようもない。
 金魚は中国人の発明した人工生物である。ヨーロッパではゴシック・リヴァイヴァルの産物でもあるモンスター、フランケンシュタインみたいなものだ。フランケンシュタインは死体を蘇らせた人造人間で、死者への恐怖が作り出した想像力の産物である。金魚は眼の快楽を追い求めた中国人の想像力の産物である。面白いことにそれはキッチュのシンボルでもある。
 キッチュはドイツ人の造語で悪趣味を表わす。バルセロナ・パビリオンの池はまさに非キッチュの最たるものなのだ。それは「池」というある場所の呼称ではない。水・H2Oという抽象的な存在であり、さらに言えば鏡なのだ。鏡はその存在の形式において空虚そのものである。他者が映り込んで初めて意味を持つ。それ自体は無意味な在り方でしかない。

1/18 世田谷村日記
 1/17
HOSHINOKO
星の子愛児園の3F部のピンクの鯨に風力発電装置をつける計画
1/17 世田谷村日記
 1/16
ONINUMAONINUMA
ONINUMA
鬼沼計画の山の上のエネルギー複合体は世田谷村(二〇〇一年)より連続する考えの展開である。
1/16 世田谷村日記
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 開放系技術論06
 について。
 一、二を考えすすめるに、どうしても単純なセルフビルド論として見られ易いところがある。私が考えているのは日用大工による園芸論、ガーデニング論にとどまるような世界ではない。それをゲートにした現代技術の組み直し迄を射程に入れている。産業社会、すなわち企業社会、資本主義市場世界への別の技術論の可能性を呈示したい気持も強い。レーモンド・ローウィの「口紅から機関車まで」が今から振り返れば極めてアメリカ的生産技術を背景にしたデザイン論であったと考えられるが、それを下敷きにするならば生垣から宇宙船地球号までとでも言うべきか。

 4m程の生垣の切断部をつなぐのに、足許には何十枚かの石州瓦を使った。南北方向のウネを止める役割を果たす。
 スケッチに見られる様に机上のプランはもっと建築的に、と言うよりも近代デザインの枠内の構成的なモノからスタートした。
 しかし、実際に作ったものはより非構成的な、出鱈目に近い状態の生垣である。構成的なデザインはその基本に精度を求めるという袋小路に入り込んでゆく。
 下の畑の生垣のデザインはそれが始まりからあり得ない。何故なら一の、これ迄あり続けた古い生垣の歴史と連結させるという、より高次な命題を課したからだ。
 近代デザインの宿命はより自律的な存在形式を求める事にあった。建築デザインの表現手段として用いられる透視図、CADに登場する樹木、雲、等の自然物は単に点景としての抽象的なマークとして表現されるに過ぎなかった。平面図に描かれる樹木、草も然り。それ等は建築物を荘厳する脇役として描かれてきた。近代建築デザインのオリジンでもあったバウハウスのグロピウス等のデザインは生産の機械的合理性が主題であったし、それをより美的に表現したミース・ファン・デル・ローエやル・コルビュジェのデザインも建築の自律性が主題だったと言えよう。
 例えばミース・ファン・デル・ローエの最高傑作であり、復元されたスペイン・バルセロナのバルセロナ・パビリオンには樹木や草花は一切登場しない。この建築は当初博覧会でのドイツ・パビリオンとして建設されたので大地への接合はもともと重要な考えとして採用されるわけもなかった。
 ミースはこのパビリオン建築に唯一、「水」を自然の代替物として使用した。

1/15 世田谷村日記
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世田谷村世田谷村
 開放系技術論05
 もともとあった世田谷村の生垣は家内の母親が植木屋に作らせた。南には山茶花が大きく育っている。金木犀や梅の小木、ゆずの木も交じり仲々良い生垣である。金網のフェンスが玉に傷だが、それもッ幸い錆ついて植物とからみ合いハイブリッドされて良い風情に、これも育っている。五十年程の歴史がそこに表現されている。
 取り壊す前に在った木造平屋の家も実は仲々に良かった。屋根瓦に白じっ喰の壁は木舞の土壁で、もうこの手の家は周辺には無い。取り壊してしまってから初めてその風景の中の価値を思い知ったが、もう手遅れである。だから、この五〇年の歴史を持つ生垣だけは守らなければいけない。
 南の生垣の一部は新築工事や、取り壊し工事のために、これも一部を切断した。その部分の生垣作りには少々知恵を絞らざるを得なかったのだ。
 先ず第一に今すでに在る生垣との連続性を考えなくてはならない。第二に折角新しく作らねばならぬのだから、今時点での私の考えをよく示すものでもありたい。

 世田谷村の建築は自邸であるから、比較的容易に自分の考えを直裁に表現する事が出来た。初期の開放系技術的世界が示されてもいる。大雑把にくくれば、B・フラーや川合健二、そしてJ・プルーベ、チャールズ・イームズ、更にウィリアム・モリスの考え方などが混合されて成った建築だ。ウィリアム・モリスと言うところが一番解りにくいところだろうが、これは論のまとめに際して述べるつもりなので、今ここでは述べぬ。一番大事なところだ。
 この建築を使い出してから私の考えはいささか進み、明瞭になった。作り出した建築に棲み込みはじめてから、その建築自体の限界と、同時に可能性も又視えてきたのである。つまり、その内に入り込み生活してから、ようやくにして視えてきた世界について書いてみたい。それを開放系技術と呼ぶ事にする。

 生垣を作るにあたって考えた先ず第一の項目、今ある生垣との連続性を考えたいという事について。これはより抽象的に言えば歴史との連続性を求めたいという事だ。人工物の上の畑はとも角として、下の畑は廻りの環境・風景と連続している。そして太古からの歴史とも連続しているのはすでに述べた。
 生垣はたかだか五〇年の歴史だが、歴史を持つのは確かな事だ。世田谷区には保存樹木の制度があって古い欅等の樹木を保存しようとしている。建築物に文化財的意味が歴然としてある如くに自然物にも当然その意味合いは深くある。それはその周囲で生活してきた人間の歴史と共に在ったものだからだ。無自覚であるにせよ、意識下にあるにせよ人間は人工物や自然と共に生活し、文化を創り出している。ましてや、生垣は人工物としての建築、住宅と大地や空の自然界との境界的産物である。庭園と同様に柔らかい人工世界、環境世界への知的ゲートのようなものだ。それ故、今の建築世界の拡張作業にとっては大事な意味合いを持つ。建築世界を仕切る境界が壁であるならば、生垣という境界を作る物の性格は環境という曖昧極まる概念を具体物として表象するモノだ。

 第二の項目、その歴史と空間的広がりの境界を表すモノ、生垣を開放系技術世界への入口としてデザインし、そして自分で作ってみようとする。その事に触れたい。
 生垣をデザインし、つくるのに幾つかの法則を作った。しかし、その法則はいきなり白紙の上に描いたものではない。何回かの実際の生垣作りの試みの中で得たものである。
 一、出来るだけ世田谷村の土地内にあるものだけで作る。
 二、全て自分一人で作る。
 三、一、二、の法則が可能な限りの普遍性を持ち得るように考える。

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世田谷村
 開放系技術論04
 庭のカマド作りについて考える前に、下の畑の南、つまり道路との境界に作りつつある垣根について述べたい。
 下の畑には南北に数本のウネを作った。何故、畑にウネという大地の皺状のものを作るのか詳しい理由は知らぬ。ヨーロッパやロシアの畑作りをそのような眼で眺めた事もないので、この日本の百姓の習慣的知恵のような技術が東アジアに特有なものなのか、今のところ述べる事ができぬ。ダーチャ(ロシア特有の自家菜園)を含むロシアの畑やヨーロッパ各地の畑作りで視た記憶もないからアジア・モンスーン気候帯に特有な技術であるのかもしれない。
 近くの市民農園にある 3 m× 5 m 15F 122 ブロック程の畑も、ウネを作っているものもあれば、作っていないマンマ平地で野菜を育てているものもありまちまちである。近代的な技術以前の農耕生活の慣習の共同性の事例だろう。
 下の畑のウネは、45 Bおきに南北に作った。メジャーで測って、糸を張りながらして作ったものではない。出鱈目な直観に任せて作った。何故、このような出鱈目ではあるけれどゆるやかな法則のようなものが私の中にあったのかは知らぬが重要な事だろう。様々な畑作りの風景の記憶がそうさせたのか、身体の中にその法則の如きものが無自覚のまま残されていたのか不分明である。
 私の小学生時代にはまだ家庭科という科目があり、女性の先生から裁縫を習った。それで古い布切れを使って雑巾を作ったりした。まだそれぞれの家庭にミシンが大切にされて在った時代で先生方もそれを教える事ができたし、我々の世代はかすかに家で雑巾くらいは作っていた時代でもあった。木工で小鳥の巣箱や簡単な本立てなども学んで作った。
 今は小学校に家庭科の科目も無くなり、何故消失してしまったのかも無自覚のままに、先生方も、自分で作れなくなったので、教える事も出来なくなった。ミシンはマシーン(機械)の外来語がなまっての呼称であったようだが、これも今は各家庭から姿を消している。大量生産大量消費生活の無自覚な流れの結果である。モノを自分で作る、作れる、作りたいの本能は教育によって消されようとしている。
 私の小さな畑のウネは南北の方向に皺を作った。この南北は流石に出鱈目というわけもゆかず、しばし考え込んだ。南隣りのこの地域の地主の家の畑を見るに東西方向にウネを刻んでいる。考えるにウネの意味は土に出来るだけ外気に当てようとするものか、水ハケの為に作るのだろうと思い当たった。南東方向にゆるやかに傾斜しているこの土地では水ハケに関しては東西方向、南北方向共に同じ条件である。しかし太陽のエネルギーを最大限土に与えるには南北方向に皺を作った方が影が少ないと考えて私の畑は南北にウネを刻んだ。土地の形状も南北に長いので、その方が種をまくウネの面積が大きくなる事もあった。
 小さな畑の土は貴重品でもある。
 南北にウネを作ったので、雨水は自然に南に流れる。大雨に際しては土も自然に南に流出する。それを防ぐのには小さな土留めが必要になる。
 山に近い畑には百姓は猪垣を作る。猪に農作物を荒らされぬようにする為だ。下の畑に猪は来ない。しかし、猪よりも性質の悪い人間が来る。それも防がねばならない。それで生垣を作る事にした。
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 1/5
世田谷村
 開放系技術論03
 下の畑は私一人で耕した。耕した部分には以前平屋の「離れ」が建っていた。その「離れ」は解体業者が基礎部も含めて手際良くとり壊した。トイレ部分を残して今は跡形もない。畑はスコップとクワで耕した。畑作りの経験は私には無い。屋上の上の畑に菜園を作ろうと見よう見真似で手作りした位のキャリアだ。

 家内の両親がここに家を建てる以前はここは畑であった。その名残りは南側に広く世田谷区の保護緑地として畑が残されているので知る事が出来る。世田谷村の南の保護緑地はイモやタロイモ、キャベツ、ネギ他が育てられている。年に一度か二度世田谷区民に開放されて区民達が子供連れでイモ堀り等を楽しんでいる。その事で地主は何らかの税制優遇措置を得ているのだろう。さらに南には大きな区民農園が同様に展開されている。一区画二〇F程の自家菜園が数多く用意されている。休日には多くの区民が自家製野菜の栽培にいそしんでいる。観察してみると、その栽培成果は驚くべき質量である。私の自家菜園はこの区民達の成果を間近に見る事でも大いに触発された。
 野菜、花々の育成が決して本職(プロフェッショナル)とは言えぬ人々(市民)の趣味としか言い様の無い世界の底力、そしてそのリアリティの大きさを大いに実感する事が出来た。
 この実感は沖縄での長寿者達の聞き書き調査によって確信に近いものへと成長した。
 消費者と呼ばれる、買い求め、使い捨てる二〇世紀後半に顕著であった市民=消費生活者とは異なる姿をそこに垣間見る事ができた。
 この区民農園のオーナー(借地者)は応募者が多く、毎年抽選で選ばれる。潜在的な市民(消費者)農園保有志向者はかなりの数にのぼると思われる。
 下の畑はこの市民農園と地続きなのだ。同じ背景を持つと自覚出来る。

世田谷村
1/5 世田谷村日記
 12/29
世田谷村
 開放系技術論02
 上の畑の歴史はたかだか数年である。小さな歴史だがゼロから私が作り出した空中の畑なので、その生成過程の全てを知っている。脳内にそれが貯蔵記録されている。亜鉛メッキドブづけの鉄板だから川合健二邸と同様まず三〇年はフリーメンテナンスでも腐蝕しないだろう。しかし現場溶接であったから溶接部分が弱いのでコールタールをたっぷり塗り込んだ事。屋上に上げた庭の土と鉄板部の接触面積を可能な限り減らそうと、ワインの空瓶と軽石を随分埋め込んだ事。土の総重量は約十八トンだが雨を吸い込むと約二〇%重量が増すだろう事を構造設計家の梅沢良三氏から言われた事など。要するに上の畑の大事なところ、生命の中枢は、構造設計も含めて全て現代の技術で成立しているのだ。しかし、人工の鉄製土地に土を載せなければ植物は育たない。水耕栽培では植物の病院になってしまう。それでコールタールや軽石、空瓶等の工夫が入り込む事になった。
 人口の鉄製の土地を作ったのは気仙沼の造船屋で、それを設計した私と構造設計家だ。謂わゆる近代的に専門分化した職業的人種である。空瓶を使ったり、コールタールを屋根の上で溶かして塗ったりは、その発想も含めて他の種類の人種、つまり素人がやった。土を掘って、上げたりもそうだ。だから上の畑づくりは大まかに二種類の人間がかかわっていた。
 職業的人間と生活者としての人間である。

 下の畑はそれとは少々異なる。
 この土地は六〇年程昔に家内の両親が購入した。それ以前は、ここら当りの大地主であったお百姓のものだった。それ以前はいきなり不明だ。調べれば少しは解るのだろうがそれ程の意味がある様なものではあるまい。家内の親は家相・地相に一家言持つ人であったので、南東にゆるく傾斜しているのを良しとして地主のお百姓に交渉し、得たものらしい。江戸に徳川が城を築き、京都から文化文明の中心を東に移動させた、それ以前の事は良く知らない。今の東京湾は内陸部にもっと喰い込んでいたから、この辺りは葦が茫々と生い茂る荒地であったか、雑木林の森であったのだろう。遠くに富士山が旺盛に煙を吐き、動物達が盛んに駆け廻り、谷筋には魚がはねていただろう。今のところ掘り返しても、掘り返しても土器、石器の類も、祭祈のカケラも出てこないから、ここに人が居たらしい気配はない。富士山が大爆発してその灰が降り積もった関東ローム層は掘れば辿り着くが、その際に多量に死亡しただろう動物や鳥の骨は出土しない。皆、土に還ったのかも知れない。貝殻も無い。土地のほぼ真中の梅の木の下を掘れば小さな骨が出るだろうが、それは去年死んだ兎のものだ。

世田谷村
世田谷村
12/29 世田谷村日記
 12/28
世田谷村
 開放系技術論01
 世田谷村内に作るカマドのアイデア。世田谷村の一階には築五〇年程の木造平屋の住宅があった。それを残したまま、空中に新しい建築を作った。下の家は何年間かそのままに残していたが、寿命が来たので取り壊した。取り壊した際の材木と屋根瓦は、ゴミとして捨てずに敷地内に残した。それで世田谷村の一階はゴミの山になっている。荒涼たる風景である。しかし、私の頭の中では貯蔵しているのである。捨てずに貯めている。古材と呼ぶ程のものではない中古の材木はそれでも三階テラスに棚を作ろうとした際に上に持って上った。いずれは屋上に昼寝小屋を建てるのでその時に陽の目を見るだろう。問題は瓦である。四〇坪程の平屋の屋根瓦が残っている。瓦を使った庭作りでも、と当初は考えていたが、瓦の持つ臭みが嫌で、それも止めた。瓦の持つ臭みについては趣味趣向の思想の問題なのでいずれ章を代え詳述する。庭にうず高く積まれたままの瓦の山を眺めながら数年暮らした。

 最近、下の庭に畑を作った。三坪位から始めて今は十坪程に拡がった。下の畑とわざわざ言うのには理由がある。世田谷村には屋上に小さな菜園があり、それを上の畑と呼ぶからだ。
 下の畑をやり出してから私は家の廻り、すなわち世田谷村の敷地内を良く歩くようになった。敷地といっても百二〇坪程の小さなもので、歩き廻るという程の事はない。しかし、畑の土を掘り返したり、水をやったり、手と足で、身体で土地に触れるようになってから、敷地、土地に対する感覚が微妙な振れを見せ始めている。良くその細部に眼や手足が届くようになった。猫の額程の土地にもそれなりの特異性があるのを知った。朝から日没までの陽の差し込み方、風の通り方、そして、どこにも植物や生物が棲み込み、ほとんど無限に近い多様な生息の状態を作り出している。つまり、私は自分の抽象的な身体を努力して土に近づけつつあるのだ。土といっても勿論民族の血と土の土ではない。身体を介した身の廻りの環境の一部としての土である。そして植物やミミズや虫や鳥を育む土だ。
 世田谷村には上の畑がある。屋上の畑だ。鉄板にコールタールを塗り込んで、その人工の土地に土を上げた畑である。この、上の畑と下の畑とは全く生命力が異なる。それは何処から来るのかと言えば畑の歴史の力がまるで違う。

12/28 世田谷村日記
世田谷村日記 制作ノート 01
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