「飾りのついた家」組合

HOUSE DECORATING GUILD
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「飾りのついた家」組合日誌

2014.02

「飾りのついた家」組合日誌 66

[2014/02/12]

石山修武センセイへ―出品作品「酒盃」について―


大坪義明


土曜日の午後は「超」唐突なオファーをありがとうございました。突然の指示にはずいぶん慣れてきましたが、今回は母親の退院当日だった上、「出品作を選んで」「写真を撮って」「夕方長崎屋で打合せ」…OMG! 結果、なんとかお眼鏡にかなうものがあって、ホッとしました。

さて、土曜日お会いした時と、翌日に電話でご指示いただいた件、以下のとおり確認させていただきます。


1.六点への絞り込み

結果的にうまく絞り込めたと思います。器形は平盃が三点・それ以外が三点。産地や種類もほどほどにばらけてバランスがいいかな、と。作者は今年30歳となる古谷宣幸さんを除いて全員30代(制作時)、もはや新人の域を脱し、中堅作家として活躍している人たちです。作品はすべて、ここ1~3年以内の都内一流店での個展出品作となりました。私の信用は、センセイがいろいろとお書きくださるおかげで地に墜ちたも同然ですが、出品作の方は一流店の信用で、なんとかクオリティに信を置いていただけるものと思います。


2.作品のコンディション

私はモノを大切に扱う方なので、いずれも新品同様、使用感はありません。実際、どれもせいぜい数回使用しただけですし、無疵・完品であることを保証します。


3.作品の詳細説明

作家についての説明は、センセイがおっしゃるとおり、不要だと思います。全員、ちょっとI/Nで検索すれば、いくらでも情報をひろえる方々ですから。作品についての説明は、概ね、こんな感じでどうでしょう?


①備前ぐい吞 小山厚子 作(2012年 銀座・黒田陶苑個展 出品作)8,000円

六点の中では最も大ぶり(径・高さ共60ミリ前後)、冷酒向き。胴の内外でまったく違った表情を持ち(内側は火襷…茜色の線状の模様が入る)、コロッとした高台や、絞った胴など、控えめながらいろいろと凝った意匠が施されている。

②紫志野ぐい吞 鈴木伸治 作(2011年 銀座・黒田陶苑個展 出品作)8,000円

組合日誌60で、蔡翼全氏がとりあげている川端康成の「千羽鶴」は、志野の魅力を一気に世間に広めた小説として知られる。主人公の太田夫人が愛用した、口縁に口紅のあとが染みついた茶碗が「白無地」の志野、一方「紫志野」は鈴木氏のオリジナルで、他に作り手はいない。小振りで、燗酒にも冷酒にも向くおすすめの一品。

③黒南蛮ぐい吞 古谷宣幸 作(2012年 渋谷・穴窯陶廊炎色野個展 出品作)4,000円

世界的な陶磁学者で実作者でもあった小山富士夫が再現した、種子島の焼締作品は、その後「南蛮手」として、多くの陶芸家が手がけるようになった。釉薬を用いない素朴な南蛮手は、酒映りのよさが秀逸で、酒が注がれた途端にさっと浮かび上がる景色と、透明な酒に映り込む光がきらきらとゆらめく様は、とてつもなく魅力的なものだ。村松友視は、偶然出会った小山の南蛮ぐい吞みを契機に小説「永仁の壺」を書いた。その魅力の一端は、この作品でも十分、窺い知ることができる。

④粉吹ぐい吞 辻村塊 作(2013年 銀座・一穂堂サロン個展 出品作)6,000円

3年前に購入した同じ作者の粉吹(通常は「粉引」)ぐい吞をうっかり落として割ってしまった。具合がよかったので同手の作品を購ったのだが、作行きは一段とよくなっていた。見込みに溜ったガラス質の釉溜りが見どころ。


4.価格

もし初めて酒盃を買うなら、せいぜい数千円かと思い、そのような価格帯のものをできるだけ選びました。すべて発表価格の2~3割引きに設定しています。もっと安くしてもよかったのですが、それでは作品に対して失礼な気がしたものですから。この値段でも、私が買いたいくらいです。あ、そりゃヘンか。

あまり手放したくないので、売れなくてもハッピーです。しかし、どなたか購入して愛用してくださるなら、もちろんハッピーです。購入者は、絶対にハッピーだと信じています。

確認は以上です。

こうして「飾りのついた家」に参加できるのは、とてもうれしく光栄なことです。私の頭の中で、常々ぐるぐると回っているのは

「趣味の何者たるをも心得ぬ下司下郎…」(夏目漱石「草枕」)

「(大切なのは思想の趣味化ではなくして)趣味の思想化である」(小野二郎「ウィリアム・モリス」)

そしてもちろん、

“Have nothing in your houses that you do not know to be useful or believe to be beautiful.” by William Morris

これらのフレーズ、箴言を体現するものが「飾りのついた家」であることを心から願いつつ、私なりに力を尽くしたいと思っております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

大坪義明 拝

「飾りのついた家」組合日誌 65

[2014/02/12]

酒器コレクションから 酒盃


大坪義明


日頃、意見の一致を見ること悉く稀な石山修武さんに、「モリス好み」を口にしてしまったばかりに、むりやり小宅を「モリスの家」と称するよう強いられている大坪です。

石山さんも敬愛してやまないウイリアム・モリスは、無銘の日用雑器の<スリップウェア>を高く評価したことで知られますが、モリスの時代、すなわち産業革命後の英国では、スリップウェアのような一点もの(つまりは手作り)の陶器から、同じ陶器でもより機械生産に向くクリームウェアや磁器であるボーンチャイナなどに、焼物の主役の座が取って代わられつつありました。

私が出品させていただくのは日本の若手・中堅作家の手による酒盃ですが、一点ものの陶器の欠点は、酒盃や徳利、片口などの酒器において、実に大いなるメリットに転じます。

独自性…複製品ではない、世の中に二つとないものを愛玩する喜び。

透湿性…酒が滲みることによって変化する器肌、しっとりした感触の心地よさ。

手取り・口当たり…持ち重りのする安定感、手や唇になじむフォルム、肌あい。

唐津や李朝の「本歌」は確かにいいけれど、ばかばかしいくらいに高価です。日本酒を、より旨く飲む―ささやかな日常の贅沢を楽しむのに、これらの器が十分役立ってくれることを請け合います。

「飾りのついた家」組合日誌 64

[2014/02/08]


2014年2月8日

組合員の一人であった鈴木博之さんが亡くなりましたが、彼の名は永久欠番ならぬ、名誉会員としてメンバー録には記録し続けたいと考えますので、皆さんの御了承を願いたい。

鈴木博之さんの死はすでに予測し、わたくしも覚悟はできていた。でもどうしても組合員の一人として名を連ねて欲しかった。それで鈴木さんも同意してくれての事でした。何を同意してくれたかと言えば、そのように不在の永久欠番になるのを承知の上の事でした。

記しておきたいと思います。

石山修武

「飾りのついた家」組合日誌 63

[2014/02/05]


2014年2月5日

生きもの稲荷と勝手に名付けている、烏山神社の志村稲荷は烏山の志村一族の氏神様である。

今日は烏山神社の境内で昨日前橋の市根井立志さんから送られてきた作品の写真撮影をする予定だ。昨夜隣家の向山一夫さんがその作品を持ち帰った。営業活動に必要だからと。向山さんはこの作品が滅法気に入ってくれた。気に入れば、売ってみたいというのがこの人物の美質である。単純明快である。

気がついたら、市根井作品の名がまだ決まっていない。肝心の記録写真も無いので、今日の撮影とした。昨夜の降雪で今日の空は澄み切り、神社での撮影にはもってこいの日よりとなった。

ところで、この市根井立志の力作の名前だが、どうするか。藤江民の作品も力作ばかりで、これは互角の競作になり、サイトの掲載空間は一段とざわめくだろう。

生きもの倉では何のことか伝わりにくい。

「生きものの魂倉」はどうだろうか。

あるいは「生きもの・魂倉」あるいは、「生きもの・たまぐら」はどうか。たまぐらのひらがなの形があんまり、ひら仮名の良さが生きていない。やはりすこし固いけれども「生きもの、魂倉」とする。


神社は朝の光が良いのだけれど、ぜい沢は言わない事とする。午後の光でも今日一日は空気が澄んでいるだろうから、木肌の神々しさは浮き出してくれるだろう。

神社本殿の縁上と、縁の下でも撮れたら良い。そして石段の上、参道の畳石の上にも置いてみたい。

これからの事を考えれば、志村稲荷の中や小さな縁にも置いてみたい。随分楽しめそうではないか。

「飾りのついた家」組合日誌 62

[2014/02/04]

クラフト・エヴィング商會 世田谷文学館展示会「星を売る店」


2014年2月2日

世田谷文学館で開催中の「星を売る店」クラフト・エヴィング商會の展覧会に出かけた。なにしろ世田谷文学館は世田谷村から歩いて5分もかからぬ処に在るので、これくらい行きやすい文学館は、わたくしには無いのである。靴なんかはいたりせずに、スポンジぞうりや、裸足で行ったりができそうな位である。建築デザインは良くないが、ぜいたくは言わない。

クラフト・エヴィング商會の活動は以前から知っていた。美術と文学の狭間に誰からも嫌われずに引っかかっている類の表現世界がそこにあった。

会場には圧倒的に女性の姿が多かった。

唐突だが宝塚歌劇団の如くの、星組、花組のような可憐さがそこに在るからなのだろう。けっして女子プロレスの世界ではない、しかもやはりどうしても可憐な表現なのである。

今流行語の可愛いの世界がそこに在る。


唐十郎の赤テント、状況劇場が最盛期の頃、テント劇場も又、宝塚の如くに女性客で埋まった。麿赤児、大久保鷹、四谷シモンといった怪優達の存在感が消えてゆき、今は唐と別れた李麗仙、根津甚八の唐版風の又三郎が評判になっていた。李麗仙は男女両性具有の風の又三郎を演じていた。

「誰だ、お前が又三郎と呼ばなけりゃあ、わたしは宇都宮くんだりの飯たき女だったんだ」と二都物語の李麗仙は夜空に叫び、異常に多かった観客達はどよめいた。テントを風がパタパタとはためかせた。

時代は時に演劇的であり、演劇は観客によっても作られる現実を我々は知ったのである。

クラフト・エヴィング商會の広報誌とも思われる、ムーンシャイナー、moon shiner、クラフト・エヴィング商會は『月下密造通信』とネーミングされている。唐十郎が時分の華であった頃、彼は堀口大学張りに、『月下の一群』と名付けた個人誌を発刊していて、わたくしも創刊号は手にしたが、今は手許には無い。赤テントの熱気も遠くすでに過去の世界に消えている。

クラフト・エヴィング商會の表現活動の何処にも一時の大観衆を集める前の、赤テントの暴力的な何者も、観客に対しても、匕首を突きつけるようなモノは何処にもない。

前からそうであった。初めから終りまで全てが可愛いらしい。

しかし、その事の良し悪しは表現者の側にだけある問題ではない。時代が秘やかな展覧会の女性の観客の如くに可愛らしいと言わざるを得ない。

恐らくは戦前のと想われる街角の一角が会場に復元されている。真黒に壁は塗られ、床もどうしても古びた舗装材らしきで作りたかったのであろう、少し床が高くなりそれらしい材料が従来の床材の上にかぶせられている。ともあれ舞台のようなモノであるから全てニセモノ作りである。そのいつも月下の通りらしきの入り口には中村医院の古びた小さな広告塔のようなモノ。平日午前9時〜午後7時半、土日午前9時〜午後1時とある。50M先とあり小さな矢印が。星を売る店のイントロダクションである。古書一角獣の隣りがクラフト・エヴィング商會の工作室である。黒塗りの荷台の大きい自転車もある。月刊シネマの広告には電気ホテルも在る。センチメンタルなノスタルジーが心地良い。

先日訪ねた上海の新開地は一角の街全体が全てこの調子で作られていた。中国人や外国人が実に沢山訪れていた。それと比較するのは酷である。

クラフト・エヴィング商會の活動は現実と関わりのない、小さな秘やかさ、つまり現実に対する非力を自覚した想像力の肯定そのものの中に在るのだろう。会場を出ると旧ウテナ薬品の邸跡の庭に咲く紅梅が色鮮やかであった。

時々寄る文学館の一階喫茶室で昼食をとる。

ここの従業員の方々は、いささかの障害を持つ人々であるとされている。一生懸命な客との対応が、可愛らしいをはるかに超えて気持を打つ。リゾットもコーヒーもおいしかった。値段もビックリする程に安い。

春からの「飾りのついた家」組合の打合わせには時々この喫茶室を使いたいと考えた。

「飾りのついた家」組合日誌 61

[2014/02/01]

「モリスの家」


2014年1月31日

北烏山のモリスの家のオーナーは大坪義明さんである。屋敷の庭にバラを植えて、その手入れに明け暮れる、うらやましい限りの人物である。

でも何にでも興味津々の人であり、色んな会合やら集会に顔を出していた。ほら居るでしょ。いつも何処でも悲観的な評論家振りの人って。わたくしも何かの会で、アッそうだ、世田谷式生活・学校の会に出てきた、その大坪さんに出くわした。正直イヤなヤローだなあと思った。グズグズ細かいこと言って、話を前に進ませぬ人なのであった。

でも、イヤなヤローも時には必要なのだ、が、いささか年老いたわたくしについた知恵らしきでもあった。ガマンして付き合っているうちにこのイヤなヤローがウイリアム・モリス好きだということを知った。それなら本当はイイ人な筈だ。何か蝶番が外れて、それでユートピア便りならぬデストピアの番人みたいな人柄になってしまったのではないか。壊れた蝶番を直せば一気にスタスタと前へ歩き始める人にもなるのではないだろうかと考えてしまった。

で、今日は夕方にそのイヤなヤロー、大坪義明さんに会って、大坪コレクションを我々組合の作品群に入れられないかの打合せをすることになった。ウイリアム・モリス主義者を名乗ったのは故小野二郎であった。英文学者であった。大坪義明さんは恐らく小野二郎の如くにウイリアム・モリス主義者を大言壮語する人間、というよりも人柄ではない。そうであって欲しくとも、そうはならぬのが現実である。

しかし、ウイリアム・モリス主義者に非ずとも、ウイリアム・モリスの総合性への趣味とでも言うべきの信奉者なのではあるまいか。

今夕、大坪義明さんのコレクションの何がしかを見せていただき、その一端を知ることができるやも知れず楽しみである。