「飾りのついた家」組合

HOUSE DECORATING GUILD
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「飾りのついた家」組合日誌

2013.110

「飾りのついた家」組合 日誌 29

[2013/10/31]

「作品番号12.三球四脚について」

少しずつ組合の在庫目録とも呼べる「作品一覧」が増えている。

組合の皆さん、そして買い手として参加して下さっている皆さんのお陰様だ。10月31日現在作品番号40迄進めることができた。新しい作品でもある大工・市根井立志さんの38〜40は案の定好評のようで、39.四角四面の中箱はアッという間に買い手がついてくれた。又、建築シリーズとして考えていた35.草迷宮、36.スフィンクス、37.シナゴーグは全て売約済となり間もなく手許から姿を消すことになる。

35.草迷宮は建築シリーズの命名法から外れて泉鏡花の物語りから名を拝借した。少し間を置いて草迷宮は百玄宮に名称変更したいと考えていたが買って下さった方が、もしかしたら草迷宮の名を少しは気に入って下さったかも知れぬと考えて草迷宮の名はそのままにした。

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どうしても新しいナンバーのついた作品群に目は向きがちになる。でも人間も同じことで新しい友と同じに古い友は大事である。

組合作品一覧においても古い番号のついた作品群を時に振り返ってみたい。

で、今日は作品番号12の三球四脚の名がついた椅子についていささかを述べてみたい。

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作品番号12の三球四脚は、森の中で大きな切り株や大木の根方、倒木などに腰かけている時の深い安堵感のような気持を念頭に置いて考えたモノだ。

わたくしなどは人工の椅子に座っている時よりも、自然の中の何者かに腰かけている時の方が余程安らぎを感じる。

いつかキチンとモダーンな材料を使ったモダーンな椅子をデザインしてみたいと何度かやってみようとしたが失敗した。要するに心からそういう類のモノが好きではないのじゃあないかと思ったりもした。

それで大工・市根井立志さんに

「丸いキャベツみたいな球を木で作れないかなあ」

と相談してみた。

「ろくろ使ってやってみましょうか」

「やってみて」

それでろくろを使った木球に角が一本生えた如くの幾何学的物体が作られた。

木を使った幾何学的球はあんまり良くはなかった。とわたくしは考えた。

「もっとゴツゴツした生(なま)な感じになりませんかね」

それで2008年の世田谷美術館の大きな倉庫前の地面に座って二人で色々とああでもない、こうでも無いと工夫してみた。

「仏師を真似てナタでけずり出したような球ができませんか」

「円空仏みたいな感じですか?」

「そおそお、それで木のキャベツみたいなの出来ないかなあ」

「やってみましょう」

チェンソーやナタを総動員して、そのキャベツの球みたいな球は作られた。

それで作ったのが三球四脚シリーズの第1番目のオリジナルである。

これにはわたくしは大きな愛着がある。

それで、展覧会などには出して大いに見ていただきたいのだが非売品として私物化することにした。

背もたれも、肘掛けも無いゴリゴリした荒けずりの球体に、これも木をけずり出した木片が突き込まれているだけのものだ。

腰かけると木のかたまりの温もりが伝わってくる。

わたくしにはこれで充分だけれど、もう少し優しく解題して、椅子らしくしてみたいと次に考えた。

解題と堅苦しく言うのは、何とか木の球らしきを作り、使うという原則だけは守りたいと考えたからだ。西欧風の椅子とは少しでもちがうモノを作りたかった。それで何とかまとめたのが作品番号12の三球四脚である。

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実は一球一脚もすでにある。

そして四球五脚とか七球八脚とか増殖させていったら面白かろうとも考えた。それはまだ実現させてはいない。市根井さんの好奇心と体力次第そして、わたくしの気力次第という事になろうか。それで作品番号12の三球四脚は木のキャベツのような、何やら椅子らしきの姿のような折衷的なモノになったのである、

座ってみると身体のうちに自然が入り込んでくること疑いなしである。

「飾りのついた家」組合 日誌 28

[2013/10/30]

わたしの住居でもある世田谷村には組合員・大工・市根井立志の木工の大きな作品が2点ある。

ひとつは2階にある3つの小部屋の木箱である。

ふたつは、昨日の第0回組合会議を開いた階段室である。

共に鉄釘を一切使用していない工作である。

それ故に、木槌ひとつで完全に解体することが出来、もっと言いつのればモバイルすることもできよう。

バラバラにして運べば良いのだから。

先年、幻庵がN.Y. MoMAの展示物にセレクトされた。

モバイルならぬ分解そして交通可能なという理由でセレクトされたようだ。交通というのは柄谷行人が好んで使う概念だが、マルクスがドイツイデオロギーで使い始めた概念であるが、今は深入りせぬ。

コンラッド・ワックスマンは棺桶屋の息子だと教えたのは磯崎新だ。わたくしはワックスマンが好きであった。それと繋がりがあると感じて川合健二の鉄の家も好きだった。

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世田谷村は形態は異なるが、それにR.B.フラーの考えを取り入れて考えた。

しかし、今になって振り返ってみれば、鉄に非ず市根井立志が工夫して作った世田谷村の木造部分にも広く原理的な普遍性が宿っているのを知る。

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この2片の木造の工作を少し考えつめてみたい。

落し掛け、クサビ、そして木栓の工夫に留意されたい。


第一回会議の様子(2013.10.29 世田谷村一階階段室にて)


世田谷村一階階段室。鉄釘を使わずに落とし込みと楔、木栓によって組み立てている(2013.10.29)


世田谷村一階階段室(2013.10.29)

「飾りのついた家」組合 日誌 27

[2013/10/29]

昨日、10月28日、組合事務局の面々より「飾りのついた家」組合の今後のすすめ方について、と題したレポートをいただいた。

1.活動場所について

2.ネット、HPについて

3.作品シリーズについて

4.組合カタログ本の刊行

の項目である。

昨日のうちに返信はしたが、一夜明けて考えも少しは煮つまってきたのできちんと応信することにした。

1.

活動場所については、これは当然世田谷村を拠点にする他は無い。

10年以上も昔からそう考えていた。

幸い大工・市根井立志さんより本日10月29日に打ち合わせしたいと早朝に電話があった。それで11時に世田谷村の階段室で打ち合わせすることにした。ここではわたくしは大きな油絵を描いていた事もある。地下は今は未整備であるからまだ使わぬ。

この木製の階段室は石山設計、市根井立志さんの製作である。好きな場所なので組合の第0回の会合を開くことにした。

2.

ネット、HPに関して。これは市根井立志の「クサビ箱」を先ず英文化することにしたい。2014年には埼玉近美をスタートとする巡回展、ポンビドウセンター、ヴェネチア・ビエンナーレ等の話しもあるから、それと連関させて、されども日々のページを先ず充実させたい。

大学のサーバーから切り離した「世田谷村」のサーバーを丹羽太一さんのところに開設したい。

作品=商品に関するこまめなレビューは必要である。本日より聞き取りを始めたい。

組合員それぞれが持つ人脈(ネット)へのアピール等も今日より始める。

3.

作品=商品のシリーズ展開はやはり「大工シリーズ」、すなわち市根井シリーズから本日討議を開始する。

4.

総合カタログ本の刊行は「ときの忘れもの」と相談したいというアイデアを今は持つ。豪華本としたい。

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以上を本日世田谷村木の階段室で打ち合わせすることとした。

この光景は録画する。

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本日の第0回組合会議と、大げさに言うこともないが、小さな階段室会議では市根井立志さんの参加もあるので市根井さんを中心テーマとした会議にすることにしたい。

1.

市根井立志作品「クサビ箱」について、

1.初期モデルに改良すべき点ありや否や

2.シリーズ化の可能性について

3.展開の方法はありや無しや(制作の展開=労働力)

4.値段について

5.広告について

2.

5の広告について、特にHPのデザインについては綿密な討議が必要だろう。

空理空論を避けたい。

3.

販売力の増強について

「飾りのついた家」組合 日誌 26

[2013/10/28]

市根井立志さんより「クサビ箱」大、中、小の完成写真が送られてきて、脱帽した。

わたくしだって同じモノづくり屋である。飛び切りなモノを見せつけられると当然ウームとうなる。

「これは負けてるな」

と自分の何がしかと比較するのである。

この「クサビ箱(仮称)」はとても良い。飛び切り斬新で、しかも古い民家の内に居るような懐かしさがある。

小さな箱の筈なのに、その箱の内にも外にも凛とした空気を張りつめさせているのである。

あんまり誉めるのもいささか気恥ずかしいけれど、これを誉めなくて何を良しとするのかと自問せざるを得ない位に良い。

そんな事を自身で実感した事はないけれど、茶碗の中に宇宙がある。

あるいは壺中天の例えらしきを、この木の箱にまざまざと実感した。

凄いなあと実感する事は、自分を励まさざるを得ぬに実は同じである。

正直、襟を正して自身を叱咤激励しなければならぬと痛感したのでもある。

これに勝る「箱」らしきを考察するのは、しかし至難の技であるのは眼に視えている。

この「クサビ箱」には大工・市根井立志の自分史とは言わず、恐らくはないわけではあるまい悲喜こもごもが溢れ返ってもいる。それは言いつのらぬ。わたくしにとって重要であったのは、モノ入れ、収納の類であるのにこれが充二分に建築そのものでもあるような気がした事である。

「建築」とは何かを、このクサビ箱はまざまざと眼に視せてくれた。

人間はビックリすると、頭の中の一部に空白が生じ、あるいは亀裂も生じてその働きに変調をきたす。繰り返しの言葉が多くなり、自制できぬ。

建築とはとどのつまりは人間とその外に在る人工物との関係の細妙さであり、それでしかない。

人間にも内と外が厳然としてあるように、建築にもそれは当然の如くにある。そして人間の名品とも言うべき者はおのずと自己を表現して止まぬ存在ではあろう。

建築は人間による造作である。その良い品種はこれも又、内外に妙なる流通状態を作り出す。

浄土宗と祖とされる法然上人はその状態を山川草木皆響きありと表現した。

恥しながらわたくしが覚つかぬままに作る姿勢を励ます言葉として、MAN MADE NATUREと言明してみせたのも、実にこの響きの事であり、別の言い方をすればこれはアニミズムでもある。

いささか、イヤ味にも、それこそ響きかねぬ稚拙な言葉を吐いてしまった。

これはこの「クサビ箱」の内に封じ込めたい。

良いモノに接すると、どうしても言葉が歪んで飛躍しかねぬ。

絶讃するばかりでは余りにも能が無い。これだけのモノが組合の初期段階に於いて出現してまったことは、我々、他の制作者にとって大きな壁が出現してしまったのに実は等しいのである。

「飾りのついた家」組合 日誌 25

[2013/10/28]

まだ日誌24に書いた芸術家やらの記名、つまりサインに関する短文はサイトにONされていない。編集者が一拍置いたのであろう。

しかし、大工・市根井立志さんより、昨日、今朝とファックスにてアイデアスケッチが二枚届いてしまった。この人物の手際の良さと言うのか対応の速さは異常である。勿論気持の良い異常さである。ご確認願いますとメモが附されているし、ピッタリのタイミングでもあるから早速返事の電話をする。

わたくしは、いづれも良いと思うけれど、沢山装飾的に使った時には、こちらの方が単位として生きるだろう、と意見を述べた。又、もう一枚の早朝のFAXの方には、製作しやすいのはどちらでしょうねと伝えた。市型と人型の案が並んでいたからだ。両方作ってみましょうの答えが返ってきた。簡にして明なる会話であった。

広島の木本一之さんに電話する。こちらは市根井さんとは対比的な性格で決して素速い答えは返らぬのを承知でした。案の定モゴモゴと会話はなった。木本一之さんは鉄の工芸家である。鉄は木よりも重い。言わば近代の材である。木本さんはそれをハンマーやらで鍛いて造型する。どうしたって木を扱うような手際良さを旨とする価値観は産まれにくい。どうやら来週から一週間程広島を離れるようで、一週間の間が空きそうな気配であった。それでは「今日中にアイデアらしきを下さい」といささか、こちらも性急になった。木本さんも市根井さんも独人身である。御二人共に結婚は面倒臭いの達人の域に達している。その孤独と裏腹に獲得しているであろう自由はまぶしい位のものである。

で、今日は到着するか届かぬか知れぬ木本一之さんのFAXを待つ一日になるのであろうか。でも届かぬモノを待つよりは、いつか必ず届くであろうモノを待つ方が余程嬉しい。

恐らく、それはチグハグなやり取りになるのは眼に視えていても。

木本一之さんは工芸家と言っても、典型的な残り少い人種になったブラックスミス、つまりは鍛冶屋さんである。つまりは一周遅れの人種に属する。それ故にその金属工芸には不思議な暖かさが内に在る。その価値は人間の普段の生活の中に在って一段と太陽の陽だまりの如くのヌクさ、つまりは再び暖か味であるが、それを周りに漂わせるにちがいない。

石彫りも鍛鉄職人も、重いハンマーを振るわねばならない。例え良い電動のハンマー機を持とうとも仕上げは自分の手で成さねば気がすまぬところもあるだろう。だから老人過ぎる身体には過酷でもあるだろう。

木本一之さんはそんな意味では今が働き盛りだ。中味がギュウとつまり切っている。鉄を絞ったら鉄の汗がしみだす位のモノである。

何を作ってもらえば良いか、わたくしもいささか重くなった頭を絞らねばならない。

子供達のお守り、みたいなモノが良いのだろうが……。

「飾りのついた家」組合 日誌 24

[2013/10/28]

さて日本の職人は西欧の芸術家風のサインを作品には残さぬのが一般的である。組合員の大工・市根井さんもその作品にサインは施さぬ。

それが職人の流儀である。その心意気とも言うべきは、しかるべき技倆とささやかな気位を持つ職人には脈々と流れているものだ。

だから、無名性あるいは無記名性であれば良いというものではあるまい。サインに非ざる記名の方法はないものであろうか。

60年代に名のあったグラフィックデザイナーに粟津潔さんが居た。わたくしは学生時代に、毛らしきがうっすらと生えてきた生意気盛りにお目にかかり、いささかの議論らしきを交わした記憶がある。

今、想い起すと稀少な価値を持つ作家であった。何が稀少かと言えば60年代、世はサイケデリック、ポップアートらしきの全盛時代であった。勿論、敗戦後、戦勝国アメリカの対ヨーロッパ文化の道具として案出されたそれらを単純にドーッと受け入れていたに過ぎぬ。

グラフィックデザイナーは技術的デザイン例えば建築デザインの世界とは異なり、言ってしまえば感覚の特異さ、鋭さだけがその資質の大方を規定する。感覚が悪ければ、ただのデクの棒、すなわち並なゴミに過ぎぬのである。

突出した才質として横尾忠則、田中一光、粟津潔がいた。横尾忠則は後年画家宣言をして、グラフィックデザインの世界から脱出した。脱出せねば、商業の力に摩耗されざるを得ぬことを良く直観していた。その才質を要約すればアメリカンPOPARTと日本の前近代の土俗とを混淆させるという、日本の近代の宿命にダイレクトにすなわち、破廉恥に結びついた歴史的無意識のなせる技であった。と、喝破したのは三島由紀夫であった。この批評は鋭い。田中一光も江戸趣味、例えば歌舞伎の絢爛たる装飾美を鋭敏な受容性をもって独自な色彩世界を作り出した。

粟津潔は日本文化の無記名性の裏返しとも言える判コの美に着目した。慧眼であった。

粟津潔がすでに注目していた印鑑の美の独特さにいま一度着目したい。大工・市根井立志の作品の記名性にそれを一役買わせたらどうだろうか。

市根井さんに手頃な大きさの自身の印鑑らしきを自作していただき、それを彩色作業と共に押印することで、面白い効果が得られるのではあるまいか。押印はネームばかりではなく、花や日月星、風や水の流れにまで及ぶモノを用意してもらい、それをもって市根井作品の代名詞となり得るようなモノを考えてもらいたい。 

「飾りのついた家」組合 日誌 23

[2013/10/26]

離床してすぐに組合のサイトをのぞく。「飾りのついた家」組合作品一覧が打合わせ通りに更新されている。作品番号35〜37の、渡邊大志さんの彩色の仕事が予想した通りに良くない。それでこの日誌を書き始めた。書きながら彩色についての打合わせとするつもりだからだ。

「飾りのついた家」組合日誌21にすでに述べた。「ポストモダーンな軽みに、その平板さに陥りかねぬのである」と。

今朝ウェブサイトで眺めている市根井立志+渡邊大志の作品三点の彩色の具合はまさにその通りになっていしまっている。工夫してやり直すべきだろう。

渡邊大志は知的な人間である。が、その知的な状態が言文一致ではなく、二つに分離してしまっている。恐らく日誌21は組合員であるから、知的好奇心も弱くはないから読んでくれているのだろう。でも読んだことが、それこそポストモダーンな軽みに、その平板さに陥没してしまっている。読む事が身体の奥深くに響いているのである。それでなければかくの如き平板な誤りをなすわけもない。

で、渡邊大志さんの努力はとも角として、この彩色作業をわたくしは大いに気に入らない。やり直して欲しいと言っている。

どうすれば良いか。

塗られた色を消すわけにはゆかぬ。その労は犯すべきではない。塗られてしまった色を利用するしかないのである。

これを下塗りとしたらどうか。

入江長八(伊豆の長八)の色使いの基調は職人のそれであった。つまりキッチュであり大衆受けを旨としていた。それでなければ渡り職人としての人気も支持も得られるわけもない。しかし、松崎町岩科學校の資料を良く見ると、長八さんは驚くべき、世俗を超えたモダーンさ、つまりはエキゾチシズムを一部体現していた。渡邊大志さんには度々、映像を見せ、語り伝えた如くに岩科學校2階の飾り棚における彩色は実に見事なものであった。少し濃いめの緑に銀色の小さな定型パターンが繰り返し刷り込まれているのである。これは手押し版木=スタンプの手法によるものである。長八さんが生きた江戸末は日本美術の爛熟期であった。特に版画技術は世界にも認められる程の独自性を持っていた。

入江長八は当然、江戸に於いてその版画、版木技術に接したであろう。それですぐに取り入れたのである。知識を知識として棚上げせずに、自分でもやってみた。それが岩科學校の2階の、飾り棚の彩色意匠である。

これを学んだら良い。

小さな版木を作るのは大変だから、マッチ棒を利用するとか、様々なキャップ類を利用するとか、今の大量消費時代にはゴミの如きが溢れ返っているのは、これも又御承知の通りではある。

都市学会の雑誌都市史の某号には葛飾北斎の有名な版画とヨーロッパ絵画の描図の類似性さえ説かれていた。ウィリアム・モリスの装飾版画を入江長八が知っていた可能性だってなくはないだろう。

入江長八の装飾モノは、その形態が鋭く鋭角的な群の連続であるに特色がある。モリスの植物装飾がオーガニックな曲線を主体とするに際立って対比的なのである。

エットーレ・ソットサスの家具や、その彩色能力はポストモダーンな戯れ、表面のそれの典型ではあるだろう。しかし決して今でもあなどれぬ何者かがある。イタリアの視覚芸術の歴史の厚みをさえ感じさせるモノがある。そのようにわたくしは痛感する。ソットサスの戯れは自在である。が、しかしその色使いには深い本能の如きが潜んでいるように思うのだ。恐らく、それを真似ても猿真似の域を出まい。

入江長八の岩絵の具、顔料に関する収集欲、知識欲は並大抵のものではなかった。フェルメールの有名なブルーにも勝らざるとも、決して劣らぬモノがあったと考えたい。

「飾りのついた家」組合 日誌 22

[2013/10/25]

8時過組合員の方々に日課としている連絡を差し上げる。謂わゆる頭脳労働者と言うべきか、手足の動かぬ愚物とも言うのか建築設計業の方々はこの時間帯はあんまり電話には出ない人が多い。仕事場への移動中か、まだ眠っているのやも知れぬ。一方、職人さんや芸術家、つまり実際に手を動かし実物を制作している方々の朝は早い。恐らく皆さんすでに制作に従事しているか、準備の最中であろう。

かく言うわたくしはと言えば、わたくしは組合の連絡員みたいな者である。だから、かくの如く早朝から、かなり微細にわたる連絡をしまくっている。メールは使わない。肉声に一番近い電話をする。メールでは伝えられぬ類の、時にせっかちな息遣いで仕事急いで下さいよのニュアンスを伝えたり、相手の健康状態やらを推しはかったりもする。

例えば

市根井さん、仕事の具合はどうですか?」

「300mmのクサビ箱は昨日作って、柿渋も塗って今、乾かしているところです。天気が悪いんで乾きが遅いです」

「300mmの奴の方がプロポーションよいでしょう」

「ええ、200mmの奴より良いと思います」

「もう、視なくてもわかるから写真データを送って下さい」

「大、中、小3つのを送りますか?」

「イヤ、300mmの中の奴を急いで送って下さい。それで次を考えたいと思います」

藤野忠利さんとは

「いかがですか」

「アッ、箱ですね。ひとつ出来ました。これから色を塗るところです」

「箱を縫ってるヒモの色はどうします。それが要(かなめ)のような気がします」

「糸を使います。失敗したら、箱は出来てますからやり直します」

「のぞき穴の穴は遊んで下さい。穴でなくって眼玉でもイイヨ」

「ヘヘーッ」と、嬉しそう。アッ、コレは眼を描いてくるなと知る。

「30日に京都行きますんで、それ迄に3つ共やってしまおうと思います」

「先ず、一つ、糸で縫った箱を写真データ送って下さい」

あんまり沢山の実物が送られてきても、わたくしの頭のキャパシティ(容量)では処理し切れないのである。処理すなわち、次をどうするのかのアイデアである。

渡邊大志さんからも少し遅れて電話が入り、

「色に関しては一度、見てもらってからにしたいと思います」と言うので

「見なくて良いから、すぐサイトにONして下さい。それでオカシイと思ったら、直したらよい。先ずは他人の眼にさらしてみよう」

となる。市根井さんの小物シリーズのサイトへのONは楽しみにしているので、工夫を充二分にして欲しい。今の組合のサイトのカタログ状の作品紹介は、やっぱり少し工夫した方が良い。佐藤健吾さんは市根井さんのセルフポートレイト及び作品歴などの紹介を考えるべきだろう。まだ大工・市根井立志と組合展の企画は少し計り早いだろうが、いずれ近未来にはなさねばならぬだろう。市根井さんの仕事の中には是非共、世田谷村での釘を使わぬ箱=部屋や、これも又、釘を使わなかった階段室の仕事なども入れて欲しい。

それに、勿論、市根井自邸も含まれるのは言うまでもない。アレはペーパーメディアにはまだ出ていないが、組合のサイトではキチンと押し出したいと思う。

「飾りのついた家」組合 日誌 21

[2013/10/24]

10月23日の組合ミーティングは、市根井立志さんとの度重なる電話のやり取りを含めて実に興味深いものであった。

市根井作品を目の前にして、その命名、及び値付け、そしていささかの着色塗装の方法等を議論した。値段の決定と、作品の命名は作品自体の力と同様に重要である。特にこの組合の場合には。

途中は省くが作品4点の命名はそれぞれ、スフィンクス、草迷宮、シナゴーグ、そして「本の卵(仮称)」となった。「本の卵」は佐藤研吾のアイデアであるが、まだこなれていなく、それ故仮称とした。この作品は二つの大工小品が対になって一つの箱状になるものだ。二つに割れるとそれぞれが小さな本棚になる。木が割れて、本を入れる容器になる。それで卵という言葉が出現したのだろう。「二つの資質」といううまく書けなかった批評があった。組合員の佐藤、渡邊の才質そのモノを批評してみたいと考えて試みたが、やはりうまくゆかなかった。何故ならば余りにもダイレクトに本人の才質を論ずるのはそれぞれの存在の意味を侵しかねぬと気付いたからだ。

若い人材は傷つきやすいモノなのだ。傷つけて良いと思える程の強さは、時に当人達の無神経やわたくし自身の厚顔にもつながりかねぬ。それで中断した。しかし、ミーティングはいつもその批評の連続なのである。わたくしは双方の力を推し測り続け、必然として自分の力をも相対化し続ける。それ故にミーティングは時に戦いの場でもある。それでなくては打合せる意味もない。打合せとはまさに打ちつけ、ブチ合わせるにつながる。

市根井作品はどれも建築を想わせる風味を持つ。それが特色だ。市根井さんの本来の建築的才質を垣間見せるのだ。この作品は本来一つ一つ別個のモノとして考えられていた。ところがテーブルに並べて遊んでいるうちに二つ合体させてみると全く異なるモノに変ることを発見した。遊びの役得である。創作者にとって必須のこれが遊びである。その偶然らしきはフッと現れるのが常なのだけれど、遊びの自由さが手繰り寄せるモノでもあろう。二つ合体させてみると、それは門のようでもあり、二つ密着させるとスケールがアッという間に縮小して本棚の如くになる。これは面白くって時を忘れた。

佐藤研吾のアイデアは桃から生まれた桃太郎の説話やら、ロジェ・カイヨワの『石が書く』にも通ずるモノである。西欧神話世界には、宇宙卵の観念が在り、神話そのモノを生み出す人間の想像力そのものが形になろうとする力そのモノの表象であり続けた。

一片の木片は世界樹にも通じるという人間の想像力の凶暴性をなぞるものでもある。「本の卵」は木の精、すなわち宇宙卵へとつながるものであり、この命名は創作にもつながろう。佐藤研吾がこの柔らかさを何時まで保持し続けられるか注視したい。

想い起せばこの命名はインド・ラダック地方のアルチ村での彼のストゥパのスケッチ群、そしてまだ成果を得てはいないスタディ模型へと遡行できるのだ。「本の卵」の命名はストゥパが割れる模型制作へとつながるのである。市根井作品のうちにそれをまだ充分とは言えぬが視てとったところが実に良い。

自作のストゥパが割れる模型と「本の卵」の命名をつなげる思考をされたしと切に願う。この先にはブエノス・アイレス図書館長でもあったJ・L・ボルヘスのほとんど宇宙の極みを視るが如くの仕事があるのだが、わたくしにもそれはまだ存分に書く力はありはしない。ボルヘスの『夢の本』、たった一行の荘子の夢を読まれたし。図書館に迷宮の宇宙を視る想像力は「本の卵」に異常に近いのである。「本の卵」の命名と、アルチ村のストゥパが割れる模型の連関はとても重要だ。書き記しておくべきだろう。

他の3点の命名群はいづれも建築あるいは遺跡群を想わせるモノでもある。いまだに建築に対する強い憧憬が内に在り続けることを暴露してしまっているが、恥じることはない。

うーんと若い頃、ペルセポリスの遺跡に立った事があった。砂漠の中に石柱が不完全な姿で林立し、厚い壁の断片や、有名な獅子の階段などが、悠久の時間の中に建築の力を顕現させていた。砂漠には一条のトルネード(竜巻)が舞い上がり、しばしその動きに視入ったものであった。市根井作品をテーブルの上に並べて見入っていると、細い木の柱やら壁やらに視える小さな群が、ペルセポリスを想い出させた。正確に言えばペルセポリスに視入っていた小さな自分を想い出させたのである。市根井作品の力であろう。

「焼け」と命じたアレキサンダー大王の力の凄惨さもさる事ながら、当時のペルセポリスには極彩色に色どられた木の屋根構造が乗せられていた。市根井作品に彩色を施すことになった佐藤研吾がそんなペルセポリスの彩色復元図くらいは眼にして欲しいものだ。それでなくってはソットサスの

ポストモダーンな軽みに、その平板さに陥りかねぬのである。

割れたストゥパの彩色は良く出来ていたけれど、今度のは相手が木であるから少し考えられたい。

「飾りのついた家」組合 日誌 20

[2013/10/22]

1.

向風学校の安西直紀さんと話した。

彼は今東北地方を巡廻しているようだ。

ベイシーの菅原正二さんとも会ったようだ。

2.

何故、話したかと言えばこの組合の充実の為に身の廻りに在る才質とはチョッと毛色の違う人材が必要かなと思ったからだ。

3.

身の廻りには一直線の行動力を備えた人材はどうやらあまり居ない。

4.

安西直紀さんは典型的な一直線人間である。

時にその一直線振りを危倶せざるを得ない事もある。

が、それはさて置く。

なにしろ思った事、考えついた事をすぐに行動に移せる能力をポジティブに評価したい。

5.

安西直紀さんの諸々の活動と「飾りのついた家」組合の発想はその根本に於いて同一である。

6.

ナンセンス、バカバカしいと思われかねぬとこが同じだ。

7.

安西直紀さんには『睨むんです』というまことにケッタイな本がある。

世界中で、変なポーズをとって、カメラをにらむというだけの写真本である。

8.

親友の坂田明がこれはまさに「バカ本」の見本である、と喝破した本である。

9.

安西直紀さんには、こんな事やったら皆からバカ、マヌケと思われないだろうかの正しい配慮、すなわち小利口な考えは全くない。

10.

バカ臭さが大通りを裸で歩いているのである。

11.

「飾りのついた家」組合のこれからの活動も実にそれに似ているのである。

12.

バカバカしくって、まともにはやってられないのである。

13.

大量生産、大量消費社会の真只中で唯一品生産、手渡しコミュニケーションという、バカシステムをやって見せようというのだから。

しぶとく言えば手渡しコミュニケーション、一回切り生産はこれはライフスタイルとしては芸術の領域なんである。

14.

これはウェブ社会の骨格を表現しようとする突起物であり、敢えて言えば芸術なのである。

芸術はこんな形式を取らざるを得ない、現実が在るのだ。

15.

一直線に結論を述べる。

16.

「飾りのついた家」組合は安西直紀さんの大日本山岳部であるとか、向風学校の類の、あるやなしやも知れぬ諸活動とリンクせねばならない。

17.

先ず手始めは有泉眞一郎さんとの稀少漫画本の販売等に於いて共業化したい。小さいスケールから始めるのが良い。

18.

それに先駆けて、あの稀代のバカ本であった『睨むんです』の再発掘を試みたいものである。

「飾りのついた家」組合 日誌 19

[2013/10/20]

1.

藤野忠利さんに電話する。

「送っていただいたスケッチどうもピンと来ないんですよ」

「……」

「うまく言えないんですが、もう少し自分を消して生かすみたいな事はできないもんですかね」

2.

無理な、しかも無礼を承知で言っている。

何故、こんな事まで74才の芸術家に申し上げているのか?実はそれこそが問題なのである。

3.

「それは難しいです。わたしはこれ迄ズーッとみんなに無視されてやってきましたし……それを合わせろと言うのはとても難しい」

「世間に合わせろと言っているのではありません……ムズカシイナ」

4.

組合の事務局内にも藤野忠利さんを知る者は少くない。

皆一様に石山がどうしてあの人にチョッカイかけているのかわからない。

と考えているだろう事くらいは良く知っている。

それを知らぬ程バカではない。

5.

何故だろうかと自問してみる。

何故、この74才の具体派になり損ねたやも知れぬ老芸術家にわたくしは人間関係らしきをこだわり続けるのだろうか。

6.

これは書いておかねばならぬと気付いた。大事な事である。

わたくしという人間の骨格にもかかわることだろう。

何をいまさら、ささいな事を!ではすまされぬ。

7.

それで一日に二つのメモを日誌に記すことにした。アブノーマルであるのは承知の上だ。

でもアブノーマルをあぶり出すノーマルさ、世間の道徳心のようなモノ、あるいは常識の恐ろしさはいささか知っている。山本夏彦の言う正義のいかがわしさとも少し異なる。問題はそこにかかわっているのだけれど。

8.

わたくしだって、藤野忠利さん同様に無視されかねぬ状態は多くあったような気がする。今もそうだ。

わたくしは彼より小利口だから、その場その場でその孤立状態を切り抜けようとはしてきた。でも、69才になり、それにバカバカしくなってしまったのである。

9.

そのバカバカしさの自覚が、わたくしをして74才の老芸術家に無理を承知のアイデアを要求させている。

10.

敬愛する建築家磯崎新の岩波書店の著作集6を読んでいる。

いきなり、磯崎さんの名を出すのは、これも又、バカバカしくなってしまった気持のあらわれである。

11.

大成功した82才の建築家磯崎新の著作から溢れ出ようとしているもの、それは何か。

それは深い処で戦後日本社会と馴染めぬ自分と、馴染まねばと言う俗な知恵ととのせめぎ合いだった、そして今も。……の連続であったのではないか。

12.

藤野忠利さんと磯崎新は恐らく何度か会っている。

藤野忠利さんは画商としては、画家としてよりはしっかりしたところもある人物であったから、仕事を依頼しようとした事もあった。

13.

大阪万博の際には、若い磯崎新にアジられて大阪の暴走族まがいと、お祭り広場でパフォーマンスやれとそそのかされたりもしたのだった。

これは具体派の連中に早くも眼をつけていた磯崎新の眼力でもあったのだが……。

14.

その結果、大阪万博のお祭り広場で具体派の連中は妙なパフォーマンスをやった。

15.

失礼ながら、岡本太郎の太陽の塔と丹下健三の大屋根の下でそれは実にみじめなものであった。

具体派のリーダーであった吉原治良はそのみじめさに気付いていたのだろうか?

16.

藤野忠利さんは、恐らく得意満面で大きなピエロみたいな衣装をまとって、お祭り広場を駆け廻ったのである。

17.

藤野忠利がお祭広場で芸術家というピエロを演じ、演じさせられていた頃、わたくしは大阪万博の諸会場施設の設計やら下請のアルバイトで得たあぶく銭で初の海外旅行に出掛けていた。

隣国の朝鮮半島韓国であった。東京から車で、下関からの関釜フェリーで行った。

18.

東名・名神高速を走った時に高速道路脇にお祭り広場の大屋根の姿が視えた。

アッという間に走り過ぎた。

19.

その時に行った韓国の旅がわたくしの、後のアジア周遊の旅の始まりであった。

20.

恐らく、その頃磯崎新は病院で病にふせっていた。

お祭り広場の功を奏しなかった磯崎新設計のロボットは、実に藤野忠利が演じた前衛芸術家=ピエロとほとんど何変りようもなかったのであった。

21.

藤野忠利は大阪を去り、故郷九州宮崎で子供相手の画塾を始めた。

22.

そんな、それぞれの人間の演劇(ドラマ)があって、その時の流れの果ての「飾りのついた家」組合であり、それはさて置くが藤野忠利さんへの「もうチョッと考えてくれませんか!」の箱の依頼なのである。

23.

浪花節語りを真似れば、「なせばなる。なさねばならぬ何事も」なんである。

24.

わたくしは藤野忠利さんに最後っ屁をブチかましてもらいたい。小さいへでも、うーんと臭い奴を一発かましてもらいたいのである。

芸術家としての矜持を世間様に見せつけてやって欲しい。

わたくしには出来ぬことだから。

25.

と書きながら考えて、藤野忠利さんに電話した。どうしてもこのプロジェクトはやって欲しいと言った。

「考え直してやり抜いて欲しい」とも言った。

わたくしも今度は頑固である。それこそ正直な、本音の頑固さである。

わたくし自身の問題でもある。

「飾りのついた家」組合 日誌 18

[2013/10/20]

1.

藤野忠利さんに電話する。

「送っていただいたスケッチどうもピンと来ないんですよ」

「……」

「うまく言えないんですが、もう少し自分を消して生かすみたいな事はできないもんですかね」

2.

無理な、しかも無礼を承知で言っている。

何故、こんな事まで74才の芸術家に申し上げているのか?実はそれこそが問題なのである。

3.

「それは難しいです。わたしはこれ迄ズーッとみんなに無視されてやってきましたし……それを合わせろと言うのはとても難しい」

「世間に合わせろと言っているのではありません……ムズカシイナ」

4.

組合の事務局内にも藤野忠利さんを知る者は少くない。

皆一様に石山がどうしてあの人にチョッカイかけているのかわからない。

と考えているだろう事くらいは良く知っている。

それを知らぬ程バカではない。

5.

何故だろうかと自問してみる。

何故、この74才の具体派になり損ねたやも知れぬ老芸術家にわたくしは人間関係らしきをこだわり続けるのだろうか。

6.

これは書いておかねばならぬと気付いた。大事な事である。

わたくしという人間の骨格にもかかわることだろう。

何をいまさら、ささいな事を!ではすまされぬ。

7.

それで一日に二つのメモを日誌に記すことにした。アブノーマルであるのは承知の上だ。

でもアブノーマルをあぶり出すノーマルさ、世間の道徳心のようなモノ、あるいは常識の恐ろしさはいささか知っている。山本夏彦の言う正義のいかがわしさとも少し異なる。問題はそこにかかわっているのだけれど。

8.

わたくしだって、藤野忠利さん同様に無視されかねぬ状態は多くあったような気がする。今もそうだ。

わたくしは彼より小利口だから、その場その場でその孤立状態を切り抜けようとはしてきた。でも、69才になり、それにバカバカしくなってしまったのである。

9.

そのバカバカしさの自覚が、わたくしをして74才の老芸術家に無理を承知のアイデアを要求させている。

10.

敬愛する建築家磯崎新の岩波書店の著作集6を読んでいる。

いきなり、磯崎さんの名を出すのは、これも又、バカバカしくなってしまった気持のあらわれである。

11.

大成功した82才の建築家磯崎新の著作から溢れ出ようとしているもの、それは何か。

それは深い処で戦後日本社会と馴染めぬ自分と、馴染まねばと言う俗な知恵ととのせめぎ合いだった、そして今も。……の連続であったのではないか。

12.

藤野忠利さんと磯崎新は恐らく何度か会っている。

藤野忠利さんは画商としては、画家としてよりはしっかりしたところもある人物であったから、仕事を依頼しようとした事もあった。

13.

大阪万博の際には、若い磯崎新にアジられて大阪の暴走族まがいと、お祭り広場でパフォーマンスやれとそそのかされたりもしたのだった。

これは具体派の連中に早くも眼をつけていた磯崎新の眼力でもあったのだが……。

14.

その結果、大阪万博のお祭り広場で具体派の連中は妙なパフォーマンスをやった。

15.

失礼ながら、岡本太郎の太陽の塔と丹下健三の大屋根の下でそれは実にみじめなものであった。

具体派のリーダーであった吉原治良はそのみじめさに気付いていたのだろうか?

16.

藤野忠利さんは、恐らく得意満面で大きなピエロみたいな衣装をまとって、お祭り広場を駆け廻ったのである。

17.

藤野忠利がお祭広場で芸術家というピエロを演じ、演じさせられていた頃、わたくしは大阪万博の諸会場施設の設計やら下請のアルバイトで得たあぶく銭で初の海外旅行に出掛けていた。

隣国の朝鮮半島韓国であった。東京から車で、下関からの関釜フェリーで行った。

18.

東名・名神高速を走った時に高速道路脇にお祭り広場の大屋根の姿が視えた。

アッという間に走り過ぎた。

19.

その時に行った韓国の旅がわたくしの、後のアジア周遊の旅の始まりであった。

20.

恐らく、その頃磯崎新は病院で病にふせっていた。

お祭り広場の功を奏しなかった磯崎新設計のロボットは、実に藤野忠利が演じた前衛芸術家=ピエロとほとんど何変りようもなかったのであった。

21.

藤野忠利は大阪を去り、故郷九州宮崎で子供相手の画塾を始めた。

22.

そんな、それぞれの人間の演劇(ドラマ)があって、その時の流れの果ての「飾りのついた家」組合であり、それはさて置くが藤野忠利さんへの「もうチョッと考えてくれませんか!」の箱の依頼なのである。

23.

浪花節語りを真似れば、「なせばなる。なさねばならぬ何事も」なんである。

24.

わたくしは藤野忠利さんに最後っ屁をブチかましてもらいたい。小さいへでも、うーんと臭い奴を一発かましてもらいたいのである。

芸術家としての矜持を世間様に見せつけてやって欲しい。

わたくしには出来ぬことだから。

25.

と書きながら考えて、藤野忠利さんに電話した。どうしてもこのプロジェクトはやって欲しいと言った。

「考え直してやり抜いて欲しい」とも言った。

わたくしも今度は頑固である。それこそ正直な、本音の頑固さである。

わたくし自身の問題でもある。

「飾りのついた家」組合 日誌 17

[2013/10/19]

1.

有泉眞一郎さんとはヒョンな事から知り合って、アッという間に勝手に友になった。

わたくしの絶版書房アニミズム紀行シリーズを印刷して下さっている。

決して小さな印刷会社ではない。よくこんなに大きな会社が零細出版とも言える個人誌を印刷し続けてくれるなあと不思議である。

2.

恐らくは内容はとも角、絶版書房的姿勢に共感を寄せて下さっているのかと勝手に考えてはいる。

3.

言ってみれば、絶版書房とは実に漫画チックなネーミングである。

4.

売り切り、増刷なしを目指そうとするのだから。

ハナから金は儲けないぞと豪語しているようなものである。

5.

豪語なんて勇壮さはない。

6.

何だか有泉眞一郎さんの漫画趣味に似たところがあるんじゃなかろううか。

7.

妙な漫画への傾倒振りを彼は示す。

作者、およびスタッフのチョッとした間違いや、忘れてしまったりを発見して、それをヒヒヒと冷く笑うのではなく、ホラ、又やっちゃってる、と親愛を込めて笑うのである。

8.

絶版書房の命名は芸術家山口勝弘さんである。

シングルマン山口勝弘さんも、そのライフスタイルは実に興味津々である。

9.

全て途中ははしょるが、実に漫画チックな飛躍の連続だ。

飛行家になりたいという時代錯誤をはじまりに、法科出身の芸術家へ。そしてアヴァンギャルド。つまるところ不動明王として不動の表現者。頭脳は増々明晰きわまるが、身体は極度に疲弊極まる。飛べぬ、動けぬ身ながら「イカロスの飛行」を描き続ける。

10.

これを究極の漫画と言わずして、何処に漫画の未来はあるのか?

と大言壮語して曇天をあおぐ。

11.

この身振りは一向に漫画的でない。古くさい新劇的クサ味である。

12.

知るか、そんな事と笑い捨てる。そして足だけはどんどん歩いていってしまうのが良い。

13.

つまり、話しにはどうしても落し処、あるいは落し穴が必要であるからして、クソと同じに落してみせるが、有泉眞一郎の眼、つまり選択眼は極めて絶版書房的なのである。

14.

ニヒリズムに陥らぬ、 それでも自分自身を含めて笑ってみせる姿勢がある。

15.

恐らくこの鉄人28号3冊にもそんな眼が十二分に働いているのではなかろうかと、大いに期待するのである。

「飾りのついた家」組合 日誌 16

[2013/10/18]

1.

市根井立志さんより早速「箱」のアイデアスケッチいただく。

一本立ちの大工さんらしく(市根井さんはわたくしの職人像の理想だ)素速い。

2.

市根井好みの「クサビ箱」はとても良いと思う。クサビは世田谷村の市根井さんの仕事にも多用されている。

階段室の「落しがけ」の木の壁と共に市根井さんが本来職人としてやりたい事のひとつなのであろう。

その執念らしきにも感心した。

3.

執念と呼んでも眼が座って鋭くとがったものではなく、渡り職人のフットワークの如き軽さがあって好ましい。

4.

我々の「飾りのついた家」組合の形自体も、そんな軽みを持たせたいと考えているから、ライフスタイルも含めて市根井立志さんのスタイルはモデルになるのではないか。

5.

この「クサビ箱」はコンピュータ・サイトにONする時には英文併記で出したい。

外国人にとって日本の伝統的な大工技術は関心が深いことは良く知られる。

それで、いずれ早急に立ち上げたい英文サイトにはこの市根井さんのクサビ箱を第1号にしたらどうだろうか。

6.

以前に「生垣」の連載を始めて、例によって中途半端に途切れた。それはそれで実力なのであるから仕方ないけれど世田谷の志村棟梁の親戚に志村植木職がいるのを思い出した。志村植木店に「生垣」を是非共、サイト上に出店していただこうと思い付いた。

7.

それで志村造園に電話した。世田谷の植木屋さんである。小さな生垣なら出来ると言うので、早速作った生垣の写真を送っていただくことにした。

その先はまだわからない。

8.

市根井立志さんに連絡する。「「クサビ箱」とっても良いね、大きさに留意せられたい」

「小、中、大ですぐにやってみましょう」

9.

藤野忠利より「箱」のアイデア、FAXで送られてくる。

「皆小さい箱ばかりで藤野さんらしさがないようです。もう少し、大きいモノを考えて下さい」

「……ムム」

「これでは工芸品ですよ。もっと自由にやって下さい」

「わかりました」

「飾りのついた家」組合 日誌 15

[2013/10/17]

1.

買っていただいた作品群のうち、わたくしの製作したものやらに、添えるドローイングの記録を何処迄克明にするか想い悩む。スタッフの労を想えば余計かも知れぬ作業は発生させたくないけれど、小品とは言えドローイングも作品であるから、大事にしたい。つまり大事に手渡したいのである。

2.

渡せば手許には失くなる。しかしわたくしの記憶には残る。

その記憶こそが非力なわたくしの財産でもある。

3.

具体派最若年とは言っても74才だったかな藤野忠利に椅子やらテーブル、あるいは状差し手物入れの箱などの製作を依頼してみようかと考えつく。

4.

宝石箱とは言わぬ。子供の頃のメンコやベーゴマ他のガキの宝物類を隠し持っていた小さな箱のようなものを作ってもらったら面白いかも知れぬ。

5.

昔、建設中の世田谷村の3階にウルフ・プライネスが住み暮らしていた。

彼は日本の木の箱類のコレクターであった。

彼のドイツの実家は家具工場を持つ家具屋だった。

6.

その眼で見て、多種多様な日本の箱類は実に珍しく貴重なモノとしてその眼に写っていたのである。

7.

身の廻りを見廻してみれば、実に多くの箱が眼に入る。

8.

この余剰物として、すでにゴミの如くになっている箱を再生するのは、もしかしたらシリーズとして成立するかも知れない。

9.

善は急げでもある。

8時になったら早速電話してみよう。

イヤ彼はもう充二分に老人であるから、7時半にしてみよう。

「飾りのついた家」組合 日誌 14

[2013/10/16]

1.

昨日10月15日に「大烏」「烏絵馬」(2点)を購入していただいた人々への発送の荷作りをした。

以前、町づくり支援センターでの活動でもこの発送作業が中々に大変なのであった。

2.

でも荷作りは気持ちを込めてやらないといけないのも経験で知っている。

3.

新しい試みとして、石山の古い手描きのドローイングを荷に添えてお送りする事にする。

喜んでいただければ幸いだ。

又、短文の御礼の言葉をそれぞれに書いた。

4.

「烏」が3点、買っていただけたのは大変に幸先が良い。

この3点はわたくしとしては縁起モノへのような気持ちを込めたからだ。

5.

スケッチブックをめくり返してみると、突然烏のスケッチが出現する。スケッチ群の中でも異色過ぎる位に充分異形である。

6.

この3点の烏は石森さん宅の「ヘイ・ギャラリー」に実に数ヶ月野ざらしにした。

勿論、意図的にそうした。

雨や風で作品の素材が変化してくれることを願ったからだ。

7.

メッキを施していないブリキ板は予想以上に錆びてくれて変化してくれた。 烏の眼の色まで色付いてくれたのには驚いた。

8.

今が丁度良い頃合いの錆び具合であった。作ってすぐのピカピカリがきちんと消えてくれて何とも言えぬ色合いになった。

9.

石森さん宅の竹に吊るしたりしていたが、その竹林ともうまく馴染んでくれた。

でもそろそろ室内に置いて、いささか優しく飼ってみてくださると良いと考えていたので、それぞれの方の室に入るであろうからとても嬉しい。

烏共も満足しているのではないだろうか。

10.

添えてお送りするドローイングもいささか今の時とはタイムスリップしたものである。

6年前の作品である。

それぞれアメリカのダラス空港、メキシコのグアダラハラ、そして東京で描いた。それぞれの方々に勝手ながらわたくしの気持ちを合わせるように組み合わせを考えた。

11.

それぞれの方に作品の荷が届いて、荷をほどき、アレレこんなモノも入っていると、驚いていただければ。と、ただただそれだけの気持ちである。

「飾りのついた家」組合 日誌 13

[2013/10/15]

1.

今日は有泉さんの漫画稀少本の件を少し進めたい。

つげ義春の珍しい本を持っていると言ってた。それだけでは古本屋になってしまうから、何かを付け加えなければならない。

2.

ベイシーの菅原正二さんとも連絡して、JAZZの名盤の有無を確認したい。

3.

かつて『笑う住宅』筑摩書房、で試みた、少建築のモデルを是非共早く、組合の作品リストに付け加えたい。

そうなると古い記録を探るよりも新しいアイデアをつくり出した方が良かろう。

4.

10時半から1時間程「飾りのついた家」組合の事務局ミーティングをしなければならぬ。

各メンバーの意見を聞きたい。

5.

また組合員に今回の展示会の成果などを送信できると良いのだが。

「飾りのついた家」組合 日誌 12

[2013/10/13]

2日間の組合展示で考えたこと。

1.

70万円以上の大作は路上では売れぬかも知れない。でも売ってみたい。

2.

次の「トタンカーメンのみる夢」は会場を2ヶ所にしたい。①は引きつづき石森彰宅のガレージで。道路にはヘイのパネルのみとする。②は世田谷村のガレージ。

3.

次第にステージを世田谷村に移したいとは考えていたけれど、世田谷文学館の方もみてくれたので、文学館の使用も考えてゆきたい。文学館は世田谷村から歩いて5分程である。

4.

コンピューターサイトへの展示とナマの展示を上手に関係づけよう。

5.

有泉さんよりの稀少漫画本の展示の工夫はしなくては。世田谷文学館での有泉さんレクチャーもありかな?

6.

芸術家藤野忠利の再生物語りをなんとか仕組みたい。どうすれば良いか、考える。

7.

トタンカーメンとの組み合わせは「遠目鏡」とする。みる夢とピタリである。

8.

必然的に椅子類の展示が多くなるであろうから、そのセレクトと、募集作業を進めたい。

9.

建築作品(プロジェクト)を加えたい。この仕組には知恵を働かせねばならない。

「飾りのついた家」組合 日誌 11

[2013/10/12]

1.

とても穏やかで良い天気になった。今日は第一回の組合の展示即売会である。どれだけの人が集まってくれるか楽しみにしている。

2.

大半の展示物がすでにインターネット販売で売れてしまっている。オープンの日にSold Out(売り切れ)品が異常に多いという妙なことにもなった。

3.

それで朝、手持ちの藤野忠利の2つの作品を何の手もつけずに展示してみようと思い付いた。ただしこの2点は販売はしない。日誌10に記したように74才のこの具体ジイさんは実ワ、悲劇と喜劇が入り混じった、自身言うところの「アホ派」芸術家である。で、このアホ派のバガボンド画商の表現らしきをしばらく追ってみることにする。追ってみると言っても根はつめない。ゆきあたりバッタリにして疲れたら止めるつもりだ。そうでもしなければ「アホ派」の足についてゆくことは出来ない。

4.

何故、この2点はすぐに売らないかと言えば、この2点はこのまんまでは煮ても焼いても売れないからである。これだけ確信に満ちて売れぬなあ、を直観するのも珍しい。絶対に売れない。市根井立志+佐藤研吾の「いわいゴマ」は安価なので売れるであろう。しかし、この藤野忠利作品2点は絶対に売れない。何故、売れぬのかの理由を考える時間さえ惜しい位にどうにもならないのである。

5.

藤野忠利の作品はそれ位に絶対非売芸術の顔がまえをしている。不気味でもおおらかでもない。ようするに何もない、のである。

6.

画商としては時に欲ボケ状態に陥る時もある。でもそれが見えすいているので実にそれこそ「アホ派」なんである。

7.

で自身の作品らしきは画商としての欲ボケから脱落してしまった残りかすみたいなモノになる。脱落心身、心身脱落である。欲の固まりである禅坊主のイヤ味もありはしない。

8.

そいつを、何とてつもON THE ROADするのである。

9.

この日誌(メモ)は恐らく展示会が終ってしまう月曜日にサイトにONされよう。だから実は何の意味もないメモになってしまっている。なんの宣伝にもなり得ない。でも藤野忠利にはそれで良いのだと思っている。実に正直である。わたくしも「アホ派」がうつりつつある。

「飾りのついた家」組合 日誌 10

[2013/10/11]

1.具体派の堀尾貞治の古いカタログが手許にある。沢山あるが1976年のモノに見入る。1970年の大阪万博に於いて、若い磯崎新にアジられて、どうやら具体派の連中は動いた。丹下健三の大屋根の下、岡本太郎の太陽の塔が見おろす、お祭り広場での事だ。磯崎新のロボットも同様にピエロの如くにうごめいていた。日本の芸術が茶番になり始める幕明けでもあった。アーティストの大半が刈り取られてうごめき、参集した。煙をモクモクと吐いたり、全くピエロの如きファッションの衣を着て、ピエロそのものを演じたりであった。イベント、パフォーマンスが芸術のファッションであった。

2.藤野忠利も派手なファッションの衣を身にまといお祭り広場を駆け廻った。堀尾貞治もパフォーマンスの何処かに居た。

3.磯崎新はその後病院に居た。狂騒が過ぎ、虚脱感の只中であった。藤野忠利は故郷に戻り立命館大学経済学部卒のサラリーマンを捨て子供相手の画塾のオヤジになった。堀尾貞治は働きながらの作品作りを継続させていた。

4.時は流れる。この時の流れる大河はどうやら淀川やら荒川ではない。中国の黄河や長江、あるいはアジアのメコン河くらいのスケールを持つ。持たせたい。

5.2013年現在磯崎新は世界的な建築家となり、岩波書店に建築論集を出版中である。堀尾貞治は藤野の言を借りれば「大ブレイクして、今はベルギーのお金持の家で作品製作中」である。

6.ひとり、藤野忠利は相変わらず故郷を離れずに画塾のオヤジであり、現代っ子ギャラリーの画廊の運営者である。

7.一見ひとり、取り残された風がある。

8.でもわたくしはそうは決して思えない。万博以降、色々と考えを巡らせ磯崎新なりの苦闘はしたろうが。 とも角、磯崎新は大成功した。堀尾貞治だって成功の最中に在る。どうやら近代芸術家には稀な、生きている間に広く画壇やら、業界の賞讃を浴びることになるのは間違いがない。

9.藤野忠利は相も変らず、故郷すなわち家を出ることなく、画塾と画廊のオヤジである。彼はただの敗残者なのであろうか。

10.芸術家になり損ねた、彼は芸術家なのであろうか。芸術家とは、そして日本の芸術家とはそもそも何者であるのか。なろうとしているのか。

11.そう考えてみると、磯崎新は決して芸術家ではあり得ぬ事がすぐに解る。磯崎新は芸術に関してはただの解説者であり、評論家である。創作家ではない。芸術一般に広く深い理解を持った傍観者でもある。 この間のことは本サイト「Xゼミナール、作家論磯崎新(未完)」を参照されたい。

12.堀尾貞治は実ワ、芸術家として独自な境地を拓きつつある。そう言う由縁は彼が何を生活の糧にしていたかはどうでも良くって、彼が一時たりとも自己の表現活動を止めないからである。それ故、作品は膨大な量にのぼる。先年、横浜トリエンナーレ(川俣正ディレクター)にて、堀尾が現場で製作を日々続けるトリエンナーレ会場内の堀尾の掘立て小屋に百円を投げ入れると、堀尾がすぐに何かを描き小屋の下のすき間から送ってよこすというのは、わたくしには面白かった。だから、わたくしも数百円を投じて、堀尾作品を何点も所持していた。でも何処かに忘れてしまった。

13.磯崎新はその会場全体がゴミであると言った。ちなみに磯崎新は当時、横浜トリエンナーレのディレクターの席をけって、その後任に川俣正がすべり込んだ。磯崎新は彼なりの主義主張が通らずにディレクターを辞めた。

14.そんな事情にはは関係なく、堀尾貞治は会場内の百円ショップをやり続けた。わたくしに言わせれば産地直送の、製作者によるアウトノミアの独人芝居であった。

15.そう把える批評家が日本の芸術村には誰一人居なかった。

16.そんな広がりを眺めて、4.の大河の流れを例えたのである。

17.藤野忠利は時に画商としての眼で具体派の連中の製作に同伴、併走した。

18.画商と画家は共存できるわけがない。右手でソロバンを弾き、その左手で画筆をとるのは資本主義化ではジキル博士とハイド氏でもある。画商がどちらであるかは実ワ誰も知らない。大方の画家、芸術家はその双方が小ぢんまりと同居しているからだ。

19.藤野忠利は今、とても面白い。自分で自分を商ってみせる無理を捨てたら面白い。でも彼は今74才だ。今更、故郷も家も捨てられまい。

20.だから、「飾りのついた家」組合では彼の画商を買って出たのである。 組合での藤野忠利の表現活動は面白くなるだろう。しかもその芸術家らしきの表現欲の我にも、表現者として介入しようとしている。

21.わたくし(石山)の立場は右手、左手の両手使いなのであろうか。そうでは無い事くらいは実ワ、自覚している。わたくしはジキル博士のダブルエージェントである。でも、今の市民社会に隠れひそみ馴染んだジキル博士ではない。悪人過ぎて馴染もうともせぬ者ではある。 ユダがキリストを売って得た金と、吉本興業の経営者が芸人を売り買いして得ている金は、いずれにしても大した金ではないし、大した金ではないという点で同じである。あらゆる金の前には正義は一切ない。芸術と同じである。

22.今、画商藤野忠利に組合の値付けリストを送信して意見を聞きたいとは思っているが、ネットに発表したプライスを変更することは無いだろう。上方に価格修正することはしても下方に修正することはまずしない。

「飾りのついた家」組合 日誌 09

[2013/10/10]

1.次のStepの制作は石山修武+藤野忠利+市根井立志になろうか。


2.藤野忠利にはとても面白い児童画の模倣画がある。

彼は子供に芸術らしきを教えたら、ほとんど天才である。

天才だからそれを知らぬ。色々な苦労の末にそこに到達した。

わたくしはその事をおおいに評価したい。評価なんて先生言葉はよろしくない。ほめたたえたい。


3.児童画を模倣した絵画のシリーズはわたくしの手許に多くある。彼がメール・アートとして勝手に送ってきた。


4.それをチョッとイカした多面体に組み上げてみようかと思いついている。思いついて三日経つ。

三日も思い付きが消えねばこれは耐久力がある。


5.多面体はR.B.フラー、イサム・ノグチの先行者がいる。


6.でも子供のお化けの多面体はまだない。 岡本太郎には少しある。

「飾りのついた家」組合 日誌 08

[2013/10/10]

1.最も若い年齢の具体派作家でもある藤野忠利の古い作品にザクリとナイフで手を入れた時には流石に気持がおののいた。


2.若い作家と言っても藤野忠利は74歳である。


3.他のなにがしかの具体派作家の作品は今やブームの頂点にあるやも知れぬ。わたくしは本年具体派の作家達の展示会を東京でキュレーションした。日本国内では彼等の作品は知られてはいても売れない。 売れても小額である。


4.ところが海外では例えば白髪一雄の、足で描いた絵などはすでに億の値段がついてマーケットに出回っている。 今年のニューヨーク、グッゲンハイム美術館の大具体展が具体派の作品の値段をザックリと格上げした。


5.欧米での美術館での値付けはその作家の作品の格付けを決定的に左右する。


6.そして、各美術館の運営委員には必ずコレクターが参加していて、コレクターの意見は美術館世界の美術の取り引きをも決定する。


7.それ故、我々「飾りのついた家」組合の、一部の作品に付けられた値段は当然国際価格でもある。 それは、キュレーターとして組織した国内での具体派展からさめざめと学んだのである。 具体派の作品群が動いたのはほとんど全てが海外のコレクターによってであった。


8.だから国内のコレクターは海外のコレクターとも良く接触してそれぞれの作品の価値を見定められたい。


9.だから10月12日の烏山5丁目の、しかもON The Roadの展示会の様子は一部を同時中継してウェブサイトにもONしたいと考えている。


10.そうしなければ堀尾貞治、藤野忠利と言った具体派の面々、そして実験工房の山口勝弘だって納得しないであろう。あるいは組合の若い人達も。


11.東京世田谷区の街外れの路上だってN.Y.やPARISへと同時に、しかも同等で連なっているのである。


12.トンネルを越えると雪国であったの、川端康成の雪国の時代は遠い。トンネルを越えなくっても、白昼のカンカン照りの路上は電信(コンピューター)によって島国日本の外とすでに連結してしまっている。


13.ここで連結してしまっていると、いささか懐疑的に記す理由はいずれ述べたい。極小の地域のコミュニティ、つまりは村、あるいは近い将来は限界集落ともなるのであろうが、これはとっても大事に愛しむべきものではある。

「飾りのついた家」組合 日誌 07

[2013/10/09]

1.具体派のお二人の作品をガツーンと合体させることを思い付いて、今研究室でWORKが進行している。

堀尾貞治、藤野忠利の作品を制作年代の異なるものを、それぞれぶつけようとしている。

宇宙には星同士の衝突などの事件は恐らく無数にあるのだろう。

地球にも太古巨大隕石が衝突したようだ。その事故が地球に気候変動を起こした。恐竜はそれによって絶滅したとの説もある。

2.芸術家らしい芸術家はつまり星である。宇宙を飛ぶ軌道の定まらぬ小惑星であり、流れ星だ。

3.そう考えると、この二人の芸術家をガチンコさせようとしているアイデアは随分文学的な世界の産物であるやも知れぬ。

考えているご当人つまり、わたくしはいささか視覚芸術の方へ視界を絞り過ぎているきらいがある。

4.反省した。

5.世田谷文学館は「飾りのついた家」組合第一回展示会の会場から極めて近い処にある。

声を掛けて、どなたかに是非いらしていただこう。

「飾りのついた家」組合 日誌 06

[2013/10/07]

中村未歩様

1.組合のサイトに作品を掲示させていただきありがとうございます。幸いにして送信していただいた3点はすべて買い手がつき予約されました。実はあなたとはまだ数回しかお目にかかっておらず、どんなモノを作られているのかも知らず少しばかりの不安もありました。しかし送信していただいた3点は良いと思いました。「南烏山五丁目界隈 拾得ノ記1、2、3」皆良いです。

2.わたくしはうーんと若い頃、あなたも知っている高山建築学校の初期メンバーでした。今の建設サイトがどうなっているかは知りませんが、始まりの頃の参加学生に秋沢健司君がいました。言葉の無い身体派でした。彼が主導して学生たちが「モノリス」なんて俗っぽく呼んだコンクリート、大地型枠プレキャスト版碑が何枚かつくられ、建て起こされました。その風景は何かに記録されていましょうし、あなたも現物は見ているでしょう。秋沢くんはこのプレキャスト板に、その足許近くに周囲で拾った植物の葉を埋め込みました。型枠に葉を貼り付ければそれは容易であった。出来上がったコンクリート板はその葉が埋め込まれ、その痕跡が刻み込まれたので独特なモノとなりました。

3.当時は、例えば木島安史さんの「メロンの家」だったかな、の如くの装飾論的作品もあり、今から思い起こすと日本版アーツ&クラフツみたいな風もあり、面白い芽ではありましたが、やがて消えました。何故なら、装飾が建築に貼りついていたからです。ボテボテとして格好良くなかった。

4.秋沢君の高山建築学校の木の葉が埋め込まれたコンクリート板は格好良かった。何故なら、それがコンクリートに埋め込まれていたから。気取って言えば埋蔵されていたからです。遺物のように。

5.君の「南烏山五丁目界隈1、2、3」も同じモノです。高山建築学校の遺産は実はあの秋沢君の木の葉が埋まったコンクリート板だと、わたくしは思っています。高山建築学校の学生達がモノリスとアレを呼んでいたのは余りかしこくなかったと今にして思います。2001年宇宙の旅のモノリスに皆ギャフンとショックでしたから、モノリスと呼びたかったんでしょう。別の名前で呼んでおけば、その力があれば高山建築学校は別の可能性へと進んでゆけたのに。わたしも非力でした。

6.君の「南烏山五丁目界隈1.2.3」は高山建築学校の遺物でもある秋沢健二君の「木の葉が埋め込まれたコンクリート板」の今風なモノだと理解しました。だから、とても良いです。

7.つまり、記憶が記憶に埋め込まれ続く時間が表現されています。君がこの作品をあの高山建築学校の石板から想い起こしたかどうかは知りません。どちらでも良い。この3点の作品は南烏山5丁目の遺跡のような原っぱから拾得されて作られました。つまりある記憶が埋め込まれている。

8.君の記憶が、わたくしの記憶を呼び起こしたのもとても良い。個人的な記憶の全てはその個人だけのものではありません。それはわたくし達の共有するところのモノなのです。とも角、そんなわけで感心しました。

9.だから頑張って売りにかかりました。それで3点が予約済みとなりました。ささやかな事ではありますが嬉しい事です。この嬉しさも又共有できると良いです。

10.拾いまくって、何かに埋め込み続けるのも作家としたら面白いでしょうけれど、いずれ壁に当るでしょう。でも、壁に当るのも又、全ての人間に共通する真理ですから、当って当然と思う考え方もありましょう。作も、次々作も期待しています。

11.さて本題に入ります。送信していただいた、恐らくは最新作についてです。コオロギらしき虫の死体が埋め込まれた作品。 これについては組合のサイトにはONできません。落葉だって死体じゃないかの理屈はあるでしょう。葉っぱは良くて、虫は何故いけないのか?

12.樹の葉は、特に落葉の葉は死体ではありません。枯葉は時の流れを自身が表現しているモノです。でも虫の死体、それもこの作品のように足がもがれているモノを標本のごとくに固定した作品は、わたくしは近代芸術特有のニヒリズムの表現であると考えます。

13.「飾りのついた家」組合は近代芸術のニヒリズム、アイロニーに対する、一見復古の形式に見せかけた批判でもあります。我々はアートよりも装飾を選びたいと思います。それで、この作品は共有できぬと考えました。単なるとは言いませんが、動物虐待の気味があるという理由ではないのです。イノセントに思われている幼児が本来持つ、残酷さは周知のことです。虫の手足を平気でむしり取ります。だから人間の本性を表現したモノとした良しとする考えもありましょう。

14.しかし、組合はその考えを共有したくない。現代芸術にもつながる、ただの気取った自我の表現であるニヒリズムの振舞いは取らないようにしたい。それ故に「飾りのついた家」組合という組合のネーミングとなりました。そんなわけでこの虫の死体の作品はご自身の収蔵庫に仕舞うか、アートギャラリーにでも出品されたら良いのではないでしょうか。

15.南烏山5丁目、石森彰宅の「ヘイ・ギャラリー」での10月12日からの展示、即売会は大変期待しております。中村未歩さんの作品も我々の作品もアートじゃありませんから美術館の内に保護されねばならぬヤワさひ弱さ、そしてデカダンスを一切持ちません。雨でも嵐でも展示可能です。いわば小さな、小さな建築物の断片であるといいくるめることもできるでしょう。一過性のモノとしてアッと言う間に消えてゆくモノにはしたくありません。

16.あんまり、頑張ったりは好きではないタイプとお見受けしていますが、それでもゆっくり歩くように頑張って下さい。あるいは名前の通りにまだ歩かなくても、ずっとその準備だけはして下さることを祈ります。それでは、12日に会場でお目にかかります。

2013年10月6日 石山修武

「飾りのついた家」組合 日誌 05

[2013/10/01]

色々とあって、と言っても大したことではないのだが、烏山南口商店街の2階にある烏楠で予定していたライブは流れた。

でも、そのすぐ近くの、ネパール・インド料理K.C.HIMAL Enterprise Co.Ltdで11月24日に開催することにした。道筋はつけたので隣りのトトロならぬ向山一夫さんが今後、コンタクトして詳細をつめてくれることになった。

烏楠(からすぐす)から一気にヒマラヤである。

いくらなんでも脈絡がない。

・・・・・・で。

いくらか必死に考えた。

わたくしのプロジェクトの中に「キルティプール計画」がある。

このドローイングが15点弱あるので、ついでと言っては余りにも勿体ないけれど、同時に展覧会も開催してやれと考えついた。

安いドローイングではない。でもヒマラヤだから高くゆこうと決心している。

あとは五月女くんが作ってくれたキルティプールの動画他をこれはいささか安価に売ってみたい。

もう売りたいモノは多いのである。

動画はドローイングを買ってくれた人にプレゼントするのも良いか。明日の会議で決めたい。

又、ときの忘れものギャラリーとの関係も考慮しなくてはならない。独走、独断は禁物であろう。