「飾りのついた家」組合

HOUSE DECORATING GUILD
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「飾りのついた家」組合日誌

2013.11

「森の家」計画、佐藤研吾のドローイングについて 雑感2

[2013/11/27]

2013年11月現在での佐藤研吾のドローイングは全て良い。

コンピュータサイトに発表しているものはいまだ6点にしか過ぎない。

でも、ここ3年弱の時間の中で彼が描いたドローイングはすでに数百点にのぼる。その大半を実見しているが、自然な成行としてその量につくづくと感じ入るばかりだ。

かく言うわたくしだって、日々のとは言わぬが生活の中でするドローイングの量は決して少なくは無い。

残念ながら実社会での建築作品群の実数は歴然として少ないママだ。

しかし、これは現実とわたくしが折り合わぬ事が多いだけであり、あながちわたくしだけの能力の問題であるとは思えない。社会の現実の方にも問題は決して少なくないのである。

それは言っても仕方ないのでさて置く。

小さな旅に時々出掛ける。旅に出るとドローイングとは呼べぬがスケッチらしきの量は、東京に居る時より格段に多くなる。

2013年の初夏のインド、ラダック地方の旅ではほぼ10日間でお互いに50点以上のスケッチを得た。


人間は面白い生物で、ほぼ同じ処で同じようにスケッチを描き始めると次第に自然に競い合うような羽目に陥る。可能な限りにより多くを描こうとするのだ。

そんな事を何日も何日も毎日のように続けていると、スケッチすなわち描く能力も又、結局は量に落ち着くのを知るのである。

しかし、この量についての感想は今ここですることではあるまい。

やはり6点の、コンピュータサイトに発表しているモノについて、感想を述べてみたい。

が、しかし、これらのドローイングの数々を説明したり、解説しようとする事は、実にドローイングの価値そのものを否定するに通じもするのである。批評への誘惑は断ち切らねばならぬ。

この6点のドローイングは佐藤研吾が構想中の、人間が自分でそれぞれの持物としての組立て住宅らしきを持ち運び出来たら面白いし、愉快だの考えを描いたものである。

堅苦しくいえば計画案である。

従来の謂わゆる建築家達が示し続けてきた計画案らしきと画然と異なる点がある。

計画=デザインする物体と人間が等価に一体化されて描かれていることだ。

構想されている物体世界は今のところどうやら全て木による製品である。これは「飾りのついた家」組合の始まりの考えの中心でもある大工さんに、木工職人だけで作れる製品をと言う条件を完全に満たそうとしている。

そしてすでに作られて幾つかが販売されている、小さなクサビ箱と同様に全て木という素材だけで組み立てられる。

つまり一切のJOINT金物は混じる事がない。


恐らくわたくしの予想では「山の家族」と名付けられたドローイングが重要である。片親と子供らしき2人の3名と、そのそれぞれの「森の家」が描かれている。

箱状につくられた家具のようなモノには幾つかの小さなこれも又小さな木製の部品が収納されているのだろう。

3つの収納箱、および中に入った小部材はこの箱家具らしきから取出されて、組立て展開されると小さな家ならぬ小屋になるのではないか。

3人の人間達は皆笑っている。深刻にしかめ顔をしたり、こと更でメランコリーな表情を浮かべてはいない。人間とモノが一体となってモネの睡蓮のように森に浮き沈みしている。青い光が満ちている。

何と言う充足した人間たちであろうか?

恐らくは山の青さを作り出す森の色なんだろう。青い寒色で塗られてはいるが、その青は決して冷たくはない。

このドローイングには一切のアイロニーがのぞいていない。

アイロニーの影はフッ切られているのだ。この感じは実に驚くべきものだ。近代そのものに対する批評的精神が必然的にもたらせてしまうアイロニーの影から実に自由である。そういう歴史の必然、つまり肯定する覚悟を知る。

このドローイングの色彩と描かれたフォルムの群が放つ精霊の如くの光は重要である。


「ヒマラヤの女性」は「山の家族」と対にして眺めたい。

ここには「山の家族」の充足、すなわち生の肯定であるを、いささか更に逸脱するが如きの崇高さが描かれている。

この項つづく

2013年11月27日 石山修武

「森の家」計画、佐藤研吾のドローイングについて 雑感

[2013/11/24]

現在、別稿Xゼミナールで鈴木博之、難波和彦両氏といささかの建築批評を始めたばかりである。

若い建築家の作品評から始めた。先ずは6名程の身近な若い建築家の作品群から始めて、今の時代の中心を担っている人々、そして大家へと作品批評は展開する予定だ。

建築家の場合、作品らしい作品をモノす、つまり作ることができるのが他の表現領域と比べると遅い。音楽家や舞踏家を除いたらであるけれど。

何故ならば実務、実作としての建築設計を学ぶには、そのトレーニング期間がどうやら10年程もかかるものだからだ。建築設計は経験的蓄積がどうしても必要なのだ。

その根本にはその創作に他者が必須であるからだ。

他者つまりは依頼主、クライアント=社会が必要なのだ。

それぞれの才質(才能)に見合ったクライアントに出会う、それが最大級の建築家の才質とも言える。

だから50才前くらいの建築家からの作品批評は、世に妥当な規準ではないかと思われる。それ程並外れた事を始めているわけではない。

しかしである。良い依頼主、パトロンに出会う才質があっても、それが大きな要であるとしても、やっぱり本人の内に在るだろう才質が無ければ、それ迄の事でもある。

しかし、これが40才、50才にまでなってみると仲々に外からは視えぬものなのだ。

他者あってこそ生き得る職業についてしまった人間の大方は内に在るやもしれぬ資質を隠す、あるいは隠そうとするきらいがある。

何故ならその資質はやはり極めて個人的、私的なものであり、時に大いに非社会的な姿形を持つものでもあるからだ。

社会に受容されやすい資質があるとしたら、それは表現者としたら大したモノでは無いと考えてしまったら良い位なものなのだ。

わたくしはそう考えている。

解りやすく説けば、社会に最大級に受容されている、それでも表現者としての建築家は、例えば日建設計の山梨知彦さんであり、隈研吾さんでもある。この建築家達の作品を評するのはだからほぼ社会を批評するに通じるところがある。

その困難にあたる前にしておいた方が良かろうと思う事がある。

山梨知彦さん、隈研吾さんの前に、ほぼ裸形とも思われる才能、資質について考えてみたいと考える。

大人達は充二分に社会化されている。

内に持つギラギラの、あるいはキラリとした才質に衣を着せて、それを隠す術をすでに持つからだ。

経験的に、時に本来の自己の内なるモノは隠しておいた方が良いことをすでに知っている。

裸形の才質に触れてみたいと思う。自分でも創作者でありたいと願う者の必然である。依頼主=社会と言う他者の現実とは異なる、個人の中に在るに違いない才質を間近にしてみたい。

それで、まだ20才代半ばのそれでもすでに建築家と呼んで良かろう才質の持主だと思う、佐藤研吾のプロジェクト、そしてドローイングについての批評を試みる。

この項つづく

2013年11月24日 石山修武

「飾りのついた家」組合 日誌 34

[2013/11/18]

「森の家」Ⅱ

仏師は木を彫り刻むに、その木の中に仏の姿を視るという類の話しが少なからずある。そんな事はあるまいと疑う前に仏師の頭脳の中をのぞく努力はしてみたい。勿論、木の中に仏の姿形が埋もれていることはない。仏師のこれから木を刻んで仏像を掘り出さねばならぬという強迫観念がそう言わしめているだけだ。又、日本的名人上手の制作に対する姿勢あるいは依り処とも言うべき、自身の才質に対する、非西欧的な方法なき方法、無意識に放任された自然主義らしきを表している。ここで言う自然主義とは人間主体の制作力に対しての自然の模倣、あるいは帰依とも呼ぶべき宗教的観念に近いものでもある。

しかしながらそれは無意識下の不十分な自由、すなわちでたらめだとばかり言い切れるものでもない。少なくとも切り刻む木に対面してその大自然の断片に、己らのある種の観念を投影しようとしているのは確かである。

果してルネサンスの巨匠ミケランジェロはそのピエタを大理石から刻み出すにあたり、その図像形象が大理石の内に埋もれていると想念したであろうか。大理石の石という素材自体の個別な性格の中に聖母マリアと死したキリストの図像を幻視しただろうか。

やはり、否である。

ミケランジェロは自身の観念の姿を強く想い描き、保持しつつ大理石という物言わぬ物質を客体として彫り刻み磨いたのである。

鎌倉彫刻のマイスターとも思われる快慶はミケランジェロに決して劣らぬ技術をもって、しかし木に対面した。その宗教的観念ならぬ写真性はミケランジェロ同様に人間の身体に対する怜悧な観察力によってもたらされたものである。

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快慶は運慶と並び鎌倉時代に制作活動を繰り広げた。生没年は不祥である。運慶は12世紀半ば頃の生れで、没年は貞応2年12月11日、1224年1月3日である。共に鎌倉時代に活躍した。生年が不明なのは当時の仏師、すなわち仏像制作者が制作物への記名欲、すなわち作者としての意識が薄く工匠等の一員として歴史に扱われていたからだ。快慶はそれでも当時の仏師としては例外的に多くの作品に記銘しているが、それが作者としての自意識からなのか、それとも仏への帰依を祈る気持からなのかは定かではない。

共に多くの仏像を残しているが、東大寺金剛力士像が最も多くの人に有名である。

ミケランジェロ・ブオナローティはイタリアやルネサンス盛期を代表する彫刻家、画家、建築家である。生誕は1475年3月6日、死去は1564年2月18日である。運慶、快慶とはおおよそ340年の年月のへだたりを経て、西欧の芸術の中心と、東洋の離れ島との距離を持ちながら遅れて生きた、これは明らかに西欧美術の歴史のカテゴリーに属する芸術家である。

鎌倉時代を経て戦国時代そして織田信長によりほぼ日本が統一国家としての姿を現し始めた安土桃山時代に宣教師達の到来を受けて彼等の口から、例えば信長はサン・ピエトロ寺院の威容を知る事になる。運慶快慶は西欧文化の存在すらも知らなかったろう。フランシスコ・ザビエルやフロイスをはじめとする宣教師達は西欧に於いてもとても優れた知性そして強い精神と関係の持主であったと言われる。が、しかしサン・ピエトロ寺院のミケランジェロの仕事の内容迄も信長に伝えたのかどうかは解らない。ほとんど唯一の西欧文化情報の伝達者であった宣教師であっても彫刻や絵画の自立的価値等には無関心であったのではなかろうか。それ故に相対的な西欧の彫刻家と日本の仏師の創作の原動力であったろう信仰心に近い宗教的諸観念を比較するのは、今のところは難しい。しかしながらいずれ解明しなくてはならぬ問題であろう。特にイコノロジーと芸術表現造型の関連世界においてはなによりも重い問題である。

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古代より列島には実に多くの外国人が海を越えて入っていた。朝鮮半島から、中国大陸から、そして海のシルクロードを経て東南アジア、インド、ペルシャ、ミクロネシア諸島からも。

その多くが都々の宗教的儀式に必須な衣裳、小道具などの装飾品作りの工匠達であり、その物流商、すなわち貿易商人達であった。奈良正倉院の収蔵品の風景とも呼びたいモノの数々はそれを良く物語っていよう。仏師も多く到来した。建築の工匠達の多くが木造建築の工匠達であった。それと関連して使用する、あるいは製作対象を表現するマテリアルとしては多くの木に関する工匠、職人達が来訪した。何故なら木は石や鉄、銅等と比較すれば重量が軽く運搬が容易であったからだ。石や金属は木や布と比較すれば圧倒的に重い。運ぶのに困難が伴う。仏像や諸々の儀式に必要な道具を作るのにはモデルがあると容易になせる。モデルを模せば良いからである。それで古代から中世に迄いたる数多くの製品モデルの多くは本や布が主となった。そして工匠、職人達もそれを扱う種族の人々が主となって列島に到来したのである。モデルをも持ち込み続けたのである。仏像や彫刻の類はその最たるモノであった。実に多くの木彫品、木製品が列島には模造のモデルとして持ち込まれたのである。石や大きな金属製品は多くは避けられたであろう。繰り返すが、それは重量があり海を渡って運ぶのが困難であったからだ。

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飛鳥の蘇我馬子の墓とも言われる石舞台にたたずみ、小林秀雄は感想を述べた。大和に大陸から木造の工匠集団ばかりでなく、大量に石の工匠達が海を越えて移動してきていたなら、大和地方の風景は今とは全く違う、石による堂々たる記念建造物が群立していたのではないかと。しかし、大がかりに移動する人間は大胆であると同時に細心で用意周到な種族でもあった。そうでなければ海を越えての移動を合目的に成すことも不可能だからである。

木工集団が主となったのは厳然たる事実からであった。木が軽く、運ぶのに容易であったから。人間達の移動には必ず物質が附帯する。移動の大小を問わず、旅は軽装装備が有利なのだ。石は何かを作るサンプルとしても余りに重い。そして模造にはモデルが必要ではあった。

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石舞台の重い石迄引っ張り出しての言になってしまった。言わぬ迄もないと考えられるかも知れぬ。が、しかし、「飾りのついた家」組合のモノ作りには重量に関する思考はとても大事である。再確認するが、組合の仕事の重要なポイントは重量である。インターネットの情報は一切の重量を持たぬ。それがあらゆる通信の特色でもある。

しかし、ありとあらゆる物体は重量を持たざるを得ない。そしてわたし達の商品でもある作品ははっきりとした物体であり全て重量を持つ。その物体をわたくし達は運ばねばならない。それを求めて下さる皆さんの手元にである。重量は必然的に大きさに比例せざるを得ない。それだから、「飾りのついた家」組合の製品は小型、軽量を旨とすることになる。

「森の家」も小さく、軽い事を目指すことになる。

2013年11月16日 石山修武

「ヒマラヤの女性」佐藤研吾、2013.11.08、
pencil,watercolor,paper,380×540mm

「飾りのついた家」組合 日誌 33

[2013/11/18]

「森の家」

1.

第一期と区切りをつけたい組合活動の大事な計画である。家と名乗る以上これは常識的には内に人間の生活が在るべきものだ。内に人間の生活があれば、その身近に何らかの人間の生を少しはきらめかせるべき飾りのようなモノや、絵画、彫刻らしきもあってしかるべきだろう。芸術、芸能の類はそれでしかる。人間は良く生きるに、それ等、わたくしが飾りものと言いたい種族のモノ達を必要とする。ガランと空虚な部屋という名の機能だけでは決して良く生きることが出来ぬ。あるいは別の言い方をすれば空虚の中に生き得る程に強い生物ではない。

昔R.B.フラーのドーム理論に成程と感じ入った時期があった。感じ入ればすぐ行動に移したくなる若さもあった。それでフラー理論のアメリカ大衆文化的マニュアル本とも言うべき、シェルター誌の世界に属する、『ドームクックブック』をサンフランシスコの本屋で見つけた。木造のフラードームの作り方が書かれていた。フラードームの要でもある球体をつくる下地としての線材同士のジョイント(接合部)まで書かれていた。しかも生活に身近なローテクの形式の世界の中で。水道管を切って、スチールテープで結びつければ良いとあった。

渥美半島の知り合いが家を増築したいの話しがあった。これ幸いとフラーの木造ドーム版をおすすめした。2つにつなげた木造の球体ができた。雨が降ると案の定雨がもった。そうか、アメリカのアリゾナだったかの砂漠に建てられたドロップシティの廃材ドームなどは雨の降らない半砂漠地帯に建てられていたなと単純な気候の事などに思い当った。思い当っても、すでに後の祭りである。シェルター誌であったか、ホールアースカタログ関連の流通事業をやっていたホールアースマーケットに手紙を書いた。

「マニュアル通りに作ったら雨がもるぞ」

と抗議したら、送った手紙の裏を利用して、

「雨を楽しみなさい」

と返信があった。

気候だけでなく、風土文化が違うなコイツ等はと痛感した。何とか雨漏りはとめたが、球の中では四角い家具が入りませんとクライアントから苦情も言われた。そうかフラーは球体の中には人間の生活に必要であろう四角いモノが多い家具のことは全然考えていなかったのを知ったのである。

人間は球体の内にだけ棲み暮せる程に、強い生物ではない。純粋幾何学、あるいは数学的理念の内にくるまれて安心する程の高等な、あるいは単純でもある抽象的精神を所有するのは困難な生物なのであるとの考えに辿り着いた。それから間もなく日本の文化も、アメリカ的カタログ文化の直接的な影響を無意識のうちに脱した。無意識というのはその力の強大さの意味など誰も考えようとはしなかったから敢えて言う。しかし、このアメリカ的カタログ文化はコンピューターが主役の座を占めた今に、より強く敷延しているのだが、それはさて置く。

我々の「飾りのついた家」組合の活動方法も又、カタログ文化の一変種なのであるが、それでも確固として存在する意味については考えを深めつつ報告し続けたい。

それからしばらくして日本の大衆文化の一端に「小屋ブーム」が起きた。これはいかにもな日本版シェルター誌傾向なのだが、それを批判することはしない。日本には数少ない、仲々の育てば面白い芽のひとつだった。

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2.

「飾りのついた家」組合の、私的ではあるがそれなりの生まれた理由、すなわち基盤はざっとそんな小さな歴史の流れの内に在る。

「森の家」

言うまでもなく、H.デービット・ソローの『ウォールデン森の生活』に著しく影響されている。わたくしはアメリカとの戦争に敗けてすぐに生まれた。だから小さな頃からアメリカ文化化の流れの中にどっぷりとあった。恐らく今でも在るのだろう。それは歴史の、イヤな言葉ではあるが宿命である。

しかしH.D.ソローの思想はベトナム戦争以前の良きアメリカの精髄であった。つまりは西へ西へのフロンティアを求めた開拓者精神の中核でもある。良い考えを継承するに民族、国家の差異はそれほどの問題ではない。深い文化的な問題は残り続けるが、それを考え込んでいては行動に移れない。行動といっても三島由紀夫のように文化防衛論を唱えて自衛隊に乱入切腹するという行動ばかりが華ではあるまい。あの行動はありとあらゆる戦後日本の知識人、言論人のほとんどがコケにはした。歴然とコケにはしたが、それ以上にでも以下でも無かったのである。我々は、あるいは少なくともわたくしはもっと臆病にささいな事をしてみたいのである。

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「森の家」計画は「飾りのついた家」組合という、そんな些細な組合活動の最初に配布されるべき重要な計画である。

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この計画は以上述べた如くにH.D.ソローのウォールデン森の小屋作づくりの考えをベースにしている。しかし、それだけでは余りにピュアー・アメリカンである。それで松浦武四郎の一畳敷を、そのベースに突き込んだ。基礎はソローで上の構造らしきは松浦武四郎である。

松浦武四郎はエゾ・北海道の発見者とも言うべき人物である。北海道の命名は武四郎によると言われている。アイヌ民族との密実な交流も深く、アイヌ文化の良き理解者でもあった。これは大事な事だが、先ずは初歩的で解りやすい武四郎の一畳敷について。

松浦武四郎には探険家、測量家の顔とは別に何とも奇妙なコレクター的振舞いがあった。(※①石山修武、中里和人『セルフビルド』交通新聞社、参照)その振舞いの中枢をなしているのが恐らくは史上最小限の建築であろう一畳敷の部屋=小屋の木材、木片を中心とした部材集めの方法的思考であった。

松浦武四郎の一畳敷の部品とも言うべき木片群の大半が日本中の名所旧跡とも呼ぶべきよく知られた建築物を構成していた断片からなっていたのである。つまり、武四郎の最小限住宅は武四郎にとっては情報の建築であり、同時に彼独特な日本地図でもあった。彼は一畳敷に居ながらにして広大な日本の名所名物を旅することができた。触ることすら可能であった。

この武四郎の居ながらにしての時間と空間への涯しないとも言うべき旅を、つまりは情報の旅をある種のモノづくりのモデルにしたいと考えたのだ。

更に言いつのるならば、「森の家」計画の、人間の生活様式をH.D.ソローの森の小屋作りに、更にはそれと設計する者の思考の骨組みを松浦武四郎の一畳敷に求めようとしている。極小建築を論ずるに良くする利休の待庵を嚆矢とする数寄屋の日本伝統とは一線を画しているのである。

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—この項34へとつづく—

2013年11月16日 石山修武

「飾りのついた家」組合 日誌 32

[2013/11/11]

北海道十勝フィールドカフェまで、トラクターに乗って麦畑の上を移動する丹羽太一さん (2003年)

世田谷村日記・ある種族へR151にすでに記した様に、組合作品一覧の中身をしばらく一新することにした。

又、あと10日程でサイトのアドレスを大学のサーバーから切り離してより自由になることも決め実行しつつあるので、サイトの形式も一新することになるだろう。サイトの形式の一新についてはわたくしはほとんど無能である。丹羽太一さんと佐藤研吾さんに任せるしかない。

ここで良い機会なので我友でもある丹羽太一さんについて少し述べてみたい。それはわたくしの生き方に関しても重要な事でもあるから。10日程後のサーバーは丹羽太一さんの早稲田の自宅のコンピューターに移行することにしたからだ。

これにはいささかの説明を要する。

わたくし共の仕事場は来春から世田谷区の「世田谷村」に移動することになる。最近の世田谷村日記や「飾りのついた家」組合日誌を読んで下さる方々、そして勘の良い人はお気付きであろうが、わたくしの最近の日常生活圏はすでに世田谷村周辺に移動させている。そりゃそうだろう。来春はわたくしも70才になる。なるつもりだ。階段から転げ落ちたり、自動車にぶつかったりしなければ、そして大病さえしなければどうやらそれは可能であろう。しかし身体の力は明らかに低落している。もう飛んだり跳ねたりはできない。じっくりそれこそ十牛図の牛の如くに歩くしかない。

何故、世田谷村ではなくって早稲田の(大学ではない)丹羽太一さんのところのコンピューターを母機にするのか?それは丹羽太一さんが車椅子の身体だからだ。自力では立つことも、歩くことも出来ぬ。詳細は省く。そういう辛い事は丹羽太一さん自身がすでに卒業しているから。

わたくし共のウェブサイトのテーストらしきは丹羽太一さんのデザインによる。世に多いチャカチャカとにぎやかな感じとは少し計り異なる。それは丹羽太一さんの身体と精神の状態がそうさせているのだろうと考えていて、わたくしもそのテーストに従おうと決めたのであった。丹羽太一さんはそれでも自由のきく右手だけでコンピューターのキーボードを操作する。でも身体自身を移動させるのはいささか困難なのだ。だから世田谷村へ身体を移動させるよりも、丹羽太一さんの身体は丹羽太一さんのコンピューターのある彼の自宅に置くのが理に適っている。で、謂わゆるサーバーは丹羽太一さんのコンピューターに置くことにした。コンピューター時代でなければ不可能な空間の使い方である。このような、ある意味では先走った考えは必ず不都合が生じるものなのも覚悟の上である。不都合が生じたら、生じたで直せば良いのである。理屈通りに実生活は動かせるものではない。

「ニューシネマパラダイス」で盲目になった老人が少年に語りきかせたように。

「人生は映画とはちがうんだ。実に困難なものなのだ」

まあ、そんな事はどうでもではなくって、それはそれで良ろしい。いささかの困難はあっても、やってみたい。

そういう事共を意識した上でサイトの形式を一新するのである。

サーバーも形式も新しくなる。それ故に内容も少し計り、自然にとでも言おうか変る事になる。その内容の変り方の眼玉とでも言うべきが「飾りのついた家」組合の、作品番号44からの幾たりかである。

ここ迄、書いてきてフッと思い付いた。頭の中にか細い光が指したのである。先程いささか揺れた地震の力もあっての事かも知れない。

「飾りのついた家」組合の主要メンバーに芸術家山口勝弘先生がいる。先生と呼ばれる程の馬鹿は無しの先生ではなくって、心底先生と呼びたい人物である。山口勝弘先生も又、丹羽太一さん同様に重度身障者であり、車椅子が手放せぬ身ではある。わたくしは敬して「不動明王」と勝手に呼んでいる。この間の事は間もなく出版される絶版書房『アニミズム紀行8』に詳しい。一読されたい。

そう言えば絶版書房の命名は山口勝弘先生ゆずりのものではあった。いずれ記しておかねばならぬ事ではあるが今は通り過ぎたい。

山口勝弘先生は唯一自由な右手ひとつで、今でも作品を作り続けている。わたくしは、その姿に勝手に後光が射すのを視たりもする。これが創作者の尊厳そのものだと考え込むのである。

山口勝弘先生に出来て丹羽太一さんに出来ぬことがあろうか……と思いついたのである。わたくしのサイトに時にふれONしている山口勝弘先生からの便りは実に素晴しい。右手だけで書いて下さるので、時に読み取りにくい。がしかし、それは古代エジプトの象形文字の如くに先生のイマジネーションそのものが乗り移ったかの如くに視えたりもする。

この言葉、つまりは文字をボールペンではなくって、筆で描いてくだされば、これは見事な新種の作品類にもなり得ようと思ったりする。

が、しかし最近作の「イカロス」の飛行シリーズ等はすでにそれがより抽象化されて出現したモノであるやも知れぬ。まだ良くは解らない。先生の自由が残された右手と言えども、先生の涯しなく飛行するイマジネーションを表現するには実に不自由であるとしなければならぬのか。点描法の点がすこおしウズウズとのびたような、手の動きそのものの肉体的うずきのようなストロークは、これは記号ではない。変な意味らしきをまとわせようともしない。でもこれは肉体の一部としての手の、何かの卵ではないか。だからこそ古代象形文字らしきを想わせるのである。かくの如くの先生の作品群を見つめていると何か、人間の肉体の不自由の先にあるそれでも自由らしきを垣間見るような気持になる。

丹羽太一さんに依頼したい。「飾りのついた家」組合、作品番号44に予定している向山一夫さんからの「ブドウ畑」の映像を丹羽太一さんテイストで「こして」もらえないだろうか。デフォルメするのではなくって、少し震えるような身体に属する感性で、ブドウ畑の姿を、君の言う「浅瀬のせせらぎのような」その水の表面に反射する光の淡いキラメキのように、コンピューターを右手だけで操作して、脱力化してはくれまいか。

是非とも視てみたい。よろしく頼みます。

2013年11月10日 石山修武

「飾りのついた家」組合 日誌 31

[2013/11/02]

「作品番号43.平成鋳偶女性像について」

石山篤さんの作品である。わたくしはこの女性像と世田谷美術館区民ギャラリーでお目にかかった。

石山篤さんのアルミ鋳造物は独特の存在感をあたりに振りまく。強い存在感があり、今風の無色透明振りとはかなり異なる。土偶や縄文土器の美をそれこそ再発見した岡本太郎の影響がかなり強い。今どき太郎さんの影響を率直に表明する造形家、作家はとても珍しい。今でも岡本太郎は日本美術界のタブーのひとつであり続けているから。我々の年代のひとつの特徴かも知れない。そんな意味である種の歴史の繰り返しを感じる。

それ位に岡本太郎の存在の力は大きかった。

大衆的前衛の存在形式そのものが大きかった。今で言えば横尾忠則さんだろうが、横尾さんよりはるかに明晰で巨大であった。その思想とも言うべきは。

と言うよりも横尾忠則さんは器用人であるが岡本太郎は不器用な手付き、筆振りであり、その不器用さが日本の伝統的な美術=工芸の世界と大きな違和感そのものがあった。横尾忠則さんの画風の根は要するに真似である。洒落て言えば模倣だ。

いともやすやすく何でも真似することができるのだ。

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岡本太郎はストレートに天才ピカソに憧れた。

ピカソになりたかったのだ。でもピカソ程の筆使いの技倆がなかった。

それ位の事は意識家としての芸術家は良く知る者である。石山篤さんはついこの前まで有名なインダストリアルデザイナーであった。

わたくしが中途までその作家論を書き進めて、中途にしたまんまの栄久庵憲司ひきいるGKのオートバイ部門の中枢であった。

ヤマハのモーターバイクを多く手がけた。それが評価されて織部賞を授与されている。

ヤマハのモーターバイクは一つのタイプが数万、数十万台のスケールで生産される。

そのオートバイの型はアルミ鋳造、インジェクションによって作られる。

だからGKダイナミクスの社長でもあった石山篤さんはアルミ他の鋳造には手慣れており、知り抜いてもいるだろう。

何万台を鋳抜いてゆく型の製造については良く効く眼と手を持っているだろう。

でも石山篤さんは、年を取ってGKを退職した時に工業デザインの仕事の継続を望まなかった。

それとは正反対の道、すなわちかくの如くの鋳造女性像の制作に歩を進めたのである。

モーターバイクのような社会的産物とも言えるモノから出来るだけ遠くに行きたいと願った。

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そんないきさつ、つまり石山篤さんの小史を知ると、この古代女性像らしきを頭に描きながらのアルミ鋳造ブツがより深く視えるモノになるだろう。

美術、あるいは創作の自律、あるいは自立がかつて良く言われた。

日本の美術批評家の力不足を露呈していた。

美は、決して世界から自立しない。作家個人の世界性の内に在り続ける。つまりは遠廻りな社会的産物でもある。

自分の中に在る表現欲そのものが、これ以上オートバイのデザインを続けさせなかったのやも知れない。

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そう考えてこの鋳偶女性像を手にとり眺めると実に愉快になる。

オートバイの大量生産を知り抜いた者が、量産品を作るに非ざる自分の手の遊びそのものの価値を又、知ったという事だろうか。

イヤイヤ、そうばかりではあるまい。

石山篤さんは大量生産されるモノの価値の彼方に、自分しか作ることが出来ぬ特別一品生産の価値を見ようとしているのである。

その意味で、この作品の意味は我々組合員にとっても大きなものがある。

モーターバイクはあらゆる乗物の中で一番セクシャルな形を持つモノでもある。

人間の身体と一番関係の深い乗物であるかも知れない。

女性のオーガニックなBodyのセクシャリティーの写しであるようにも視える。

そう視ると石山篤さんのアルミ鋳造女性像とモーターバイクとは何処かつながっているのかも知れぬ。

作品らしい作品は必ず現実の世界と関係を持ち、決して自律したり、自立したりあるいは極度な抽象化とは無縁なモノなのではないか。

「飾りのついた家」組合 日誌 30

[2013/11/01]

作品番号12、三球四脚についての愛着らしきを昨日書いた。今朝はまだ作品リストに出していないものについて少し書いてみたい。三球四脚は言ってしまえば機能による類型化を脱落させた奇種である。

全部が全部そうだとは言えぬが、作品リストに収蔵されている物群他の大半はそんな世界のモノ達かも知れない。

しかし、三球四脚は少なくとも人間が座れるモノをなぞろうとはしている。廻りくどい言い方で我ながらイヤだが仕方ない。

考えれば考える程にモノにまつわる言葉も選ばなくてはならないような気分になってくる。

キザなコト言うが、黙して語らぬモノ達への讃歌でもあるから。

ところで早朝の冷気の中で今眺めているのは一冊の作品集である。

『A-PINACOTHECA MUSEUM 美術資料』と名が付いている。

藤野忠利さんから送っていただいたものだ。

わたくしの眼は多くの作品群の中で一つの作品に眼がとまっている。昨日以来のことである。

藤野忠利さんは実ワ、わたくしにメールアートと称して沢山のオブジェクトを送って下さった時期がある。

それが片付けようもなく世田谷村に山積みされている。いつか何とかしなければ悪いナアと想ってはいるけれど、良い知恵は今のところ生まれていない。

でも、正直言って初めて、コレワいいのじゃあないかと思わせる作品にブチ当たった。

映像はまだ出さぬが、制作年2005年の、木とアクリルで作られたマア、オブジェクトである。550mm×370mm×200mmの寸法とある。

箱の中に、上の方からニョキニョキと円錐型のトゲのようなものが沢山生えていて、同様にそれが下の方から上に向けても生えている。箱のなかは青い色光がたゆたっている。

藤野忠利さんの造形物には鋭角が極度に少ない。そんな中でこの2005年の作品は稀なモノであるような気がする。別の作品でこの円錐のトゲ状を使ったモノも記憶しているが、それには全く眼がとまらなかった。

これは藤野忠利作品の中では、ほとんど唯一コレワと思ったモノではある。

偉そうなコトを書いてしまっているのは勿論自覚している。芸術家を前にして、コレだけは良いなんて言っているのだから。

「わたしは、アーティストとしては無視され続けてきました」

が藤野忠利の口グセである。

失礼ながら、そりゃあそうだろうなと思わなくはない。

でも具体派の芸術家のハシクレである。

あり続けている。

その好奇心の持続は実ワ、驚くべきものであるやも知れない。

そして、ようやくそのいかにもな謎めかしての口振りにはなるが、その秘密らしきにわたくしは会っているのかも知れぬ。このトゲトゲしい針の山みたいな箱の中の世界は何であるのか。このトゲトゲしいモノの上から、下からの集中は何なのか?

「わたしは無視され続けてきました」

の廻りの人々の視線なのかも知れないと考えたり。

これは三文小説に良くありがちなレトリックだ。

でも、そう思えて仕方ないのだ。

この箱に本を挟み込んだら壮絶だなあと思い付いた。

トゲトゲしい針の山に本が浮かんでいる光景は仲々のモノであるやも知れぬ。

で、藤野忠利さんにそのアイデアを言ってみようと電話した。

自転車で散歩に出掛けてるとの事であった。

何を想いながら、こんな早朝にひとり自転車を乗り廻しているのであろうか?