石山修武 世田谷村日記

世田谷村スタジオGAYA

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世田谷村・スタジオGAYA日記 50

新しく改良する世田谷村スタジオGAYAは亡くなった母に言われて、父の遺品とも言うべき書物群の書庫として作った。主構造のマストみたいに立てた4本の鉄円柱から床を全て吊りおろしているのだが、地震力に対応する斜材の複雑なところがみな書庫の部分に集中している。斜材の森みたいになっているところに書庫を組み入れたわけだ。それ故、書庫の中に入ると身近に引っ張り力の鉄の細い材を感じる事になる。なかなか説明しても解りにくいであろう。例えば港湾にコンテナヤードがあるが、そこを走り廻っている巨大な自走式クレーンの構造の中に書庫があるようなものである。小さな書庫は繊細ではあるが50mm程の斜材で言わば引き締められている。もうしばらくすると仕事場はその中に移動する。鉄の引っ張り材の中で暮すことになる。鉄のビーンと張りつめた力を身近に感じることになる。これまで暮らした空間とは異世界である。

楽しみにしたい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 49

5月初旬段階のこの計画の特色は

一、中国杭州の高水準な伝統集落の集合の形を下敷きにしている。

二、依頼主グループのヴィジョン、哲学の独特さと、ビジネスマインドを融合させている。
---ビジネス面での特異さは自然の地形と人口の地形としての地下階との合体。

三、河南文化、つまりは竹林の七賢人の思想は河北文化と対称をなす。河北の政治、すなわち遊牧民族的集団の思想に対する、自然の微細精妙との共生を旨とする。

四、新たに、地下階がほぼ一層分増床した。地下、すなわち大地との結びつきがより強まった。このことは地上階の建築の天との結びつきをより一層強めた。
それ故に中国文化本来の天と地の間に細妙な人間が生きるの考えを自然との共生調和の中に示している。

すなわち中国河南文化の中心的性格が色濃く反映された計画案になりつつある。


世田谷村・スタジオGAYA日記 48

9時半の景色、この梅の老木の年は私よりも少し若いくらいか。知らぬ間に身の回りの生きとし生けるモノ、山川草木の類にいたるまで、自分より若いモノたちが多くなっている。
この景色の中ではわたくし奴は長老なのである。今年はこの梅の老木になる梅の実で何かを作ってみようと考えている。

ところが強敵がいるのだ。難敵と呼ぶべきか、長崎屋のオバンが梅の実を虎視眈々と狙っているのだ。
「あの梅の実オクレ」とズバリ言うのだ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 47

天気の良い日には恒例となった井戸端ミーティング。14時迄に中国満覚路上山庄計画、住戸E、Fをほぼ仕上げることになる。わたくし奴は茶館の最上階木造部分のスケッチ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 46

今日からしばらく日記に冒頭に簡潔な抄訳、つまりまとめをつけることにした。昨日安西直紀から、今の原稿用紙、万年筆での手書き形式が手抜きであるとの指摘があったのと、少しばかり日記自体が長くなり過ぎているの自覚があったから。


世田谷村・スタジオGAYA日記 45

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世田谷村・スタジオGAYA日記 7

世田谷村・スタジオGAYA日記 6

世田谷村・スタジオGAYA日記 5

4月3日9時40分向山一夫さんより山梨県富岡敬明の資材を預かる。熊本県知事から山梨県に移り土木工事等に大巧があった。今の、例えば自民党の金丸信等の土木工事好きのルーツではないか。つまり富岡敬明は山梨では偉大な土木的歴史上の人物なのである。その子孫がヴィンテージ農園の社長室長の富岡さんのようだ。ようやく筋道が視えてきた。歴史を知らねばどうにもならんな。富岡さんは富岡ブドウ園もお持ちのようで明治初年の富岡敬明の終の棲家は実に素晴らしいもののようだ。この家を何とか我々の手で扱いたいものだと考えた。11時過我孫子真栄寺馬場昭道さんから連絡あり。インド・ナーランダ大学の計画展を東京、京都の2ヶ所でやったらどうかと元龍谷大学学長上山大竣さんと話したとの事。今日はインド・アーメダバードのドーシ事務所の飯田寿一さんが来室されるので話し合いたい。11時研究室。インド・アーメダバードの飯田さんと打合わせ。中国杭州のプロジェクトを見る。13時上海の趙さん来室。打合わせ始める。17時打合わせ終了とはならず明日に持ち送ることとして夕食へ。ドシャ降りの両の中をTaxiで新大久保駅へ。趙夫人を拾いタイ料理屋へ。やがて飯田さん来る。歓談を続け22時了。23時世田谷村に戻る。

4月4日7時半離床。曇天。今日も中国杭州満覚路上山庄計画の打合わせを続行する一日となる。

山梨の件、じっくり大がかりな構想を作りジワジワとまとめ上げてゆくこととする。

世田谷村・スタジオGAYA日記 4

4月3日6時離床。曇天。しかし寒くはない。昨日ダムダン空間工作所の竹居正武に電話した。わたくしの新しい仕事場スタジオGAYAとダムダン空間工作所との連係、つながりをゆるやかに進めたいと考えているからだ。

わたくしが27年間も大学に移ってしまい、ダムダンの連中には実に不義理をした。人生はゆっくり円環を描かせるのが良い。だから、これからは少しずつダムダンの皆に不義理を返そうと考えている。スタジオGAYAはダムダン空間工作所の世田谷分室的な機能も持たせようと思う。竹居さんも「お前のいいように考えてくれ」と言ってくれた。古い友人達がそう言ってくれるならそうしたい。

8時前、隣りの向山さんに電話する。「飾りのついた家」組合の作品=商品に関して何やら大変なモノを彼は得たようだ。ちなみに隣人向山を紹介すると、彼は山梨県出身で山梨との地縁が濃い。山梨の観光大使とやらもやっている。それで山梨の立派な旧家の方からお宝を預かったようなのだ。8時40分に会おうとなった。近隣のお附合いは朝が早いのである。烏山神社の使い方も立ち話程度で良いから、次の段階に進めたい。

世田谷村・スタジオGAYA日記 3

4月2日烏山神社志村稲荷に参拝してから11時過研究室へ。電車賃、地下鉄共にキチンと値上がりしている。3月30日の大隈講堂の会について報告を受ける。石山研27年のアーカイブ本アニミズム紀行共に良く売れたようでホッとする。しかし、まだ絶版するまでには到っていないようで引続き販売努力をするように自分にも、スタッフにも言い聞かせる。

13時山陽新聞東京支社編集部長論説委員前川真一郎氏来室。3月30日の大隈講堂の会についてインタビューを受ける。こういう取材がある位だから、マアマアの会であったのだろうか。「これからのこと」についてもいささかをお話しする。

中国杭州満覚路上山庄計画のチェック。他、16時修了。世田谷村への引越しの算段など相談する。19時前、世田谷村に戻る。

石山研1期生の柳本康城さんよりの手紙着く。3月30日の会の外の人のさばき、天幕の設営などの下ごしらえにたずさわってくれた。内の出来事などは恐らく全く知らずに裏方に徹してくれたのだろう。ありがたい事である。

今日は今日で4月1日の烏山の「つなぐ会」の盛況を地元の人々から喜んでいただいた。

ありがたや、ありがたやを繰り返せばただの阿呆であるけれど、自分一人でなせる事は実に小さいのは年と共に痛感するのである。

世田谷村・スタジオGAYA日記 2

4月2日8時離床。名刺の新しいのがまだ出来ないので古い名刺にスタジオGAYAを手描きで描いて1週間程は良しとすることにした。ネームカード無しで生きていけるのが理想なんだろうが中々にそれは難しい。

アニミズム紀行に何冊もGAYAスタジオの扉スケッチを描き込んだが、あれを名刺代わりのあいさつにしても良いが、それでは又、世間様には通用すまい。すでにGAYAと言う名が少し世間の枠からはみ出してはいるので名刺ぐらいは枠内に収めようかと考えたりもしていて中々ふん切りがつかぬ。昔つけた事務所の名がダムダンだった。ブッソウな名で仕事こないぞと言う奴もいたな、そう言えば。

念のためにウィキペディアを検索したら、インド、ナイジェリア、ニジェールに同名の都市があるようだ。北海道に同じ名の焼肉屋もある。商標登録などには引っかからぬようだがどうなりますか。

昨日、4月1日は8時離床。11時につなぐ会、15時会場を移し雑談。最後はKCヒマールであった。桜に浮かれるのもこれで終りにする。今日は13時に研究室でインタビューがある。まだしばらくは引越しのために研究室には出掛けねばなるまいが、出来るだけ早く切り換えたい。

志村棟梁と烏山神社志村稲荷の件をゆっくり話したいが、大方の筋道を描いてからの事にする。神社の森は都市の中の限りなく無に近いカオスである。毎朝とは言わぬが、時に散歩がてら志村稲荷には手を合わせるようにしたい。

世田谷村・スタジオGAYA日記 1

2014年4月1日

7時離床。今日からわたくしの仕事場はここ世田谷村内のスタジオGAYAに移る。スタジオGAYAという名前の由来はおいおいのべることにする。今日から消費税が8%に値上がりする。それで昨日は烏山商店街は買い物客が溢れ返ったそうだ。かく言うわたくしも今、駆け込み客の一人として家内が買い込んだトレーナーとジャージらしきを着て、この原稿を書いている。値上がり寸前のモノの着用である。

昨日は10時に研究室での最後の日記R289を書き、昼に新宿小田急デパート本店13階の和食レストランで山田脩二、佐藤研吾と昼食、次いで長野屋食堂で向風学校代表安西直紀と会い、はや一昨日になった大隈講堂での「これからのこと」の写真をいただいたりで過ごした。少し身体を休ませたいと考えたから休んだ。

いただいた花がいくつか部屋を色どっている。若くして亡くなった菅原くんのお母さんからいただいた薄紫のランが見事だ。菅原くんはあがいてもどうにもならずに若くして世を去ったが、けなげな若者であった。好きな青年であった。時に声を掛けたりしていたのを、お母さんが覚えていて下さり、このランの花となった。ありがたい花である。国分寺の住宅のクライアント神保さんからの赤バラも咲きほこっている。

宮脇愛子さんからいただいた作品も箱から出して見入ったりする。わたくしにはコレダと自分で指してくれた作品である。そお言えばいかにも俺らしいなと思はぬではない。抽象版画でも、送り主へのイメージだって少なからずあるに違いない。わたくしは山口勝弘作品も少なからず所有しているので、スタジオGAYAには小ギャラリーも設けたいと考えてはいる。壁があっても絵やらが無ければただの壁でしかないので、やはり何かがあっての壁なのである。

今日は11時には烏山南口風々ラーメンで地域の飲食店組合副会長のオカミの命名になる「つなぐ会」の発表式ならぬ花見の会がある。何をつなぐのかはまだわからないのだが少くとも踏切りを超えた長崎屋ラーメン店と風々ラーメンをつなぐだけではない会にしたいものである。2、30名の人々が集まるようだが、先ずは第一声が大事である。

この花見の会が地下室で催されることになった由縁から話すべきであろう。烏山5丁目の三菱地所、セコムの開発用地には曲がりなりにも歩行者通り抜け通路を設置してもらった。次はとて、工事現場内の桜の老木の下での20名程、1時間半程の名残りの桜の会を開催したいと申し出たが、そうは問屋がおろさなかったのである。まぁ次々に色んなことを言うのも良くはないと判断して、今日の地下の会になった。会には烏山5丁目の、わたくしがモヘンジョダロと呼ぶ、今はただの原っぱに立ち尽している「ビワの樹の王」と、これもわたくしが勝手に呼んでいるビワの大樹の保存を呼びかけたいという人物も来るらしい。ビワの葉はガンやらの病に悪くはないの風評もあり、ファンも少なからずいたようだ。移植の可能性があるかどうかになるが、キチンと区役所の公園緑地課へ文書で問い合わせるのが一番ではないか。その場合の問い合わせの主体をどうするかの事になるだろう。NPO法人世田谷式生活学校準備局の仕事初めになるやも知れないな。

寺町の高源院を水源地として品川まで流れる目黒川による、世田谷区目黒区品川区をつなぐ会も具体化させたいものである。

烏山神社境内の通称「志村稲荷」の生きもの稲荷例祭も今日が提案の潮時か。そんなわけで幾つかの目的らしきを集まって下さる方々に説明しなくてはなるまい。