石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2014 年 3 月

>>2014 年 4月の世田谷村日記

世田谷村日記 R289

3月31日

7時離床。8時世田谷村発高田馬場へ。銀行で少し計りの用を足す。10時前研究室。戸山公園の桜が八分咲きであった。明日の世田谷での花見の会は満開だろうが、生憎会場は地下のラーメン屋である。山田脩二に電話する。今日の昼に会おうとなる。

昨日3月30日のわたくしの「これからのこと」大隈講堂は小雨まじりの天候であったが盛況であった。千百人の大隈講堂に二千人程が来場して下さり、地下小講堂、別室大教室に分散して座っていただいた。不自由をさせて申し訳ない。

早朝、磯崎新さんより発熱のため会はカンベンせよとのFAXが入ったが、一昨日中に幾つかのアクシデントを想定してプログラム変更もすでに考えていたので混乱は無かった。又、第三部の平岡敬元広島市長、保坂展人世田谷区長、松崎町の森秀己、藤井晴正、鈴木敏文、気仙沼の臼井賢志さん、唐桑の佐藤和則さん、向風学校の安西直紀の話が、それぞれに大変良くって、参加者にも喜んでいただけたのではないか。安西直紀君は都知事立候補宣言までやらかしてしまうし。難波和彦さんのまとめも、要をついていた。それにつけても平岡敬氏の風格が格別であった。

第二部のJ・グライター、李祖原、栄久庵憲司、そして敬愛する老アヴァンギャルド・山口勝弘、ジャズ喫茶ベイシー店主菅原正二のスピーチも際立っていた。山口勝弘の話はまさにアヴァンギャルドの華であった。第一部の安藤忠雄の講演共々、全て勝手ながら最良の出来具合であった。わたくしへの充分過ぎる「これからのこと」の花向けであった。超満員の参会者の皆さんへのお礼共々、明日からの糧としたい。

会終了後、リーガロイヤルホテルに移り、石山研OB・OGの皆に「ありがとう」のあいさつと短い別れの言葉を贈る。明日からはわたくし「先生と呼ばれる程のバカ」ではなくなり、本来の一介の浪人となるので。

用意されたバスで浅草の飯田くんの親戚の店、十和田へ。李祖原夫妻、J・グライター夫妻、難波和彦夫妻、石山夫妻、飯田君とねぎらいの会食。これからもよろしくの乾杯。22時前終わる。グライター夫人がまだ浅草仲見世を見たことがないというので、最後に小さな夜の観光と人造桜の花見をして別れる。明日皆さんドイツ、台北へと帰る。遠くから本当にありがとう。その友情に報いるためにもこれから余程頑張るつもりだ。23時頃世田谷村に戻った。

世田谷村日記 R288

3月28日10時研究室。李祖原と久し振りの再会。

重い荷物を持参してる。C.Y.LEE大部の最新作品集である。

磯崎新、安藤忠雄、J.グライターに差上げてくれとの事。すぐに手配。昼過まで色々と話す。わたくしの近況報告も。13時近くのうどん屋で昼食。相変わらずの粗食、少食である。見習うべきだろうが仲々マネの出来ることではない。

中谷礼仁とエレベーターホールでベネチアの展示の件でいささかの話し。

疑問が氷解したわけではないが、これ以上の事は今は問うまい。問うてもすでに仕方がないし、大のおとながかまい続ける程の事ではない。

中国プロジェクトの打合わせ。アニミズム紀行5,6,7へのドローイング描き込み20冊程。アト20冊を明日やらねばならないが、ようやく先が視えてきた。

18時新宿南口味王で研究室の面々と会食。労をねぎらう。

20時解散、21時前長崎屋に寄り、ここも託児所にしたら良いと話して、世田谷村に戻る。

明けて3月29日7時前離床。日記R288を記す。

良い天気で室に陽光が差し込んでいる。明日も天気が持ちこたえてくれれば良いが。どうなりますか。

世田谷村日記 R287

3月27日昼前研究室、3月30日の「これからのこと」大隈講堂での会について相談。たしかに細かいこと迄目配りしておかぬと見苦しい事も起きかねぬと思い、細いこと迄相談するが、登壇者の胸につけるリボンは?にはまいって、そんなモノは全て無しにすれば良いと答えた。当日は天気次第で様相はだいぶん変わるであろうがカサも一切用意しないから、雨だったら全て各自用意されたい。

中国杭州満覚路上山庄計画が進んでいて、図面、模型をチェック。アニミズム紀行7,6, 15冊程にドローイングを入れる。

茶館計画のスケッチとなる。

上海より連絡あり、杭州のクライアントグループがビザの問題で少し遅れるだろうとの事。

17時研究室を発ち、18時烏山北口風々ラーメンで向山、大坪両氏と会い、4月1日の件で相談。

20時半世田谷村に戻る。

明けて3月28日、6時離床。晴れ、この天気が少し続いてくれれば良いがと30日の天気を気づかう。1000人以上の方々にイヤな想いはさせたくないから。

今日は10時に李祖原が研究室に来室の予定で9時前には世田谷村を発たねばならぬ。

しかし、李祖原もJ.グライターも義理堅く、仁義も厚い人間である。わたくしもいつかそれには応えねばならぬ。

書くのは易く、行うは難しい。

世田谷村日記 R286

3月26日12時研究室。中国杭州プロジェクト、および稲田堤星の子愛児園増築打ち合わせ。「飾りのついた家」組合作品番号108「いきものたまぐら」に関して討議。飾りのついた家の活動がようやく世間に少しは伝わっているのかと思う。石山研究室全27年の記録本の先行予約は仲々快調のようだし、アニミズム紀行合本5,6,7,8も動いている。皆の努力のお蔭だろう。

保育園の増築案、中国のプロジェクト両方に関してアイデアが浮かびそうになり、アニミズム紀行5,6,7にスケッチを描き込む。スケッチブックに描いている時間が無いので全てアニミズム紀行に記録が残ることになっている。

明日午後の打ち合わせを約して研究室を17時半去り、烏山北口風々ラーメンへ。18時半店主のオカミとデイケアセンター、託児所の件について相談する。4月から世田谷村を拠点とする活動となるので、その準備も急ピッチとなる。烏山の新友人大坪さんに電話して烏山つなぐ会の件を相談する。

大坪さんは引っ込み思案のところがあるので、もっと外に出るようにわたくしなりの妙な意地悪をしている。地元が大事なのではない、人材が大事なのだ。

20時半世田谷村に戻る。

先日、中谷礼仁氏がディレクターを務めるヴェネチア・ビエンナーレに関していささかの疑問が生じ、中谷礼仁氏にわたくしの「開拓者の家」がどういう文脈でどのように展示されるのか中谷氏にメールで尋ねた。中谷氏からはメールで説明があったが、わたしの尋ねたこととは別の説明であった。

高山建築学校も展示されると言うことだが、わたくしにも鈴木博之さんにも何の説明も連絡すらも無い。これも70年代とは異なる文脈でやるのか、それなら関係は全く無いなと放っておいた。

今日、いきなり中谷礼仁のところの助手とやらの若い人間らしきが、開拓者の家の模型の使用許可証をよこせと電話で言ってきた。

こんなガキにそんな事を言われる筋合いは無い。まだ中谷礼仁からもほとんど何の具体的な説明も受けてはいない。それでその助手とやらに中谷本人から説明を聞きたいので電話させてくれと言った。

やがて中谷礼仁から電話があり、それでもよく解らない。でもわたくしの開拓者の家の扱いは二の次で良いと、本来の大疑問であった高山建築学校の件についても尋ねた。

趙海光さんの了解を得て、鈴木博之さんの資料やらを使うとの事であった。それなら知らぬ仲ではない趙海光さんから直接話を聞きたいと述べた。

やがて趙海光氏から電話があり、連絡しないで悪かったとの事。でも鈴木博之に何の連絡もしないママで録音テープやら何やらを一方的に使うのはおかしいと伝えた。

つまらぬ事をグデグデ文句つけているのではない。何故中谷礼仁は鈴木博之に何のコンタクトもしないのかが実は根本にある。ディレクターとして当然果たさねばならぬ事ではなかったのか。仁義とは言わぬ、初歩的なエチケットに反してはいないのかと言う事だ。

初歩的なエチケットは重要なのだ。

まあ夜に電話でやり合うのも大人気ないので今夜はこれ迄として電話を切った。

今日はC.Y.LEE(李祖原)からも東京に着いたの知らせがあった。

明けて3月27日、7時過離床。昨夜の中谷礼仁、趙海光両氏との電話でのやり取りを思い起こす。

高山建築学校は校主倉田康男の旧制東京高校(一高の前身)のロマンチシズム(センチメンタリズム)の産物であった。その良さも滑稽さもそこに在った。若い頃は滑稽さばかりが眼について、その滑稽さの内にある良さに気付かなかった。今は良く解る。だからこそ生松敬三、木田元、小野二郎も寄り集った。若かった鈴木博之、わたくしも駆けつけたのだった。そのロマンチシズムは哲学でいうロマン主義とは違うと、思想史家の生松敬三は言っていた。

アルプスが視える場所でなければならないと校主倉田康男は言っていた。何言ってんだこのオヤジとガキだったわたくしはいぶかしんだ。でも今では倉田の言っていた事は少しは解るようになった。北アルプスはヒマラヤに比べれば全くケチなスケールの山岳群でしか無いのも今は知っている。

風土のスケールが思想、哲学らしきの母体の一部なのも知るまでにはなった。

しかし、北アルプスという名前までヨーロッパ、アルプスのまがいを附された山岳にもそれなりの良さは充分にあるのだ。倉田康男の教養主義も立派なものであった。

そこに集まった人々、教師も学生達も皆、いわば日本の70年代の滑稽さと純真さの入り混じった結晶の如くであった。

先日の東長寺での鈴木博之本葬での弔辞で、わたくしは鈴木を中心の律儀さと実ワ詩心の孤立とにへだたりがあったと述べた。

それがここ6年程の闘病と結局は命がけになった大きな仕事の数々を経て、完全にそのへだたりが一つになり溶融し、成熟したと述べた。

鈴木博之が何故昔、高山建築学校へといぶかしんでもいたのだが、アレは鈴木の詩心、その孤立のすでに表れであったのだ。

馬場昭道さんに電話。3月30日の会の件でお願いする。

ヨルクグライターより郵便物。スイス製のビックリする程立派な60色の色鉛筆であった。友人というのはありがたいものだ。もったいなくってこんな立派な色鉛筆使えないよ。

世田谷村日記 R285

3月25日13時研究室、すぐに中国杭州満覚路上山庄計画打合わせ。他「飾りのついた家」組合の件、3月30日の大隈講堂の、これからのことの会の件等打ち合わせる。雑多な打ち合せとなり頭の中がゴッタ煮状態となる。しかし、こういう状態は決して嫌いではない。

中国のプロジェクトにはかつてプロポーザルしたシンガポールでのプロジェクトが顔をのぞかせ始めている。面白くなりそうだ。

大隈講堂での会の準備状況を聞くうちに、昨日の鈴木博之葬儀本葬のこと、特にアレの会難波和彦は裏方の事務局として大変だったろうと思い浮かぶ。

渡邊、北園両氏が明日夜難波事務所で打ち合せときいて、しばし待てと言う。

そんな細い事迄難波さんを引張り出すのは止せと言う。

一生懸命やってくれているが、昨日の会の状態を見たってどのみち計画通りにはすすまないぞと判断。

これは難波和彦さんに直接会って、昨日のねぎらいと、3月30日の件の礼を言わねば礼を失すると気付き急遽電話して、無理矢理今晩のメシの時間を割いていただく。

19時過、新宿三丁目から南口へのエスカレーターで難波さんとバッタリ会う。お互いに忙しくて少し約束の時間に遅れていた。南口味王へ。

昨日の鈴木博之の会、そして3月30日のわたくしの会について御礼まじりのあいさつ。

「大変だったね」

「大変だった」

それ故、3月30日のわたくしの会では難波和彦の役割を軽減すべく、こうしたいと話す。

こうしたいが、そうはならぬのが現実なのはすでに知るところだが、それでも骨格だけは説明する。

昨日の会を体験するに、要するに要はしかるべき人達の初めの一歩、つまり会場、玄関口のさばき、その案内につきると判断。その役割は北園、高木両氏に任せることとした。

彼等がさばいてくれれば、全てうまく回転するだろう。

21時了。新宿南口階段下で別れ、22時前世田谷村に戻った。

3月26日7時前離床。R285を記し、馬場昭道さんに電話するも不在。坊さんは早朝から動いているな。次いで安西直紀さんに電話。3月30日の件の概要を説明。登壇者としてのスピーチを依頼する。彼は慶応義塾幼稚舎の出身でおまけに福沢諭吉精神研究会の代表でもあり、早稲田の大隈講堂に入るのは初めてで最期の事になるだろうと伝える。

世田谷村日記 R284

3月24日10時45分家内と世田谷村を発つ。新宿南口よりTAXIで東長寺へ。寺には今日の式の事務局の助けの方々がすでに多く参集していた。地下階で安藤忠雄、難波和彦両氏と会う。すでに多くの知己の方々がつめかけている。

12時半、上階本堂に上がる。池には満々と水が張られている。

廻廊に人が溢れんばかりである。難波さんは定員を超えても平気で人が来るとこぼしていたが、それどころの騒ぎではないなこれは。

13時読経始まる。何やら立派な導師の方が、妙なみの虫みたいなかぶりモノをかぶって壇上で禅宗式の儀式をとり行なった。

鈴木博之はむしろイスラムのモスクが似合うのになあと我ながら不穏なことを考えたが、誰に言うわけでもない。

大きな赤い布を巻いた棒のようなモノで空に円を描き、ケッとか叫んでいる。禅宗は少しコケおどしが多いな。

やがて弔辞となり、席を立った。マイクの前で用意の言葉を読み始める。我ながら緊張もせず、固くもならず淡々と読み切る事ができた。鈴木博之が見ているからオタオタするわけにはゆかぬのだ。終えて焼香始まる。15時過了。再び階下で小宴会。鈴木杜幾子御礼と鈴木博之の隠されたエピソードなど。葬儀委員長安藤忠雄挨拶。そして献杯。磯崎新さんに3月30日の君の会ではいかに君が家族に迷惑をかけ通しであったかを話すぞと言われる。工学院の学科長長澤さんと鈴木結さんを交えていささかの長話し。

長澤さんとは初めてゆっくりと話しができて良かった。

鈴木結さんから鈴木博之が大の吉永さゆりファンであった、つまりサユリストであった事を聞く。吉永さゆりも馬鹿にしたもんじゃないなと思う。マリリンファン、つまりモンローびいきであったりしたらもっとビックリしたのにと思うが、鈴木の晩年はモンローウォークどころか、背中もいささか曲って実に痛々しかった。背中曲がってるぞと言ったら、「仕方ないだろ」と怒っていたな。天上の世界は必ずあるが、恐らく今日あたりはすでに天上で佐藤健あたりとブチ当たって、往年のケンカ早さを復活させているのではないか。

佐藤健の禅宗の坊主よりはチョッとはマシな禅の話しなど吹かれて、それはちがうぞと言い返したりしてるんじゃああるまいか。禅宗の坊主はえらくなればなる程にイイ加減なような気がするが、禅というのは若気のいたりなのかも知れんな。若い修行僧は清々しいところがあるが、年寄りはフテブテしいだけじゃあないか。

わたくし達の年代の多くはサユリストであった。特に早稲田の学生はサユリが早稲田に来たものだからのぼせ上がる奴までいたなあ。わざわざ文学部の教室のぞきに行ったりして、勿論わたくしはフザケンナと、行かなかった。

昔から女優という存在そのものが怪しいモノを見るようで好きではなかった。

同級生に、これも又鈴木という姓の名は国定忠治、つまり鈴木忠治って男がいた。若死にしてお棺の中に三角定規やらT定規を入れたりしたらしく、それがイヤだったと別の同級生が言っていた。

この男はいかにもな建築学科の学生上りで、妙に世の中を斜視するクセがあり、ムヅカシイ事を良く知っていた。

「君、ミネルヴァのフクロウのことも知らんのか?」

とわたくしなぞをバカにしおっていた奴であったが、これが実にサユリストでもあった。

フンとえばった顔がニタニタとなり、サユリの後を追っかけていた。

意外にも鈴木という姓の男共はサユリストであると言う共通項があるのかも知れないな。

わたくしもいずれ天上界に昇ったら、その点を両鈴木に尋ねてみたいとの課題を得たのである。

それにつけても佐藤健といい、鈴木博之といい俺の友達にはつまらん姓を背負った奴ばかりだったな。ちなみに日本では一番多い姓は佐藤で二番が鈴木である。

9時隣家の向山さんより電話あり、わたくし共のアイデアそっくりな商品開発が竹中工務店と三菱樹脂化学でなされているとの事。わたくし共のアイデアはサイトにすでに大部前から垂れ流しであったので、それ位の事は想定済みではある。三菱樹脂はソーラーセルも開発しようとしているのか?16年発売というからその可能性もあるだろうが、中国、インドに勝てるのかな?

世田谷村日記 R283

3月23日8時45分あわてて世田谷村を発つ。9時45分過ぎ東急目蒲線洗足駅改札にて渡邊大志と待ち合わせ。洗足の不動産屋誠興業不動産へ。10時伊藤夫妻、建設会社スタッフと洗足のアパート引き渡し式。部屋は4つだが、そのうち2つはすでに入居者が決まり明日には入居との事。あと1つも成約との事でアッという間の入室になりそうだ。こちらでもネット広告を出そうかと準備していたけれど、準備中に完約という事になるやも知れない。最後の一室は一番大きいロフト付の室で何とか我々の手で入居者を決めたいが、不動産業のプロも並々ならぬ力を発揮するから、どうなりますか。11時過終了。伊藤宅へ。昼御飯をごちそうになる。13時過渡邊を竣工したアパートの写真撮影に現場に残し去る。

午後は明日の鈴木博之本葬の弔辞の下書きの清書に没頭する。清書のつもりがやはり大ぶん手を入れて夜23時半迄かかる。字が美しくないのはもう直そうにも直しようが無い。

明けて3月24日7時離床。昨夜書いた弔辞を声を出して読み、リハーサル。何とかなるだろう。鈴木博之らしく淡々とした形式の中にまとめたので、よもや涙声などにはなるまいと想うが、声をつまらせる位には陥るやも知れぬ。自分は良いが鈴木博之に恥をかかせるわけにはゆかぬ。

鈴木が世を去りはや1ヶ月半程になる。本当は俺が先に死んで、彼に弔辞を頼むつもりであったのだけれど、世はままならぬものである。今日はほぼ1日鈴木本葬で暮れる事になりそうだが、他は何もせずに過ごそうと考えている。

世田谷村日記 R282

3月21日10時過京王稲田堤。渡邊大志、佐藤研吾と落合う。10時15分 星の子愛児園。この保育園の周辺模型を作らせたが、どうもその模型がピンとこない。作った人間が実際のサイトを見ていないからかな。でも実際にサイトを体験して、それが土地模型に反映されるというのは実ワ大変な事なのだ。

設計の第一歩だから本当は自分でやりたいところだが正直手がまわらない。でも少し手を動かさねばと思う。出来るかな。

10時30分、理事長、園長、保育士の先生2名、我々3名の打合わせ始める。

結論を記せば、我々の提示した案は工事中に園庭を全て使えなくするので、それがうまくないとなり、根本からやり直すことになった。

しかし、その先の見通しをつけなくては動きがとれないので急遽園庭に出て検討。1年程前に作った案に近く園庭入口側に増築する事になった。厚生館グループは多くの保育園の運営、建設の体験があり、それがいざという時に底力を発揮するのだ。

大方の案を脳内につくり上げ、いざWORKに入ろうとなる。

これで最終案になってくれれば良いが、まだ少し計りの紆余曲折もあるだろう。最終予算もほぼ確定とする。

今の建設事情が計画の骨子にも反映されるだろうが、それに対応するのも我々の役割である。

12時半昼食へ。元気出してやり直そうと、うなぎをご馳走になる。

園長先生も参加。労をねぎらわれる。

14時前散会。稲田堤より烏山へ向う。

15時前、長崎屋に寄り、オバンの手作りおはぎをいただく。

設計のすすめ方について相談、大方の方針を決める。

終了後風々ラーメンへ移る。4月1日の花見の件と風々ラーメンを児童施設、あるいは老人のための施設に作り変える件についてオカミと相談。ビルの平面図他を受け取る。

世田谷区に保育園はいくらあっても、まだ足りぬのが実情である。16時半了。一人世田谷村に戻る。

明けて3月22日6時半離床。

鈴木博之本葬の弔辞を昨日より用意し始めているが、今日はそれを仕上げたい。キチンとしなくてはいけない。

今日も風は吹いているようだが、空は完全に春模様である。

9時50分弔辞書き終る。気合いが入った。弔辞に気合いを入れてどうなるものでもないけれど、盟友である。力が入るのも自然だろう。

世田谷村日記 R281

3月20日 アルチ村日記はようやくにして展開し始めた。書き終わり、12時過研究室へ。安藤忠雄さんより「3月30日、もう一杯で溢れてるらしいな」の電話あり。「安藤さんのお蔭様ですよ」「そんな事あらへん」のやり取り。宮脇愛子、山口勝弘両氏も出席との事。最前列は車椅子の席となるな。14時迄中国杭州満覚路上山庄計画チェックそしてアイデアの開発。14時よりアニミズム紀行8、10冊にドローイング。世田谷村 GAYA STUDIO 扉について。京王稲田堤の星の子愛児園増築計画進め、16時半研究室発。

17時過烏山長崎屋へ。花見の件等相談する。

18時過世田谷村に戻る。

明けて、3月21日7時半離床。日記を記し送信。

9時40分世田谷村発。京王稲田堤へ。

昨日「飾りのついた家」組合のページ展開の説明を受けほぼ満足する。

命じるは易く、為すのは難しい。肝に銘じたい。年はとっても人間はそれ程賢くなるモノに非ずだ。

昨日の雨も上がり、空は快晴だ。本格的な春到来か?

世田谷村日記 R280

3月19日 13時研究室「飾りのついた家」組合打合わせ。用意してきた「生きもの魂倉」の作品原稿を渡し、編集を依頼する。作品番号が無闇に増加するばかりが良いわけがないので重要と思われるモノは同番号内で連載形式をとることにした。細かい工夫ではあるが細部の工夫から全体が拓けることもあるのだ。106左官照明も同様に連載形式になってゆくだろう。

夜、眠れぬままにレイモンド・チャンドラーの短篇集なぞ読んでいるが、日記の文体が少し短く切れているのはそのせいだろう。アメリカ風の文体で、コンピュータには良いかも知れぬ。

多愛ないぜ、ベイビー。

中国杭州満覚路上山庄計画の打合わせ。スタッフとは完全なマンツーマンの、これは禅の師弟関係にも似たものかな。そうしなければ意匠の創作のニュアンスを伝えることはできない。しかし、ギリギリのところで弟子らしさを得たのはせめてもの救いである。

自分だけ良ければいいというものではないのだ設計、デザインは。やはりこれは小集団が良くならねばどうにもならぬ。

5冊アニミズム紀行8にドローイングを入れる。

16時半研究室を去る。

18時前、烏山南口風々ラーメン。おかみに4月1日の烏山5丁目の名残りの花見の会の相談。

長崎屋のオバンがわたしは幹事は向いてない、「コマチのママに頼めば」というのでやってきた。

「七本の老木全部に人を集めることは出来ぬので、3本位に人を張りつけられぬか」

「そうだね。人数が多い程幹事はやりやすい」

の会話があり、できるだけ多くの人間を集めることにした。

志村棟梁にも相談しなくてはならぬ。世田谷野球倶楽部の連中にも。

相談中にドサリと大きな音がした。

何だ!と見渡せば客が一人床にあお向けに倒れているではないか。

頭打ってないか、とかけ寄り引き起す。本当は安静にしていた方が良かったか。

でも大事無いようであった。酔払ったようだ。

人の振り見て我振り直せである。用心したい。

20時相談を終えて世田谷村に戻る。

明けて3月20日。8時前離床。小雨。

さえぬ天気ではあるが、そんな事は言ってられない。天気には眼を向けずにやってゆきたい。

久し振りにアルチ村日記を書きすすめることとする。

世田谷村日記 R279

3月19日8時前離床。昨夜は比較的良く眠れた。

年をとると眠るのに苦労が絶えぬの話しは良く聞かされるが自分にはそんな事はあるまいと、タカをくくっていたが、これが飛んでもない。明け方迄眠れずに、だから本を読んだりが続くのであった。

比較的に良く眠れたと言っても恐らくやはり明け方に近くになっての事なのだろう。時計は見ない事にしているので解らない。

今日は午後に打ち合わせがあるが、午前中は色々と考える事ができるので嬉しい。

新聞をとりに下に降り、ついでに庭を一周した。一周するとは少し計り大ゲサだが世田谷村の庭の中心には梅の老木があり、老木の陰に真赤な大輪の椿を咲かせる小木がある。

その赤が美しいので、その廻りをひと巡りした。

梅の木は他に何本か小木があり、それぞれ異なる色の花を咲かせている。大根の花も紫の花を咲かせていて、今の世田谷村の庭は良い。

新聞は土偶「仮面の女神」が凄いなと思ったきり。

世田谷村日記 R278

3月18日京王線、山手線と乗り継ぎ東急目蒲線洗足、坂道をいささか登り降りして洗足邨・現場。10時。

すでに左官職藤田秀幸さん他待ちかまえている。

じゃ、やろうかと壁塗り、と言うよりもほんのひとハケの塗りを5ヶ所。かねて想い描いていた通りに塗ってもらう。

今度はうまくいった。ホンの少し計りだけの手作業なのだがこの修正があるのと、ないのでは全く壁が別物なのである。

洗足随一の見事な壁となる。15分程度の速力まかせのWORKであった。これで駐車場とそれを囲む壁はOKである。

街に絵壁が立ち上がった。これでやっと建築になったな。

次に内部の左官照明の制作。

円形の既製品の砂ふるいの道具に、これも又、サッと左官職の技で色土を塗りつける。

考えていた以上のモノが出来上がった。

これは「飾りのついた家」組合の作品リストに是非付け加えたい。小一時間程で現場を去る。

12時研究室。「石山研の全仕事」の打ち合わせ。早稲田退職記念をかねた研究室での全仕事を皆がまとめてくれた。

一生懸命何かやっているなと脇目で眺めていた。

ありがたい事である。

が、張り切り過ぎて大部の分厚い本を1000部印刷にかけたらしい。

これは売り切るのには努力がいるなと、若い人の走りにいささかビックリ。

4月からの世田谷村での新しいスタジオ「GAYA」は在庫スタジオになるなと覚悟する。それも又、良いだろう。

中国満覚路上山庄計画の打ち合わせに移る。

16時京王稲田堤の星の子愛児園増築の工事参加希望の建設会社来室する。大方の説明。16時半修了。

アニミズム紀行8、10冊にドローイング描き込む。

満覚路上山庄計画のエスキス、スケッチとする。

建築のエスキスなのでいささか手間取る。

19時千歳烏山長崎屋で一服して20時半前世田谷村に戻る。

世田谷村日記 R277

3月17日、8時離床。日記276を記す。昨夜も猫がわたくしの頭を舞台に大立ち廻りしたので、どうも首の調子がおかしい。

ところが、今朝はこいつ等はあんまりいがみ合いもせずに60cmくらいの距離で寝ころんでお互いの様子を眺め合い、ほぼ眠りに落ちようとしているのである。昨日、長崎屋で近くの深大寺に猫の墓が売りに出ているのを小耳に挟んだ。いくらなのと尋ねたら、ピンからキリまでグレードがあるのだと言う。生きものの世界も死んでからが厳しいようである。

12時研究室。すぐになにはさておきアニミズム紀行8にドローイングを描き込み始める。息せき切ってやる。

15時前50冊以上の絶版書房冊子にドローイングを描き込み続ける。これはわたくしの個人史に於いても記録的な所業である。

50冊への描き込みのテーマは俳人金子兜太さんの句、「ぎらぎらの 朝日子照らす 自然かな」に触発されてのドローイングである。

意識と無意識の狭間で充二分にWORKさせていただいた。ベトナム五行山プロジェクト・大鐘デザインの骨子が、50数点のドローイング中に生まれ、そして固まった。

良い時間であった。

今日(3月17日)の日付の付いたアニミズム紀行8のドローイングはわたくしの内では画期を画するモノになった。

ドローイング作業終了後、星の子愛児園増築計画の打ち合わせに入る。16時40分迄。打ち切って研究室を発つ。17時半過千歳烏山長崎屋にて一服する。ここの一服は生活必需品の如くになっている。何の意味もないところが、わたくしにはとても良い。

19時前、長崎屋発世田谷村に戻る。

明けて3月18日、8時離床。9時前には洗足の現場へ発たねばならぬので大急ぎで昨日の日記R277を読み直し新たに附け加える。昨夜も眠れぬままに乱読を重ねたが面倒くさいので内容は記さない。必要以上に詳述したり、飛ばしたりで実に日記は個人的な世界に属するものだ。

決して客観性なぞは帯びてはいないし、その必要もあるまい。かと言ってここ迄続くともう気まぐれだけとも言えず微妙な処にさしかかっているな。

世田谷村日記 R276

3月16日10時半四谷三丁目東長寺。鈴木博之本葬の打ち合わせ。難波和彦、安藤忠雄両氏にお任せしてしまったのを遅ればせながら参加する。少し時間があったので鈴木杜幾子さんと本堂前の廻廊と池の処で会ったので、鈴木さんの漆の銘板が何処かにあるというので探してみる。やはり見付けたのは夫人の方であったが、夫人や娘さんのモノまですでにあるのには驚いた。

3年程前に用意したのだそうだ。今日は人工の池に水が張ってあり、それなりにこの近代的な寺の良さが発揮されている。この寺を鈴木博之が良しとしたのは様式は伝統を継承しながら工法は近代的なコンクリート造でという、彼の価値観に見合っていたからだろう。

地下の、と言うより1階の墓地と同フロアーの打ち合わせ室で東長寺住職、葬儀社の方々、レセプション係の方との打ち合わせに同席する。

終了後、杜幾子さんが昼食でもと、となり四谷三丁目のJAL HOTELのランチ。ワインをとも思ったが生ビールをいただく。もう一ヶ月半となるが思い出話を少しばかりの杜幾子さんから聞く博之さんの話はわたくしにとっては少しばかりの初めてのものばかりで興味津々。

鈴木博之さんには妙にさめざめと割切ったところもあったから、わたくしの知らぬ事も多いのだろうと知る。

15時前頃別れ、15時半に千歳烏山長崎屋で一人ビールを飲む。オバンとオジンとほぼ三人であった。

長崎屋のカウンターに置いてあるヒヤシンスは中華料理屋の厨房の空気にもあげずに3年目だそうだ。オジンはやたら樹、花に詳しくひと講釈あるのだが、ヒヤシンスは良く保っている。本当は路地に土があればと無念そうであるが、土が無くとも花は工夫次第で育つものだなあ。世田谷村も少しずつ工夫してみたい、と思えどこれは思うだけなのもすでに知るのである。世田谷村の梅の樹がポッキリ折れた話しやら、最近の都市の樹はやたらに折れるなの話しになる。

鈴木博之宅の庭の桜を夫人が博之の桜と名付けたという昼の話しを思い出す。しかし、鈴木には桜はどうも合わぬような気がする。

玄関脇の黄色いバラにほのかに気持を寄せていたのではないか。どうやら杜幾子夫人とはこれからも意見が色々と衝突しそうな予感もする。

大相撲が始まり、しばらくして世田谷村に戻り、横になり若い書き手の『原子力都市』を一冊読み切る。面白い視角を持つが、少し喰い足りぬ感あり、水木しげるの漫画で口直し。水木しげるの深いエロチシズムの世界を楽しむ。金子兜太と水木しげるは良く似たところがある。片やトラック諸島、片やボルネオの南洋の島々にそれぞれの原郷があるからだろう。

わたくしには原郷と呼べるような場所、処、人々が無い。

それで老いても、いまだにやたらと旅に出たがるのやも知れぬ。

世田谷村日記 R275

3月16日 8時過離床。晴れている。寒い。まだ春は来ない。今日は鈴木博之さん本葬の打ち合わせで四谷三丁目の東長寺に安藤忠雄、難波和彦両氏と、鈴木夫人との相談があり9時半には世田谷村を発つ予定。

もう鈴木博之さんが不在となって1ヶ月半にもなろうとしている。月並みだがまことに月日のたつのは駆け足の如くに速い。

光陰矢の如しである。

マレーシア航空の北京行の飛行機が連絡を断って行方不明になり一周間程が経つ。

飛行機が不明となるのと、人間が不在となるのは同じことか?

肉親他が不在となった人々の気持はどうにもやり切れぬものがあるだろう。

その意味では葬式という儀式は大事だな。

世田谷村日記 R274

3月15日 13時半洗足、洗足邨現場。左官仕事に立ち会う。駐車場の仕上げに大理石の小片埋め込みに立ち会う。最初の幾つかの埋め込みはやって見せねばならぬのだ。やって見せると言っても、現場でサンユー建設の担当者と渡邊がたたき割った大理石を投げて、これ位の感じでと位置出しをするだけである。でもこれ位の大まかさで良いのだと示さなくてはならない。

手で一つ一つ置いてゆくと手間がかかり過ぎて、しかも縮かんでしまい面白くないのだ。インド行きの間になされた二階の左官装飾をこう修正したいと、これも具体的に指示、他色出し等も見る。左官は大がかりに使う事は出来なくなっている。しかし工業製品の部分と部分の埋まり切らぬ空白に使うとまだまだ力を持つのである。16時前まで外で立ち切りで作業を見守った。左官工事は現場でつき切りで、ああだこうだが言えるので楽しいのである。しかし、寒かった。残りの仕事を任せて、去る。洗足駅迄の坂道でインドで痛めた腰がギクリギクリと鳴るのであった。

17時半烏山長崎屋。お隣りの向山さんにお目にかかる。

NPO法人の件など相談。大坪さんは花粉症とやらで欠席。

18時半切り上げて、19時前世田谷村に戻る。

金子兜太さんに御礼の手紙を午前中したためたのも記しておきたい。94才の大家への挨拶文はとても難しいが、一生懸命書いた。インドの飯田寿一さん、そして上海の趙さんにも連絡文を書いた。随分仕事をした様な気分だけれど電車内でスケッチを数枚したのが面白かった。

世田谷村日記 R273

3月14日予定を変更する。12時研究室。アニミズム紀行8へのドローイング描き込みのノルマを計算すると、どうやら3月30日迄に100冊くらいをやってのけねばならぬ。週5日をそんな時間に当てたとして1日15冊はこなさねばならないの結論に達した。ノルマとしての1日15冊はコレワきついが、何とかしなくてはなるまい。

星の児愛児園増築のエスキス、スケッチを15点程アニミズム紀行8に描き込む。こうしなくては間に合わないのだ。

13時半研究室OBの田中亮平君来室。原口陽子さんの春物マフラーを一点お買い上げいただく。

14時クライアントであった幸脇さん来室。聖書キリスト教会東京教会主任牧師、尾山清仁さんを同伴される。

鈴木博之さんに紹介されて知り合いになった東京カテドラルのネラン神父の話になり面白かった。

スケッチ描き込み後、各種打合わせをすませ15時研究室発。19時烏山長崎屋。80才〜91才までのジイさんバアさん達のオムツが手放せない話に耳を傾ける。

どうやら本格的老人になるとオムツは必需品になるらしい。何処そこのセンターの便所はキレイだとか、あのスーパーの便所、アソコは汚いの話は詳細を極めるのであった。

20時世田谷村に戻る。

深夜、わたくしの頭の上、つまり顔の上で黒ネコと白チビがいがみ合って、ヒドイ目にあった。

わたしの顔は戦場になったのだった。想像もつかないだろうと思うなあ。

3月15日8時半離床。結局朝まで黒ネコと白チビはいがみあっていた。全く冗談ではないのである。

インド、アーメダバードの飯田寿一君に手紙を書く。

KISHAN SHAH 君にもメールを打たねばならない。

わたくしもメール地獄の身になるのかなといささか不安である。

世田谷村日記 R272

3月13日

13時佐藤研吾世田谷村に来て、共に安孫子真栄寺へ向う。渋滞もあり、16時前真栄寺着。馬場昭道住職より金子兜太さん筆の大きな句をいただく。念願のモノであったので嬉しい。明日金子兜太さんに礼状を書く。ベトナム五行山の鐘楼勧進にはずみをつけたいものである。四方山話の後18時前真栄寺を辞す。途中首都高速は眼の前が視えぬ位のドシャ降りとなる。

20時過世田谷村に帰着。家内を拾い、3名で、車で少し遠い栄寿司へ。寿司を喰う。22時散会。世田谷村に戻る。

3月14日8時半離床。高曇り少し寒い。昨日に続き長澤社長と電話で話し、午前中に東京国際展示場で会うこととする。ソーラーすだれ開発のカジ取りが難しい局面を迎えそうである。

事は容易ではない。

9時半世田谷村発。

世田谷村日記 R271

3月12日、直接世田谷村から午後遅く磯崎宅へ向かおうかとも考えていたが、やっぱり研究室でやるべきをやってからにしようと11時研究室へ。すぐにアニミズム紀行8にドローイングを入れ始める。中国杭州・満覚路上山庄計画に関してメールが入り、すぐに対応し、修正案を送信。次第に煮つまってきている。

星の子愛児園増築の実施設計は佐藤研吾がやはり、当然の如くに壁にブチ当っているのを見る。まだ若いから当然の事である。

頭が働いても、身体がそれについてゆかぬのだ。身体=感覚は建築設計においては大半が経験の産物であるからなあ。

しかし、着実にコツコツ努力しているようだから恐らくは突破するであろう。彼には人に数倍するところの体験をさせているから、それを今はジックリ身体が養分にしているに違いない。

インド・グジャラート州アーメダバードのCEPT Univ. School of ArchitectureのKISHAN SHAH君より立派なArchitecture Portfolioがメールで送信されてくる。

すぐに佐藤研吾に受信したの返信をさせる。

いよいよ、インドの若い才能との交信が始まるので英文の交信コーナーをサイトにつくりたい。

そのサイトで詳細に皆さんにお知らせすることにする。

それだけの価値がある。

16時前地下鉄を乗り継いで広尾の磯崎宅へ。少し早く着きそうだったので近くの有栖川公園でベンチに一人座り休む。広尾から磯崎宅まではかなりの登り坂なのだ。

17時過磯崎宅へ。丁度先客の藤森照信との何かでの対談を終えたところであった。色んな話しがやっぱり出た。

忘れてはならじと3月30日のわたくしの早大退職シンポジウムの式次第を渡す。話しなんかさせるの止めろよと言われたが、それはならじと押し込んだり。

やはり鈴木博之が話題の中心となった。寿司と赤ワインをいただき20時頃了。

藤森さんと別れて、広尾駅へ。恵比寿から山手線新宿経由で世田谷村に21時戻った。

明けて3月13日7時半離床。昨夜は何故か明方まで眠りに落ちることが出来なかった。寝不足である。

人間は眠りだめ、つまり眠りのストックが出来ぬ低性能の身体の持主だ。これも頭と身体が切り離れていることによるのか?

世田谷村日記 R270

3月11日11時、世田谷区役所の方々2名と烏山神社社務所へ。総代の方々10名程と保育園建設の件話し合う。12時了。志村喜久男さんと渡邊、佐藤両名と長崎屋へ。烏山神社境内の通称志村稲荷について話し合う。まだサイトには未発表だが、「飾りのついた家」組合の「生きもの魂倉」の資料を差し上げる。

駅のプラットホームが眺められる細長いところ、名前は覚えられぬに移りテキーラを一杯飲んで別れた。渡邊、佐藤は川崎市役所へ。わたしは14時半に世田谷村に戻った。イヤハヤ、眠り男である。昼間からでも眠るのであった。

夜、朝日新聞の大西若人さんより電話で鈴木博之に関してのロングインタビューあり。鈴木博之不在の空白が次第に世に拡がり始めているのかなと思いたい。

明けて3月12日。そろそろインドの疲労もいえてきたようだ。8時過離床。今日は夕方磯崎新宅にうかがう予定がある。あそこは広尾の地下鉄からだいぶん坂道を登らなければならないと、先ず坂道を想い浮かべてしまうところが老人である。最近はソファーに深々と腰をおろすと立ち上がるのに脇のヒジ当てにどうしてもつかまりたいようで、これも又、年である。

しかし、朝夕の少し速力を持たせた散歩や、ましてや柔軟体操などは決してするものかとは考えているのである。

お目にかかった事はないが、チョモランマに80才で登ったという三浦雄一郎の、御本人ではないが父君が異常に元気な方であった。TVで視ただけだが年寄りなのに桁外れの大股で、しかも速く歩いて健康維持法としていた。立派だけれど老人は老人らしくジィーッとしている方が自然だよなあとあきれたりもしたのである。

アノ方も当然、自然に亡くなった。あんなに速く歩き過ぎたからかなとつまらぬ感想も持った。

わたくし自信の身体も自然におとろえている。インドから帰ってそれを急に実感する。インドのアーメダバードのある州の知事が次のインド首相の有力候補だと言う。その人は貧しい階級の生まれの人で、幼少の時は道端でチャイを売っていたそうだ。インドの人々が年を取って老人になると大半がプックラと太るようだ。女性達もサリー姿の脇腹はダブダブとシワだらけなのだ。

あれは日常的にチャイを飲み過ぎるからなのではないか。

インドで学生達や給仕して下さる方々からお茶は何にしますかと尋ねられる事が多かった。イングリッシュティーつまり紅茶にしますかどうですかと尋ねられていた。

わたくしは出来ればチャイにして下さいと必ず答えた。だって好きなんだから。そうすると相手は顔を必ずほころばせるのであった。

つまり紅茶はインド本来の飲み物ではなくって、イギリスの、つまりは植民地時代の宗主国の飲み物であり、チャイはインド本来の民族的飲み物であるのを彼等は知っているなと思った。

チャイは大きな鍋にどっぷりと茶と砂糖を入れて煮上げて、トップリと作られる。小さな器で少しずつ作っていたのでは間に合わぬのだ。

それ位路傍で大量に飲まれている。が、何しろ砂糖の味がモロにする位に甘い。反ダイエットの飲み物なのである。

しかし、あの飲み物はインドの気候にピッタリのもので、寒い日本には合わぬ。

『紅茶を受け皿で』という小野二郎の本があった。晶文社から出ていた。

イギリスのリバプール等の労働者の紅茶の飲み方を書いた本であった。ジョージ・オーウェル等を確かに引きながら、イギリスの労働者達がそこらのお茶屋で、つまりは路上でチョッとお茶を飲る時は、たっぷり受け皿にまで紅茶を溢れさせて注がせ、その受け皿のお茶を飲むのが楽しみなのだの説を説いていた。

小野二郎はなんと42才で死んでしまった。それと比べると、鈴木博之の68才は、キチンとやるべき仕事をまっとうしたなあの感もある。

朝の光の中で何するでも無く無為の時を過ごしているけれど、出来得れば小野二郎、鈴木博之とアーメダバードのオールドタウンの金曜モスク前のチャイ屋でチャイを飲りながら、イギリスとは何者であるのかの話しをしてみたかった。

世田谷村日記 R269

3月11日6時半チョイ前離床。娘がオランダへ行くので早起きに附合った。昨夜は以前は受け付けなかった養老孟司、森毅を半分眠りながら読んでいたら、意外に面白くって一冊全部読み終んでしまった。

この気取りの無さは中沢新一の『蜜に流れる博士』には無いな。

要するに意識と無意識の際について語り合っている本である。脳の微細極まる構造は意識の、つまり論理的と言われている世界に属するモノで集積しているのではない。首と体が切り離されている如くに頭と下半身は実は切り離されていると言う説明が面白かった。

三島由紀夫の生首バッサリの話が例えに出されていて妙に解りやすいのであった。

又、全共闘、連合赤軍浅間山荘事件、そしてオウム真理教事件が一連のモノとして語られていて興味深い。

小浜逸郎のオウム、全共闘、白樺派つまり身体、教条的理想の小歴史と似てはいるが、反白樺派つまりはリアリストとも言えよう、二人の論者が説いているところが面白いのである。

6時半に離床する前、30分程3月30日の退職シンポジウム「これからのこと」で話すべき大筋を決めた。

やはり、真正面から早稲田建築のこれからのことを話すべきだろう。

折角ドイツからグライター、台湾から李祖原と二人の友人も来日してくれるので、何故そのような人脈が生まれたのかを話しておかねばならぬだろう。

鈴木博之がなくなり、とても大事な人物が不在のシンポジウムとなるが、それだけにその不在をわたくしなりに意識して、キチンと話せたら良いと考えた。

折角多くの人々が来て下さるようなので、わかりやすく面白い話しを提供したい。

どう面白いかと言うならば、初めに安藤忠雄が話してくれて、次に磯崎新が話す予定だが、その間にわたくしが割って入ってグライターと李祖原の話をしながら世界の事を話せるかと考えたのである。

早稲田での最後のレクチャーだと思ってガチンコでやるつもり。

今朝は11時に隣りの烏山神社で神社の氏子総会がある。

世田谷区役所からも人が来て、保育園作りの相談の会となる。

世田谷区は日本で一番の都市内待機児童、つまり保育園に行く事が出来ぬ児童が多い処である。それを何とか少しでも解決の方向へ向けて動こうではないかの会でもあるのでキチンと少しでも機能したいと考えている。

只今、8時だ。日記268、269をようやく記し終る。

次は「飾りのついた家」組合日誌70を書くつもりだが、あんまり朝に書き過ぎると夜眠れなくなるのも知る身なので、身体には書かぬ方が良いのだけれど、頭脳と下半身つまり身体は切り離れているそうだから、マア、いいか?

世田谷村日記 R268

3月10日11時研究室。打合わせ。伊藤アパートは名称をクライアントが「洗足邨」とした。その「洗足邨」の家賃を「飾りのついた家」組合の作品リストにUPする件。ナーランダ大学の件。そして星の子愛児園増築の件が議題。他に「生きもの魂倉」犬バージョンのモデルを検討する。これはまだ学生の藤森にやらせているので、マア遅々たるペースだが、もしかしたら育つかも知れぬと考えての抜擢である。まだとても建築にはタッチさせるわけにはゆかぬのは当然の事である。学生はクライアントが何者かであるかを知らぬし、余りにも無知だ。毎日顔くらい洗い直しておきなさい位の者である。まあ率直なのが取得だ。西本願寺にナーランダの件送信して修了。

アニミズム紀行8、10冊にドローイングを入れる。そろそろ予約して下さった読者の手許に届き始めているのかな。便りはまだない。

わたくしの早大退職記念の「石山研全仕事」の分厚い私家本を1000冊印刷すると聞いてビックリ。1冊5000円だと言う。先日、やっとあと書きに代えてを書き終えたばかりのものだ。せいぜい500冊くらいにしといたらと告げる。大隈講堂の教職引退シンポジウムには1000人以上の人が参集して下さるそうで嬉しいけれど、1000人が皆教職引退本を買ってくれるとはとても思えない。

わたくしとしてはアニミズム紀行5、6、7、8号を買い上げていただきたいと考えてはいる。終わった事も大事だが、明日の事はもっと大事だ。

この辺りが鈴木博之の考えの深さに届いていないところだろう。

残念だが日々の暮しの建築稼業だ仕方ない。

15時半研究室を去り、千歳烏山へ。16時半長崎屋で一服するもやはり飲みモノ、食いモノ共に身体が受けつけない。なにしろ油が合わなくなっている。

インドで気持と身体が脳より早く浄化されたのであろうか?

とすると人間の身体は単純な浄化槽みたいなモノでもあろうか?

口から食いモノを放り込んで、ケツの穴から排泄するという一連の管のようなものだからな。

そして意識はクソをコントロール出来ぬ。便秘の時は出ないし、下りの時はジャブジャブ出る。それを調整できないのである。

「アラ、もうお帰りですか、どこか体悪いの?」の長崎屋のオバンの声を背に、

「イヤ、疲れてるだけなんだ」と小声で。まさか、ここの油が身体に合わぬとは言えぬのが、わたくしの気弱いところなのだ。

世田谷村に戻り、すぐ横になる。中国、インドから帰り10日程にもなろうというのにまだ体調は元に戻らない。もう長旅をする身体力が備わっていないのやも知れぬ。

夜、水木しげるの『日本奇人伝』をめくっていたら二笑亭主人が登場している。

ヒトラーはヒトラー伝記を水木本で読んで、活字本より余程ヒトラーを知る事が出来たが、二笑亭もその気配がある。ただ水木さんは二笑亭の実物へのイメージがいささか散漫で迫力が無いような気がした。

生意気を言うが二笑亭は毛綱モン太との『異形の建築』の出発点でもあったから、少し計りモノ申す権利くらいはあるのだ。

養老孟司+森毅の『寄り道して考える』を読みながら深夜いつのまにか眠った。

世田谷村日記 R267

3月9日9時前、世田谷村を発つ。新宿より山手線目黒から東急目黒線で洗足へ。

東急線で洗足に降りそこね、一駅戻ろうとしたら急行で洗足には止まらずで、馬鹿な手間をかけてしまった。約束の時間を15分程遅れて伊藤アパートの現場到着。すでに不動産屋、工務店等の方々が15名程路上に集まっている。伊藤アパートは小さな4戸の賃貸しアパートである。

この設計に関しては地元の工務店の力を使うのが理の当然と考えた。無理をしてまで1個の作品として仕立て上げる迄はしない方が良いと考えた。

それで実施設計は工務店にゆだねた。わたくし共はデザイン監理という立場とした。しかし全てをゆだねたわけではなく、賃貸しアパートの家賃が少しでも高くなるようなポイントとして、道路に面したファサードとも言うべき駐車場に面した壁はキチンとデザインした。道路に直交した壁はこの小さなアパートが街角に占める、言わば最大のポイントである。

そこを新建材を多用しつつも、左官仕上げとして色鮮やかに仕上げた。

又、道路に面した2戸はインテリアにも意を尽した。他の2戸はこの周辺の標準的な仕様の中に納め、工務店の経験、識見に任せた。

さて、仕上がりだが、微妙なところで気に入らぬ。

それ故、半日左官を呼んで手直しを命ずる事となった。

この街角に立てた壁が無ければ、わたくしは0(ゼロ)である。

指示を終えて、近くの誠興不動産本社へ。

山田社長、以下の面々と賃貸しの値段について相談する。

終了後、伊藤邸で昼食をごちそうになる。

カレーが出たのでギクリとしたが、いかにも日本風のカレーであったので美味であった。ワインもいただき、談笑する。

14時迄。帰りは「飾りのついた家」組合の中村未歩さんと目黒迄一緒に帰る。中村さんの作品は4点、今度の建築の重要な壁に取り付けることになるのだ。

15時世田谷村に戻り、横になり休む。

夕方、磯崎新さんと3月30日の件で話したいと思ったが、どうやら留守のようでFAXを送信させていただいた。

なにやかやと考えてはいたけれど、今日、ほぼ完成の伊藤アパートを実見して、これは「飾りのついた家」組合の作品録に公表し、なおかつ、テナント(賃借り希望者)をわたくし共も不動産屋と並行する形で実施してみようと決める。

明日3月10日、ミーティングにかけ、伊藤さんにも御連絡して実行に移したい。

世田谷村日記 R266

3月8日13時、烏山区民センター前広場。藤森他研究室の面々が大テントの中に小さな店を出していた。「飾りのついた家」組合の作品販売をやっていた。

市根井立志さんの作品を中心に並べている。何点か売れたようだ。

やがて佐藤と共に近くの風々ラーメンへ。久し振りのトンコツラーメン、ギョーザを食す。大坪さん現われる。組合作品一点お買い上げとの事。14時半席を移そうと、南口へ。

風々ラーメンのおかみさんから色んな話を聞けて良かった。

南口の駅プラットホームに面した長々しい小洒落た店。小洒落た店故に小洒落た子供達がたむろして、漫画読んでいる。大坪好みなんだな、かくなる植民地風文化の浅瀬は。しかし2階の窓から烏山駅のプラットホームの人の群が眺められて面白い。

佐藤に世田谷村の書庫、1、2階の改造の件を相談し、素早く設計してくれるように依頼。4月からの仕事場である。地下、1階、2階、を合わせると40坪になり、大きくもあるが当初は大き過ぎるので地下使用は将来の事として、始まりは父親の書庫として増築した未完の増築部分、つまり地上階を使用することとした。

1階にビニールハウスを作る案は家族の反対もありあきらめることとした。

16時半メキシコのコロナビール、テキーラをチビリとやって皆さんと別れる。

世田谷村に戻り、横になって読書。結局インドで1枚も読まなかった中沢新一の『蜜の流れる博士』、南方熊楠に関する断片本を読む。中沢新一の才人振りはインドでは鼻について読めなかったが、重い本を折角持っていったのにという残念さがあり東京で読む始末である。

20時夜食をいただき、後読書続行、24時過眠った。

3月9日

7時半離床。日記を記す。今朝は日曜日だが、洗足の伊藤アパートが完成し内覧会、および家賃の決定に立ち会うので9時前に世田谷村を発つ予定。

建築の壁の一部にチョッとした試みをしたので、それは見てみたい。

左官職人がうまくやってくれたとは思うが。

この建築は意図的に地元品川のミドルクラスの工務店との協同とした。

だから純然たる作品と呼べるモノではないが、協同することに意は尽した。

その方がクライアントの利益になると判断したからだが、我々のエネルギーも空廻りをしないで済んだ。

時に住宅設計は非作品を目指した方が合理的であるのは自明の理でもあろう。街角に彩色した壁を一枚、立てたと言うのが実感である。

今朝は不動産屋と会い、1円でも高く家賃を設定するのが役割となる。

世田谷村日記 ある種族へR265

3月7日11時、研究室で打ち合わせ。杭州プロジェクト、星の子愛児園増築の2件。杭州満覚路上山庄計画は中国での打ち合わせを反映した第三次案をチェクする。クライアントの意向もほぼまとまってきたようである。星の子愛児園増築はわたくし共が設計監理した旧棟のリノベーションを含む3階建の増築であり、リノベーション部分が非常にややこしく法規他がからんでいるので、これは渡邊大志担当とする。

増築部分は佐藤研吾に挑戦させ、わたくしが現場を見る事になろう。世田谷村から近いので現場監理は容易である。

100坪弱の規模であり、佐藤の初体験には丁度良かろうが、クライアントの厳しさも同時に体験させねばならない。指示が一段落したところで、アニミズム紀行8に満覚路上山庄計画のドローイングを描き始め、同時に自身の頭を計画の中に連れ込む如き作業をする。とても面白い。

13時、世田谷区役児童保育課の方々3名来客。

世田谷区での計画についてのすり合わせ。

順調に進行すれば良いが、まだ何があるか解らないから慎重に進めたい。

アニミズム紀行8へのドローイングは自然に「いきもの魂倉」犬バージョンのスケッチとなり、これは速力が増しはかどった。総計15冊程にドローイングを描き込む。

16時中国の計画を再びチェック、ほぼまとめて上海へメール送信する。

15時半研究室を3名で出て、京王稲田堤へ向かう。

16時半京王稲田堤・厚生館にて近藤理事長にお目にかかる。

星の子愛児園増築世田谷の物件の2件打ち合わせ。

17時半JR稲田堤駅近くの魚料理屋で理事長親子、佐藤と会食。インド他の報告もかねる。

理事長親子とのお附合も実に長いモノになってきたなあ。

大事にしなくてはならない。

インドで何となく食べたかった、ここのウナ重が出て嬉しいのであった。

想えばインドは粗食であったような気がするが、カレー味ずくめにまだ慣れていないからであろう。

イヤハヤ、インドは何しろ言うまでもなく全部カレー味であった。

サンドイッチとチャイだけがそれから逃れる道であった。

インド人の一般的な頭の良さはカレーの刺激が作りだしているのかなあ。

20時頃会食了。理事長親子とお別れして京王線稲田堤へ。烏山で佐藤と別れ20時半世田谷村に戻る。

3月8日9時離床。そういえば昨日は朝方、ネコの石森さんの事が気になって自宅を訪ねたが、何と真赤な顔で現れ「カゼにやられました」との事であった。

何度ケータイに電話してもつながらず、いぶかしんでいた。インドみやげの華やかな布地を手渡す。

今日は午前中に佐藤他研究室の連中が烏山区民センター前で何やらパフォーマンスに参加すると言っていたから、11時頃出かけてみるつもりだ。

安西直紀さんが20日に我孫子・真栄寺に挨拶に出かけたいとのFAXが入ったので真栄寺に電話したら18日〜24日迄はお彼岸で何かと忙しいとの事。やはり寺にはお彼岸という特殊な時、異次元の時が在る。それは尊重すべきであろう。

10時半に電話してみたら、すでに佐藤はセンター前に居て、何やら、恐らくは手持ち無沙汰でいるのであろう。

しかし若いナア。全く無駄な時間とも思える時間に自らを置くのはわたくしも若い時の常であったが。

そんな時も又、お彼岸と同じに魔の刻なのであろう。

20代はそんな時間の連続である。

世田谷村日記 ある種族へR264

3月6日11時半研究室打合わせ。アニミズム紀行8ドローイング入れながらの杭州プロジェクトスケッチ。10冊。石山研製作「これからのこと」石山全仕事の大冊へあとがきに代えて10枚執筆。16時半研究室を発ち烏山地区へ。向山一夫さんといきものの魂れ倉(飾りのついた家組合)他の打合わせ。19時半了。世田谷村に戻る。ようやく体調が戻りつつある。

3月7日8時過離床。青空が拡がるが薄く雲もゆっくりと流れている。昨日は研究室のOBも交えた諸君が作ってくれた大冊の石山研全仕事の、あとがきをようやく書いた。あとがきを後向きに書くのに向いてはいない性格なので、やはりこれからの事を少し気分にまかせて書いた。いつまでたっても悲観的になれない自分が居るのを自覚して、もうこの性格を修正するのは無理なのを知る。

今日は色々な打合わせが続き目まぐるしい一日になりそうだけど何とか乗り切りたい。コツコツと『アニミズム周辺紀行8』にもドローイングを入れ続けたい。空想妄想の類ではなくって、建築のプロジェクトのエスキスになってしまっているのが、時間に追われている今の自分を良く表している。

あんまり追われ過ぎても、それを乗り切る体力、知力は無いのはすでに知るが、あんまり追われなくとも妄想三昧になり過ぎる自分もすでに知っている。

創作ってのは難しいものである。

9時45分「飾りのついた家」組合日誌68「再び難波和彦の卓上帽子掛けについて」を書き上げる。

作品録90の下に出ている小さな写真がとても良くって、それに触発されて書いた。この卓上帽子掛けの真上からの写真は難波和彦のトレードマークとして使われても良い位のものである。 

世田谷村日記 ある種族へR263

3月6日8時前離床。少し計り普通の朝方に床を離れられるようにはなった。しかし昨夜は21時には眠りに入っていたのだから、睡眠時間は12時間になんなんとしている。中国、インド行の疲れがカゼを引き起こし、セキが止まらないのである。昨日3月5日は結局来客もないので研究室は休ませてもらった。世田谷村で沈没していた。実に手持ち無沙汰であったが楽な一日であった。

仕事と言えば「飾りのついた家」組合日誌に難波和彦さんの帽子置きの作品評をいささか書いた位か。

今朝はグズついていた雨も上がり、3月にはまだ冷たい風が吹いているが、空は弥生の模様である。昨日沈没してしまったので、今日はどうしても出掛けなくてはならない。中国の件、他打合わせが約束されている。

北の窓から烏山神社の森が視えている。クスの樹の大木やらが風にうごめいている。眺めていると東京の森は温暖化が叫ばれているが、地球上ではやっぱり北方のモンスーン地帯に属するのだなと痛感する。黒いのである。

インドでNEEM TREE の樹蔭を体験したからだ。あの樹蔭の空気の感じは全く日本には無いモノである。ジャワ更紗の如くと言うが、まさにヒンドゥーの女性方のサリーの揺らぎと、軽やかさの蔭と言って良かった。樹蔭に横になっていると風が身体を柔らかく包み流れるのであった。白く光るのであった。

一昨日、早々とインドから通信が入っていた。今日は一つだけでも返信を打ちたい。

世田谷村日記 ある種族へR262

3月4日14時研究室。北園徹、柳本康城、渡邊大志他がより集まり3月30日の大隈講堂での早大退職記念シンポジウム『これからのこと』の打合わせするのに附合った。だいぶ多くの方々が集まって下さるようなので、裏方は大変なのである。その打合わせを聞きながら脇で絶版書房『アンミズム周辺紀行8』にいよいよドローイングを入れ始める。題材としては先ずは中国杭州のプロジェクトのスケッチとした。計5冊にドローイングを入れる。計画の一部のスケッチ作業も兼ねた。そうせざるを得ぬ。一日5冊が今のところは限度である。

中国、インドの疲れはいまだに抜けず、セキも止まらない。少々張り切り過ぎた。まだ年相応という事が出来ていない。

16時半、北園、柳本両氏と新宿南口長野屋食堂へ。インドで喰べたかったモノを食す。インド、中国の話を両君と。食堂のオカミから貰いモノをする。18時半世田谷村帰着。すぐ横になり休む。

3月5日

やはり眠り過ぎのようで、4時半に離床してしまう。まだ当然外は暗い。何をするでもなく日記を書く。しばらくして再び休む。

11時過再離床。曇天。日本に帰って青空を視ていない。

インド、アーメダバードのオールド・タウンの喧騒を想い出す。この世田谷村の静寂ばかりではなく、電車や新宿を歩いて横切る時のこれも又、冷え切った如くの空気から考えると、まるで異なる世界ではあった。

アレの元はオートリキシャでの地元の人ならチャイ一杯程度のルピーによる移動にあるのではなかろうか。オートリキシャは人間が走るのよりも少し更に速い位の速力で旧市街を走り廻る。人々の足代りなのである。旧市街は近代化の中で異常に膨らみ、変化してきた。その拡大は人間の足では歩ききれる範囲ではない。そのぶんにオートリキシャが入り込んだ。都市交通としたら、ガソリンなのかより粗悪な燃料なのかは知らぬが高密度の都市では理想的な乗物である。バンコクのパタパタ程のキャパシティは無いが、三人は乗れる。事故は勿論多いのだろうが、死亡事故はそれ程のことはあるまい。なにしろ速力が遅い。日本の都市に普及させるのはドライバーの許認可の点のみで難しい。

しかし、伊豆松崎町で市役所職員が人力二輪車を引いて観光地を巡ったように、地方都市の観光には最適なのではないか。

あのビャアーというエンジン音も心地良いし、何しろ安価である。日本円で見当をつければ大体100円ぐらいではないか。チョッと駅まで、チョッと保育園まで、100円という案配である。

世田谷区なんかにも最適ではあるまいか。歩ける都市を目指すべきであろうけれど、どうしても歩けないエリアが出現してしまう。一人の人間には。

それを駅前や、バスだまり、タクシーだまりにオートリキシャ(電気自動車がやはり望ましかろう。今もとまらぬ、わたくしのセキはオートリキシャの排ガスに因があるやも知れぬ)を集めておいて人々の用の足しにするのはどうか。

タクシーにとっては打撃になるだろうが、日本のタクシー料金はアレは高過ぎる。一人で乗るモノではない。バス料金の半額で相乗りOK、何処でも行けるとなるとこれはオートリキシャの醸し出すうるささはさておいて価値はあるだろう。しかし、あのうるささだって斜陽の国になるだろう日本にとっては、特に地方都市にとっては昼間の花火の空しさには無い活力を産み出せるのではなかろうかと、インドを懐かしむのである。

世田谷村日記 ある種族へR261

3月3日は15時に研究室。20時迄打合わせ。

06星の子愛児園増築、10世田谷計画−①保育園、17京都西本願寺、18ナーランダ大学、19「飾りのついた家」組合、20中国杭州の計画、21インドworkshop、22ソーラーすだれ、に関して討議。大方の方針を決める。

20時半新宿南口味王にて渡邊、佐藤と打合わせ続行。

22時了。世田谷村帰り23時過であった。

3月4日、12時離床。まだまだ眠りたいが起きた。

陽光射し込み暖かい。

難波和彦さんに電話。氏の帽子置きの完成品が石山研に送られてきて、仲々出来が良いので、難波さんに「飾りのついた家」組合の作品録に一筆書いていただきたい旨連絡する。

今日は14時に研究室にチョッとした打合わせがあり、出掛ける。

世田谷村日記 ある種族へR260

3月2日

昨日3月1日は13時過大隈講堂へ。修士論文、設計の公開講評。

修了後、各賞審査会。わたくしはそこで抜ける。23時世田谷村に戻り休む。

本日3月2日は13時過迄眠った。電話その他で何度も起こそうとしたが、遂に起きなかったそうである。

やっぱり日本は寒い。留守中のことは一切知らぬが、再びの大雪だったようだ。

17時過長崎屋へ。おばん、向山、大坪諸氏へ小さなおみやげを渡す。

久し振りの長崎屋の料理は身体が受けつけなかった。疲れで身体が斜めにかしぐ風もあり早々に退散する。18時半早々と横になり休む。

3月3日

11時離床。どうやら14時間と少し計り眠り続けたようだ。チビ白の子猫がフトンにもぐり込んできて鼻をかじったりするので目覚めた。こ奴はどうやらわたくしが帰ったのを喜んでいるようだが、黒デカは歓迎の素振りも見せぬ。

可愛げが無いことおびただしい。

11時半、難波和彦さんに電話して、留守中の鈴木博之本葬事務局の仕事への礼を述べる。

今日は昼過ぎに研究室へ。

世田谷村日記 ある種族へR259

3月1日

7時過離床と思っていたら、時計がまだ香港時間のまんまで実ワ8時過であった。

世田谷村の庭の梅の花が満開で見事である。ホオジロが10羽以上群れ集まって梅の芽をついばんでいる。花と鳥の動きの対比が面白い。この景色にもエネルギーがあるな。いかにも日本的な美の世界ではあるが。

馬場昭道さんに中国・インドから帰った旨、他報告。西本願寺の佐々木さんに来週はじめに、ナーランダの件等を報告する旨も伝えていただく手配。

金子兜太さんの句も近日中にいただきに上がらねばならない。

今日は10時から終日大隈講堂で学部の卒計、修士論文・計画の発表と講評会があるが、午前中の学部生の部は休ませていただく。

午後からの修士の部は出席する予定。先月、23、24日両日のインドでのKurula VarKey Design Forum 及び25日のMS University of Baroda そして2月27日のBaroda Design Academy でのインド、他アジアの学生諸君の力量をつぶさに見聞し、実感したばかりなので、これはどうしても比較して眺めてしまうであろう。

インドは中心的な建築教育はやはり日本同様にと言うべきか、少し異なるかも知れぬがパリ時代のル・コルビュジエの影響が大であった。

ドーシがその中心である。日本で言えば、前川、坂倉、吉阪という事になろう。

ドーシの建築家としての見識がその周りにある種の建築的空気を作り出し続け、それがインド独特の近代建築を作り続けてきた。

早稲田建築にもそれに似た歴史があった。

そんな歴史が次第に崩れてゆく、今日はその幕切れのような気もするな。

世田谷村日記