石山修武 世田谷村日記

世田谷村スタジオGAYA

(今後新たに「週報 -GAYAの制作記録-」ページがはじまります。)

2014 年 10 月

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世田谷村・スタジオGAYA日記 232

10月31日 7時離床。曇り。
中国杭州満覚路上山庄のエントランス管理人棟のスケッチを試みる。管理人棟は日本では戸建の住宅程の大きさのものだ。全体の計画の中では小さな位置と力しか示さぬものである。
世田谷村の設計、施工以来日本では住宅設計には関わっていない。戸建の住宅設計に対しては世田谷村で、わたくしなりの答えを出したの考えからである。それ故にわたくしの住宅には「村」の名称を与えた。「村」すなわち、ある種のコミュニティと言わずとも集合体の問題こそ、集中して取り組むべき主題は他に無いと考えたからである。
しかし、中国でその集合体の仕事に取り組むうちに、妙な事かも知れぬがエントランスの小さな管理棟、すなわち管理人の皆さんの居場所が、その大きさ(小ささ)が日本のいわゆる小住宅と同じなのに極く自然に気付いたのだ。そして、自然に細かいコチャコチャした事を考えずに、実にシンプルにその家を考えようとしている。
中国には中国の事情があろうが、その小さな事実(体験)を介して、オヤと、日本の小住宅について考え始めたのだった。


世田谷村・スタジオGAYA日記 231

10月30日 若いスタッフはギリギリの、ほとんどリミット状態で能力を全開している。それ故、わたくしは楽である。


世田谷村・スタジオGAYA日記 230

10月29日 9時過ぎまで寝過ごす。陽がすでに高くなっている。
昨日は12時元黒潮社左官教室編集長であった旧友・小林澄夫さんがGAYAにいらした。秘かにわたくしが信頼している人物である。今は古本屋巡りと古い映画館巡りの生活だとの事。以前「自分は死ぬのはバイカル湖と決めています」との事で、「ロシアへは出掛けたんですか」と尋ねたら、「金がかかるので行きません」。
この人物くらい孤独が身についたと言うのかまるで影になってへばりついている人をあんまり知らない。詩人だから、自分一人で秘密結社青空をつくり、詩集のハンコーにしている。
すぐに昼飯に共にGAYAを出る。


世田谷村・スタジオGAYA日記 229

10月29日 8時前ドローイング一点を得る。とりあえず「墓場と神社の狭間の計画」と名付けておこう。世田谷区南烏山2丁目の計画である。
今日はこの一点のドローイングでしまいにするのが、良い一日にする極意なのであろうが、そうもゆくまい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 228

10月27日 考古学者の丹念なしかし実証的であろうとする想像力は、はるか遠くで建築設計のある種純粋型であろうとする努力に似ている。


世田谷村・スタジオGAYA日記 227

10月26日 日曜日 作品群の中身については、野又穫のトレードマークでもある(今のところは)ノスタルジックな、しかし不在の建築を描いたモノがやはり良いように感じた。現代的な造形を施された不在の建築については、勝手ながら、これはイカンなと考えた。やはりわたくし奴も建築作家であるから、厳しい眼になるのであろう。
勿論、わたくしは野又穫の絵と比べれば実に不人気極まる作家であり、人気作家の商品と比較すればウームと完黙しかないのだが、それはそれ、不人気作家なりの意地、つまり根性はあるのである。1500万円の作品を眺めて、これはわたくしも大きな額(額縁ではない)のつけられる作品を彫らねばイカンなと考えた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 226

10月25日 スピーチを終えたら、司会の佐々木睦朗が難波退官記念の座談会でのわたくしの発言を覚えていて、補足してくれた。あの時は難波さんの仕事の価値は建築、住宅の世界に自律したものとして考えても意味が無く、散逸的なコミュニティ、つまり100例以上のクライアントの住宅の別種の集合の仕方を考えてゆかぬと価値が薄いのだと述べた。何かの本に記録されている。今日はもう一歩踏み込んでベンヤミンの複製時術の思考に近いのではないかと述べた。箱の家にはアウラは無い。つまりモノとしての歴史的な力はほとんど無い。しかし、社会学的にクライアントの集団の意味はとても重要だろうと述べた。建築として論じるよりも社会学の領域で考えねばならぬ類のモノなのだと言う事である。あんまり長居していても意味が無いと、早々と退散する。鈴木杜幾子さんの後ろ姿が視えたので追ったが見失った。

一関ベイシーの菅原正二から毎度の、「swiftyの物には限度、風呂には温度」の第98話が送信されてきた。朝日新聞のコラムも、もう98回になったのか。
彼はジャズの世界のことにしか興味を持たぬ。あとは深い知り合いの事しか書かぬ。その意味ではギョッとする程の小業界の住人なのである。しかし、その立居振る舞いの上等な事、上品なのである。でもモダーンJAZZの業界にだって下品な奴は少なくない。でも業界=コミュニティが極度に小さいので、その関係と言うべきかはすぐに煮つまる。密度は恐らく以上に濃い。多分、日本のモダーンJAZZ業界のコミュニティ本家であるアメリカの業界のそれよりもはるかに特殊で、妙テケリンな地政学的意味があるのだろう。
菅原正二は更に、日本ジャズ喫茶のオヤジであり、そのオーディオは世界に冠たるものではある。つまり、日本のオーディオ業界随一の目キキならぬ耳キキである。
妙な、しかし面白いコミュニティがあるものだ。
我々の設計業界のうさん臭さよりも、それは小さい分だけピュアーでもあり、付き合いやすいのである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 225

曇天で、昨日程のことは無いが天気予報程には暖かくはない。今日は中国の茶館の設計に没頭するか。古いスケッチを引っ張り出してみよう。


世田谷村・スタジオGAYA日記 224

10月23日 8時離床。星の子愛児園の柱のデザインを急いでスケッチする。11時GAYAへ。梅沢良三構造設計事務所のスタッフと構造の微細な変更について相談。30日に東北のアトリエ海よりベースの大型鉄板制作物が現場に搬入となり作業はのんびりとは出来なくなっている。
竹の工作物のデザインが少しまとまり始めているので、打ち合わせもリアルになってきた。13時過一段落小休。


世田谷村・スタジオGAYA日記 223


世田谷村・スタジオGAYA日記 222

10月20日 7時前離床。すぐに日記を記す。いささかの長い日記となる。東京を離れるとやはり時間が新鮮なんだろう、多くを記憶しているのだ。9時迄かかってしまった。
今朝は高木さんの設計した「博多百年蔵」を見学したいと申し入れていた。この作品については少し前にXゼミナールで簡単に批評しておいたのだけれど、恐らくほとんど誰も気付いてはいないだろう。
実物を見ないで写真だけの資料での批評であったのが心残りだった。


市内の彼の作品である小さなテナントビルを一つ見学。これは手際良くまとめていた。
是非もう一つ見せたいと、高木さん自身がオーナーでもある木造の小ビルを見学。これは中々に良かった。彼の美質が全て表現されていて過不足がない。
わたくしの知る限りでは「博多百年蔵」と並び、今のところの彼の美質が集約されている。
金属、土、木、紙などなど多彩なマテリアルの混成が彼の設計の骨格である。その材質への感性は今の若い世代のそれとは異なり、極めて体験的でもあり深い。期待したい。


16時過九州大学へ。建築学科末廣香織研究室にて末廣先生の作品をパンフレット等で見せていただく。その後、学部学生の設計製図課題の講評に参加。6名の学生の作業を見る。どうしてもインドの学生達、あるいはアジア各地の学生達のモノと比較してしまうが、ひたむきさと言うべき情熱の大きさが実に小ヂンマリしている。この人達は一度日本を出て同じ世代のアジアの学生達のエネルギーを体験したら良い。真面目なのだが、エネルギーそのもののキャパシティが小さいのだ。
アーメダバードのCEPTで会ったバングラデシュの途方もないエネルギーを持った学生一人のエネルギーを体験したら良い。日本人だけの小さな村でトレーニングをしていても何の刺激も得られぬだろう。しかし、皆真面目なのである。勿体ないなあ。
18時わたくしの講義を始める。
「アジアの建築・都市と九州」がテーマとして仕込んだものである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 221


世田谷村・スタジオGAYA日記 220


世田谷村・スタジオGAYA日記 219

10月18日 早朝5時目覚めて離床。4日程の西日本への講演他の旅に出る準備をする。中国から送られてきたローカルアーキテクトの図面をチェックするに、中々良くフォローしてくれているので、逆に再々修正に熱が入りそうだ。
昨日17日は10時前京王稲田堤現場で少し計りのスケッチ。エントランス部分のスケールをより身近なモノにしようと試みる。勿論設計の大半はすでに終了して製作に入っているのだけれど、細部のツメ、微修正は欠かせないのでこんな作業をしている。小さな建築には大きな努力が不可欠なのだ。小さければ小さい程に異常とも思う力を注ぐ必要がある。

大判の画用紙入れを持って発つ事とする。これで息を抜く時間が全く無くなるのだが、それが楽しみで、大ゲサだけれど生きてるんだから仕方ない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 218

ベルリンに移ったヨルク・グライター先生のニーチェ研究の積み重ねをなつかしく思い出したりもする。彼にGAYAの進行中の仕事を送ってみることにしよう。


世田谷村・スタジオGAYA日記 217

10月16日 何故、そんなコトが気になったのだろうか。それは原子力発電=核分裂の問題はすでに 技術の主題ではなく、哲学、宗教の問題ではないかと考えているからだ。最も深奥かつ最大の問題は今、環境破壊の 問題であり、それは「イエローケーキ」ではアフリカ、オーストラリア他の先住民族の居住地とウラン鉱山の場所がダブりがちである-- の問題につながるのである。
我々が包み込まれ、かつ用心深く考えねばならぬのもその問題なのである。何故、我々と言わねばならぬのかと言えば、得てして 我々はいわゆる先住民族(日本ではアイヌ、沖縄)に対してはどうしてもすでに加害者の側にすでに立っており、その事にはほっかむりをし続けてきたからである。

色々と考えねばならぬ事は多過ぎるけれど、わたくし、及び我々としては、結論として「開放系技術」の中心課題である、自分で必要なエネルギーは出来るだけ自力で作るようにしたい、に尽きると考えた。


他人はいざ知らず、わたくし及び我々が今考え、すすめるべきは超小型の私物としての発電システムなのだ。国家、政治の関与し得ぬ 私性、固有な生体としての環境体の表現なのである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 216

10月15日 何本かの電車を乗り継ぎ10時半西武池袋線東長崎、豊島北教会着。 雨の中を三々五々人が集まる。10時半過予定通り、日本キリスト教会震災対策事務所主催、スタジオGAYA 応援、「イエロー・ケーキ」上映会。13時過までの長丁場となる。70名程の参会者であった。東独ヴィスムートウラン鉱山をはじまりに、 オーストラリア、カナダ各地のウラン採掘鉱山の放射能汚染の現実を記録したドキュメンタリーである。 ウラン鉱山採掘の現実を初めて知ることが出来た。


世田谷村・スタジオGAYA日記 215

10月14日 昨日は10時に世田谷村発、電車、バスを乗り継いで西早稲田観音寺へ。石山の家の法事をなした。若い住職である荒川くんの真言が中々素晴らしく、驚きもした。観音寺は真言宗豊山派の密教寺院である。父君の荒川光雄住職に依頼されて、わたくしがこの寺院の設計を行った。それ故に深い愛着もある。
竣工当初は我ながら異形なモノを作ったかなの想いもあった。が少し計り古びて廻りの草花、樹木も育ち、次第に場所になじんできた感がある。わたくしのデザインの系譜としては「伊豆の長八美術館」のはじまりの系譜である。そして、これは今、現在工事が進行している「星の子愛児園増築」の流れともなっている。日本の都市にはスタイルらしいスタイルを持つ建築群は、大まかに言えば無きに等しい。皆、ヨーロッパ建築様式にその源を持つ日本近代の歴史の産物でしかないヨーロッパ建築の接木でしかない。


今日は昨日からの考えの流れと、今週末からの山陽、九州への講演会の準備を一気にしなくてはならない。久し振りの講義でもあり、アッという間に変わりつつある自分を話してみたくもある。幸い、岡山も博多も、そして帰りの姫路も西日本エリアの文化圏ではある。今、やろうとしている中国人の観光対象としての日本、そして西日本というテーマに絞って講義をまとめることにする。


世田谷村・スタジオGAYA日記 214

10月13日 体育の日の予備で休日
 11月にインド東部ベンガル湾側に出掛ける予定を立てていた。インド亜大陸最古の石窟寺院群をどうしても視たいと考えたのと、太陽の運行、および天体の動きに対する古代のインドの人々の想像力らしきに直接触れたいと考えたからだ。アジャンタ等の仏教の石窟には厳然とした美の規格はあるのだけれど、人間が感得していたにちがいないアニミズム的生態への直観がすでに抜けガラになってしまっているように考え始めている。やはり、その造形はつきつめるところ死の、死に対する畏敬の造形なのである。今度、出掛けたいと考えていたジャイナ教の窟院群にはどうやらその型にはまった美らしきが無いようで、いたく好奇心をそそられた。生体の融通無碍への共感があると感じられた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 213

10月12日 日曜日
70才になって、初心に戻るとは初々しいのもほどほどにせよと我ながら思うが、仕事場づくりはコンクリート打ちから始めたようなもので、毎日デッキプレートの鉄板に囲まれて、初々しいどころか中々にハードな気分でもあり気持は良い。


世田谷村・スタジオGAYA日記 212

10月10日
16時京王稲田堤星の子愛児園増築工事現場。根切りされた地面を検分、基礎について等を検討する。構造設計の梅沢良三さんアシスタント担当者三野君16時半前に来て同様に丹念に土層を見る。JR路線側の塀の基礎との折り合いについて相談。大方の結論を得る。道路側エントランスに作らねばならぬバギー用スロープと街灯の移設も相談。とても複雑な増築工事でもあり、造形的にも多面的な複雑さを意図しているので、面白いのだけれど、目が離せない。
やはり現場はくればくる程に、建築は良くなるのはこれ迄の経験で知り尽くしているのだけれど、まさにその通りなことが起きている。


ところで、その路上ミュージアムには、わたくし奴も何点か作品を出展した。烏絵馬なんかの小品はすぐに売れちまった。有り難いことではある。大作は売りたくなかったので法外な値段をつけておいたが、案の定売れなかった。
売れ残りも嬉や花いちもんめである。
その大作は、いまや大ブレイクした具体派の巨匠堀尾貞治と画商兼プレイヤー(アーティスト)でもある藤野忠利の二人の作品をズタズタに解体し、切り刻んで新しく枠内に収めた二点であった。つまり、堀尾貞治、藤野忠利、石山修武のズタズタ共作なのである。
その作品が妙に気になって眠れなかった、昨夜は。
それで早朝起き出して、その二点を引っ張り出した。そしてGAYAに並べた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 211

10月10日
7時40分、その三点をすませたわけではないけれど手をつけた。もう今日は彫るのは止めよう。


世田谷村・スタジオGAYA日記 210

10月8日
夕刻東の空に大きな赤い満月がグラリと傾いている。不吉な月だなあと思った。小一時間して再び月を眺めたら、いつもの月らしい白い月になっていた。不吉だなあと視たわたくしの気持が何かの不幸を感じていたのか?
どうやら、今夜の月は三年振りの皆既月食であるようだ。不吉な筈である。


10月9日
と、無駄きわまり無いことを記していたら8時過に「ときの忘れもの」から依頼していた銅版画の試し刷9点が送られてきた。すぐに開封する。少し柔らかいタッチで彫った筈の新しい奴がやっぱりカリカリの感じで刷り上がっている。
もっと軽く彫っても良いのかもしれぬ。綿貫さんに石山さん、これは線を少し整理しないとダメかもネと言われた竜巻みたいのを彫った奴が良かった。画廊のオヤジの言は信用ならない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 209

10月8日
今日も青空が広がる。7時過離床。7日のGAYAサイトに佐藤研吾が「工作ノート」を独自に開設した。彼は来年、2015年の夏に自身の個展を開催する予定がある。わたくしとはほぼ45年の年齢の開きがあり、身近な協同者であり、弟子でもある。客観的に言えば、最も若い世代に属する創作者でもある。すなわちライバルでもある。であるから、サイトにONされているスケッチの類には全て眼を通している。
当然のことながら20代半端の人間の描くモノに歴然とした才質の片鱗なぞは視ることが出来ない。そんなモノがあるわけもない。彼のドローイングには磯崎新が言葉を寄せてくれている。ハンス・ホラインの、協同者でもあった建築家、ワルター・ピッヒラーのドローイングに通じるモノがある、との過分なモノであった。 これは磯崎新らしい評であった。たしか、その前触れにエットレ・ソットサスとのドローイングに関するおしゃべりのようなモノがあって、そこでピッヒラーのドローイングは数々の多くのドローイングの中では最高のモノであるとの評で一致したとの、小エピソードがあった。
磯崎新としたら、佐藤研吾のドローイングを視て、その本体なぞ見抜けるわけもなく、ドローイングならばピッヒラーが一番だから、よく学んだら良い位の事であったのだろう。若い佐藤はすぐに反応してワルター・ピッヒラーの高額なドローイング作品集を入手したようである。わたくし奴は、コイツ、ケチな男(金を惜しむ)ではないなと卑近な感想を得た。


世田谷村・スタジオGAYA日記 208

10月6日
16時前、佐藤と今日は半端な一日となったなの名目でブラリと一服しに街に出る。


10月7日
世田谷村の猫二匹黒デカ、白チビは次第に慣れ合ってきたようで互いに1メートル程の至近距離で腹を見せ合いゴロゴロ転がっている。マア平和と言えば平和な光景であるが、も少しキチンといがみ合い続けてもらいたい。双方共に出身は野良である。共にオスである。だから生臭い色模様は一切無い。しかし、こいつ等とこのところ実に身近に暮らしているが、こいつ等余程退屈だろうなと思う事しきりである。猫もわたくし奴をそんな眼で眺めているのであろう。


世田谷村・スタジオGAYA日記 207

10月5日日曜日
結論を先ず言えば、近年に無い驚くべき展覧会である。
ロシアアヴァンギャルドと言えば、我々建築設計業界ではロシア構成主義と呼ばれる革命らしきに共感しながらのモダニズムの潮流の中ではモニュメンタルな造形群を思い起しやすい。しかし、何故にモダニズムというイズム、すなわち教条からこれ程のモニュメンタリズムが生まれ得たのかは一種の謎ではあった。この展覧会でロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる動きの、しかもポスターに代表されるより、生な精神に初めて触れ得た如くの気持があった。ポスターは叫ぶ言説であるとの説もあるようだが、まさにそのマンマであった。特にレーニンがその増強に力を入れたらしき映画のポスターにはそれが典型的に表現されている。そして若過ぎた死であったレーニンを継承したスターリンの権力が全てとなったソビエト中央共産党、ボルシュビキ時代になると、その表現力が次第にそがれて、残り火と言うか、灰のようになってしまう、大きな潮流が手に取るように理解できるのであった。
この事実は、我々の、と言うよりもわたくしの建築設計の現実にとても近い。建築の宿命とも言うべき、その土地、場所に対応する一品生産の基本は、まさにロシア・アヴァンギャルドの初期のポスターの生産方法に酷似しているのである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 206

10月4日土曜日
コンクリートのかたまりである高速道路を下りて、すぐの処に目指す西願寺阿弥陀があった。奇妙な実感あり。インフラ構築物の末端にへばりつくようにしてワラブキ(藁葺き)の阿弥陀堂があったのだ。国指定の重要文化財である。阿弥陀堂はそれこそ日本中に散在する小堂の原型的建築である。しかしながら、その中身の阿弥陀が何処から来たモノなのかはまだ知られてはいないようだ。生前の佐藤健からは遡行すればシルクロードをはるかに超えてエジプト、アレクサンドリアまで辿れると聞かされた事もある。西願寺という名はまことに阿弥陀堂には相応しい。西方の浄土を望み続けるの意がある。三間四方の平面を持つ。内に厨子があり、阿弥陀三尊が奉じられているが内に入ることは出来ぬ。いずこの阿弥陀堂も大きな屋根と、深いヒサシを持つのが特色である。


スケッチを切り上げ、今日のもう一つの目的である、原広司のWALLPAPERS展が開催されている、市原湖畔美術館へ。13時過着。


講義は展示のテーマでもあった原さんらしい観念の写経について、つまり自身の私的文献学について、その写経と称する形象についてであった。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は文献記号学者の才質溢れる著作であったが、原広司さんの写経はエーコの物語の舞台が古い中世の修道院であったのと比し、歴史の薄い近代建築の中で行われたので香気がいささか欠けていた。
しかし、原さんの考えはアリストテレス以前の、自然と共にあったギリシャの愛知者たち、すなわち哲学者たちの思想と同様に自然の諸相に同一化してゆこうとするものであるのは良く知る事ができた。
つまり、その建築の表面、ガラスや金属に写る天空の諸相と、写経という超観念が何処かで結びついているようなのであった。
不思議な人だなあ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 205

10月4日土曜日
8時過離床。薄曇り、陽光はかろうじて差し込んでいる。台風18号が接近中である。御嶽山の大噴火といい、実に日本列島の自然は荒々しく、人間の力は小さなモノに過ぎぬ。都市に住み暮らしていると自然の未知な力、神秘への畏敬が薄れてしまう。
世田谷村の小さな庭の光景、植物の繁茂の有様に接しているだけで、自然の変転生成の力をヒシヒシと感じさせられる。


世田谷村・スタジオGAYA日記 204

10月3日6時半過離床。雲が多いが少し計り青空ものぞいている。昨日は夕刻、十勝の後藤健市さんがGAYAにみえた。シンガポール・プロジェクトのその後の事などをうかがう。相変わらず目一杯に走り廻っているようで安心した。一度、十勝に来てくれとの事だった。
インドより連絡あり、来年の一月に今度はアーメダバードに非ず、チェンナイでの会になりそうだとの事である。中国杭州の満覚路上山庄計画はローカルアーキテクトが休みに入るとの事で設計スケジュールが少し遅れ気味である。仕上げ工事に日本の職人集団を送り込みたいのだけれど、その打ち合わせをしなければならない。

15時前、現場にて第一回定例会。幾つかの問題が発生しており、すぐに対応する。JR線路側の木製のヘイの基礎が意外に大きく新造の基礎をすこし変形させる必要がある。増築工事は勿論余程新築工事よりも困難であり、それが面白いところでもある。
既存園舎の増改築案を主任先生にお渡しして説明。二カ所にわたる増改築なので工程計画をきちんと組み立てる必要がある。16時終了。17時前世田谷村GAYAに戻り、打ち合わせ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 203

10月1日 10時40分、銅版2点を彫り始めて、一度休止。うまくいっているのか、とんでもなく失敗なのかはわからないが、ともかく昨日から少しずつは進んでいるような気がするが。手応えは全く・・・ない。


10月2日 6時半過離床。今日も寒い。曇天の日が続き気持もくすぶり続けている。紅茶を飲んで新聞に目を通す。世界は無数な出来事で埋め尽くされているのだろうが、一人一人の人間にとっての大事は決して新聞や、電波上には表現され得ぬものである。今、集中しようとしている銅版画の世界は、要するに自分も含めて一人一人の人間の側に立とうとする仕事である。普遍と呼びなれている集団的基準への近代化による偏向へ、いささかの異を唱えることに通じることでもあろう。一人一人の人間が内に抱え込んでいる生きることの困難さははてしもない。その困難さは何が困難であるのかさえも解らぬ類の困難さでもある。


世田谷村・スタジオGAYA日記 202

9月30日 インドのボンベイ近くのエレファンタ島で大型木造船が波打ち際にゴロリと転がっていた光景を忘れる事ができぬ。日本列島には大型木造船が時を経て廃墟に近い光景になってゆく現場を遂に体験できなかった。死にゆく巨大な船の景色は、建築のそれよりも余程神話世界に接近してゆくのは確かなことだろう。


10月1日 7時過離床。曇天。うっとうしい空である。10月になった。今月は出掛けてみたい展覧会が目白押しである。自分自身の銅版画の行方がどうなるのかハッキリせぬままなので、一層に他人の展覧会の開催意欲らしきが気になるのであろう。
先ずは山口勝弘展(横浜)は外せない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 201

9月29日 10時半GAYA発、東村山正福寺へ。国宝地蔵堂見学、スケッチ。14時GAYAに戻る。小振りだが室町時代の禅宗様式の建築である。


実ワ、銅版画が全く手につかず、ボー然としているが、いよいよ彫るモノも無くなったかと我ながら恐い事を考えてしまっている。


9月30日 6時過離床。実に昨夜来銅版を前にして、なす術もなく、ジイッとしている。本当に彫るモノが無くなってしまったのかも知れない。紅茶を飲んだり、新聞を読んだり、何とか気持を切り替えようとするのだけれど、一向に何かを彫りたい気持が湧いてこない。つまり、彫るモノが無いのである。


昨日はまだ、彫るモノが無くなったのかも知れぬと、日記には記していたけれど、気持の奥では「そんなバカな!」とも思ってはいた。一夜、明けて、もう2時間近く銅板を前にして座っているが、相変わらず、ピクリとも彫れない。これは冗談ではなくって、才能らしきの、つまりは「作りたい」=「彫りたい」気持が涸れてしまったのかも知れない、と一向に気持ちは晴れないママなのである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 200

9月27日 土曜日 6時過離床。快晴。庭の樹がゆれる位に風がある。なにをするでもなくしばし過ごす。
9時前、銅版2点に手をつけて作業を終える。どうやら、彫り込んでいるのは一番最初に銅版を彫り始めた時に戻った。すなわち、荒地と草原と遺跡群の風景である。新しいなと想われるのはそこにヒゲと髪の長い人物群が登場しているくらいか。何処とも特定できぬけれど、どうやら中央アジアからシリアも含めたアラブ諸国の風景だと想われる。
10時GAYA打ち合わせ。10時半保坂展人事務所、たがやせ世田谷区民の会事務局長・森原秀樹さん来室。


9月28日 日曜日 7時前離床。しばらく姿を見せずにいた補聴器が何故か出現した。猫が隠していたのか。別に無くてもそれ程の不自由を感じるモノではないけれど、それ程安価なモノでもなく、それ故に気にはなっていた。
9時半過、明るい陽光の中を世田谷千歳教会へ。蓮見和男牧師の話を聴く。わたくしは信者でもなく、讃美歌は全く唄えないし、唱和する気もない。しかし皆さんのジャマはしたくないので、目立たぬようにヒッソリしているのだが、近くに座った信者の方が、いちいち聖書の何ページとか、讃美歌のマニュアル状を教えて下さるのが、良くしゃべる冷蔵庫と同じようで、いささかウルサイのであったが、これはわたくしのワガママである。本当にイケナイなこれはと思えど、今更性格は直しようがないであろう。
「神よ、あわれみ給え!」です。


9月29日 拝火教(ゾロアスター教)は世界最古の宗教である。それは恐らくは太古、火山に対する畏怖からも生まれた観念だろう。勿論、仏教や、比較的新しいと言わねばならぬキリスト教(カトリック)もそのルーツは拝火教にある。つまりは火山信仰にあるとシンプルに断定すべきなのだろう。人間の想像力、特に集団としてのそれはとつてもなく深いところに届くことがある。
御嶽山の噴火に際して、火山を拝礼しようと登山を試みた日本人は一人も居まい。失礼な言い方になるのは許していただきたいけれど、皆さん楽しみとしての登山が目的であった。しかし、火山に登るのは少なからず、天災に間近に接近することでもあるのを、知るべきでもあったように思うが、想像力の欠如であるやも知れない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 199

9月26日 カリカリと独り銅版を彫っていると、何かから解放されるなんて事は全く無い。それとは実に逆方向へと思考が傾斜してしまう。
つまり、自分で自身を彫り込んでいるようなのだ。いま夕刻19時過である。周りは秋の闇で、空気はひんやりと冷たい。
わたくしの銅版画は直接、建築とは関係らしきは薄い。できるだけの力を振り絞ってその方向へと持ってゆこうとはしている。どうしてなのかは自分でも良くわからぬのだけれど、わずかなりと言えども自分自身への誇りなのだろうとは思う。


世田谷村・スタジオGAYA日記 198

9月25日 子どもたちが園庭に敷き込んだブルーシートに座り込んで作業を見学してくれた。今日の地鎮祭は子どもたちに是非ともみてもらおうと考えての催事である。
「保育園を新しいかたちで作る会」の看板もかけた。神主さんの準備もとどこおりなくすすみ、16時より地鎮祭となる。神主さん、子ども達が多く見守る席へもお祓いする。拍手も子どもたちが共にして、中々良かった。神さまもキチンと降りてきてくださったろう。


そして、最終案、うねる金属板の屋根上に草屋根をのせようという案である。これも、わたくしなりに力を尽くした案であった。恐らくクライアントは何度も何度も挑戦したプロセスを記憶にとどめてくれて、マア、石山好みが出過ぎてはいるが、ここは努力に免じてやらせてみよう。となったに違いないのである。わたくしの方も施工体制作りにも力を尽くして、東北からアトリエ海の佐々木さんを呼んだ。彼は永年の盟友でもある。一人大工の市根井さんにも加わってもらった。従来の設計・施工の分業システムの枠外に仕事を設定した。さて、いかがなりますやら。仕上げをごろうじろと、あいなりますか。


世田谷村・スタジオGAYA日記 197

9月25日 小雨。7時過ぎ離床。夏カゼをひきかかっているようで、セキがとまらないので、昨夜は早く横になった。夕刻、娘たちがやってきて、菅平の正橋孝一さんから送っていただいたトウモロコシ、オホーツク海で穫った藤井晴正さんからのサンマを持って帰った。一応は、一人暮らしのわたくしを心配しているのであろう。今日で猫二匹と人間一匹の暮らしもとりあえずは終わりとなる。生ゴミ出したり、何やかやと大変ではあった。


世田谷村・スタジオGAYA日記 196

9月24日 7時過離床。昨日23日は13時半京王プラザホテルで安西直紀、武藤弥と会う。シェアーハウスの展開について相談する。


世田谷村・スタジオGAYA日記 195

9月23日 空腹である。
昨日のレトルトカレーは不美味であった。さりとて、何を新しく作れるわけもない。どうするか。ふくじん漬けとかオカカとか、チョッとしたモノの大事さを痛感する。でも、ふくじん漬けひとビン買いに駅前スーパーまで歩く程の事もない。ラッキョかじってごまかそうか。


世田谷村・スタジオGAYA日記 194

9月21日 日曜日 陽が高くなって目覚めた。二匹の猫にエサをやり、室内の植物に水をやる。一人暮らしは実にやる事が多くて忙しい。娘たちがやって来て、オカズを置いていった。マア、見捨てられているわけではないなとホッとする。一週間程の一人、と猫二匹の暮らしは、これも又、面白そうではないか。
10時半過車で世田谷村発。中央高速、常磐道を経て、我孫子へ。途中釜揚げうどんを食す。13時前真栄寺着。馬場昭道住職夫妻にあいさつ。庫裏でケネス田中さんに再会。
ケネス田中は武蔵野大学教授、仏教教育部長である。「野良猫たちを通して教わる仏教」と題する話を拝聴する。本堂は一杯の人で溢れた。毎度のことながらこの寺の人々の動員力は凄いと舌を巻く。

『磯崎新挽歌集』を読み、翌9月22日2時過に読了する。友人達への追悼文集である。それが20世紀、そして「建築」への挽歌(すなわちレクイエム)に仕立て上げているのが、磯崎新の大才人振りを示している。1931年大分県生まれの磯崎新は今83才になる。最終段階を(人生の)文人として生きる覚悟を最近の展覧会などで示してはいるが、随分と物臭い文人振りであると痛感する。


世田谷村・スタジオGAYA日記 193

9月20日 17時半上野アメ横に向けて発つ。電車を乗り継いで上野よりあるいて大橋磨州の店、魚草(うおくさ)へ。今日は魚草開店1周年記念の祝いの会である。安西直紀さんが多くの人間を動員している模様。彼は政治家になるので、そのトレーニングに怠りない。
魚草の前のお店は中国人の若い女性が経営する流行の屋台店である。安西さんはその若いオカミに日中友好親善-新春富士大会in山中湖村の宣伝にあいつとめている。中々、ヤルナーとわたくしは感心した。つい先日パリで友人(非日本人カップル)の結婚式に出席して帰国したばかりとのことであり、その損得抜きの行動力は、わたくしには少々まぶしい位で、同時に懐かしい。

アメリカ生まれの若い人間と外のテーブルで楽しく過ごさせていただいた。やっぱり日本に閉じこもっている若者には無い味と力があって愉快であった。1950年代のヒッピーたちの面影があるのだ。
歴史は繰り返しているのだ。雑多な人間の集まりには大きな価値がある。


世田谷村・スタジオGAYA日記 192

9月20日 昨日19日は 稲田堤駅前の計画をスケッチした。今朝の朝会でGAYAで討議伝達する。ひとわたり世田谷村での猫と草花を生きてもらう日課をすませたら9時半である。


世田谷村・スタジオGAYA日記 191

9月18日 11時京王稲田堤星の子愛児園、富士ソーラーハウス大澤専務同行。近藤理事長と諸々の契約事務を済ませる。


9月19日 10時GAYA朝会。いくつかの相談をこなす。JR南武線稲田堤間近の複合建築の計画案をすすめることにする。


世田谷村・スタジオGAYA日記 190

9月17日 10時スタジオGAYA朝会。明日の京王稲田堤星の子愛児園増築工事契約の下準備会。古い模型を引っぱり出して、少々の作り直しを指示する。


9月18日 4時半離床。まだ外は暗い。昨夕、保坂展人世田谷区長と連絡して少し計りの相談をした。来週個人後援会の森原さんGAYAに来所してもらう事となり、色々の相談事をつめてゆきたい。
今のところ日常の行動半径が烏山地区、つまりは地元に絞られてきており、いささか脚力が落ちたなと実感している。しかもモノは考えようで足許には無限に近い細部が横たわっているのも良く視えるようになった。老いている日々を過ごしているのだから、 脚力が落ちるのは当然のことである。遠方の人々には日々のウェブサイトでのお知らせ、日記他の充実で脚の代わりをさせようと思う。


世田谷村・スタジオGAYA日記 189

9月16日 10時、国書刊行会、永島成郎さんGAYA来所。「異形の建築(仮)」原稿を渡す。タイトルを少し変えたいと考えていたので、相談して別の名にしようかとなった。


世田谷村・スタジオGAYA日記 188

昨日は芳賀繁浩牧師が主催する「イエロー・ケーキ」豊島北教会の上映会、そして北烏山のコミュニティカフェの我々の催事について相談し、出来るだけの事をすすめた。
全ての催事、応援する祭りなどに我々としては共通する何ものかを出来るかぎり仕込んでゆきたいが、 出来るかどうかは覚束ない。会場のしつらえを介してそれが出来るか?


世田谷村・スタジオGAYA日記 187

身の丈程の雑草をかきわけて庭に出る。まだ切り取っていないクズの葉のツルを切る。ツルと言っても親指の太さくらいのもある。小さな庭だけれど、 奥の方はまるで熱帯雨林の如くである。クモの巣もだいぶん壊してしまった。白い彼岸花が2、3本咲いていた。世田谷村では初めて見る。
幾つかを切って、GAYAの1階に生ける。


世田谷村・スタジオGAYA日記 186

昨日13日は13時に「保育園を新しいかたちで作る会」の第二回打ち合わせをGAYAにて開催した。
東北からアトリエ海の佐々木さん、独人大工・市根井立志さん、富士ソーラーハウス専務・大澤さん、それにGAYAのメンバーである。
9月着工の京王稲田堤の星の子愛児園の第三期増築工事をこの三社とGAYAでやることになりそうだ。その為に遠くから皆さんに寄り合っていただき準備を重ねているうちに、この組み合わせを一度きりにするのは勿体ない、二度三度とチームを組んで建築を作れないかと自然に考えるようになった。
近い将来、設計施工を一体化した、しかも合理的な価格で小型の建築を作る方法が社会から要求されるにちがいないと考えたからでもある。

9月14日 10時世田谷千歳教会。蓮見和男牧師の話が実に良かった。プロテスタント教会はともすれば聖書に関する講演とも考えられかねぬ話を牧師がしかねぬが、この教会はあくまで礼拝を旨とする。すなわち神(イエス、聖霊)への祈りをなす場所であるという話であった。


世田谷村・スタジオGAYA日記 185

12月20日に高齢者の方々と子どもたちのための激安ラーメン・ギョーザ大会を開催する。主催は世田谷区民のライフスタイルを考える会(世田谷式生活・学校)+世田谷区砧飲食業組合+スタジオGAYA。これで年末年始は、山中湖村での日中友好親善富士大会の中型の催事と、北烏山での小型催事の二つを組み立てた。アト幾つかの催事を予定しているので、これでスタジオGAYAのこの面での能力は目一杯である。


世田谷村・スタジオGAYA日記 184

9月12日 早朝離床して、すぐに「異形の建築」を書き進める。9時前、ようやく完成させる。少し手を入れねばならぬが、毛綱、渡辺建築については書き尽くした。48枚となった。小さな仕事ではあったが、長年の肩の荷をおろしてホッとしている。


世田谷村・スタジオGAYA日記 183

昨日9月10日は午後、綿貫不二夫とときの忘れものスタッフがGAYAに来所。来年の旧古河庭園・大谷美術館と同時期の、青山、ときの忘れものでの展覧会について相談する。
結果、2月24日近辺から2週間程を、「石山修武銅版画展」として、同時に何らかの出版を併行させることとなった。大谷美術館での展覧会が「窓の外、窓の内」なので、それに類するテーマとしたい。
又、GAYAの佐藤研吾のドローイング展も開催することとあいなった。2015年の初夏の二週間である。これで2015年は最も若い世代の才質とのサヤ当て興行が決まったので、頑張らねばならない。
早速、手許にあった10点程の銅版を、ためし刷りするとて持ち帰られた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 182

9月10日 7時過離床。旧友の井上雅靖さんより、井上雅靖『牙青聯話、再び -本を巡る八章』(書籍工房早山、1300円+税)送られてきた。井上雅靖さんはわたくしにとっては永遠に理解不能とも考えている人物の一人だ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 181

9月9日 8時半過世田谷村発、安西直紀、佐藤研吾と山中湖畔へ。中央自動車道山中湖インター近くの山翠着。10時過。高村忠久前山中湖村村長と初対面のあいさつ。すぐに諸々の件の打ち合わせ。相談。結果、2015年1月4日山中湖村で第一回日中友好の集い-中国人留学生・社会人の大会-を開催してみようとなった。安西直紀事務所とスタジオGAYAの共催となる。


地下鉄を乗り継ぎ17時前パレスホテル東京。「栄久庵憲司、コンパッソ・ドーロ賞記念講演会」に出席。控室で栄久庵さん、合田周平氏にお目にかかる。


世田谷村・スタジオGAYA日記 180

北池袋の日本キリスト教会から出向き、GAYAで勉強を続けている芳賀言太郎君がようやく初歩的なスタディを通過しつつある。それで、より実践的な第二ステップへと進ませることにした。
芳賀言太郎君は牧師の息子だけあって、当初頭が固くって手こずったけれど、少し計りの荒治療の末、良くなった。根は しっかりしていて、そこらのフワフワボーイとは一味ちがうので、地域の活動を介して立派な行動する牧師へと育っていってもらいたい。
夕刻、「異形の建築」を41枚まで書き進める。冒頭に書き足して、ようやく体を成してきたように思う。
あと、数枚で作業を終了させたい。


追悼 神尾周次郎

わたくしの学生時代、今思い返すに、実に自由に好き勝手をやり放題の時を過ごした。学部学生時代はほとんど建築なんて興味も持てずにいた。
しかし、わずかな体験が、もしかしたら、建築は面白いのかも知れぬの気持を小さく抱かせてもいた。
その、もしかしたらの気持を作ってくれたのが神尾周次郎であった。
学生時代、彼は早稲田建築学科の学生達の間ではスターであった。
優等生タイプのスターではなかった。


世田谷村・スタジオGAYA日記 179

正午過、烏山北口へ。風風ラーメンにて打ち合わせ。北口のななつの子カフェの内外の利用に関して提案、やってみようかとなる。GAYA、あるいは世田谷式生活・学校が前面に出た方が良いかも知れぬ。


学生時代の一年後輩、大山尚男さんより留守中に電話があり、一年先輩の神尾周次郎さんが亡くなった旨の知らせであった。大山さんは電話で声をふるわせていたそうだ。
それぞれ、卒業後、異なる径を歩いた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 178

先日、世田谷村の大型湯わかし器が壊れた。工務店、設備屋に見積もりをとったら40万円近い見積もりが出てきた。インターネットで積算を依頼したら15万円である。聞けば物は大量発注、ストックが あるのでこんな価格になるのだと言う。つまり、コンピュータによる情報の流れが現実に二重価格としか言いようのない価格を出現させている。
工業化住宅=商品化住宅の生産目的は、コストダウンには非ず。すでにプライス・ダウンの問題なのであり、他にはありはしない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 177

9月6日 昨日5日は午後13時半に新宿長野屋食堂で安西直紀と会う。佐藤研吾からの提案である留学生のためのシェアーハウスの運営団体の事業化について始めに話し合う。
すぐに佐藤GAYAへ。後は安西直紀の政治家への道について、具体的なプログラムを聞いたり、意見したり。
すでに安西直紀は自民党本部に出掛け、選挙区の空き等は相談してきていた。国会議員からスタートすべきではないかとすすめられたそうだ。すすめられるうちが花でもあるが、ここは ジックリ考えて東京都の区長あたりから始めたらとすすめた。保坂展人世田谷区長の『88万人のコミュニティデザイン』を献呈し、わたくしは世田谷区長選では保坂展人を支援する旨も伝えた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 176

9月4日 9時スタジオGAYA地下階にカメラマン牛尾幹太さん来る。制作が終わった「満覚路上山庄」模型の写真撮影を始める。手際良い撮影でこちらも助かる。


スタジオGAYA事務所の西の道路脇にGAYAの立看板を立て、いささかの地域へのメッセージを掲示しはじめる。


ワタリウムへ。磯崎新12×5=60と言う展覧会オープニング。4層の会場は人で溢れた。


20時過地下で磯崎さん藤森照信等と身近に談笑。やがてもう一軒行こうとなり、車で麻布へ。浅田彰、岡崎乾二郎、藤森照信、岸本和明(岡山県奈義町現代美術館長)等と飲む。24時頃散会。TAXiで世田谷村に25時前帰る。


8月5日 しかしながら新国立競技場の建築設計業界内的ゴタゴタに関して非常にクリアーに自分のとるべき立場を表明されもした。勿論、深夜の気のおけぬ身内状の会だったが。
「僕はザッハ・ハディドを支持する。今のまんまの成行きではザッハの建築界におけるポジションは崩れてしまうだろう。」
この件に関しては安藤忠雄審査委員長も「ザッハの案は小さくなって、台の上にカメが乗ってるみたいになってる」の言と同様である。
実施設計をコラボレイションしている日建設計の技術の問題なのかは知らぬが、今のママでは磯崎新の危?00000000