今回もまた移動の動機についての考察を行います。前回は前近代の考察を行ったので今回はその視点を現代に移しました。
まずは前回のゼミで言われた事をおさらいします。何故旅にでるのかという問いに対して、日常に対する嫌悪、つまり繰り返しに対する嫌悪が旅の動機として挙げられるのではないかというアドバイスを受けました。そして、もともと映像の特質を「情報・娯楽・実利」の三つとしてゼミを出発させましたが、現代の映像の実体として「娯楽のなかに情報も実利も包括されるてしまうのではないか」という言葉もいただいたので、今回の考察ではそれを活かそうと思います。
更に、先が不透明なままでは進めにくいとの結論に至り、今後の先の見通しを仮定としてでも立てたいと思い、ゼミの構成をここに呈示します。
このゼミの目標は情報化時代における建築を呈示することだと考えています。そこで「移動の動機」に加え、移動による「知覚の変化」と「空間の変化」を考察する必要があると考えました。具体的には、建築の中を移動する人が、空間をどう知覚しているのかということ、もしくは、移動している人がその空間や周囲の人にどう影響を与えるのかということを考えたいと思います。そして、第一回で行った「映像の特質としての移動」の考察に再び戻り、改めて「移動」におけるそれまでの研究を映像に繋げてゆけたらと考えています。
「直線」 川端/須田
前回まで
江戸時代においての旅の目的には、情報や物質の伝達、大名の財力を弱らせる実利的なもの、そして伊勢参りなどの「見た事のないものを見たい」という自ら進んでする旅あった。
今回は現代において旅の目的は変わっているのか、または変わっていないのかをみていきたい。
以下に現代における直線型の旅で特徴的なものを挙げる。
■宇宙旅行
ex)
日本人宇宙旅行 23億4000万円
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■クルーズ客船
ex)「フリーダム・オブ・ザ・シーズ」
総トン数: 154,407t
乗客定員: 3,624人
全長: 338.8m
全幅: 56.0m
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ex)郵船クルーズ「飛鳥」
総トン数:28856t
乗客定員: 592名
全長:240.8m
全幅:29.6m
一人当り
約 360万円 - 1800万円
(世界一周)
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技術の進歩に伴い、移動手段は過剰な程に大がかりになっている。
クルーズ客船は、一つの都市のようである。
目的は異なるが、どれも「移動する」ということに多額の資金を投じている事がわわかる。つまり現代においても形を変えて「移動する」ことに価値を置いているのである。
また、現代では物質や情報は「輸送」の形が主流となった。故に、現代の「旅」とは、とりわけ娯楽性が顕著になっているといえよう。
時代を通して「日常に無いものを見たい」という好奇心だけは、変化していないということが言えるのではないだろうか。
画像参考:
http://www.brainsellers.com/cuttysark/2006/05/post_288.html
http://blog.emelnopeia.com/?eid=118172
https://www.ncvb.or.jp/funclub/?mode=view&object=bulletin&id=107
「周遊」 岩田/中村
江戸末期に流行した「ええじゃないか」は、政治情勢の不安、治安の悪化により庶民の不満が爆発した世直し運動でした。「ええじゃないか」と言いながら踊り、憂さを晴らしたと言われています。
その感覚は、現代に生きる私たちが日常から飛び出して刺激をうけ、鬱憤を晴らすために手軽に行ける遊園地・テーマパークで体験するものに少し似た感覚ではないかと思います。遊園地は遊具を配置したものですが、昨今は現実の世界から切り離された世界を描いた空間を演出するものまであります。
これらのレジャー施設の空間配置は、敷地や建物の条件、周辺環境との整合性、円滑な動線の確保、利用の活性化や集客戦略、リニューアル計画、予算など、多面的に考慮され決められます。そのマスタープランの多くに回遊性を持った周遊の形態が用いられていますが、ここではひとつひとつの遊戯施設の及ぼす影響について着目したいと思います。
主としたアトラクションにジェットコースターやメリーゴーランド、回転ブランコ、コーヒーカップなどの遊具があります。どれも回転を主とした大型遊具です。
技術の発展により、自分の足で歩くことでは得られにくい感覚をもたらし、短時間でそれを体験することができます。客は乗り物に乗ることで楽しむと同時にその移動してこそ見える景色にその効果をアイキャッチなものとして示し、非日常の空間を演出する要素のひとつとして働いているのではないかと思います。次回の移動する人からの視点の考察に続けていきたいと思います。
「垂直」 松山/呂
今回の研究では、エッフェル塔から少し離れてみることにしました。前回のゼミで、「塔の思想」やエッフェル塔を調べ続けていても、この研究の本質(映像と建築ということ)に行き着かないであろう、というアドバイスを頂いたことと、今回のテーマ「現代」に合わないと考えたためです。
前回の研究内容のひとつ、「塔の思想」においても、少し現代に触れました。
「われわれが、このアメリカの塔形建築、摩天楼に近づいてみると、たしかにそれは塔ではなく」、摩天楼は「現代的要求によって成り立ち」、「新しい建築術がそのような複合建築を、単に横に広げるだけでなく、以前にはおよびもつかなかった高さへ、積み上げることを可能にしたのであって」塔ではない、と筆者は述べています。
そこで、現代における垂直への移動、として、今回は高層建築=摩天楼は取り上げない事としました。
そこで、今回はより「移動」に目を向けるために、観覧車についての調査を行いました。観覧車は、1893年のシカゴ・コロンビア博覧会にて、1889年のパリ万博のエッフェル塔に対抗して作られたものが始まりとされています。
それがいつしか、ジェットコースターやメリーゴーランドと合わせて「遊園地の三種の神器」として、遊園地にはなくては成らないものとなりました。
観覧車は「エッフェル塔のライバル」として、高さへの競い合いを宿命としていると考えられます。日本はその技術力をもとに、その高さ争い、つまり技術争いに加わっていましたが、2000年のイギリスロンドンアイ(135m)の誕生以来、地盤の関係から、世界一の高さを作ることは困難となりました。現在、世界最大の観覧車は、2008年3月に誕生した高さ165mのシンガポールフライヤーです。
しかし、ロンドンアイの誕生以降も、日本の観覧車は登場しつづけています。そこには、2つの特徴が考えられると思います。1つは、後楽園遊園地に作られたビッグオーに代表される、高さ以外の技術力の誇示。ビッグオーは、センターレスの新しいデザインをうりにした観覧車です。そしてもう1つは、葛西臨海公園に作られたダイヤと花の観覧車のような、都市型観覧車です。
現代では、観覧車は遊園地からその活躍の場を出ているのではないでしょうか。以下に示したのは、東京都内における、テーマパーク(水色)、遊園地(紫)、観覧車(赤)をプロットした地図です。
ディズニーランドに観覧車がないのは、その世界の外を「見せないようにする」為であるといわれています。逆の発想で、テーマパークに受け入れられることのない観覧車の新しい居場所は、景観の良い、海に代表されるような土地であることがこの地図からうかがえます。
高さ競争、技術の誇示といったものが失われても、観覧車が人々に魅力を与える理由は、動いていることそのものにあるのではないでしょうか。観覧車単体が、人々の目的地となっていたり、観覧車単体で行われているような広告イベントの存在も、観覧車が、現代においても集客力を持つことの証明であるように思われます。
前回のゼミで、近代以降の人間の特徴として「飽き」というものが挙げられました。飽きとは、「完全に知っている(理解済み)状況のことで、先の展開が完全に予測できるもの」、飽きないとは「その人が過去に経験にているものに似ていて、ちょっと違うものを学習(理解)している状態(ある程度先の展開が予測できるが、過去に経験したことがない新しい展開/知見が発見できる)のもの」であると、認知心理学などで定義されています。
一方、都内の観覧車一覧の、直径、一周所要時間から、おおよその観覧車の動きの分速をわりだしたところ、9m/m~20.5m/mとなりました。これは、人の歩行速度(67m/m)の約1/4程度となります。この、人間の目からは、あたかも止まっているかのような速度とともに移り変わる景観が、人々を魅了する=飽きさせないのはなぜなのでしょうか。
観覧車の魅力、ゴンドラの中で人々が感じる空間の在り方を考えていくことが、移動、しいては映像と建築を考察するヒントになるのではないかと考えています。
ディズニーランドに観覧車がないのは、その世界の外を「見せないようにする」為であるといわれています。逆の発想で、テーマパークに受け入れられることのない観覧車の新しい居場所は、景観の良い、海に代表されるような土地であることがこの地図からうかがえます。
高さ競争、技術の誇示といったものが失われても、観覧車が人々に魅力を与える理由は、動いていることそのものにあるのではないでしょうか。観覧車単体が、人々の目的地となっていたり、観覧車単体で行われているような広告イベントの存在も、観覧車が、現代においても集客力を持つことの証明であるように思われます。
前回のゼミで、近代以降の人間の特徴として「飽き」というものが挙げられました。飽きとは、「完全に知っている(理解済み)状況のことで、先の展開が完全に予測できるもの」、飽きないとは「その人が過去に経験にているものに似ていて、ちょっと違うものを学習(理解)している状態(ある程度先の展開が予測できるが、過去に経験したことがない新しい展開/知見が発見できる)のもの」であると、認知心理学などで定義されています。
一方、都内の観覧車一覧の、直径、一周所要時間から、おおよその観覧車の動きの分速をわりだしたところ、9m/m~20.5m/mとなりました。これは、人の歩行速度(67m/m)の約1/4程度となります。この、人間の目からは、あたかも止まっているかのような速度とともに移り変わる景観が、人々を魅了する=飽きさせないのはなぜなのでしょうか。
観覧車の魅力、ゴンドラの中で人々が感じる空間の在り方を考えていくことが、移動、しいては映像と建築を考察するヒントになるのではないかと考えています。
[参考文献]
「日本の遊園地」橋爪伸也
「観覧車物語」福井優子
空間が主体を伴うものだとすれば、建築空間は主体の側から見た場合の建築表現によってかたちづくられる。
建築表現を空間として考えるということは、「建築の中におかれる移動する主体を見る」ことから「移動する主体から見た建築」へ視点を転換するということになる。
さらに映像から建築表現を考えるというときは、その空間の視覚表現の関係に注目することになる。
さて、サイトのデザインも含め、情報の視覚、映像の視覚、移動する空間の視覚はどう表現されていくのでしょう。
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