設計製図のヒント 4 早大・東大合同課題設計 '09
石山修武
早大・東大合同課題設計

十月二日の早稲田建築学生の第一回エスキスには驚いた。昨年の第二回の課題と同じ敷地、そのかなり大きな敷地を絞り込んでの、建築スケールの課題として焦点を絞り込んだのだが、早大建築生の殆ど全てがその意図を理解していなかった。

全員が多国籍民族、そしてバザールの方へと妄想をふくらませて、肝心の集合住宅の設計が置き去りにされようとしていた。考えようによっては楽で抑制のきかぬ自由、思いつきレベルの私語ばかりが氾濫しているのであった。

しかし、充二分にヤル気は伝わってきた。そのヤル気の方向性に問題がある。共同設計であるから、解りやすく例えればこの課題は四百メーターリレー競技である。それなのにほぼ全員がスタジアムでアトラクションを演じている。種目が違うのだ。

自由な発想は大いに結構。それをたしなめることはしない。しかし、やらねばならぬ事を先ずは押さえなくてはいけない。

近代建築の集合住宅の名作くらいはキチンと学習したい。

この敷地のスケールから想うに、集合住宅としてはコルビジェのマルセイユのユニテがほぼ同様のスケールである。昨年の課題でも一、二の東大グループがそれに気付いていて、明らかにスケールを参照していた。ビックリはしないけれど着実なスタディであった。

早大建築学生はアイデア、エスキスそのものを、当たり前のスタディレベルに着地させる必要がある。この課題は多国籍民族パビリオンの設計ではない。

早大・東大合同課題設計 2009-2

第二回の設計製図エスキス(早大)の印象を記す。

一、建築学生の特化しない液状化

二、教師サイドのエスキス対応の無方法に近いアナーキーさ

一、学生の液状化現象について

良い意味でも、悪い意味でも突出した自己顕示欲、つまりは自己の表現欲が稀薄である事に気付いている。わかり易く言えば競争意識が薄いという事。これは学生特有にあるかも知れぬ学生文化らしきの成熟と言えるのか、幼児退行なのか、ただの体力気力劣化なのかは見極めがつかない。しかし、グループ設計に向いたジェネレーションが育ちつつあると先ずは受け止めたい。女性が全体に占める割合いが急増している事にも因があるだろう。

昨日(十月九日)のエスキスでは二、三のグループが少し液状化から浮上する可能性を示したが、まだ歴然たる明白さに欠けている。Aグループと仮に呼ぶ。このグループのエスキスは明らかに昨年の東大学生グループ、「染みる」だったかな、の案に触発されていて、それが実によろしい。良いモノに触発されるのはとても大事なのだ。ただし、余りにもそれが歴然としているのは面白くないだろうから、その手掛かりを一つアドバイスした。彼等がそれをどう受け止めたかは、私の知るところではない。このグループの特色はある程度の総合的な趣味の良さをベースにしているが、古い言葉だが方法的姿勢への渇望に欠けているのが難である。これが無いと才質は学生時代に枯渇してしまう。このグループには次回その方向性を幾つか示したい。

Bグループは女性三人組のグループで、良い率直さ、瑞々しさを所有している、気質として。二年間の東大との合同課題で痛感したのは東大学生の一部の率直さ、清新さであった。要するに一部学生は実に頭がよいのである。私は全く東大コンプレックスが無い早大教師なのでそれが良くわかるのだ。この早大Bグループ、仮に「ここはかつて海であった」グループとしよう。彼女達にはそんな率直さ、瑞々しさが備わっているような気配がある。こういうグループにはアドヴァイスが良く染み通る筈だから、逆にこちらは用心しなくてはならない。走らせてみるには良い人材であるやも知れぬ。

Cグループも女性グループで「命名グループ」と仮に名付ける。このグループもBグループと同様な性格を持つ。しかも、どうやらよりニュートラルな、ようするに真白な無色透明な地であるような印象を持った。これからどのようにも延ばしてゆけるようだ。

このグループには地名を建築の立面にプリントするようなアイデアをほのめかせた。勿論、理解し切るわけもないアイデアだが、このイメージはBグループにも共有させて、トライさせてみたい。

二の教師サイドの問題点

端的に言えば、学生達が液状化状態にあるのと良く似て、我々教師群は、勿論その大半はこの課題に関しては私の責任なのだが、学生への対応が全くと言って良い程に方法化されようとしていない。

エスキス指導は、それぞれの教師の感想の表明、すなわち自我の表現ではないから、少しでも方向を示す努力はしたいものだ。次回から、それを歴然とさせたい。

早大・東大合同課題設計 2009-3

昨日、十月十四日、早大建築三年生の第三回目のエスキスを聞き、見る。聞くと異な事をワザワザ言うのは皆よくエスキスと関係無い事をしゃべるようになったからだ。昨日はその前に演習Gの最終プレゼンテーションがあり、総計5時間半にわたる私には仲々の知的労働なのであった。

演習Gの学生は大学院高学年から院生、そして学部四年生にわたる、年令も所属研究室も横断型の私にとっては理想的なある種スタジオである。ここでは矢張り自然に高学年の学生の制作物がかなり良く、4年生のモノは実に貧弱であるのが歴然としていた。これはとても良い事だ。

院高学年のモノでは、敢えてイニシャル名を記すが、H君の黒川紀章研究(メタボリズム初期)から出発したプロジェクトが良かった。かれは修士設計の失敗を超え、強い物腰を持ち始めているようだ。院低学年ではKさんの何人かの気になるアーティストの作品群に刺激されてみせて、の舞台装置のエスキスが目を引いた。とても良い努力をしている。ポートフォリオの形式もかなり知的で成長著しい。Kさんの如き人材は実は指導というか、アドヴァイスがとてもむずかしい。必ず困る目に会うから(それが人生だ)、その時は相談に乗るから、いつでもドアをたたきなさい。それだけの物を作った。雨の多様な命名を執拗に追った者のWORKも良かったが、制作にうまく結びつかなかった。彼女は自分の中の遊び、つまり自由をいかに育むかが当面の課題であろう。H君も良く自分と対面しつつあり、間もなく何かがひらけるであろう。

院生低学年及び4年生の東北大学建築学科との共同課題はマアマア一定の成果が得られたが、皆この先が問題なのだ。Sさんのエネルギーが目についた。学部生ではKさんの農のカリスマ三人のスクールを主題にしたモノが抜きん出ていた。彼女は学部三年の東大との合同課題で大失敗し、私はそれを彼女のあまりに無知なる故の自負らしきにあると指摘したのだが、良く自分を修正して努力した成果である。そう言えばKさんH君Kさん三人は当時同じグループの三名であった。一番厳しい指導をした者達が、それをかいくぐって努力を続けているのを視るのは嬉しいものだ。

案の定、他の学部四年は見るべきモノ何もなし。基本的に学部時代にこむづかしい考えを教えようとしても無理なのである事が歴然としている。50cc のミニカブに乗っている者に 750cc のバイクの乗り方を教えようがない、とは二川幸夫が私に教えた事だが、けだし名言である。

しかし、今は省エネの時代であるから、50cc のミニカブや自転車の乗り方、走り方にも眼を向けなくてはならぬのだろう。

学部三年の設計製図である。演習Gを終えてのエスキスであったから、学部三年には学部三年の、つまり初心者の接し方について考えさえられた。

しかし、演習GでのKHKの、この課題での大失敗振りと、それを認識した上での4年生での再挑戦振りを見ると、三年生の良い人材は少しキツメにたたいた方が良いのかも知れぬとは思う。

低学年は皆の前で誉めよ、は常識だが、その常識が今ではあんまり通用しないような気がする。皆、両親や友人達とサークル状のぬるい銭湯状にどっぷりつかっているから、いきなり熱い湯の中にひたすと気絶しそうな者が多いのだ。

しかし、私の方も経験を積んだので、三年生は徹底して初心者のマナーらしきを伝える。

すでに落ちこぼれが予想される者達が出現しているが、これは教師陣のチームとして対応する。落ちこぼれは出さない。

5チームくらいは自然に顕在化してくるであろうと思われる。これは伝統を信頼するしか無い。その5チームは徹底して走らせてみる。走るかどうかはまだ視えぬが、人材とエネルギー次第であろう。三年生くらいはそれにつきる。

自然に5チームくらいが顕在化しない状態に落ち入れば、そのときは人為的に浮上させる。今週の金曜日と、来週の水曜日迄にそれを決めたい。

落ちこぼれは出さない。中間層の学生は教師が分担する。一部設計エリートは5組程を目指してつくり出す。差別はしないが区別する。

早大・東大合同課題設計 2009-4

十月十六日の学生の成果の印象はいささかどころか大いにさびしいものであった。

東大建築学科の一学年学生総数は 60 名。早稲田は 180 名。早稲田建築学生は東大の三倍の人数を抱える。

三年の設計製図後期は設計コースとエンジニアリングコースとにカリキュラムのシステムによって分かれている。すなわち早大東大合同課題に早稲田で取り組んでいる学生は都市計画・歴史を含むいわゆる芸術系、設計系の学生、80 名程なのである。

一方東大 60 名はまだコースは分化していない。将来、エンジニアリング分野、都市工学分野へ進む者も含んでの 60 名である。

東大の 60 名中、将来いわゆる計画系に進む者は十数名であると聞く。

であるから、本当に競い合うという意味では東大 10 名対早稲田 80 名なのである。今のところ早稲田は数をたよりの人海戦を仕掛けているのが現実だ。

三年生前期迄の全員設計製図で常に最終のクリティークの対象となる、つまりある水準に達していると思われるのは常に 15 点程である。

正論を敢えて言うが、設計製図の合同課題の真の目的は、学生同志が競い合う事による技量の向上にある。

だとすると、将来も設計製図を旨とする志向を持つ者同志が競い合うのが、本当の競争という事になろう。

つまり早稲田建築学生の 15 名程度が東大の将来も設計やるかも知れぬ 15 名位と競うのが、理想的な枠組みなのだ。

ところが、今の早大 80 名の中には、君本当に設計をやるのという手合いが少なからず混入している。聞けば三年前期で連続Cクラスなんて者も入っているという。これでは東大建築学科に対して失礼である。

今年で三回目の合同課題は最終回になるだろう。最終回だからクリアーにやる。クリアーにやるという事は相手に対して失礼の無いように、正々堂々とやるという事である。つまり、飛んでもないボロボロの雑魚を相手に当てないという事になる。

結論、東大 60 名、早稲田 60 名の最終発表とする。ただし、前二回と同様にボロボロのモノも全て陳列はする。早稲田 15 - 20 名( 5 グループ程度)をキチンと全力を尽くさせるよう努力する。Bクラス、30 名位かな( 10 グループ)の層の厚味も又、早稲田の力であるから、これも、それなりにエネルギーを蓄積させる。ただし、変なコト、いわゆる芸よりも馬力でいかせる。

Cクラスは恥ずかしくないレベルまでは引上げたい。第四課題のためにも、キチンとした図面だけは描けるようにする。助手、TAはそれに力を傾けさせたい。

海洋国家フェニキアを入口にした女性三名のチーム、とりあえずフェニキアと呼ぶが、これは大変良い。徹底的に飛ばす。海のグループ、これも又女性グループ、も良い。手は動かぬようだが下手なのは解消できる。つぶれそうで可愛そうになりピックアップしたアイゼンマンまがい、は余りにも我が幼稚で接してみてどうにもならぬのでやはり下のクラスに一度まわす事にしたい。

早大・東大合同課題設計 2009-5

十月十七日の土曜日、製図準備室でチリ計画の打合わせがあるので、製図室に寄ってみたら、何人かの学生が作業していたので、ウムウム休みにやるのは大いに良しと、当然エスキスをみた。

「海」のグループはあせって不得意な形を早く出そうとしているので、先ずもっと大きな紙にスケッチしろと。小さなノートにチョコチョコとした図形まがいを描いていては進歩も何もない。ただし、中間発表の 6 枚の図の編集をキチンとやるように指導。そのうち 2 - 3 枚がエスキス、スケッチでよい。いくつかのアイディアを進めるようにオペレーション。このグループが最後迄トップグループにとどまったら、本当に嬉しいのだが。

「フェニキア」も当然やっていた。このチームは東大、早大並べて、ブチ抜きでトップにしたい。恐らく可能である。

感性、論理性のバランスがとれている。それ故、アドバイスを良く吸収するキャパシティを持つ。三年生くらいには、実に、それに尽きるのだ。

東大の昨年の優良作品であった「しみる」のアイディアを発展させようとしているグループ、まだグループを命名する事ができぬのだが、キチンとストーリーを作れと指示。6 枚のパネルの編集能力=デザイン=コンセプトなのだ。

二流は形に走り過ぎる。しかし、このグループも何とかなるかもしれない。

NPOのグループ。一人卓抜な社会性を持つ女性がいて、彼女を中心として、仕事が進められれば、良い案をまとめられるだろう。

4 名のチームで進めているグループが複数あるようだが、キチンとした理由がない限り分解したい。ただ単に仕事量を減少させて、もたれ合うのはいけない。

早大・東大合同課題設計 2009-6

十月二十一日、エスキス

フェニキアチーム

海洋国家フェニキアをモデルとして、この土地に、移民知的労働者と在来の日本人の仮の小都市モデルを考えようとしている。最終的な結果はどうなるのか予想もつかぬが、注ぎ込んでいるエネルギー、センス、思考力のバランスが良い。

学部三年の秋に求められているのは、突出したデザイン力でも、緻密な計画力でもない。編集的才能の自己発見とでも呼ぶべきものだ。創造力は育成されるモノではなくて自分で育てるモノで、むしろ現代では教師は編集的才質、編集的趣向、知性の発見育成に的を絞るべきであろう。新種の総合性である。

このチームは自覚されてはいないがその才質の所有者がいる。又性格がある。編集的資質とは、知識、アイディアの芽生え、趣向の自己内アッセンブルにたけている才質である。ある意味では、自分のアイディア、表現らしきを客観視できる才能。これが情報時代の才質の第一のものである。その本質を身体で理解できると、彼女たちは、何をやっても強い知性へと進化するだろう。どちらか一方の壁面を技術的様相へと工夫すると、更に一段キャパシティが増すだろう。

グループNPO

フェニキアチームと反対の方向性を持つチームである。

エスキス毎に、考えデザイン共に進歩しているのが、良い。

フェニキアグループが良く自覚されていないが、ある種のモデル(世界模型)を提示しようとしているのに対し、このチームは日常現実・生活をベースにしようとしている。非常に現実的な良さを持つ。

現実をゆるやかに変えてゆくにはある種の組織モデルが必要であると、それを言い切っている。敢えて言うが古い作品主義、デザイン主義の先の建築デザインの可能性を持っている考え方である。男性二人のデザインが過剰に、青山通りの消費性の匂いがある事に問題があるが、マア今、そこまで指導する事も無いだろう。コンセプトボードに示されている内容を今、形に出来たら良いのだけれど、それはかなり唯物論的になる筈で、このデザインの遊びを、コンセプトが何処までコントロールできるかがポイントである。このチームのデザインはテクニカルな表情にすべきだ。

グループ江戸

観測地点としての集合住宅なぞという私的思い付きの幼稚さからようやく抜け出すきっかけをつかんだ。キチンと江戸の町を様々に調べて、その何がしかをデザインレベルまで持ち込めば、一皮むけるかも知れない。面白い絵を描く人間がいるのでそれも生かしたい。

グループ風の道

よく努力するチームであり、デザインのきっかけをつかもうとしている。更に努力したい。総合性にいささか欠けているのを自覚したい。

グループ海

このチームはエスキス毎に降下している。それは何故か、デザイン力の不足なんていうチャチな事ではないようだ。

もしかしたら、毎回のエスキスに際しての批評及びオペレーションに耳を澄ませていないのかも知れない。率直ではあるが、鈍な我がしんにあるのかもしれない。NPOのグループの漸次的変換つまり、一期、二期・・・をチームなりの埋立地の地形の変化と結びつけて説明できる思考をを入手できると、再び持ち直す事が出来るかも知れない。今が勝負どころだから、気合いを入れて努力したい。

杭を打つチーム

これ迄の考え方、そのプロセスを一枚のペーパーに抽出して、図式にした方が良い。それが初歩的なコンセプト、考え方の筋道である。そういう初歩的な自己批評なしに、思い付きのアイディアを出してくるようではいけない。教師陣にも、図面は描けるんだからという甘やかしがあるので、中間講評迄はキツク当る。でも考える力を育てないと、デザインは何処かで向上しなくなるのは眼に視えている。

もう都市に杭は打たなくて良い。自分の頭に思考の杭を打ちなさい。

早大・東大合同課題設計 2009-7

早稲田、東京大学合同課題中間発表

東大建築学生の課題作品の途中経過を眺めて、幾つかのモノに可能性を感じた。しかし、総じてプレゼンテーションにいささかの工夫が必要であろう。プレゼンテーションを過小評価してはならない。情報時代では、それはある種の編集能力の発露とも言うべきで、その光景(プレゼンテーションの)から我々は知性、感性を受け止めざるを得ないからだ。

東大第一組2、女性三人のグループには清新な知性を感じた。既存建築の周囲に軽いコリドールを設け、新築部分にそれを連続させている。住居タイプの設定も数理的に考えようとしていてその明晰さは好ましい。しかし、新築部分の空中歩廊とそれによって生まれるヴォイドスペースはもう少し建築化した方が良いと私は思った。

第三組1、男性二名女性一名のチーム

力強いアイデアであるが、その力強さが今の時代には少しばかりアナクロな感じがする。断面を歩くという、キーワードイメージの鍵も単純に過ぎて、その単純さが誤った強さを生みだしている。しかし、全体の配置計画のバランスと、その要素配布に感じられるある種の動きのフィーリングが、デジタルでとても気持良い。この配置計画を上手く生かして展開したら更に展開し得るだろう。

第五組1、モノの住む村。東大全作品の中で唯一バザールにフォーカスを当てたものだ。その割り切り方が清新であった。しかし、バザールの散乱的配置、小ユニットの有機的配布の仕方がその割り切り方に反しているのではなかろうか。

第八組1、トラス・ストラクチャー

早大、東大合わせて唯一、エネルギーの問題を具体的なストラクチャーとからめて提案している。まことに時代のテーマと合致していて正しいが、のデザインがいささか乱雑すぎて明晰さを欠くきらいがある。

第九組1、西倉、中島、篠本グループ

東大作品中では最も目立ったモノである。配置計画の明快さ、新築部分のデザインの総合性共に際立っていた。内部のシステムがある様な住戸らしき(別の機能かも知れぬ、それは彼等にはどうでも良いのだろう)の組合わせの感じはいかにも何処かで見た様な、手アカにまみれているのだが、それはそれで良い。その内を包む、シャープな規則的に開けられた壁、あるいは囲いが何とも清々しい。これは良い。恐らく、若い学生の本能らしきで、これを設定したのだろうが、私は魅力を感じた。全体にどう展開させ、もう一段、二段と上に上げられるかに注目したい。

第七組2

ダブルスキンのストラクチャーのアイデアは正統的で、いかにも東大らしいなと感じた。どう展開させるのか、あるいは展開をひかえて、内実を充実させるかの判断が大事なのではないか。

早大・東大合同課題設計 2009-8

設計製図のヒントインタビュー編1

Q:早大・東大両建築学科の歴史的差異と設計製図教育について聞かせて下さい

A:私にとっての東大生とは、例えば磯崎新さんや伊東豊雄さん、原広司さんのような面々を思い浮かべています。昔の東大生であった彼等はそれぞれの自負を持っていた人たちでした。昨年の東大の案で最良のものの一つであった「染み出る」のような所謂「ひらがな言葉」は恐らく伊東さんの影響でしょう。ああいう日常用語を東大生が用いるというのは10年前の東大ではなかったのではないでしょうか。もう少し下の世代の東大生である鈴木博之、伊藤毅、難波和彦の各先生はいずれも物事を構造的に把握しようとする人たちで、僕の言う東大生とは今では彼等のことを思い浮かべています。だから昨年の東大生には「ひらがな言葉は東大生には似合わないよ」と言ったわけです。

ここで構造的に物事を把握するということは、つまり歴史感覚を持ち合わせることを意味しています。先日発刊された鈴木先生の本『近代建築論講義』(東京大学出版会)を読んでみても、一般的に言うところの東大生の学習すること、つまり記憶する能力の高さがうかがえます。伊東さんや難波先生はたしか駒場の一番ですからね。彼等はいわば優等生です。

歴史感覚というのは、つまり建築家にとっては自分の立ち位置のデザインです。この合同課題のような学生の課題であっても東大の先生方は当然それを先ず教えようと考えているでしょう。自然にそうなる筈です。

設計製図というのは建築教育の中枢です。学生が描いた図形を先生が見て、少し考えると、その学生の全体がわかるような性質を製図は持っている。描いた図形に全てが現れてくるように思えてしまうのが設計製図です。そして、昔の早稲田建築生は図形には表現できてもほとんど話すことができないというところがありました。それをここ三年間の合同課題を通して、まずは払拭したかったのです。話すというのはプレゼンテーションの立派な一部ですからね。ただ、阿呆のようなおしゃべりとは全くちがいますよコレワ。誤解しないように。

一年目の調布の課題では、ほとんどその事に費やしたと言えるでしょう。先日の中間講評会でも難波先生から「早稲田はメモ無しでやらせているの?」と聞かれました。だから僕は「当然トレーニングさせています」と。メモを見るというのは、自分で考えていないということですからね。

それでも私は建築の基本は図形、つまり平面、断面、配置など、だと思っています。早稲田の場合はそれに手描きのパース等の芸がついてくるわけですが、それは「纏いもの」でしょう。

Q:設計製図では図面とコンセプトの両方が求められると思いますが、中々それが結びつけられずに困っている学生が多い様に見えます。そのような学生にアドバイスはありますか?

A:コンセプトというのは先ほど述べた様に、話さねばならないことですね。それは図形に加える説明ですから、飛躍した図形を自ら客観化する作業です。しかしながら、優れた設計は分析からだけでは生まれません。鈴木先生がそれを自然主義的傾向と象徴主義的傾向と明晰に述べておられました(『近代建築論』)。私は設計の初源とはつまるところ私的なものだし、インスピレーションだと思います。要するに才質です。きれいな思考というのは、断面や平面のプロポーションに表われます。結局美しいとか、かっこよければ良いのです。方法的なものとか、コンセプトなどを良い設計とは言いません。このときの「美しい」とか「かっこいい」というのが問題なのです。

早稲田では今井先生、池原先生、入江先生と続く系列がそれを「気持ち」と呼んでいました。池原先生は「図面に自分の気持ちを表せるか」とおっしゃっていました。対して穂積先生、古谷先生の系列は美しいというのはつまるところプロポーションのことでした。発想ではない、サーリネンばりのプロポーションです。東大では丹下さんがこれに異常に取り組みました。いずれにしても「かっこいい」とは人間の気持ちを打つということです。

こういう問題とは早稲田では吉阪先生は唯一無縁でした。吉阪さんの持っていた、何かを超える、あるいは別の視覚を求める、という「違う価値観を示す」のは私の役目だと思っています。吉阪さん的発想は都市計画の研究室には受け継がれていますが、建築計画の研究室には今はありません。私はその中継ぎ役です。

学生に即して言えば、傾向や趣味趣向は経験主義的に何かを学ばせていくしかないと思います。きれいな図面を本格的に描けない人に模倣を勧めるのはそのためです。そういう建築教育がバウハウスから崩れてきた。近代主義的クリエーションは歴史から生まれるという事実から離脱させようとする教育です。日本でも分離派と呼ばれた人たちがいました。それに対して鈴木博之は手による、頭による近代建築のなぞりの如くを自分で経験的に身体化するのが大切だと言われています。少し曲解があるかもしれませんが、私もその考えに賛成です。それは、考えてみれば当たり前のことなのです。

バウハウスを作ったグロピウスという理論家や日本では磯崎さんは何十年に一人の才質です。そういう人は何かから離脱することを考えても良いでしょう。磯崎さんも丹下さんからいかに離脱するかを考えていました。しかし、磯崎さんの代にはその他多くの同級生がいたことを忘れてはいけません。磯崎さん、伊東さんといった所謂スター建築家は1000人に1人、あるいは何万人に1人という現実があります。それをわからないで彼等の表現を猿真似する学生は大学院を出るまでに必ず挫折しますね。

よく二川幸夫さんが「失敗したときのリスクが大変」とおっしゃっていました。私はリスクのその先が面白いと思ってしまう性質がありますが、あまりにも今の学生はそのリスクというものに対する本能的な危険予知感覚が薄いと思います。そういう兆候は昔からありましたけれどね。

先日の中間講評会で東大にも早稲田にも言ったように、これからの設計がNPO的な姿勢をとらざるを得ないのは21世紀初めの主流になります。それは当然NPOを設計するということではありません。デザインが平均化され、一人に偏らないということです。NPO的図形とはそういうことです。

Q:そういう時代に建築家は必要とされるのですか?

A:建築家は決してなくなりません。ただ、建築家になり得る確率がどんどん落ちてくるというだけのことでしょう。宮川淳が言う様に「無くなることも不可能だ」というのが表現です。表現者としての建築家はなくなりませんよ。

しかしそれを多くの学生に勧める愚はしません。強くて、しなやかな人間は、そして表現を捨てようとしない人間は必ず出現するでしょう。

早大・東大合同課題設計 2009-9

設計製図のヒントインタビュー編2

Q:三年目の合同課題に求めるものとは何ですか?

A:それは先程述べたリスク、あるいはその逆の可能性に対する学生の嗅覚が薄くなっていることと密接に関わってきます。東大が安藤忠雄さんを呼んだのもそのためです。安藤さんは嗅覚、勘の鋭い建築家ですからね。設計に自分の人生を賭けていくというところがある。六甲の集合住宅などは良い意味での命がけでしょう。崖下の現場小屋に寝泊まりしながら仕事するというのは、崖が崩れたら死ぬということですから、大変なことなのです。安藤さんの勘とは、誰もなろうとしていないものになろうと思うところです。それは彼が仕事を作る能力であったり、社会をオーガナイズしていく能力に特化した建築家であることです。建築はクライアントがいるという点において絵画や彫刻、音楽といった他の芸術とは異なる芸術ですから、もともとが社会的な存在です。それを考えれば安藤さんの勘は建築家の中枢でもあります。

私が大学院生だったころに東洋建築史の田辺泰先生から「君の家のお父さんの職業は何ですか?」と尋ねられたことがありました。私が「高校の校長先生をしています」と答えたら、先生は「ああ、それではきっと貧乏だろうから、君は建築家にはなれっこないから諦めなさい」と言われたのを覚えています。そう言われると、私は意外と素直で「そうかもしれないな」とも思いました。ただ、そう言われたのは1960年代で、その頃にはアーキグラムがいたのです。アーキグラムはリバプールのブルーカラー、ミドルクラスから出てきちゃった建築家です。ビートルズと同じで、自分でのし上がった人たちなんですね。彼等を見て、かっこいいなと。アーキグラムはそういう自分を非常に励ましてくれました。

今の学生を見ていて、全員が建築に携わっていく人たちだとは思っていません。そのくらいのことはもう世の常です。ただ、多方面に行っても指導的立場になっていく人にはなって欲しいと思います。それでも10年に1人は建築しかできない、建築が好きで好きで仕方がない人が必ず出てきます。その人は建築家になればよい。

Q:今の学生は何に励まされたら良いのでしょうか?

私が学部のときの先輩は私をよく励ましてくれました。私は製図の浮き沈みが激しく先生に評価してもらえないときもありましたが、先輩は「お前はすごい」と言い続けてくれました。彼等は「私を作ってくれた人たち」だと今でも思いますね。

旧い友人がイエールに行った時にジェームス・スターリングにTAを命じられ、「お前は何故学生と同じ課題をやらないのか?」と言はれたといいます。TAも助手も自分でできないことを教えてはいけません。学生はあなた達の発言をできると思って聞いているのですから。手取り足取りというのではなく、自分の中でできることを伝えていくようにして下さい。私も時々自分でも出来ないことを言うかもしれませんが、常に私だったらこうするという具体的なイメージがあって指導しているのです。学生の側の問題でそれが伝わらないことがあっても、それはこちらの責任ではないですよ。

Q:情報化時代の設計製図についてはどのようにお考えですか?

A:今は私の学生時代の数倍の情報が流れているでしょう。そういう時代の建築史家は近代建築のボキャブラリーを少し離れたスタンスから淡々と教える必要があるでしょうね。何も知らないで画を描く学生はただの無知の固まりです。垂れ流されている情報の中から自分で選択して、それを高度に模倣していく、「誰もが模倣しているのだ」という認識を持てることが非常に重要です。

私が先生の意見は素直に聞きなさいとしばしば述べるのは、受容力のある人間は受容しても自分が壊れないという自信がある人間だと思うからです。東大では「幼い我」の除去を教養課程の2年間で高度に植え付けられているきらいがあります。

先生は銭を貰って教えているのだから良く知っている等だ、ということを学生が良く知っているのでしょう。先生方の1/2くらいは言うことを聞いた方がいいですよ。

早大・東大合同課題設計 2009-10

設計製図のヒント 早大地下スタジオ版 十一月四日

フェニキアチーム

チームワークも良く淡々と進行している。昨日十一月三日の展開の仕方は見事であった。

メカニカルな構造でおおい尽した都市スケールの建築に、21 世紀的な光景が出現し始めている。

数理的でありながら、個々の人間の生活表現も混在していて、実に良い。本日、文化人類学者レヴィ=ストロースが百才で亡くなったが、このチームが設計製図で表現し始めているのは、実ワその世界の域のことなのだろう。全体として何を目指せば良いのか希望の光が視え始めている。

願わくば、チームがいずれそれを自覚してくれると良い。大変なことをやっていたんだなあと。フェニキア海洋国家から入って、良くここ迄持ち込んだ。もう名前倒れにはならないから、淡々とやれば良い。

もう一つ、模型を作った方が良いだろう。部分を 1/5 か 1/10 で。そうすると一気に生活感が溢れ出てくるだろう。

NPOチーム

少し持ち直してきている。しかし、その印象を模型を見てのもので、内実が何処迄変化しているのかは定かではない。一度、NPOチームと呼ばれないように、主題自体を進化させた方が良いのではないか。

又、デザインの質自体はいかにも今日的であり過ぎるキライがあり、課題が終わったら本格的な勉強をした方がよかろう。

それはそれとして、コレワ、今の方向で走りなさい。

どん尻チーム

泥沼状態から少し抜け出たような感がある。前のコロコロ日替わり定食の如くに思い付きだけでやってきた案の数々と、今の案と何がちがうのかを静かに自覚できると良いのだけれど。

この設計製図で一皮むけてくれると良い。恐らく今日、四日中に大きな筋道を組み立てられるか否かに成否がかかっているだろう。今、持っているアイディアを大事に、もう振れないように。

デジタル・アールト・チーム

何故、デジタル・アートと呼ばれているのか少しは考えてごらん。デザインをキチンとまとめなさい。

バザールだけチーム

数日前の、万歳空中サーカスから一転して、地上にようやく降りてきた。昨日の進展には可能性があるので、今日から頑張るように。しかし

デジタル・アールトのバザールのアイディアを少し見習った方が良い。

趣味の集団チーム

自分達の取り組んでいるテーマが面白いかの自覚次第だろう。主題とデザインが一体化する手がかりはあるのに、気が付いていない。

海のチーム

感性をもう少し、しなやかにする必要があるが、今更ね、のつぶやきも聴こえそうだ。要するに受容力が欠けているきらいがある。アドヴァイスの重要なところを聞き流しているから、考えが武骨なまんまなのだ。水と海の主題の前に、そんな点をハッキリ自省した方が良い。

給水塔チーム

二人で良く努力しているが、いかんせんパワーが不足している。良いところ迄きているのでいかに三人の力が結集できるかを話し合うべきだろう。

早大・東大合同課題設計 2009-11

設計製図のヒントインタビュー編3

Q:時代の要求に設計製図教育がどう対応していくべきか、聞かせて下さい

A:昔は「コイツは放っておいた方が良い」という学生がいました。私もその一人だったかもしれません。私は意外と素直なのですが、生意気だったからコイツはイヤだと思ったら絶対に聞き入れませんでした。でも、コイツは良いと思ったらどんどん真似をして影響を受けたと思います。

今話しているのは上澄みの人たちのことです。上澄みの人たちとは生意気な奴で、受容力が高い人です。そういう人はこういうものが好きというのがハッキリしています。学部の三年生のような好みが固まっていない時にコンセプトなんてあるわけがありません。あるのは本能のみです。それをいかに研ぎすましていくのかを生意気な学生は意識的にすべきです。

今後しばらくはアカデミーの時代が続くと思います。早稲田の建築教育では、少なくとも歴史学に関しては「こういうものが既に蓄積されている」と教えるべきでしょう。難波先生は東大の建築史は随一だと『近代建築論講義』で書かれています。歴史というのは干涸びたものではないのです。日本の近代の厚みは意外と薄いということに意識的になるべきでしょうね。建築設計というのはジョサイア・コンドルが日本に来たときはコピーだった。設計がコピー作業だったのはいつの時代まででしょうか。

中間講評会の印象は、あまり東大と早稲田の差異もなくなってきたということです。その分個人が浮き上がってきます。近現代通史を教科書のように教えることは当然本当の学問ではありませんが、必ず一度は教えなければなりません。学生は本当の学問よりも、もう少し分かり易いレベルで歴史の貯蔵を知るべきです。

- 歴史的視野を持つことと設計の主体を生活におく兆候はどう結びつきますか? -

端的に言うと工学というのは生活と結びついています。設計は意匠、工学といった総合的な相手を考えなければなりません。その中で生活についての発想が出て来るのは当たり前です。もし生活の視点からある案が意匠的に面白いとすれば、意匠が生活に密着しているのが面白いというだけでしょう。

- それは普遍解になり得ますか? -

広い意味での生活と社会性は同じことだと思います。今回の課題で映像表現等の従来の製図表現と異なる形式を導入しようとしたのは、単純に就職の間口を広げたいと思ったからです。私がしばしば学生に編集的設計と言うのは、編集とは情報時代の職業だと思うからです。一昔前では、編集者というのは創造者とは違う脇役、支える人たちだったと思います。三島由紀夫や村上春樹の編集者のような人はもの悲しい人だと思われていた。いわば表現の裏方の人たちです。しかし、今は立場が逆転しています。編集的才能というのは非常に重要なのです。それは学生にとっても6枚のパネルをどう編集するのかという極めて身近なところにあるのです。例えば早稲田のフェニキアチームはそれをどこまで広げていけるかが勝負所です。彼女達は情報時代の設計製図の実験のようなことをやっているのですよ。

Q:編集的というキーワードが出ましたが、グループ設計という形式についてはどうですか

A:早稲田では卒業設計もグループ設計としています。それは今のような時代の転換期には合理的だということです。卒業して一人で設計をやっていくのはほとんど不可能という時代です。スター建築家も一人ではやっていないでしょう。自身は仕事作りに邁進して、自分でアイディアを出したり図面を引いたりという人はほとんどいないと思います。

それから単純に体力の問題があります。それは自分のアイディアを受け入れられなくても平然としていられる、それはある種の体力です。それを養う必要があります。

私が二年生のとき建築展で都市型住居というのをやって、60人くらいの学生が膨大なエネルギーをつぎ込みました。そのときは誰も我を張りませんでした。ある人は会計、幹事、ある人は図面引き、といった具合60人単位で動きました。ちょうど東京オリンピックのときで、東洋の魔女が決勝戦をやっていたときに千葉の外房に合宿をしていたのですが、そのとき吉阪先生が来てくれました。吉阪先生は当時学校の授業も少なく、中々会えない人だったのでみんな楽しみにしていたのです。そのとき吉阪先生が私たち学生のスケッチをしていたのをよく記憶しています。つまり学生が自分の案を発表していても、先生は発表を聞いている学生たちの風景をスケッチしていました。「言っても仕方が無い」ということを良くわかっておられたのだと思います。学生の側も発表会の途中に東洋の魔女が気になって見ていた人がいたりして、そのくらいルーズな場所でした。

- そのような集団設計の空間は後々の高山建築学校のように正規の学校の外に出ないと生まれないものでしょうか? -

高山建築学校とは全然違います。あれは私が25 - 26歳の頃が最初でしたが、異常な学校でした。来た学生はみんな設計事務所を辞めて学校に来た人たちでした。私が鈴木博之に最初に会った場所ですが、私も鈴木先生も早大生や東大生には一切声を掛けませんでした。「危ないよね、ココ」というのが共通の認識でした。みんな設計事務所を辞めてきた人たちだから、独り立ちの建築家の数が異常に多かったですね。高山建築学校は若い先生たちの討論の場でした。私も校長の倉田康男を攻撃していました。そういうある意味ロマンティックな場所だったのです。午前中はレクチャーで午後は徹夜で図面を引く生活でしたから、正規の学校のコードからは完全に外れてしまっています。高山建築学校、A3ワークショップ、佐賀早稲田バウハウスと続いていきましたが、学内大学を何故やるのかという批判もありました。

しかし、私は佐賀で東大、早大両方の先生の全てのレクチャーを聞きましたから、水準の低い人高い人がすぐにわかりました。そういう過酷な場所でもあって、今はあまりない場所です。

早大・東大合同課題設計 2009-12

設計製図のヒントインタビュー編4

Q:早稲田建築とはどういうものでしょうか?

A:それは非常に答えるのに難しい質問ですが、それぞれの卒業生や先生といった個人の中に宿るものではないでしょうか。物質に宿るものではないですね。

例えば、村野先生は早稲田建築かと言えば、オリジンとしてはそう言うべきですが、現代でそうかと言えば今はそうとばかりとは言えない。今井先生が早稲田建築かと言えば、やはり今はそうとばかりとは言えない。吉阪先生も然りです。今はこの作家こそが早稲田建築だとは言いにくい。つまり、それは接していた人たちの個人の中に生きているのです。それを建築としては反映しにくいでしょう。接していた方の肉声とか、親しくさせていただいたりした人から早稲田建築を感じるのでしょう。それは、直接大学や大学院に在籍したりするということではありません。

私の場合はあえて早稲田のデザインの先生を避けてきたという部分がありました。だから歴史研究室へ進んだのです。中でも一番避けていたのは吉阪隆正先生でした。当時のU研はどのようであったかと言えば、大竹さんというU研の番頭さんが夏の日に米袋を枕に寝ていたのを覚えています。吉阪先生は研究室に泊まったりしていたのかは知りませんが、お子さんを抱いて学校に来ておられました。それから、当時の吉阪研は40人くらいいました。だから避けたわけです。

吉阪先生とはこんなエピソードがあります。

夏休みの朝早く廊下で先生にお会いして、「おはようございます」と挨拶したのですが、そのときフト、この先生にお茶を入れてやろう、と思い立ったのです。大学の歴史研究室でお茶の入れ方は教育されていましたから、歴史研でお茶を入れてU研まで持っていったのです。早朝で誰もいなかったので、お茶を差し上げたら吉阪先生は喜んでおられました。そのとき色々な話しをしてくれた記憶があります。

ところで、吉阪先生と渡辺保忠先生はあまり仲が良くないのですね。良くないというか、保忠先生にしてみれば吉阪先生は理解しにくいところがありました。吉阪先生がM氏邸を設計したときに、保忠先生が『M氏邸の意味するもの』という良い評論を書いたのですが、つまり、保忠先生は歴史家ですから認識論者で、吉阪先生はそれから自由に飛んでいく人です。私はそういう吉阪研の人たちをあまり賢くないと思っていましたが、吉阪先生のことはちょっと変で好きでした。

「ここで泊まっておられるのですか?」などと30分くらい吉阪先生とお話ししました。そのときに吉阪先生は私のことを憶えてくれたと思います。他の研究室の先生にお茶を入れに行くというのは珍しいですからね。吉阪先生も後でお茶椀を返しに来られたりして、淡々としていた出来事だったけれど印象に残っています。吉阪先生は幻庵のスケッチもして下さって、吉阪さんのスケッチ集の中に幻庵のスケッチがあるのですよ。ベタベタしてはいないけれど、個人と個人のお付合いが5、6回あったのではないでしょうか。

幻庵は学会賞候補になったときに5、6人の審査員が来て、その中に吉阪先生もいらっしゃいました。そのとき私は「川合健二邸に先にあげて下さい」と言ったら、また吉阪先生は喜ばれて「両方やればいい」とおっしゃっていました。結局、幻庵は何も賞を取っていないのですが、くれるべきだったと思いますよ(笑)。

ですから、最初の「早稲田建築とは?」という質問はある建築を指して言うことはできません。単体の建築ではないのです。私自身は極めて早稲田的だとは思います。子供の頃から早稲田で育ってきていますから、拭いきれないものがあります。

先週から使用している地下のスタジオは長谷見先生とか、古谷先生とかのご努力があって出来ました。三年生のこの課題で、こけら落としで使用しています。以前の製図室は製図室というよりは廊下で製図をしているようなところでした。ようやく製図室らしい製図室になったわけです。

私が学生の時は安部球場の前に木造2階建ての製図室がありました。それから、別の5階か6階に屋根裏のアトリエがあって、学校の授業には行かないでアトリエには行っていました。そこでダムダンの仲間に会ったりもしました。

新しい製図室は、まだあそこには伝統の空気が流れていないと思います。昔の汚い製図室にはかすかに伝統の空気が流れていました。新しい製図室に早稲田の伝統をただよわせるのは先生、学生の力でしょう。伝統の空気とは、アウラのようなものではありません。もっと、以前の製図室の廊下にあった空気というか、空間、建築的なところに宿っているのです。例えば部屋の片隅に置いてあった石膏のデッサン像とかにです。ゲニウス・ロキでもない歴史の気配です。それが建築を、デザインを思考させる原動力になっていたのです。建築や空間というのはつまるところ人間ですから、「その空間の中にいて誰を思うか」ということではないか、というのが最近の私の結論なのです。

早稲田建築とはそういった歴史の気配のことでしょう。

人間は亡くなっても、その人間を忘れない人間が一人でも居る限り生き続けることができるのです。

早大・東大合同課題 最終講評1

三年間、三回の東京大学建築学科三年生との設計製図合同課題の試みも、二〇〇九年十一月十六日をもって、ひとまずの区切りである。私としては、まずまずの成果をあげたと思うが、このままズルズルと延長しても、それ程の意味もないだろう。

三年間を振り返ってみたい。

初年度の合同課題は安藤忠雄さんの尽力があり、東京調布の駅前計画の課題であった。市役所の力添えもあり、学生達は町へ出て、市民団体や各種サークルの市民達と触れ合い、製図のヒントを得ようとリサーチしたようだ。調布市には多大の支援をいただき、最終プレゼンテーションは市民参加の大がかりな会にもなった。

市民の皆さんの学生達の案(アイデア)に対しての意見の大半はバリアフリーはどうなっているのか、等の市民社会的リアリズムにもとづくものであり、東大、早大両大学生共に社会の風の実に自然なせちがらさを痛感したであろう。痛感しなかったものはただの愚者である。

痛感した上で、それでも何か立派な建築的理想を描き続けたいと想う者こそが、柔らかい賢者になり得るように思う。記憶に残るのは早大女子建築学生のエネルギーの大きさ、そして男子学生を指揮し、従える組織者振りであった。彼女達の不眠不休とも想える程の仕事振り、エネルギーの蕩尽振りが、その後の本課題の早大建築学科の基盤となった。

彼女達は説明能力にも長けており、それ迄漫然としたイメージとしてあった「早大建築生はしゃべれない。それに引き換え東大生はスケッチだけで、とうとうと説明だけはやってのける」という得体の知れぬ伝統的情報を一気に払拭したのである。

その意味では早稲田アマゾネス軍団の猛者達は早稲田建築の伝統の小さく見えるけども、実は大きな改革者達であった。

しかし、不思議なもので、私が最も強く印象に残しているのは、線の細い少し暗めな印象の男子学生なのであった。

その彼が今何をしているのか、何処にいるのかは知らない。知ってもしょうがないような気もするが気にはなる。

この学生が入っていたチームの案は取り立てて上位に位置するものではなく、しかもどうにもならない下位に埋もれているものでもなかった。私は彼等の案を勝手に「薔薇の名前」と命名していた。彼等の初期の手描きのイメージスケッチが暗い中世の荒地を想わせるような感じのもので、それにひかれたからだ。

彼等三人の男共に私は尋ねた。

「『薔薇の名前』読んでるな、君達」

気まずい沈黙と眼の動きがあって、二人はすぐに全く読んでいない事が知れた。薔薇の名前を読んでいない者が学部三年にいるなんて東大には言えないな、コレワと私はしらけかかった。ただの無教養さは何のアイデアも生み得ぬ事くらいは知っていたからだ。何話しても通じないと、私は気持を閉じようとした。一番小柄で眼鏡をかけて、決して体力は充実してはいなそうな男が小声で言った。

「僕、読んでます」

「そうか、そうだろう、読んでなきゃ、こんな暗い荒涼たる光景描けないと思ったんだ。ここに描かれているのは薔薇の名前の舞台になった建築がある荒地の光景だよ」

人生は誤解と曲解によって、得てして組み立てられる。理解と納得だけでは成立し得ない。

その曲解によって、彼等のチーム名は薔薇の名前と名付けられて、彼等は極めて象徴性の強い案を作り始めた。

あの一枚の暗い光景を描いた、繊細で、強い希望なんて、まるで見当たらぬ、そんな内実とも呼びたい感性とは別の方向へ行ってしまった。

結果はやっぱり思わしくはなかった。

設計製図は未完のまんまで中断された。

恐らくは、あの小柄な「薔薇の名前」男は、他の二人のいかにも健康そうで、くったくのない青年達の俗臭に消え入ってしまったのだろうと、私は少しばかりさみしく考えたのであった。

「そのスケッチは捨てないで持っていたほうが良いよ」と最後に彼等に言うのが精一杯のはなむけでもあった。

あの一枚のスケッチが彼等の手許に残っていたら(そんな事は万に一つも無いのだけれど)、彼等はいつの日か人の心に残る何モノかを作る事ができるのに、と今でも懐かしく思い出す。

あれから三年経って、今年も初冬、早稲田女学生三名のチームには薔薇が登場した。

フェニキアの薔薇である。

彼女達がこの課題を始めるにあたって、フェニキアと呼ばなかったら、遠くへ呼びかけなかったら、女学生達は高田馬場くんだりの、ただの人柄の良い女学生であった。

フェニキア海洋国家と呼んだからこそ、彼女達は学生としての極北とも言える高みに登ることができたのだ。

しかし、あの薔薇の名前の男子学生は今どうしているのやら。

去年の雪、今いずこ。

かくしかじかと、この合同課題には短期間であるからこそ、教師としても集中力をもって臨むことができ、それだからこそ学生達の才質、人柄、人格迄も感知し得るような、これも又、曲解をとり敢えずは立てる事も可能なのだ。

それ故に設計製図に於いて学生の成果は教師サイドの考えの総量とエネルギーに比例する。

教師こそがんばらなくてはならぬ。

早大・東大合同課題 最終講評2

フェニキアの薔薇ならぬ、薔薇の名前の学生達、今思い返すに、あの時、私が思い入れの深さをそのまんま彼等の設計製図に注入していたらどうだったのだろうと、複雑な想いの中に沈み込む。

恐らく、彼等の設計製図には色濃くウンベルト・エーコの薔薇の名前の空気が入り込む事になったであろう。

もしも、彼等がそれを受容する能力を持っていたならば、ではあるが。そして、早稲田建築の案としては強い存在感を持つ迄には至っていただろう。そして、あの暗目の学生はもう少し深く建築への関心と、強い愛情を持ったかもしれない。他人から、曲解であるにせよ認められるという事はそういう可能性をも持つに至るのだ。

そして若い才質というものは、その期待に応えてその役割を演じているうちに、驚く事なかれ、その演じている者の域に迄たどり着くのである。設計製図教育とはその典型なのではないか。これは頭脳と身体の実技科目なのだ。実技の基本はなぞりである。なぞりは要するに真似の繰り返しによる脳をふくむ身体へのすり込みである。

なぞるモデルを教師は明示すれば良い。それぞれの才質に応じて。

薔薇の名前の、男子学生を上手に高く引張り上げられなかった苦い記憶もあり、三回目の合同課題に際して私はCクラス、つまりどん底で沈んでいるまんまの学生の中から、何がしかを引き上げる事を心に期した。その結果、二つのチームをサルベージする事ができた。

大森菜月、宮沢秀輔のグループ(第六番目に発表)と阿部智揮、橋本明賢、山下桐正(第十番目に発表)のグループである。

むづかしい事をとやかく言う愚は犯すまい。この中から建築設計を一途にやる如きの人材が育つ事を願いたい。

学生時代は愚直な受容力を自ら育てるのが一番である。小才な器用は持続しない。特に早稲田建築の場合は。

次回は東大建築学生の記憶に残る者、いくたりかについて述べたい。皆、目に焼き付いて忘れない。実物の建築よりも余程ハッキリとした像を結び続けている。

早大・東大合同課題 最終講評3

昨年二〇〇八年の2回目の合同課題で鮮烈に憶えているモノの一つは 12 班の作品である。実は今年、三回目の中間発表等で度々言及した「染みる」チームのモノよりも、個人的には引っかかるモノがあった。「染みる」の良さは3年生で完成されている良さである。

昨年の 12 班の作品はサイトの上に透明なプラスティックボードをランドスケープデザインの趣向で、フリーハンドにうねらせ、それに、確か白い記号状の等高線状のモノが描かれていたように記憶している。又、ドローイングには計画敷地からスポーツセンターの方向への都市の流れの直覚が記されていた。

昨年のヒントにも記したが、私がこのサイト周辺を体験した時に得た印象も全く同様なものであった。二年二回の同敷地へのリサーチ等でそのような印象を述べ、設計のよりどころにしたのは、東大、早大合わせて昨年の 12 班だけであった。

3年目にして、初めて、というよりもハッキリと昨年東大 12 班のプレゼンテーションの価値が浮かび上がってきたのである。

学生の製図作品だって、提出されたその日にすぐに価値が明快に意識され、ましてや評価されるなんて事はまれなのだ、実ワ。特に 12 班の如くに場所の、都市の四次元的原理を、いささかプリミティブに直覚しようとしたモノは殊更にそうなのだ。一年経って考えるに昨 12 班の感受性は極めて知的で示唆に満ちていたものであった。今年の課題を見終えてつくづくとそう思う。

昨年の、このヒントに於いて私は 12 班の作品に対して、その自由曲線、曲面のイメージをアールヌーボーを引いたりして批評したが、あれは実に間違いであった。これを読んでいても、いなくても一方的に取り下げたい。

昨 12 班が感知しようとしていたのは四次元の立体であった。それを都市の流れという実に初歩的な言葉で言おうとしていたのだ。一年経った今ではそれがよおく解る。

今年の合同課題で、12 班のような都市の流れの如きエネルギーを感知したモノが無かったので、12 班の案を強くおもい出しただけではない。今年末にほぼ完成させる一つの建築で、私はようやく昨 12 班が感知しようとしていた、場(フィールド)のエネルギー(運動)らしきを具体物で表現できたように思うからだ。

猪苗代湖畔のサイトに建築した「時間の倉庫」がそれだ。コンクリートの大きな箱の裂け目からあらゆる種類の光が回転しながら射し込む。地球の自転運動はそのまま、短い時間の媒体だから、その自転運動を、より人間の感知能力に引き寄せたいと考えた。こんな書き方をしたら、危うい神秘主義者のように思われるかもしれないが、心配は御無用、実物は巨大な農業用倉庫でもありますから。それに地中の巨大な空間の上には管理人室という名の社長室もあるんでね。

一度、機会があったら見て下さい。私がこれ迄作ってきたモノの中では一番良い建築だと思いますから。

この内部を体験して、君たちのドローイングや模型を憶い出してくれれば、あっ、そうだったのかと、そういう事を石山は考えていたのか、そして君たちもと感知するだろうと信じます。

今、何をやろうとしているのかは知りようがないけれど、そんな事はどうでも良いのだ。若い知性をどうしても立体物で感動させたいだけです。

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