絶版書房便り

「アニミズム周辺紀行1」

二〇〇九年一月二十八日
石山修武

朝、二川幸夫氏に電話して、「アニミズム紀行」シリーズをGA・BOOKショップに置いてもらう事になった。その少し計りのツメを相談する。都内在住の方で、二五〇〇円払ってつまらなかったら、イヤダなあ、なんて石山を信用していない方は、是非GAでお手にとってご覧いただきたい。立ち読みだけは控えられたし。いいものは少々高いのです。

二川幸夫は私のネット趣味に、どうでもいいけどと思っているが、だけれど批判的である。何であんな事するんだろうと思っているに違いない。

たかが二〇〇冊のスタートではあるが、オリジナルドローイング入りの二〇〇冊である。作品なのです。

残部九九冊になっている。予想していたよりも最近の予約が急ピッチなので、二月に絶版にする事ができそうだ。


1/18 ベイシー 菅原正二

これは何が何んでも実現する必要もないんですが「いつか大きな小屋を建てたい」とずっと思ってきました。ロケーションのいい処に大きな小屋を、です。小さな小屋じゃなく、大きな小屋。そこで何をするというわけでもないんですが風景として誰しもあこがれるもんですかね、これは。近くに清流でも流れておればなおよろしいです。小川に魚影でもあれば文句なしです。それを釣ろうと思う人はアホです。「エミリーの夏」ですが、あの汚い小川にも野鯉やハヤのけなげな姿がよく見られ、ただ眺めて立ち去るのみですが。

石山さん、いつか何処かに大きな小屋を建てるって無目的な夢を、なるべく実現しているようにしましょうね。

ボストン「タングルウッド」の納屋なんかイメージとしてはいいほうですな・・・。


菅原正二様

わかりました。そういたしましょう。出来ても、出来なくても、リアルな世界はどうでも良ろしい。その境界をお互いに生きましょう。フランク若松の、もう一度とは言わず、キチンと墓参りしたいものです。

今年も、もしかしたらあるかも知れない未来もよろしく、おつき合い下さい。

一月十八日 石山修武


二〇〇九年一月二十七日
石山修武

「アニミズム紀行1」を読み直す。やりたい事があり過ぎて、もしかしたら積み残しになっちまうかも知れないと考える位の知恵はようやくついてきた。力を尽せば何でも出来るが、力を尽せない時もある事を知り、力を尽したとしても出来ぬ事が多いのが現実だの、イヤなワケ知り顔を時にはするようにもなってきた。

大筋に於いて紀行文の形式をとろうとしているのに、先ず注意していただくと、少しは全体への導標にはなるかも知れない。このメディアの形式は「旅」をなぞろうとしている。「旅」は日常生活の対概念ではあり得ない。日々の生活自体が「旅」の様相を呈する如くになっている。色んな経験を積み、それはそれは色んな事を学びつつある今はまさに、日々が「旅」そのものだなと想うのだ。センチメンタルな考えを述べているのではない。古典的な旅、例えばゲーテのイタリア紀行を通読して感得するのも、結局そういう事だ。ゲーテは色々な難しさにとり囲まれて本能的にワイマール共和国から、地中海へ逃亡したのだが、脱出した筈のイタリアで、常に考えていたのは逃げて出たワイマールの事でもあった。

しかし、ゲーテは決して感傷を吐露しようとはしなかった。地中海の、生まれて初めて見た海の青さや、妙な生物、例えばカニを見て驚いても、それを実に即物的に書き記す成熟を所有していた。ゲーテを持ち出す大仰さはイヤダネェと言うなかれ。ただ私はワイマールでゲーテが暮らしていたゲーテハウスを訪ねて(それは二つあって、一つは本物で、一つは観光客用のニセモノなのだが)、そりゃあゲーテは南へ行きたかったろう、こんな石造りの寒い家にいたらさぞかし、南へは行きたかったに違いないと考える位の即物性、唯物論的傾向の所有者でもある。全く、ゲーテはあの家で寒さと常に闘っていたのだ。日本の寒さ、特に東京のとはケタが違うのであるあの寒さは。いずれ、二つのゲーテハウスについては書きたい。二つのゲーテハウス、ニセモノと本物の対は充二分にワイマールの人々にとって日常の中で意識されている。勿論、考える人達にとってであるが。そんなワイマールから、バウハウスのモダーン・デザイン運動、すなわち本物を目指した「本物の」ニセモノが出現したのには、歴史的な脈絡があるのだ。

と、いずれ十何冊回かのアニミズム紀行では「ゲーテハウス」を書く予定である。


菅原さん。そういう事は随分昔から、と言ってもたかだか十数年の昔からですが、気付いておりました。つまり、一人でいるのが一番似合い過ぎる類の人間の存在の形であります。

貴兄はその類の人種の、現代では一番凄烈な形式を所有している人間なのだと考えております。貴兄が居なくなれば、JAZZというか、アフリカからUSAに渡った人間達の深奥のスピリッツは、深い処では失われるでしょう。記憶が消えてしまうのだから。貴兄の、ベイシイの音には、その歴史全体のエキスが今や託されているように思います。凡人はバーカ、大ゲサなと考えるでしょうが、いつも歴史は少数のバーカの方に味方するのではありませんか。世は逆の意味で本当にバカばかりで溢れ返っているようです。まあ、この年になったら、それ位の科白は吐いてもいいでしょう。

さすれば、菅原さん。何をするでもないのですが、世界はどうせ亡びるに決まっているのですが、その中で、我々は何を、今に残しておけば、いいのでしょうね。貴兄は、JAZZの死者の世界を残しているから、歴然として、働きは、ハッキリしています。困った事は、私の如くの、中途半端な人間のケースなんですがね。

一月十八日 石山修武


二〇〇九年一月二十六日

菅原さん、貴兄は魔物がとりついた人間ですから一ノ関でも、三ノ関でも今居るところに尽きるんでしょうね。マア、恐らく私だって、南の国にも、ヒマラヤを望む村にも住まずに、何処か東京の周辺で野垂れ死にするだろう事は、余程力を尽さねば、そうなるでしょう。だから、こそ、そうではない状態を想像したくもなるのでしょう。少し本音を吐いていますが、貴兄相手だから、それは当然です。

菅原さん、あなた位旅の似合わぬ人は、これ迄会った事も視た事もないですよ。貴兄はベイシイに、決して一ノ関ではなく、無国籍なベイシイに苔むしいている人間なんですな。驚くべき事です。貴兄を知らぬ人は、コレを決してわからない。そこのところが、実に面白いのです。

先程いただいた、イスラエル・パレスチナ問題に対するあなたの考えらしきを直覚できて、やはり、友人は持つべきだと痛感いたしました。

全く、同感です、パレスチナは。でも、イスラエルの若者も、パレスチナ人も、民族の誇りと我執だけで、心を動かし続けるのですかね。憎しみは、何も解決しないのは、歳を取った我々は良く知るように思います。

今日は、嬉しい日曜日です。

一月十八日 石山修武


1/18 ベイシー 菅原正二

石山さんほど私の正体を見破ってる人を他に知りません。他の人たちはみな一種の勘違いをして私を見ているというかよく見ていないようでもあります。

坂田はいいほうです。

私ほど旅の似合わない人間はいないとはよくぞいってくれました。全く似合わないのであります。そのへんの温泉に行ったって私だけ浮いてます。温泉に浮いてんじゃなくてその場にです。更にですネ、町を歩いていても異和感を覚えます。これが銀行や市役所に用あって行った時にはひどい風景で一刻も早く用を済まして退散したい気分です。海外へ行っても同じです。とにかく似合わない。

これが私の全てであり正体なんであります。つまり一人でいるのが一番似合ってるのです。ですからしてこうやって 40 年もこの中で暮していけるのです。以上です。

※役者とか芝居をやる人の(やれる人の)気が知れません。


石山修武

今、2回目の配本分、「空飛ぶ三輪車・アポロ 13 号」アニミズム周辺紀行2の全ての文章の校正作業を終了した。昨夜来、校正作業に取り組んでいたが、特に、空飛ぶ三輪車作りの当事者、プノンペン・ウナローム寺院のナーリさんへのインタビューが、もうまとまりようがなくって面白く、呆然とした位であった。

第一回の配本分の読者からの交信はまだ一切無い。ようやく数冊がお手許に届いた頃だろう。今日の日曜日数人の読者が読み始めていてくれているか、どうか。私にとってはこの配本と交信はライフワークの第一ゲートである。二〇〇冊しか発行しないのだ。二〇〇人の読者だけに私の考えを聞いてもらうのである。私の出来る事はそれで良いのだ。その二百人の読者との交信に、毎回の交信に私は私の夢を賭けてゆく。読者を頼りにする私は。


二〇〇九年一月二十四日

菅原さん、日曜日も何曜日もない人生を四十年以上も続けている貴兄に対するに、私奴は凡人です。特に最近は体力、気力が少しだけですが細目になって、日曜日だけは休日にしようと、キリスト教徒でもないのに安息日を決め込んでます。まことに不甲斐ない限りですが、人生は有限ですから、又それも仕方ないと悟りつつあります。ケイコ・リーのライヴには多分行けそうにありませんが、何があるかは知りません。4月になったら夏迄、東北大に何度か用事があって参りますので、今年こそ、春はベイシイ通いを実現したいですが、夢は見ている時が華です。行かぬも華ですから。

ベイシイを駆け込み寺にした人は数々あるけれど、私は最晩年には一ノ関はやはり少し計りキツイ。街が寒いです。ベイシイを取り巻く街が余りにもつらい。南の国や、ヒマラヤの国に隠棲して、年に一度、ベイシイ参りを続けるなんてのが、理想かなとも思います。

一月十八日 石山修武


石山さん

おっしゃる通りであります。

こんなお粗末な町は世界に例を見ません。で、孤立するには恰好の場所だと感謝さえしてます。

いい処は世界に幾多とあるらしいことはうすうす私だって知ってます。そんな処で暮したらこんなことに没頭出来ないことも知ってます。故に、そんなこたあどうでもいいと捨てバチです。想像を絶するひどい町でありますよ。

女房はとっくにあいそをつかし「南の島に行きたい」と別居生活を希望してます。冗談抜きで。

私だってインカやキューバなどもいいかと思います。その時、私はタダの人となり、本来の自分になりましょう。そしてこれまでの自分が単なるアホだったとつくづく夕陽を眺めながら・・・。

1/18 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年一月二十三日
石山修武

一冊一冊に手描きのドローイングを入れる作業に入っている。二〇〇冊だから簡単にゆくだろうと楽観していたのが大間違いだった。

見開きの白ページに描き込んでいるが、二時間かけて十五冊が限界だ。一部十分弱かかっている。これ以上時間がかかってしまうと、ドローイングの大安売りになってしまうので、これ位がマア、程良いのではなかろうか。

本文中にも私のドローイングが印刷として刷り込まれている。その印刷のドローイングと手描きのドローイングの区別がつき難いと、努力の甲斐も小さいと考えて、オリジナル・ドローイングには色鉛筆の線を描き込んだ。しかし、黒色のツヤとエネルギーが印刷モノと手描きの墨とではまるで異なっていて、これは杞憂であった。絶版書房の手描きドローイングの描き方、主題にもしっかりしたコンセプトを段々と作っていかねばならないと痛感する。

第一回アニミズム紀行の五〇冊はキルティプール、バオバブ寺院やシヴァ神殿、ストゥーパが点在している地形のアニミズムの如きを描いてみた。

ナゾ解きは、今、ここでしてはいけないけれど、キルティプールの丘はネパールの学生達の運動の拠点でもある。


石山さん

1/18 ベイシー 菅原正二

JAL国際便「ジャズ・チャンネル」は当分私が担当するようですが、その初回の対談のゲストとして呼んだのがタモリで、渡辺貞夫さんではありません。この対談、ノンストップで 90 分に及んだのでタモリが「もったいないですね」というからあとで「ステレオサウンド」(「セッションズ・ライヴ!」)に全文載せます。タモリ、途中からテンション上げてきましたね。

尚、貞夫さんのベイシーでやったライヴ盤のCD、全米ジャズの、トップ・チャート(アマゾン)でベスト・テンに入ったそうです。

本当は '78 年の「アニタ・オデイ・アット・ベイシー」がいいと思うんですが。

来る 3/20 に行われるJR東日本「大人の休日倶楽部」のケイコ・リーのライヴは申し込み日わずか5分で「札止め」となったそうです。翌 21 日にベイシー主催でやりますので、落選した方はそちらにどうぞ、ということになってます。


二〇〇九年一月二十二日
石山修武

アニミズム紀行1の一冊一冊にドローイングを書き加えながら考えた。二〇〇冊の限定部数の発刊にもっと的を絞れば、やり方はもっと多様な可能性があるなと。

二十二日付の世田谷村日記にも書いた事だが、私の友人佐藤健のガンとの闘いは絶望の中に常に一筋の光が見えてもいた。それに立ち会い続け、健の口述筆記に最後迄立ち会い続け、「生きる者の記録」を残してもいただいた萩尾信也記者の記事と、私のアニミズム紀行とは実は同じ物に向けて書いているのだ、そしてイメージをふくらませてもいる。

毎日新聞が今、何百万部の発行部数なのかは知らぬ。私の絶版書房は発行部数二〇〇である。たった二〇〇。私のネット、サイトの読者数だって、絶版書房の二〇〇と比べたら、はるかに多い。

でも私の二〇〇は実は強いメディアになる。必ずなるという確信がある。それはコミュニケーションのスケールとして実に適確な数字が想定されていて、又同時にそれに適した対価も考えられているからだ。

つまり、アニミズム紀行1は二〇〇部しか渡してはいけないし、それで良い。

ドローイングを一点一点描き加えながら、私は今、自分の描く能力、書く能力、他のコミュニケーション能力を自分で測定し始めているのを感じている。

毎日新聞の「ガンと生きる」の読者も又、萩尾記者の記事に何かの光を求めているだろう。それは、ジャーナリズムの枠をこえたものだ。

活字メディアの将来を考えるに、例えば新聞の発行形式は少量多品種へと移行せざるを得ないであろう。今でも大新聞は各地方版を持ち、決して同一規格ではない。

その構造と、政治面、社会面、経済面、生活面、スポーツ面、文化面とが特化され、組み合わされた、数十万部×Xの形式をとるようになる筈だ。

当然、わが絶版書房もその形式の極小モデルを目指すのである。

今、考えている事は仲々伝わり難いだろうと思う。しかし、六回くらい続けているうちに、少しは視えてくる物もあるだろう。問題はスピードだ。不規則でありなあがら速い、柔軟な速力である。2号を急ぐ。


石山さん

全くの私感ですが、今のモノに”神”が宿らないのは当然であると思います。

モノを造るのは夢とロマンと義理と人情が不可欠と思われますが、今はその全てが欠落して「エコ」のみだからであります。「エコノミー」な芸術なんてあるわけない。

故に全滅なのであります。

ミュージシャンもおしなべてタダの人が多いので肩入れする気にあんまりなりませんなあ。

これはあくまで私の個人的見解であり、あんまり公言する気もしません。

「魔物」はレコードの溝の中に棲みついておりますから私しゃそれでいいんです。

1/18 ベイシー 菅原正二


菅原さん。

貴兄には魔物がとりついているのはすでに知っております。それをアニミズムと呼ぶべきか、どうかは知りません。レコードの溝に魔物が棲みついているというのを視る人にも、同じ者が棲んでいるのでしょうか。

生きている者には魔物はつきにくい、ただ死者の残した音の中にそれはあるのだと、おっしゃっていますね。そう言い切る者をまぶしく視る者ですな私は。しかし、そんな世界の住人である貴兄の独自な事、その事を最近は急速に直覚できるようになっています。

私にはまだ魔物は棲みついてくれないのですが、その影を時々、感じるようになってきたようです。長い人間の歴史の中でJAZZの音の神が輝やき、又、巨大な影となったのは、ほんのまばたきする位の時間であったと教わりましたが、貴兄は、墓守りですね。JAZZの魔神達の。

一月十八日 石山修武


二〇〇九年一月二十一日

ベイシイ 菅原正二様

お手間取らせてすみません。

蔵を改装したベイシイ建築ではなくって、菅原さんのアンプやスピーカー、レコードに棲みつく何かと言うのをお尋ねしたかった。それ等は百何十年の蔵というわけではなく、モダーンな工業製品でもありますから。

更に近代的な楽器には何者かが宿るものなのでしょうか。JAZZのプレイヤーにはどうでしょう。

一月十八日 石山修武


石山さん

ベイシーで開店以来使用しているJBLのアンプは「真空管アンプ」ではありません。約 45 年ぐらい前に、当時常識とされていたアルテックやマランツ、マッキントッシュといった真空管アンプをゴボー抜きにして登場した「ソリッド・ステート・アンプ」の、これがはしりです。このアンプの登場によって「ソリッド・ステート」つまり「トランジスター・アンプ」がトップに踊り出たといって過言にはなりません。

パワー・トランジスターはモトローラ社にこのアンプの為に特注したもの。プリ・アンプの初段には敢えて反応の速い「ゲルマニューム・トランジスター」が使用されてます。「SE400S」と呼ばれるパワー・アンプは「Tサーキット」という名の最新回路が発明され、これは特許が切れるまで他社は真似ることができませんでした。このアンプのデザインを手掛けたアーノルド・ウォルフという天才は未だ存命中で昨年ノースリッジのJBL本社を訪問した際に逢いたかったのですが、彼はシスコの南のほうに住んでおり、叶いませんでした。ちなみに彼のデザインしたJBLのアンプは当時アメリカのインダストリアル・デザイン賞をさらっております。「パラゴン」という有名なスピーカーも彼がデザインしたものです。私はアーノルドのデザインしたJBLのアンプの「音質」と「カタチ」に惚れ込み、一生を共にしました。「デザイン」こそモノに生命を吹き込みます。

今はカメラにしろクルマにしろ「デザイン」が死んでおります。見ったくねェのばっかです。

1/18 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年一月二〇日

ベイシイ店主 菅原正二様

ハドソン河の奇跡がいかにJAZZ的な事件であったかを書いていたら、幾つかの脈絡の無い疑問が浮いてきましたので、質問します。

岩手内陸大震災に際して、ベイシイの音が微妙に変化した、ノイズが出現した。それがアンプ・スピーカーから大地に結ばれたアースから入り込んだのではないかという話しはとても面白かった。

つまり、ベイシイにはアニミズムらしきが棲息していると思いました。

ベイシイの、そんな不思議は四〇年の時間が育てたものでしょうか?あるいはピカピカに新しい頃にもあったものでしょうか?

お尋ねしたい。

一月十八日 石山修武


石山さん

1/18 ベイシー 菅原正二

いつしか「ベイシー」は駆け込み寺となり、いろんな人の霊が棲息するようになりました。正に「アニミズム」そのものであります。もォ、下手な改装など考えるのは止めにしました。せっかく集まった”霊”の棲家としてこのままにしとくのがいいのではないかと。このところまた「お告げ」あり、連日あれこれやっておりますが、気が付くと私はやらされてるだけで、決して私の意志でやってるのではないと分かります。何故ならば、出来ることなら私は面倒な「オーディオ」などいじりたくないのでありまして・・・。

あと数日で、音に何かの生命が宿りそうな、そんなところまで来ております。不可解なことが多すぎるのですよ、これは。

尚、ベイシイは開店した時から「建物」は百何十年経っておりましたからピカピカ時代ははじめからありませんでした。


二〇〇九年一月十九日

ベイシイ 菅原正二様

一月十七日付朝日新聞連載「物には限度、風呂には温度」受け取りました。もう第 26 話になるのですなあ。

JALの機内音楽を渡辺貞夫さんと一緒に流すようで、それも楽しみにしています(※誤りで、相手はタモリ氏である)。飛行機と言えば、NYでのジェット旅客機のハドソン河無事着水は、何かと暗い世の中では、ポッと点灯した、ベイシイの真空管の灯りの様な出来事でした。あの機長の異常事態対応の判断は、ベイシイ店主の対応力、瞬発力に良く似ているなの印象でありました。マ、こんな感慨は世界広しと言えども私だけのものでありましょうが。彼は貴兄よりも少し若い五十八才位らしいが、五十数年のこれ迄の人生を、ハドソン河上空の数秒、数分に集約して表現し得たのではありますまいか。F4の戦闘機乗りの経験も含めて、全ての経験を瞬間の判断に結晶させた。百五十六名の人命を守り得た幸運よりも、何よりも、その幸運にまぶしいような奇跡を感じました。

彼はきっとJAZZを聴く男なのであろうと思います。瞬時の判断の連続が全体を作り続けるという形式が見事に表現されていましたから。この事件は、アポロ何号かの月面着陸よりも余程質の良い価値があると思います。事故を起したアポロ 13 号の地球への帰還が大交響であったとするならば、ハドソン河への帰還は、まさにJAZZ的叙事詩であった。パイロットの思考、飛行機の操縦そのものが、適確な即興の連続でしたから。

しかも、命がかかっていた。

貴兄が四〇年余りをやり続けているのを、数秒、数分で表現しちまった。ある意味では、ついてる男でした。 JALのJAZZは、どんな風になるのかなと想像を巡らしていたら、ハドソン河に辿り着いてしまいました。

一月十八日 石山修武


石山さん

「ハドソン河の奇跡」はアメリカの久しぶりの快挙だと私も思います。よくぞやってのけたもんであります。人間の実力が問われた一瞬の場面(シーン)でありました。結果的に、あの機長の一生はこの日の為の修行の積み重ねであったともいえます。まぐれで上手く行ったのではなく、正確に上手くやってのけたのでありますョ、彼は。これを「ハドソン河のJAZZ」と命名しましょうか。

--- しかし、一方でジェット旅客機がミサイルならぬ”鳥の群”に撃墜されたという現代の皮肉も見逃すわけには行きません。

イスラエルの若者が投獄承知で出兵を拒否したというのもいい話でしたな。

1/18 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年一月十七日
石山修武

もう一度二川幸夫さんに戻りたい。

絶版書房はいずれ必ず小さな力を持つ。思い付きでやり始めている事ではなく、確信があって始めているからだ。絶版書房の中心は、個人誌である事につきる。私が本当に面白いと考えている事だけを、私の手や、私の言葉で、そして先には私が信用している人間だけに助力をいただき、少数の人間だけに直接手渡ししてゆく。

このやり方は、二川幸夫さんの初期のGAに実は酷似している。二川幸夫は自分で良しと感じた建築だけを撮る事から仕事を始めた。それは仕事とも遊びとも、快楽とも区別のつかぬスタイルであった。不思議な事にその姿勢が信頼を得て、GAのアイデンティティが作り上げられた。二川幸夫さんの個人誌としての大きな価値をだった。それが先ずあった。その次に写真家としての力量が続いた。GAはグラフマガジン、写真誌である。でも、その本体は二川幸夫の眼の判断を楽しむというのが正しい。建築の大小、建築家のキャリアに関係なく、建築を見て、良ければ撮るし、良くなければ撮らない。それだけを、変わらずズーッと続けている。

私の絶版書房はグラフ紙ではない。写真技術も印刷への知識も、今更マスターするに出来ない。でも絶版書房には言葉がある。しかも批評ではない言葉を積み重ねてゆくつもりだ。全て、その言葉は交信への欲求から生み出される。私はコレをコウ考えるのだけれど、あなたはどう思う?を望んでいる。6号迄にその感触はつかめると考える。通信はネットを介する。活字、印刷メディアは交信の素材でありたい。

もし私の主題の立て方に誤りがあれば、単純な事だが読者は見向きしなくなるであろうし、面白ければ良く読まれるように、必ずなる。

二川幸夫さんのGAは建築が主役である。私の絶版書房は人間とモノの関係が主役であり、読者との関係が主役である。それ故、私は全ての読者の姿を把握したいし、それはそうするつもりだ。その大半はネットを介した読者になるのだろうが、私の処には絶版本を手渡す為の少なく共、名前と住所は登録される。勿論、その個人を名指しでピックアップして交信したりの失礼は決してしないけれど、読者に知られずに、読者を仮想して、主題が組み立てられる事もいずれ起きるだろう。

又、少量販売だから、年賀状の如くに手作りの部分も組み入れてゆく。ドローイングや、版画、写真だってオリジナル版を組み込みたい。

二川幸夫さんの白黒写真のオリジナルは高価過ぎてとても手が出ないから、もう少しナチュラルな値段で山田脩二の白黒写真を十点程やってみたいとも、考えている。もう、色んな事を体験してきたから、知ってる人間のモノが一番である。


二〇〇九年一月十六日
石山修武

ある人物とは、ネパールのジュニー・シェルチャンである。彼はネパールの児童教育にインターネットを普及させようと力を尽くしていた人物だ。いた、と書かねばならぬのは、今ネパールはジュニーがカリガンダキ沿いのトゥクチャの大豪族の長男として、王権に力があった時とは状況が変わってしまったからだ。

ネパールは今、毛主義によって占有されている。ジュニーのインターネット事業が今、どうなっているのかの詳細な情報は手許に入らなくなっている。でも、時代は廻るから、必ず。ジュニーのヴィジョンは正し過ぎる位に正しかった。山国ネパールの児童教育にインターネットをインフラにしようというヴィジョンは実に合理的で正当なものだ。必ず彼は近いいつかに成し遂げるであろう。

で、山口、小笠原のそれぞれのハウスでの情報を、キルティプールのジュニーのスタジオに送る。山口さんのメディアアート他のアイデアはネパールの子供達に役立つ。又、プノンペンの小笠原村の情報もキルティプールへと送信される。小笠原さんのモノ作りのアイデアも又、ネパールの人々に原理的に役立つからである。ジュニーは、他からも送られるメディアをキルティプールのスタジオで編集する。そして、それをネパール中に流せば良い。

GAに出展するのは、1.たまプラーザの山口さんの室の修繕案、送信を主とした。2.プノンペンの小笠原さんの家の修繕案、送信を主とし、その送信の一部は蚊帳付き寝台の一つずつにセットされているような。3.ジュニーのキルティプールのスタジオの設計。一つのモデルとして、この三件をインターフェイスさせる事を、GA HOUSEのプロジェクトとして出す。だって二川幸夫のヴィジョンはあくまで、グローバル・アーキテクチャーだろう。グローバルってのは、そういうことではないかと思うのだ。


二〇〇九年一月十五日
石山修武

GA HOUSEの展覧会に出展しようとしている今度のプロジェクトに関して、展覧会とは別に同じモノを絶版書房で再録しようと考えている。

「二人の老アヴァンギャルドの家」がそのタイトルである。クライアントはたまプラーザの不動明王、複合メディア作家山口勝弘さんと、プノンペン、空飛ぶ三輪車工場の小笠原成光さん。山口さんはアヴァンギャルドとして芸術のフィールドを走り続けた人物であり、小笠原さんは日本のヒッピーの草分けとして、世界を放浪し続けている人物である。この二人の住居は、取り敢えずは今すでに在る。日本中の人間達の住居がすでに事足りているように新しいものはいらないのだ二人共に。

ただし、今のそれぞれの住まいのスペースを考えるに、いささかの修理、修繕が必要である。雨モリがあるとか、そういう不備からの修理ではない。もっと根本的、原理的な修理、修繕が必要と想われる。そう想うのは、建築らしい住居が好きでたまらぬ私であり、そう想わせるのは、お二人のピュアーさであろう。山口さん、小笠原さん共に、GAの二川幸夫と同様なピュアーさ、過剰なピュアーさの所有者たちである。

小笠原さんは本名でニックネームはナーリさん。第二回の絶版書房の主人公であるから、氏についてはそれをお読みいただき、感じでいただきたい。

山口勝弘さんに関しては、今突然第四回の配本でやってみようかのアイデアが浮んだのだが、実を言うと絶版書房の産みの親である。初代絶版書房の当主である。これに関してはいずれ詳述せねばならない。

要するに、御二人共に、今現在私が異常に関心を寄せ続けている人物である。

彼等の今在る、住居をキチンと修繕する。アポロ 13 号の宇宙飛行士達が、NASAとの交信を基にそうした様に。二人の老アヴァンギャルドのハウスは、今のママでは御二人の間尺には決してピッタリ合っていないから。

プノンペンの小笠原さんのハウスには、蚊帳付きの移動ベッドを小笠原さんの工場で自分で作れるように、7台程設計して、広い一室空間に柔らかい、モバイル村を出現させようと考える。そのモバイル寝台には水廻りはないけれど、他の機能は殆ど供えられている。収納が主だ。その寝台は外に動き出て、ひろしまハウスでも機能するように考えられている。蚊帳の村みたいなモノである。

山口さんの室は小さなワンルームであり、山口さんは村状態を好まぬし(絶対の単独者だから)、身体は車椅子に動かぬ人でもあるから、その室全体を制作と想像を飛ばすに適した状態に、特別な機能をつけ加える。遠くを眺めるスコープみたいなものだ。自分をのぞく望遠鏡の如きを附け加える。

そして、その二人の住居のヴィジョンをある人物にメディアとして伝送する。


二〇〇九年一月十四日
石山修武

絶版書房第三回配本分の原稿、プノンペン「ひろしまハウス」紀行に少々手を入れて、編集に渡した。昨年 12 月にプノンペンに出掛けた際に書きためていたものである。我ながらほとんど能力の限界みたいな事をやっているので、キチンと消耗している。何処まで続けられるか、これは実験だなもう。

学生の頃、先輩達からアーキグラムの冊子を見せられた時、その本質的な価値は解らなかった。卒業してしばらくたって、若かった磯崎新宅でアーキグラムのピーター・クックに会った。毛綱モン太も一緒であった。毛綱がお得意の土下座グリーティングをやらかしたので、私も習って、二人で土下座のあいさつをした記憶がある。ピーター・クックは率直に喜んでいたようだった。磯崎はあきれ返っていた。

P・クックは僕のコルゲートパイプの作品を見て、面白いけど、一方向にしか延びようが無いのが問題だな、とまともなクリティークをくれた。

それはとも角、一九七〇、年代は面白い時代だった。

アーキテクチャーとテレグラムをミックスさせた造語、アーキグラムは時代を先取りした見事なものであった。四半世紀早過ぎたのではないかな。あの冊子は。5$だったが15$だったか忘れたが送ると、彼等から、アーキグラムの機関紙状のグラフィックパンフレットが送られてくるのだった。

「チーム・ボス」というグループを結成していた先輩達は、「これは非常に良いのだ。民主的だろうお前」と僕に言った。何処が民主的なのか解らなかったけれど、僕は彼等を信奉していたので、「民主主義ってこういうものなのか」と思った。

チーム・ボスの連中は学生であった時の課題に、真ちゅう管をズラリと並べて提出したり、卒業設計ではワックスマンのジョイントの鉄のいもののモデルを提出したりで、いつも、退学、放校スレスレを繰り返していた連中であった。先生方はその度に会議を開き、大体吉阪隆正先生が、元気でいいんじゃないかとようごして、それで無事に卒業とあいなったのであった。あの先輩達が華であった時だ。アレも時分の華だった。

絶版書房の出版、メディア作りも、実はアーキグラムのメディアを幾分か下敷きにしようと考えている。

今は、とても、あの当時のように建築が昇り龍の時代ではない。下り龍とは言わぬが、龍のスタイルを弱く、意図的にエレガンスにする必要がある。

そう考えて、このメディアのスタイルを決めた。


二〇〇九年一月十三日
石山修武

第一回配本があと一週間後にせまった、早くから、予約していただいた人にはお待たせしている。まだ予約されていない方々には、アト一週間で第一号が刷り上がりますと報告したい。

ネット上の情報は「本」という、電子情報に比べればリアルさに欠けているのだろうが、この少量多品種の本、すなわち商品の情報は、やはりネットを頼りに皆さんに送り出すしかない。私には若い時のDD通信、それを継承した「まちづくり支援センター」の商品DMシリーズの私的な少史があって、それを思い起こしていただける方々には、又やってるな、意外としつこいな、あきらめてはいないんだと、ヘェと考え直していただけるのかな、とも考えている。

全く古い石山の事を知らぬ大半の方々にはそんな事もあったのかと、お知らせしたい。DD通信のDM情報は晶文社刊の「秋葉原感覚で住宅を考える」、まちづくり支援センターの物語りDM情報は、デジタル出版の「建築家ある日突如雑貨商となり至極満足に暮らす」に記録されている。

が、しかし、共に絶版である。絶版になっている本には良いモノが多いのだが、今度のメディア・トライは、勝手に小さな運動をしている積もりなのだが、その意を汲み取っていただければ幸いである。

もう、決して若くはない。何をするにも連続性を旨しなくてはならない。そうしないと折角なした事がアッという間に消えてしまいかねない。


二〇〇九年一月八日
石山修武

第二回配本、第三回配本は二月中旬になりそうだ。年間を通してのテーマはアニミズムとするのは不変。初詣がはからずも「アンコール・ワット」になり、単純と言えばそうとしか言い様もなく、何故、実物(重量のあるものあるいは立体)を作ろうとする情熱が一向に消えようとしてくれぬのかに想いを至すと、到達した地点がアニミズムであった。

物に神が宿るわけもない。宿らせているのは人間の側であり、突きつめれば人間の欲望そのものが物質に何者かを視させようとしている。も少し解りやすく言えばこうなる。

ジャーヤヴァルマン七世はライ者であった。その王はクメール歴代王朝で至高の権力を握った。そういう巡り合わせに生まれたからだ。ライになったのも巡り合わせと言わざるを得ないと聡明だったであろう七世は諦念したであろう。

やがて崩壊してゆく王自身の身体を王は容易に想像することができた。

それ故に王は崩壊し得ない、崩壊する事が不可能な物体を自らの化身として作ろうと決意した。それがアンコール・トムのバイヨンである。この遺跡が近代人(現代人)である私をいたく感動させるのはこの建築(構築物)に巨大な個人の意志の力を読み取るからである。王をつき動かせたのはアニミズムの一つの示現でもある化身願望である。王は不死不老の石に化ける事を望んだ。

バイヨンがアンコールワットよりもはるかに優れて近代性に通じるのは、その個人の意志が反映されている事にある。アンコールワットは普通のとしか呼びようの無い古代建築である。そこに神の、宇宙の、神話の現実化を試みようとした物体である。ピラミッドが死者の帝国の標識であり、秦の始皇帝の墓陵の中に水銀の池が作られたのと同様に王権の不老不死、すなわち死者の絶対性が荘厳された。それは巨大な死のイコンであった。

バイヨンは他の古代建築に無い何者かがある。繰り返すが自身の石化の如きの王者の背後に在る個人(個別)の意志である。それは今でも、我々が、とは言えなくとも、少なくとも私が鉄や、コンクリートや土やガラスを介して何か個別のモノを作りたいという意志と通じるものがある。

私は重量のある物質で特別な物体を作りたいと考える。二〇〇九年現在、重量のあるモノはあまり現代社会に適応した速力で市場に流通し難いという性格が明らかになってはいる。重量の無い電子の時代にはなっている。

人間の身体を形成している極小単位は細胞であり電子である。がしかし、それ以上に身体は水によっても構築されている。だから宗教的儀式に水はつきものとなる。

仏式でも死者は水でぬぐわれるし、キリスト教では洗礼に受水の礼が行われる。人間は自分の身体は電子で形成されているのを知識としてすでに知ってはいるが、まだ電子を敬する程には進化していない。昨今の発光体好みはそれへのゲートであるやも知れぬが、それはパチンコ屋が明る過ぎるのと同じ商業の論理で作り出されてもいるので、まだ純化の過程には辿り着いてはいない。

私のアニミズム論の終着駅は恐らく発光体への偏愛になるのではないかと目星はつけてある。

現代の観光の対象としてのバイヨンでも、一番の中心部には貧相な苦行する仏陀が鎮座しており、女性がそれに献ずる線香の喜捨をすすめている。ヒンドゥーの時代にはリンガに水が掛けられていたであろうし、オリジナル(ジャーヤバルマン創立時)の時代にはナーガ(蛇がとぐろを巻く台座に仏が座っていたらしい。そのオリジナルはフランスが粗雑に復元して近くの別の場所に今は祭られてある)は水の神でもある。時代は変わっても火と水は中心には必要なモノであった。

世田谷村の三階(正確には四階)の私の仕事場には小さな金銅の若い仏陀像が置いてある。この小仏陀は何年か前のチベット行でラサの大昭寺、ジョカンテンプルの僧正からいただいたモノだ。教えられた通りに南面させて座するようにしてある。時々線香もたくし手も合わせる。それを自然にさせているのはこの仏像をいただいたジョカンテンプルでの体験が強いものであったからだ。(『境界線の旅』石山修武 参照)

しかし、時が経つにつれてこの小仏像に対しては他の性格を持つだろう愛着の如きが生まれてきて自分でも驚いている。


二〇〇八年十二月二十五日

菅原正二 様

昨夕は失礼しました。マア、居るか、居ないかは五分五分だろうなとは、実ワ思っておりましたが・・・何時だったかお聞きした、パリから送られてきたレコードの話しを思い出しました。送られてきたレコードの封を切って、ターンテーブルに置き、ダイヤモンド針を載せて廻し始め、音が響き始めた途端に、パリの匂い、マロニエを吹きすぎる風や、女の香水のほのかな香りがパアッとベーシーに封切りされて広がった、という話しです。アレと同じような事が私の処にも昨夕起きました。ベーシーからの来る筈もない、というか殆んど期待していない応信が機械から吐き出され始めた途端に、ここにはベーシーの音が響き、暗闇が拡がり始めたのです。こういう話しは他人が聞いても面白くも、何とも無いだろうとは思いますがね。

ところで折角の機会なので、近況を御報告しておきます。少しづつ。年を取ると大変です、色んな友人に色んな事があって。もう憶え切る事もできない位。

何日か前に冷下マイナス 16 ℃の北京から帰ってきました。その前はプラス 30 ℃のカンボジア、プノンペンに居たので、これは流石に体にいたくこたえた様で、体調はひどく悪くなり、久し振りに倒れるように休みました。もう、決して万全の体ではない事をイヤと言う程に知らされました。俗人ですから当然弱気になり、それで無人のベーシーにFAXしたりの始末になった訳です。お笑い下さい。相変わらずであります。

北京はオリンピック会場隣の巨大建築の一角にあるホテルに泊りました。友人の李祖原設計です。何やかやとありまして、数年前からこのビルのオーナー Mr. 郭とは友人となりました。まだ四〇才の中国に典型的な登り龍の青年です。で、そのいきさつは貴兄には省きます。

考えついたのですが、この彼の巨大建築を使って世界最高水準のジャズフェスティバルを開催できませんか。長さ六百メーター、高さ二百メーターの、万里の長城がそのまま移動したような物体です。スペースはいくらでも、あります。大中小を問わず。ホテルもありますし、何でもあります。大中小の企画が考えられます。御一考下さい。北京オリンピックの国家スタジアム鳥の巣も、スイミングプールも鼻の先です。

恐らくは、中国のそういうのは貴兄の好みには合いそうにないな、と直観してはいるのですが、万が一と言う事も無いわけでは無いと思った訳です。居ない筈の人がベーシーに居たんですからね。

十二月二十五日 休養中の石山修武


二〇〇八年十二月二十四日

石山さん

いるかいないか

いないかいるか

―谷川俊太郎―

居たんですねェ、誰もいないベーシーに一人ポツンと。

「朝日」の正月六日ケイサイ分を、と思いまして。正月はドタバタしそうなのでアブナイから年内に書いて送信しておこうと思いましてね。

しかしながらやっぱり私は〆切り前に原稿書けるタイプではありませんから、さっきからタバコの量が増えるばかりです。何を書いてもいいというのも困ったもんですね.「私、不協和音の味方です」みたいなこと書きそうな今のところ雲行きで怪しいです。

その「絶版書房」は面白そうです。

石山さんの文章は他に比類がありません。大いに刺激して下さい。期待します。ちなみに「不協和音」って概念は時代によって変るのでありまして・・・バッハの「トッカータとフーガ」のパイプオルガンの音にもそれが聴き取れるという始末の悪さです。ストラヴィンスキーを持ち出す以前にベートーヴェンの「エロイカ」第一楽章に出てくる和音も当時としては「不協和音」だったはずが今は当り前。ワグナーの「トリスタン」も今は普通。ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」の「ギャーーーッ」という(都会の)騒音らしきものも、デューク・エリントンの曲も今では「不協」とはいいません。

音程(ピッチ)のハーモニーより「音色」のハーモニーの方が実は重要だってことをここでハッキリ言ってしまおうか、言うまいかと、タバコ吸っているところです。

「キャデラック」がちょうど一年経ったら調子を上げてきてめでたいです。地球温暖化のおかげで雪が降らず楽です。「氷河期」が来るよりマシだとおもうんですけど。

2009 年で(ホントにアブナイ数字に見えます)「ベイシー」も 40 周年に突入いたします。

「マサツのないところに快感なし」このまま突っ込みます。抜き差しならぬので突っ込むのみなのであります。

ところで「化石」から過去を知った人類はその記録を何に残すんですか?

健康祈ります!

12/24  ベイシー  菅原正二


二〇〇八年十二月二十四日
石山修武

ベーシー 菅原正二様

今日はクリスマスの水曜日で、恐らくは貴兄のジャズ喫茶ベーシーは定休日の閉店休業だと思われます。それ故に私は誰も居ないであろう、貴店の闇の中に伺って通信文を送ろうと思い立ちました。まあ、ささやかなヘソ曲りはいつもの事だとお笑い下さい。大兄の朝日新聞十二月二〇日付の連載「物には限度、風呂には温度」第二十四話、読みました。ここに書かれている事は、私が今始めようとしている絶版書房の考え、そのまんまであります。まさに一卵性双生児を思わせる位に。大兄、私は終世の名残りと言いますか、マア、最期にチョッと言い置くぞという感じで、自分の意を尽くすだけの出版書房を興しました。金も無し、味方も無しの、大兄と同じの孤立無援の只中で、あります。しかし、大兄が避けようとしているデジタルの極み、パソコンだけを味方にしようとしています。

ここ十数年に渡り、ネット上に私性を垂れ流し続けて参りました。それが近頃妙に世間に受け始めました。かなりのヒット数をかせぎ始めたのであります。当然、お互い想いますよね。コレワ、ヤバイぞ、危ないぞと。そうなんです、今の世間に流行るモノは皆危ないのです。それだけが私の思想とは言わなくても、固い思い付きなのであります。でありますから、私はジックリ考えました。いかにしたら、やはり受けなくすれば良いのかを。それで、我ながら流石と思ったのですが、一つの黄金の、というか。真暗闇のと言いますか、珠玉の解答に辿り着いたのであります。

何をやっても受けてしまうのなら、限定付きで、キチンと小ジンマリしか受けないのを目指してみようと。

考えてみれば、貴兄の、ここで大兄から貴兄と言い換えるところが大事なのですが、貴兄のジャズ喫茶ベーシーの如くを、私も又、延々と続行すれば良いのではないかという原理に、私は辿り着いた訳です。

で、二〇〇九年という、丁度、実に半端で、縁起も悪そう、何やっても駄目そうという年に、出版を始める事にいたしました。出版するのは、絶版書房なる名称のみで、実体は、あるのか無いのか知れぬ如くの工房です。この書房は、ただ、ただ絶版を目指して出版を続けます。つまり、ある数字以上は絶対に増刷等という品位の無い事はしないのです。出したら、それっ切り。ジャズみたいなもんです。その時の、その場の音だけ、と言うようなモノなんです。

で、今日は、恐らくは貴兄はこの通信をFAXでは受け取らぬであろうから、私は誰もいないだろうベーシーに向けて通信を送ります。

絶版書房の第一号は、チョッと難しいのではありますが、「アニミズム周辺紀行」と題して、色々と今、私奴が考え込んでいる事だけを中心に、書いておりますので、御一読下さい。二〇〇部限定であります。

来年一月に、二冊出します。そして、毎月、二冊づつ、出版してゆく予定です。

マア、好きでやる事ですから、応援、支援は入りません。時々、気にかけて下されば、それで良いのです。メリー・クリスマス。


二〇〇八年十二月二十四日
石山修武

カンボジア・プノンペン、中国・北京の旅を終えて、体はドン底の状態である。少し休まなければ、どうにもならないと覚悟する。絶版書房などと言う、縁起でも無い事を始めようとしたりするから、こんな事になるのだと、思い当たった。しかし、北京では色んな事を考えさせられた。盤古プラザ(旧北京モルガンセンター)の巨大メディアスクリーンと、オリンピック・スイミングプールの双方の発光体の共振状態とも言うべきは、マア、現代の最先端の技術・経済の混濁状態であろう。この事も、来年に絶版書房のシリーズで記しておきたい。


二〇〇八年十二月二〇日
石山修武

ひろしまハウス、プノンペンの内部をデジタルビデオカメラに収録してきたので、これはキチンと編集して是非とも御覧いただきたい。GA、住宅建築、日経アーキテクチャーにそれぞれ紹介していただいたが、なにしろこの建築は自分達の手でメディアとしても作成しておきたいと考えていたので、ようやく念願がかないそうだ。

この建築の内部は人間が動いて初めて感応するように設計したし、南の国の輝かしい陽光の運行にも反応しているので、映画の如くに残しておきたいと考えた。

とても良くとれています。


二〇〇八年十二月十七日
石山修武

夕方、ヘトヘトになって電車に乗っている。プノンペンとの温度差は二十五度Cくらい。おまけにブレードランナーの雨みたいなのが降っていて、東京の未来はいかにも暗そうだ。

第二回配本の大枠を決めたので、一月、二月は少し計り忙しくなりそうだ。

二〇〇八年十二月十八日
石山修武

一夜明けて、十八日。第三回の配本は「アニミズム紀行4水の神殿」とするか、神殿着工の四月末に延ばすか思いあぐねている最中。メディアと実物を同時に同じ頭、同じ手で作り出してゆく事を、とりあえず始めているのだけれど、確固とした目算があっての事ではない。今の時代と同じように霧の中に居る。でも、いつか光を視る時があるだろうと、そんなに悲観しているわけでもない。


二〇〇八年十二月十三日
石山修武

第2回配本及び3回以降のストーリーを考えている。バンコク空港迄アト2時間少々、それ迄に何とか筋書きを得たい。第1回の「アニミズム周辺紀行」はアニミズムの旅への入口であった。まだバンコク、プノンペンの飛行機便のゲートが決まっていないのだが、そのゲートであった。それ故に当然ながらアッチャコッチャに話しが飛んだ。ニーチェハウスからアジャンタ窟院まで。一ノ関ベーシー迄登場して、それはレコードの持つ、すなわちプラスティックのアニミズムへの信号の如きを書いてみた。

二回目の配本は「アニミズム周辺2」である。主舞台は「ひろしまハウス」プノンペン、土と光と水が中心になる。風もなるだろうし、あのウナロム寺院の都市内の静寂の音も登場するだろう。静寂つまり音の無い音に関しては、ポルポトが死滅させた、廃墟となったプノンペンについても触れなくてはならない。ワイマールのユダヤ人収容所ブッフェンバルトについても、勿論広島についても。それが「ひろしまハウス」を作らせた核なのだから。

もう一つのアニミズムそして私の中心でもあるブリコラージュ的つくるに関しては、小笠原成彬氏、ナーリさんが作り続ける手こぎ三輪車について、触れるチャンスでもあろう。渡邊君にナーリさんの徹底インタビューを試みさせよう。ナーリさんの空飛ぶ三輪車づくり、つまりカンボジア内戦に際し、地雷で足を失った人達の為の手こぎ自転車づくりと、アポロ 13 号の宇宙船の故障と、宇宙飛行士達の再生、つまり地球への帰還という叙事詩で、一つ物語りが編めそうだ。

ひろしまハウスは二本立てとする。アニミズム2とアニミズム3。アニミズム4は水を中心に、北海道の水の神殿と、北国のナーガについて。となるかも知れない。


二〇〇八年十二月十二日
石山修武

残部一九九冊。二〇〇九年一月中に第二回配本をする予定で、頭だけはグルグル回転しているのだが、仲々絞り切るのがむずかしい。明日からカンボジアなので、「アニミズム紀行2」は「ひろしまハウスとナーガ」と「川合健二の錆びたポルシェと宇宙船」の組み合わせにしたい。五日間で取材と素材づくり、その素材には「ナーリさんの空飛ぶ三輪車」も是非加えたい。

三号を予告する素材「立ち上る伽藍」のモデルを今日二〇〇八年十二月十二日の英文TOPに掲載する。 四号の「水の神殿」のエスキスを今すすめている。

ここでいうエスキスは神殿の建築を庭を含む実物のエスキスと編集のエスキスが混融したものを呼んでいる。

丹羽君、TOPページ見たけれど、これは夕方には変えた方がよい。道路脇に宇宙船が着陸失敗したみたいのがあるんだ。それにして。五時間はこれでイイヨ。


二〇〇八年十二月十一日
石山修武

常に絶版を目指す書房、絶版書房の第一回目の配本は「アニミズム周辺紀行1」

内容は日文TOPページ参照の事。書店には並びません。全てをネット販売とします。

全88ページ。二百部限定。予価二千五百円送料込み。日々在庫数を掲示します。在庫数が二〇部になりましたら、価格を上げます。最後の三冊はオークションにいたします。

予約、申し込みはメール又はFAXで以下にお願いします。

石山修武研究室「アニミズム周辺紀行1」申し込み FAX :03-3209-8944

絶版書房 II
石山修武研究室
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