『建築がみる夢 - 石山修武と 12 の物語』
2008. 6.28 〜 8.17
世田谷美術館「建築がみる夢」準備日誌
いよいよ今週末から美術館会場の展示作業が始まる。
展示のひとつは、「建築がみる夢」準備録にもあるように 12 の建築計画のヴィジョンが一方の中心になるが、展示のもう一方の軸に、この1年間の石山の大小のスケッチが時系列で並ぶというものがある。
この膨大なスケッチを一日一日追っかけてゆくと、石山が実際に旅した韓国、ラテンアメリカ、南インド、イスラムの国々から受けた印象をはじめ、世田谷村での日常の風景に接し、様々な人に会い、そしてどのようなヴィジョンが生まれ変化し、建築のヴィジョンになっていくか、一年を通じた石山の頭の中の風景を順に巡っていくことになる。
脳内風景を時間にのって眺めながら、世界中のどこかでつくられている実物に触れ、どこから何処へヴィジョンが繋がっているのかを発見し、夢とうつつを往ったり来たりの楽しみ方をしていただければいいのではないか、と考えている。
建築モデルとして出品する最終モデルの名を「立ち上がる伽藍」と名付ける。余計なと思ってもいたコンセプチュアルな部分のラインや枠を全て取り去ったスケッチを八時木本君に送付した。
オープン迄、わずか一週間しか木本君には残されていない。彼の体力、時間、技術を把握できるようになったので、これ位が限界であろうとも思った。広島から東京迄、たたき上げた作品を運ぶ体力も残しておいてもらわねばならない。
宮古島市渡真利島月光 TIDA 計画の中心的計画である月光ハウス は、三十三m直径の三・六m巾のドーナツ状の廊下みたいなスペースに囲まれた、中心の空白が主役である。
ここは誰も居ない闘牛場のようなもの。宮古島の陽光がさんさんと垂直に差し込み、しかもここには誰も居ない。陽光だけが、夜は月の光、星の光だけが満ち満ちる。陽光のアリーナである。
・中国大陸での国際コンペであった北のシャングリラの計画も又、巨大なダ円に囲まれた都市の出入口でエネルギーチェンジされた電気自動車によって結ばれた医療福祉ゾーンのベルト地帯である。5 km X3 km の巨大なダ円と宮古島での33mにはスケールに余りのギャップがあるのだが、私の中では全くスケールの違いはスッ飛んでしまっている。円環の持つ、内の空洞に強く可能性を見たいと思う。
何に使うわけでもない、無価値の、別価値とでも呼ぶべきFIELDを作り出す事。これはとても大事な事であるように思う。積極的な空虚、徹底的な無意味、この構築だけが今MONEYの強力なニヒリズムに対抗し得る形ある文化を表現する事ができるのである。
・この誰も居ない闘牛場の如きFIELDに人間が立つ時、出現する神話的風景こそが建築の至高なのである。
八時、木本君よりFAX。世田美のロビーに考えている建築モデルの台の寸法が、どうやら間違っていたようだ。何処で、どうこの間違いが発生したのか、不可解なり。しかし、なんとかしなければならない。
昨日は何も出来なかった。我身の非力さを痛感する。今日は仙台への行き帰りの新幹線車中で、「建築モデル」のスケッチを完成され、待ちくたびれてるだろう木本一之氏に送らなくてはならない。この「建築モデル」と「山口勝弘不動明王堂」と「浅草山車パビリオン」が一体化すると良いのだが、そううまくゆくかどうか。
二十二時少し疲れて、仙台より世田谷村に戻ると、山口勝弘先生より、淡路山勝工場の絵葉書が届いていた。「あの淡路山勝工場は飛行力のシンボル」と書かれていた。どうやら、先生のイカルス・シリーズの源の小さな一つになっていたのかも知れない。山勝工場は片羽鳥のイカルスだったか。
山口勝弘先生より世田谷美術館に十六点の作品が運び込まれた。その大半がイカルスの飛行シリーズである。鋭敏過ぎる知性と感性を持つ老アバンギャルドが何故、私の展覧会にイカルスの神話に触発されたシリーズを寄せたのか。先生は動けぬ体、不動明王となって幽閉の身の現実からの解放を、イカルスの飛行への希求に記されようとしたのだろうか。
あるいは、私の仕事振りにも又、イカルスの飛行、そして宿命らしきを透視されているのか、それは愚かな深読みだろうが、芸術家とは深読みの極を飛ぶ人だから、解らない。
私は山口勝弘に、特に多摩プラザに幽閉され、不動明王と化してからの山口勝弘に凄絶な前衛の実験精神の極みを視ている。教えられる事も多過ぎる位なのだ。先生はこれらのペインティングを自らがイカルスになって飛んでいる身に化身され、身体に吹き寄せる風の動きや温度、陽光の温もり迄感じられ、その総合を図像化しようとしている。
だから、これ等は一見抽象画の群に見えたりもするのだが、何か違う。ここに描かれているのは、むしろ不動明王の光背の如き炎であり、光であり、空気の流れそのものなのではあるまいか。それ故に、私は世田美に設ける実験室内に山口勝弘の「イカルス・シリーズ」を奉納する不動明王堂の如き、伽藍を作り出そうと思う。
どんな方法になるかはまだ知らぬが、考えを極めてみたい。浅草屋台パビリオン、山車パビリオン、モヴァイル不動明王堂の如くが、今、命名として浮上している。
・木本一之さんが「ザクロの街燈」を一つ完成させた。明朝色決めをして、その考えを送るつもりである。中々見事なもので、こちらは具象と抽象の入り混じった物体となっている。ガウディの街燈よりも良いのではないか。それはともあれ、二人のアーティストとの協同が、私の展覧会に展示できることは何よりも嬉しい事だ。この「ザクロの街燈」は良い。見事なものである。
朝、九時半工房にいる木本君にザクロの街灯の色決めを伝える。
12:27
木本君に「建築がみる夢」モデル3案送る。すぐ連絡あり、私はB案はむづかしいだろと言った。木本君はとりあえずAならできるかも知れないと言う。もう一つの、C案というべきものはA案が立体になった一番複雑なものだが、製作不能に近いのではないか。大判のスケッチを再開する。すでに五月二十五日付のスケッチより、この問題に頭を使っていたのが判明する。研究室の諸君の意見もいただきたい。
10:01
「石山研の皆さん」
以下のように決めました。いきさつ、細部は準備録参照の事。
一、エントランス・ロビーでの石の山映像投射は止める。ただし、ここには一つのゾーンを設ける。大理石の壁には絵巻物を考案していた時の案内図をもう少しブラッシュアップしてセットする。木本一之製作石山修武ディレクションの遠眼鏡は使う。ただし、何かの工夫が必要。その何かの、二、三のアイデアをひねり出して世田谷村に送附願います。昼くらい迄に。エントランスの左壁部分のアルコーブに現在常設の彫刻が置かれているが、そこに石山、木本の「建築がみる夢」の鉄のモデルを設置する。作品は広島から二十七日朝木本氏のトラックで搬入することになった。
二、共同実験室にはエントランス・ロビーで出来なかった映像実験他を繰り拡げる。そのレイアウト・イメージを作成して下さい。又、このコーナーには山口勝弘先生の四つの本展のためのプロジェクト(作品)を収納し、見ていただく。今、山口勝弘先生からの四つのプロジェクトの題名のFAXを待っているところです。この室は、全会場で一番スタティックな銅版画「脳内化石神殿」シリーズの前室にあたる室で、思い切りカオス状態を続ける。7週の会期中に4回位の眼に見える変化、および出来事を演出したい。昼迄、こちらで作業しています。FAX連絡下さい。レセプションには山口勝弘、宮脇愛子両先生出席との事なので、車椅子での案内係を決めて下さい。
9:04
六月三日夜芦花公園ちょうちんでN氏に相談。どうしても一人では決めかねる事が生まれるものだ。具体的なディテールにそれは生まれて、しかも全体への影響必至のものである。
・エントランス・ロビーの大空間に一つフィールドを作りたいとは当初から考えていた。砧山石山寺縁起の案内図から始まって、石の山を作る案、山を映像でつくり出す案、そこに木本一之氏との共同製作になる、遠眼鏡の彫刻を組み合わせる案と、三転四転した。とりあえず研究室内では、もうろうとした山の映像の変転を絵巻物風に、世田美の大理石の石の壁に写し出し、それを眼鏡で覗いてもらおうかと言う事になった。研究室の院生達も一生懸命映像を作ってくれた。この分野は山口勝弘が先駆的に作り出してきたメディア・アートのフィールドである。
・コンピューターの映像画面は小さなスクリーンで見る限りは大変面白いもので、コレはいけるかとも思はれた。しかし、脳の内にポッと赤信号が灯り続けた。何かが違うのである。コンピューターの枠付きのスクリーン内ではOKなのだが、この枠を外してみる、一歩外に出して現実の石の壁や、空気にさらした状態を想像するに、どうにもならない悲惨な状態、単純に言えば見つめ続けるに足るモノ(質)が出現するとは、とても考えられないのであった。
・これは、私の生理的能力の限界であるのかも知れない。でもどうしても、コレは児戯としか呼べぬものであるような気分が押し寄せてくるのだった。やってみようと言いながら、赤信号が点滅し続けるのだ。
・それで、とうとう担当学芸員のN氏に相談した。
「面白いのは解るんだけど、自信が持てない。どうも学園祭レベルのものとしか思えないんだ。やりますか、やめましょうか。」
「映像ヤメマショウ。」
あっさりと、答えが返ってきて、スッキリとした。
「でも、エントランス・ロビーでは何かやりましょう。あそこにもう一つの室を作り出して下さい。」
ウーム。仲々の事言ってくれるなあ。しかし、やってみなければならないだろう。ここ迄来たんだから、手抜きは厳禁である。もうコンセプトとか、全体の流れとかを超えてしまった、コレは根性レベルの問題である。で相談を続け、ある方向性を見出し得た。で六月四日、広島の木本一之氏に
「アノ、鉄の神殿やる事にしました。作ってくれますか」 と電話した。
「作れますが、六月二十八日ギリギリになります。塗装の関係で、黒のエナメル仕上げしか出来ませんが、三〇センチメーター角、アメリカン・フットボールの小さいモノなら出来ます。私が工房からトラックで東京迄運びます。もう梱包してる時間ありませんから。」
「何とか、レセプションには間に合わせて下さい。でも、もう少し大きいものにしたい。あるいは、それを三つ位とか」
「やってみましょう」
のやり取りになった。
今月から、木本一之さんの体力、能力を思い浮かべながら、あの物体のスケッチにもう一度取り組まねばならない。本当にしぼり切ってるな。我ながら。