12 Architectual Visions

『建築がみる夢 - 石山修武と 12 の物語』
2008. 6.28 〜 8.17 

世田谷美術館「建築がみる夢」準備日誌

世田谷美術館
 
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6 月の「建築がみる夢」準備日誌
5 月 31 日
木本一之さんと

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石山修武
5 月 30 日
木本一之さんと

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石山修武
5 月 28 日

バウハウス建築大学のツィンマーマン学長よりの提案で来たバウハウス建築大学創設九〇周年で、今度世田美での「建築がみる夢」の巡回展をバウハウスでやらないかという事になった。その打合わせのためにカイ・ベックが来日するとの事である。

木本一之さんと

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昨年の広島での木本一之展のために私がデザインして木本一之が製作した望遠メガネの金属物体を世田美に使えないかと考え、実際に見た人間にどうだろうかと尋ねたら、どうもあんまりいい顔しないんだな。恐らく形と色が合っていなかったのだろうと思い、メガネ部分の色だけ変えてもらう様に木本さんに頼んでみたい。それに、アレは木本一之の作品群とはマッチしなかったのだろう。という事は多分今度はピッタリ合う可能性が大きいのだ、と考えたい。

木本一之さんより、「鉄の神殿」のスケッチ送られてくる。まだ、実感がつかめないのメモもそえられていた。実は私の方もまだつかみ切っていないので何とも言えぬのである。しかし、無駄な事はしたくないし、木本一之さんにもさせたくない。長考一番というところかな。

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石山修武
5 月 27 日

世田谷美術館内石山製作室(実験室)のイメージが今ひとつ明らかにならない。建築を一つ作ってしまおうかと考えつつあるが、体力が持つか自信はおぼつかない。しかし、TV番組にもなるようだから、もう一つ何かが欲しい。今日、十五時半より番組の方の打合わせが始まる。あと、ひと頑張りすると良い展覧会になるだろうとは思う。

NY・MoMAに送った模型の立派なメタル製の足部分が重量過多のために研究室に残されていた。これは世田美に使えると一同ホッとする。ここ迄煮つまってくると展示台の細部に迄目が届かざるを得ない。

山口勝弘先生より

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「山口勝弘提灯を並べたらと、巨匠申す。」

バーチャルコーナーとは石山研究室 IN 世田谷美術館の事だろうと思う。美術館の中の提灯は、山口勝弘的にはメディアアートとして考えられているのだろうが。その後の使い方が難しそうだ。浅草にはハイアート過ぎるような気もするが、一台のモバイルに山口勝弘提灯を使うのは悪くはないか。

石山修武
5 月 26 日

木本一之さんとのFAX、メール、手紙のやり取りの中から、エントランス部での石山展全体への標識とも呼ぶべきアイデアが少しづつ浮き上がってきている。このプロセスは我ながら面白そうだと考えたので、生活の友社、月刊「美術の窓」にその間の事等を書いてみた。御一読願いたい。

何とかこの展覧会を期に木本一之さんの仕事の場を東京に移動させられぬかとも考えたりしている。誠に勝手極る事ではあって自分でもおかしい。

広島山中の工房はメタルワークににとっては、騒音その他、仕事にともなって出現してしまう生々しさにとってはベストだろうが、余りの独人振りは又、エネルギーを消耗させて止まぬであろう。時に都市に出るのも良いのではないか。

五月二十六日朝
石山修武
5 月 25 日
木本一之さんと

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石山修武
5 月 23 日
山口勝弘先生より

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石山修武
5 月 22 日
山口勝弘先生より

8:55 石山より渡邊へ「今日の準備日誌の書簡を取りに新宿へ来てください

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「 Four Virtual Projects 」 私は一九〇〇年代にイマジナリュウムと呼ぶ計画を発表して来ましたが、今回の想像上のプロジェクトもまた、計画と実現の間に多くの困難が予想されます。そこで私は仮想プロジェクトとして発表する方法をとることにしたのは、人々に私の夢を見て貰いたかったのです。つまり私の夢を見て貰うことを選んだのです。そもそも芸術作品には束の間の夢から始まる場合があります。こういう夢の共有、もしくは共犯者、所有者になるのも芸術の存在性、仮想性である。つまり想像力を媒介とするため芸術と呼ぶことが許されるのでしょう・・・

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山口勝弘 焔と水の噴水計画

石山修武
5 月 21 日
木本一之さんと

8:17

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六時半、木本君のスケッチに少々手を入れる。他人のスケッチ、しかも、もうキチンとした表現者のそれに手を入れるのは仲々にむづかしい事だ。

私もいささか鉄を知っている。木本君は体でそれを知っている。曲げたり、切ったり、のばしたりの製作過程の様々迄知り抜いている。手を加えれば、加える程に時間と手間がかかるのも知っている。時間と手間は現代では金に換算され易い。少なくとも芸術作品の良いところは資本主義的に換算できぬ作品の価値を作家がねつ造可能な事だ。それに今度は、製作期間が一ヶ月しか無い。私はのん気にスケッチしているけれど、木本君はもう製作工程の事で頭が一杯であろう。しかし、私としては木本さんの力をギリギリ迄一度使ってみようと手は抜かないつもりだ。FAX・スケッチのやり取りの一端は展示する予定だが、美術館に先立って、我々のサイトでホンの一部を御紹介したい。今はざくろの実が東京の街では見られない。近所の知り合いのところから葉だけをいただいて、それなりに観察はしているのだが、これをメタルに置き換えるのは面白い作業だよ。私だって肩が痛くなければ鉄をたたきたい位だが、考えようでは銅板を彫る作業がこれに近いのだなと気付く。

美術館暮しに六月二八日から入るわけだが、その準備を少しづつ。先日、ほぼ一日モデルの撮影に立ち会い、美術館の空間が余程大学よりも良い事を実感した。あれは暮らすのに良い空間だ。何が良いって、なにしろガランとしていて何もない空間が多い。世田谷美術館はかなり重苦しくガランとしているが、あれを掘立小屋程度にシンプルにすれば実に良い集合住居になり得ると感心した。今年の夏は美術館暮しになるので楽しみである。

石山修武

10:00

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十時迄、スケッチFAXを木本さんに送り続ける。実物は、言葉のコミュニケーションは危険な時がある。スケッチに限るのだ。サイト編集の丹羽君に、このやり取りを準備録に出すように指示する。

この一ヶ月で準備録が日記をこえるヒット数になる事を目標とする。毎日ではなく、

時々刻々とサイトを動かす実験をしたい。少なく共、朝夕の二回は。

石山修武

10:22

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と、考えていたら、木本君よりFAXが入った。少し計りお互い考えている事の調子が合い始めてきたような気がする。これは丹羽君は大変だろうな。時刻入りでサイトに露出されたし。

石山修武

12:40

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5 月 19 日

今日は休館日を利用して、世田谷美術館で模型撮影等の作業をする。

横尾忠則展を見て廻り、我々のモノと仮想的比較をした。

横尾忠則展の主題も又、夢なのである。

カタログのロングインタビューが面白かった。横尾のデザイナーからアーティストへの転身らしきの要が彼自身の言葉で語られていた。このロングインタビューだけでも読む価値がある。ル・コルビュジェの絵に対する考えも秀逸である。

器用貧乏多芸の未完とも言うべきアーティストの系譜も述べられており、キリコ、マン・レイ、マレーヴィチ、コクトーの横尾的ラインとも呼ぶべきがサラリと語られている。

山口勝弘先生が読んだらどういう顔するだろうか。

横尾忠則も又、何でも描ける才を持つ人なので発言にリアルさがある。

都合でカタログからは省いてしまったのだが、実はもう一章を設けたいと考えていた。十一章は「電脳化石神殿」の巻である。私は銅版を彫るようになって三年程になる。ここ一年で彫った物は特に我ながら何を彫っているのか解らぬ水準に迄になった。しかも、どうやら一定の水準もある。何かを目指して向かっているが如き風なのだ。コレワ、何かの山の大伽藍、しかも洞穴寺院群の有様、壁画状を彫っているのではないかと気付いた。今は確信している。この物語は極めて近未来を暗示しているのだが、残念、省いてしまった。現実は時に結晶体を省かざるを得ないのだ。その内容を想像していただきたい。それで、物語は一応の輪廻の輪を閉じる。

展覧会のドローイングと銅版画も又、モデルとは別系で面白いと思う。

石山修武
5 月 18 日

世田谷美術館の「建築がみる夢」担当者でもある野田尚稔氏の「石山修武の建築にみる夢と現実」の仕上がりをもって、カタログの論が全て出そろった。野田さんは言ってみれば異分野の私を発掘するようにして発見したのだと思う。

私が正面から考える事の少なかった今度の展覧会のキーワード「夢」を石山を介して考えてくれたように思う。発表前にスッパ抜いてしまうのはイケないが、採集の結論部分には私が思い描いている、これからの私の夢を暗示しているようなところさえあるのだった。

今度の展覧会は私にとっては石山修武再評価、あるいはもっと突きつめて言えば発掘の意味があるのだった。そんな意味では私は大きな作品を作る如くに展覧会そのものを作った。そういう気持で取り組んだのであった。

言説のほとんどが出そろった。少し頭を空っぽにして、又、ドローイングを続けようと考えている。五百点描こうと考えていたドローイングは残り一ヶ月少々で百点描くのを目標としたい。明日の猪苗代鬼沼行にも、画用紙とカバンを持って出掛けるとしよう。

山口勝弘先生より便り届く。八〇才、不動明王となられた先生の毎日を想像するだに、凄まじいな芸術家という者はと、言葉もない。先生は不自由な身体の極みで真の自由らしきに辿り着かれたのではなかろうか。まだ体も動き、病気でも無い私ごときが疲れたなんてほざくのは先生に対して申し訳ない。私は不動の人となった山口勝弘に出会った事で本当に学んでいるなあ。

木本一之さんより、ざくろの小径の街灯スケッチ送られてくる。仲々良いと思う。支え部に手が入り過ぎている様な気がして、その点、連絡したい。又、以前より作成していただいた、たろイモの葉のオブジェの一部をざくろの小径に転用するアイデアが、どちらからともなく生まれた。面白い。

しかし、スケッチをFAXでやり取りした結果、このアイデアはどうもうまくいきそうにない。実物の難しさだ。

世田谷村の写真をとる。講談社S氏にいわれたアングルである。緑と青空の中に屋上菜園が浮いている浮いているのをとれと言われているが、むづかしいよ、コレワ。

石山修武
5 月 14 日

山口勝弘先生との協同の小部屋の名を考えている。山口勝弘だから、実験工房の実験だけをいただくかと思う。先生から「頭の中はキースレリアン」の便りが届く。

明日、入場券が出来上がるそうで、馬場昭道氏の一〇〇枚用意せよ、には何とか間に合いそうだ。

今日で、カタログ写真用の模型は全て完成予定。宮古島市渡真利島 TIDA 月光計画の大きな模型の仕上がりが楽しみである。浅草計画は研究室が楽しみながら作ってくれたのが、とても良い。モデルに表われている。

石山修武
5 月 14 日

これは夢である。夢を記録している。夢を記録しているとどんどん深く降下してゆく。深いトンネル状をくぐりある地点にたどり着く。とある空間、銀河系宇宙に位置するか、脳内宇宙に位置するかはまだ知る由もない。そこに化石状の固まりが在る。宇宙であれば小さな小惑星。脳内であれば脳内細胞の一つであろう。とにかく、それを化石と呼びたい。呼び掛ける事、命名する事が人間の意識のはじまりであるから。化石は宇宙を漂う。遊星であり、遊点でもある。化石には窟院が穿たれている。いつの頃に穿たれたものなのかは知らない。何億光年の昔なのか、瞬間の今なのかは、これも又、知る由もない。その窟院に踏み入る。その風景を記録しようとする。模写を試みる。窟院の数は多い。無数とは呼べないが多数ある。

インド、デカン高原のアジャンタ、エローラの窟院群の数も多いが、あれよりも数層倍の数だろう。壁画が描かれた本格的なものよりも、僧坊として、あるいは工人達の住居として掘られたものの数が多かった敦煌の窟院の数に近いのではないか。

でも私の生命が有限な如くに決して無限ではない。要するに生きる間に記録作業は完成できるかも知れぬと思わせてくれる位の数である。

というようなはじまりで、サイトに「電脳化石神殿」を繰り拡げたいのです、丹羽君。どんな風に表現したら良いだろうか。これ迄、「ときの忘れもの」から二冊の本を出版して頂いた。「世田谷村日記」、「チベット紀行」磯崎新・写真、の二冊だ。当然限定販売だった。あの形式をもう一つグレード・アップして、しかも一年に一冊とか、二冊とかに出来ないものだろうか。

今度の「建築がみる夢」世田谷美術館、講談社のカタログ及び別冊には、今のところの、ほぼ全力を尽している。この仕事、作品展示、未来過去。日々のドローイング。銅版画、モデルの、そして言語の俗に言うMIXメディアなのだけれど、こいつを本格的なメディア・アートに出来ませんかね、考え始めて下さい。

石山修武
5 月 13 日

二〇時前中国のT氏に電話する。T氏は中国で再開発ビジネスに本格的に取り組む為に、日本でのディベロッパーの要職のポジションを捨て、中国に息子まで連れて乗り込んだ人物だ。相手は知らぬが私は最も好きなタイプの人物である。慶応大学ラグビー部の全日本メンバーでもあった人間で、それはどうでも良いのだが。何しろ私は好きなんである。

電話したのは中国の大地震でもしや、ガレキの下で死にそこなっているのではないかと、心配したからだ。中国にいるT氏は電話に出て、逆に「元気ですか」と私に言った。元気だから電話してるんだと叫びたかったが、それはさておく。マア、何しろ友人T氏は生きて、無事であった。本当に良かったよ。中国での大事業の現場に一度来いよと彼は言った。行っても良いのだが、地震が恐いよね。

とり敢えず、無事なのは知ったが、その先なんだ問題は。結論として、T氏には世田美のオープニングレセプションへの招待を、中国に出してみようと考えた。当然、北京の李祖原、北京モルガンセンターの郭浩云にも出席の招待をする。勇気と根性のある人間が一瞬出会う事ができたなら、中国はチョット、わずかなりとも変わる可能性がある。あって欲しい。

それはさておき、今早朝の銅版画の命名の事件は我ながら画期的であった。マルセル・デュシャンの疑似神父性なんか、とっくにねじ伏せて乗りこえてしまったんだからね。

私は直観した。認識したのではなく、もっと短絡してビーッと直観したのだが、これで私の銅版画は確実に拠り処を得る事が出来ると確信した。つまり、私の銅版画の由縁を他人に語る根拠らしきを得たのである。

石山修武

丹羽君、サイトのトップページ、まだイメージにズレがあるのです。今は、「建築がみる夢」ポスターと「セルフビルド」表紙が並列されていて、英文トップ・和文トップの双方に同じスタイルで出ている。僕が君に言ったのは英文・和文を異にして、例えば和文トップには「セルフビルド」と宮古島の TIDA again 号の組み合わせ、英文に「建築がみる夢」と浅草計画のモデルの一部、という取り合わせだったのです。そうすれば情報量が倍になるでしょう。これはすぐにやって下さい。

次に「立ち上がる伽藍」を消去して下さい。「立ち上がる伽藍」は「建築がみる夢」の講談社版の中に書き直して入れてしまいましたし、このままでは延びてゆく可能性も無い。これは私の非力からです。延びないモノをさらしていても意味がないから消しましょう。

ただし、ここが肝心なんだが、「電脳化石神殿」を立ち上げましょう。

世田美、「建築がみる夢」準備録の中に、すでに化石神殿の種はまいてある筈です。準備録はやがて6月28日の展覧会開催とともに「世田谷美術館にて」という題名に変えます。

会期中、金曜日の午後から土曜日、日曜日は石山研の一部は世田谷美術館に引っ越します。そこでの出来事を記録します。その頃に「電脳化石神殿」を立ち上げたい。それ迄に、立ち上げ方のアイディアをまとめなくてはなりません。

これはゆっくりとした映画、動画づくりをする頭が必要です。君なら出来るでしょう。

今の我々のサイトは世田谷村日記しか動いていない。日記には限界がある。ある限定された時間の記録だからね。世田谷美術館「建築がみる夢」準備録は日付を入れても日付からは自由だ。昨日、今日と送った位の量はいつでも書ける。そして、書きたい事もすべり込ませる事が出来る。応答も可能でしょう。こいつを精一杯動かしましょう先ず。

石山修武

これでようやくわたしもスッキリ、納得がいきました。

丹羽太一
5 月 12 日

二分册となるカタログの私の分をほぼ書き終える。二百五十枚位書いたのではないか。一番納まりの悪かった「砂時計とミイラ」の項に大幅に手を入れ直した。

丹羽君、サイトのトップページ、イメージが違います。展覧会の知らせ、セルフビルド発刊の知らせ、共に残して、それぞれのページを二つのヴィジュアルの対にするイメージだったのだけれど、出来れば今日修正してくれませんか。

九時過WORKを修了。あとはモルガンのくくりだけ気になるのみである。

石山修武

「共に残して」はこれが前面に出ていてそれ以外は出ていなくてもいい代わりに、「それぞれのページ」をそれぞれ別のページとして、それぞれのリンク先を「二つのヴィジュアルの対にする」かたちで、という風に解釈して、作り直しましたが、どうでしょう。

丹羽太一
5 月 6 日

朝から晩迄原稿書く。なんとかゴールに辿り着きそうだ。山口勝弘先生のコーナー、木本さんとのコーナーは世田美内石山研の内に設ける。

石山修武
5 月 5 日

終日、12 の物語り原稿書く。

石山修武
5 月 4 日

三時半に目覚めてしまう。昨夜、厚生館愛児園K理事長からざくろの小径の話しを聞いて、色々と考えを巡らせながら眠りについたので、早々と目覚めたのであろう。建築が見る夢の一話を広島の木本一之君への手紙の形式で書き始める。

ざくろの小径は木本さんとの協同の仕事になるので楽しみだ。五時疲れて横になる。

石山修武
5 月 3 日

五月二日銅版の新作二十二点が刷り上がってきた。彫る道具を自分なりに工夫して自由になったので一気に彫る内容も展開できた。刷師の白井さんも恐らくはその気配を察してくれたのであろう、色々と工夫してくれて、凄く面白い刷り上がりになっている。

もう、何故、銅版画なんかやってるんだろうのつまらぬ自問自答からも自由になった。あとは量の問題と発表形式の問題を考えないと。

量の問題。これ迄彫った銅版は六〇点位かな。五〇点は生き残るとして、これを百点迄延ばしてゆかないといけない。今のように彫りたい気分を待って、彫りたいモノを彫ってゆくというスタイルでは仲々これは難しい。日記をつける如くに彫ってゆくのが理想だろうが、これは不可能だ。とすると、発表形式の問題となる。銅版画を自立させずに、数点でシリーズとして、言葉を抜いた物語り性を表現するというやり方があるかも知れない。

今、手許には銅版が四枚残っている。二枚ずつのツインのシリーズでひとつ始めてみるか。これは、六月の世田美には間に合いそうもないから、次の展覧会か、あるいは何か別の発表形式を考え出さぬといけないかも知れない。

今日から四日で、あとカタログ原稿を四〇枚書けばよいので、少し気が楽になったので、考えてみよう。

石山修武
5 月 1 日

この面白さは彼等が作っている模型を模型として考えている面白さなのだ。彼等は作っている模型が実現されてゆくであろうプロセスへの関心、つまりリアライズされるであろう世界のモデルである事を考えていない。(中略)そこにある種の哀切を視るのである。社会モデルとしての建築なんて事を考えずに模型作りは模型作りとして楽しむしかないという、私から見れば哀切である。(世田谷村日記

かつて、例えば日が暮れたあとの静まりゆく街を感じる帰り道に、あれこれ考え、想像するだけの余裕、いわば白紙の現実があったとすれば、いま都市には24時間の情報の氾濫があるだけ、創造力は仮想の下地にしか発揮されないのだろう。

丹羽太一
4 月の「建築がみる夢」準備日誌
世田谷美術館「建築がみる夢」準備録
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