12 Architectual Visions

『建築がみる夢 - 石山修武と 12 の物語』
2008. 6.28 〜 8.17 

世田谷美術館「建築がみる夢」準備日誌

世田谷美術館
 
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6 月の「建築がみる夢」準備日誌
5 月の「建築がみる夢」準備日誌
4 月 25 日

12 の物語にはそれぞれに登場人物がおり、それぞれの日常にヴィジョンを持っている。建築はその一部分をかたちにする役目を持っているのであろう、それを 12 のプロジェクトに現実につくりあげることと、全体を通してそれぞれのより大きなヴィジョンを投影できれば、と考える。

丹羽太一
4 月 24 日

展覧会の準備も大詰めになってきた。連日美術館と出版社との打合わせが繰り返されている。展覧会や出版のための模型写真撮影のスケジュールが実務的なスケジュールを決めていくようになってきている。次第に展覧会やカタログ、ひいてはウェブサイトの編集会議がそのまま実務のデザイン会議となる状況が生まれている。

昨日は浅草の聞き取り調査項目の打合わせをした。何をどのような聞き方で聞いて来るのかが、これから作られる模型をデザインすることと同じ事になる。さらにはその構図は実物のデザインへと拡張される。展覧会で展示される予定の三つの絵巻物風の工程表もまたその種のものとなるはずである。

渡邊大志
4 月 23 日

九時白井版画工房の白井さんより電話があり、銅版画の一枚を刷るのに、何やらうまくいかなかったと恐縮しておられた。私はまだ刷り師と彫り師の関係というのを把握していない能天気彫り師なのだけど、それを聞いて良かったと思った。これで、うまくいかなかった一点が幻の名作だったとホラを吹けるからだ。

銅版画は色んな偶然、時の恵みを味方にしてやる表現だから、当然うまくゆかない時もあるのだろう。ただの彫り師としては、刷り師の仕事にとやかく言わない。こうして欲しいは言うけれど、一切の文句はつけないとすでに決めているので、白井さんの恐縮振りに、こちらの方がかえってオロオロしてしまった。こういう事があるので銅版画は面白いのであろう。と、他人事のように言うが、こういう事があるからこそこの世界にのめり込む人も多いのだろうと憶測する。

同じようなモノを彫り続けたり、それらしきを写実するような彫り方は私にはできない。同じような構成を沢山彫るのは忍耐強ければ比較的たやすい事である。又、その方が他人に見ていただくのに容易である事も解る。が、私には出来ない。これは彫り続けたら面白いだろうと思う形式を得ても、せいぜい五点やったら、次のテーマに移りたいと考えてしまうのだ。写真らしき、の方はもともと私には写真の技術がないし、写真の妙も良く理解できぬので、問題外の事ではあるが、手で描く写真とカメラの写真の圧倒的な違いは、入口程度を理解できるようになった。

新作では、一つ新しい技法を試みている。その刷り上がり振りが楽しみで、これは想像しても想像し切れないのである。白井刷り師のウデに頼らざるを得ないのだ。だから、一点二点がうまくゆかなかった事ぐらい、どおって事はないのである。

石山修武
4 月 20 日

銅版画七点を仕上げる。翌、二十一日早朝一点了。

石山修武
4 月 19 日

浅草計画をI社長一家に説明。地元の協力を依頼し了解を得る。

石山修武
4 月 18 日

メキシコの件書く。八時半迄。ホセの事から書き始めた。ギリシャのクリスはどうしているのかなあ。

石山修武
4 月 17 日

仙台への行き帰りで、カタログ原稿がはかどった。全て書き下しで二百四十枚を書かねばならぬので、片手間の仕事では決してないが、何とかなるだろう。

今日現在でほぼ半分迄辿り着いた感じかな。メキシコ、チリ、北京をこれから書き進めなくてはならない。

と、今朝は思ったが、明日はどうか。

石山修武
4 月 16 日

ポスター、カタログ、展示はだんだんとかたちが見えてきている。この準備日誌も展覧会に向けて少し展開して行かなくては。

丹羽太一
4 月 15 日

昨日、世田谷美術館より鈴木博之先生のカタログへの原稿が送られてきた。

主論文である。一読。基本的には柄谷行人氏が書いてくれたモノと構造は良く似ている。面白いものだな。あとは、サスキア・サッセンさんの論文を待つばかり。

私のドローイング作業もようやく再びリズムに乗り始めた。こういうWORKは淡々と均質にリズムを刻める事が無い。頭と身体と、時間、つまり、宇宙と言っちゃあ、なんだけれどそれらしきの律動と共にあるらしきを、一年近く、やっていると解るようになった。

と、今朝は思ったが、明日はどうか。

石山修武
4 月 12 日

浅草計画。第一ステップ世田谷美術館での浅草計画発表。仲見世を中心とした浅草の人達に何とかそれを見ていただく。世田谷美術館終了後、仲見世会館に模型その他を移動展示。同時に石山研究室を一ヶ月仲見世に移動させる。浅草寺境内に屋台型簡易工房設置。ビニールハウスで良し。モバイルビニールハウス。これは仲見世会館で設計作業。地元の人々に公開する。

世田谷美術館での展示物は、
 一、浅草寺、仲見世より、日本中の観音さんに縁のある寺、より境内の草花を送ってもらう。その草花によって花観音らしきを作る。
 二、その輪を韓国、中国、台湾、に拡げ東アジア花観音らしきをつくる。
 三、インド、シルクロード諸国に輪を拡げる。
 四、同時に、仲見世を中心とした浅草寺勧進講を組織して、六台、又は八台、十二台のモバイル・ハイテク山車を作る。山車は集合すると、複合パビリオン、又は芝居小屋、つまり浅草寺工房となるように。
 五、その二つの筋道のプロセスを模型と共に展示物とする。カタログに収録して、その後の浅草での活動のツールとする。

石山修武
4 月 11 日 II

ポスターのデザインが美術館からあがってきて、「どんなものが来ても絶対にノーという」はずだった石山であったが、なかなか気に入ったようである。街で見かけたら、これもお楽しみいただければ。

丹羽太一

ポスターの初稿を見る。相当文句つけなければならないかと考えていたが、良いモノが出て来たので拍子抜け。

デザイナーの宗利淳一氏にはありがとうを申し上げたい。相性が良くないのではないかの先入観を持っていた私が間抜けだった。

着々と展覧会の外堀りが埋められ始めて、残るは私自身の才質の問題だけになった。最良の人材を得て、布陣は完璧であり、アトは私の頑張りが残されるだけだ。

石山修武
4 月 11 日

真栄寺昭道和尚より、四月三〇日ブラジルの稲盛会代表T氏が来日するので、東京稲盛会の方と神田岩戸で会おうと言われた。美術館での展覧会への協力態勢が出来つつあるようだ。

これも、死んだ佐藤健の作ってくれた径だと考えて、全てありがたい。

南無の会、他とも照道さんが全て準備して下さっているので、私は安心して船を乗り出すだけである。

白髪一雄氏が亡くなった。具体の柱の一人であった。宮崎の藤野忠利の現代っ子ギャラリーに大変良い白髪さんの作品があり、代表作の一つであろうが、遂にアレが藤野さんの宝になったなの感がある。藤野さんはアレをどうするのかなあ。

石山修武
4 月 10 日

早朝スケッチ。展覧会の恐らくはフィナーレのプロジェクトになるであろう、浅草計画の方向が見えてきた。「ひろしまハウス」以降の展開を観ていただこうと言うのだから、当然「ひろしまハウス」がベースとなって、更に拡張されているか、深化されているかでなければならない。その双方であれば理想となる。

これ(浅草)はモバイルさせて、世田谷美術館から雷門へ、観音様に持ち込まなくてはならない。展示もその方向で考える。世田谷美術館の最初の小さなモデルが雷門に引っ越して、大きく育つという物語りを作る。

当初考えていたジョーク、森ビルから苔ビルへというのが、うまい形でフレームになりそうだ。とは言っても苔をどうするという話しではないけれど、浅草の観音様も水と深い縁があるので、なんとかなるだろう。

石山修武
4 月 9 日

ここ二、三日WORK が少しダレた。も一度、自分で自分にネジをまかなくてはいけない。

浅草計画では仲見世会館の中に作業、打合わせスペースを作ったらどうかという、アイディアも寄せられた。

今日は新潟市の方々と農村計画の打合わせである。

大判のドローイングにとりかかるも、これは仲々、体力がいるのだ。もう少し若い頃に体力を蓄えておけば良かったと悔やむ事仕切りである。若い連中は、あんまり考えたって、どうせロクな事考えられるワケもないのだから、うまいモノ喰って体力だけつけていれば良い。

石山修武
4 月 7 日

丸一日掛けて展覧会のコピーを考える。研究室の全員があれこれと考え、最後に世田谷美術館N氏が加わるとようやく、納得の結論が出た。

丹羽太一
4 月 4 日

この夏は石山の仕事場である研究室が引っ越し、世田谷美術館の中にも出現します。

丹羽太一
4 月 3 日

十時半T社長と鬼沼プロジェクトの件で会う。展覧会でのプロジェクトの重要性を説明し、Tグループの協力を依頼する。

この計画はメディア、モバイル、映像に関するもう一つの近未来への軸を除いて、宮古島の計画と共に具体化しつつあるものなので、とても重要である。

石山修武
4 月 2 日

石山、丹羽と打ち合わせ。

浅草計画は水との関わり合いの歴史から祭りをデザインすることから始める。この仕事は唐桑の大漁旗劇場や伊万里の牛車などを展開させたものとなる。平たく言えば儀式と建築ということになるが、それでは何のことかよくわからない。

これまでまちづくりと呼ばれてきたものを祭りと捉えてみる。現代のテクノロジーに支えられた情報世界をベースにいくつかの山車やモバイル・パビリオンが浅草にデザインされる。

渡邊大志
4 月 1 日

さて、石山の事故騒動などもあり少々遅れての掲載となりましたが、2008 年 4 月 1 日より「建築がみる夢」準備日誌としてここが始まりました。

世田谷美術館での展覧会開催までの間、石山の頭の中にある十二の伽藍の風景がどのように展開されていきますか、ここを通じてその内容の断片が少しずつ明かされていきますので、よろしくおつきあいください。

伽藍を巡る旅は、「石の山」を望む入山口の脳内伽藍の案内絵図から始まります。

丹羽太一
世田谷美術館「建築がみる夢」準備録
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