石山修武研究室
近代能楽劇場 1 制作ノート
 


 
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近代能楽劇場 5 渡邊 大志

2005年12月21日、「『金閣寺』の鳥について3」

RURmaria学天則

 1月に行う演劇『金閣寺』の主役はロボットらしき鳥である。
 一般的にロボットはアイザック・アシモフの「私はロボット」が有名だが、パクストンの水晶宮以来のイギリス型のハイテク建築にみられるものと同じように、意匠表現としての機械が表現された。つまり、チャペックの戯曲『R.U.R』にしろ、映画『メトロポリス』にしても初期に描かれたロボットはその実際的な仕組みがどうこうというよりも、機械仕掛けであるという外観のイメージが優先されてデザインされた。
 そもそものロボットの起源はフィクションでは、紀元前8世紀の『イーリアス』に出てくる黄金の召使いだとされている。火と鍛冶の神ヘーパイストスが作ったもので、びっこだった彼を手助けしてる様子が次のように描かれている。
 《彼(ヘーパイストス)を助けて命ある少女に似たる金製の群像あとに働けり。彼らは心知解して中に聲あり、力あり、しかして不死の神明の靈妙の業學び知り主公の神の傍に勉めり》(土井晩翠訳)
 これが尾をひいてか、アシモフ以降のロボットは全て金色でコーティングされたボディーを持っていた。それはスターウォーズのC-3POにまで脈々と受け継がれている。
 そして、我々日本のような東洋でもそれは同様であった。東洋で初めて発明されたロボットは学天則というものであったが、オリエント特有のニュアンスが『メトロポリス』のマリアに付加された様にもみえる。そしてそれもまた金色であった。
 金閣寺の上に止まっている鳥(鳳凰)もまた偶然にも金色をしている。この偶然の一致がどのような意味を持つのかまだ明確には言えぬ。しかしこの金色の鳥は時に鳥であり、時に劇場そのものとなる一種のメディアである。現代のロボットとはそういうものではないだろうか。

近代能楽劇場 4 渡邊 大志

2005年12月20日、「再び『金閣寺』の鳥について」


 実ワ、最近研究室を早く出るようにしている。早く帰って何をしているかというと、なにもどこかに遊びに行っているわけではない。舞台の場所の交渉をしているのである。今はまだ本決まりではないので、具体的な場所は言えないが、東京のうんと、ど真ん中がいいと思っている。昔の人は市井の隠といったそうだが、都市の真ん中に隠れるのだ。
 まあ、そんなことを考えながら東京の明治通沿いを歩いていたら、GAギャラリーの近くまできたので、寄ってみた。今は僕も担当している北京の計画案が展示されているはずだ。この計画に仮設のシアターがあるのだが、改めて考えてみれば、これもまた劇場である。しかもそこではなにやら三蔵法師の骨が日本から中国に返還されるセレモニーがあるらしいことを言っていたような、、、本物の三蔵法師の骨が残っているものだろうか。どっちにしても仏教関連の人にとってそれは確実に大切なもので、そういうセレモニーをやるらしい。それこそおおがかりな演劇のようでもある。それならば、そのパビリオンの上にもこの劇場と同じ鳥をのせてしまってはどうだろうか。
 北京計画の一端を演劇プロジェクトに引きずり込むことができたらおもしろそうだ。おもわずニヤリとしてしまった。

 近代能楽劇場は当然劇場の名前だと思うけれど、肝心の場所についてはまだ何も聞いていない。それに劇団の名前も聞いてない。名前があるのかどうかもわからないのだけれど、もう公演の日程は決まっているようなことも聞く。
 丹羽 
近代能楽劇場 3 渡邊 大志

2005年12月19日、「『金閣寺』の鳥について」


 早速、手伝ってくれている学生に金閣寺の上にとまっている鳥をオーダーした。

   この神秘的な金色の鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているに違いなかった。しかしそれが飛ばないように見えるのはまちがいだ。他の鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかりと踏んばっていればよかったのだ。(『金閣寺』)

 案の定、とんでもないものがでてきた。いきなり時間を飛ぶだの、宇宙を飛ぶだの言ったもんだから、返って混乱させたようだ。もう少し具体的なところからやらせようか。
 「カタチがないといっても、こういうものじゃないんだよね。これはまだ気取ってるから。鳥は鳥なんだから、ひとまず実物そのままの模型を作るところから始めてみて。」

近代能楽劇場 2 渡邊 大志

2005年12月15日、「劇場について」


舞台奴卑訓より

 はたして演劇に劇場が必要なのだろうか。

 ワグナーが理想の劇場らしきものを実現したのは、彼が芸術家であって理想主義者ではなかったためらしい。
 そのとき「理想の劇場」は死んだのである。これはもう、「神が死んだ」のとおなじくらいたしかなことであり、神が人間の発明であるなら、理想の劇場も人間の発明であり、昔本当にそんなものがあったのか誰も知りはしない。(『理想の劇場は死んだ』)

 一度演劇が劇場の足かせから放たれると演劇と現実はますます混沌を極める。

 ラジウムを扱う学者が、多かれ少なかれ、ラジウムに犯されるように、身自ら人間でありながら、人生を扱う芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。(『俳優と生の人生』)

   どうやら上の絵のような劇場ではないらしい。
 「残念だなあ。もっと現代的なものが出てくると思ったのに。これじゃあ70年代の焼き直しだよ。津野海太郎だって旗を立てただけで劇場だって言い切ったんだから、すぐにモノで表せなくてもいいんだ。もっと違うのを考えてくれ。」

 ここまで言われるとこっちも意地だ。こいつは俺の頭は古いって言ってやがる。でも、確かに一理どころか二理、三理はあるな。ここはがまん、がまん。
 「そうはいっても、こっちはカタチをつくるのが仕事ですから。でもまあ、いいでしょう。確か1月開演でしたね。あっと驚くやつをご覧に入れますよ。」

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