近代能楽劇場 2 渡邊 大志
2005年12月15日、「劇場について」
舞台奴卑訓より
はたして演劇に劇場が必要なのだろうか。
ワグナーが理想の劇場らしきものを実現したのは、彼が芸術家であって理想主義者ではなかったためらしい。
そのとき「理想の劇場」は死んだのである。これはもう、「神が死んだ」のとおなじくらいたしかなことであり、神が人間の発明であるなら、理想の劇場も人間の発明であり、昔本当にそんなものがあったのか誰も知りはしない。(『理想の劇場は死んだ』)
一度演劇が劇場の足かせから放たれると演劇と現実はますます混沌を極める。
ラジウムを扱う学者が、多かれ少なかれ、ラジウムに犯されるように、身自ら人間でありながら、人生を扱う芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。(『俳優と生の人生』)
どうやら上の絵のような劇場ではないらしい。
「残念だなあ。もっと現代的なものが出てくると思ったのに。これじゃあ70年代の焼き直しだよ。津野海太郎だって旗を立てただけで劇場だって言い切ったんだから、すぐにモノで表せなくてもいいんだ。もっと違うのを考えてくれ。」
ここまで言われるとこっちも意地だ。こいつは俺の頭は古いって言ってやがる。でも、確かに一理どころか二理、三理はあるな。ここはがまん、がまん。
「そうはいっても、こっちはカタチをつくるのが仕事ですから。でもまあ、いいでしょう。確か1月開演でしたね。あっと驚くやつをご覧に入れますよ。」
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