石山修武 世田谷村日記 |
---|
石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2002年8月の世田谷村日記 |
七月三一日 つづき |
十三時ギャラリー・間川越代表遠藤両氏来室。ギャラ間一〇〇回記念展のヴィデオインタビュー。ギャラリー間(TOTO)には度々お世話になっている。暑い。冷房完備の研究室にいても暑い。むしろ体感気温は冷房ナシの世田谷の方が低いぜ、これは。 十四時半来客の後、十五時過より演習G。
|
七月三一日 |
朝屋上菜園で草むしりその他。汗びっしょりとなる。二階に大きな月下美人が来た。一年に一日しか咲かないモノらしい。来年を楽しみにしよう。 生活用品の開発販売に関して一〇〇種類までは筋径を立てずに、ほぼ、でたら目に乱雑にすすめる。一〇〇に達したら少し整理をするという方針は変えない。 0ゼロシェルターに関して現社会に過剰に生産され続けているモノの情報を先ず集めなくてはならない。現社会体制は過剰な流通の無目的な拡張が基盤になっている。その全体を先ず知る必要があるが、それは困難である。必要が在るところに余剰なモノを流通させる必要を形にするのがデザインだ。先ずその必要あるいは必然を形にしてみせることが先決だ。解りやすく言えば流通だけでモノを作ってみせること。流通のデザインが即モノ作りになる事を明快なモデルで示さなくてはいけない。 世田谷村第II期の実験はゴミである。私が毎朝私の食べたモノのゴミを屋上に上げて土中に埋めているのは今の社会では極めて論理的に正しい。私の屋上菜園は0シェルター計画の極めて初歩的な試みであった。次は屋上の作業小屋及び一階、つまり地上階のガレージ及び小住宅を全てゴミを集めて作るのを始める。オープンテックハウス♯5朝山さんの家にもできるだけ廃棄されている古材を使ってみよう。名古屋浜島医院はその典型となるだろう。余剰生産物、有用な廃棄物の有無に関して情報を集めなければならない。しかもある一定の目的(デザイン)に即応しながら。
|
七月三〇日 |
朝五時半起床。涼しい風が部屋に入ってきて気持が良い。屋上菜園の草むしり、及び散水。最近は私が屋上に上ってゆくと草の奴等が嬉しそうな素振りをするようで気持悪い。今日は午前中モノミーティング。昨日ゼロシェルターのアイデアがまとまり始めたが、これはまだM1には引き渡せない。地下で基本を固めてみる。世田谷村から一歩前進したプロジェクトになるだろう。 十時大学でモノミーティング。日常生活用品に関してはM1のデザイン力はかなり増した。その旨M1に伝える。考えてみればM1を誉めたのは初めての事だ。 十三時野田さん父娘さんとその亭主来室。次回は八月八日に打ち合わせとする。今のところはスムースに進行している。野村が中国五台山近くの恒山懸空寺のスライドを見せてくれた。先日大同雲崗石窟に行った時にチョッと寄れば良かったところだ。大同から九〇KM程のところだから、すぐ近かったのだ。ガイドが一日半かかるなんて言うものだから断念してしまったのが無念である。夏休みに行ってみようかな。懸崖造りのキングかも知れない。 十七時半世田谷に戻る。地下は外のうだるような暑さからは別世界だ。が、しかし、もう少し深く掘れば良かった。深い地下室というのも良いものだよ。夜地下のスタッフとコロッケを食べながら雑談。雑談の中からアイデアが出るかなと思ったが、まだそれ程の事もない。ゆっくりやるさ。
|
七月二九日 |
今日は曇りでしのぎやすい温度である。九時ミーティング。十時 ヘレン・ケラー関係スケッチをすすめる。聖徳寺の新しい考えが生まれる。地中の建築を作ってみたいのだな今私は。地下昼食は私の手製そうめん。午前中スケッチをしたら、大体二件程できてしまったので午後はヒマになってしまった。ゼロシェルターのスケッチをする。 今日は集中してスケッチをしたので大部懸案の物件に目途がついた。十九時、これ以上は集中できぬと判断し、作業を終えた。エネルギーを集中させるのはこれ位が今の体力では限界だろう。 夜は読書と原稿書きで別の頭を使ってみよう。色んなアイデアが沸き出た日はいささか気持ちが高振って眠れない事が多いから。
|
七月二八日 日曜日 |
久し振りの休日。二十世紀・日本の建築、全国縦断連続公開セミナーの記録に手を入れる。十五時前終了。コレでやっと一つ債務返済を果した。全部読み直してみると、意外にこれが面白くて熱中してしまった。私にとっては毎回日本各地の温泉に友人達と行けるのだけが楽しみのシンポジウムではあったが、流石あれだけのメンバーが登場して、話し合ったのだから、それなりのモノは集積していたんだな。 世田谷村2F3Fにすだれとよしずを懸けた。メタルとガラス、要するに平滑面をもつ物質に吸着する吸盤装置を得たから、できた仕事である。二階三階それぞれ幅6M弱程のよしず、すだれを懸けただけで、室内の明るさは適度に暗くなり、気分は全く和風になってしまった。我家の夏はいきなり和風というか、プリミティブ・アジア風になった。十九時 ヘレン・ケラー・セミナー棟のスケッチを始める。 二〇時ギャラ間一〇〇回記念展用の作品解説書く。
|
七月二七日 |
昨夜は冷房の無い地下スタッフと暑い寒い論議が涌きおこり。結果私の席が最も暑いらしい場所へ移る事になった。光がさんさんと降り込む奥の場所。一番良い場所なのにそこから移りたがる気持ちが解らない。光が降り込めば少々暑くなるのは理の当然。その理を呑み込んでしまえば暑さは耐えるものではなく、楽しみになるのに。マア今日から勝負だ。この勝負は高くつくぞ。 今日は大学院の院試面接と合否判定会がある。 朝七時屋上菜園に上り草むしり。ビッショリ汗をかく。朝九時地下には松本たった一人。たるんでる。まだまだ学生と変らないな俺のスタッフは。この夏に集中してしぼる必要がある。 十時大学院入試面接。三名をとる。今年は九名で、うち一人を退学させて社会勉強させる予定である。十五時キンさん(台湾)来室。十七時世田谷に帰る。昨日藤塚世田谷村撮影今日#2渡辺邸撮影。GA坂下君も今日#2撮影したもよう。住宅建築でオープンテックハウスのミニ特集を組む事になっていて、書き手は高山建築学校の海光君。住宅のまとめ方を工夫してみよう。
|
七月二六日 |
大学院最終日講議。西谷先生と昼食。トーマス、ホセそれぞれ相談。午後鹿島建設宮坂来室。非常に元気で私の方が押されてしまう位だった。詳しくは聞かなかったが運が向いて来るようだと言明していた。良かった。彼は計画系の私の研究室で優秀な人材であったが私はその天性の明るさ率直さを評価してあえてゼネコンの施工、つまり現場へ推薦した。私の眼に狂いは無かったようだ。今は実は生きてゆくのに努力がいるからこそ面白い時代だ。宮坂君は独特な選択をしたからこそ今、生き生きとしていられる。石山研を出て、ゼネコンの施工現場に行くという工夫努力が今になって生きているように思う。同窓の諸君も元気になれない人が大部分だろうが、宮坂は元気であるから大丈夫。一人でも前向きな人間がいる間は研究室の同窓は皆大丈夫ということなのである。宮坂の運が本当に良い方向へ向くのがはっきりしたら、私が主催して同窓会でお祝をしてやろう。
|
七月二五日 |
雨模様の空で今日はしのぎやすそう。オープンテックハウスは進行中のものが六物件になっている。同時に十五物件進行させることができれば他の形式の試みができるのだけれど。 九時杉並渡辺夫妻来村。夫妻はオープンテックハウス#2に満足して下さったようだ。細かい不都合な点がいくつかあり、それはキチンと対応してゆく。黒テントとの唐桑臨海劇場の話になって、一度渡辺さんの家で唐桑のスライドショーをやりましょうかという話になった。唐桑の話しだったら何時間でもするぞ。木箱で一ケースのワインをいただいた。これでは禁酒はできないな。酒は止めた方が良いのは解っているんだが、こればかりはね。 十一時品川プリンスホテルへ。十勝の後藤さんと会う。 ヘレン・ケラー記念塔セミナー棟の打合わせ。我々の作った案に後藤さんのアイデアが加わり良い案になった。やっぱり人には会うものだ。一人で考えていたのでは突破できない事がある。セミナー棟で結婚式のパーティができるようにしようという事になる。小音楽会もやりたいね。十二時打ち合わせ終り、世田谷に戻っている。今は車中。藤塚光政より電話あり八月三一日に毛綱の一周忌をやると言う。そうか毛綱が亡くなってもう一年になるのか。時が経つのは早いな。毛綱が歴史から忘れられなければ良いのだが、あやういだろうな。 十六時本とコンピューター編集長河上進氏内澤旬子さん来村、私の書斎の取材。一時間半程おしゃべりした。その後二人は3Fの私の仕事机の周辺を実測したようだ。
|
七月二四日 |
ゲーテは植物にも異常な関心を寄せていたらしい。花田清輝の植物鉱物・・・のエッセイを思い出す。植物の近代的な種の分類法にリンネの方法というのがあり、ゲーテはその方法を死の普遍と呼んで批判していた。鉱物植物共に過大なエネルギーをもって好奇心を発露させていたらしい、その大きさはやっぱり並みじゃネェなと舌を巻いた。ゲーテはローマでイタリヤの旅の整理に入った。 朝九時高橋工業社長及び息子再び来村。聖徳寺墓地打ち合わせ。何とか打開策を見出した。すぐ施主に連絡し大方の了解を得た。観音堂の基本的な案をまとめてスタッフに渡す。名古屋浜島さんより連絡アリ増改築案で良いとの事。面白い医院が作れそうだ。案の定、地下室のメンバーをミニマムにしたら私の仕事、すなわちスケッチが進行する。雑用、つまり教えることが頭の中から消えるからだろう。私はあらゆる意味で組織には向かぬ人間だな。十五時演習G十八時過世田谷に帰る。二〇時半頃暑さづかれで仕事を中断。
|
七月二三日 |
朝屋上で草むしり。九時ミーティング。小人数になり打合わせの密度は当然高くなる。佐藤健より電話あり、毎日新聞見たかと言う。イケネー今日の新聞だったかと、あわてて朝刊を見るに先日の上山杉浦石山の座談がドカーンと見開き二面ブチ抜きで出てた。全く健さんは派手なことやってくれるよ。「お前毎日取ってネェな」とどやされたりしてヒヤヒヤものの時間でした。朝刊は朝一で読んでおくものです。午後猛暑の中を大学へ、うだるというより蒸し風呂の中を歩く感じ。でもバスやタクシーは乗らない。歩けるうちは歩く。増井工務店の増井君来室。お父さんの会社と何かできぬかとの相談。一週間後に再び会う事にする。増井君は順調に仕事をのばしているようで良かった。女性二人程進路相談。こういう相談はリアルでよい。私の方もリアルさが試されているので気持良いのだ。前向きでいさえすれば何とかなるものだよ、たかが二〇代の就職の事くらいでガタガタするなってえの。しかし女の子は明るいな。男は暗いのが多い。 十六時世田谷村市場打ち合わせ。N棟メンバー十名程と丹羽平山の大人数になる。N棟の連中も次第に力を着けているようで、二、三の秀作が生まれつつある。この計画はかたつむりの速度だが何とかならせよう。 今夜は建築学科の先生方五人と食事をする会がある。十九時高田馬場もめん屋なる酒場で会合。とりとめの無い会だったが、学科の将来の為にはこういう良質の無駄も必要だ。文化は突きつめるに無駄の集積とその凝縮なのだから。しかし、暑苦しい一日であった。二二時三〇分世田谷に帰る。安藤一人が地下に残って仕事をしていた。どうしたんだ他のスタッフはと問うに気仙沼から高橋工業社長が二番目の息子を連れて来村、スタッフを連れて飲みに行ったとの事。聖徳寺の件で謝罪かたがたわざわざ来たらしい。駅前の焼鳥屋に行ってみると、社長がまだ幼い男の子とうちのスタッフを連れて飲んでいた。全く義理固い男だ。聞けば伊東豊雄氏の建築に参加できる事となり上京したらしい。良かったね。世界をどんどん広げてもらいたい。
|
七月二二日 |
朝歯医者、上下一本づつ歯を入れる。うだるような暑さで街を歩いているとクラクラするようだ。午後大学院入試製図採点。今日は世田谷村の今年前半の修了式。明日より院生は完全な夏休み。九月十五日まで完全に休ませる。私は明日から本格的に幾つかの設計作業にとりかかる。 十六時野田さん来室打合わせ。さっぱりした親娘であった。一週間後に又打ち合わせを持とうという事でお別れする。十七時学校での打合わせを全て終え世田谷に向う。 夜、チョッと大事な会議。世田谷村を一度今日で解散し、明日から違うスタイルで再出発する旨皆に伝えた。基本的には院生は全員長い休暇。夏の一ヶ月半は私をいれて大学に戻る三人を入れて総勢八名で全てをやっていゆこうというプラン。私も初心に戻ろうという事だ。少数精鋭のその精鋭を一気に育てなければ動きがとれないのだ。十名程を休ませることにしたので、その十名は各人各様にショックだったろうが、又、縁があれば会う事もあるだろう。 ワインとパンでお別れの小パーティー。
|
七月二一日 日曜日 |
六時起床。梅雨が明けて快晴は良いのだが今日も暑そうだ。六時半気仙沼より高橋工業工場長他一名来。石山研スタッフ二名とニ台のトラックに分乗富士聖徳寺現場へ。メッキとステンレスの話に夢中になって中央高速道河口湖ジャンクションを気付かず通り越し勝沼まで行ってしまいUターン。現場に着いたのが九時頃。中川さん他四名と墓の件で打ち合わせ。錆が出て試作品二号も失格。これは私と高橋工業が悪かった。高橋工業もちょっと初心を忘れ始めているな。明らかに手落ちがあったのはいなめない。高橋工業組はそのまま秩父へ。秩父の墓を見学に行った。気仙沼から東京、富士山秩父は大変だろうが、して貰わねば仕方ない。 私は富士造園と花の打合わせ。造園も面白いのだが、もう学んでいる時間が無い。 昼前、富士を離れ東京へ。十四時世田谷村着十四時三〇分名古屋の浜島さん来村。浜島医院打ち合わせ。新築案よりも増改築案をおすすめするが、どうなるか。十六時三〇分浜島さん増改築案の模型を持って名古屋へ帰る。やっと私の短かな日曜日が来た。気仙沼からのホヤを少し宗柳におすそ分けした。二十代の半ばだった。川合健二と香川県に行ったことがあった。チョッとのスレ違いで私はイサム・ノグチに会えなかった。あの時イサム・ノグチに会っていたら私は造園家になっていたのではないかと思う。私は遂に、昔川合健二と出会った頃の川合の年令になった。若い人間の人生を変えてしまう様な私であるか大いに疑問だが、痛切に変わってしまう様な、私がそうであった相手のような人間になっているか、自分で自分をはかりにかけてみる。私はどうやら不合格であるが、若い私の学生やスタッフはどうか。生き方を変えるに足る若い人材にいまだ出会っていない様な気がしきりにするけれど、私が鈍である可能性もある。時が解決する類の問題なのであろうか。たった一人でいいからそういう未完の人材にそろそろ会わなくてはいけないかも知れない。無理を承知でそう思う。夢の又夢だな。夕方屋上菜園に上がり二時間程過ごす。カンボジアの匂い草の種を又まいた。これも、育つのだろうか。
|
七月二〇日 土曜日 |
今日は何かの休日である。朝九時にトラックで出発しようとするも、後部車軸にシートが巻き付いているのを発見、トラック使用あきらめる。この状態でウチの奴等は現場その他を走り回っていたのかと思うと背中が凍るよ。危険という事への感性が壊れてしまったのだろう。結局オンボロベンツで前橋に行く事になる。十三時頃関越道路を経て前橋着。森田兼次長谷川中沢氏等と会う。森田さんは七五才になられて少し足腰が弱くなったが健在で、相変わらず明るい。この人物の天性の明るさは今の時代には無いな。ソバ屋で歓談する。幾つかの物件の製作依頼で今日は前橋に来た。久し振りに左官大将の顔を見ることができて良かった。 しかし、前橋はうだるような暑さだった。こんなに動いてどうなるとは思っているし、無駄をしている時間は無いのもわかっているんだが、どうにもならない。休息が必要だ。休みのスタイルを作らなければ。とりあえずは、このメモを記しているのが休みなのかも知らんな。
|
七月十八日 |
十四時三〇分頃離陸只今機中。今朝は再びモ−ル温泉につかり鋭気を養う。昨夜は良く眠れた。ホテルで朝食後九時発。帯広競馬場へ。デメ−テルとかち国際現代アート展を見る。川俣正小野ヨ−コ、インゴ・ギュンター、蔡国強等の作品を見た。広い競馬場を使っている面白さはあるが、全体としては印象が薄い。帯広市、北海道庁からも数千万円の補助金が出され、総額としては二億五千万円くらいの事業費になっているらしい。これは新しいタイプの公共事業だな。ダムや道路を作る代わりに芸術家を遊ばせている。芸術家たちも芸術家で木馬を作って木の道も作り、不在の競馬場とやらの名前も与えて、なんだこれはと思うばかりの川俣正の作品の類ばかりなのである。下らない。圧倒的に下らない。こんな事に税金が使われて良いのかと呆然とするばかり。アーチストは自分の金でやってもらいたい。自分の金で自分の責任でやるのがアートだろう。新潟の妻有だったか、北川フラムのプロジェクトも完全な公共事業であった。芸術が公共事業を頼りにしてどうなるのだ。帯広デメ−テルのディレクターは芹沢高志と聞く。これはイカンよ芹沢さんという感じだ。アート関連のプロデューサーは自分で金を作る能力を育てなければイカンぜ。いくら文化事業だからと言って聖域はあり得ない。公共事業を喰いモノにしてはいけない。レストラン白樺でジンギスカンをたらふく食って、六花亭経営のレストランへ。この菓子屋は美術も何もかも、みんな自前でやっているのが潔い。 十勝毎日の記者インタビューがあったが、勿論こんな事は言わなかった。北の屋台は成功したようですねと帯広競馬場で言っただけ。 私も頑張ってかせがなくてはイカン。
|
七月十七日 |
帯広(十勝)への機中。 ヘレン・ケラー記念塔の宿泊棟を建設することになり、後藤さんと打合わせ方々十勝行が決まった。ついでにツアーも組んでみようという事になって、本日総勢十名程で北海道へと飛んでいる。インターネットで人が集まったツアーでもある。 昨日の日用雑貨ミーティングでは院生からの提案が2点ほど陽の目をみる事になった。少しづつ商品が増えている。あきらめずに進めてゆきたい。
冬に予定しているプノンペン−カトマンズツアー・ワークショップはカンボジアでひろしまハウスのレンガ積み及びアンコールワット見学。ネパールのカトマンズでキルティプ−ル集落の実測調査を行おうという計画。来春も続ける予定。
|
七月十五日 |
一ノ関のホテルで眼ざめる。二日間余りにも眼まぐるしく色んな事があったので頭の中は完全なカオス状態である。帰りの新幹線でチョッと頭を休めよう。又もや、ゲーテのイタリアは忘れられたママになっている。五〇代はまことに困難極る年代である。疲労するというのが本当にやってくる年代なのだ。 十一時前の新幹線に乗るのには、ここを十時四〇分に出れば良いだろう。のんびりしていたら十時がチェックアウトタイムですとの電話があって仕方なく、そぼ降る雨の中を一ノ関駅へ歩く。十一時前の汽車で東京へ。車中で気仙沼の観光課千田基嗣氏にいただいた詩集湾IIを読んでいたら突然、私が登場する詩アズマエビスの凱旋に遭遇してしまった。私は異邦人としてそこに唄われていた。私を忘れずにいる気仙沼人がいるのだね。 帰りの汽車ではグッスリと良く眠った。
|
七月十四日 |
朝食は町長宅で、途中気仙沼から電話が入り、勉強会に早く来るようにとの事。町長に車で送ってもらい気仙沼へ。九時三〇分野田塾のホテル観洋へ。ホテル観洋のオーナーは魚屋だが漁業組合長にはなれぬ人で、ここが気仙沼人のしたたかなところだ。十二時終了。皆とお別れをして、本吉町の高橋工業社長の車で再び唐桑へ。唐桑のお荷物になっている漁火パークで昼食の後佐藤和則町長と共に亀谷さん訪問。小鯖のカツオブシ工場の再びの使用のお願いをする。この豪気な船主を私は非常に尊敬しており、再会できて光栄であった。再び唐桑にの意志を強めた。 十四時過、皆とお別れして高橋社長と共に一ノ関へ。十五時チョッと廻ってベーシー到着。菅原さんは昼食で不在であったが、なんとソニーの伊藤八十八氏が音響関係のエンジニア数人と、これも菅原待ちをしていた。 今日はどうやら良い日にベーシーに来たようだ。ソニーミュージックの八十八さんの考えで、現CDサウンドエンジニア達に、つまりデジタルサウンドの最前線の連中に、菅原の筋金入りのアナログサウンドを聞かせて、デジタル技術でできる音を、よりアナログ音に近づけようと、それでキチンと両者を聞き比べてみようという会が今日なのだった。だから菅原のレコード選択も、いつもよりズーッとハードなものばかり、これでもか、これでもかのアナログ・サウンドがベーシーに繰り広げられ、流石の私もグッタリ疲れて、一度ホテルで休みたいと思ったくらい。 CDにも色んなレベルがあるらしく、アメリカのCDサウンドの名人とやらのCD音も聴くことができたが、これはソニーの八十八さんのエンジニアが作ったものの方が良かった。しかし、この音の最前線の戦場らしきべーシーで、アナログ音、つまりレコードに針をおとし、真空管でJBLの古いスピーカーから、の音が圧倒的にCDのデジタル音よりも凄い、全然異なる水準のモノだというのを今日は目の当り、いや耳当りできて良かった。感じただけではイカンというわけで、八十八さんにレクチャーを受ける。 デジタル・サウンドとは何か、アナログとはそして・・・・・・。この世界、つまり音楽ではあるのだが、音そのものの複製技術の世界の深さに仰天してしまう。面白い。まさか、ヘルベルト・フォン・カラヤンの考えがCDのスタンダードになってしまったなんて事は初めて聞いた。早速〆日が過ぎている室内の連載にこれは書いておきたいと考えた。眼ざわりならぬ、耳ざわりとは何かと言う事だな。しかし、ここはオジさん達の少年クラブであるよ。好きな事だけできるのが昔の少年の特権であったが、べーシーにはその生き残りが集まるな。近くの洒落た韓国料理の店で夜食をとり、又小宴会。菅原がとってくれたホテルに八十八さん達と辿り着いたのが〇時過。面白かったあ。今日も。
|
七月十三日 |
八時過の東北新幹線で一ノ関へ。野田豊氏同行。野田氏は日本各地に独自なレストランを展開している事業家だが、ソフトウェアーのプランニングが常に先行してゆく新しい世代のプランナーでもある。仙台で乗換え。宮城大学名誉学長野田一夫氏と合流。気仙沼へ向う。十二時過気仙沼着。何年振りだろうか、この町は。臼井賢志気仙沼商工会議所会頭と再会。昼食後野田塾の講演会。野田一夫氏の港町スクエア構想を巡る講演。私は一時間二〇分をかけて一九八六年からの気仙沼との関わりの小さな歴史を述べた。当時の友人達、カネ大の佐藤氏が漁協の組合長、畠山氏が北勝(マグロ漁の日本を代表する組織)の組合長。臼井氏が商工会議所会頭と、気仙沼を代表する顔になっているのが感慨深い。 会場には佐藤和則唐桑町長の顔もあった。終了後懇親会。途中で抜けて旭寿司の二階での芸術選奨受賞お祝いの会。昔なじみの顔が集まってくれた。 今日の昼は気仙沼の観光計画の是非を論じたわけだが、気仙沼の漁業の顔と会っていると、それが、つまり本格的な観光事業を興すのがいかに困難かを知ることになる。鈴木晃市長のヤル気うんぬんだけの問題ではない。宴席では畠山嘉勝さんの大成長振りが眼についた。この人の根底には情がある。 名残惜しい宴席も小一時間で途中退席。佐藤町長戸羽議員と共に唐桑へ。まるでこれでは選挙前の政治家の日程だな。 唐桑のジジ(スナック)には、これ又、懐かしい面々、今は議員の三上戸羽ブチック鈴木仙台の結城さん夫妻、その他、皆唐桑臨海劇場の面々だ。気仙沼とは異なり、ここでは皆個々人の喜び、辛さそれにずるさもダイレクトに表現されてわかりやすい。皆キチンと年をとって発言にも抑制がきいてきた。名残りはつきなかったが二三時頃、散会。佐藤町長宅へ。ここで佐藤町長の後継者の歯医者になった息子と、そのイバラギ出身の嫁、佐藤夫人と今日最後の小宴会。〇時倒れるように寝た。体力の限界である。
|
七月十一日 |
台風が北へ去り久し振りに太陽の顔を見た。昨夜は強い西北の風が吹き、3階のメタルのテントをギシギシとゆすり続けた。建築が風に反応するのは観念としては面白いが、実際には仲々のスリルだった。勿論、メタルテントは大丈夫だったが、まるで船に乗っているような気分であった。私の家はどうやら船と飛行船の中間ぐらいの物体なのだ。しっかりと暴風雨から守られているというよりも嵐と共に在るという感じ。要するに我家は自然そのものである風がある。自慢できる事かな?これは。 明後日、気仙沼へ出掛けなければならぬので今日の午後はその準備にかかり切る。二〇年前の気仙沼、唐桑との附合いの決算報告にしたいから。しかし、思い起こせば何であんなに夢中になっていたのか今でも不思議な程に入れ込んでいたな。 十三時過、気仙沼でのレクチャー準備。五千枚以上のスライドから百五〇枚程セレクトして話の筋道を決めた。一段落したのが十九時三〇分だった。六時間ブッ通しで記録を整理した事になる。忘れてしまっていた事も多く、再発見もあった。自分にとっても大変有意義な時間であった。野田前宮城大学長の港町スクウェアー計画も読了した。私が一九八七年から気仙沼に提案し続けたものとの基本的な考え方は同じである。明後日は自然に思っている事を言ってみる。誰に気がねする必要もないから。
|
七月九日 |
午後毎日新聞9Fアラスカ、上山龍谷大学学長、杉浦、石山、佐藤、敦煌座談。柳橋に席を移し二一時迄。二一時三〇分車で世田谷に戻る。
|
七月八日 |
昨日はよく休んだ。今朝はおかげ様で体に活力がみなぎっている。みなぎるってのは嘘だな、少々その気配がある位の事だ。 朝から晩まで地下で打合わせ。徒労なのか前進しているのか不明のまま深夜になった。
|
七月六日 |
今日は久し振りに何も予定が入っていない日だ。ゆっくりと色んな事を考えてみる。世田谷村市場は大事な仕事だ。フィンランド芸術工芸大学のソタマ学長に共通のマーケットを作る考えをぶつけてみようかしらん。
|
七月五日 つづき |
西谷先生と沖縄の件で話し合う。これは建築学科だけでは出来ぬ話しだからバランスのとれたコーディネーターが必要である。
|
七月五日 |
十三時三〇分日左連会長池本氏来室。聞けばいつだったかの松崎町シンポジウム伊豆長八の世界での記録を、そのまま日左連の機関誌日左連に転載したところ、すぐに大阪浪花組よりクレームが来たとのこと。読み返せば藤森照信の発言「親方がピストル持って・・・・・」等々に少々過激な部分があり私もそれに乗っていたきらいがあった。 浪花組としたら怒るだろうなと思った。すぐに藤森にFAXを入れた。すぐ謝ってしまおうという内容。こんな事が華々しい話題になったら、あんまりよろしくないからな。しかしこんな時にだけ日左連と会う事になってしまったのもいささかさびしい感じではある。 世田谷村市場ミーティング、卒論指導後世田谷へ戻る。今朝、田沢湖で買い求めた草花を何種類か屋上に植えたので少し雨でも降ってくれれば良いのだけれど。
|
七月四日 |
深夜一時半、世田谷に戻る。三日は精一杯の一日だった。いつか又、書くことができる日も来るだろう。今は書かない。仕事机に生けておいたくちなし、あじさいがもう枯れていた。十三時三〇分教室会議途中退席、十四時ダイヤモンドホテル、十五時三〇分首相官邸へ。新官邸には初めての訪問。古川貞二郎内閣副官房長官と面談。一時間以上時間をとっていただき、色々と相談に乗ってもらった。有難いことだ。旧首相官邸時代から何度かうかがっているが、この人物は誠に不変不動である。官僚組織の頂点にありながらいつお目にかかっても体温の温もりを感じさせて、いかにも人間らしさを失うことがない。権力の最中枢にいながらにして変わることのない温もりを感じさせてくれる力量、人徳の確かさを感得させてくれるのである。私は国家を信じる事は出来ぬが、こういう人物人格識見は信じざるを得ない。どのようにして、このような人物が生まれ、そして権力の中枢に持続し得たのか知りたいと思った。 世田谷村に帰り、いくつかの打合わせをこなす。 ゲーテはローマで色々と考え込んでいる最中である。しかも考え込み方が長く、私にはつまらない。
|
七月二日 つづき |
十八時前、東北高速道を北へ走っている。うちのオンボロベンツで、今は馬場照道和尚が運転している。家内も駆り出しての、サイの河原行。行っても仕方ないのは解っているが、行かねばならないのも知っている。今日中には辿り着くだろう。 二一時過仙台の先の長者ヶ原で食事。目的地までアト三時間はかかるであろう。
|
七月二日 |
学部レクチャー。気仙沼唐桑の仕事について。振り返れば膨大な無駄の山だ。しかし、何か一つ作る事でその無駄がただのゴミではなくなる契機が訪れるのだ。作らねば。 今、迷いに迷っている。秋田の玉川温泉にて療養している佐藤健を訪ねるかどうか。秋田はドシャ降りのようでチョッと車では危険なんだが、時が時だけに行った方が良い様な気もするし、揺れに揺れている。珍しい事だ我ながら。
|
七月一日 |
朝、歯医者。下手で不器用なアシスタントがギリギリ何やら、こねまわして痛かった。十一時世田谷に戻る。世田谷村ミーティング。石山研の全体について再び述べる。N棟S棟世田谷村北九州の機能について。全体的な仕事のパースペクティブについて。反応なし。全くなし。十四時個々の仕事の打ち合わせ。スタッフに希望は持てぬが、仕方がない一人でも進むしか無い。ゲーテはローマで内省のとばりの内にこもっている。紀行文の形式は崩れ始めた。
|
2002 年6月の世田谷村日記
|
石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
世田谷村日記 サイト・インデックス |
ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp