石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2003 年9月の世田谷村日記 |
八月三十一日 |
久し振りに終日読書。関川夏央の「世界とはいやなものである」この評論家には若い頃会った記憶がある。鶴見俊輔さんに近い視点を持つ若い世代の人物だと言う印象があった。鶴見俊輔に近いというのは今の日本社会では稀なのだ。特に若い世代では。読了後、関川氏は一九四九年生で決して若い世代とは言えぬ世代なのを知った。北朝鮮に対する考え方など刺激的であるが、私は日本現代を歴史的に把握しようとする姿勢に共感を覚えた。 論考中、山田風太郎の一九四五年東京医専学生当時の日記に記された考えが引用されていて、それに最も仰天した。 「・・・個人個人が最も頑強に抵抗するのは、新鋭溌剌としたアメリカ人のように思われる。各人がそれぞれの自覚と自信を胸中に抱いていて、最も屈服させ難いように考える。これは単なる知識の意味ではない。学校も家庭も社会もひっくるめた教育の意味である。アメリカは強い。強さの根源は物量よりも「民主主義」にある。しかし、アメリカ人には致命的な弱点がある。それは彼等の戦争目的がぜいたくなことである。彼らは世界の警察権を掌握して、彼らのいわゆる「正義」を四海に布こうとしている。国家の宣言する正義なるものが果して存在するか否かは別として、国家の信奉する正義は個人の信奉する正義よりも脆弱なものであることは確かである。少なくともアメリカの正義には限界がある。然らば、彼等は無際限の殺戮戦に耐えられようか。」要するに、すでに富裕を愉しみつつあるアメリカが、さらにそれ以上の世界の警察権掌握のために、無限の血を流しつづけることを、国民の全てが了承するだろうかと言うのである。 「それは、あまりに思い上がった、ぜいたくの沙汰ではないか。」と一九四五年の日本で、二十三才の山田風太郎青年はつぶやいていたのである。 湾岸戦争、九・一一テロに次ぐ、アフガニスタン、イラク戦争という現代史を二十三才の青年は明晰に予告していたのである。 関川は言う「一九九〇年代を「失われた十年」と言いならわしているようだが、むしろ私は敗戦以来の「失われた五十六年」を思うのである。「昭和二十年以前の「歳月と教育」の恐ろしさもさることながら、それ以後の「歳月と教育」の恐ろしさよ」と語る山田風太郎の言葉は痛く耳に刺さる。」 もう一度、山本夏彦の「戦前」という時代を読み直してみる。同じような事が述べられている。山本曰わく「私は日記をたいてい文語文、正しくは文語文もどきで書くから、ほかの人もそうかと思っていたら必ずしもそうではなかった。高見順日記には文語脈はほとんどない。伊藤整には少しある。山田風太郎「戦中派不戦日記」は全文ことごとく文語である。」本は本とつながっているのだ。又、山本は「私は赤い鳥で育っている」と自ら述べていたのが印象的だった。大正デモクラシーの最後にいたと言っている。その大正を関川は、赤い鳥を女性原理の時代で、しかも今(二〇〇三年)現代に通じると言っている。男が、かわいいと言う、男がやさしさを言う時代である。夜、塩野七生のサイレント・マイノリティ読み続ける。一日中、家を一歩も出ず本を読み続けた日であった。 明日の全体ミーティングでの小レクチャー「現代の特質」のシナリオ原稿を書く。あらゆる創作は現代の内にしか成立しない。そして、その現代は必らず、すでに歴史として書かれ得る近代との連続、それも圧倒的な連続の中にのみ把握する事は出来ない。あらゆる創作は歴史的な成果である。その意味では創造は極めて「さびしい」モノになり始めている。メランコリアなものにならざるを得ないのだ。
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八月三〇日 |
昨日、山口勝弘先生から葉書が届いていた。レイアウトが面白くてHPに公開したい位だが、やはり、それは止める。この辺りがHPの展開に無くてはならぬボーダーラインだろう。藤野忠利にスケッチ送る。十四時学生とのミーティング。九月一日から本格的な秋シーズンである。最初のミーティングはキチンと構成した、クオリティーの高いモノにしよう。
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八月二九日 |
十時半内閣府。十三時四十五分研究室戻り。沖縄のプロジェクトと上海ワークショップが少しでも関係づけられると良いのだけれど。十五時日本フィンランド・デザイン協会理事会。十月のフィンランド・デザイン展の打合わせ。フィンランドはナショナル・プロジェクトの一環としてこのプロジェクトに取組んでいる。それに対して日本側は極めてパーソナルな対応で、心細いところもあるが、乗りかかった船だ。頑張ってみよう。十八時研究室に戻る。何件か相談に乗り、二〇時修了。
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八月二八日 |
午前中、原稿書き。午後、研究室。幾つかの打合わせ。
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八月二七日 |
今日は昼過に山口勝弘先生訪問を予定しているので、朝はゆっくりしている。日用雑貨づくりに、森正洋先生、山田脩二の品を加える事にしたので、そのコピーを書く。興が乗って、長文になってしまった。何やってるのかネェ。我ながら、あきれ返っている。 →「森正洋、山田脩二、第一ラウンド」 十三時過、東急田園都市線多摩プラーザに山口勝弘先生を訪ねる。壁に沢山の絵「宇宙」シリーズが架けられている。今突然金閣寺にのめり込んでいると言う。建築家は誰も金閣寺について述べないねと突っ込まれてしまった。 山口勝弘さんが突然病を得て、多摩プラーザに引きこもってからの作品に大きな関心がある。先生は室にあるモノ、書いているメモ、スケッチ、そして宇宙シリーズの作品、新たな金閣寺のテーマ何でも写真撮って良いからと、言って下さった。図に乗って時々訪ねて、私のHP内に山口勝弘ギャラリー on The TIME を開設してみよう。五体満足、順風万帆の芸術家などには興味が無い。不満足な身体、そして逆風に次ぐ逆風時の芸術家くらい、その芸術家の本性、精神世界が浮き上がるものだ。山口勝弘の今に重大な関心を寄せるのはその故である。山口勝弘自身の言葉によれば、山口さんは今、ここに「幽閉されている」のだそうだ。身体に障害を得た人は多かれ少なかれ、そんな自覚を持つのだろう。閉じ込められて、具体的に自由では無い実人生に入って、人間は初めて強く自由を渇望するのではないか。障害は熱列に自らの精神世界の自由を、芸術家をして描かしめる。 「自分の病気が治りつつある状態を描いているのが宇宙シリーズなんだ。」と山口さんは漏らした。自分でも無意識の中で描いている抽象的な絵画の意味を、山口さんは知りたかったのだろう。「この線は僕の体の血管だったんだよ」「バックの宇宙の色が段々明るくなってきているのは、体が回復している証しなんだ。」 最良の芸術家は絶対的に自分を信じている。誰が何を言おうと。山口さんは宇宙シリーズの絵画群に自分の身体内宇宙を、希望にダブらせて幻視しようとしている。この、生命への渇望は凄いと思う。「禅宗の言葉、不生不滅が今はよく解る」とも述べた。生まれなければ死ぬことも出来ぬと言う絶対矛盾を内包した寸言である。同時に「僕は遅れて生まれてきたシュプレマティスト」なんだとも言明された。沢山のインスピレーションを話されたが、今は整理しない。 「石山さん、この頃面白い本ない。」と尋ねられたので、答え難い質問だなと思ったが、「アンダーグラウンド、とグロテスクが評判です」と読み易いのを二つあげたら、たちどころに「もっと、ハードな奴だ」と一笑に附されてしまった。今度来る時は、ランクを上げた読書をして来たい。「日本のじゃなくて、世界の・・・・・本だよ」だって、国際派と附合うのは実にしんどいのだ。 磯崎新の建築における日本的なモノ、への感想はどうだと尋ねられたが、即答は避けた。少し整理して次回に述べてみたい。何しろ生まれ故郷淡路の一宮神社が隠れの宮と呼ばれていて、いざなぎ、いざなみが幽閉されたという神話を説く人だから、磯崎の伊勢論、つまりバーチャルな人工神話の起源の一つである伊勢、当時の仏教という、アジア圏グローバリゼーションに対する、バーチャルな天皇国家のねつ造の必要性への意志という磯崎説とは別の世界を思い描いてはいるのだろう。山口さんには簡単な事は言えない。
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八月二六日 |
九時十勝後藤さんと打合わせ。やっぱり依頼主と直接会って話していると、私の方も色々なアイデアが生まれてくる。十時十五分修了。十ニ時食事。天ぷら・せいろ・大盛り。まだ大盛りと自然に言ってしまうが、少々腹にはこたえる。十三時ドイツ・デッソウのバウハウス財団の学生来訪。十三時半、ゼミナール、3Dフェイズ、アポロ十三号バッキーフラー・イン・チャイナ、他。十五時修了。日刊建設通信新聞来室。今度は原稿書かねば駄目だな。打ち合わせを幾つかして、十八時半研究室発。十九時青山さくらで会食。鈴木博之、安藤忠雄、伊藤毅、難波和彦。二十二時過散会。今日の会合では二年後にアイルランドの温泉に行こうというのが決まった。幹事は難波さんとなった。アイルランドの温泉ではタオルは変色するのか否かが話しの中心になったが、そんな事よりも石鹸はどんな種類のものが良いのか、どうなのかの方が問題であろうと、言うのが私の心配ではある。この問題が真剣に論議されながら、遂に結論が得られなかったのが、本日の会の限界ではなかったか。残念である。又、露天風呂はあるのか、無いのか。その深さはどうなのか等も心配ではある。
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八月二五日 |
昨夜は熱帯夜で寝苦しかった。十時研究室全体ミーティング。各プロジェクトについて概略の考えを述べる。
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八月二四日 日曜日 |
十時半前、新宿発さいたま市指扇♯5朝山邸現場へ。埼京線で。十二時頃指扇の現場着。TVプロダクション・ルーカスの連中が居た。十三時頃人が集まり始める。富士市の鈴木さん来訪。十三時半、四十五分程のレクチャー。七〇名位かな、聴いてくれた人は。このスタイルの集まりはスタッフに任せていたら上手くいきにくい事がよく解った。
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八月二三日 |
今日が九州巡行の最終日。のんびりと休めた様な徒労の様な4日間であった。今日の集まりでは地元の人々に失礼のない様に注意したい。森正洋先生がどんな心境でおられるのか知りたいところだ。しかし、佐賀の変わり無さには驚いた。人間だけが年を取ってゆくな。高木もああいう附合い方で大丈夫かな。東京に帰ったら栄久庵さんに連絡してみよう。佐賀では三年間本当に色んな人に世話になった。何かの形で返せるモノは返さなくてはいかんな。ワークショップは上海、カンボジア、キルティプールと展開してゆくのだが、それをどういう形でまとめられるかだろうな。しかし、何故、建築づくりだけに打ち込むライフスタイルをとらなかったのか、我ながら不可思議だ。人間嫌いなのに、その人間に関心があり過ぎるといえば体は良いが、要するにシンプルに生きる強度が少し欠けているだけだ。森先生に今日はバーチャル・ギャラリー「森正洋の世界」開設に同意していただく事だけはお願いしなければならない。 十時五〇分権藤君HOTELに。久留米の富松までウナギを食べに行く。十三時願正寺シンポジウム会場。森先生先に着いていた。古川佐賀県知事と会う。若い。政治家に若さは特権だな。筒井泰彦氏司会、古川知事、森先生、私のパネリスト。十六時過終了。権藤君に佐賀空港まで送ってもらう。二日間権藤君には世話になった。十八時十五分発の便で東京へ。空港の二Fのレストランから眺める茫々たる原っぱ状の空港の風景は中々良い。オリンピック前のバルセロナ空港がこんな風な原っぱであった。今十九時半飛行機は高度を下げ始めた。
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八月二二日 |
十時過現代っ子ミュージアム。キンヤのおいしいコーヒーと甘味をいただく。今年の東京では想っても得られぬ痛烈な日差しが中庭に差し込んでいる。付属レストランを運営している次女カオリさんと色々とおしゃべり。ナオミ・キャンベルからのメールを見せられたりで面白かった。ナオミ・キャンベルと現代っ子ミュージアムは昨年のメール・アート展で、確か作品が送られてきた、うんぬんは記憶にあったが、ついチョッと前のN・Y大停電を楽しんでいるナオミ・キャンベルからのメールを見て、情報が距離を消してしまった事を痛切に実感した。それにしても藤野ファミリーとナオミ・キャンベルが親しい知り合いだったとは・・・。私もミーハーだな。石川県から自転車で来たという学生がいた。十一時半前、藤野さんに宮崎空港まで送っていただく。JAS便にチェック・インしているうちに、明日の佐賀東京便のチケットを失くしてしまい、再発行も面倒くさいなと考えていたら、836便の改札口で失くしたチケットを渡されてホッとした。誰かが拾って届けてくれたのだろう。こういうシステムは増々進歩して、人間の力は増々弱くなっているんだと思う。定刻十二時二〇分出発。今日は佐賀泊りだ。福岡空港ではW・Bの権藤君が迎えにきてくれている筈である。権藤氏高木夫妻と福岡空港で。すぐに佐賀へ。HOTELニューオータニにチェック・イン。うどんを喰べに行って私はHOTELで六時前までスケッチ。佐賀は何変わりなく静かだ。藤野さんにスケッチ二枚送る。十九時前、久し振りの、おさむで会食。
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八月二一日 |
夜半二時半起き出して、スケッチ。四時半迄スケッチ続ける。浄水という地名と水中心の場所イメージが頭の中に巣喰ってしまっている。風呂でも使って頭を冷やそう。九時前、再びスケッチ。HOTELに一人いると仕事がはかどる。十二時前チェック・アウト。空港へ。駅まで歩く。陽光が目に痛い。地下鉄で福岡空港へ。博多とんこつラーメンと明太子飯を喰べる。十三時四〇分JAS便で宮崎へ。定刻通り十四時二〇分宮崎空港着。藤野忠利氏迎えて下さる。暑い。三十二度Cとの事。早速現代っ子ミュージアムへ。野田工務店、清水左官と左官工事の補修に関して打合わせ。すぐに結論を出す。現代っ子ミュージアム補修展を開催する事にする。年内に補修部分の土を落し、そこに絵を描いてみることになった。面白そうだ。十七時プラザホテルにチェックイン。温泉に入り一休み。十九時前現代っ子センターに歩いて行く。会食。二十一時半ホテルに戻る。
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八月二〇日 |
ANA249便で福岡へ。4日間の九州巡回である。雲の上に出て久し振りの青空を見る。先程羽田空港の書店で四日間の読書と思って本を求めようとしたが、読みたい本が無かった。十二時四〇分福岡空港、忍田さん迎えて下さり、車で忍田宅へ。途中オムライス喰べる。プレゼンテーションはまずまずであったが、更に具体的な要求をうかがう。十六時過模型を持って敷地へ。修正しなくてはならぬ点がいくつか浮き彫りになる。オリエンテーションと土地形状の若干の複雑さを把握するのに手間取る。十七時過博多ハイアット・リージェンシーHOTELチェック・イン。スケッチ十八時半迄。ロビーで研究室OB高木と会う。十九時前高木と春吉橋のまめ丹へ。久し振りにうまい魚を喰べた。まめ丹のおばちゃんも元気そうで何よりであった。よくたべて二十一時HOTELに戻る。忍田さんは明日早朝よりギリシャ行である。サントリーニにも行くそうで、うらやましい。
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八月十九日 |
朝七時起床。昨日持ちかけられた来年からの新連載について考えてみる。十時大学、諸々の雑用片付ける。淡路島に御礼の電話入れてみたら山田脩二は今、東京に居るとの事。昼食を共にする事となる。山口勝弘先生に電話、来週お目にかかる事とする。今日くらいから休みモードを切り替えてゆかないと体が言う事をきいてくれない。 十二時四十五分大久保駅前のいつものソバ屋で山田脩二と会う。聞けば日本文化デザイン賞の受賞が決まったらしくそれで東京に出てきたらしい。八月三十一日に何かセレモニーがあって、それで大賞が決まるとの事。この賞はいつだったか鈴木博之の肝入りでもらった事がある。黒川紀章氏が代表で取仕切っている会が出している賞だ。何はともあれ、そんな事で山田脩二が、どんなモノであれ賞の対象になるのは大変お目出度い。それで又もや昼からダッタンしょうちゅうを何杯も飲んでしまい、昼からホロ酔い気嫌になってしまった。山田脩二からは森正洋先生との組合わせで、瓦製の器を世に出す事の了解は得た。ガキ、学生のレベルの生活雑器とは背景の重みがまるで異なるからね。学生レベルのサークル人間は自然に年を経る毎に実践者としての大人になるわけではないことを知レ。つまり、誰でも小林秀雄言うところの実行者になれるわけではない。山本夏彦言うところのロバは永遠にロバのままなのだ。十九時五反田日本デザインセンター。鈴木博之夫妻と会う。フィンランド建築展のシンポジウムというかトークショーのようなモノ。久し振りに建築業界の人々に会う。こういう処では私は身の置き様が無い。フィンランド建築博物館長等あちらであった人々にも再会した。が、鈴木が来いヨと言わなければ来るところでは無かった。二十二時前新宿駅西口で明日の九州でのプレゼンテーション模型を森川から受け取り、世田谷村に戻る。今、京王線車中でメモを記している。
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八月十八日 |
今日もうっとおしい雨模様。いったいどうしてしまったのだろう気候は。十時全体ミーティング、三〇分で終了。十三時ワールド・フォト・プレス(グリーン・アロー)小川氏来室。連載セルフ・ビルドの打合わせと出版の件。次期連載の話し。十四時突然森本組秋山甚四郎氏来室。十九時前九州の住宅のプレゼン作業を見る。淡路島の山田脩二より瓦プロダクトごっそり送られてくる。
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八月十七日 日曜日 |
昨夜は初体験の針きゅうの後遺症らしきでグッタリ。小林秀雄のモーツアルト読んでいるうちに眠ってしまった。何で又小林秀雄を読もうと思ったかは、解らない。この人の肉声を聞いてみたかった。七時過起床。安楽椅子でモーツアルト読み続ける。小林秀雄の近代的自我は自身を批評家、評論家として彫啄せざるを得なかったのだろうな。九時半高田馬場待ち合わせ。永江、加藤と共に利根町へ。龍ヶ崎の牛久沼湖畔のウナギ屋で昼食。佐藤さんと色々と話す。十三時過佐藤宅。十三時半親水公園集合。町の人々二十数名。蛟もう神社近くの神池旧家二軒、泊塚等見て廻る。鎌倉期の阿弥陀仏見る。十七時過再び佐藤宅。十名程で会食。十九時過散会。取出駅迄送ってもらい、二十一時半頃世田谷村に戻る。この附合いから何を生み出す事ができるかな。モーツアルト読了。
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八月十六日 |
十三時前原口さん宅。今泉先生に針、キュウしていただく。生まれて初めての事だ。十四時大学へ向う。明日の利根町行の準備のため。昨日はお盆だったのだ。
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八月十五日 |
日本デザイン機構の機関紙ボイス・オブ・デザインの原稿書く。十七時厚生館プレゼンテーション。近藤理事長と会食。
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八月十四日 |
今日も雨だ。九月から世田谷村日記の形式を変えるべく八月はそのトレーニング期間だと書いてしまったが、我ながら何も出来ていない。これでは何も出来ていない日記だ。残念。残念、残念の人生だな。明日は厚生館の2回目のプレゼンテーション。擬人化された建築、表情が視る人の視点によって変化する建築、笑う建築というような事を考えている。モダニズムのデザインの基本的な性格は教養によって枠づけられ固められたハイセンス(擬似的なものではあるが)だ。それを前向きに笑ってみせるのが、この計画
の狙い。岡本太郎の仕事の続きみたいなものか。建築の表情が動いて変わるような低次の事を考えているわけではない。動いているように見えてしまう主体の想像力の問題を取り出してみたいのだ。その為に別の枠のテクノロジーを使う。十七時、エスキス、その他続けて少しばかり疲れた。日用雑貨のデザインが再び進展しなくなっている。スタッフの責任ではない。私の非力だ。先程淡路の山田脩二から電話があって、瓦のテーブルウェアー今日送る旨知らされた。上海のC・Y・LEEから電話あり、上海Gスタジオは十二月十五日から二十五日迄の会期で総勢四十名の規模で実施する事を決めた。盆明けから具体的な準備にかかる。上海のCY事務所と上手くリンクできるかどうかが成否の要だろう。研究室は休みを取っている人間も多く、誠に静かな一日だった。
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八月十三日 |
五時半起床。富士山の聖徳寺現場へ。小雨模様の暗い朝だ。帰省ラッシュで混雑しそうな最中に動くのは賢くないのは解っているのだが、昼には帰れるだろう。六時出発。途中朝食をとり十時頃現場着。やっぱり10KM程の渋滞に2度程巻き込まれた。現場では鉄工所の面々が仕事をすすめていた。施主も来ていて、二、三打合わせ。十二時半修了。 昼食をとって東京へ戻る。帰りの車の中で二、三アイデアが浮かび森川に伝える。ガラスを厳しく痛めつけて、飼い慣らして使うのを試みる。サントリーニで発見した驚くべき装飾的壁の体験が生かせるかも知れない。ガラスは単純な透明性を持つ物質ではない。明らかに質量を持つ物質なのだから、その事を表現してみたい。 十六時世田谷に戻る。室内原稿書き始める。編集の長井から八月は十三日必着だぞ、と脅迫されているので逃げられない。
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八月十二日 |
今日は大学は全学閉鎖でおまけに停電である。キャンパスに人影は無い。それ故、一番仕事がはかどる希有な一日なのである。十時前、エレベーターも停止しているので、階段で8階の研究室まで登る。七階位から息切れがして、我ながら情けない。一応今日は休みという事にしているが、すでに研究室には三名程が辿り着いていた。今日当然なように休むような人間は見込みが無い。異常な情熱抜きには、私の考えているような建築は出来ないのは理の当然で、そんな事くらいは解っているのは当り前の事である。その異常さというハードルが、遂に解らぬ奴、視えぬ類の人間がいるのだな。そんな時代じゃないと言われればそれ迄の事だが、私はそんな時代とは関係なく生きるぞ。しかし、こんな事考えているようでは今の風潮からは益々浮くな。 水は出ているようなのでトイレに行ってみたら完全な闇であった。手さぐりでトイレの平面図思い出しながら、ようやく便器を探り当て、なんとかクソを排出する。手さぐりでトイレットペーパーを探り当て、手さぐりで紙を切り、後始末。再び手さぐりで、ようやくの事トイレから脱出する。 闇の中のトイレは何とも哲学的場所である。トイレに行くのにマッチかライターが必要である。完全な闇は人工物の中にしかあり得ないのを再び知る。去年もこうだった。光の中で眼を閉じても、まぶたの裏にほのかな光は感じるのだから、それは闇とは異なるようだ。 空調も完全に停止しているので、開け難い窓を開けると、街の騒音がドーッと侵入してくる。人間の身体と外界との関係はまことに不思議なものだ。外界との交信、交接の中で人間は生きているのが良く解る。 十一時北海道の後藤健市氏来室。八階まで歩いて登っていただいた。十勝の建築の打合わせ。基本的にOKとなる。凄い建築が作れそうで嬉しい。十二時過修了。 九州から来ている野本と昼食。野本は佐賀のW・Bワークショップ第一回からの参加者で、連続して研究室の研修生として勉強している。聞けばもう二六才になったそうだ。何とかしてやりたいが、人育てだけは私の力だけではどうにもならない。机上の勉強してもデザインは上手にならない。古い言い方になってしまうけれど、自我とそれを相対化する歴史性そして社会性が三すくみになって回転してゆかざるを得ないようなところがあるのだ。まことに厄介な世界である。簡単に言ってしまえば商売人の感覚と、それをいやしむ感覚が同居せざるを得ないところがある。 しかし、そろそろ本格的な弟子を育てておかないと、私の将来も厳しいものになりそうなのだが。仕方ないか、コレも。
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八月十一日 |
朝猪苗代前進基地のアイデアをスタッフに説明。うなづいてはいるけれど、ほとんど本能的に理解し得ていないのを確信する。呼べど、応えずである。マ、仕方ない。十勝セミナー棟、変更プランの概略積算、作成する。川鉄の担当者が素人過ぎて話にならず、石山研独自に材料費その他を算定。高橋工業にも協力してもらう事になるかも知れない。メーカーの若い人間は随分力が落ちている事を実感する。身内ばかりではないのだ。
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八月十日 |
八時半ホテル出発。九時過ぎ現場に入る。長グツにナタ、カマ、ノコギリの装備。友岡さん張り切って先頭切ってヤブこぎだ。私も久し振りの沢登りの感じで体が良く動いた。鬼沼通い三回目で初めての台風一過の晴天。前身基地の位置決め。三か所の設営候補地から二ヶ所にしぼり、昼前に最終決定した。ソーラーセルシェルターの角度、猪苗代湖への眺望、水その他、理想に近い選択だったと思う。年内に整地、部品製作、来春雪融けを待って、現場作業の段取りとする。十三時猪苗代湖畔でひと休みした後帰京。夜半凄い月明かりだった。
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八月九日 |
朝十一時前、首都高速道路を猪苗代湖に向けて走っている。友岡さん一家と総勢八名。車2台の部隊だ。台風十号が彦根辺りを北東に向けて進んでいる。午後東北地方にまで進むようだ。それでも友岡さん、何が何でも行きたいのだな。 世田谷村の一階の空地の風景が何とも良い。野草がボーボーと生い茂り、人間の背丈を超えている。廃墟ならぬ廃園の趣きになった。只今十二時過栃木市に入った。十八時過ぎ庭園ホテル八景園で一風呂浴びて休んでいる。先程台風の雨の中現場で前進基地のおおよその位置決めをしてきた。山の斜面の方位とソーラーシェルターの角度の取り方が、チョッと計算通りには行かない。今年整地作業をすませて、一月から着工というスケジュールになるか。十勝のアイデアが猪苗代に侵入してきそうな気配がある。ホテルでスケッチ少々。台風は今何処にいるのかな。
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八月八日 |
朝、ひろしまハウス・スケッチ八時過より研究室で。早朝は仕事が進む。丹羽君がHPでひろしまハウスのためのスケッチを公開する事にしたが、私は私のペースでやるしかない。ITは恐いもので、消費の権化だな。夕方、学務を終えて、なんとも砂を噛む。寂寥感に沈む。建築を作り続ける為には先生職は鬼門か。明かに教育は設計実務よりも、文化的価値は上位なのは頭で了解しているのだが、身体、気持ちがその認識についてゆけない。
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八月七日 |
ひろしまハウス、スケッチ。午後小笠原成光氏来室。フーテンのナーリさんである。色々と将来の計画を話し合う。私も筋金ならぬ針金入りの馬鹿であるから、同類の馬鹿と話している時が楽しい。しかし、本当にナーリさんは本物の馬鹿だな。本馬鹿である。うちの研究室は驚いた事に大半の人間がプノンペンあるいはキルティプールでナーリさんに会っているようで、あいさつしろよと一言言ったらゾロゾロ出てきた。彼等は馬鹿ではない。だからつまらない。馬鹿と言われるのが恐い類いの人間だ。つまり、ナーリさんの本馬鹿アナログ馬鹿に対して、仮面馬鹿、あるいはデジタル風間抜けとでも言おうか。デジタル馬鹿はタコツボ馬鹿。仮想現実の中にとじこもる。この人物に関してはいずれ再び長考してみたい。
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八月六日 |
昼前大学研究室へ。終日、エスキス。プノンペンのひろしまハウスの内部アイデアが突如別のスタイルでまとまり始める。ここ数日、こういう事が多い。自己内改革だなコレワ。一気に水屋棟のスケッチ描き上げる。午後遅く、九州忍田勉邸エスキスもまとめて、スタッフに渡す。
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八月五日 |
十時大学、今日は風も無く蒸し暑い。昨日に続き利根町史読み続ける。十三時東大建築木内君来室。チョッとした相談。鈴木博之先生と電話で話す。元気そうであった。十六時半東武造園来室。一日中研究室に閉じ込もっていると体に悪いなコレワ。二十一時前京王線車中、烏山へ。七人掛のシートにわずかに余白があった六人掛けのシートの狭間にもぐり込んだ。
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八月四日 |
十時大学。全体会議。夏休みの大学を利用して初めて世田谷村N棟のJOINTミーティング。ここで頭角を表してくれという私の最期のサービスか。 午後、MEMOの為の原稿、SELF・BUILD、ひろしまハウス書く。十七時終了。遠藤秀平さんという建築家から、エレクタなる出版社から出版された本送られてくる。コルゲートシートをリボン状に造形的に使った作品集であった。鈴木博之さんが作品解説を書いていて、川合邸と幻庵がチョッと紹介されている。素材に対する感性が私とは全く異なる。原理への好奇心が極めて薄く、遊戯性への傾斜がこの建築家の中心であろう。このスタイルであれば、どれ程でも、いかようにも作り続ける事ができる。リボンの結び方、ネクタイの結び方を工夫しているようなものだから。
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八月三日 |
今日は日曜日である。世田谷村の二階でうたた寝をしたり、屋上菜園に上ったり、のんびり過ごしている。良い風が吹き込んでいる。菜園は背の丈に倍する位にのびた草々の匂いが満ち満ちている。唐辛子を少しばかり採る。 午後 ウトウトしたり、村上春樹のアンダーグランドを読み直したりで過ごす。夕方、家内と烏山商店街を歩く。 変な行列が商店街のスピーカーから大音響で流される音楽に合わせて踊っているのと遭遇してしまった。アンダーグランドを読んだばかりだったので、コレワ、オウム真理教かと緊張したが、何の事はない商店街の連中の夏祭りのパレードであった。しかし、商店街文化というのはかくも気恥ずかしく、得体の知れぬものなのかね。オウム真理教の象踊りの不気味さと何ら変わりはない。道の両側から眺めている我々見物人も皆、少し白けて、変な汚物を見ている目であった。烏山にはオウムの残党の拠点もあるのだから、商店街の連中は余程気をつけていただきたい。 麻原彰晃のキッチュ好み振りは、激しいものがあった。教団幹部達のユニフォームのカラーやデザイン、その他街宣パフォーマンスの凄惨なお下品振りは漫画文化をデフォルメしたような趣さえあった。村上春樹が指摘するように、それは我々が意識して目をそむけなければならぬ類のものであった。ワイマールのヒットラーの比ゆを村上は用いている。確かにヒットラーが好んだというワイマールのエレファントホテルのテラスでの演説の舞台はある意味ではヒットラーが嫌ったバウハウスの近代デザインとは異なる、ドイツ文化の歴史的なニュアンスを含んだ、伝統的文化が産み出した都市の風景だった。(ワイマールは日本では京都・奈良の如き都市だ)ワイマールのヒットラーのパフォーマンスにドイツ民衆はたやすく扇動され、知識人は無力だった。 烏山商店街の夏まつりにギョッとして、村上春樹のアンダーグランド、そしてワイマールのヒットラーまで思い起こすのは、はなはだ無理もある。しかし、例え商店街の夏まつりであっても祭りは祭りだ。儀式である事にちがいはない。その儀式の異常なキッチュ振り、脈絡の欠如振りは、チョッと麻原彰晃を思わせるモノがあるな。戦後半世紀ズッーと銭金だけでやってきた商店主達のお里は要するにこれ位のものだと言う事だ。ダイヤ・スタンプを生み出し、美容院の数が都内有数とも言われる烏山商店街の商人達の文化度は、かなり痛切にもの哀しいものではあるな。
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八月二日 |
気だるい土曜日である。晴れなのか曇りなのか解らぬような天気だ。川合健二から天候の変化は何故起きるのかについてエネルギー保存の法則から説かれた事を思い起こしたりしてみるが、要するに水の問題なのだ。水が水蒸気になり、雲となる。雲が微妙に太陽の日照時間他を変化させてしまう。それが天候の変化になる。水は水蒸気として、もう少し論理的一貫性を持ってくれなくては困るじゃないか。天候が微妙に変化して予測もつかぬと言う事で、どれほど我々の生活が影響されているか計り知れぬものがある。変化と言うのは天候であってもエネルギーの運動そのものが表現されているわけで、人間の生活はその運動と共にあるもう一つの運動、あるいはささやかな振動のようなものだ。シェルターというのは、それでは何か。二つの性格の異なる運動を仕切る壁なのか、フィルターなのか、それとも単なる屋根でしかないのか。フィルターくらいのレベルのものは猪苗代で作ろうと思う。 午後十勝ヘレンケラー記念塔の付属セミナー棟の、まとめのエスキスをしていたら、突然別のアイデアが生まれてしまった。積算も出て、盆明けには土工事にかかろうというスケジュールなのに困った事だが、どう考えてみてもこのアイデアの方が良いのだ。丘の上のノアの方舟のようなもので、開拓者の家を大きくして、半分にカットして、上半分をデッキにして、そこにガラスのシェルターを架けるというもの。0シェルターと猪苗代のアイデアが合体したようなモノだ。大急ぎでスケールを入れて本格的な検討を始めた。コレでゆくしかないな。N棟に引っ越してきた柴原にアイデアを説明して図面にするのを頼む。十六時半頃。マ、しかし、こういう事があるから設計は面白いのだが、金もうけにはならない。設計図はほとんど全部出来上がっているのに、頼まれもしないのに全て捨ててやり直そうというのだから、頭がおかしいと言われても、誠にそうですと言うしかないね。メールをチェックしていたら、何と驚いたことに、自業自得大明王からのメッセージが入っていた。誰かのいたずらにしては念が入ったもので一時を楽しんだ。地獄の二丁目のITカフェからだという。勿論へべれけの文体でその酔い乱れ方が中々エレガントなのだ。佐藤健の知人を幾たりか思い浮かべてみたが、こんな文体ねつ造出来る人物は思い当たらず・・・・・。まさか、本物かこれは。ついにITは地獄との交信も可能にしたのか。以下に恐らくは念の入ったいたずらに違いない文面の一部を記す。 「地獄圏二丁目幽界東郵便局裏のもぐりのITカフェ「花一文目」から送信です。こちらに来てから早、半年程になる(実際には七ヶ月)。死んでみれば何と他愛のないもので、こちらはそちらの世界と何変わらぬ鏡世界のようなもので、チョッと明度が足りぬ位で、しかもこれは発電所のスタイルが古いだけの理由。生きている時に附合っていた奴は皆当然のような顔をして皆居てやがるんです。みんな、みんな写るんです。コッチの人はみんな写真好きでねェ。それでも大歓迎されると思いきや、誰も驚きもせず、無愛想なこと、面々である事おびただしい。しかも死んでみたら、遊びでつけた戒名「自業自得大明王」がこちらでは大変な話題になっていて、六ヶ月程連日TV、新聞、週刊紙に出ずっぱり。休むヒマもない位。つい先週も志ん生、枝雀と二時間のトーク番組に出たばかり。枝雀はこちらではウツも消えて、本当明るくなって。笑いの巨匠二人を相手に、それでも何とか受けてやろう、受けたいと願うばかりに頭を使い過ぎて、今は少しばかりグッタリ気味で、酒もついつい飲み過ぎで、酒といえばこちらの酒には銘酒というのが無いの。どういうわけか、みんな一律の二級酒。これでは、こちらでも又、病気になってしまいそうな感じの今日、この頃です。・・・・・」 かくの如きいたずらに手持の時間を割いてくれる御人がいるだけでも嬉しいが、もし出来得れば、こんないたずら、度々やっていただきたいものだ。手の込んだ事に地獄に行った佐藤健氏とやらは、思い立って亡者の幾たりかの幽界インタビューとやらを近々始めるとも言っている。そんなところもまっことじっとしていられない佐藤健らしくて、この遊び人は相当な粋人だと思われるが、正体明かさず、しばらく遊んでやっていただきたい。私も退屈な日々だから。
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八月一日 |
十時大学院最終レクチャー。午後二、三件打合わせ。今日から日記の形式を変えるトレーニングをする筈なのだが、事実(現実)と非現実が混濁したようなスタイルにしてみようかと考えている。 アポロ十三号の故障についてのゼミの報告を聞いている。猪苗代湖鬼沼前進基地計画は宇宙船の設計と同じようなものだ。宇宙からのエネルギーを受容して、それを人間の為のエネルギーへと変換する。太陽光、風、水のエネルギーの備蓄および宇宙船状のミニマム・スペースの接地装置のデザインを考案中なので、アポロ十三号の事故の件がとても気になっている。何故ならば自然との共生がテーマではなくって、閉鎖されたシステムが故障したのを治癒することからうまれる進化した形式が考えられぬかと考察中だから。 建築が最小限の重量によって達成されるならば、基礎という形式も変化するだろう。本当に軽量化された建築はその表現を一新するに違いない。
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2003 年7月の世田谷村日記
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