石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2004 年1月の世田谷村日記 |
十二月三十一日 |
十九時半磯崎新宅。年越しの会。うまいシャンパン、うまいワインで、今日はついつい飲んでしまう。田中純夫妻ともワイマール以来の再会。渡辺真理さんに友美の件の御礼を申し上げた。小嶋君夫妻も同席。愛子さんも上機嫌であった。最後に飲んだ一九二九年の酒が飛び切りにうまかった。磯崎さんは元気だ。まだまだヤルなあの調子では。
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十二月三〇日 |
十一時、研究室第一期生北園徹来室。来年から時々研究室の会合に参加させる積り。一期生が巣立って十二年経った。一巡りしたの感あり。再教育する必要を感じている。デービット、アベルと打合わせ。夕方、前橋で群馬県左官業連合会の面々と会食。森田兼次、長谷川哲ちゃん中沢君等と会う。忘年会となったが職人さん達と一緒にいると楽しい。新宿で飲んで深夜世田谷村に戻る。
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十二月二九日 |
九時半五反田で森川と待ち合わせ。TRCのトモコーポレーション十時。社長、専務、物流コンサルと新木場の倉庫+オフィスの計画打ち合わせ。共に芝浦倉庫、新木場の敷地見学。青物市場近くで昼食。打ち合わせ終了は十五時前。十六時研究室戻り。NHKスタッフと正月五日の番組の打ち合わせ。十七時修士論文・修士計画ゼミ。十九時馬場夫妻来室。調布の住宅の相談。五件程の住宅設計が同時進行となった。
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十二月二八日 日曜日 |
世田谷村二階で飼い始めたウザギのバカさ加減は困りものだ。トイレの場所を教えても教えても覚えられず、カサブランカという名の洒落たソファーの上で必ずクソをするようになってしまった。カサブランカどころではない。クソブランカだ。このウサギを見ていると、ハッキリしない学生や愚鈍なるスタッフを思わせる。指扇の家、午後行ってみたら座敷童子が二人宙に浮いていた。その形を少し手直しした。マ、安藤もスレスレのところでハードルを越えたか。この珍妙なる座敷童子が居るのと、居ないとでは建築の価値がまるで違うのだ。その事に気付くか、気付かないかは本人の感性だから、そこまでは教えられない。しかし、年末ギリギリのところで小品だが、マアマアのモノを一つ残せて良かった。
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十二月二七日 |
十時研究室。十時半藤井さん親子来室。三ノ輪に四代の混成家族の住宅を建てたい方。十一時半迄相談に乗る。十二時半地下鉄千駄木駅にて馬場照道、毎日新聞滝カメラマンと待合わせ。山崎さんの寺にて佐藤健一回忌の会。今朝降った雪がまだ消えやらぬ千駄木を歩く。健の会には大勢の人が集まっていた。読経、焼香の後、宴。毎日新聞の顔なじみの連中に久し振りに再会。照道に仏教伝道協会会長沼田智秀氏、常務理事高島氏に引会わせてもらう。佐藤健の手引きであろう。早稲田野球部OBの六車と一月に高田馬場源兵衛で、ウチの馬鹿息子雄大と野球部の面々と会食しようという事になる。大住広人とも神田の岩戸で新年会やろうと、健を懐かしむ輪は仲々とけない。アイツの人徳だな。後髪引かれながらも十七時去る。十八時大学へ。十九時高山さん夫妻子供連れで来室。夫婦で考えたプラン見せてもらう。これも一月中旬にプレゼンテーションという事になる。中里和人氏の指扇の家の撮影は大分前に指示した座敷童子の照明が手をつけていないのが判明したので延期。担当の安藤が鈍いのか、ただの凡愚なのか、買いかぶりは禁物だな。明日迄様子を見よう。二十二時世田谷村に戻る。
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十二月二六日 |
九時過、歯の治療の為昭和医大へ。なんだかこのところ医院巡りだな。十三時大学。留守中の手紙・メール類はとても一日では整理できない。十五時過M14名の進路相談。十八時世田谷村に帰る。
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十二月二十五日 |
八時半起床。世田谷村の二階から眺める風景は上海のそれとはまるで違う。空気も澄んでいて、上海と比べれば清々しいのだが、力はない。アメリカにおける南北戦争の如きが起きなければ、二十一世紀は中国の時代になるのは明白だな。上海に仕事の拠点を移しても良いなと、我ながら、とんでも無い事を考えている。井上馨、伊藤博文等の上海体験、そして高杉普作等の維新の志士達の上海体験は、日本の明治維新に少なからぬ影響を与えた。今、上海は別の意味で我々に刺激を与える。グローバリゼーションそのものの意味をまざまざと眼に見せてくれるのだ。高杉普作は往時上海に停泊していた数百槽の列強軍艦を目の当たりにして、危機感をつのらせた。歴史は再び繰り返しているのではなかろうか。グローバリゼーションは資本の自然主義である。コレに対する一粒の種が必要だ。十時過杏林病院へ。病院へ着いて時計を見たら十二時前で、ビックリ。そうか上海東京には一時間の時差があって、私の腕時計はまだ東京時間に修正していなかった。採血、採尿して、その結果を待ちながら、二名の医師と一人の相談医と問診。良くなっているそうで、安心する。十六時前新宿。指扇の現場へ。#5朝山邸はほぼ出来上がっていた。細かいところに問題はあるが、全体としてはマア良いだろう。洗練されているし、生命力も失ってはいない。今年の研究室の仕事ではベストだな。GAの二川幸夫に現場から電話して、見てもらう事にした。拾いモノかも知れぬコレワ。二十一時過世田谷村に戻る。原木状態で木を使う方法はもう何回か試みるつもり。藤森照信に御礼を言わねばならんな。
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十二月二四日 |
六時起床。荷物をまとめて、参加者全員のチェックアウトを済ませて食堂へ。野菜まん頭。中華風ケーキ(ゴマまん頭)。TAXIでスタジオへ。渋滞で小一時間かかる。八時過ぎ最終クリティーク。第一グループ、セルフビルド・イン上海。女性二人の頑張りで仲々の水準のものが仕上がった。サンパウロ大学のマリア・セシリア・ドス・サントス教授に作品をまとめて送り、批評をもらうように指示。又、リオデジャネイロのガブリエラにも送るように指示した。良い努力に対しては良いオペレーションをしなくてはならない。横浜国大の青年も、何かを得たかも知れない。第二グループは早大三年のデザインエリート・グループ。まだまだ子供で、私が何を言っているのか的確につかんでいない。無理もない。まだまだ保護してやらなくてはならぬな。逸材が居るかも知れぬから、ゆっくり育てよう。バウハウス大学のデービッドが体調を壊し抜けてからやっぱり具合が悪い。第三グループは石山研の四年のましな奴等。チリから来ているアベルも含めて、スタジオG上海の再生計画に取り組ませたがまだ無理だった。しかし、エネルギーはある。他は典型的な日本の水準の学生の質を超えられていない。このスタジオG上海の中枢は教師も学生も国籍その他混成部隊である事なのだが、学生はそれに対して直観を働かせられないでいる。勿体無い。台湾から来た学生も、香港から来た学生も、うまくいっていない。昨日の会食で同済大学の建築学部長が、トップクラスは皆女学生になってしまったと言っていたが、エネルギーのある男の子は皆何処かに隠れているのだろうか。広島の木本君のプレゼンテーションにはきちんと附合っていく積りだ。十三時全ての講評を終了。李祖原、J・グライター、難波和彦各先生にお礼の言葉を述べ、この大きなスタジオを好意で貸して下さった登さんに感謝の気持ちを申し上げ、上海インターナショナルGスタジオは全てを終えた。私なりに充実した十日間であった。この活動は建築として、形にして残す事は出来ない。しかし、少しづつ確信は芽生えてきている。無駄ではない。気持ちの命じるままに動こう。李祖原に送ってもらい十四時過、上海空港へ。十六時五〇分の中国国際航空CA919でNRTへ。二〇時過NRT着。難波さんと一緒にリムジンバスで新宿へ。只今二十二時四〇分京王線車中。二十三時過世田谷村に戻る。
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十二月二十三日 |
七時半起床。上海十日目。十時Gスタジオ。午前中、李祖原に頼んで龍華寺に連れていってもらう。大慈大悲殿というのか、の堂の裏側に、黄色のマントをまとった観音菩薩が居て、これはマリアそのものであった。観音信仰とマリア信仰は何処かでつながっているものなのだろうか。刺激的で、コレは夢中でスケッチをした。十三時鄭時齢中国建築学会副会長、講義。日本には居ないタイプのエレガントなコスモポリタンだな、この人物は。上海の都市計画、建築計画のトップで数々の国際コンペを仕切っている。講義も実に知的にバランスがとれて、見事なものであった。十四時前修了。学生の仕事を見て廻る。十八時宿舎へ。十八時半同済大学ホールで、J・グライターの講義。「東西文化の交流点としてのテーマパーク」同済大学学生多数聴講。講義修了後、鄭先生、他とディナー。海鴎濱江観景餐應。上海の夜景を一望の許にする、テラスの上の屋形船みたいなレストランであった。レストランのオーナーの黄永源氏は登さんの友人で十日間ズッと附合ってくれた人。食後、再び登さん宅におじゃまする。二十三時過散会。二〇〇四年の上海スタジオは周到に準備してワークショップの可能性を探る。
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十二月二十二日 |
七時四十五分起床。八時半ロビー。スタジオ十時前。難波先生レクチャー十時半。サスティナブルな箱の家。建築の四層構造の自説から始めて、百例になんなんとする箱の家の事例を引きながらの講義であった。積み重ねの迫力が出てきているナァ。学生からも先生達からも沢山の質問が出た。十二時半、弁当を喰べて、十四時、上海博物館に再び、難波さんと出掛ける。青銅器の展示がやっぱり私には群を抜いているように思えた。博物館のティールームでシュークリームとコーヒー。十七時過スタジオに帰る。上海の空は相当汚染されている。今夜のレクチャーの準備をする。規則正しい生活をしているのだが、なんだか疲れるナァやっぱり。百数十枚のスライドを講義用に用意していたが、五〇枚しか写せない事になったので、スライドを組み直す。十八時半登先生レクチャー、彼の仕事は彼のライフ・スタイルの外延、つまり表現になっているところが面白い。アートとインテリアの境界線上にある。しかし、方法的概念に対する意識がうすいように思った。趣味の水準は高い。二〇時過、私のレクチャー。転形期の建築について、日本建築の重源様式(大仏様)についての考えを述べた。それが二一世紀の始まりである今と重なっている事についても。特別な日本建築の事例、場所の意味が明解に解る建築についても。つまり、歴史的現在と、場所をリメイクする事が建築デザインの新しい意味である事等。かなり率直に述べたのだが、学生は理解できただろうか。二十一時半修了。二十二時、遅い夕食をとる。二十四時前宿舎に戻る。難波さん、グライター共にかなり強い酒を呑んでいささか酔っている。私は今回は自分でも驚く程に自制している。当り前な事だけれど。ワークショップはあと二日を残すまでに辿り着いた。今日は三本のレクチャーを得て、充実していた。
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十二月二十一日 |
七時半起床。空腹感無し。今日は難波先生が上海に来る。初めての上海スタジオであったから、何が起るか解らない。それが少し不安で磯崎さんにも鈴木さんにも、正式には来上海を依頼しなかった。両人共に何かこちらでして頂く仕事を作らねばならならぬと考えたからでもあるが、難波さんには甘えさせていただいた。しかし、中国で何かやるのに李祖原とグライターそして日本人の組み合わせは仲々に良いのも解った。上海へのドイツの入り方は尋常ではない。八時半ロビー、食堂へ。今朝は少し食べた。九時半スタジオ。学生達の相談に乗る。自分の進路も決められぬような学生の相談は困難である。泣き出す奴がいてあきれ果てる。学生の知的階層性は明白になっている。が、気力も知性に含まれるからナア。私のところの四年生に馬鹿が多いのには困った。十三時過難波先生スタジオに到着。十四時過、昼食へ。上海市新天地総店、百草伝奇。あてずっぽうに入ったところだが、これはおいしかった。スタジオに戻り、休む。夕食は登先生を招待して天平路の吉士酒楼へ。李祖原に連れてきてもらったところ。再びなまこのデッカイ奴を頼む。難波さん、良く喰べていた。二十二時同済大学宿舎に戻る。アト、私が上海に居られるのは残すところ、三日となった。明日、午前中にスケジュールを伝える。明日は、十時半に難波さんのレクチャー。十八時半に登先生レクチャー、二〇時石山レクチャーの予定。J・グライターのレクチャーは二十三日十八時半同済大学とする。ファイナル・クリティークは二十四日八時〜十三時迄とする。明日は食事を少し控えなくては。中に入り込まなくては上海も面白くはない。中と言うのは勿論、人間関係の壁の中という事。
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十二月二〇日 |
上海に来て一週間になる。七時半起床。どうも体がすっきりしない。気温の変化についてゆけぬ感あり。今日も一日楽しくやろう。今日から劉建輝の「魔都上海」読み始める。八時半ロビー。食堂へ。九時TAXIでスタジオへ。十時半、中国雑誌インタビュー。十一時半了。十二時昼食。今日は何だか体調がベストではない。満足に喰えないのだから無理もないか。これからはズーッとこんな調子なのか。食後一時間半眠る。かなりぐっすり椅子で眠った。十五時半過スタジオG中間発表会。十九時過修了。国連ハビタに関係している二十九才の女性とボスニア・ヘルツェゴビナの支援活動をしている女性二人が今回のワークショップでは出色だ。アトは早大三年のデザインエリート・グループと石山研のアベル、デービット、ホセ等が水準に達している。それが一週間で明快に解った。この人材をどう生かしてゆくか、石山研の将来を左右するかも知れぬ。二〇時、ガーデンホテル(ホテルホークラ)で広東料理。李祖原が陽明山に行ってしまったので、初めて自力でレストランを探したのだが、最悪の結果となった。日本人観光客が多いレストランは料理の質が実に悪い。二十二時同済大学宿舎に戻る。カゼ気味で調子悪い。熱い風呂に入って早く眠ろう。眠るには読書が一番。
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十二月十九日 |
七時十五分起床。レースのカーテンが揺れている。すき間風が吹き込んでいる。スチールサッシの出窓で、ガラスが割れているので無理も無い。今日は土曜日か。早稲田大学内、佐賀、プノンペン、キルティプールとワークショップの場所は放浪している。上海は何かリアリティがありそうだ。私にとっても負担が少ないし、李祖原グルーブとのコミュニケーションもより得られそうに思う。思えば李との附合いも二〇年以上になるな。八時十五分、宿舎ロビーへ。八時半朝食。セロテープで歯がグラグラしているのを止めて、飯を喰うのだから容易ではない。九時TAXIをつかまえて、スタジオへ。道が混雑していて約一時間かかってしまう。TAXI代は安くて助かる。学生達もそれ程の負担にはならぬだろう。十時半より李祖原レクチャー。上海周辺のプロジェクトに関して。学生から沢山質問が出て良かった。石山グループ、上海研究G、スタジオG計画、セルフビルド・イン上海Gの相談に乗る。優秀な学生の指導は楽しい。昼はスタジオ・オーナーの配慮でギョーザ作り大会。学生全員、私もグライターも、ギョーザ作りに参加、面白い。昼食はそのギョーザとダイコン(?)野菜スープ。コレが実に美味であった。午後は上海研究グループにファルス上海ガイドブックを作るようにアドヴァイス。彼等なら出来るだろう。能力のある人材には高度な事を課さなければいけない。この課題は実際に本にしてみようと思う。十六時過藤森研の白さんが、飛んできて、下にポリスが来ていると言う。何だ何だと降りてみれば上海ポリスマンが七、八人制服姿でモノモノしい。外国人が沢山出入りしていて怪しい、と踏み込んできたらしい。事情を説明して納得してもらい、握手してお引取り願った。気をゆるめてはいけない。異なる政治体制なのだから、日本に居るように、ボケていたら危ないのだ。十八時ディナーの為にスタジオを出る。李が案内してくれるレストランはいずれも素晴しい。今日はヨーロッパ風の中華料理で、歯の具合は良くなかったが、それでも大変美味であった。私と李は酒を飲まないので、どうしてもグライターが一人で飲む羽目になり、体に負担をかけてしまう。お金はどうしても李が払わせない。彼は明日の午後から陽明山(我眉山)の頂上の寺院のプレゼンテーションで二日不在なので、帰ったら、難波さんと一緒に私がディナーに招待しよう。かと言って、どのレストランが美味いのか、皆目見当がつかぬ。二十二時前、夕食了。二十二時半頃、同済大学宿舎に戻る。今日は早かった。風呂にとっぷりとつかり、洗濯をする。二十三時半ベッドに入る。今日で「仏教が好き」読みおえてしまおう。
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十二月十八日 |
七時起床。又、小眠。八時半再起床。九時食堂で食事。おかゆだけ。タクシーでスタジオへ。学生が一人増えて、総勢四十二名になった。上海の四十五人乗りのバスに丁度一台分である。来夏は総勢百名のワークショップとしたい。この状況ならば可能である。十時スタジオ着。十名程の学生の課題を決める。それぞれの学生の力量に応じてオリエンテーションする。デービッドと早大3年の優秀な奴等のコンビネーショングループのプレゼンテーション、十時から。面白いプレゼであったので、グライターも李も、上機嫌でクリティーク。このデザインエリート・グループは明日解体させて、個々人に戻す。十二時前、広東在住の浅野氏イトン工場(?)の女性二人伴ってスタジオに来る。李、グライターと一時間程のドライブで工場へ。上海東方の工場地帯である。イトン工場は極めてラフなものであったが、値段は人件費の安さから競争力のあるものになっているようだ。技術的には見るべきものは少なかった。配島工業の社長一行とすれ違うようにして、ギリギリ五分程会った。十六時過、南京西路の李祖原事務所を訪ねる。上海の一等地の、自作の高層ビルを対岸に眺められるビルのフロアーに構えていた。いかにも李らしい。マネージャー、スタッフの幾たりかを紹介される。リチャードとも会った。二〇年前の台北の彼の事務所をほうふつとさせた。これから中国全土を制圧してゆくのだろうか。紙コップのコーヒーを飲んで、すぐに再び町に出る。低層のコロニアル・スタイルの住居群を見て廻る。非常に独特な感じの建築群で、ノスタルジックな上海らしさを初めて感じる事が出来た。ハイウェイを走っている時に感得するハイライズ群のシルエットの上海と、この低層上海コロニアル・スタイル住居群の相克は実に面白い。又、デザインの質も良いモノがある。しばらく歩いて、楽しむ。その後、上海の原宿通りみたいな(スケールは全く違って、こちらの方が勿論大きい)通りを車で走り、最も今、話題だと言う、旧い建築を生かした、コマーシャル・コンプレックスの一角を訪ねる。恵比寿の巨大な奴だ。東京のこの側面での成果はすでに上海に追い抜かれているのを実感する。これならば、上海で仕事をした方がいいじゃないか、特にコマーシャルな物件は。日本料理店、回転寿司、その他日本のモノも数多く見られて、東京には見られぬアナーキーさがあって良い。夕食の時間まで時間があるので、一軒のBarに入り、白ワインを飲んでしまった。イケナイ、イケナイ。アンと合流して中華料理の夕食。これはおいしかった。特にナマコのでっかいのがいけた。ちょっと喰べ過ぎたか。三十九度の強い中国酒も小さい盃に二杯飲んだ。中国で節酒、節食は非常に難しいのは当然だが、意志が弱いんだよな。十時前修了。学生にと思い、大量に残った食事を全て、ケータリングしてもらう。十時二〇分宿舎に戻る。明日はスタジオにゆっくり滞在して、上海計画をデザインしよう。
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十二月十七日 |
流石に今朝は寝過した。八時十五分起床。あわてて仕度して食堂へ。八時四〇分朝食をすませて、TAXIでスタジオへ。それぞれの学生がそれぞれの能力に応じて作業している。スタジオG計画グループに竹で天井を作るように指示。一本十元(カットして)日本円百三十円。で八十本購入、七名で作業させる。コレは良い成果を得た。十八時過プレゼンテーション。グループ毎に。上海スタジオをセルフ・リビルドしたグループ、アベル等のプレゼンテーションが良かった。二〇時過修了。夕食はスタジオのスタッフ、李、グライターと南国酒家で。歯の調子が悪く、あんまり喰べられなかった。健康には良いだろう。十一時頃宿舎に戻る。FAXが幾つか入っている。室内の最終ゲラ読む。よいレイアウトだ。満足。今晩は少しゆっくり本でも読もう。上海ワークショップは今日で三日目、良い成果が得られるかも知れぬ。学生の質は石山研メンバーを相当数参加させているので、これ迄のワークショップとは格段に良質になっている筈だ。どうかな。
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十二月十六日 |
上海Gスタジオ、二日目。まだ二日目とは思えぬ位に昨日は沢山の事があった。七時十五分起床。上海の空は今日もクリアーではないが天気は晴。今日も昨日作った私の上海プロジェクトを進める為のチームを特別に作る。他に三つのチームを作り、共同設計とする。 八時朝食。李、グライターと共に、九時同済大学へ。常青、建築系主任教授レクチャー。同済大学レクチャールームにて。中国建築の文化的ルーツに関して。上海のハイライズビルディングのスタイルはパゴタ(ストゥーパ)のスタイルと関連があるという、いかにも中国人らしい説が興味深かった。十一時半迄、レクチャーの後の質疑応答が続いた。十二時過、スタジオGへ。昼食はカレーメン。今日は穏やかな日和で気持ちものんびりしている。十三時チーム作り。李祖原チームはハイライズ・コンプレックス。グライターチームは上海テーマパーク。石山チームは上海のシルエット研究、及び上海Gスタジオ。十五時チリから来たアベル・エラソに喰い下がられ少々往生する。上海周辺で仕事を得たら、登さんの、この大きなスタジオの一角を使わせて頂く事にしたい。二、三学生の相談に乗り、十八時頃スタジオ発。登さん宅でのディナー招待を受け、李、グライターと共にBund沿いの家にうかがう。旧日本大使館の四階建の建築(いわゆる洋館)の四階と三階のフロアーを一部住宅に改装している。ぜい沢と言えば、これ程のぜい沢はない。日本の建築家が設計したと言うが誰だろう。上海TV塔から、川沿いの旧市街まで、名高い上海の夜景を一望の許にしている。インテリア・デザインはこれ程の事が可能な位に、もうかるのかと思った。上海ガニをごち走になったが、私は少々ひかえ目にした。九名程の会食だったが李と私を除いて、皆良く喰べた。中国のアンティークが、手際良く室内に置かれていて趣味は悪くない。李祖原の長男リチャードに十三年振りに再会する。もちろんすっかり大人になって、たくましくなっていた。李の上海事務所を切り盛りしているようだ。医者から止められてはいるが仕方無い老酒を盃に四、五杯飲む。珍らしく李もつき合った。二十三時前修了。同済大学宿舎に二十三時過戻る。外はひどく寒い。熱い風呂に久し振りに入り、洗濯、洗髪をする。記録を記して二十四時寝る。
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十二月十五日 |
七時起床。上海Gスタジオ初日。晴だが薄く高い雲がかかっている。部屋は暖房がきいているので、外の気温は解らない。八時前五〇メーター位はなれたレストランへ。簡素なセルフサービスの食事。学食の小振りなものだな。同済大学は上海市内の広大な大学でまだ全体はつかめない。頭の傷は、鏡を見たら、もうほとんど跡も消えていた。あの大騒ぎは何だったのだろうか。ともあれ今朝からの上海Gスタジオは手を抜かずに精一杯努力しよう。十日以上酒を一滴も飲んでいないので体調は素晴らしく良い。でも、酒はやめられないだろうな。九時大型バスに参加者四十一名+先生その他同乗して、スタジオへ。交通が問題だな。渋滞は東京同様。スタジオ着、即日課題の説明及び上海スタジオのプログラム説明。今日のスケジュール説明。その後Bundへ。上海を代表する独特のエリアで、大河とハイライズビルディングのシルエットそして上海の面影がミックスしている。プードン地区のハイライズ群をバスで廻って上海国立ミュージアムへ。十一時五〇分。一時間見学して、スタジオに戻る。十三時半。只今十四時一〇分昼食のスタジオ手製の本格ラーメンを喰べて一息入れている。フランスの雑誌が私の建築の取材に訪れる。 上海ミュージアムは李祖原が言う通り一Fの青銅器の室が素晴らしい。BC十八世紀−十六世紀の酒器を幾つかスケッチして時を忘れた。夏代晩期のモノだ。古代人は死者と共に、そして動物と共に生きていたのが良く解る。酒器は足が生え、カタツムリの如き目玉まで作り込んであり、ショーケースの中で、今にも動きだしそうな形態をしていて、驚いた。日本古代の土偶にも似た生命感がある。モダーンなモノが失ってしまったモノである。 学生四十一名は二階、三階に分かれて、それぞれ席を占め作業を始めた。ワークショップは始まりが大事だから。七時頃にプレゼンテーションさせよう。一人五分間として二百分。三時間半のクリティークになる。 実は来年からの私のスタッフ発掘の目的もあり、一週間で目星を付けたい。べーシーの菅原からのFAXを渡される。高頭祥八が死んだらしい。伊豆松崎町の時計塔の鳥の絵の作者である。十五時上海TVタワーと夏代(BC十八世紀)のブロンズスカルプチャー(飲酒器)のフォルムに触発されて、タワーの再生計画のアイデアが生まれる。アイデアスケッチ六枚プラス三点のスケッチにまとめる。上海のメディアに発表するチャンスを作ってみるつもり。二〇日に中国雑誌及び建築家達のインタビューの予定はいる。十七時前、作業終了。小休。学生達もそれぞれの作業を進めているようだ。 場所が変わるとスケッチも代わる。という事は人間の考え方は場所(時間を含めた)によって随分左右されるのだな。十八時半、J・グライタースタジオに到着。ベルリン・ウィーン・ナリタ経由のロングトリップである。十九時、四十一名の学生の一日課題の講評。上海バンドリバーサイドに君自身のショールームをデザインせよ、の課題。作品の質のバラツキが大きい。何人かのモノは大変良い質を持っている。バウハウス大学のデービット、早大の三年生三名位が目立った。二十二時過講評修了。最後に私のアイデアのプレゼンテーションをやって、初日の作業の全て終えた。李祖原、グライター、共にナイスクリティーク。お茶を飲んで、余りの空腹の為夜食へ。夕食抜きだったからね。私は食事制限を言われているので、酒は飲まず、スープとラーメンと野菜のみ。大食であった自分が信じられぬ位の小食である。十二時過宿舎に戻る。幾つかFAXが入っていた。室内ゲラチェック。一時修了。今日は私も一つプロジェクトを仕上げたので、マ、充実していた。一時よりそれぞれの学生の次の課題を作る。一時四〇分修了。
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十二月十四日 日曜日 |
六時起床。上海のための荷作り。朝食。七時二〇分、安藤、車で来て、指扇の現場へ。八時過アッという間に現場着。森田兼次さんが、すでに来て待っていた。森田さんと仕上げの打合わせ。達人は細かいところまで気付くので手が抜けない。内、外共に入念に見て廻り、諸々の打開策を指示する。今、研究室では四つの住宅の現場が仕上がりつつあるが、この指扇のモノが頭一つ抜けている。問題は多いが、内外共に独特である。吉坂隆正のヴィラ・クークの木造版かな。藤森照信の手をわずらわせて、ワザワザ、遠くから大径の栗を運んできた甲斐があった。ここしばらくの石山研の住宅では良い。自慢したい。生命力がある。太目の木を製材せずに使ったからだけではない。十九時半新宿、本八幡を経てNRT第二ターミナル。只今待合ロビーに辿り着いて休んでいる。三〇分「仏教が好き」読もう。十九時前離陸。二十一時過上海着。地上気温三度Cというから少し寒いな。李祖原が空港まで来てくれていた。小さなマイクロバスで早速ワークショップ会場の登先生の倉庫改造のスタジオの下見をする。ハイウェイを走り、辿り着く。上海は東京よりも人口があって、今は千六百万人位。年々増えているようだ。とても歩いて廻れるようなところではない。スタジオ会場は大きくて、日本ではとても得られぬようなところ。昨日東京で会った登さんにも再会する。三部屋程を借りて、教室、及び作業場とする。明朝、まわりの状況は見る事として、一時間程で同済大学専家服務中心、つまり宿舎へ。三階三一三を割り当てられる。少し古いけれど、ゆったりとして立派なものだ。頭に裂傷を負って、約十日振り位に、頭を洗う。良くアワの立たぬシャンプーであったが気持良かった。シャワーは急に熱湯が吹き出たりで危いものだったが、何とかやれるだろう。ぜいたくは言えない。十二時過ようやく、くつろいで二十五日までのスケジュールを再考する。一時四十五分、スケジュール組み立て直し終る。ハードだが楽しいワークショップになりそうだ。チョッと凄いスケジュールを考えついてしまった。
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十二月十三日 |
五時十五分起床。全く眠れなかったので、ボーッとしている。五時半森川世田谷村来。富士ヶ嶺聖徳寺現場へ。薄闇の中に富士山がニョキッと見えている。中央高速を走り、途中、国民休暇村で朝食バイキング。国民の味であった。八時過現場。ガラスの納め方を森川に指示。工事は上手くいっている。ガラスをギクシャク納めて、宝石状の光を得るのが目的である。富士山、南アルプス、北アルプスが一望の許であった。ここの冬の風景は良い。森川を現場に残し九時前、現場発。十時三〇分杏林大学病院着。十一時過検診。頭に残る最後のホッチキス二ヶ取り除く。もう風呂に入って良いとの事。頭の外傷に関しては、もう来なくて良いとの事である。十三時過研究室。室内原稿書く。書き終わったら室内の長井が来室。何か示し合わせたような感じだ。初回は前口上となった。十七時上海より登混艶氏、A&V馬衒東氏、藤森研白さん来室。明後日上海でお目にかかる人物である。上海でのレクチャーの準備をして、十八時三〇分高山夫妻と子供二人来室。一回目のプレゼンテーション。安藤も少し役に立つ様になった。小さな模型を持ち帰っていただく。立体コートハウスである。二十時頃修了。ひろしまハウスのモデルを見たいと言うので、説明する。二十二時前、世田谷村に戻る。今日は良い天気の一日であった。昨日のNHKの取材はわざわざ最悪のコンディションを選んだようだ。
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十二月十二日 |
七時半起床。今日はNHKの正月番組のTV撮影が世田谷村に入るので、三時間程時間を取られる。八時前NHKスタッフ来る。すぐに取材開始。十一時半迄かなりみっちりやる。家内も九時迄取材に付き合う。午後の取材は家内に任せる。十二時新宿西口で森川より図面を受け取り、羽田へ。四時半ANA255便で福岡へ。福岡は小雨らしい。十六時過福岡空港着。忍田さん空港まで迎えに来て下さる。御主人の会社、KKカンサイが空港の近くで、その一室で打合わせ。まだまだ細かいところはつめて行かねばならないが、大筋で、辿り着いた今回の案でOKと言う事になった。喜んでいただいているようで、私も嬉しい。住宅設計のダイゴ味だね。忍田邸は私の建築の中では、再び言うが、スタンダードを目指したい。十九時前、やま中で夕食をごちそうになる。やま中は磯崎さんに良く連れてきて頂いた寿司屋でやっぱり、上味い。オヤジも覚えていて、磯崎さんの話を仕切りにした。まだ酒が飲める状態ではなかったが、フグ刺、白子焼、最後のイカが良かった。二〇時過大満足で喰ベ終る。酒は呑まずとも少し寿司に酔った。酒は舌をしびれさせているだけかも知れんな。しかし、口惜しい。少し飲みたかったが、頭に大きな傷を負って、まだホッチキス止めも全部抜けていないのに飲んだら、これは明らかに自滅であると、自分に言い聞かせる。手負いの建築家は辛いのだ。八時半福岡空港まで送っていただく。研究室に電話して森川と明日の聖徳寺現場行のスケジュール調整。安藤の高山邸作業の進行を確認する。明日は早朝五時半に世田谷村発という事になる、又、今夜は羽田に着いたら深夜研究室に寄って安藤の作業をチェックする事になった。酒を呑まぬと、異常な事も平気で出来る。しかし、チョッとやり過ぎではあるが、仕方ない。今は良い仕事が出来る条件が整っているんだから。帰りの機内で、川合隼雄、中沢新一の「仏教が好き」読む。二十二時四〇分降下開始。二十三時十分前羽田空港着。二十四時三〇分研究室。安藤担当高山邸を見る。二時前修了。世田谷村へ戻る。二時半。三時迄Memo連載のゲラに手を入れる。
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十二月十一日 |
十時半杏林大学病院。検査の結果を知らされる。再検査であろうと思っていたが、その必要は無かった。思わぬアクシデントで頭に裂傷を負い、救急車で病院に運び込まれ、脳の検査、首の検査のついでと言ったら誤解を招くが、まあ拾いモノのように、内科、その他の検査までしてしまった。病院嫌い、検査嫌いの私としては青天のヘキレキであった。考えてみればこれは医者も言うように幸運であったかも知れぬ。この際のオーバーホールして、馬力もアップさせて、六〇代を乗り切ろうと思えるようになった。診察、その他、再び血液検査などして、ようやくマアマアOKと言う事になった。上海も行って良ろしいとの事である。十四時十五分修了。仙川までタクシーで、新宿十五時〇三分発で指扇の現場へ。現場で森田兼次さん親子と会い、打ち合わせ。左官の大将にこんな小さな現場で申し訳ない。現場は仕上がりも近く、ようやく思い通りの感じになってきた。細かい打合わせを安藤と。森田さんは明日、中沢さん泉さん等を現場に連れてくると言う。イヤハヤ、日本一左官まで連れ出してしまって申し訳ない。二十一時世田谷村戻り。夜、セルフビルド連載原稿仕上げる。 十二月二日夜のアクシデント以来連日の病院通いであったが、ようやく今日で一区切りついたような気がする。いつ、何が起きてもおかしくないのを思い知った。一日一日を精一杯やるしかない。聖徳寺の仕上がりも近い。住宅が三軒同時に仕上がる。これは今年の成果なのか、それとも来年の成果なのか、マア、どっちでもいいか。一時寝る。
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十二月十日 |
九時過杏林病院。十時抜糸というか頭の傷を縫いつけていたホッチキス6ヶのうち、4ヶを除去する。頭にホッチキスを打つ時は麻酔をかけたので痛くもかゆくも無かったが、取り除く時は極めてドライな外科的処置で少々痛かった。マ、自業自得である。只今十二時、取手に向っている。NHKの取材の件でスケジュールが混乱したが、一応落ち着かせよう。少し計りのケガで病院通いをする羽目になったが、そんな時に限って、やたらに仕事の依頼が増えている。皮肉なもんだ。十二時半取手着。佐藤宅で昼食のうどんいただく。穏やかな冬日和で落着く。十四時文間小学校、講演会。小学六年生十七名聴講。参加者八十名位かな。現在百人スクールは総勢七四名程。少しづつ増えているようだ。小学生との問答も含め十五時半過終了。二階で校長先生と雑談。十六時佐藤宅に寄り、お茶。渡辺先生のガラパゴスの話し等うかがう。只今十七時半取手より上野への車中。夜、セルフビルドの連載原稿書く。
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十二月九日 |
九時半研究室打ち合わせ。安藤、森川。十一時修論ゼミ。明日の利根町レクチャー準備。十二時半東京ガスへ。十三時よりコンペ審査。住宅デザインは沈滞している。十六時半修了。森川と新宿西口待ち合わせ。五反田TRCトモコーポレーション。新木場倉庫打ち合わせ。チョッとしたアイデアが出現しているので、打合せも楽しい。二〇時前修了。二〇時三〇分新宿西口に戻り、安藤とつつじヶ丘へ。住宅の依頼者、馬場さんと会う。二十一時十五分、馬場さんの義理のお兄さんの店で打ち合わせ。小さな集合住宅との複合建築の計画。二十二時過修了。鶴川街道沿いの土地を夜中ではあったかが検分し、二十三時過世田谷村に戻る。
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>>世田谷村スケッチ日記 十二月九日 |
十二月八日 |
十一時新宿スバルビル前、中里氏と待ち合わせ。中央高速にて羽村市神明台の株式会社ココロへ。サンリオ出資の日本有数のアミューズメントロボット製作会社である。なまめかしい女性のロボットアクトロイドがお目当てであったが、それはすでに大阪大学へ行ってしまい、ジュラシック・パークに登場していた一番小さくて狂暴なベロキラプトルを見せていただく。スペインのグラナダに輸出するものらしく、実に精妙なモノであった。他にも様々な恐竜のロボットが居て、いかにも日本の得意技を駆使している風があって面白かった。取材修了後十六時半前新宿帰着。渋谷より東横線で武蔵小杉へ。十七時半、勇能福祉会第三回設立準備会出席。十九時半修了。渋谷迄戻り世田谷村に戻る。
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十二月七日 |
一日中徹底的に休養。
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十二月六日 |
十五時大学。ひろしまハウスレクチャー及び展覧会のオープニング。百五〇名程の参加者であった。
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2003 年11月の世田谷村日記
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
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