石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2003 年12月の世田谷村日記 |
十一月三〇日(日) |
昼前NRT着。京成線で八幡へ。重い曇天である。昼過世田谷に戻る。ウトウトと一日中眠る。イラクで日本人外交官2名射殺された。
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十一月二十九日 |
朝三時半目が覚めてしまう。キャナルに面したテラスに出てみる。寒空に星が散っていて豪華だ。ヴェネチアで星空を見上げるのは初めてのような気がする。シリウスが青白く大きく輝き、オリオンが傾いて起き上がるところだった。キャナルは静かに時間が停止しているようだ。犬が一匹狭い道に影を落としている。この町で近い未来仕事をすることができるだろうか。十時グライターが迎えに来て空港へ。素晴らしい青空でアルプスが遠くに見える。風は少し寒い。新しいヴェネチア空港のデザインは悪い。ひどく悪い。十二時五〇分LH1824ドロミテ航空時刻どおりにヴェネチア発。アルプスの上空五千米をミュンヘンに。ミュンヘン空港でビールを飲む。十五時五〇分LH714でNRTへ。途切れ途切れに眠った。
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十一月二十八日 |
朝三時前目がさめてしまう。時差特有の眠りである。昨日のフリデリック・キースラーの展示を思い返している。ペギー・グッゲンハイムからの最初のキースラーへの手紙が印象的ではあった。キースラーの存在を彼女はどこかで知っていたのだ。それがキースラーの如き宇宙圏の才質に特有な送信力だったのだろう。九時身仕度を整える。今日も日の射さぬ曇天である。近くのテラットリアでカプチーノとクロワッサンの朝食を取り、少し海辺を歩き、十一時前にホテルに戻る。十一時グライター来。カルロ・スカルパの建築を案内してもらう。スカルパの小さな橋の、先の内庭から、真っ黒なヴェネシャン・スタッコのエレベーターシャフト、及び、ひどく工芸的な庭・建築の数々。いいけれども解らない全く。スカルパを終えて、船でヴェネチア建築大学へ。アルド・ロッシの展覧会を見る。ロッシのドローイングは素晴らしいが、何の為にこんなモノを描いているのかが、解らない。昼飯はヴェネチア建築大学の近くですます。サンマルコ広場に戻り、買物を少し計り。リアルト橋近くまで歩きワインを少々。かなり疲労困パイした。立っているのも辛い位。時差の眠さも襲ってきて最悪の状況である。グライターと疲れながら座るところを探して流れ歩く。Bar、何件かはしご。十八時半ヴェネチア・インターナショナルスクール・ディーンのルカ氏とリアルト橋近くの広場で落ち合う。ワインBarでヴェネチア風のサンドイッチ&ワインを飲み、ルカ氏の自宅へ。一九四四年、カルロ・スカルパ設計の住宅である。これは驚きであった。眼に焼き付ける。ルカ氏の奥さんは今、ニューヨークに出掛けているのであったが、メンディーニと親戚であり、ルカ一族はスカルパのクライアントである。ヴェネチア有数のファミリーなのだろう。自宅をたっぷり案内してもらい、別れる。何処かでディナーにしようかと思っている内に、偶然にレストラン、マリオに行き合う。レストランのオーナーと再会を喜び合う。聞けば二日前に私の姿を見かけて、いつ来るのかといぶかしんでいたと言う。マリオの味は格段に良くなっていた。グライターにホテル近くまで送ってもらいに二十二時二〇分ホテル帰着。メモをつけてベッドにもぐり込む。内容の濃い一日であった。ヴェネチアの狭い迷路から、星空が見えた。明日は朝から青空なのかな。二十二時四十五分休む。
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十一月二十七日 |
六時、眼がさめてしまう。持ってきたニーチェ、ツァラトゥストラでも読んでみようか。七時過又眠り、結局十一時迄眠る。近くのテラットリアでカプチーノとクロワッサンを食べ、十二時半HOTELに戻る。十三時グライター来。二〇番の船着場から小さなボートでヴェネチア国際大学へ。小さな島全部がインターナショナル・ユニバーシティとユーロ職人大学とで占められている。少し前までは病院だったらしい。インターナショナル・ユニバーシティはまだ完全には動いていないが、ロケーションは独特だ。だって、小さなボートでしか辿り着けないのだから。ユーロの職人学校はよりユニークであるが、まだ学生数は少ないようで、スペースには随分ゆとりがあるように感じられた。この島は使い道がある。見学を終えて、ヴェネチア本島に戻る。船を乗り継いでぺギー・グッゲンハイム・ヴェネチアへ。フレデリック・キースラーの展覧会を見る。小さな部屋の展示であったが、そのスケッチの一つ一つに感じ入った。フレデリック・キースラーは山口勝弘のキースラー論でしか知る事は出来なかったのだが、今日は初めてそのスケッチ、その他で直接に感じ、触れる事ができた。コレだけでもヴェネチアに来たかいがあった。キースラーを見た後、グッゲンハイム・ペギーinヴェニスを見る。モダーン・アートの最良のモノがコレクションされている誠にユニークなスペース(場所)である。十七時頃見終る。その後、リアルト橋近くの酒場へ。グライターおすすめのワインBar。良かった。十九時前、グライターの案内でレストラン・マリオへ。しかし、これが何とマリオちがいで、私の友人のマリオとは違っていた。それで、グライターのマリオは二〇時に開店だと言うので、近くのレストランでお茶をにごすかと言う事で動く。捜したレストランが、これがひどい処で、大学の学食以下みたいなところで、さじを投げた。ワインだけ飲んで、食い物にはほとんど手をつけられず時をつぶす。それではやはり、グライターのマリオにもう一度行こうという事で、Gマリオに戻る。レストランのハシゴだ。ここはマアマア良かった。八〇才位のオーナーのおばあさんと意気投合して、色々話し込み、オバーちゃんが迷路を案内してくれて、近くのBarへ。看板も何も出ていないBarで、これは初めてヴェネチアの奥に入れたねと、グライターと思わず笑った。ウィスキーを一パイ飲んで、出る。サンマルコ経由で、二十二時過HOTELに戻る。今日はフレデリック・キースラーに会えたのが、何よりも収穫だった。
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十一月二十六日 |
十三時NRT発のルフトハンザ七一五便でミュンヘン経由ヴェネチアへ。一人旅である。この忙しい時にと我ながら思うが、ヴェネチア国際大学に長期出張中のグライターに会う為である。必ず、俺もヴェネチアには行くから、だからグライター、ヴェネチアで連続講義たのむぜ。の強引な依頼の義理を果たすための浪花節の世界なのである。只今十三時四〇分エアークラフトは水平飛行になっている。考えてみれば今年は佐藤健の哀悼の年であったな。只今日本時間十六時前、ハバロフスクを過ぎて、いつもより北側のシベリア大陸上空を飛ぶと、先程機長のアナウンスがあった。いきなり、千葉の物件に関してアイデアが浮かび始めて、あわててスケッチブックをとり出す。日本時間十八時四〇分、怒るとスーパーキングコングみたいな巨人モンスターになるという、三流香港映画みたいなアメリカ映画を見終わったところ。凄い映画があるものだ。ミュンヘン空港ドイツ時間十七時十五分着。ルフトハンザは遅れない。パスポート・コントロールを経て、三〇分過ゲートG66LH1827ドロミテ航空のウェイティングラウンジへ。二時間弱のウェイティングである。夕方だと言うのに外は真暗だ。十九時二〇分過搭乗。双発のプロペラ機であった。これでアルプス越えられるのかね。二〇時迄飛ばず。結局ヴェネチアには三〇分遅れで着く。グライターが空港まで迎えに来てくれた。空港及び周辺は様変りしていて、船着き場も失くなっているようだ。バスでグランドキャナルのロマーナへ。船に乗ってリアルト橋へ。中央市場の近くにグライターはアパートを借りているようだ。ニーチェはここに滞在していたとグライターは橋のたもとの何て事はないアパートに連れていった。ワーグナーもグランドキャナル沿いのコンドミニアムで死んだと言う。少し迷路を歩いて、まだ開いているレストランへ。観光客は一人も居ない。雨もシトシト降っていて、何だか日本の地方都市の路地裏を歩いているようで良かった。パスタとパンと赤ワインの夜食。十二時に何処にあるのかも知れぬ新しくリノベーションしたホテルにチェックイン。設備は新しくて、これ迄のヴェニスのホテルでは最良である。部屋にモジリアニの裸婦像の拡大コピーがかけてあって、これは趣味が悪い。何しろデケーの。ヘソの穴がゲンコツ位あるんだから。シャワーして、頭も洗ってベッドに倒れ込んだ。
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十一月二十五日 |
十時研究室。板橋の松崎さん来室。十二時迄やり取り。大中小を問わず、設計を始める前のネゴシエーションは難しい。どんな仕事でも信頼されれば、必要以上の努力をするし、信頼度が低ければ多少力が抜けるのはやむを得ない。のだが、それを上手に伝える事は困難である。倉庫の基本プラン送付。
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十一月二十四日 休日 |
朝六時半起床。今日は連休らしい。細々とこの世田谷村日記を書き続けて解った事が幾つもあるが、一つはメモを続けていると、次第にどうしても内省的になってゆき、瞬発力が出現する回数が減少してしまうのではないか、と不安になる。要するに下らぬ思いつきが妄想との類との親密度が薄れてくるきらいがある。何年も続けているとそれが解る。コンピューターに記録しているから、勿論他人の眼も意識せざるを得ない。それも、妄想類の減少の因かな。 七時半安藤世田谷村。千葉の現場へ同行。九時過高橋さん夫妻娘さんと待ち合わせの貝塚インターチェンジ近くのセブンイレブン着。十時高橋さん一家と会う。土地見学。予想以上に良い場所だった。二案程頭の中で作り上げる。その後高橋さんの奥さんの実家へ。お父さん、お母さんに会う。お父さんは普請が大好きらしく、木の事に詳しい。色々とアドバイスしていただく事とする。幸いお父さん手持ちの木材を使わせていただく事となる。三〇〇年の歴史を持つ農家で、やっぱりこうゆう老人は風格がある。野菜やら、何やら一杯のおみやげをいただく。 遅い昼食を、ソバ屋で頂き、打合せ。十六時前別れる。高速道路が空いていて、十七時過には世田谷に戻る。世田谷には妻が衝動買いしたウサギが突然家族の一員として加わっていた。流石に横になってしばし休む。夜雄大の友人の慶應生、スワ君来る。話してみたら面白かった。流されずによく考えている若者もいるんだな。
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十一月二十三日 日曜日 |
十時半研究室。今日のレクチャーの準備。十二時高山さん夫妻来室。十三時「家」レクチャー。参加者子供達を含めて十八名。課題を見てクリティーク。千村君のおにいさんにお目にかかる。レクチャー後、ボスニア・ヘルツェコビナの三好シュターク綾さんの相談を受ける。十七時半終了。十八時半世田谷村。
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十一月二十二日 |
バグダッドのシェラトン・ホテルと石油省にロケット弾が打込まれた。ロケット弾発射装置はガソリン販売用のロバにひかれた荷車だった。ロケット弾は草で隠されていたというその荷車とロバの写真が朝刊にのっている。アメリカ帝国の圧倒的なハイテク軍事力に対抗する、ロバと荷車。緑色に塗られた発射台の荷車とブルーの車輪、いかにもな振りを装ったロケット弾入りの荷車は色といい、形といい、まさしくデザインされている。これ以上の擬態は考えられぬ。が、これはまさに現代を象徴するデザインである。九・一一ワールドトレードセンターテロによる崩壊の現場、あれは都市と砂漠の戦いであった。アフガニスタンのアルカイダ空爆は一方的な破壊だけが結果として残っただけだ。砂漠にミサイルを打込んでも仕方ない。砂漠は海なのだ。海に何億円のミサイルを打込んでも何も得られない。実は破壊さえもする事は不可能なのだ。アフガニスタンに続いてのイラク戦争である。アッと言う間に戦争は終り、アメリカは勝利宣言した。が、しかし又も砂漠という海が出現している。ヴェトナム戦争では、ジャングルという海とアメリカは戦わざるを得なかった。そして結局、アメリカは敗れた。そして歴史的に初めて内なる傷をその中に負った。イラク戦争に於けるアメリカのハイテク兵器は都市の破壊に対しては効果を発揮した。しかし、ロバと荷車が出現した。これは砂漠のアナロジーである。あるいはユーラシアのアナロジーである。インドで考えた事で堀田善衛はアジアは何でもかでも吸い込んで音も立てぬ凹型だと言ったが、このロバと荷車も又、一つの凹型なのだろう。毛沢東は農村が都市を包囲すると言った。それは中国ではそうならなかった。中国の超近代化の中で農村は都市に吸収されている。しかし、アフガンやイラクで現実に起きている事は砂漠が都市を崩壊させている事の歴史の繰り返しなのではあるまいか。グローバリズムの渦中、我々は再びユーラシアの砂漠という海を眺めている。しかし、このロバと荷車は確かにデザインではあるのだが、破壊の為のデザインなのである。作るデザインの橋頭堡にはなり難い。 アルカイダのスポークスマンが日本が軍隊をイラクに上陸させるならば、東京の中心を攻撃すると二回目の警告を発した。そして、東京は攻撃し、破壊するのは容易であるとも述べている。そうだろうなと思う。オウム真理教位の幼稚なレベルの破壊活動でさえ簡単に可能だったのだから。良く考えられたゲリラ軍の巧妙な戦術には全くもろいだろう。東京が現実的にテロの対象となった時に、戦後という時代そして平成という時代は終わるのではないか。 十二時より十五時迄打合わせ幾つか。十五時設計製図講評会、二〇時修了。二十二時迄懇親会。二十三時世田谷村戻る。
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十一月二十一日 |
昼前研究室。埋立地の倉庫の件、昨夜梅沢さんと作った案を野村に説明し、作図を依頼する。別案の作図を松本に依頼。九州忍田さんとの打合わせの日を決めなくてはならぬ。日本アニメの高山さんにメール返信。トモコーポレーションと連絡、来週はJ・グライターと会うためにヴェネチア・インターナショナル・スクールに行くので、できれば今週中に案を作り、送らねばならぬ。李祖原に梅沢さんを紹介することになる。李の建築もチョッと変わるかも知れぬ。十五時三年製図採点。今年の女性達は良く頑張っている。十七時半修了。梅沢良三さん来室。李祖源を紹介。連絡事項を幾つか処理二〇時スケッチ少々。二十二時半世田谷に戻る。
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十一月二〇日 |
十時三〇分学科会議室。早稲田建築対談。アジア建築と早稲田。中川武、尾島両先生と。十三時教室会議。学部再編に対し、建築学科の基本方針を再確認する。建築学科は割らない。土木、資源と同じ学部には属さない。十五時教授会。珍しく、多くの教授の出席があり、大教室はほぼ満員。出席者総数の三分の二を獲得するまで投票を続けるとの事で四回分の投票用紙が配布され投票。三学部分割案と二学部分割案が双方ゆずらず、一回、ニ回、三回、四回とチキンレースの如くに投票が繰り返される。梅沢良三先生との打合せの時間があるので抜け出したいのだが、今日ばかりは大事な投票なのでそれも出来ず。総長も投票に参加し、ようやく教授達に事の重大さが浸透したという段階であろう。十九時前迄、実に四時間の長きにわたる投票の繰り返しで、結果はいずれの案も三分の一を獲得できず、建築より動議を出し、今日は流会となる。建築学科としては、この流会は良い結果だと言わねばならない。 投票修了後、再び教室会議、以後の対応を討議する。学科は初めてと言って良い位まとまっている。一時間梅沢さんを待たしてしまったが、いくつかのプロジェクトの構造に関して打合せ。世田谷戻りは深夜一時過になった。
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十一月十九日 |
十時前、千葉の高橋さん夫妻と友人、三名研究室に来室。三百坪の土地に家を建てたいとの事。驚く程元気な奥さんで自分で土地に生えていた樹を切り倒し、整備し、新しく小木を植えたりしているとの事。大工になりたかったという位に元気な奥さんの、そのエネルギーに押されて来週土地を見に行く事にした。十二時前修了。十三時坂戸市関根さん、住宅の相談で来室。十四時半修了。指扇現場、二十二時世田谷村へ戻る。
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十一月十八日 |
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十一月十七日 |
東京湾埋立地の倉庫について対応のプログラムを考える。十一時埋立地倉庫スケッチ二案作成、野村と安藤に作図をオーダー。野村のコンペ案見て、修正する。仙台の佐々木さん、配島工業、梅沢先生と電話で打合わせ。速い仕事は面白い。李祖原の件でミラノのロータス編集部にメールを送る。十七時三〇分中川さん一行来室。十九時三〇分聖徳時住職来室。二十一時三〇分修了。幾つかのプロジェクト打合わせ。二十三時過修了。荷物があったので車で送ってもらい帰宅。
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十一月十六日 日曜日 |
朝八時四十五分大学。今日は一日創生入試と附合わねばならない。雨上がりの清々しい光が研究室に指し込んでいる。 九時十五分学科会議室。創生入試の基本方針、対応が主任より伝達される。十五時十五分面接修了。二、三を除けば皆同じ様な学生ばかり。創生入試の理念から人材としても外れている様に思うが、折角始めた良い試みなのだからしばらくは続けるべきだろう。十八時半世田谷村に戻る。
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十一月十五日 |
聖徳寺がいよいよ完成真近となる。富士山の裾野という稀有なロケーションで、建築及び墓地を考え、デザインできたのは楽しかった。オウム真理教事件の震源地であった上九一色村を舞台に様々な事を考えた。それが一つの建築になり、墓地のデザインになった。仕上げをごろうじろ。 十三時森川・デービットと世田谷村二期工事の打合わせ。夏から初冬にかけて仕事場を大学に移したが、そろそろ世田谷に戻らねばならない。やはり大学という場所はモノ作りには少々辛いものがあるのを実感出来たのは良かった。村のスタッフも何だか精気が失われている。近代(モダニズムのデザイン)が歴史的対象として眺め得る時代になっているのを痛感する。現代という時間的空間が存在するとすれば、その観点の浮上という事実しか無いだろう。十六時五反田TRC、トモ・コーポレーション社長友岡氏と打合せ。東京湾埋立地の倉庫計画について。打合わせ中にアイディアが出たので、やってみましょうと宣言してしまう。某ゼネコンがつまらぬ案と下らない見積り書を作成しているのだが、それは実に下らぬ案で、社会的にも向の価値もない。来週、私の案を示す事になる。二十二時過京王線で烏山に向っている。世間の常識と闘い過ぎても、イケナイっていうのは解っているが、世間の常識が余りにも馬鹿気ているのが歴然としているのは黙って見過す訳にはいかないのだ。トモ・コーポレーションでアジア全域の手作りペーパーを詳細に見る事が出来たのも収穫であった。
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十一月十四日 |
阪大院生命機能研究科よりメール。研究会に参加しろとの事。私の方も学部再編で生命工学とのジョイントを考えていたので、参加してみることにした。無駄と遊びがテーマのようだ。来年の一月に三日程石川県の片山津温泉で開かれるというのも良い。技術と歴史研究会も是非そういう風に湯煙り感覚で願いたい。二三日のサンデーレクチャーが近附いた。準備しなくては。「生きる為の家」をテーマにしよう、素材としてはマザーテレサの死を待つ家。室内原稿書く。十五時李祖原講義ONENESS。彼が真摯に話せば話す程に、西欧化してしまった私達にはミステリアスになる事が不思議である。李祖原とのコラボレーションレクチャーを考えてみよう。李祖原と研究室を共にしている今は千戴一遇の時であるのを自覚したい。
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十一月十三日 |
十時半西高島平駅。森川と待ち合わせて松崎さんの土地を見る。高速道路に真近な独特の場所である。大体おおまかな構想は持って行ったが、土地を見ながら修正する。二〇分ほどで大体一案出来た。その後松崎さんと一緒に成増の美容院へ。打ち合わせ。一週間位で最初のプレゼンテーションというスケジュール。何だか柴又のフーテンの寅さんの世界に紛れ込んでしまった様な世界。さしづめ私なんかは例のオイちゃんの役で、寅は建築家の私。ダブルキャストだ。寅は言うわけね。何が大工の名人だってーの。困ってる人の家を建てれネェーで大工顔するんじゃネェーの。オイちゃんは頭を抱え込んでつぶやくの、バカだネェ、正真正銘本物のバカだよ、こいつは。バカがヘソ出して歩いているよ。バカ、もう。建築家ってーのは貧乏人の家の設計はやらネェーの、できるだけ金持ちの家をやって、それで建築家なの、貧乏人の家は大工にまかせておけばいいんだよ。オヤ言ってくれるじゃネェーの、柴又のダンゴ屋の親父が、貧乏人の家は大工に任せておきゃいいって、言ってくれましたねェ。コノ。オヤ、お前なぐったネ。ドタバタドタバタ。というような古典的単純な倫理的ドラマ。それが私をズーッと対面させている問題の中心なのだ。さしづめ貧乏人の家というのは現代ではハウス・メーカーの家の筈なのだが、そのハウス・メーカーの家が今は仲々に高額なのだ。要するに昔の大工棟梁の役割に相当する人が何処にも居なくなった。 昼食を成増駅前で喰べて研究室に戻る十四時前。
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十一月十二日 |
十一時北海道十勝後藤健市氏来室。ヘレンケラー記念塔セミナー棟の打合わせ。TV番組の影響なのだろうか、リフォームの問い合わせや相談等があったりで仲々大変だ。石山研の仕事がビフォアー・アフターの感じで受け止められているのだろう。悪い事ではないが、全部には附合いきれぬ。昼食李祖原と印度カリー。十四時山本伊吾、長井美暁来室、李祖原インタビュー。楊さん通訳。最初だけ同席したが、全く問題無さそうなので、すぐ離れた。十七時マティアス・ザウアーブルッフ教授来室。シュトゥット・ガルト芸術アカデミー。講義。十九時半修了。ドイツの中堅世代を代表する建築家。環境・テクノロジーを軸に自作を語った。バウハウスの運動を自作の源としている。ドイツ型テクノロジカル建築なのだがその建築の特徴は特に平面計画を律している様々なカーブの組合わせにある。そのカーブは何処かでメンデルゾーンの建築を思わせるものがある。もう一つの特徴は色彩である。レクチャーの後、色彩の使い方はハンス・シャローンにルーツがあるのではないかと問うたら、いやむしろ、カンディンスキーに影響されていると答えが返ってきた。仲々、理知的な男だというのが解った。日本でいうと、伊東豊雄をもう少しロジカルにした感じかな。バウハウスの歴史を背負っている厚みがあるしな。世代で言えば隈やシーラカンスの世代だが、彼等よりはズーッと骨太だな。日本の建築家は皆小器用なところが目立つ。彼はJ・グライターの紹介で早稲田にやってきたのだが、グライターの眼は確かであった。良い建築家と知り合いになった。明日ディナーを一緒にしようと約束して別れた。世界は広い。日本でチマチマやってると本当に見えなくなるものがある。置いていったクロッキー誌の彼の特集と、本を明日は目を通しておこう。二十二時半世田谷村。帰りの電車で南伸坊のエッセイ読む。何故、伸坊を読むのか我ながら筋が通っていない。しかし伸坊の文体を読みたい時があるのだ。
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十一月十一日 |
十一時過研究室。座敷童子のアイデアをふくらませにかかる。家には人間が住み暮すのと同時に何か精霊のような者、が住みついて欲しいのだ。それが建築的住宅ではないか。十三時TV番組製作・ルーカスの面々来室。住宅の勉強会の件は続行して、取材したいという事であった。李祖原の番組作ったらと、CY・LEEを紹介する。十三時半別の番組プロダクション、ペン・クリエイティブ来室。五名程。明治通りコンバージョン取材。通りを歩いたり、研究室の中で話したりで、少々わずらわしい。十五時半修了。十六時前、板橋に家を建てたい松崎さん六〇才、お兄さん六十一才と共に来室。明後日、土地を見に行く事になる。十八時半研究室発、目白椿山荘へ。十九時栄久庵憲司さん御招待の日本フィンランド・デザイン協会理事会ディナー。東京での展覧会、シンポジウム、その他のお疲れさまでしたの会。二十一時半修了。二十二時半世田谷村着。
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十一月十日 |
朝七時過起床。薄暗い空模様。九時四〇分研究室。 十時高山晃さん来室。住宅の相談。奥さんも四ヶ月の子供を連れて同席。面白い夫婦だ。御主人は京都出身、奥さんは東京。アニメのプロデューサーの仕事。十二時迄。色々と話をうかがう。十七時李祖原と東大本郷へ。西安の法門寺プロジェクトに関して鈴木博之先生の意見をオフィシャルに取り容れたい為である。西安サイドから法門寺美術館のキュレーター・運営委員等が来日するので、その時に会を持とうという事になった。巨大な、中国有数の寺院の巨大美術館だが、つい先日も日本人留学生が問題を起こして帰国せざるを得なかったのを考えると、反日感情は根強くあるようだ。中国最大の歴史博物館になるだろうから、日本として何らかの寄与が出来ると良い。 十七時過、難波研究室へ。第一回技術と歴史研究会。難波和彦、中川武、松村秀一、嘉納成男、鈴木博之、佐々木睦郎、石山修武が発足メンバー。松村先生から面白い話が聞けたので、先ずはその話をうかがうのを始まりにしようという事になった。 松村さんは近代、モダンデザインの始まりの頃の試み、フラー、プルーべ、ピエール・シャロー等をほとんど全て実見して世界を廻っている。藤森照信が日本の明治期の近代建築を全て見たと豪語しているのと同じような事をしているのかな。世界では誰もそんな事していないから。近代の様々な試みが歴史家の眼で視られている。この感覚は大事だぞ。十九時東大正門近くの小料理屋で会食。二十一時過散会。五名程で山の上ホテルのBarへ。深夜帰宅。
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十一月九日 日曜日 |
朝六時起床、メモを記し、ランダムに手近な本をパラパラと繰る。今日は衆議院総選挙の日。がしかし、学部卒論の発表会だ。日曜日に、しかも選挙の日にこんなスケジュールを設定した馬鹿は誰だ。昨日の照明座敷童子の実験は面白かった。アノアイデアは思い付きではなくって、何年も前から考えていた事だった。世田谷村の屋上に異様なフォルムの人形が登場した時からか、あるいはモッとズッーと昔、伊豆の長八美術館の二期工事で、空中に色ガラスの旗を建てた時からか。アノ人形のフワッーとした媒体状のものを色んなところに登場させるのはどうかな。 九時四十五分研究室。十時卒論発表開始計画系総勢六五名。只今、十八時二〇分アト五組まで辿り着いた。頭がボーッとしてすでに思考能力は薄れている。今年は六五名の中でこれは面白いという論文は今のところ極めて少ない。来年の石山研の卒論は研究室としての主題を与え的を絞ろうかと思う。学生は大半がオタク的傾向の枠内に居るから、主体的思考は不可能に近い。が、方向を与えればその目的に辿り着くスピードは速いのだろう。しかし、ああ言えば、こう言う型のへ理屈学生も急増しているな。二〇時過世田谷村に戻る。総選挙の開票速報をTVで見ながら、セルフビルドの原稿を書く。一時四〇分修了。選挙は民主党急伸。自民停滞の結果となる。
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十一月八日 |
九時半向ヶ丘遊園駅、待ち合わせ森川と野田邸現場。野田さん親子にもお目にかかる。昼過新宿で待合わせ安藤と指扇、朝山邸現場。大きな照明オブジェクトの実寸大、実験。これは我ながら面白かった。座敷童子が大きくなって顕在化しちゃったようなもの。十九時世田谷村に戻る。昨夜あんまり眠っていないので、食事してすぐ眠る。すい眠を充分にとらないともう駄目だな。
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十一月七日 |
朝送られてきた紫明十三号パラパラと繰っている内に、表紙の図形に見覚えがあるなと気付いた。案の定山口勝弘さんの絵が表紙になっている。今迄気付かなかった自分が情けない。第一号からズッーとの事だったようだ。丹波古陶館、能の世界と山口勝弘が結びつかなかったからだろう。今号の特集は禅である。この一週間程我ながらブッキッシュな時間を送り過ぎている。この禅特集も読んでしまいそう、危ないな。表紙の山口勝弘の絵が門のようにも視えてくるから不思議だ。本の世界は頭脳の運動のフィールドなのかな。年をとったら一日中、本を読んでいるような時間になるんだろうか。十一時過研究室。忍田邸のスケッチを森川、安藤に渡す。グリーン・アローの小川さん突然来室。秩父のキャンピングカーの写真ゲラ見せられる。面白いです、コレと言ってくれた。内閣府へ沖縄関係の書類送る。李祖原より金門島戦争美術館の共同設計計画をすすめると言われる。現在は金門島の島全体のプランニングを進めているとの事で、次に建築の設計になるらしい。いかにも中国の仕事らしい進め方だ。芸術学校の鈴木了二と雑談。芸術学校の近未来にについて。夕方、これまでのA3ワークショップ(職人・芸術・建築)から3年間の早稲田・バウハウスIN佐賀、INワイマール、東京ワークショップ(於東京ガス)からインターナショナル・スタジオGそして上海スタジオ、沖縄ワークショップへの歴史をまとめる。この財産は生かさねばならぬ。二〇〇四年夏までのスケジュールをつくる。このスタジオが母体になって、物が一つでも作れると大きく径が開けるのだが。十九時半までかかった。バウハウスのデービットのデザイン能力は仲々のものだ。何が一つ早急に任せてみようか。仕事の一部がTV放映されて、問い合わせ、仕事の依頼などが多い。住宅の仕事は選ばせて頂く。尋ねきて下さるのが先ず第一の条件だろう。偉そうな事を言うが、住宅の設計は金にはなり難い。余程面白くなければ手を出したくないが、その面白いかどうかは依頼者と会わねば解らない。二〇時九州の打合わせ。コンバージョンチームはモゾモゾ動いているが成果は挙がるのか。難波和彦先生より「技術と歴史」研究会発足趣旨送られてくる。流石キチンとしている。二十二時過忍田邸基本設計のまとめ。小さなテクニックを沢山使って、バラードの典型みたいな家の案になった。マイルス・デービスの飾りのついた四輪馬車の感じかな。二十三時半頃世田谷村に帰る。 今日は目一杯にやれた。思い出して、研究室にしまい込んで積んであった「建築」批判鈴木隆之著持ち帰り読む。一九九五年の本である。鈴木隆之も今のところ建築家としてはどうもうまくいっていない部類だが、今度の五〇〇万円の激安ハウスをきっかけに再生してくれればと思うが、どうかな。八年程昔の本を読むと、私の事を随分と批評していて、石山はピンチの連続で九〇年代に入って、行きづまりである、みたいな事が書いてあった。当時は私はこの本を熟読していない。私は今でもピンチの連続だが、鈴木隆之に言われる程には危機的ではない。今でも圧倒的少数派である事は確かであるが、彼が言うように批判にさらされてばかりいるわけでもない。さらされているとしても建築業界だけだろう。私を共同体の物語り建築家として批評しているのだが、一面をしか視ていない。深夜二時に読了。明日、否、今日は現場を二件廻らなくてはいけないのに、変なモノにつかまってしまった。十月はたそがれの国はレイ・ブラッドベリーであるが、一月おくれの十一月はやたらに本につかまるな。
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十一月六日 |
十時半研究室。十一時学科会議室入江主任と外国人交換留学生宿舎の件その他で相談。国際化とは突き詰めるところ宿舎の問題である。イェールもオレゴンもサンパウロもバウハウスも全て学生、教員宿舎は完備している。早稲田は辛いものがあるのだ。十二時半井上宇市フェローシップ面接。十三時教室会議。理工学部再編の件が中心。入江主任は良くやっている。十七時半迄。途中抜けてスケッチ作業。長い会議は辛い。中川武教授と久し振りに再会。アンコールワットの仕事は延々と続いているようだ。十八時日用品ミーティング。二〇時半修了。
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>>世田谷村スケッチ日記 十一月六日 |
十一月五日 |
十二時大学、沖縄計画メモ。理工総研メモ作成。鈴木隆之・藤井誠二共著500万円で家をつくろうと思った読む。意外なところに継承者が現れたな。鈴木隆之はこの物件を彼のキャリアの中の特殊解にならぬような努力の方法を産み出す必要を迫られるだろう。しかし、500万円というのは確かに激安だな。中国製の何かを使ったりしたんだろうか。ここまでやると価格破壊的様相を呈してくるが、大事な事は建築家として鈴木隆之がキチンと生活してゆく事でもあるのだから、その費用を一つ一つの物件でいかに捻出するかの工夫、ヴィジョンが必須になる。あと書き読んだら、もう疲れたなんて言っている。これ位で疲れたなんて言ってはいけない。石井和紘さんから、「都市を創造してきた巨匠たちの至言」の帯がついた本が送られてくる。都市の地球学のタイトルだ。槙文彦、原広司、黒川紀章と共に語っている。石井さんらしい本だが少々大時代だな。十四時理工総研所長。総研は良く私の様な乱暴者の面倒を見てくれたと思う。十五時過上海スタジオのディテールを李祖原と決めにかかる。上海市長、同済大学学長等とのディナーの設定など、李の自然なポリティカル感覚に触れる。多分、想定しているプログラムは李祖原の意志が入り、上海の政治的縮図を示すものにもなりそうだ。その後李祖源とおしゃべり。いつも彼と話していると形の起源の話しになるのが不思議だ。近い将来中国で何等かのコラボレーションをしようという事になる。しかし、美術館とかを李と、どうやってコラボレーションするのか見当もつかぬ。岡本太郎以上の対極主義的振舞いになるのかな。 世田谷に戻ったら伊藤毅先生より「大江戸日本橋絵巻」熈代勝覧の世界。送られてきていた。絵巻から見る都市江戸は、それはそれは美しいものだった。今のイタリアの例えばヴェネチアを想わせる位だ。こういう努力を続ける建築史家もいるのだ。江戸の日本橋の商店街には看板建築は一つも見当たらない。商人は皆、店頭にのれんをかけた。それがずらりと並んでいる様は本当に美しい。風にそよいでファサード、街並みがユラユラ揺れていたのだろう。今の原宿建築よりもメディア建築だった。こののれんは何処でどのように、つくられて、かくの如きに微妙に町並みとしてコントロールされていたのだろうか。知りたいと思った。江戸日本橋の商店街は実に柔らかい、揺れ動く表情であったのだ。この柔らかさはもう都市には取り戻せないのかな。伊藤先生から送っていただく本は実に読むのに骨がいるのだが、読まねばならない。何故だかそう思い込んでいるのである。
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十一月四日 |
八時頃起床。娘の所有物であろう床に転がっていた文芸別冊「ナンシー関」読む。TVのコメディーその他、もう視なくなった世界の事が少し解る。良く知らないが、この人は四十直前で死んだらしいが、長く生きたら辛かったろう。しかし初めて知ったナンシー関が四十前で死んでしまう状況を作ったのも良く事情は知らぬがTVであり、TVが母体になっている若者達なんだろう。その若い世代、TVの子機みたいな人々が建築にも続々と侵入してきている。それが、今なんだろう。十二時過大学。製図個人指導の後修士論文ゼミ。十六時TVプロダクション来、コンバージョンの件。昨夜来東京の李祖原と上海スタジオGに関して最終打合わせ。市根井邸の報告松本より聞く。うまく出来上がる事を祈っている。厚生館仲々難題を抱えているが、これもくぐり抜けて欲しい。二〇時α若松社長にTEL元気そうで二十一時会う事になった。今朝はアクシデントみたいにナンシー関なる本を読んでしまった。要するにTVメディアのある種の様式論だ。建築と言う鈍重な世界に居て良かったと考える。都市のかなしみで鈴木が言おうとしている事は、建築の、都市のどうにもならぬ重さ鈍重さと深い密度の所在なのだ。メディア論、情報論は今、来るべき時代の道しるべを構成しているような錯覚に我々も落ち入り易い。が、建築のどうにもならぬ鈍重さによって構築されてきた文化の密度は捨てたものでは決してない。その、圧縮された闇を超え壁や床や屋根にまで形を成してしまう事実、町になり都市になってしまうドキュメントを鈴木は歴史として把握しようとしているのだ。情報はその闇、その重力を持たない。それ故、軽やかで自由に視える事もある。隣りの芝生はいつも緑に視え易い。建築という重さから逃れる努力は、別の言い方をすればその重力が持たらす闇を直視する事ではあるまいか。四〇才前に亡くなったというナンシー関の本から逆に情報・メディアの不可能性といった事を教えられた。一度も会った事のないナンシーさんにサンキュー。二十一時過原宿でα社長若松氏と会食。来年株式上場だそうで、来年は変身の年にするそうだ。ロシアに度々出掛けているらしく、ロシアのビジネスの桁外れの解放区振りの話を聞く。若い頃東ドイツで一旗揚げてやろうと一念発起した人らしく、今、ロシアに単身乗り込んで商売を開拓しようとするところが面白く独特だ。アッケラカンと明るい話し振りに来年は私もモスクワに行ってみようかの気になった。前向きと言うよりも若松さんはジッとしていない人だ。資本はジッと不動のままでは死に体同然なのだから、常に流動させていなくてはならないのをこの人は地でいっているな。どうなる事やら知れぬところもあるが、若松社長の商売振りは楽しみに見守る事にしよう。来年は上海Gスタジオにも投資してもらう事になった。二十三時終了。若松氏は明日午後よりロシアへ。二十四時世田谷村。
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十一月三日 |
七時前新聞を読み、再び眠る。九時前起床。昨日は佐藤論と飲めて良かったな。十時烏山駅中里和人と待ち合わせ。取材で秩父へ。練馬より関越道、十二時前ソバを喰べ十二時過秩父市太田のページ・ワン工房へ。熊田暁さん、二七才に会う。熊田さんが友人二人と共に作った、モービル・ハウスを見て、色々話しをうかがう。一,五トンのトヨ・エースの台に自分の手で二階建のモービル・ハウスを作った。二階はエアー・シリンダーのポンプで動き、組み上がるようになっている。大昔学生の頃に考えたようなモノを熊田君は実際に作り上げていた。二年と二ケ月かかったそうだ。それで一年の日本一周の旅に出た。もともと屋久島に行きたいと考えて、それでモービル・ハウスをセルフビルドする事を思い付いたらしい。我家、世田谷村のアルミ部分よりも余程素晴しい精度であった。ドアのオートロックのディテールなど電気部品も組み込まれ、脱帽である。車の解体屋から部品の一部は入手したと言う。解体屋と秋葉原は現代日本の市場の聖地である。この熊田君のモービル・ハウスが面白いのは電気製品が細部に組み込まれ、電気住宅の感じを獲得している事だろう。彼は作り上げて後の一年間の旅行中、エネルギー(電気、ガス、水)について敏感になったと言っていた。車中は十二Vと百Vの二系列の電気回路になっていて、とても百Vの電気は勿体なくて使えなかったと言う。実感、実体験からのエコロジー感覚である。観念的な学生に見せてやりたい位だ。しかし、このエコ・モービル、ハウスの真骨頂は何よりも二階が一階から引き出せること、空間がモバイルする事で住まいになる事である。実感として、こういう動きをする空間を私は初めて見た。何時間もかけて見に来たかいがあった。 十五時半過取材を終え東京へ。熊田君、工房のスタッフ共、若く、淡々としていて印象深かった。しかし、二十一才でこれだけのことを成し遂げてしまうと、これからが辛いのだろうな。帰りの車の中で中里和人と「セルフ・ビルド」の取材のスケジュール、物件等を相談する。中里和人の写真は本能的に懐古するので、それが魅力的なのだが、アト残り三回の取材対象は可能な限りイマッポイモノに集中してゆく事を確認する。イマッポイと言うのは要するにイリュージョン、メディア寄りのセルフ・ビルドだろう。恐竜、町の模型、オマケのオモチャ、大イベントの仕掛け、舞台装置などのアイデアが出る。セルフビルドの連載は単行本にするので、明日に開いた感じで、幕を閉じたい。十九時過世田谷村に戻る。 中里和人写真集「逢魔が時」を手渡される。キリコの街に続く最新刊である。中里は「小屋の肖像」でいわゆる小屋ブームに火を付けた写真家であるが、その写真について考えてみる。写真家はその言葉によってその作品に対する評価を左右させる事は出来ない。しかし、何を撮るのかの意志の枠が写真家の価値を決めてしまうのも事実だ。画家と比較すればそのテクニック等の比重は極めて軽い。写真家は何を視ているか、そして、それを撮ろうとするか否かで、価値の大半が決まるのだ。石山研の仕事が出る筈のTV・スーパーテレビ見そこなう。
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十一月二日 日曜日 |
工作社の「室内」次の連載のスタイルを考えなくてはならない。「目ざわりデザイン」の連載のタイトルは山本夏彦さんが考えてくれたもので大変気に入っていたのだが、どうやら憶測するにあんまり読者には喜ばれていなかったのだろう。それに本当に眼ざわりだと思っているモノをデザインを介して続々と書くのには大変なエネルギーがいる。 十二時世田谷村佐藤論来村。佐藤健の一人息子である。電通に居る男。私のフィンランドのパビリオン計画を一方的に論に述べた。私が言ったのは、フィンランドに常設の日本パビリオンを建設する事の意味なんだが、要するに、お前のオヤジとの附合いをそういう形でささやかに歴史に残しておきたいという極めて、ワガママな事である。この世代、つまり二代目がこういう暴論を受け入れるとも思わないが、とり敢えず言っておいた。佐藤健の息子が関心を示そうが、示すまいが、こちらは、動くのは決めているのだから、これは一種の仁義をキるの類なのである。しかし、オックスフォード出身の二代目佐藤健は仲々にしっかりしていて、動じず、仲々良いのであった。 世田谷村で一時間程話して、オヤジ、ゆかりの宗柳にゆく。飲んで新ソバを食べ、十五時半迄。時間を重ねて得られるものが文化的質なのだろうが、我々は、残念ながら0近くから再出発しなくてはならぬ。戦後五十年はその積み重ねは小さかった。これからは少しずつではあるが、積み重ねていかなくてはいかないのだろう。自分の生きている時代に何かを視ようとしてはいけない。十六時世田谷村に戻る、昼の酒はきくのである、今日はコレで沈没かもしれぬ。それでもゴシック・リヴァイヴァル読み続ける。ゴシックという様式が現代にこういう形で継承されているのかと思わせる部分が随所にある。
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十一月一日 |
昨年亡くなったらしき山本夏彦さんから二冊本が送られてきた。文芸春秋「男女の仲」新潮社「ひとことで言う」読みふけっている内に一昨日に続き又も昼過になってしまう。「ひとことで言う」は読む内に山本さんが目の前に居るような気持ちになってしまうような文体の連続で舌を巻いた。本を読むのは死んだ人と話をすることだ、と山本さんは言うが、どうやら翁はまだ、市川あたりに空気の如くにして暮らしているのではなかろうかと確信する。こんな文章は今を生きている人間にしか書けない。十四時大学。十五時石山研の外国人留学生の為の秋の懇親会。アベル夫妻と十一ヶ月の息子、デービット等と食事。私は十七時にサヨナラする。やりたい事が山ほどあるのが、俗人の私と、どうやら市井の隠であった山本夏彦さんの天と地ほどの違いだな。しかし俺は不勉強だ。 鈴木博之「都市のかなしみ」と山本夏彦の「ひとことで言う」を読み比べてみたくなって、敢えてその暴挙に打って出てみた。新撰組愛好癖を持つ元旗本ルーツ、四百年の奉公人の伝統を持つ鈴木はどうやら、幕末の先祖の一人、加藤大五郎に何某かの思い入れがある。加藤清正が好きで加藤姓に養子にいったというこの先祖は上野の彰義隊の一員であったが生き延びてキリスト教徒として死んでいる。東大教授としての鈴木の律儀さの数々を思い浮かべて、私は深夜一人笑った。そう言えばネラン神父という東京カテドラルの大神父が鈴木の知り合いにいたのも思い出した。彼のイギリス好みのルーツは大五郎さんなのだ。山本夏彦の若年は親父の遺産の金利生活者であったらしい。しかし鈴木の家とは全く異なる家風で、その後真砂子書店を開設したり、結局、工作社の経営を長くする等、山本さんは商売、事業の道を外れなかった。武林無想庵とのフランス行などもあり、青年期は多分桁外れのアナーキー振りを間近に視たのが、その考え方の基軸になったに違いない。商売とはもともとアナーキーな性格の中にある。かく言うそれぞれの動かし難い自身の骨格を、鈴木・山本両人共に良く解っていたと私は思う。それ故、鈴木は山本夏彦を敬してはいたが、必要以上に距離を置いて眺めていた。山本翁も又、鈴木の才を認める事、大であったが、やはり見えるか見えぬ位の丈の垣根越しに眺めていたような気がする。そりゃそうだろう新撰組とアナーキストじゃあ、仇同士なんだから。 誠に我ながら馬鹿馬鹿しい事を書いているが、実はそんなに意味の無い事でもない。何日か前に読んだ鈴木の本と、今日読んでいる山本夏彦の本の双方の中、ところどころに私は通じる何かを嗅ぎとったのだ。それは何だろうか。単純に通じてはいない。通奏低音の違いは歴然としているように思う。が、処々に何か同じ顔がむき出しになっているのも確かだ。友人同士の中に同じ何かを視ようとする極めて私的な感情に基づいた考えであるのは解り切ってはいるのだが、この感じ、今日初めて判明した感じは正しい。誰が何と言おうと正しい。山本夏彦は日本文化の今の無残さを言い続けてあく事が無かった。鈴木博之はそれを歴史家としてかなしみと表現し始めているが山本さん程に酷薄ではない。まだ何かと再構築への意志を持ち続けようとする。それは八十代の人間と五十代の人間の違いだと簡単に片付ける訳にはいかない。学者と文士の違いとも言えない。拠って立つところは似ても似つかぬのだが、しかしところどころに同じ顔が出る。面白い。
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2003 年10月の世田谷村日記
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