石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年7月の世田谷村日記
 六月三〇日
 朝七時起床。稲光りと雷鳴の朝である。それでも東の窓が淡い青をのぞかせて美しい。南の窓一杯にカロラインジャスミンが生い茂り、パギラの樹も五メーター近くまで育った。亜熱帯だなこの家の中は。
 十時大学。レクチャー準備。十時四〇分大学院特別講義。十二時三〇分迄。昼食後小休。十四時元研究室研修生藤田君来室。ワークショップのたしか一期生であった。故郷に帰って職に就くという。幸運を祈る。もう彼も三〇才くらいだろうが、仲々、人生は酷薄だが、まだまだ五〇年くらいは生きなければならぬのだから、本腰を入れて、年齢と対面するしかないだろう。成功するばかりが人生ではないのだ。十五時博士課程カナダ系中国人SAI君の小レクチャーを聞く。三島由紀夫に対する関心をニーチェ、トーマス・マンの系譜らしきもの、そしてニヒリズムでくくろうとしているようなのだが、理解出来なかった。ニヒリズムの系譜という演題が大き過ぎるが、デービッドにしても、SAI君にしても、哲学を正面切って持ち出してくるところには好感が持てる。十五時半大学を発ち、十六時半厚生館現場。アトリエ雲島倉二千六さんと名古屋デザイン博以来の再会。厚生館一階の天井、壁に「空」を描いてもらう事になった。妹尾河童さんもお元気らしい。近藤理事長と会食。二〇時頃世田谷に戻る。

 六月二十九日
 午前中、原稿チェック。今月書いたものの中では、イサムノグチとB・フラーについて書いたのが楽しかった。十二時馬場さん夫妻来室。十三時半松下電工。J・グライターと再会。元気そうだ。十四時半、前橋森田工業。十五時八大建設。十六時半(株)カンパイ来室。十七時過M1ゼミ。世界の住宅価格の比較研究。少しはマシな報告が出始める。十九時過、森の学校の図面見る。二〇時半修了。何だか今日はこんなに働くつもりはなかったのだが、終ってみれば、少々めいっぱいであった。どんな打合わせも、こなす気持はあるのだが、学生との打合わせはやはり少々きつい。でも仕方ない。言葉が伝わっていないのがわかり過ぎる位わかるのが本当につらいね。手は抜けないし。仮眠を少々とって、深夜十二時大版の銅板画にとり組み始める。デッカイ奴はまるで違うやり方で彫らなくては駄目なのがすぐ解った。しかし面白い。止められない。大きいのはとても一気呵成には彫り切れない。休みをとりながら彫る。眠れないなコレハ。

 六月二十八日
 顔も覚えていない、写真も見た事がない祖父の石山福治の事が少しづつ解り始めている。今日は家内が文京区役所に生年月日その他を調べに行くようだ。どうやら彼は語学の才に長けていて、独学で北京で中国語を学んだらしい。その祖父の女大学に寄稿した原稿の印税がわずかな額だが私のところにくるようだ。女大学の寄稿者リストを見ると貝原益軒、福沢諭吉をはじめ、ヘヘーッと恐れ入る名が並んでいる。
 九時世田谷村ゼミ。友岡君の利根町百人スクールの報告。小笠原君幼児退行現象の社会史。このゼミは一直線には進行させない。遠大に遠まわりさせる。十二時迄。昼食を雄大と。十二時二〇分世田谷村発。十三時〇七分発りんかい線直通の電車で新木場へ。トモ・コーポレーション物流センター着工の周辺へのあいさつ廻り。木場の原木協同組合をはじめ、いくつかを訪問。十六時前修了。十六時半五反田TOCビル。一人でコーヒーショップで休む。午後の猛暑の中、歩いての、アイサツまわりはいささかきつかった。

 六月二十七日 日曜日
 十三時半、家づくりワークショップ。Tさんの家を考える、をテーマに。三十名位の参加であった。私の小レクチャー。Tさん自身の病状の説明。質疑応答で十五時過修了。二週間で宿題を参加者に送ってもらう事とする。何か答えが出てくるか、難しいとは思うが待つ事にする。それからの事はそれからだ。十七時過世田谷村に戻る。陶治郎の原稿書いて、送附。すぐにゲラが送り返されてくる。室内七月号、Memo8月号送られてくる。銅版画の下絵数点描く。塩野君より二色刷りのチラシ手渡された。二十時過仮眠。二十三時前起きて少し作業。少しは前に進んでいるのかも知れぬが、仲々理想通りにはゆかぬ。マ、仕方ないか。グチはこぼすまい。メイ・サートンの本少し読む。夜中、独人で小さな灯をつけ本を読んでいると、家の暗闇に色んなモノが動めいているのを感じる事ができる。台所の長いカウンターに並べられたグラスの群や、ペットボトルの空ビンでさえ何かを語り始めるのだ。

 六月二十六日
 九時四十五分新宿集合。十一時取手駅佐藤さんと会い、利根町百人スクールへ。昼食は利根町オバさん軍団の心尽しの家庭料理。お世辞ではなく美味だった。シソの葉を巻き込んだウリのつけものは特にうまかった。十四時文間小学校で第六回目位だったかな百人スクール開催。農業について私の私的な歴史を述べ、友岡清秀の笑う農園の提案。深沢七郎のラブミー農場を想い起すが、まだまだ彼の年ではあのチョッと恐い軽みには達せないよな。佐藤さん宅で、馬場昭道和尚にも会えて良かった。昭道和尚にはチョッと佐藤健の話し振りが乗り移ってきたような気がする。そう言えば佐藤健の奴、深沢七郎の形見のギターを俺にくれると言っていたのに、くれないまんまで、いなくなったな。山手線で少々トラブルがあったらしく、電車が遅れたが、二十時過世田谷村に戻る。つかれて、食後すぐ寝た。利根町百人スクールは私の中では無駄の中の無駄、しかし、こういう実に普通な人達との附合いの無駄から生まれるだろうモノは本物だろう。

 六月二十五日
 十時半松下電工、九州忍田邸オール電化ハウスの打ち合わせ。十三時森の学校内部打合わせ。十六時京王線稲田堤厚生館現場。近藤理事長を交えて打ち合わせ。

 六月二十四日
 七時起床。昨夜は電話で渡辺豊和さんと話した。お元気そうにしておられた。でもネェ、やっぱり建築建てたいんだよ、が本音だろう。八時三〇分杏林病院。病院は面白い。待つ人、行く人、帰る人、それぞれに何らかの弱点を持ち、悩んでもいるのだろう。人間の顔付がきちんと大人なのである。街を歩く、ゆるんだ人々の顔付と微妙に異なっている。私の顔もそう見られているかも知れない。病院は劇場だな。夕方より、劇場へ。十六時東銀座歌舞伎座。六月市川海老蔵襲名披露公演。家族全員で楽しむ。吉右衛門、玉三郎、勘九郎、菊五郎、海老蔵のオールスターキャストである。二十二時半頃世田谷村に戻る。

 六月二十三日
 六時半起床。渡辺豊和氏より「扶桑国王蘇我一族の真実」新人物往来社、送られて来た。三百五〇ページの分厚い本である。何故か嬉しかった。渡辺さんは今六十六才の筈である。良く頑張っているな。一時期変な方向へ行ってしまったなと思った事もあったが、変な方向へ行っても、コレだけやれば立派なものである。独人、コーヒーで遠い奈良にいるだろう渡辺さんに乾杯する。非常に嬉しい。大したもんだよ。夜、電話してみよう。まだ渡辺さんはエネルギーを残しているな。負けていられぬぞ、これは。九時厚生館現場。八大西山社長と会う。近藤理事長を交え、打合わせ。十一時修了。明日、屋根の上の鉄のオブジェ現場搬入との事。昼過、研究室。サンドイッチとミルクの昼食。何故か、このメニューが定番になりつつある。ヤバイゼこれは。サンドイッチとミルクではどうにも余剰の力はでないよね。十三時、松尾建設、来室。十四時過大学発五反田へ。十五時過TOC、トモコーポレーション。十七時半迄。十八時五反田で松尾建設スタッフと飲む。早稲田バウハウス・スクールの生徒であった松尾建設権藤設計本部長も交えて、建設会社の将来について話しを繰り広げる。良い建物が建つ可能性があるんだったら何でもするぞ。いささか附合いで、それでもビールをすすった。二〇時過、新宿で松尾建設スタッフと別れ、只今、二〇時半、京王線車中。

 六月二十二日
 朝九時いきなり電機屋が来て地下で打ち合わせ。その後、地下に入っていた前橋の左官森田君と打ち合わせ。昼前、研究室へ。十四時、真壁氏他来室。子供に贈る家の本業書の件。良い企画だと思うが、売れるのかな。うまくゆく事を祈る。十五時M1ゼミ。世界の住宅価格比較研究。ようやく入口に入った。山田脩二曰く、六〇代を生きるのは実にしんどい。確かにそうだが、この、しんどさあっての、又、ものだから仕方ない。人をはげましているゆとりの持ち合わせが、こちらにもない。自分の事で精一杯だ。

 六月二十一日
 昨日午後から、小猫が一匹世田谷村の住民として加わった。体長二五センチメーター程の白い小猫である。友美の勤め先の上司の知り合いのところから来た。白い、両眼の色がちがう仲々美形の猫だ。ウサギのツトムが新参のイワノフという名前らしい猫の登場で、妙に悠然とした態度つまり先輩顔した風をとり始め、おかしい。まるで人間社会と同じだ。昨夜はこのイワノフが泣き続け、おまけに山田脩二から又夜中に電話があり、よく眠れなかった。山田脩二はこれから、行くかと言うので、それは御勘弁下さいという事にした。私もそんなに体力があるわけではない。しかし、イワノフと山田脩二にはこれからも悩まされるのであろう。
 九時下の原っぱで世田谷村開放系技術ゼミナール。二〇〇四年の方針を伝え、各自の希望を聞く。このゼミが破綻するようなら、私の教育はもう無いな。十二時修了。昼食肉マン二ヶとミルク、さびしいモノである。清貧だな。午後、山田脩二の事が気になり、十八時新宿高島屋十三階のソバ屋で会う。結局、山田脩二は世田谷村まで来た。私は途中で寝てしまったが、家内が深夜まで附合った。何時迄山田さんが世田谷村に居たのか知らぬ始末あった。誠に面ぼくない。山田脩二は今、六十五才。我々は老いてゆく事が実に下手だ。

 六月二〇日 日曜日
 今日は日曜日らしく過そうと考えた。午前中、世田谷村ゼミのプログラムを考え、ある程度の結論を得る。これで明日のゼミを開講できる。自転車操業だね。十四時烏山北口の原口さんと待ち合わせて、コーヒーショップで雑談。十五時三〇分迄。何の目的も、思惑もない附合いは良い。成城迄小バストリップをするという原口氏と別れ、世田谷村へ戻る。夕方、エドワード・W・ソジャ、ポスト・モダン地理学を持って、烏山のジャズ喫茶ラグ・タイムへ。ベーシーと比べれば他愛の無いところだが、又、来てみよう。夕食は宗柳でソバ。ビールを少々。

 六月十九日
 しばらく振りの土曜日の午後、ズーッとためていた机の上の手紙その他を整理していたら石井和紘さんからの活字葉書があった。活字のものだからここに記しても良かろうと考えて内容を記すが、近況報告の形をとっている。要するに矢沢永吉風の金のトラブルに巻き込まれていたが、ようやく脱け出た。これから再び出直すぞという内容である。石井和紘さんには身軽になってもう一暴れしていただかないと、建築界は無風状態のまんまだ。ベタなぎ状況は私にとっても好ましいものではない。それ故、開放系技術・デザイン主義で一石を投じようとしているのだから。主義、主張や趣向は異なっていても、もう一つや二つの波風の素があっても良いのだ。だからと言って、石井さんと何か御一緒にというのはもう無い。それでも時代は廻り続けている。無風状態のまんま廻り続けていて、その速力は速く、強い。この無為の速力こそが今の主題だ。週に半日位こういう時間を持つのは悪くないのだが、自省的になり過ぎるのも良くないしなあ。
 十七時半聖徳寺関係の書類がまとまったので大学発。只今京王線車中。石井和紘さんの活字葉書が妙に気になって、車中で読み直してみる。普通の人間は決してこういう葉書きは出さない。でも考えてみれば、附合いが始まった三〇才の頃から石井さんはこういう文体の人であった。人間は何があっても変わらぬものだ。記して石井和紘さんの健闘を祈りたい。二十一時四〇分西調布駅森川と待ち合わせ。途中原口氏と出会い、お茶。二十二時半中川さんと打合わせ。二十四時前森川を帰す。結局翌日二時前迄色んな話しをした。友部さん栗畑君と富士嶺観音堂及び墓地のビデオを何回も見る。画面に不思議な光が溢れ、走り、幻想的な風景が撮られている。これ迄作ってきたモノとは少し違うなというのを我ながら実感した。少し体に元気が戻ったような気がする。二時二〇分世田谷村に戻る。

 六月十八日
 九時半京王線稲田堤星の子愛児園。藤井さん一家を案内。本来案内すべきスタッフは遅刻。こういう事は許さないよ。十一時厚生館近藤理事長。設計の大筋に対して了解していただく。十三時研究室講談社園部氏打ち合わせ。本作りの方は少し進展する。十五時半野村と研究室発。十七時半森の学校検討会。二〇時修了。二十二時世田谷村。

 六月十七日
 朝、七時過起床。このところ夜の会合が多く、少々疲れ気味で体調悪い。十一時研究室。馬場さん夫妻来室。事情があって自宅・アパートの建設を段階的にすすめる事になった。銀行のイージーな融資の話が崩れて、自力資金による建設とする事にした。御夫妻共、アパート建設の夢をあきらめかかっていたので何とか知恵を出して前向きに考えましょうと励ました。我ながら、他人の不幸は見逃せない。それで、どんどん自分は不幸になっているような気がして、我ながらオカシイ。幾つかの雑用を片付けて十四時半、デービッドの小レクチャー。ハイデッガーの道に関するエッセイと建築的思考。バウハウスの学生の中でもデービッドは優秀な学生であるが、相対的に日本人学生の考え方の幼稚性が痛感される内容であった。原理・原則に対する意志・欲求の強さが違う。十六時半友岡君来室。十七時大学を出て東大へ。第5回の技術と歴史研究会公開講義。十八時より。今回は早稲田の嘉納成男先生のレクチャー。先生は技術は進歩するものだという史観の中で話された。しかし、進歩しなくても良い技術というイメージはお持ちでないように感じた。技術と歴史研究会の主要テーマはおそらく技術観そのものに対する史観の文化的透徹による変更作業のように思うが、いかがか。十九時半レクチャー修了。質疑応答の後、東大正門前のおなじみになった料理屋岡本で食事。何故かいつも雑誌屋さんの参加が多い。難波さんはこの類の人達にやさしい。旦那芸なのかな。会食修了後、地下鉄で四谷へ。佐々木、難波両氏と酒をすする。二十三時半修了。新宿経由で二十四時過世田谷村帰着。体調悪いながら、良く倒れずに歩いていると思うが、この実感も我ながら、いささかデファルメが過ぎている。チョッと疲れているくらいが正しい言い表わし方なんだろう。このメモをつけて、二十四時四〇分頃寝る。今日もピクリとも銅版画も、何も手がつかなかった。本当イヤになる位に俺は凡人だな。

 六月十六日
 七時起床。昨夜はカゼ気味で帰宅後スグ寝てしまった。銅版画は数日ピクリとも進まず。我ながらダメなアーティストである。九時調布駅八大建設西山社長と待ち合わせ伊豆高原の土地へ。何度か道を間違えて十二時半ようやく辿り着く。伊藤さん十三時到着。となりのブトウ屋で食事をとりながら談笑。管理事務所で諸取決めについて聞く。ここの管理組合は仲々金に厳しいので名高く、私も以前住宅を一軒建てたことがあり、その際それで少々苦労した記億がある。伊藤さんの私設ギャラリーの設計は現場の樹の位置をチェックする事で変更を余儀なくされた。単純に細長いギャラリーを少し曲げて複雑にしようと考えた。十四時半現場発。十七時過聖蹟桜ヶ丘八大建設へ。幾つかの物件に関して打ち合わせ。十九時過修了。その後寿司屋で晩飯。西山社長と旧友をあたためる。西山さんとは二〇代のつくしんぼ保育園以来の仲である。田辺泰先生や渡辺保忠先生の思い出話し等に花が咲いた。二十一時過修了。

 六月十五日
 梅雨の合間の強烈な陽光である。最近、世田谷村には二女が持ち込む雑誌や本が散乱していて、それ等の本を拾い読みすると、意外や面白いのであった。十一時厚生館設計ミーティング。十三時松下電器スタッフと打ち合わせ。十四時半、プロダクトミーティング。何も収穫無し。幾つかの無駄なミーティングの後、十六時、日本福祉大学西垣克教授来室。ブラジルからの研修生の受入れの件で話し合ったが、この人の話しは面白かった。病院の将来像に関して色々話された。それが的を射て興味深かった。十七時半、M1ゼミ。世界の住宅価格に関する研究について。院生の知的水準は落ちているな。それでも研究の方向性について、何がしかのオリエンテーションをしたのだが、この人達は本当について来れるんだろうかの疑問大いに湧く。十八時半室内編集部長井来室。室内の連載に関しての打ち合わせの後、新大久保駅前のソバ屋で会食。久し振りに長井と面談。二十一時半ソバ屋を出る。新大久保の山手線が何故かとまっていて、中央線大久保駅まで歩く。只今二十二時前、京王線八幡山駅を通過しているところ。

 六月十四日
 ここ、二、三日の出来事は土曜日にときの忘れものギャラリーに行って綿貫さんと話した事、その後プリンターの石井さん銅を彫るテクニックを教えてもらった事、その結果あんまり技術を知っても私の場合仕方ないと直観した事。その後喰べたタコが美味かった事。日曜日の夜、室内原稿書いた事位か。今日は朝の世田谷村ゼミの後、三菱電機と打合わせ後トモコーポレーションへ、その後友岡君と食事。

 六月十一日
 九時前杏林病院。十一時半新宿駅地下で、本わさびそばの昼食。上野へ。十二時四〇分寛永寺境内根本中堂の軒先で休む。上野の森には実に雑多な魔者が眠っている。雑誌陶磁郎の取材で国立博物館、細川家永青文庫、国立近代美術館工芸館、日本民芸館を見て廻る。十八時修了。少しばかり疲れたけれど、面白かった。現物を見て廻るのは嫌いではない。代々木上原で編集者、カメラマンと分かれ、千代田線で根津に向かう。十八時二十五分根津、約束の時間にまだ間があるので駅近くのカフェでコーヒーを一杯。そして小休する。十九時前はん亭へ。十九時難波和彦先生、鈴木博之先生と参集。歴史と技術研究会のこの後、つまり近い将来について討議する。二十一時修了散会。その後難波さんと二十二時過まで、小川町でビールなどすすり二十二時半お別れ。友あり遠方より来たる、ではないが、久し振りに友人に会ってビールをすする。マア、それ位の嬉しさはあってもよい。昔はこの感覚を義理と人情と言った。銭金抜きの交流は今では稀だが、このベースが無いと、人生は極めてあやふやなモノになるのを知っている。初期モダニストは、この感覚を表に出すのを嫌った。弱い人間であるときめつけられるのを恐れたからだ。しかし、一人の人間の生き方を考えるならば、それは独人の熟考と小集団の交わりの連続に尽きる。人間が生きるのに最小限に必要なのはスペースでも場所でもなく、コミュニケーションなのだ。と少し酔った頭で考えながら二十二時四十分、京王線笹塚駅あたりで考えている。二十三時過には世田谷村に辿り着けるであろう。

 六月十日
 九時、電機屋地下現場で打ち合わせ。十三時過教室会議に久し振りに出る。十五時博士論文内公聴会。研究室OB野口君の論文受理される。公聴会の後、臨時人事小委員会。幾つかの案件を相談する。世田谷村に帰り、エックスナレッジの原稿、イサム・ノグチとB・フラー書く。二十二時四〇分八枚書き終える。やはり書かなければいけない。書くと新しいアイディアが生まれるものだ。解ってはいるのだが、しんどいので時々逃げたくなるのが本当のところなのだ。

 六月九日
 一時過、なんとか昨日が今日の連続ではないようにありたいと思う毎日だが、仲々そうはならない。午前中、午後共研究室で雑用に追われる。十七時グリーン・アロー小川氏石山研小特集入稿終了。十八時過、栃木のビルダー西村氏、室内塩野君来室。新宿で会食。

 六月八日
 八時前起床。昨夜も夢をみないで良く眠った。そう言えば最近は夢をみることが無い。以前もそれ程多くはなかったが、この頃は皆無である。現実に追われているのだろう。居間の吹き抜けのパキラの樹が二つ目の花を咲かせた。4メーター程に育って室内に樹陰を作るようになった。
 今六月九日の一時過。もう六月八日の事を明白に思い出せない。記録をつけている事が如何に重要なのかは、その事辺りにある。自然に流れれば徹底的に空白になってしまう。
 九時前、八代建設西山社長紹介の電機屋さん、世田谷村に来る。しかし、何かピンとこない人なので、すぐに工事の件は断ってしまう。イヤな奴とは附合っているヒマはない。家内のアレンジで富士ケ嶺聖徳寺へ走る。十二時過、聖徳寺現場着。中川さん、工事会社社長と会う。お金の問題をしばし話し合う。中川さんの度量大きいと感じた。内部に家具その他運び込まれ、いささか風趣をそがれるが、それはそれで仕方がない。この建築は中川さんのモノなんだからオーナーの好みが溢れ返るのは当たり前なのだ。東京に戻る。世田谷村帰着十七時半。森田工業二代目としばし話し、十八時過発。新宿西口コーヒーショップで研究室スタッフと腹ペコになりながら打ち合わせ。二十三時過迄。一時過世田谷村帰着。遅過ぎる夕食をとる。

 六月七日
 七時半起床。良く眠った。 24 階の窓から広島の梅雨空を眺めてしばし空白の時間を得る。広島の市民団体が本当に動き始めてくれると嬉しいが、半分期待して、半分ゆっくり待つ気持でいたい。人間が沢山集まれば、喰い違いや行き違い、関心の温度差そして対立が起きるのは自然だ。それを全て包含してゆくのは平岡さんしか出来ないだろう。建築の設計と同じで、最期は個人名に表現される考えのバックボーンが必要だ。六階の和食レストランで朝食。外に大きな樹木を植え込んだ庭がつくってあり、その緑が気持良いのだが。完全密閉された空調の室内で風が流れ込まない。それで、外の緑がいかもの(キッチュ)に視えてしまう。キッチュというのはそういう「意味」の閉鎖状況であるのかも知れないな。という事はガラスの箱の中にいる私はキッチュなマネキンか。九時前広島駅。まだ汽車の時間まで時間があるので駅構内でコーヒーを飲んで時間をつぶす。しかし、こんな風につぶしている時間の方が、仕事と称してジタバタしている時間よりも意味は大きいのだろう。少なくとも色々と考えるから。帰りののぞみは四時間、黄金の時間だ。九時三十一分発のぞみ8号で東京へ。のぞみの車窓から眺める風景の連続は、のぞみが一向に視えぬと言う。これはこのハイテク列車、しかもビジネス用の時速三百 km の速力で走る列車の名前をつけた人は実にスウィフト・クラスの風刺家であったとしか思えない。のぞみ内車内放送のチャイムが嫌だ。山口百恵が多分唄っていた旅立ちだったか、アーア日本の何処かにぃーーーという何処かに希望がありそうだと言うセンチメンタルなメロディーがビチョビチョ流れてくる。嫌だ嫌だと思っていたら京都についた。京都駅は実に同様に嫌な建築である。甘い思想に基盤を持つデザインがたれ流されている。日本のバブル経済の幻影の城だな。人口が減衰しながらあと三〇年経ったら、京都は精神的荒廃の極に落ち入っているのではないか。都市の出入り口に過ぎぬ駅舎が、こんなに多くの商業性をまとわせて何になるのか。十三時半東京着。十四時半研究室。幾つかの打合わせ。十八時デービッド、野村と会食。デービッドのハイデガーの小さなエッセイ「道」に関する話しを聞く。この人は良く考えている人だ。日本の学生のイージーさとは違うものを持っていると思う。二十一時前修了。二十一時半世田谷村に戻る。今日はいささか疲れた。原稿書いたり、銅版画を彫ったりの気力は無い。

 六月六日 日曜日
 五時半起床。家内が私の代わりに富士嶺観音堂の落成式に出るので、そのあいさつの原稿を作る。六時半世田谷村発、七時五〇分発ののぞみ五号で広島へ。車内でウトウトと眠り、講演のスライドを組み直す。今日は広島でJA(農協)の婦人会員千五百人の会で、ひろしまハウスの話しをしなければならない。十二時前広島着。TAXiで国際会議場へ。丹下健三設計のひろしまピースセンター内の大会議であった。食事をしながら講演準備。国近さん、平岡さんと再会。十三時四〇分講演。明日へのヒント「マイノリティのデザイン」という題目。千五百名のJA広島レディースメンバー対象。流石に千人を超える聴衆を相手にすると気合いが入る。菅平の開拓者の家を始まりにして、私のツリーハウス十勝ヘレン・ケラー塔、難民キャンプのための病院、ブッヘンバルトのユダヤ人大量殺人収容所、そしてプノンペンのひろしまハウス建設の道筋で話した。良く聴いてくれたの感触があった。ひろしまハウス建設の寄附をつのるための講演であったが、私にも話しながら新鮮な感動があった。講演後前広島市長の平岡さんが、JAレディースより寄附金を贈呈されるのに立会い、修了。「ひろしまハウス」inプノンペンは私のプロジェクトの中心の一つを成すものである事を自身再確認できたのが収穫であった。十五時前講演修了。平岡さん等と広島NPOセンターに移動。広島市の市民運動団体、東京からピースウィンズ、広島カンボジア市民交流会の人達二〇名程と初会合。ひろしまハウス建設運動が初めて、広島市民のスケールで認知されたのかと感慨深い。会合は十七時から十九時まで。修了後、間近のペルー料理屋で二〇名程の会食。平岡さん等と談笑。平岡敬氏は今、七十七才である事を知る。平和運動を具体的に主張し続けた名市長の根がジャーナリストの本懐である事を知ったのが良かった。早稲田の根深い、良質な伝統だなこれは。反体制ではない。反権力なのだ、やはり。ビールを程々にいただきそれでも二十二時リーガロイヤルホテルにチェックイン。良い一日であった。今日は広島で沢山の人を相手に話し、町づくりの現場での数々を想い起こした。平岡さんと話しながら、今私が深い関心を寄せている日本の農業、農産物と、私の食生活、そして身体の健常さの尺度の問題、を具体的に考える糸口が少しばかり視えてきた。利根町百人スクールでやろうとしている問題は間違いではない。確信に満ちて、と言えば嘘になるが、それでも、やってみる価値はあるのだ。二十二時三〇分ベッドに横になる。深い眠りに入る事ができるかどうか、解らないけれど、とり敢えず横にならざるを得ない。今日はすでに十八時間頭を使い続けているかんじょうになるな。

 六月五日
 八時前起床。十時半研究室幸脇さん来室。十三時研究室ミーティング。忍田さんのプロジェクトの態勢を固めるべく考えを述べる。この計画は大事にしなくては。石井が何処まで出来るか試してみよう。キャパシティーはかなり大きそうだ。アベル・エラソよりチリのモダニズム建築の報告。私はチリのバロック建築に関心があるのだが。十五時設計製図講評会。毎年新しい三年生の才質を見るのが楽しみなのだが、どうやら今年は低調なようだ。李祖原も二〇時迄つきあう。明日彼は台北に戻る。毎年、年毎に学生との年齢もレベルも距離が開き続けのはやむを得ないとして、本当に人材が払底しつつあるのを感じる。要するに大人になるのが遅過ぎるのだ。先生方と久し振りに会ったので会食。遅く世田谷村に戻る。

 六月四日
 八時起床。昨夜の月は凄かった。そう想う自分がいたんだろうが。ゴーンゴーンと階下で音がするので降りてみたら前橋の森田工業二代目が現場に入っていた。十時半五反田トモコーポ。社長と打合わせ。十三時研究室。馬場邸アパート他打合わせ。十五時過出。十七時中央林間、森の学校古木氏等と打合わせ。十九時過迄。二十一時世田谷村帰着。二十二時新木場杭工事見積り届く。大幅なコストダウンの数字が杭メーカーから出る。二十三時過友岡社長と電話で対策を相談する。ゼネコンの見積りの何処を信用したら良いのか益々解らなくなる。設計家の役割の大半はマネージメントである事をいよいよ確信する。市場主義の本質がコストの隠蔽で良い筈があるわけないが、現実はコストのブラックボックス化によって、その全体が作動しているのも現実であろうか。人間の労働の尊厳自体がマネーの不透明さによってもて遊ばれているのだ。
 今夜の月も大きいが昨夜の冴えはすでにない。梅雨入り間近らしいが、その直前の変異の一瞬だったのであろうか。

 六月三日
 十時半ひろしまハウス打合わせ。広島市立大学平和研究所教授水本先生、ピースウィンズジャパン根木さん、広島県総務企画部出原さんと。六日の広島での会議の準備会。素人家づくりワークショップのテーマを藤沢・Tさんの家づくりをテーマにする事にしたい。先ずTさんの了解を得なくてはならぬ。十三時DIY本打合わせ。十四時新木場杭の件打合わせ。十五時過研究室発池上本門寺伊藤さん宅打合わせ、後本門寺境内を歩く。幸田露伴、文の墓があった。露伴の五重塔は谷中の五重塔だった筈だが、墓は池上なのか。力道山や市川雷蔵の墓もあるらしい。池上駅前のコーヒーショップでスタッフと打合わせ。十九時半修了。二十一時過世田谷村帰着。墓地を歩くのが気持よくなったのは年のせいかな。鈴木博之先生は若い頃からすでに年をとっていたのだろうか。
 夜、満月が空一杯を照らしている。長安一片の月の詩を思いおこすが、西安で視た月は随分煙で汚れていた。現代中国の都市風景から李白や杜甫の如き詩が生み出される事は無いだろうな。

 六月二日
 九時半地下へ。十時半グライター講義。「クラッシュするイコン」面白そうだったが、打合わせの為、最期まで聞けず。十一時半松尾建設来。十三時過李祖原、グライターとGAへ。二川幸夫と会う。八月末の上海Gスタジオに二川さん来訪することになった。十五時過五反田。トモコーポレーションへ。十八時過まで。二〇時世田谷村地下。

 六月一日
 今朝から地下に人間を入れる事にした。前からの予定通りなのだが、まだ十分な仕事環境ではないが、一階の窓も塞がっていない、床も仕上がっていないのだが、敢えてその中で院生を一人勉強させる。大学の研究室は研究室でそれなりの事ができるが、当然大学は学生の場所でもあり、その生活によって規程されざるを得ない。地下の最初は一人だけが良い。地下にはスタッフ、院生十八名程を入れた事があったが、アッという間にサークル空間になった。カルピス状況である。もうアノ状態は嫌だ。八時過地下を点検し、一階ピロティ部でボーッとしている。雨が強く降っている。アレッ、今、前橋の森田工業のトラックが現場に来た。二代目の息子さんが再び下見に来たようだ。八時半院生一人来る。森田君帰る。来週から工事に入るそうだ。こちらも色々と段取りをしなくては。九時半まで院生と話して研究室へ。十一時研究室。典型的な雑事。午後西武線入間の鉄工所へ。回転ジグなる機械でアントニオ・ガウディ風ねじ曲げ工業製品の裸形を実験する。しかし機械はねじまがりを正確に成し遂げてしまい本当のヨイ形を作れない。回転ジグに貼りついてオペレーションをする時間と感覚を労費するのをいとわずには、本当に良いモノは得られないかも知れぬ。十九時半研究室に戻る。新木場倉庫打合わせ。ゼネコンにはモノづくりのスピリットを持った人間は居なくなったのか。建設産業の自由化をいずれ迎えざるを得ない時に、つまりスーパー現実の建設の現場に於いて日本は全て負けざるを得ない。早くその現実に気付くべきなのだが・・・。夕食は李祖原、グライターと高田馬場、文隆で。彼等を東京に呼ぶことが出来たのがホンの一瞬の幸運に近いものであったのを話せたのが、良かった。本当に日本のあやうさを告げるのは辛いのだ。日本は死を迎えた病気なんだよね。国家はそれを救えない。当然。

2004 年5月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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