石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2005 年2月の世田谷村日記 |
一月三十一日 |
月日が流れてゆくのが恐ろしい位に速い。もう一月も終わりだ。朝、大版の銅版画ほぼ仕上げる。軽いタッチの鉄筆の使い方が解った。何だかんだと眼の前の壁を乗り越えてゆく時にテクニックを身につける事が出来るのを知る。これで二点できた。去年より進歩している。 十時半研究室。住宅ミーティング。十二時修了。十四時四〇分CEMAミーティング。十六時迄。広島より水本先生等広島県の方「ひろしまハウス」に関しての打合わせに来室。カンボジアの渋井さんも交えて十八時迄。私はなにしろやり続ける。今日は渋井さん達と会食を予定していたが、何となく気が乗らず二〇時半世田谷村に戻る。 |
一月三十日 日曜日 |
M氏から送られてきた資料読む。ここまでM氏の通信のエネルギーが膨大になると流石に私もその渦に巻き込まれてゆきつつあるのを感じる。マ、いいさ他人に導かれて行くところまで行ってみよう。十時屋上菜園に上り少しばかり土を掘り返してみる。生ゴミを埋める。富士山が近い。十一時過散歩。文房具屋でインクを買ってコーヒーショップで休む。モンブランのインクビンのデザインは実に良い。重さといい、手ざわりといい、時代の流れにポツリと孤立しながら風格がある。ホレボレとするなあ。午後銅版画すすめる。十七時過世田谷村発。十八時過西国分寺、東福寺。宮本常一先生二十五回忌。偲ぶ会。宮本千晴氏と三十五年振りの再会。相沢君、真島君等と会う。相沢君から宮本先生の多くの写真を見せて貰う。吉阪隆正先生との写真が数枚あり、焼増して送ってもらう事を約す。川合健二との写真もあるそうだ。遠くの島根県から山崎氏も上京され読経して下さった。宮本千晴氏と話しが出来て良かった。相沢君から川合健二邸保存について相談を受ける。鈴木博之藤森照信にもそろそろ相談したほうが良いかも知れぬ。宮本常一門下一党らしく誠に善良な人達の集まりであった。二十二時過散会。宮本常一の故郷周防大島から送られてきた水仙の花をいただいて帰る。二十三時過世田谷村帰着。 宮本千晴氏も率直な実感を言っていたが、日本の都市農村を問はず、風景の絶望的な汚さ、品性の無さの元凶は何なのか。その汚さの中で暮らしている事が感性そのものを破壊している恐ろしさの現実は計り知れぬものがある。地方都市、特に農村部の風景の悲惨さは戦争の風景、戦場そのものではないか。その戦場では風景がジワジワと人間の品性を殺し続けている。人間が作った近代の風景が人間を殺している。宮本常一が撮り続けた日本の戦後から高度経済成長期までの風景の記録が痛烈に突きつけるのは建設の悲劇とでも言うべきか。建築家は何をしてきたのか。宮本常一の背中を眺めながら歩き続けている結城登美雄の農村計画は大事なプロジェクトであるのを自覚する。 |
一月二十九日 |
〇時三〇分、少々疲れて銅版画製作ストップ。M氏からの便り届いていて読む。七時四〇分起床。猫に食べ物をあげる。今は猫と一番気持が通っているな。八時過銅板に手を入れる。不思議なモノが出来た。十一時研究室で軽井沢の大野正行さん一家とお目にかかる。近くのS邸と同時進行できそうなので御依頼を引き受ける事にした。十三時大隈講堂三年設計製図公開講評会。スーザン・ソンタグのキャンプを巡り、鈴木了二との掛合いクリティークトークが面白かった。時々、クリティークはこういう事が起きるから。でも学生は全然解らなかったろう。十七時修了。十七時半研究室に戻り、CEMA計画ミーティング。大沢温泉ホテル打合わせ。十九時過、初台近くの寿司屋で若松社長と会食。李東植同席。モスクワ、上海の事など聞く。二十三時前世田谷村に戻る。浜松町泊の結城氏と電話で話す。農村計画へのアドヴァイス、メモを送ってもらう事を約す。 |
一月二十八日 |
七時半起床。朝の光が今日も横なぐりに大部屋に差し込んでいる。体調の回復を過信せず、ヒタヒタとやってゆこう。昨夜はM氏からの便りを遅くまで読んだ。九時半調布現場。梅沢良三氏構造検査。十時半修了。帰途、アジア大津波の話しなどする。研究室へ十一時四十五分。 十二時五〇分研究室出。高田馬場古市徹雄設計事務所に寄り、共に津田沼の千葉工業大学キャンパスへ。十五時講演会。十七時迄。修了後、東京駅のグリルで古市氏の次男と共に会食。二十一時半散会。世田谷村に戻る。すぐに銅版画にとりかかり、一点を完成させる。面白いのが出来て少し嬉しい。 |
一月二十七日 |
七時十五分起床。銅版に少し手を入れる。 九時過ぎ杏林病院定期検診。異常ナシ。体は確実に回復している。午後馬場邸現場。高山邸現場を廻り、十五時半研究室。明日の講演会準備。十八時東大。技術と歴史の会。中谷礼仁講演を聴く。歴史家としての活動がアレキザンダーまで一見無原則の内に拡散しようとしているのに少々の危惧を抱いたが、彼は四〇才。発展途上国だ。頑張って欲しい。アレキザンダーの失敗は資本主義の経済・技術の枠を余りにも軽視しているところから来ているのだが、渡辺保忠の建築生産組織論を学んだ筈なのにそれが、まだ分離しているようだ。しかし今、時代が変わり始めているので、未来はわからぬ。アレキザンダーが中世主義者であるという、すでに歴史的批判もあるが、どれ位のスパンの批判だったか。難波、鈴木、伊藤先生方等に久し振りにお目にかかる。正門前の料理屋で会食後、二十三時過世田谷村に帰る。 |
一月二十六日 |
町づくり支援センターのやり残しに関して、いささかの考えが出たのでフォローする事としたい。先ずは自分でモデルを示さなければならないだろうな。それからスタッフに渡す。スタッフはそれぞれに様々な能力を持つ。しかしながらその能力は多くの場合埋もれたままに放置されているか、自分で埋めてしまっている事が多いのだ。七時四五分起床。今日は近くの泉高校で高校生に講義をする。朝、レクチャーの準備。金物の食器のスケッチを木本君に送る。通信の形にすると、とりとめのないままのアイディアもまとまりやすい。十二時半頃成城行のバスで世田谷工業高校へ。旧工業高校だと聞いたので、てっきりそうだと思い込んでいたら、これが大間違い。泉高校は旧烏山工業高校だった。TAXIで旧烏山高校現泉高校へ。烏山の北口であった。校長先生村島先生あいさつの後、十三時二〇分より五〇分のレクチャー。一番前の席で一人眠ってる女の子がいたので、眠ってもよいから後ろの席で寝てくれとたしなめる。大学と同じだ。こんな事を注意する先生が居ないのだろうな。二つのグループに分かれての世田谷村見学のプログラムだったようで、全てには附合えずお別れ。一人でも気持の何処かに刺激を受ける高校生が居ればと思って話したのだが、どうだったか。しかし、考えようによっては高校生相手でも手を抜けないと言うのがいかにも私らしい。親父も高校生相手の教育者だったし、川合健二も宮本常一も若い私を相手に決して手を抜かなかったからなァ。しかし、もっと大きかった。まだまだだなあ。 夕刻世田谷村屋上に上り、土を掘り返す。水仙が咲いていた。温めていたイメージを銅版に刻む。しばし没頭する。久し振りに土を耕す作業をしたので体が変だ。二十一時迄銅版に取り組む。二点に着手。荒地の風景に巨大なアンモナイトが登場している。なんだろう、これは。昨年はあんな体調、気力のおとろえの中でよくやったんだなあと不思議な気持。こういうものの制作は体調とは無関係なのかもしれない。 |
一月二十五日 |
六時四五分起床。外尾悦郎は言っている。信仰というのは神と自分の関係だと思っていたが、それは突きつめると愛情なんだ、例えば石に対する愛情だと。そうすると自分がどんどん小さくなって、あらゆる事に感謝できるようになって、それが、ありがたいと。あいつの言う事だから信じられる。そうなんだろう、とは思うのだが・・・。自分を小さくしてゆく事だけは考えなくてはならないな。ネラン神父や鈴木博之氏の事を想う。まわりの人が皆大きく視えてくる。ワイマールのニーチェ・ハウスに泊まっていた時、深夜聴いたかに思うピアノの音を思い出したりもする。幻聴かどうか、定かかどうか、それさえもあやふやだが何処からか聴こえた。ニーチェのツァラトゥストラはニーチェの狂気だけを育てたのか。 八時二〇分府中。西山氏と国分寺へ、途中で塗装屋さん合流。九時前O邸。十時四五分研究室。 東北の結城登美雄さんへプレゼントする計画案の第一歩を作図して送る。CEMA計画の打合わせ。フィンランド計画の打合わせと続く。昼食は又もサンドイッチ。アベル、ヘルベルト共に能力はあるのだが、仕事の進め方は解っていないのでいささか苦労が多い。しかし怒るわけにはいかない。十五時安藤と住宅ミーティング。大沢温泉ホテルの計画案を四名に描かせて、すぐに送る。依頼者の持つリアリティーにスタッフが対応するスピードが問題。マア、これも自分の経験を即応させなければ。二〇時十五分修了。世田谷村二十一時四十分帰着。遅い夕食。 |
一月二十四日 |
〇時半就寝。八時前起床。東北の結城さんに便りを書く。結城さんは広告代理店経営者から百姓に転身され、様々な苦労は勿論あるのだろうが、まぶしい存在になってきた。もう一月も末になるが、何もしないうちに時間だけは過ぎてゆくな。 十一時研究室。 二十一時半世田谷村に戻る。何故だか家に昨年末のカトリック新聞が床に転がされていて、外尾悦郎が登場していた。知らぬが仏だったが彼はやはり九一年に洗礼を受けていたらしい。洗礼名はルック・ミケランジェル。八十何年だったかカトリックに入信するかどうかで迷っていたからな。ガウディのサクラダファミリア教会の建設続行に参加して、本当にその建築をまっとうするならば、それはカトリック信仰なくしてはあり得ぬ。今はそれが少しは解るようにはなった。いつか再び外尾とは会う事になるだろう。その時、無信仰の私はどのようにアノ男と対すれば良いか。十二時過、就寝。 |
一月二十三日 日曜日 |
昨日はT邸現場を見て午後藤沢のTさん訪問。十七時迄。その後色々な相談を含め会食、深夜帰宅した。 昼過木本一之君からの通信を詳読。広島の山の中で彼は独人黙々と努力している。様々な意匠の物体を依頼し始めているのだが、私も彼の生き方、独人の在り方から学ばなければならぬ事が在る。大阪のM氏からの通信も読む。この人物からの通信も奥深いところに痛切なものが在る。彼等との附合いは最近の私の不如意をまざまざと思い知らせる。彼等を下から仰ぎ見る感じで対応したい。頭が高くなったらおしまいだ。教師もやっているので自然に周囲は先生、先生と私を呼ぶ。十数年もそんな空気の中にいれば、イケナイ、イケナイと自覚はしていても、自然に顔が先生顔になってしまっている。これは危ない。当り前の事ながら、つくる人であり続けるのだから、地ベタに近い腰の低さ、視点の低さは共に欠かせぬのだ。木本君に「子供の像」の造形に関して感じた事を手紙に書く。 十四時前府中で八大建設西山さんと会い、国分寺O邸へ。O邸も五年経ちメンテナンスを定期化しなくてはならない。屋根に登り念入りに点検する。諸々の問題点あり。建築は本当に一筋縄ではゆかぬ。 T邸オープン・ハウス+小展覧会「家づくりを楽しむ方法」のプラン作成する。あんまり気張らずにサラリと、しかし、ズーッと続けられるように考えてみた。このスタイルの小さな集まりをB邸、新木場社屋、森の学校と今年前半に連続してやってみよう。十七時修了。 |
一月二十一日 |
昨日は夕方再びT邸現場。内外の仕上げ確認。ほぼ思い通りの感じに仕上がった。左官、塗装職人達とおしゃべり。こういう時間は楽しい。今日は十一時研究室。INAX出版来室。十二時 [0512] フィンランドP打合わせ。 朝、東北の結城登美雄氏と連絡。自給自足農村計画の第一段階を一ヶ月以内にまとめる方針を決断した。 午後東北農村計画。打合わせ。十五時設計製図採点。十七時修了。何件かの打合わせ。十九時過おわる。新大久保駅前近江屋でビール飲んで二十一時半世田谷村に戻る。銅版画の下図をスケッチ。 |
一月二〇日 |
〇時半就寝。七時半起床。朝陽がほとんど水平に二階三階に差し込んでいる。こういう事に家族は誰も価値を認めない。寒い寒いと文句を言う。マ、それも仕方ないのだ。体調、気力、共に回復しつつあるので少しづつ世田谷村の事もしなくては。 九時過ぎT邸現場左官仕上げ色出しチェック。よい色合いが出ていたが心配なところもあり今夕再打合わせとなる。発華現象は科学では呑み込めぬ。経験で呑み込むしかない。十二時二〇分研究室。北京の李祖原と連絡。十三時教室会議。十五時教授会。 |
一月十九日 |
早朝批評と理論シンポジューム七回分の最終稿チェック。九時終了。一息つく。十一時過研究室 [0501] CEMA作業。雑打合わせ。 李祖原事務所とCEMA計画の連絡。他二十二時迄食事もとらずに打合わせの連続。二十三時過世田谷村に戻る。遅い食事をとる。 |
一月十八日 |
昨夜、ダムダンの竹居正武と相談したのは要するに最終段階の一つ手前の時間をどう生きるかという事だ。町づくり支援センターでのやり残し、プロダクト、コンバージョンは今の研究室の人材では困難だ。このまま放置しておくと何も残らぬ。それらの一部とプロダクトの軸足をダムダンに移行させる。銅版画を再開したい。世田谷村下の廃材を使ったオブジェと小屋を作り始めたいのだが。二〇才台の身体であれば自動的に体が動き始めていただろうにと思うのだが、今はそう考えることをいぶかしむ自分もいる。智恵ってのは様々に自分を疑うことでもあるのかな。 十一時半小田急線車中。中央林間森の学校現場へ向かっている。十二時半駅前のモスバーガーで昼食。駅前をグルリと後ろまで廻ってみたがマアこれならいいかの飯屋が発見できなかった。モスバーガーの味は要するに無色透明。何処にも変なところが無いが、何処にも味がない。教師になったばかりの頃学生達がコンビニフードを良く喰べ、ために自炊させてもその味がこんな風であった事を記憶している。この味にどうしても馴染めない。森の学校現場。構造の佐々木さんと会う。只今十四時過小田急線で新宿に向かっている。森の学校のファサードに木の装飾をあしらってみようと車中でスケッチをつづける。トーテムポールか、かかしか、どちらかだな。どうも、うまくいかない。新宿に着くまでにアイデアが固まらなければ止めてしまおう。森の学校のエントランスのテラスには「あいさつお化け」の表情をつける事にした。子供達の毎朝夕の来園、退園に、おはよう、さよならと、あいさつするお化けをここにデザインする。十五時四〇分研究室戻り。早速あいさつお化けのスケッチ。 |
一月十七日 |
晴れた。きょうは午後動くつもり。 十一時研究室、打合わせ。十八事迄。昼食はサンドイッチ。十八時半目白ダムダン空間工作所にて竹居正武と打合わせ。これから先十年の、チョッとした打合わせ。大学教師になってから、考えてみれば初めて私の古巣のダムダンで本格的な相談を行った。大学を拠点とした設計活動はそろそろ気持ちとしても限界を迎え、将来の事を考えれば、再び本来の町場に戻る気持ちをダムダンに伝えたのだが、竹居は私のワガママを良く聴いてくれた。復帰のプログラムは熟考のうえ段階的に成し遂げたい。家内と相談しなくては。 |
一月十六日 日曜日 |
大阪からの沢山な便り、及び同封されていた木村重信氏の論文読む。辻晋堂の琵琶を弾く男の写真が良くて色々な事を考えさせられた。 他人の孤独をのぞくのは自分のそれに触れるに等しい。 |
一月十五日 |
〇時四〇分就寝。O邸門扉デザイン。今日は大雪だと言うがどうかな。七時四十五分起床。曇天だが降雪は無し。十時T邸現場。十二時半B邸現場。十四時半岡邸訪問。メンテナンスの件。その後夕方より青山で会食。打合わせ。深夜世田谷村に戻る。 |
一月十四日 |
昨日は予定をこなせなかった。こなせない予定を組む愚かさから抜け切っていないが予定や計画表を作っていると何故か安心してしまうのが現実だ。バーチャル世界と混濁しちゃうのか。しかし予定、計画も又一つのリアルさを持つ。人生は達成されない予定の集積である。 十一時研究室いくつかの仕事を見る。照明器具一つデザイン了。木本君に送信。十三時蔡君等と [0501] CEMAミーティング。台北の李祖原と連絡。十五時三〇分ヘルベルト、アベルとフィンランド計画 [0512] 打合わせ。十七時半終了。学生相談十八時半迄。明日は予報では大雪らしい。天変地異が続いているので用心したい。大沢温泉ホテル庭園プラン送信する。二〇時過修了。世田谷村二一時半。木本君M氏より便り届く。木本君は良いデザインに辿り着いた。 |
一月十三日 |
良く晴れた朝だ。世田谷村の冬の寒さは仲々厳しい。十時三〇分研究室CEMA計画第一回プレゼンテーションの概要プラン。十二時過修了。杉並の井口さんよりお便りいただき、返信。宮崎より牛小屋の設計してくれの電話いただく。デッカイ牛小屋だが、宮崎は遠いナァ。十三時教室会議。十五時新木場定例会議。 只今十五時四〇分飯田橋で乗り換えて有楽町線で新木場へ向かっている。新年初の教室会議で大事な案件が話し合われ途中で抜ける事ができなかった。昼食も喰べ損ねて空腹極まる。十七時半新木場定例会修了。サインは良く出来ていた。スマトラの津波はトモコーポレーションの仕事にはそれ程の影響は無かったようだ。中国製のコンテナをかなりの量輸入するので二月中旬に上海の工場に行く事になった。北京から廻ればいいか。 |
一月十二日 |
十時O邸で三菱電機と打合わせ。十一時三〇分修了。大沢温泉ホテルスケッチ。十三時三〇分 [0501] CEMA計画打合わせ。十七時前迄。終了後内部スタッフ打合わせ。未知の分野の仕事なのでスリルがあり面白い。未踏の峰に挑む感じかな。 [0512] フィンランドの計画打合わせ。二〇時半迄。二十一時半世田谷村。南の空に大きくオリオン座の星々とシリウスが昇っていた。冬の星座はやはり豪華だな。しかし底冷えする夜になった。二十四時迄CEMAのコンセプト作り。二月の北京でのプレゼンテーションの骨子を考える。 |
一月十一日 |
T邸B邸現場。十三時半研究室。幾つかの打合わせ。夕方宇佐見梅原建設来室。遠いところ御苦労様。十九時過修了。二十一時過世田谷村戻り。木本君M氏よりの便りに返信。 |
一月十日 休日 |
終日エスキースと読書。エスキーススケッチで使う細胞と字を書く時に働いてもらう細胞はどうやら本当に別のところに棲みついているようだ。一方を使うと、一方が使えなくなる。 |
一月九日 日曜日 |
昨日会ったTさん、山口勝弘さん、共に身体的には障害がある。しかし障害を持つ人はなんともリアルな存在感がある。何故か。人間は実に皆誰もが何かの障害を持っている。良く出来た機械のように全ての部分が正常に働いている人間は存在していない。日々死に向かって歩みをすすめている。死は完全な静止、停止の状態である。生命はその状態に向かう虚無的な運動だ。その運動は人間に内在する電子エネルギーの燃焼変化を言う。変化流動は完全な静止に対して非対称、つまり極論すれば障害故障の形をとる。生命とは故障の連続の網渡り状態でもあろうか。それ故に眼に視え易い障害に対面したときに感得する圧倒的な存在感とは自分自身に内在する微々たる障害の群が鏡に映し出されているのを直観するからなのだ。 大阪のM氏からの長文の便りを読む。TTT計画エスキース開始。 |
一月八日 土曜日 |
薄い陽光が差し込む寒い朝が続く。今日は藤沢のTさん宅を訪ねるが、クライアント一家が対面する困難さをどのように引受けられるのかに対応しなければならない。[0513]T邸で試みた屋上テラスの試みを踏襲するのが自然だろうな。例えば屋上に小動物の小屋を作るような、佐藤健の酔庵の完成型のプロジェクトも参照してA邸の素材の使い方をそれに加えてみるのも一興だろう。ご主人の五体をフルに使ってもらう、例えば、よじ登るように手足全部を使い切ってもらう部分を作るような事を考えてみよう。ヘレンケラー塔の屋上に登る階段も参照したい。 十三時Tさん宅。十五時迄。十七時多摩プラーザに山口勝弘さんを訪ねる。ヴィトリーヌの話しを再びうかがう。刺激的であった。自由ヶ丘で食事後世田谷村に戻る。 |
一月七日 |
[0501] CEMA計画 [0502] B邸 [0503] O邸 [0504] S邸打合わせ。主にスケジュール。 [0507] 森の学校 [0508] 新木場トモコーポレーションの段取り。 十四時三沢千代治氏来室。α社長若松氏と打合わせ。カナダの中国人入室希望者来室。先端電気工学から建築に移るというのはアナクロな様な気もするが、そうしたいと言うのだからそれも良いのだろう。研究室も半分位が外国人になると理想的だろう。十七時過アベルと [0512] フィンランドの打合わせ。二〇時過宗柳夕食。 明日は再び山口勝弘氏訪問の予定。ヴィトリーヌの件を詳細にうかがうつもりである。モスクワの件はどうやら足掛りのアイデアが生まれた。 |
一月六日 |
八時五〇分世田谷村発。昨夜は大阪のM氏多摩プラーザの山口勝弘氏に私信。調布のB邸現場へ。なんとかしてヴィトリーヌの現物をもう一度見たい。九時二〇分調布B邸現場。昼には研究室に戻るつもりであったが、遂々、現場の空気に引張られて十七時過迄現場にはりつけられてしまった。昼食は河野鉄骨社長等と、和風定食。重機と職人達の動きの組み合わせが実に面白い。星の子愛児園の道具の組立て時に感じた事を再び確認した。ロボットと人間のチームが何かを作り上げてゆくのを見ているのだ。 小建築、と言うよりも住宅、住環境のつくられ方は小重機と人間の組合わせが一番合理的なのだ。しかし一日中凍てつく寒さの中で外に立ち通していたので、体が冷えきった。十八時三〇分宗柳で一人夕食。白菜ナベ他とかけそば。 |
一月五日 |
朝、スタジオ・ヴォイス森の生活特集読む。十一時過研究室。今日からスタッフも顔を出し始めている。 |
一月四日 |
朝、屋上菜園に生ゴミ埋める。富士山には雲がかかっていて全体は眺められない。遠望する富士は近くに眺めるよりは、まだましなところがある。反対側、つまり東には森ビルと東京タワーが視える。この三者は同じようなモノの様な気がする。山口勝弘ギャラリー、一枚書き加えた。木本君より送られてきたスケッチへのコメントを書く。ゆっくり、確実に、やる。 十二時研究室。開放系技術デザイン論に手を入れる。カバーコラム、一本書く。夕方、新宿高島屋13Fのソバ屋でα社長若松氏と会食。少し食べ過ぎた。 |
一月三日 |
冷水さんから送られてきた町家シリーズの絵の写真を三階の私のコーナーに飾る。彼は不思議な人だ。着々とやっているな。ワークショップに参加し続けた人の中から数人、今の時代を乗り切れそうなライフスタイルを暗示させるような人材が生まれているような気がして、これは良い。冷水さんはキルティプールの空気を良く感じられた。昼過世田谷村近くのコーヒーショップで原口万治さんと会う。原口さんは七〇才でまだ現役の勤め人である。区画整理事業では日本一のコンサルタント会社で働いている。 休みの日の原口さんの日課は朝超高齢のオバアちゃんの世話や、何やらを充二分にして、それから烏山駅の近くまで出掛け、バスに乗って成城学園駅まで、小バスツアーを敢行する。成城学園では決まりのコーヒーショップがあるらしくて、そこの窓際の席でコーヒーを飲みながら読書。ネパール奥地の探険紀行やら、不思議な本を読みふける。色々な事情があって家族の世話をしなくてはならず、それで、ある時期から自分の欲、例えば世界の何処に行きたい、あれもこれもしてみたいというような普通な欲は捨ててしまった。昔は原口さんは某ゼネコンのバリバリの仕事師であった。地あげしたり、住民運動に対応したりの毎日であった。そんな毎日と、極く極く通常な欲を、家族の平安の為にある日全て捨てた。私に言わせればいきなり解脱した。だから私の娘がアメリカから帰れば、写真見せて、アメリカの話しして、だって僕、アメリカ行けないから、とそんな風な事を自然に言う。知り合ったばかりの頃はそんな原口さんの生き方が全く理解できなかった。理解しようという気持ちにもなれなかった。 今は、私には彼のような生き方は出来ぬけれども、アレも生き方の一つなんだろうと言うのは解るようになった。身体ではまだ解らぬけれど、頭では解る。少なくとも、解ろうとせねば、人間としての品位に欠ける位の事は了解できるようにはなった。つまり、冷水さんや、広島の木本君のライフ・スタイルを好ましいものだと思うのと同様な事だ。 |
一月二日 |
十一時前多摩プラーザの山口勝弘先生を訪ねようと世田谷村を発つ。十二時三〇分多摩プラーザ着。坂道の上から富士山が見事だった。雪が残る正月の午後の光の中を信頼する老芸術家に会いにゆくというのは嬉しいモノだ。山口さん昼食中で部屋に不在であったが十五分位で戻られた。車椅子状態に変わりは無いが、驚く程に明晰な話しを続けられて、頭脳=知覚は全く衰えを見せていない。お話しなさりたい事が山程ある様で、エネルギッシュに語りかけられて少し計り、又も、圧倒された。話しの内容の何がしかは山口勝弘ギャラリーに収録したので御照覧を。十四時半、余り長居してはよくないと考えて失礼する。「チャオ」だってお別れの挨拶は。一年前に色々とお話しをうかがった事の細部迄記憶されているのにはいささか、たじろぐ。再び坂を登り、下り坂の途中のとんこつラーメン七志でラーメンを食す。まずくもなく、うまくもない。十六時過世田谷村に戻る。元旦の朝は宮脇愛子、二日は山口勝弘と実験工房の芸術家に連日会い、私の銅板画数点を差し上げる事が出来て良い幸先を開ける事が出来た。 夕暮の西の空に宮脇愛子さんのところの−天文台の時刻−恋人たち、の雲が浮いていてギョッとした。ギャラリー山口勝弘5枚書く。開放系技術・デザイン論 30 枚まですすめた。 |
二〇〇五年 一月一日 |
一時半頃、磯崎宅より世田谷村に戻る。磯崎新論何とか今年中にまとめたいと思うのだが、磯崎さん自体がまだまだ自在に、いよいよアナーキーに動いているので、何ヶ月毎にあるいは年毎に切り口を変えないと書き切れぬ確信が強くなるばかりだ。中国への関心が深まっているようなので、その関心への論述から入るべきか。ともあれ、毎週書きすすめたい。九時過起床。母は何かをしてないと落ち着かぬ人のようで、家の中のしつらえとか花の位置を小まめに変えている。先年、収納の箱をアッという間にデザインして作ってしまったのには驚いたが、次女はこの血を継いでいるのだなあと思う。マン・レイの展覧会のカタログ読みふける。昨夜磯崎宅より持ち帰ったen−TAXIも通読。磯崎新の近来の自然体的戦略を知る。山口勝弘先生に新年のごあいさつの電話を入れる。午後屋上菜園に上り、水仙の花とブルーベリーを切り屋内へ。手にブルーベリーの匂いが移り気持良い。 |
2004 年12月の世田谷村日記
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