石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年3月の世田谷村日記
 二月二十八日
 十時研究室。定例ミーティング。欠席者多し。十三時迄。十三時半大隈講堂、修士論文修士設計発表会。十九時過迄。二〇時前研究室戻り、打合わせ。二一時半新大久保駅前近江屋でα若松社長と打合わせ。CEMAで面白いビジネスモデルが出てきた。強気でいく根拠が確実にできた。二十三時過世田谷村戻り。
 二月二十七日 日曜日
 九時過ぎ起床。この週はあわただしく、ほとんど足が地に着かぬ感があった。来週は少しのんびりしたい。数日前のシャープ訪問では最終日、小一時間程の当麻寺が良かった。中将姫の夢と現実の塔頂建築が一瞬クロスしたのを視た。マ、疲れてたんだろう。新潟の早福岩男さんより「新潟・古町芸妓の世界」〜珠玉の芸に生きる〜送られてくる。DVD、非売品で企画・協作早福酒品店、製作・著作BSN新潟放送とある。早福さん日本一の酒屋を越えて、酒文化の継承まで乗り出したか。
 十三時前世田谷村発。国分寺岡邸へ。メンテナンスの件で打合わせ。建築をつくるのはいともたやすいが、メンテナンスが実に困難だ。キチンとしたい。十五時四〇分まで再び屋根に上がったり、テラスに上がったりで検分する。十七時過世田谷村に戻る。十九時迄銅版画に取り組む。新しいモチーフに取り組む。二十一時迄手紙を書いたりで過し、休む。
 二月二十六日
 十一時研究室。O邸チェック。十五時過喜多見、高山邸オープンハウスへ。十七時過迄百二〇名程の人が来訪。難波和彦さんを除いてほとんどが初対面の若い人ばかりであった。高山さんの友人達にもお目にかかる事が出来た。京都の高山さんの父上より高山泰造の「寒山捨得」、田丸弥の名菓白川路いただく。高山泰造は八木一夫との交友もあり、バーナード・リーチの教えを受けたりもした陶芸家であり、遠くで辻晋堂ともつながっていたに違いない。不思議な御縁である。十九時成城の居酒屋にて芳賀牧師、高山さんと会食。二十一時二十七分の南烏山行最終のバスで世田谷村に戻る。
 二月二十五日
 十時研究室。李祖原と打合わせ。十一時臨時教授会。十四時過新木場トモコーポレーション社屋倉庫竣工検査。十八時迄。十九時半新大久保駅前で李祖原と会食。明早朝、李は台北に帰る。
 二月二十四日
 午前中、杏林病院。十六時研究室ミサワホーム来室。明治通コンバージョンの件。十九時李祖原、α若松氏と会食。
 二月二十三日
 七時四〇分起床。朝食後シャープ工場へ。午前中打合わせ。昼食休みに当麻寺へ少しばかりの休息。流石の李も三日間の打ち合わせに少しゲンナリ気味だったが、古建築を見て息を吹き返す。十四時半頃奈良発、車で大阪へ。十六時半シャープ本社で町田社長と会談。北京来訪を求める。十七時過総ての予定を修了。新大阪より新幹線で帰京。
 二月二十二日
 四時三〇分起床。昨日の打ち合わせのまとめを頭の中で整理する。五時再び眠る。八時朝食。九時シャープ工場終日打合わせ。二十二時迄会食、奈良公園内レストラン。二十二時半宿舎戻り。入浴して就寝二十三時。
 二月二十一日
 七時二〇分新大久保駅李祖原ピックアップ、東京駅へ。新幹線京都経由橿原神宮駅。シャープ八尾工場、葛城工場見学。十九時迄打合わせ。十九時夕食会。二十二時三〇分宿舎ロビーにて打合わせ。
 二月二〇日 日曜日
 十三時研究室。O邸モデルチェック。十八時迄つききりで作業。
 二月十九日
 七時四〇分起床。外は雪が積もっていた。今日は李祖原と終日CEMA計画の予定。十時研究室。李祖原と再会。CEMA打合わせ。昼食をはさんで十七時迄。十八時過若松氏も交え会食。北京CEMAは近代建築そのものの在り方を変えてしまうかも知れない。
 二月十八日
 午前中の松下電工O邸、及びCEMA打合わせは欠席。十三時研究室、学生相談数件。十四時東京ガスインタビュー。十五時半迄。十六時前橋の市根井君来室。彼の新作の家具を持参してくれた。軽くて仲々見事な出来である。広島の木本君のモノも少しずつ進んでいるので、これで又世田谷村市場が動かせる。
 十八時若松氏来室。ロシアのプロジェクト打合わせ。十九時新大久保駅前近江屋で会食。モスクワの話を聞く。李祖原成田着との報入り、電話で話す。明日からCEMA計画に関しての打合わせを開始する。二十一時前修了。只今二十一時二〇分京王線車中。
 二月十七日
 七時過起床。長男雄大今日からアメリカへ。九時府中。八大建設西山社長と国分寺岡邸へ。西山さんはヨーロッパで五〇 KM のスキーレースに出場し帰国。車の中でその話しを聞く。十三年で十回の世界中のレースに出場して、ひとつの区切りだったと言う。うらやましい限りである。本格的な寺をやる時は彼の経験が生かせると良い。十一時研究室。今日もキャンパスは空間表現の試験で立入り禁止。静かだ。
 十四時空間表現採点開始。今年の出題は仲々高度なものであったが受験生は良くやっている。世界でもこの類の形式で入試をやっているのは唯一早稲田の建築学科だけであろう。うまく育てながら続けてゆけば学科の財産になるのは間違いない。十七時教室の先生方で会食。学科の将来についてワインを飲りながら話し合う。
 二月十六日
 四時四六分地震あり。六時起床。小雨。六時五〇分発大学へ。今日は終日入試カントクに時間を取られる。
 二月十五日
 七時半起床。今日は我孫子の馬場昭道氏と仏教伝道協会に頼み事でうかがう予定。研究室のアベル、ヘルベルト、蔡の民族混成チームでほぼ2ヶ月かけたフィンランドの「静けさ」の寺の案を完成させた。ゆっくりとしたペースだったが、それなりにまとまった。石山研としてはプロジェクト作成に一つの方法を得たような気がする。朝の光の中で梅の木にうぐいすが二羽花に埋もれて飛び跳ねているのを見おろしている。十時前京王線稲田堤星の子愛児園。増築部分につなぎのブリッジを架ける相談。近藤理事長・園長先生に久し振りにお目にかかる。十二時研究室。
 十五時三田の仏教伝道協会センタービル。チョッと早く来過ぎた。近くのコーヒーショップで小休。十五時四〇分馬場昭道と伝道協会事務局へ。十六時理事長、沼田智秀氏と面談。十七時過修了。カゼ気味の昭道さんと東京駅で別れ、十九時世田谷村に戻り、二〇時に寝てしまう。カゼ対策は早寝に限る。
 二月十四日
 六時四〇分起床。九州O邸スケッチ。何とかなりそうになって少し元気が湧く。やはり建築次第だな。八時二〇分終える。
 十時研究室。二〇時過迄連続して各プロジェクトのミーティング。フィンランドプロジェクト修了せず。明日に持ち越し。新大久保駅前近江屋でビール飲み。只今二十二時京王線車中。
 二月十三日 日曜日
 午前中何をするでもなく過ごす。十四時コーヒーショップへ。十六時「場所に聞く、世界の中の記憶」鈴木博之読了。世界の二十四の場所(都市)をめぐる散索的思考の本である。ここに書かれたいくつかは彼と同行した記憶がある。鮮やかに記憶がよみがえり、時間そのものを感じる事ができた。独人で歩いたところもあるが、どうやら私の場合は同行者がいた旅の方が記憶が濃密なようだ。
 二月十二日 土曜日
 七時半起床。二本の梅の木に花が咲くのをボーッと眺める。梅には梅の個性があるんだ。二本の木が咲かせる花はそれぞれにちがう。九時半研究室、レクチャー準備。十時大学院集中講義。十四時迄連続。十五時迄一時間昼休み。十九時迄講義。八時間の連続講義だった。新大久保の台湾料理屋で夕食後、世田谷村に戻る。二十二時頃帰宅。
 二月十一日 休日らしい。
 七時四〇分起床。M氏へ返信。十三時研究室。明日の集中講義の準備。  午後別に何もなし。研究室でウェブサイト用の原稿を書き、明日一日の半年間の集中講義の準備に明け暮れる。十八時新大久保駅前近江屋でビール。二〇時鳥山ネパール料理パパスで長女徳子と夕食。二十一時三〇分頃世田谷村に戻る。
 二月十日
 十時研究室プロジェクトミーティング。途中三〇分程の博士論文審査会を挟んで二十二時三〇分迄。長時間の打合わせにそろそろ体が耐えられる迄に復活した。二十三時半世田谷村に戻る。来週からウェブサイトが又少し変わる。建築の仕事のページを二、三日毎に動かしてみようと考えている。深夜M氏からの便りを読む。鈴木博之先生よりいただいた「場所に聞く、世界の中の記憶」読み始める。三時半就寝。
 二月九日
 七時半頃起床。十時研究室O邸打合わせ。十二時半修了。
 午後T邸B邸現場を廻り十八時世田谷村に戻る。二月二十六日にT邸オープンハウスを行うのを決めた。都内狛江、足の便の良いところなので気楽にいらして下さい。IT世代のクライアントとITを介して出会い、現場にクライアントがパソコンを持ち込んで、部品をオークションで買い付けた、私にとっても初めての住宅づくりでした。サラリとシンプルな内外観にいたるIT世代のクライアントの話も聞いて下さると面白いと思います。
 二月八日
 七時起床。M氏塩野君に返信。神戸の冷水さんは絵を書き続けているだろうか。彼からの絵の写真は仕事場の壁に貼付けているが仲々良いのだなあ。最近は随分手紙を書く。エネルギーがいる。エネルギーもたまる。今日も終日修士論文発表会。その後、鈴木先生に会う予定。鈴木さんも銅版やったらいいのに。彼は向いているような気がする。都市の哀しみシリーズなんてのはどうだろう。藤森は書がいいぞきっと。アレは速力があり過ぎて、それで読めぬ字になっている。面白い書になるだろう。
 十時より終日修士論文発表会。十八時迄。今日も目ぼしいモノは無し。小池一子さん、柴原の発表を聞きに来て下さる。胸を張って外に出せるのはこれ位だろうと私は思う。大学内でウジウジやっている時代ではないのだが、それが何処まで先生同士で認識できているのか、問題だな。
 十九時池袋で鈴木博之先生と会食。アイルランドでモルトウィスキーを飲み続ける会の打合わせ。二軒目のBarで十七年のバレンタインを飲んでいたら、いささか年を経た趣きのバーテンダーが、バレンタインは8年が良いのだと言う。本当かねオヤジ、というやり取りがあったが、マ、8年は仲々良かった。今年は初冬にアイルランドでウィスキーを飲んでいる事になりそうだ。そんな馬鹿話しを続けている内にフット鈴木先生の眼が光ったような気がした。私の勝手な思い込みだろうが、どうやら何かやるようだ。何をやるにしても力になれる事があれば私も同行させてもらう。アイルランド視察団がいつの間にかイスラム刺殺団の話しになって夜がふけた。二十三時頃世田谷村に戻る。
 二月七日
 三時半目覚めてしまい一服。コラム一本書く。又眠りに入る。九時十五分研究室。二〇分CEMA打合わせ。十時修士論文発表会。古谷研渡辺研。今年は両研究室共低調だった。十八時修了。いささか疲れた。雑打合わせをして二十一時前世田谷村に戻る。研究室、世田谷村共に大阪のM氏より便り届く。塩野君からも。
 二月六日 日曜日
 十一時過ぎ、気仙沼市役所の昆野武裕氏依頼のリアスアーク美術館原稿書き上げる。心残りと題した。唐桑、気仙沼には色んな想いが今も残る。忘れられぬ人物も多い。私の個人史の中では大きい。十二時四五分コーヒーショップで他の雑原稿書き終える。十五時半迄、庭作り。と言っても捨てずに残しておいた旧屋の屋根瓦を少しばかり運び移してガランどうに空き地になったままに放置して廃園状態になったままの一階の庭に垣根を作り始めただけ。少しだけの作業だったが汗ばんだ。自作の瓦垣根は我ながら不細工で笑ってしまう。ゆきあたりバッタリの制作も良いが、やっぱり瓦を知らな過ぎる。ブリコロール的身体とは程遠いねコレワ。口程にない。しかし、少しづつやれば良い。春になったら少しはましな垣根にしたい。庭にあるものだけで作ろうという原則は変えない。十七時烏山のネパール料理屋で夕食。十九時半世田谷村に戻る。二〇時寝てしまう。
 二月五日
 五時半眼覚めてしまう。午前中カバーコラムのスタイルで銅版画ギャラリーのオープニングを四枚書く。午後研究室へ。結城登美雄親子より農村計画へのコメント届いた。特に息子さんからのが手厳しかった。社会経験をある程度積んだスタッフを担当に当てているのだが、私の感想通り彼等の消費生活者ボケは凄惨なものがある。結城 Jr の指摘する通り都市の住区計画みたいだ、は誠にその通りで面目ない。しかし、今更それを直せと言っても仕方のない事で、要は都市の典型的な消費生活市民として最大級の想像力を働かせる必要があるのと、その想像力がそれぞれに自己批判の様相を帯びざるを得ない事の自覚だろう。担当の二人はしかしそのボケを直す努力、つまり自己批評の徹底を一度試みないと本当に感性の鈍いロバのまんまで終わるだろうな。早く気付いて欲しいが・・・。
 二月四日
 六時四十分起床。
 今日はS邸O邸CEMAをすすめる。今年の研究室ゼミのすすめ方を考える。建築学研究所の開講プログラムを描いてみる。十時前研究室。S邸O邸作業。午後雑打合わせ十七時半まで。
 二月三日
 頭の中で立体造形に取り組み始める。先ずは世田谷村に転がっている木材を使う事から手をつける。六時四〇分起床。今日は学務で忙しい日だ。綿貫さんによれば辻晋堂は超一流の作家だと言う。こういう作家は関西でしか生まれないとも。資料を読み、勉強していてそれは何となく解る。綿貫さん達は十勝までヘレンケラー塔を訪ねて下さって、感動したと言ってくれた。あの建築が持つ闇を体験してくれた。あの建築はまだ誰も理解してくれてないが、初めて理解者が現れてくれたようで嬉しい。八時世田谷村発。
 九時学科人事小委員会。十二時半外国人修士面接。十三時教室会議。十五時半教授会。十八時半鈴木了二と会う。十九時過迄。建築学科で創立した建築学研究所の生かし方は学科の将来の為によおく考える必要がある。二〇時来室していた友岡君と新大久保駅前近江屋で会食。二十一時半了。世田谷村に戻る。
 二月二日
 八時前起床。昨夜の会は面白かった。石原裕次郎という大スターのまわりにあったのだろう雰囲気をチョッと感じる事が出来た。明るかったんだ何しろ。ネパールの混乱が続いているようだ。カトマンズの王宮前の広場に迷彩戦闘服を着た兵士達が銃を持ち群がる写真が新聞にあった。ギャネンドラ国王の王政復古への国王によるクーデターの趣があるようだ。地方を中心に国土の6割を毛沢東主義者(毛派)に制圧され、国軍と毛派軍隊との衝突に発展すれば、ネパールも内乱状態になる。キルティプールでのワークショップでも集落を調査した学生達が実に多くの中国からの政治的影響を採取していたのを思い出す。ナワルコットの平安、インナーヒマラヤの多様な集落にあった高貴さはどうなってしまうのだろう。ネパールは子供の病気による死亡率を克服する事にだけ国政を傾注させ、他はそれぞれの集落での自給自足状態を守り、鎖国状態にしてしまった方が良い。中国とインドという二十一世紀に軍事大国化するであろう国家に挟まれてネパールはもみくちゃになってしまうだろう。ネパールを再訪できるかも解らぬ状況になってきた。カトマンズ空港も非常事態宣言により閉鎖されてしまった。キルティプール・ワークショップで世話になったトゥクチュの名主の子孫であるジィニイはそれを察知して、タイに大きな土地を買っていた。しかし、それがプーケットだった。大津波でプーケットは大被害を受けた。どうなってしまったか知る事も出来ない。カンボジアの軍事政権も何時どうなるか知れない。プノンペンのひろしまハウスにはアジアの平和研究所を設立できれば良いのだがなぁ。平和というのは作りあげねばならぬのだという平岡さんの考えのリアリティは重くなるばかりだ。
 午前中は世田谷村で休む。
 出来上がった銅板二点綿貫さんに届けようかと思いつく。銅板彫ったり好きな仕事ができる事の有難さを想う。十三時時の忘れものギャラリー。銅版画2点綿貫さん、刷師の白井さんに渡す。昨年刷った版画の彩色作業を十六時迄。十七時五反田TOCトモコーポレーション。友岡社長と打合わせ。十八時過友岡清忠君と地階の寿司屋で会食。社長も同席。ペーパービジネス、農村計画その他の件打合わせ。二〇時半了。二十二時頃世田谷村に戻る。新しい銅板三枚持帰る。
 二月一日
 八時過起床。ひろしまハウス連作銅版画製作の考えが浮かんだが難しいかも知れない。ひろしまハウスは物体としてすでに存在しているから、その現実からそれ程には自由になれない。レンガ積みの素材であるカンボジアのレンガを一つ買ってもらうための、その絵を描いてみるか。これも不自由だな。木本君からしばらく返信が無いが、ちょっとスケッチ送り過ぎて、混乱させてしまったかなと思う。過ぎたるは及ばざるが如し。ときの忘れモノの綿貫さんや塩野君達は今、北海道十勝ヘレンケラー塔スノーボートへのツアーの最中だ。早く銅版届かないかなあ。彫りたいのが少々たまった。十一時製図室、四年卒計採点。見るべきモノなし。特に計画系の作品が良くない。気分としては六年制に移行し、三年の設計製図に精力を集中してしまっているから目標が失くなっているのだろう。自分で自分を開発開拓してゆく力が見られない。これで修士設計に見るべきものが出現しないと困った事になるね。気が重い。十三時半修了。
 午後研究室でグデグデと過ごす。農村計画のおしゃべり、スタッフの役に立つかどうかは知らぬが、やむにやまれずに話している。十七時前研究室発帝国ホテルへ。六時前帝国ホテル。海の世界は私には解りようのない世界だが、家族の一員が解る世界にニョロニョロして、いらつくよりはよい。日生劇場の前を通ってきたが、日比谷公園よりの一階の列柱の一本に今井兼次が良く使っていた装飾パターンが彫り込まれているのに気付いた。村野藤吾は何か縁起でもかついだのだろうか。あるいは日本生命がクライアントとして要求したのだろうか。妙に気になった。村野藤吾の実際家としての側面を強く感じた。世界中のホテルを泊り歩いてみると、帝国ホテルは大きなビジネスホテルの感があるね。人々の動きもせわしい。今ならホテルの設計は上手にできるような気がするが、誰か頼まないかね。十八時半石原慎太郎主催の祝賀会。君が代斉唱、皇居遥拝と続く。ここまでやると仲々で会場には笑いが生まれていた。石原慎太郎都知事は急用の為欠席。あいさつの中に石原裕次郎の話しが出て、この会がどうやら裕次郎の持っていたフィーリングが反映されているのを知る。二十一時前散会。十七階Barで並木氏等と歓談。二十二時半帝国ホテル発。二十三時半世田谷村着。
2005 年1月の世田谷村日記

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