石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2005 年4月の世田谷村日記 |
三月三十一日 |
昨日は終日、北京の件の対応に追われた。混沌の中に最大のチャンスがあるのはすでに知っているが、いざ実際に対面すると仲々厳しい判断を強いられる。こういう事はなまじな経験は役に立たぬ。機会があれば北京が東京に来てミーティングを共にしたい旨連絡する事を決めた。 |
三月三〇日 |
十時シャープ富田本部長来室。台北李祖原と連絡。北京の計画の背景の全体がようやく視えてきた。ゴールだけはっきりしていて、プロセスは混沌とするなコレワ。シャープにリスクを負わせてはならぬ事はハッキリしている。α社若松氏モスクワより帰国、十四時新宿で会う。深夜台北の李祖原より電話あり。会話ではクリアーにならぬ部分があるので明日研究室へFAXしてくれと告げる。北京へ行くか、北京が東京に来るかだな、早急に決めなくては。中国の度真中北京の、又ド真中に、いかにも現代中国らしいカオスがある。 |
三月二十九日 |
昨夕、淡路島の山田脩二と久し振りに話した。一宮町も市町村合併で淡路市とやらになるそうだ。山口勝弘先生の世界環境芸術祭の持続もおぼつかなくなるだろうとの事。一宮のいざなぎの丘に建てた淡路山勝工場の存続も危惧されている。一宮町と山口勝弘とは山口さん一代限りの契約で土地を貸与していたと言うから、その後の事はあんまり希望は持てない。むしろ最悪の事態を想定しておいた方が良いだろう。多摩プラーザでリハビリに、そして体をいやす床にある山口勝弘はどこ迄知っておられるか。文化芸術と言う「分野」としか言いようの無い世界のもろさを痛感せざるを得ない。はなから公共のギャラリーにしておけば良かったというのは正しくない。世にある公共施設としてのギャラリーの悲惨さを山口勝弘は知り尽くしていた。 山口勝弘の芸術はテクノロジーの進歩とも連動していた。それ故、何もモノが無くなっても記憶を残す事は可能だ。コンピューターにアーカイブを構築すれば良いという考えもあるだろう。しかし、それでは一番大事な何かを残せない。その何かとは、その人間が生きて、動き、精神を飛躍させた空間の総体を残す事ができない。コンピューターの画面には奥行き、すなわち距離が存在しない。距離が空間をつくる。そして人間はそんな空間から意識、無意識を問わず、常に大小のインスピレーションを受けている。そのインスピレーションの一部が集積したのを記憶と呼んでいるのかも知れない。一人の人間の記憶は自然の力と同じような意味を持っている。 山口勝弘は長い間教育者でもあった。教え子が沢山居るんだと誇りにもされている。お弟子さん達はこの事を知っているのだろうか。知ってても仕方ない事だろうが、少しは動くべし。芸術家は、要するに芸者だと言われる現実を壁として視る為にも。 午前中世田谷村にて休養。 十四時半研究室。OG向井来室。柴原も来室したので丁度ヨシと野本君の送別会を十七時より。大昔、渡辺保忠先生が数々の別れに際して井伏鱒二訳の「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」と酔ってつぶやいていた。それ程大仰な事でもないが、人が居なくなるって事はそれなりに重い。 |
三月二十八日 |
九時半研究室。十時四十五分定例ミーティング。 B邸オープンハウスはスタッフに全て任せた。八〇人位の参会者であったとの事。十四時迄打合わせ。HPの編集会議をそのまんまデザイン打合わせにスライドしてゆく方針に皆まだとまどっている様だ。 |
三月二十七日 日曜日 |
十一時半、広島の木本君烏山に来る。宗柳にて昼食。十四時過、ネパール料理屋へ、はしご。十五時過、サヨナラ。 |
三月二十六日 |
九時四〇分国分寺岡邸。八大建設西山社長と。十一時過高幡不動尊金剛寺へ。西山さんの手引きにて貫主川澄祐勝氏にお目にかかる。院生の頃渡辺保忠先生が高幡不動の五重塔を手がけていて、さんざん話を聞かされた。柴又のフーテンの寅みたいに御前さま、御前さまと当時の貫主秋山氏の話をされていた。川澄貫主は保忠さんのクライアントであった秋山貫主から数えて三代目の貫主である。時は巡る。渡辺保忠の五重塔は時をいささか経て、立派な建築になっていた。十四時研究室。今日はB邸オープンハウスで誰も居ない。仕方ないが、困ったものだ。O邸の件で九州の工務店その他と連絡とる。十五時過広島の木本君来室。便りのやり取りをしていたので、実物の本人に会っても、オー久し振り!という感じがしない。十六時四〇分研究室発。帰り道で電気の松本隆先生と会い四方山話し。木本君と新宿で別れ、世田谷村に戻る。唐突だが、いい仏像が一つ欲しい気分だな。十九時半迄野本と電話のやり取り。野本は要領は悪いし、頭も固いが、しかしとり敢えず大事な時に研究室には居る。これから先の日本、つまり経済成長無しの社会ではむしろ亀の野本みたいな人間の方がむしろ可能性を持つような事があるのではないか。 |
三月二十五日 |
風強く快晴。七時カバーコラム「アジアのモリス」書く。日記以外に毎日、コラム&週刊建築他を書いてみようと思い立ったのだが、これは大変である。もう止めるか、どうか。どっちでも良いか。只今九時二〇分新木場に向かっている京王線車中。今日は十一時からトモコーポレーションの社屋、倉庫の竣工式。十時十分新木場駅着。早過ぎて駅構内のコーヒーショップで炭火コーヒー。こういう空白とも思える時間が最近多くなった。十三時過落成式了。猪苗代鬼沼のアジア民芸村の構想も進めなくてはと思った。十四時品川。只今山手線で新大久保へ向かっている。十四時四十五分研究室。今夕のレクチャーマテリアル、チェック。 十七時半前、只今地下鉄で東銀座ニッサン本社へ。十八時過ニッサン自動車にてミーティング。二〇時半迄。二十一時半新宿でα社長若松氏とミーティング。若松氏は明日よりモスクワへ。具体的なプロジェクトに関しての討議を重ねる。二十三時半迄。世田谷村に二十四時二〇分戻る。若松氏と打合わせを重ねる度に、情報ビジネスのファンタジー的性格のリアルさを学んでいる実感がある。ソフトバンクとライブドアの力学関係も彼に説明してもらって理解できた。ITビジネスの特質はマネーの速力なのだ。速力の現実離れした浮遊状態すなわち資本主義的ファンタジーこそ今の経済の特質であるようだ。そのドキュメントを学びつつ、建築のどうしようもない重さの現実を相対的に知りつつあるのが今の状態だな。ITビジネスの連中は、要するに織田信長の「敦盛」を実践している。その事実だ。資本主義はファンタジーの現実に到達してしまった。これは一種の宗教的現実でもある。 |
三月二十四日 |
十一時INAX出版来室。「批評と理論」の売れ行きが好調のようで、四月に何かやりたいとの事。東北の阿部仁史さんに連絡取って東京以外に仙台でもやったらと伝えた。 十三時教室会議、その他。十五時四〇分教授会。十七時前研究室に戻る。雑事。学会選挙の件。その後二十一時迄打合わせ。二十二時世田谷村に戻る。HPのアクセスが急増している。これはどういう事か。ライブドアとニッポン放送・フジTV騒動も影響しているのかな、と妄想。 |
三月二十三日 |
朝、昨夜久し振りに届いた大阪のM氏からの便りに返信を書く。十時四〇分了。広島の木本君からも図面が届いているがまだ見きれていない。長男雄大地中海のレースより帰る。 昨日のHPカバーコラムに偶然ではあったが、川合健二再考のページを設けた。これを持って丹下健三追悼の辞とする。 十四時半新木場トモコーポレーション現場竣工検査。コンテナとモービルハウスを大がかりに使用してショーをやったら面白いだろうな。昨夜の小池一子さんとの話しを思い起こした。十七時修了。広島の木本君よりSteelのたろいもの葉送られてきていた。良い努力をしているが、ここまで努力してくれるのなら、本格的なレベルと思われるものを木本君には要求してみようかと思う。要求する私にだって勿論何某かの圧力(ストレス)はかかるのは当然であるのだから、やるんなら中途半端は避けたい。 |
三月二十二日 |
どんよりと曇った朝。丹羽君に先週のHPの数字を出してもらって、それでミーティングを始める。十時過ミーティング。休み明けは電話が入り過ぎて腰を落ち着けた話しが不可能だ。十二時迄。途中α研究所の若松氏来室。ユーラシア・サイエンス&ビジネス研究所設立準備室の件。この人の動きは速い。ITビジネスの特徴だな。十八時半小池一子さん来室。二〇時過新大久保駅前近江屋にて柴原と共に会食。二十二時過迄。研究室の特異な人材である柴原を小池さんにあずけるというデザインが良いかどうかは柴原次第なのだ。女は度胸男は愛嬌の世の中なんだから。二十三時前世田谷村に戻る。丹下建三死去の報。何の感慨もないのが自分でも不思議。 |
三月二十一日 |
八時半起床。今日は旗日らしい。銅版画に取組もうと考えたが、いざ机の前に座ったら気が乗らず中止。こんな時の気持の動き方は自分でも不可解である。昼過まで雑読。十四時過研究室。蔡さん、太田在室。静かだ。 十六時九州よりM君来室。若い建築家の卵達の困難さを想うと、こちらまで辛くなるが仕方無い事だ。建築設計の魅力には魔物が棲んでいるのだ。あんまり気が強くなさそうなM君がそれでも建築デザインを志したいというのは魔物の影響だろう。十七時半佐藤滋先生と新大久保駅前近江屋へ。建築学科教室に関して相談。ほぼ意見の一致を得たように思う。二十一時前修了。佐藤先生と別れて、タイ料理屋クンメーにてα社長若松氏と会食。ユーラシア・サイエンス&ビジネス研究所に関して。夕食を二度というのはハードだがマ、仕方なし。二十二時終了。二十三時世田谷村に戻る。明日は十時に研究室ミーティング。こうやるぞの両確認を再び。繰り返し繰り返し確認する必要がある。石山研の他にない特質は丹羽君というハンディキャップを負った人間がメディア作りの中心に居る事だ。丹羽君は車椅子生活であんまり仕事は出来ないが、しかしそのあんまり出来ないと言うのを前提にプログラムを組む事が可能であれば、強烈な差異を生み出し得る。そこのところを考えてみたい。山口勝弘先生の今いる状況は丹羽君そのものなのだ。丹羽君はその事を痛切に自覚すべきであろう。勿論してるのだろうが、どうにも体が言う事をきかぬのだろう。 |
三月二〇日 日曜日 |
昨夜は磯崎アトリエより送られてきた雑誌新聞記事読みふける。磯崎さんは七三才になっている。言動は本来のラディカル振りを増している。元ラディカルな人と言ってるがあれは怪しい。横浜トリエンナーレのディレクターを降りた一部始終が資料によって明らかにされている。新潮4、インターコミュニケーション 52 。昨年のen・TAXi 08 読み直してみた。筋が通っている。芸術世界のチェ・ゲバラだよ。アルジャジーラとのコンタクトもあるようだから、ビン・ラディンとのネット上の会見記などもいずれ読む事になるのだろうか。わからんぞ。午前中GAギャラリーのドローイング仕上げる。十三時過、銅版画一点途中まで作業。午後西早稲田観音寺墓参り。帰って屋上に上り生ゴミ埋めと少し計りの土すき。十七時前まで。十九時前中野0ホール。いま歴史を問う−かつてと今の戦場の実相から−基調講演斉藤貴男。報告「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて」松岡環氏これも興味のない話し振り。深く演技してくれ。休憩をはさんで、相澤恭行君の「市民の見たイラク戦争」実質のうすい話しであった。思考いまだ浅し。マ、あの若さでは仕方ないとすべきか。NPO活動の限界を露呈している。海南友子・中原大弐両氏のトークは大変よかった。北朝鮮日本語学校生が小泉・石原慎太郎と共にフーテンの寅を教材に日本を学んでいるという話しが面白かった。二人の話しは等身大で、ピースボートの実践、NHK退職後のドキュメント映画製作の現場のリアリティーがあり出色であった。日本の若者は仲々捨てたものじゃないなと初めて実感した。閉会挨拶、ノーモア南京の会代表が話し始めた途端に最悪な予感あり遂に私は席を立って下の階に降りた。全くリアリティがなく、高見からの説教調の物言いに腹が立つばかりで、そのまま席に座っていたら、何か叫び出しそうな自分を感じたから。えらそうな事言ってるこういう奴が又、戦争を起こす可能性大なのだ。底の浅いヒューマニズムと堅苦しい教条、無思考の固まりである。二十二時過烏山に戻り、中華料理店で晩飯。二十三時半、世田谷村に戻る。 いわゆる平和運動が本当の力を持つ為には大きな演技力が必要だろう。例え、その身振りがエンターテイメントの趣きを帯びようとも。我孫子での小田実氏の話し振りも、すでに時代の速力に追いついてゆけぬモノを感じたのを思い出したりもした。古典的とも感じられる運動のスタイルがグローバリズム=アメリカニズムに立ち向かえぬ現実を痛感した一夜であった。ピースボートの若者が東アジアの地政学的直観を述べていたのが唯一の収穫か。新潮4の短編小説を幾たりか中野に行く途中、そして南京の会の最中に読んだ。併読すると村上春樹のハナレイ・ベイの文体が群を抜いて方法的で、成程これはある種の世界性を帯びている事を読み比べて初めて実感させられた。コピーライトの域だなコレワ。開高健のサントリー文化の美文のレトリックを抜いてしまっている感じだ。描写する対象との距離感が他の作家とは違う。 |
三月十九日 |
七時過起床。九時世田谷村を発つ。十時研究室。長野県上田幸和建設来室。S邸積算の件。十一時嘉納先生打合わせ。十二時シャープの車来て、蔡さんと幕張シャープ東京支社へ。CEMA計画打合わせ。十七時迄。富田取締役他と幕張プリンスホテルで会食。車で世田谷村へ。大渋滞に巻き込まれ、只今二十一時半、まだ千駄ヶ谷付近。十時頃世田谷村に戻る。 |
三月十八日 |
五時起床。ユーラシア・サイエンス&ビジネス研究所設立準備室開設のペーパーを用意する。六時前了。再び眠りに入る。ニコラスが懐いてじゃれついてくるのにも慣れた。八時半再起床。INAX出版の「批評と理論」三七〇ページの大部になった。流石に一気には読み切れぬ。GA用の大版ドローイングに手を入れる。仕上がらず。十一時過研究室。野本とO邸打合わせ。丹羽とHP打合わせ。ヒット数が急増しているようだ。 十四時過中央林間森の学校竣工検査。驚異的なスピードの工事であった。四ヶ月程で建てた事になる。地元の南雲建設は良く頑張ってくれた。研究室担当の野村悦子もこれで一皮むけて成長するだろう。只今十五時半小田急線で新宿に戻る途中。今年になってこれで四件目の竣工であるが、どうなる事やら。十六時半新宿。コーヒーショップで原稿書く。十九時新大久保近江屋でα社長若松氏と会い、打合わせ。新宿西口より帰ろうとするもTAXI無し、延々、数百メーターの列。只今、翌日二時。京王プラザホテルロビーで家内に車で迎えに来てもらう為に待つ。誠に莫迦な時を過ごしている。本物のバカだぜコレワ。ロビーには私の他には誰も居ない。待ち時間を持て余し、若松氏より渡されたナノダイヤ(超分散ダイヤモンド)の製法リポート読みふける。面白そうだ、というのは解るのだが、論理的には理解できない。昔、香港の空港ロビーで仮眠したのを思い出している。三時前世田谷村にようやく戻る。 |
三月十七日 |
九時遅めの朝食。考えてみればカバーコラムがスピードを持てば世田谷村日記は不要になるな。 エクスナレッジの長島さんから送られてきた藤森武の「独楽」熊谷守一の世界、パラパラとめくる。そうしている内に何故か引き込まれズブズブに入り込んでしまった。池袋にあった自宅は土地が八十五坪、家が三十五坪。その八十五坪から熊谷守一は三十五年間一歩も足を外に運ばなかったと言う。小さな庭は森林のようにうっそうと育っていたのが知れる。 十二時四十五分迄GA展覧会用のペインティングを描くも、描き切れず一旦中断、研究室に向かう。十七時迄。その後スタッフと打合わせ。烏山宗柳にて夕食。二〇時過世田谷村。 |
三月十六日 |
深夜三時四〇分ノコノコ起きて、結城さんから貰った「小さな村の『希望』を旅する」農文協読みふける。 東京の自分の家を世田谷村と名付けたのは間違いではなかった、と結城の淡々とした文章を読みながら思う。村と名付けた直観を土台に、たった一軒からの村づくりを具体化するつもり。私には結城のように東北の小さな村を六〇〇も歩き廻る気力も体力も無いが、結城から学ぶ時間は残されている。九時四〇分国分寺O邸。メンテナンス。業者と打合わせ。十五時二〇分迄。研究室に向かう。十六時半研究室。十九時迄打合わせ。二十一時世田谷村に戻る。 |
三月十五日 |
十時過研究室。今朝は世田谷村にて八時に九州の忍田さんと浄水の家の取り壊しの件で連絡をとり、少々あわただしかった。結城さんが授賞式で上京するついでに研究室に立寄るというので少し早く研究室に出掛けた。十二時前、結城さん来室。スタッフ及び院生に会わせる。結城さんの人柄に接しさせたいと考えたから。サンドイッチの昼食を挟みながら、結城レクチャーをスタッフに聞かせる。十四時半迄。もう今日の仕事は終わったと考えたが、ずるずると居残り、打合わせ等をこなした。ウェブサイト用の原稿を四本書く。十九時過迄。二〇時新大久保駅前近江屋でビールを一杯飲んで世田谷村に戻る。只今、二十一時過、京王線車中。広島の木本君に依頼している厚生館の「花を持つ子供像」のオペレーションを具体的にしないと間に合わなくなるなと、いささか不安になる。木本君のスタディーの為に少し計りの意見と、幾つか仏像の写真を送る。しかし、木本君にも、私にも初めての彫刻依頼の仕事なので、難しい。でも、何とかする積もり。木本君は不眠不休になるであろう。二十一時半世田谷村に戻る。TVニュース報道ステーションを見ていたら足立区の手動の踏切で二人の婦人が死亡という報道がされている。今時、手動の踏切があったという驚きと、やはり人間は誤りを必ず起こすという原理を知った。手動の踏切は全国で今や六十七カ処残っているだけらしい。手動で踏切を開けてしまった人間を責めるのは当り前の事であろうが、システムとしては大都市に人間の手で開け閉めする踏切を残していた管理体制を責める方が理であろうと思う。しかし、人間二人の命の損失は余りにも大きい。今日、ウェブサイトに佐賀での早稲田バウハウス、ワークショップの参加者だった黒田さんの追悼文を掲載したばかりなので一層それを痛感する。 |
三月十四日 |
六時起床。昨日の日本中の学生達の卒計の印象を一言で言えば、漂流船団。エンジンの油は切れ、レーダーは風に飛ばされた。行方定まらないで、しかしプカリ、プカリと浮いている。 七時〇八分やまびこで東京へ。九時二四分東京駅。研究室へ向かう。十時十五分研究室。 |
三月十三日 日曜日 |
六時過目覚めて、再びウトウトしたりしている。夜明けの東の空にピンク色のマン・レイのくちびるみたいな雲が群れて浮いている。チョッと旅の気分だね。ボンヤリと時を過す。八時前チェックアウト。一ノ関駅迄雪上がりの道を歩く。八時十六分の仙台行鈍行に乗ってみる。昨夜の降雪の雪景色の中を走る。キラキラとまぶしい。九時三十五分仙台着。菜ノ花天ぷらソバの朝食をとり、約束の時間まで時間があるので構内のコーヒーショップでメモ。今日はメディアテークで終日全国の卒計を審査する事になっている。結城は今日どこやらの村の閉村式に出掛けると言っていたな。東北大スタッフと会い十時前仙台メディアテーク。十時四〇分、卒業設計日本一決定戦の会合。十時五〇分一次審査巡回。大勢の学生が参加していて足の踏み場もない。十二時二〇分休憩。昼食。予定が少し遅れて十四時三〇分開会式。十五時第二次審査。十八時迄、討議。参加者二千人位で熱気がある。日本一、二、三を決める。十八時過審査結果発表。十八時三〇分閉会式。十九時より一Fでパーティー。二〇時過ぎパーティーを抜け、阿部仁史氏等と会食。二十四時、三井アーバンホテル、チェックイン。 |
三月十二日 土曜日 |
春になった。世田谷村のベストシーズンだ。家を開け放って微風の中で生活ができる。七時四〇分起床。九時二〇分小田急線喜多見駅前コーヒーショップで原稿書く。造形論ノート。住宅ドキュメント。コンテナ論。いろいろうず巻き始めている。さて、動き始めるか。十時T邸八大建設引渡し。十三時迄。若奥さんがITオークションで色んな部品をオークションで取り寄せたのがこの住宅の面白いところだった。しかし、そこから若干のトラブルも発生した。ITは速く、軽快だ。しかしITオークションで届けられる実物は相変わらず重く、様々な情報程には自在ではない。船便が遅れたり、部品が足りなかったりの不便さが発生した。又、オークションで購入した部品の保証の問題も発生した。オークションを運営するIT企業はまだそこ迄手が廻らない。しかし、このやり方がこれからの住宅建設の主流になるだろう。「秋葉原感覚で住宅を考える」のが、こんな方法で実現されるとは四半世紀前には思っても見なかったが・・・。時代は廻る。十三時過東京駅。十三時十六分発やまびこで一ノ関へ。十七時四十七分一ノ関着。途中雪が舞っていた。北は春いまだの風あり。十八時前ベーシー着。菅原正二、高橋邦夫夫妻と再会。ヤアヤアの挨拶を交わす。十九時頃、約束通り結城登美雄来る。芸術選奨受賞のお祝いを言う。農村計画の話少し計り。やっぱり現場を作ろうと言う事になる。結城氏東京に来てもう一度話そうと言う事になった。菅原、結城両氏に世田谷村日記私家本差し上げる。二〇時前ベーシー近くのレストラン、トロントで会食。顔なじみのマスターと再会。料理は相変わらず美味。結城氏とこれからの事話す。農村計画は今が潮時である。二十一時前了。外は本格的な雪であった。結城氏と別れ、ベーシーに戻る。二十三時半迄談笑。雪が降り積もって真白になった車で、蔵ホテル一ノ関に送ってもらい、遅いチェックイン。二十四時前就寝。 |
三月十一日 |
小雨模様の、もう春の日。朝、石灯ろうについて書く。十一時過世田谷村発、新木場トモコーポレーション社屋現場へ向う。 十三時トモコーポレーション社屋新木場現場。コンテナが中国から運ばれてセットされていた。総計三〇台の 40 Feetコンテナが仮設で置かれる予定だが、今日は十六台がセットされた。軽快で仲々良い感じである。いまにも動き出しそうなのが良い。このニュアンスと重くてビクとも動かぬ感じがミックスされるのが理想形だろうな。二〇時過烏山宗柳で一人夕食を喰べ、世田谷村に戻る。二十三時まで眠る。仕事をして二時就寝。 |
三月十日 |
七時一〇分起床。八時二〇分京王線府中駅。八大建設西山社長と国分寺O邸へ。十二時半迄。十三時調布B邸現場。十三時四〇分駅近くで昼食ハヤシライス。サイエンス&ビジネスプログラム連続ゼミナールを準備室の主催で開講するプランを考える。十五時研究室。
調布B邸のオープンハウスを三月二十六日に行う事を決めた。B邸を設計する事になった機縁はこういう事だった。 |
三月九日 |
七時起床。昨夜来銅版画の構想を暖めていたので、今日は午後遅くまで銅版に取り組む予定。十時一点仕上げた。朝刊に結城登美雄さん芸術選奨受賞の報道あり、早速お祝いの電話を入れる。都はるみと同時受賞がよいと喜んでいた。友人の受賞は、本当のところ嬉しくないものだとは、山本夏彦の言であるが、コレはチョッと違う。私も嬉しい。分野が違うからか、結城の人徳かな。十一時過二点目も仕上げた。銅版に何を彫り込んでいるのか自分でも定かではない。歩くアンモナイトや石の魚、そしてカイラーサ山と覚しきが出てくるのだが何故だか知らぬ。何かの記憶を彫っているのは間違いが無いのだろが、どれ程昔の記憶なのかは不明。十二時朝昼飯を食べて、一休み。これからの仕事の展開についてノートする。十五時研究室全体ミーティング、四月以降の基本方針を述べ討議。 二十二時四〇分迄研究室で雑談。二十三時十分京王線車中、世田谷村へ。 |
三月八日 |
九時前まで眠ってしまった。 青山のときの忘れもので版画展が開催されているようで、私のモノも若干展示されているらしい。顔出してみるかな。四月十六日から渋谷の文化村で「イメージの中に建つもの」という建築家の版画展が開かれる旨綿貫さんから知らせがあった。知らぬところで作品が独人歩きしてくれるのは嬉しい事だ。 午後、博士課程学生二名相談。十五時過目白GKへ。日本フィンランドデザイン協会理事会。静けさのパビリオンの経過報告。栄久庵憲司の三重県道具寺も進行中のようだ。十七時迄の予定が延びて、二〇時過迄。二十一時過世田谷村に戻る。 |
三月七日 |
十時研究室。定例ミーティング。十三時半松下電工打合わせ。二十一時迄各種打合わせ。二十二時世田谷村に戻る。大阪のM氏と電話で話す。安藤忠雄氏より手紙届く。次女友美とバークレイでバッタリ会ったらしい。 |
三月六日 日曜日 |
午前中河出書房、宮本常一の原稿を書く。四、五枚迄すすむ。十四時前国分寺Oさん宅。十五時半新宿、喫茶店で原稿書く。十六時過、高島屋上のソバ屋でα社長若松氏と打合わせ。ロシア研究所の件。十八時過修了。世田谷村に戻る。今日中に宮本常一の原稿仕上げなければならぬ。一ノ関ベーシーの菅原正二氏に電話入れなくては。 菅原は元気であった。 |
三月五日 |
雪が残っている。朝突然河野鉄骨の連中が世田谷村に来て工事を始めたので驚いた。しかし今朝は久し振りにゆっくりできている。大阪のM氏、広島の木本君他に便り書く。木本君は良くやっているが、新しいモノにはやはりとまどいがあるようだ。綿密に便りをし続けなくてはなるまい。 結局十四時過まで、世田谷村で仕事。午後遅くB邸現場に向かい、その足で高山邸引渡しの会へ。 |
三月四日 |
雪。十時半国分寺岡邸。業者二社とメンテナンス打合わせ。一社は時間間違いでキャンセル。こういう会社はもう駄目だね。しかし研究室のスタッフが連れて来た会社なんだから何をか言わんやなのである。十五時半迄。十六時過新大久保駅前近江屋にて一息つく。この駅前ソバ屋はかって、ダッタンソバという希有な味の(と言っても大根おろしと新ソバの組合わせだけのもの)ソバを出しており、死んだ佐藤健によれば、ここは都内有数のソバ屋なんだそうだった。つまりここは佐藤健おすすめの店である。確かに、翁だとか、一茶庵系だとか、ヤブ系とかのソバグルメ達の、つまりソバ通らしきが、ああだ、こうだ言って気取ってるソバ屋よりは余程に良い水準なのだ。世田谷村近くの宗柳と似てるのである。マ、それはともかく、最近は良くここを使っている。ソバ屋の一角が打合わせコーナーのようなものになっている。近江家常駐の設計屋みたいなもんだ。ソバ通がおすすめする定番のソバ屋位下らないソバ屋はない。だってソバはソバだろう。せいろ一枚五、六百円が一番正しいソバなのだ。それが一枚千円近く、あるいはそれ以上なんてのは明らかに、サギなのである。二十一時前、α若松氏との相談修了。台北の李祖原と連絡したりで展開力のある打合わせであった。二十一時新宿、京王線車中。今日も何とか無事に過ごせた。 |
三月三日 |
七時四〇分起床。昨日、長男雄大フロリダより戻る。九時過調布B邸現場。学生三名セルフビルド参加。良く動いていた。三年生位にこの体験は適しているかも知れぬ。十時二〇分現場を去る。十一時二〇分研究室。 |
三月二日 |
七時三〇分起床。中村光男先生と電話で話す。久し振りの事だ。八時二〇分発。九時前B邸現場。今日から学生二人を現場作業のアシストにつける。Bさんは自宅部分のインテリアをセルフビルドで仕上げるので、その手助けである。脚立の立て方、段取りの仕方から教える。大学の教壇に立ってレクチャーしているよりも余程良い教育になっているかも知れない。この年でやる事ではないけれどね。マ、仕方ないか。十時四〇分迄。只今、京王線車中。しかし、現場作業の脚立の立て方、配置の仕方だけを見ていても、その学生の潜在力は表われてくるものだ。良い職人、つまり実際にモノを作る人間の質は、その人間が属している文化文明の総合力を表現しているのだナアと勝手な事を考えた。 十一時半研究室。10+1 原稿書き始める。十五時修了。つづいて石山研ウェブサイト原稿書く。十六時修了。十七時一服する。十七時半寄生建築のスケッチ始める。面白いかも知らんナコレワ。台北の李祖原より連絡入り、あわただしくなる。二十二時過迄研究室で諸々の雑談。二十三時過世田谷村に戻る。夕食を又も忘れていて、二十四時近くにとる。これでは体にいいわけないが、体調は良い。 |
三月一日 |
七時半起床。八時四〇分調布B邸現場。Bさんと打合わせ。十時渡辺現場来。十一時前発。十二時半大学CEMA打合わせ他。台北の李祖原と連絡。十三時転科学士入試面接。建築学科は理工学部最大の希望者が続いているが、学科としての努力は更に必要だ。十五時八大建設西山社長来室。十六時シャープ富田氏来室。CEMA打合わせ。その後二十一時半迄各種打合わせ。週刊建築、卒業設計仙台大学の為の原稿書く。頭がようやく正常に回転し始めているのが少々嬉しい。スタッフと密度の高い打合わせが出来た日は何かと体も軽くなる。 仕事を終え、研究室でしばし雑談。二十四時前世田谷村に戻る。夕食を喰べ忘れていたので遅過ぎる夕食をとる。 そういえば今夜、ドアのデザインの事で友岡さんとのやりとりがあった。ドアはドアでもライブドアの堀江貴文社長のニッポン放送買収、それに引継ぎ起きているフジテレビの第三者割り当てによる新株予約権の発行という仲々理解し難い事態は、まさに生産の時代が情報の時代さらにはネットビジネスの速力へととって代わられつつある事を良く示しているのだが、私にとっては若松社長の言動や思考方法を身近にしているだけによりリアルなものに感じられる。 |
2005 年2月の世田谷村日記
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