石山修武 世田谷村日記

世田谷村日記R
2006-01
風を頼みに
ふわふわと
着陸地点に
来たらしい
来たらしい

ここが何処やら判らない
ここが何処やら判らない

 

 

2006-09-22
見えなくなった右目にも目薬をさしてやる
右目さよならまた来て四角
右目夢の中にて健在
右目君に感謝状を送る
同行二人左目といざいかめやも

                榎本 基純

 追悼 幻庵主 榎本基純
 十月二〇日 早朝、豊橋の川合花子さんより知らせが入る。十九日夜榎本基純氏が亡くなったと言う。川合健二の死と同様余りにも突然の事で言葉を失う。深い追悼の意を表する。これまでに知り得た、最上の品格の持ち主であった。
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 午後、GA二川幸夫訪問。人物は「俺の眼はどんどんこえてきてるから、手ブラで来ちゃいけないよ」と言った。私流に訳すと、そういう事になる。そうだな、言う通りだと思って、帰った。今度会う時は少しはマシな手みやげをぶら下げてゆかねば。高名な建築写真家と会っているのではない。ジャーナリストに会っているのでもない。一個の人間と対面している風になった。
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 どんな疑問符かと言えば、余りな平板さだが、自分は好き嫌いで随分な事を判断しかねぬ人間だが、時にその直観を論理的に修正する必要の直観も又働く事があるという事でもある。何となくクリスタルからペログリ日記の田中康夫と長野県知事そして新党日本代表の田中康夫にはどうやら多少の振幅はあるにせよ、一貫して流れる体質、気質があるようだ。彼の自己表現欲は時代のドキュメンタリティへの対面欲らしきを遂に超える事がない。阪神淡路大震災のボランティア活動と長野県庁のガラス張り知事室は同様な感覚からだろう。残念な事に事件が終り、静かな余波の時間になってから、その様な事が理解できる我々人間の頭の鈍さが歴然としてある。それに対して村上春樹の文学はそんな人間の頭の保守性を読者対象として把えているところが、言ってみれば新感覚なのではないか。標本箱の世界をのぞいている眼だ。田中康夫はその箱を開こうとする。出てくるモノはひどく嫌なビールス細菌世界であり、それを我々は嫌った。我々自身の世界であるのに。
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 昨日掘った銅版画とベーシー菅原の件は関連しているので、このシリーズは今回の展覧会ではなく、次回の発表に廻す事にした。ここ数年多くの友人を失くしてきた。その事が大きく身の廻りを動かしてもきたが、前に進まなくてはとも思うので。
 田中康夫氏には今夏お目にかかったが、その際の彼の立ち居振舞を身近に眺めていて自分でも意外な関心を持った。食事の後片付け等に女性以上の気づかいと動作があり、それが決して嫌味ではなかったのだ。今頃思い起こすのは、以来それが気になって少しづつ田中康夫を読み始める事になって、昨日も読んでフト気付く事があったからだ。ありていに言って、田中康夫程毀誉褒貶かしましく過ごしてきた人物は稀である。そこに関心があり、私とても田中康夫はチョッとねと考えていたのだが、それが夏の出会いで、かすかに自分自身の考えに疑問符が生じた。
制作ノート 011
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 午後研究室打合わせ。打合わせはエネルギーを浪費するが、壷にはまった時の成果も又ある。話す相手によって、こちらも高揚する時もあるのだ。これが個人技の銅版画とか、ドローイングとの違いでもある。夕方、中谷礼仁、村松伸来室。話しは聞いたし、依頼は了解もした。同時にM君来室。M君と近江屋で夕食。しかし、M君は今には稀な変な人間である。明けて十七日早朝銅版画一点に取組み仕上げる。
制作ノート 010
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 朝六時半頃電話が鳴る。丁度新聞を読んでいたので、何事かと出てみれば、ブラジルのマリア・セシリア・ドス・サントスである。十二月来日との事で、十二月はにぎやかになるな。先日お目にかかったブラジルの実業家のところに二年後に訪ねる予定で、ブラジルの仕事を作るつもりもあるから、楽しみだ。頼んでおいたブラジルのリオデジャネイロ・オリンピック二〇一六の情報も集まったのだろう。十六日はブラジルから始まった。
 屋上菜園のハゼの小木が大きく育ち、三m弱の背の高さになった。富士山から運んだススキも盛大に生い茂り、背高アワダチ草と共に屋上を占領した。この冬は土の手当てと、本格的雑草対策を講じないと、屋上は廃園になる。三階テラスに作った廃物プラントにあけびの種が植え込まれてしまった。植える種をアレコレ考えていたので、残念である。
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 十七時より、ときの忘れものギャラリーでギャラリー・トーク。三〇名弱の小さな会だったので、できるだけ率直な話しをした。故佐藤健の奥様が来て下さっていた。去る者日々にうとし、どころか顔を見ただけで、フーッと彼の記憶がよみ返ってくるのだった。ひろしまハウスが何とか完成にこぎつける事ができたのも彼の支援があったからでもある。十九時過修了。参会者と雑談の後、W夫妻等と会食。H牧師も参会。二十二時過散会。鍋料理が美味であった。明けて十五日、朝、ひろしま、モヴァイル・ハウスのスケッチ。栄久庵さんの展覧会に出展するもの。栄久庵さんも道具寺プロジェクトが次第に形になってきているようで、このプロジェクトが集大成として華開く事を祈りたい。北京マラソンが天安門広場、08年オリンピック会場を中心に行われたのをTVで視る。いよいよ08年の中国が世界の主舞台におどり出始めている。モルガンセンターの完成を目指して李祖原も正念場だ。一ノ関ベーシーの菅原昭二に電話したら、自宅に居た。二〇日に会う約束をする。
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 広島の木本君より「ひろしまハウス in カンボジア」への作品のアイディアが送られてくる。良いアイデアだ。実現への方法を考えたい。プノンペンのSさんと連絡が取れ、私共の希望をほぼ受容れていただいた。建築に関しては、これでほぼベストに近い努力をしたように思う。
 明日は「ときの忘れもの」でのギャラリー・トークで、もうキャパシティ一杯の人が集まってくれているようだ。何の話しをするか、考えなくては。バルセロナの外尾悦郎がニューズウィークに立派に紹介されている。すっかり、カタロニア人になり切ったようで思わず我ながらニッコリ。人物はまだいるんだな。
 十月十三日午後研究室で打ち合わせ。鬼沼計画のオリエンテーションを少し固める。一九八八年から六年続けた唐桑計画が再生するかも知れぬ。沢山やりっ放しのアイディアが在庫品目録としてあるが、それ等に陽の目を見せる。その可能性を是非共探りしたい。
制作ノート 008
制作ノート 009
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 十月十日朝、メモを記す。穏やかな世田谷村の朝である。鬼沼から持ち帰ったあけびの実の紫が美しい。夕方、星の児愛児園へ。小さな増築と屋上メンテナンスの件。K理事長、園長先生と打合わせ。八大建設の着工を決める。完璧な幼児建築を作ってみたい。今なら出来るのになァ。京王稲田堤より早々と世田谷村に戻る。夜半、淡路島の山田脩二来る。すでに酒が大分入っているようだった。色々と説教される。六十七才の男が言う事だから聞いたが、今さら何を言われても、何かを変えられる筈もない。二十四時前、泊ってゆけよのすすめを押しのけ、山田何処かに去る。近くの四つ角まで送り別れる。しばらくして、ピンポンとフォンが鳴り、ケイタイを忘れたと、戻ってきたところが、充分過ぎる位に山田的であった。山田脩二と附合うには要体調管理である。しばらく酒を止めてみようかと思い付くも、多分実行しないであろう。
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 T氏手製の石積みのカマで飯を炊く。美しくはないが、良く燃える。薪をドンドン放り込み、豪勢な火となった。大ナベで野菜のゴッタ煮も。メシは谷に落ちていた栗を蒸し込んだ。ご飯をこんな風に炊き出すのは、本当に久し振りの事だ。早々に寝る。良く体を動かした一日だった。小さなコルゲートのアーチ小屋であったが、熟睡した。翌九日は六時起床。カマに火を入れ、再び御飯炊き。昨夕の残りモノで“おじや”というか、妙なごはん汁となる。インスタントコーヒーは不美味で誰もほとんど口をつけず。焼きイモは美味であった。後片付けをして、鬼沼を去り、帰途に着く。途中、大内宿に寄ってゆこうということになり、大内へ。これが大変な事になっていた。知り合いの相沢氏が中心となってすすめた草屋根保存運動であったが、その末がこの一大テーマパーク状態である。大内宿迄の一本道からすでに車がビッシリと待ち状態で我々は遂に途中で車を路肩に駐車させ歩いた。大内宿のパーキングは全て満杯。宿場町の一本道は夏の軽井沢以上の混雑状態だった。草屋根はかろうじて残ったが、一番勘心な地域、の草屋根を作り続けた結(コミュニティ)は完全に崩壊しただろう。全ての家屋が料理屋、おみやげ店、民宿に衣替えしている。これでは日光江戸村、浅草花屋敷、三流ディズニーランドだ。せめて、ディズニーランド程に入場制限せよ。草屋根の保存がこの体多落の呼水になったのは皮肉だ。十月のゴールデン三連休の、かせぎ時だとは言え、茫然とする計り也。すぐに離れる。国道に出て、途中で入ったある村の町営物産館直営のレストランもひどかった。待てど暮せど頼んだモノが出て来ない。それでチケットは自販機でセルフサービスときているのだから。福島県は県知事汚職で大変だろうが、県下一円がこの体多落では、間も無く無残に亡びるだろう。全県下が中古車販売場状態になっているのではなかろうか。T社長も眼が鋭く、大内宿で売られているモノも大半が他の場所で作られているモノでした、と言う。「ウチで扱っているアジアの商品もありました」との事。その気になって、おみやげをポリ袋に入れて帰る大観光団が馬鹿なのか、売りつける大内宿も馬鹿なのか、両方だろう。
 那須塩原インターから東北高速道路へ。又も渋滞していたが、何とか二〇時過東京着、新宿で散会する。すすみ始める鬼沼計画の動かし方を工夫したい。
制作ノート 007
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 十月八日、早朝新宿を発ち猪苗代湖鬼沼へ。T社長親子、渡邊、カイ、ヨハネス、石山総勢六名。東北高速道は渋滞で、途中田舎ソバ屋で昼食をとり、鬼沼のサイトに着いたのは昼過ぎだった。ゴム長靴にはき替えて前進基地周辺を再確認。基地の取水が仲々難しそうで、受水槽のコルゲート二本に水をためる工夫をしなければならない。その後、次の谷、その次の谷を廻り、尾根へ登る。標高六百メーター程であるが、道無き道を登る。猪苗代湖の眺めは良い。なんとか尾根迄はい上り、風力発電装置設置予定場所を見る。強風で森全体が動いている。この標高ならプロペラが廻らぬ事はあるまい。私が所有している山田式のプロペラは風速一・八米から廻り始め、二米から発電を始める。今はもう少し高性能のモノがあるかも知れない。ここ迄資材を上げる方法の方が考えモノである。揺れ動く森の中を歩き次の峰の神社へ。古い石の社で高さ七〇センチ程のものだった。地元の人々の熊野信仰の名残か。裾野に熊野神社があり、その奥の宮なのだろう。石の社の隣りに桜の古木があり、奥床しい。桜の花があったので社を置いたのか、社を置いてから桜の苗を植えたのか。鳥居が塩化ビニール管で作られていたのも、良かった。重い材を持ち上げるより、軽い材でやろうと近代の人の工夫であろう。尾根筋を更にゆき、鬼沼集落への峠の鞍部へ。ここにも何故か石の墓あり、天保年間の田中性のものである。何故、こんな人も通わぬ峠に墓があるのか、熊にでも殺された人の名残りか。鬼沼へ急な下りを降りる。鬼沼へ着いたのは夕暮であった。田んぼを横切り、集落を通り過ぎ、仮宿舎の倉庫へ戻った。陽が暮れていた。
 324
 翌七日六時半起床。七時渡邊、カイ世田谷村来。車で松崎町へ。車中おにぎりの朝食。東名高速事故渋滞。一時間程遅れて沼津インター。途中、江川太郎左衛門邸見学。カイ、渡邊に学ばせる。生き柱を再確認。カマドの火と家の架構、そして土間の関係を今に持ち込めぬかと思う。昨日の強い雨のお蔭で空気が澄み渡り、清明な空模様となった。十三時前伊豆西海岸松崎町大沢、大沢温泉ホテル着。Y専務、社長Y夫人にお目にかかる。Yさんと工務店を交え打合わせ。現場再点検等。十六時修了。伊豆の長八美術館前で松崎町役場の旧友森秀己さんと再会。この人物は全く昔と変わりがない。こちらの変わり様が恥ずかしくなる位だ。カサ・エストレリータでお茶をいただく、昔なじみの女性に、これも又変わりなくサービスしていただく。美術館の職員方にもあいさつ。松崎町はいたる所に濃密な記憶があるので、長くいるとセンチメンタルな気分に落ち入りかねない。早々に辞し、岩科小学校へ。「起て岩科」の碑を眺める。壮大な夕焼け空の松崎を辞す。満月の空の下、東名高速を経て世田谷村帰着二十一時前。明日は東北に出掛ける。
 今日は藤井晴正、鈴木敏夫、小むらの小林君には会えなかった。藤井のサンマ漁は今年はどうなのか気になる。遂に静岡県では唯一の漁船になったと森さんから聞いた。
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 十月六日十五時嵐の中を南青山ときの忘れものギャラリーへ。十七時よりオープニングパーティー。風雨の中をそれでも何某かの人が集ってくれた。十九時了。Wさん、刷師のSさん他と会食。元室内スタッフN、M他も参会。彼等に久し振りに会えたのも良かった。H牧師とも再会。二十一時散会。
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 小林澄夫の「風景表」を杏林病院で読み直す。前作よりも充実しているように感じた。彼の抱え込む深い寂寥と孤独の素は到底うかがい知る事は出来ぬが、その表面らしきをなぞるのは可能だ。今日は定期検診でレントゲン迄とらねばならぬので午前中は病院だな。午後ドローイング二点仕上げる。翌六日カイから送られてきたスケッチを見る。面白いので制作ノートにメモを記し返送。今日は展覧会のオープニングでもう少しドローイングやるか、やるまいか・・・制作ノートをメモしながら考えよう。
制作ノート 006
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 午後四時三点のドローイングを仕上げて研究室へ。カンボジアのN氏と打合わせ。その後新宿の味王に移り小会食。二〇時半過世田谷村に戻る。
 320
 十月四日、午前中はドローイングに取組む。二点製作。
 319
 十四時本日の芸術学校での特別講義のマテリアルチェック。スタッフが手際よくプログラムしてくれていた。十五時ときの忘れもののお嬢Tさん来室。新しいドローイング五点含めて二〇点渡す。これでドローイング総数は二十五点、銅版画十点となった。あと五点ほど頑張ってみるか。二日間の広島&木本工房訪問、そして六本木ヒルズ会食が少々体にこたえて、眠い。GAギャラリー出展のモデルを再確認する。このモデルも更に深化させなくては。ときの忘れものギャラリーでの2回目の個展のドローイング・銅版画は今時点でのベストなので、多くの人に見て頂きたい。十八時芸術学校特別講義。二十一時過迄。手を抜かずにやったがどうだったかな。
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 十七時半東京駅着。六本木ヒルズへ。少し時間があいたのでロビーで色々仕事らしきをする。十九時6Fで福岡市長、姜尚中、原田大三郎他と会食。磯崎新おわりに加わる。二十三時半散会。福岡オリンピック計画案をどう展開できるかに的を絞りたい。それが一番の敗戦処理である。〇時三〇分世田谷村に帰る。三日朝七時よりドローイング仕上げ。五点を仕上げる。K氏肖像シリーズは我ながら良いモノになった。何を描いても建築的構造物の如きになってしまうのが不自由であるな。姜氏とは東アジア・ゲート構想をやってみたい、とドローイングが一段落したところで考えた。
 317
 案の定、ドローイングはアッという間に出来た。芸術家木本君の肖像を六点描いた。その中の一点はどう仕上げてゆけば良いのか径筋が視えにくかったので、彩色だけして、木本君のところに置いてきた。二〇分程で描けたのには自分でも驚いた。エスキスではあるが、明快な中心がある。細部は少し時間をかけて描けば良い。十一時半頃工房を辞し、木本君宅へ。町中の木本写真館である。木本さんの先祖は代々この地に暮らしてきた。おじいさんが写真技術を京都で学び、ここに写真館を作った。父上がそれを継いだ。父上は亡くなり、母上が細々と続けているが、そろそろ写真館は止めるという。そういう話しが中国山地の風景の中で語られると、又、時間というものについて考えさせられてしまう。母上手作りの昼食をいただき、十二時半木本宅発。車で広島へ。十三時十分広島駅にて木本君と別れる。この人物とはこれからも仕事を共にしていきたい。十三時半のぞみで東京へ。車中メモを記す。
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 東京からドローイング用の紙、マテリアルを持って出たのは、時間があれば木本君の工房で何点かを制作させていただこうと考えたからだ。彼のところなら何か描けると思った。木本君の作品を二階のギャラリーで見て、現代版鍛冶屋職工房ものぞいた。バルセロナのサグラダ・ファミリア聖家族教会の石工、外尾悦郎の制作現場と趣が異なっている。鉄は石よりも新しい、若い材料だ。石切場で切り出した石のかたまりを削り、組み合わせるという本質的な古さを持たない。大理石の中に時たま化石が埋まっているのがある。その化石を口にふくんでみると、古生層のアーモンドの味がするのだ、と外尾から聞いた事がある。つまり、石は数億年の昔の材料だ。木本君の扱う鉄はその古さは持たぬ。鉄鉱石を溶かす炉が仲に立ち、圧延の機械やらが更に入り込み、作られた材料を木本君は切ったり、曲げたり、たたいたり、再び溶かしたりしている。様々な機械が仲に入り込むという事では木本君の材料は近代の産物だ。数億年の時間が作り出した石とは違う。鉄はさびて、ゆっくりと風化し、いづれは土に帰る。石と比べれば、そんなもろさ、短命さを持っている。中国山地の風景は穏やかで丸い。この山容は老年期のもので水にけずられ鋭さは何処にもない。数千万年の時が丸くさせた。その風景の中に木本君は独人鉄鍛冶工房を構えた。本能的に一人になったのだ。芸術家の本質的な価値はその本能、直覚、直観の力にある。外尾悦郎がカタロニアのアントニオ・ガウディ、その未完の建築の現場を仕事場にしたのも、彼が芸術家であるからだ。外尾悦郎が一生を賭けてその人生をまっとうするのかを僕は興味深く見守っているのだが、同様に木本君のこれからにも大きな関心を持つ由縁である。
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 明けて二日、研究室より届いていたFAXに目を通し、バスセンターへ。八時四十五分のバスで木本君の工房に向う。かなり山の奥のようだ。高速道路を走り千代田へ。島根と広島の県境の町だった。中国地方山地の丁度背骨にあたる。バス停で木本君を待つ。こういう風景のこういう時間は実に不思議なものだ。研究室への通信整理。約束の時間通りに木本君現われる。車で彼の工房へ。一体どんな処で独人でモノを作っているのか知りたかったので、それで訪ねた。
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 広島昼過着。木本一之さん迎えて下さる。久し振りの再会。旧日銀広島支店の「ひろしまハウス完成展」会場へ。立派な会場である。Tさんの努力で手作りの会場構成も立派なものだった。実物大の仏足オブジェクトまで作られていた。平岡敬氏、Kさん等に再会。
 十四時、平岡さんと記念講演。平岡さんは世界市民の話をなさった。市長を退いてからの平岡さんはより自由になり、立派だ。
 終了後リーガロイヤルホテルにチェックイン。平岡、H、木本さん等とおしゃべり。その後、広島市民有志の方々と会食。ホテルに戻り、すぐ眠る。
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 明けて十月一日。朝五時半に雄大に目覚めさせられた。彼は葉山に私は広島行き。ドローイングの素材を持って家を出る。八時五〇分のぞみ十三号で発つ。キヨスクで私の定番の深川めしを探すも仲々見当たらない。四カ所探し廻ってようやく発見。よく生残っていたなお前という感じである。駅弁のつくりも又、何となくグローバルスタンダードである。深川めしはしかし製造元はJR東海パッセンジャーズJ10という所。Jリーグの奇妙奇天烈なチーム名群になぞらえれば、フランチェスコ深川の如しだ。要するに、これも多くの駅弁商品群の一つのラインに過ぎない。死んでしまった毎日新聞記者佐藤健も深川めしの愛好家であった。東京駅で東京バナナブラックなぞという凄い怪物状のモノが売られるに至った今、深川めしという、これも又、ブランドに小さくこだわったりする我等も又、寂しい者ではある。深川めしは、あさりご飯、焼穴子、ハゼ甘露煮、あさり浅炊からなる。以前の深川めしはあさりとライスの味がもう少し炊き合わされていた。製法の工程が一つ抜け落とされている。ライスの量が眼に視えて減っている。焼穴子の姿が大きくなり、味が変った。やはり、全体として製造法が合理化されているのがすぐわかる。JRパッセンジャーズJ10の下請けの、実際に深川めしを作っている工場も八百五十円のプライスを守るために随分な合理化努力という名の手抜きをしたに違いない。
 日経BPの取材対象に駅弁工場を一つ入れたい。
 新幹線の車窓から眺める田畑に目立つのはソバ畑の多さだ。農業者の高齢化を物語っている。
2006 年9月の世田谷村日記

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