石山修武 世田谷村日記

2006 年10月の世田谷村日記
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 昨夜は雄大と研究室スタッフ外人部隊と高田馬場葉隠で会食。鬼沼計画スケッチ、大沢温泉ホテル、チェック等しながらで、別に良いアイデアが湧き出したりはしなかったが、時々こういうのも面白い。李の二つの国籍の話が率直で良かった。皆と別れ、雄大がもう一軒どうだというので附合った。彼とこんな風に附合うのは初めての事であった。
 その前の設計製図好評会の印象も強いものがあった。学生は皆一所懸命にやっているのだが、際立ったデザインの人材は見当たらない。しかし、全体に均質化され、標準化された平凡さが明確に在る。初めてグローバルスタンダードの人間的現れの実体を意識化する事が出来た。製図の採点で言えば、Aマイナスの点をつけざるを得ないようなものの群れである。これは才質の劣化ではない。社会のシステムの成果なのである。しかも世界中に張り巡らされているシステムの成果だ。アメリカンスタンダードの産物である。強い標準化のシステムが小さな島国で濃密に施行されているのだから、成果品も強い均質性を持つ事になる。この事が自覚できれば学生との対応方法もないわけではない。もう少し考えてみたい。
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 九時天王台、駅前でソバ。二〇分馬場昭道、谷広海夫妻合流、水上へ。谷氏はブラジル日本語センター理事長。長年ブラジルの日本人のまとめ役として頑張ってきた人物也。天神平等を見て廻り、夕方たぬきの宿着。会食。二〇時過眠りにつく。よく眠った。二十九日朝六時起床。朝食をすませ、日光市で昼食。昭道氏一行と別れ、十四時過の特急で浅草へ。十八時研究室、打合わせ。
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 午後軽井沢Oさん、工務店打合わせ。Oさんは開放系技術の典型的なライフスタイルを実践してくれるだろう。友岡社長よりTEL。鬼沼行スケジュール決める。友岡さんのアジア工芸村計画も又、彼のライフスタイルも含めて開放系技術の体系モデルにしたい。GAギャラリーに出す鬼沼モデルも面白くなりそうだ。
 夕方、近江屋でTと会食。彼の今の人生も又面白い。ダムダンの将来の事も共に考えてみたい。百年は持続できるようなのが宜しい。人間の一生分だけでは積まらないプランにしかならない。雄大バルセロナより帰国。
 明けて二十八日六時四〇分起床。今日は真栄寺の馬場昭道さん、その友人と色々としなくてはならぬ。七時半前世田谷村を発つ。
開放系技術デザインノート 002
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 十八時近江屋でGA杉田君。彼は一種の建築族だと思う。政治家であれば族議員と呼ばれるのは、業界への利益誘導を旨とする業界保護代表勢力である。功罪相半する。杉田君も建築保護団体(極めて極小だが)GAに属し、当然その色を帯びざるを得ない。ところが彼の話しで面白い部分は時々、その業界の枠外への視点にある。その点が矛盾を含めて面白い。
 日経BPの連載は“もの・つくる人・讃歌”と、自分としては思い切り、脳天気なタイトルを考えてみた。勿論、意図的な脳天気振りえある。そこまで明るく振舞ってみせねば日本のモノつくりの現場はどうしようもない不可能性が満ち溢れている。カタロニア讃歌のもじりでもあるが。
 二十七日朝、昨日考えた開放系技術ノートを実行する。エヘヘなのだが、要するに身近に片付けられぬままにあった発砲スチロールのBOXの底に親指大の穴を開け、素焼きの鉢のカケラを置き、庭の土を入れて、三階のテラスに置いただけなのである。庭の土を掘り返していたら、アッという間にヤブ蚊に襲われ、十五カ所ヤラれた。キンカン塗っても時すでにおそし。かゆくて叫びたい位。シャンプーのプラスチック容器をカットして、筆立ても作った。ドローイングを続けて、筆その他が多くなった為。朝食はほぼ昨日と同様である。
開放系技術デザインノート 001
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 十二時ミーティング。十八時前マティアス・ザウアーブルッフ&ルイザ・ハットン来室。特別講義。二十六日早朝プロジェクト・マップ作る。朝食は米御飯(みよし村?)一杯。焼きのり四枚。横浜市寿司海苔問屋(株)つたかめ海苔の商標。びんづめの知床産鮭フレーク・ハッピーフーズ(株)北海道斜里郡斜里町。パック入り懐石どうふ(株)源玄庵京都市山科区北花山中道町製。しょう油(不明)。器はワン白山陶器佐賀森正洋デザイン、小皿、青らん社。こんな事を記すのは新潟の食と農ワークショップで参加者に朝食で実際何を喰べているのかのMAPを作ってみなさいとすすめてみたからである。自分一人で用意したので実に粗食である。しかし食材だけを見ると、食卓の上にはすでに日本地図が描かれている。知床のしゃけとか京都の懐石どうふとかはブランドからしてすでに怪しいな。体の中に得体の知れぬモノをずいぶんと繰り込んだ。お茶も冷蔵庫に冷やしてあったもので、これも素性はわからず仕舞である。つたかめの海苔も何処のものか知れぬ。鮭フレークは塩味がキツク。すでにノドが渇く感じ。食塩を相当量入れているのを知る。
制作ノート 005
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 九月二十三日。終日製作。はかどった。
 二十四日日曜日七時過東京駅集合。HONDAのプレス・サービスで四台の大型バスで栃木県茂木のツインリンクもてぎへ。日経BPT氏、講談社S氏と。十時半過ぎレース場着。FIMロードレース世界選手権シリーズ第十五戦の観戦。HONDAのレセプションテントで昼食。招待のオジさん達が昼からワイン等飲んで仲々良い光景である。私は今日中にこのレースを観たのをキッカケに原稿書かねばならぬので気分は一向に晴れない。125cc、250cc、そして最後に 990cc の怪物マシーンのレースを観て、ピットには入れなかったが、ファクトリーをのぞき、マシーンを間近に見る事ができた。キーンというレース用モーターサイクル独特の音、オイルのこげる匂い等、仲々リアルで良かった。レースクィーンのお姐さん達も絵になっている。ファクトリーはレース場の中に、コンテナ六〇〇台程並べてキャンプ場のように作られている。美しくはないが、今らしい。モルガンセンターはこれを飛び切り美しくすれば良い。 990cc マシーンは最高速三〇〇KMの高速である。三万六千人の人が集まった。十五時修了。すぐバスで帰途につく。十九時過東京帰着。二〇時世田谷村に戻る。すぐ原稿にとりかかる。翌朝、書き足し、十二枚を日経BPに送る。書き出したら、面白くなった。これから後、この様な取材を続ける予定。日経BPオンラインのインターネットに連載されるものになるだろう。もう少し、書き足した方が良いかも知れぬが、インターネットのページだから、その辺りのスピードがわからない。
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 昨夜は少々喰べすぎた。安藤忠雄の喰べるスピードに巻き込まれて、特にスキヤキ鍋であったから、のんびり構えていると、肉が失くなってしまうという強迫観念があるから、どうしても速くなる。ところが肉が多過ぎてまるまる一皿余ってしまった。もう少し春菊、ネギを多くした方が良かった。夕食は鈴木先生のデザインであった。我々の食への関心には一様なものがある。世代としてはくくれまいが、昨夜の仲間には一様な傾向がある。誰も美食家、食通が居ない。食の生活への趣味が欠落している。
 鈴木博之と同席した食事で、あれは美味であったと記憶に残るモノは数少ない。高山建築学校のホオバ味噌と、どんぶり飯位の記憶しか残らない。ラップランドからシシリア迄御一緒したが、その風景と会話の端々は憶えているのだが、味覚の記憶がない。恐らくは胃袋が武士のそれのままなんではないか。明治維新前の胃袋の質量なんだろう。つまり、胃袋は夜明け前なのである。安藤忠雄のそれも全く同様。彼に最初にごちそうになったのは、大阪の立喰いうどんであった。「ここのうどんはうまいんや、中内功さん連れてきたけど、そう言っとった。」と説明を受けた。彼がそう言い切ると、やっぱり、うまいのかなと思ってしまう自分もいた。彼の胃袋も又、侍のと言うより、近代的兵士の胃袋なのである。素早く、適度に、胃袋のあるべき処に何かが納まっていれば、それで良い。それ以上の、美味だとか、香りはあっても良いが無くとも一向に構わないのである。
 難波先生も料理に関しては極めて淡白である。恐らくは三六五日、日替り弁当定食でもいっこうに平気なのであろう。ワインに関しては何故か時に蘊蓄を傾ける事があるが、何となく、身についていない。山口県の元侍が無理矢理イタリアに顔を向けている風がある。マ、一言で言えば粗食、定食、弁当、うどん組なのである。だから、どうだと言われても答えは無いのだが、味覚の趣味が欠落しているのが共有の味だとすれば・・・。残念ながら、これにも答えは無い。
 磯崎新・二川幸夫・山口勝弘等のスーパー・ジジイ世代の連中は皆美食家である。磯崎、山口は自分で料理するし、そのウデは仲々以上のものである。特に素材の扱いにうるさい。二川幸夫は自分では料理しないが、あそこの、何がうまい、にはかなりうるさい。彼の考えは、高額な料理はうまいのだ、につきる。道端の屋台だってうまいモノ喰わせるのはあるでしょうと言い返して、徹底的にバカにされた記憶もある。一流のホテル、一流のレストラン、料亭はうまい、のまがまがしい思想がある。彼の建築観はそんなところだろう。で、スキヤキ組との落差である。この問題を解けるか、誰か。
渡辺大志 制作ノート 003
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 十一時研究室打合わせ。鬼沼計画他。十三時前学生二名来室、福岡オリンピックに関しての講演を依頼されるが、残念ながら断る。電話で断った筈だが、わざわざ足を運んでくれたのだが、今はとてもそんな気分にはなれない。十三時過教室会議。十六時過発。東大鈴木博之研究室へ。十七時過、安藤忠雄と会う。オリンピックのプレゼンテーション以来の再会である。難波和彦氏と共々、東大近くのすきやき屋で会食。四方山話しに 花が咲いた。二〇時半修了。鈴木先生としばらく歩き、地下鉄で新宿へ。二十二時前世田谷村に戻る。安藤忠雄の動物的勘は相変わらず鋭い。二〇一六年東京オリンピックは難しいだろうが、二〇二〇年はどうかな。
制作ノート 004
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 九月二十一日。十一時研究室。ひろしまハウス屋上デザイン打合わせ。このプロジェクトの社会的意味は大きいが、建築的意味はどうなのか。社会と建築は形、デザインを介して上手く結びついているとは考えられぬから。N計画をスタートさせる。土地は頭の中にハッキリと位置付いているから、先ずその土地から離れて、機能そのものをデザインする事から開始してみよう。
制作ノート 淵瀬より001
制作ノート 003
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 十五時半東京駅着。TAXIで六本木へ。コーヒーショップでメモを記す。十八時前磯崎アトリエ。小一時間程磯崎氏と雑談後食事へ。和食。二十一時過迄。世田谷村に戻る。二〇日十時過ぎ西早稲田観音寺へ。彼岸の墓参り。午後南青山 ときの忘れものギャラリーへ。ドローイング作業。九点ほぼ仕上げる。うまくいっているとは言えない。
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 皆、予想していたよりもズーッと成果をあげていた。三日で、これだけの事ができるのだ、と思った。津島由里子、豊嶋富子、他のチームの発表にある種の感慨を得る。両氏はネパール・キルティプール、カンボジア・プノンペン等の私のワークショップの体験者達である。ヒマラヤの峰々を望むキルティプールの丘の集落調査迄ご一緒した位だから、問題意識もハッキリとしており、大人である。この様な御婦人方が現われ、社会を視ている事は、今の日本にとっては大変な財産である。こんな事を書けば彼女達はビックリしてしまうだろうが。常識、倫理感、そして普通の義務感がバランス良く備えられている。自己表現なぞの考えは小さいが、生活のスタイルそのものがそれになっているようだ。
 今度のワークショップの特色は参加者にある。団塊の世代と八〇年代生まれの世代にほぼ二分された。津島、豊嶋両婦人は団塊の世代の婦人達である。この世代はともすれば男達が主役として考えられやすいが、二人を視ていると、オッとドッコイと考えざるを得ない。男達は生命力は弱くはないが、何故か空理空論好みなところがある。しかし、この婦人達にはそれがない。しっかりした現実感と適度な存在感がある。他人を威圧したりはせぬが、サラリとある。かくの如き生活感を持つ女性は日本の社会には初めて登場しているのではあるまいか。
 山本夏彦から「現代の職人」インタビューの人選について極く極く普通の人間が一番良いのだけれどなあ、と言われた事を思い出す。男性の大人の参加者のほとんどは帰農希望者である。皆、今の生活の後は農の生活を送ってみたいと考えている人達だ。三〇〇万〜五〇〇万人といわれる団塊の世代の動向は大きな社会問題である。この人達の老後の生活スタイルは日本社会の実質的モデルになるだろう。
 今度の越前浜ワークショップは小さな試みではあったが、社会問題の縮図でもあった。そして、この世代の婦人達の価値観、趣味、理想というもののハッキリした存在を知り得た事は収穫であった。インタビュー(聞き書き)をしたチームは皆良い成果を上げていた。中途半端な自分の意見や、アイデアを出そうとするものも多少見られたが、これは良くなかった。人の生活を、農的生活を聞く事に徹するのが、どれ程自分の生活の為になるかを、体験的に知った人間は得をしたのではないだろうか。
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 昼食はランチパック。農文協甲斐さん来校。講義十五時修了。高野さん来校。講義。十七時修了。高野さんの話しをまとまって聞くのは初めてであったので面白かった。鴨川里山王国の事、その他諸々であった。TVで観る高野さんとは別の顔があった。半農半漁の新しいスタイルだ。十八時前、今日の宿舎となる民家へ。新潟市長と再会。栄館、海の家の広間で参加者、市役所スタッフ、先生方、地元の方々との交流会。どうやら台風は新潟への影響は小さそうで、佐渡の夕景が見事であった。十九時半宿舎に戻る。結城、高野、甲斐氏と談笑。二十三時頃休む。古い民家で、盆と正月だけ家の持主が戻り使っているらしい。十九日朝六時半高野氏帰京の為サヨナラ。七時過結城、甲斐さんと栄館へ。昨夜は日本海に面したこの建物には強風が吹きつけ、室内に砂が流れ込んできたと言う。今朝は六時半より地びき網体験の予定であったが波が高いので不可能、中止となった。朝食は空腹で御飯お代り。あまり体を動かしていないのに腹がへるのは気分の問題か。八時半、参加者の発表会。五組のチーム毎の発表。昨夜は準備のため徹夜になったチームもあるという。
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 十八日早朝四時起床。メモを記す。昨夜描いたドローイングの出来が気になって仕方がない。段々、建築の姿が現われて来ているのが心配である。
 昨日は久し振りにネパールのキルティプール・ワークショップ以来の参加者にも再会できて嬉しかった。大人の学校は面白い。学生にとっても良い体験になるだろう。二点目のドローイングに取りかかろうとする。まだ夜は明けぬ。稲光りが凄い。七時半十二点のドローイングの下図こしらえた。思いがけず、仕事がはかどった。新しいアイデアが生まれて、というよりも筆を動かしていたら、いきなり十二点続いてしまった。面白いな何がおきるか解らないものだ。道具を片づけて、七時朝食。朝食後鳥の子神社見学、越前浜集落の中心的場所。細川の残党の依り処であった神前である。石彫りの鳥が多く奉納されている。角田山の中腹に旧社があり、一族が定着した後ここに移されたものとの事。越前浜が細川党、一向一揆党双方の混成隊によって形成された事がこの集落の独自なアイデンティティだろう。その後四班に別れて農業実習に出掛けたそれぞれのグループの現場を廻る。ネギ班、ジャガイモ班、グリーン・プラント班は廻れた。ネギの農家、ジャガイモの農家共に話をうかがう。妙光寺岩穴を見学し十一時四〇分栄館に戻る。浜に出て佐渡島スケッチ。台風十三号はどうやら新潟は直撃をまぬがれたようだ。空晴れて、フェーン現象となり三十三度Cの暑さになった。
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 新潟食と農「越前浜スクール」は、私が福岡オリンピックに時間をとられ充分な準備が出来ず、参加者は十七名である。短期間ではあるが手を抜かずにやろう。十三時半開校式、引き続きオリエンテーションとチーム作り、石山レクチャーを十六時五〇分迄。巻地区公会堂で行う。若い学生は畳の上で座りながらの聴講が苦しそう。椅子生活に完全にそまってる世代だからな。おじさん、おばさん世代は畳の上でも堂に入った風がある。夕食は宿舎の越前浜栄旅館でとり。十八時三〇分西遊寺へ。西遊寺住職朝倉さんのお話をうかがう。朝倉さんは当然朝倉の流れをくむ一族で、この集落は朝倉家二十八人衆の残党、そして一向一揆の残党によって興されたという歴史を聞く事ができた。昭和二十七、八つまり一九五〇年の高度経済成長の頃から、越前浜の集落からその共同体意識が崩れてきたという感慨をお聞きできたのは良かった。日本の本格的な近代化は池田勇人内閣の高度経済成長計画の実践にあった事が知れる。今の中国は要するに同様な歴史を歩んでいるのだろう、更に大がかりに。二〇時過修了、住職と少し話して、宿舎に戻る。
 ドローイング一点ほぼ仕上げて、早々と寝る。
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 九月十六日ワイマールよりバウハウス新学生来る。物静かな青年である。広島よりKさん、Tさん来室。ひろしまハウスのこれからの事等話し合う。夕方S君来室。新大久保で韓国料理食べる。頭の中でひろしまハウス屋上にメコンを望むテラス、空飛ぶ仏足テラスを設けようかと独人考える。
 九月十七日九時半頃の新幹線で新潟へ。十二時半頃越前浜スクール着。
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 十五日オウム真理教代表の松本智津夫が最高裁にて死刑確定との事。地下鉄サリン事件その他で多くの人間を闇の中に巻き込み、殺害した戦後最深の事件はこれで一件落着というわけにないかない。世界中に猛威をふるうテロリズム拡大の一つのマニュアルにもなったであろう事を考えれば、この事件は深く二十一世紀的性格を持っていたと知る。久し振りに上祐アレフ代表をTVで視た。この青年の抜き差しならぬであろう状況と、それでも生きてゆかねばならぬ将来を思うと、人間のその時々の奇形に思いいたる。そのある意味では広く敷衍する奇形を克服する方法を考える事こそ宗教家の在り方であろうに。仕切りに上祐は教団の資力のおとろえを口に出し被害者への賠償金の支払い遅れを弁解しているが、不可能な事は不可能であると認め、9・11はアメリカがそれを引き受けたように、賠償は国家が引き受け教団は解散する。個人個人の日常的修行の径に入るのが唯一の人間社会的行為であろう。それが出来ねば完全な隠遁の空白に身を置くしかあるまい。オウム真理教サティアン建築群が在った上九一色村富士嶺に、事件の被害者達の冥福を祈る目的を持つクライアントの意志で小さな観音堂をデザインした事もあり、この事件の行末は観音堂の在る限り見続けてみたい。プノンペンの「ひろしまハウス」と「富士嶺観音堂」は悲劇の鎮魂の形をとっている。
 ニート達を対象とする奇形治療のスクール(寺院)を作る人間が必要である。先生という職業も在る種の社会的奇形を帯びざるを得ないから、先生と生徒という関係を解体したスクールになる筈だ。場所とそれを特化した空間だけが在るような。
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 GA杉田君とおしゃべりする。この編集者は謂わゆる建築家達よりも余程深く様々な事を考えているな。旧来の業界専門誌的狭さの特色ではなく広い社会から建築を眺めているようにも見える。自然に、半ば意識的に専門誌との距離が発生しているが、しばらくはこのままで行くしかない。いつか、新しい形式のメディアを作りあげてくれるのを望みたい。将来アフリカから本格的な黒人建築家、イスラムからイスラム建築家、ラテンからラテン建築家等が出現するであろうが、GAアフリカなんて本が、GA CHINA等が生まれるようになった時に初めて国際様式という名のコロニアル様式を超える世界が到来するだろう。北京モルガンセンターからのグッドニュースがまだ到着せぬので、プロジェクトを二つ伴走させる必要に迫られている。十四日夕、帝国ホテルでT氏等と打合わせ。近い内に福岡に行く積もり。磯崎新の福岡オリンピック計画や海市計画を土台にしたプロジェクトを組み立てられれば良いのだが。
制作ノート002
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 九月十四日朝スタジオヴォイス原稿書く。R・バックミンスター・フラーの多面性こそが注視されねばならぬ時代になった。グローバリズムは文化的ファッショのシステムを内在させており、それに対するには世界性の別の形式を提示してゆくしかない様に考えられる、旨のコトを小記した。写真家中里和人氏とのセルフビルドの連載が単行本として仲々陽の目を得ないままだが、何処か良い出版社が無いものかと思いあぐねている。単行本の別形式を考えねばならぬ時代になるだろう。新潟には今週末に出かける予定となる。チベット・ラサ・北京紀行をまとめたが、チベットの寺院名他が混乱している様で、ガイド・ブックと専門的な本との間に喰い違いがある。事物、場所の名のズレは何を物語っているのか。日本でも、恐らくは身近な都市でさえも多くあるに違いない。地名の変遷は歴史そのもののドキュメントであろう。午後は白井氏の版画工房を訪ねる予定。
新連載 制作ノート001
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 展覧会のDM(ときの忘れもの)出来た。どなたに出そうかと考える。ネットで大方の人には伝わる筈なのだが、やはりネット情報では動かぬ人も多いだろう。かと言って新しい友人がそれ程沢山いるわけも無い。住所が動いてしまった人も多いだろう。今度の本の出来は前の「世田谷村日記」より前進しているモノになりそうなので、一度手にとっていただきたい。十三日は遠い台風の影響か雨。北京モルガンセンターからのグッドニュースを持つ。
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 十七時半ドローイング3点仕上げる。疲れた。京都から帰ったばかりの坂田明と連絡して、ベーシーの様子を問うも、彼も詳しくは知らぬと言う。もう今日は作らぬ方がいいな、少し休んでからだ。十二日早朝銅版画進める。ジョカン・テンプルから来た十二才の釈迦牟尼像はすっかり世田谷村の三階に馴染んでいる。七時過銅版一点仕上げて、再び眠る。昨日は二〇〇一年9・11同時多発テロから五年目の日であった。世界はあれから眼に視えて変化した、の意識を持つ人間は誰も希望を語らなくなった。それから、TV番組の相当数が完全なバカ状態を演じるようになった。深いところで通じている筈だ。
 292
 天気、空模様、雲行など天空の様子を呼ぶ言葉は多いが、今朝の雷雨ですっかり空は秋になった気配だ。その様に感じるこちらの気持が変化しているのかな。
 今日は午後から研究室でドローイングに取り組む。
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 大住広人「はるかにれのころ」水書房読む。昨日九日は帰国子女、外国人入試面接。人事小委員会、将来構想の会等終日。深夜迄。久し振りに大学の空気に触れた感あり。綿貫さんのときの忘れものチベット・ラサ・北京紀行のゲラ校正を仕上げる。
 全く異なる三つの世界が一日の中に在った。十日、日曜日夕方より歌舞伎座へ。初代中村吉右衛門生誕百二十年秀山祭九月公演。籠釣瓶花街酔醒の舞台展開のスピードが面白かった。歌舞伎は観劇中弁当を喰えるのが良い。十一日九時起床。早朝五時に目覚めて本を読んだりしたので、つい遅く迄眠った。朝、猛烈な雷雨あり、開け放しの家に降り込んだ。少々の降り込みは家にとっても、良いお湿りになる。
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 チベット・ラサ・北京紀行あとがき
 九月八日早朝、富士嶺観音堂へ。チベットの旅、福岡オリンピック騒動共に終って淡々たる日々である。毎日やらなくてはならぬ仕事はあるのだが、どうも気が乗らない。この八ヵ月余りの磯崎新との時間は思わぬ後遺症を残した。濃密な時間であっただけに、その後の空虚もいささかデッカイ。気持にペンペン草がそよいでいる風だ。こりゃいかん、何処かでスッパリ区切りをつけぬと、日本的無常に沈み込みかねない。それだけは 嫌だ。それ位の反撥心はまだある。それだけが取柄だ。中傷には耐えられるが感傷には耐えられぬ。
 で、思い立っての富士山だ。別に富士山は好きではない。むしろイヤな山の部類だ。ヒマラヤと比べれば、その高さ大きさは、山というより、ただの地ぶくれに過ぎぬ。それなのに独人よがりに日本を背負っている。この山の小ぢんまりとした、まとまり方の風姿は我々の精神世界に深く力を及ぼしてきた。日本の箱庭文化の象徴である。江戸時代迄は噴煙を吐いていたようだから、まだ納まり切らぬ生命力があった。人々は日々それ を感じ、畏敬の念を持っただろう。それに太古、八ヶ岳の方がはるかに高い山岳であった。爆発で上半分がすっ飛び、それで富士が日本一になってしまった。本当は、この山は日本で二、三番目の高さであるのが望ましい。そうすれば我々にはもう少し破天荒な創造のエネルギーが備わっていたかも知れぬ。
 富士嶺観音堂は私がデザインした。今日は幸いな事に富士には厚い雲がかかり、その偉そうにしている姿は見えなかった。良かった。この観音堂には生死の境界を生きる人々が多く参集する。駆け込み寺の風がある。明日をも知れぬ人もいる。でも、皆一様に生きる意志は強い。だから、堂内には自然な和気が発生する。私も頑張るから、あなたもね、という奴だ。その中に身を置くと、だからエネルギーを得る。建築から得るんじゃ なくて、人々から貰う。しばらく居て、東京に戻った。すぐにヤル気満々になる程もう若くも単純でも無い。更に、気持の空虚が深まった感もある。それで良い。それが深まれば深まる程に、それに見合った抵抗力が産まれるのも知っている。いよいよ、飛んでも無いモノを作るぞ、を予感する。
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 七日、十五時、チベット・ラサ・北京紀行書き上げた。昨日も終日原稿に取り組んだ。本日、幻庵主榎本基純氏より手紙と本を拝受。本は榎本統太君製作の白夜書房刊。宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』。まだ手にしたばかりだが、榎本さんが送りつけてくる本だから詠んでみるに値するものだろう。十月六日の展覧会に合わせて刊行される「チベット・ラサ・北京紀行」書き終り、ホッとしている。あと、アト書800字を残すだけとなった。磯崎新の写真共々、楽しんでもらえれば幸いだ。今、現在の私のベストか。大沢温泉ホテル、打合わせ少々。
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 昨夜は展覧会の為の作業を夜遅く迄したので、午前ゆっくりと眠ってしまった。チベット紀行の続きを書きなぐる。北京のCY・李に連絡、北京モルガンセンターのグッドニュースを確認せねば。カタールのドーハが二〇一六年オリンピックに立候補するのが報じられている。オリンピックと日常生活は無縁になってしまったようで、今もつながっている。色々と考えさせられた事、生まれたアイデアに何とか陽の目を見せてやりたいものだ。今日六日は午後研究室に出て、福岡オリンピックのフォロー計画を練る予定。オリンピックは負けるが勝ちなんだ、といずれ言うぞ。
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 元工作社の三砂慶明君から手紙をいただく。「室内」が失くなってしまってからはやくも半年程になる。もう何人の人が「室内」を記憶にとどめているか。沢山の失くしたモノの記憶を引きずって、マア、それでも前に進みたい。鈴木博之先生と連絡近々会う事となる。
 五日午前中研究室で銅版画一点仕上げる。研究室では銅版はやるまいと決めていたのだが、気持を集中させて空白を敢えて作らねばならない様な気分で、いたしかたなし。午後も大判のモノに取り組む。夕方迄に一点仕上げた。
 ときの忘れもの綿貫さんより連絡あり、チベットの旅磯崎新撮影の写真百点借用OKとの事である。面白い本が出来るかも知れぬ。
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 四日午後JR東京山の手を巡りながら考えた。グルグル廻りながら考えたのである。日本の都市で力に於いて東京に勝てる都市は一切無い。文化的意味合いに於いてもそうなるだろう。二十一世紀は国家間の競争よりも、都市間のそれになるだろうという予測がある。実ワ、その予測というか哲学だけが福岡の頼りであった。が、それも駄目だった。JOC、及びJのつく、つまり日本の意志ある人々のアイデンティティは霧散してしまっていた。今は、すでに世はなべて事も無しの如くに全てが流れているように思う。地方対東京という歴然たる構図も大多数の人々の頭からはすでに消えてしまっている。バカな!と思う。日本のポスト小泉首相候補の全て、安倍、谷垣、麻生各氏が全員、地方重視と言っている。格差社会の是正と正論を述べてはいる。しかし、三氏共にやっぱり東京=首都へ価値観の中軸が傾いている事は歴然としている。建前とあやふやな本音との関係性に何の論理性も見てとる事ができぬ。特に九州の麻生太郎がウヤムヤだ。この政治家は何を志としているのか。麻生セメントグループの中枢として、その経済活動の実践を日本の政治に敷延化しようとしているのか。それは、いかにもお粗末な観念である。本来九州道州制の促進を加速させ、九州のゆるやかな税制上の自立をヴィジョンとして持たねばならぬ政治家が、これでは全く、この世は闇なのである。
 新宿で石山研スタッフと福岡オリンピック・ワークの打ち上げをした。スタッフはこれでこの三〇年に一度の都市の可能性のチャンスが消えたという私の気持を感じ取ったかは知らぬ。しかし、明治維新という小さな革命が全て九州・山口連合で成し遂げられた史実を想うに、今度のセコい国内予選の悲惨さは記憶に残し、忘れてはならぬ事件であった。
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 三日午後十月の展覧会の為の仕事にかかる。面白いのだが、これも又仲々に難しい。午前中久し振りに蘆花恒春園迄散歩する。一八六八年生の徳富蘆花は一九〇七年、今から丁度百年程前にここに住んだ。四〇才であった。東京府下北多摩郡千歳村粕合と呼ばれた田舎であった。当時の風景写真及びスケッチ等を見るに、たった百年でこの場所の風景がこれ程迄に変化するのか、という程の驚きがある。この先、百年で再び、百年前の風景に立ち戻るやも知れない。時間は酷薄である。夜、銅版画製作に取り組む。四日早朝銅版画に取り組む。何を彫り込んでいるのか自分でも解らぬ。こんな建築を建ててみたいというのでは、どうやら無さそうだ。じゃ、なんなんだろうというのが解らない。建築よりズーッと自由な世界が銅版から浮き上がってくる。ヒマラヤ・シリーズ一点修了。九時過朝食。
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 九月三日、昨日二日はプノンペンの渋井修氏来室。ひろしまハウスのこれから及びオープニングセレモニーの件、話し合う。良い知恵あまり出ず。渋井修が猪苗代鬼沼の計画に関心を示したので、彼をこの計画の居住者として誘ってみようと思い付いた。今年の十二月に再打合わせとする。S君来室。十月六日にオープンする私の個展の打合わせ。チベット・ラサ・北京紀行は少し手を入れてみたい。福岡オリンピック論にもなるように出来ないか。久し振りに昨日は早く世田谷村に戻って、休んだ。
 今日は個展の為の仕事をすすめるつもり。福岡オリンピック計画は今の日本にとっても良いプロジェクトであった事が日に日に惜しまれる。日本人の思考の世界性を世界に示せるチャンスであった。福岡のT氏は昨日今日と残念会で温泉・ゴルフ大会のようだが、「東アジアコモンハウス(共同体)構想」の次のステップへと進めなければならない。新聞・TVのオリンピック国内予選は早くも潮を引き始めた。
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 九月二日朝ラジオを聴いていたら、永六輔の番組に姜尚中が出演していた。永六輔も福岡オリンピックの方が良かったと発言。姜尚中は二〇二〇年釜山と共同開催を目指したら良いと述べていた。二〇一六年の東京開催はあり得ないから、二〇二〇年に東京が再チャレンジしたら福岡は韓国との開催をプランしたら良い。それならば市民、県民の再チャレンジへの支持も得られるだろう。二〇一〇年代に北朝鮮と韓国の平和的融合が実現するようであれば、世界平和の為のオリンピックの大義も得られよう。
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 九月一日十七時早稲田の文学部で開催されていたドイツ・バウハウス・エアフォルト、韓国京幾各大学のスクールで小レクチャー。三十数名の国籍雑多な学生相手だった。J・グライターと再会。バウハウス建築大学のグライターは今朝磯崎アトリエを訪ねたらしいが会えなかったと言う。そりゃそうだろう。丁度その頃私は磯崎新に敗戦報告の電話中だったんだから。午前中から電話、メールで福岡オリンピック残念だった、の言葉が多く届けられた。心配してくれていた人も少なくなかったのだ。
 毎日新聞「記者の目」に大きくスペースを割いて石井朗生記者の論説が掲載されている。五輪国内候補地・東京に決定「JOCこそ明確な説明を」と題された論である。過不足の無い正論であるように思う。
2006 年8月の世田谷村日記

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