石山修武 世田谷村日記

12月の世田谷村日記
世田谷村日記 制作ノート 11/30
世田谷村日記 制作ノート 11/29
世田谷村日記 制作ノート 11/28
世田谷村日記 制作ノート 11/27
世田谷村日記 制作ノート 11/26
世田谷村日記 制作ノート 11/25
世田谷村日記 制作ノート 11/24
世田谷村日記 制作ノート 11/23
 十一月二十二日〜十二月一日 プノンペン - 北京 - 福岡紀行
 R032
 十一月二十二日
 深夜二時制作ノート十一点研究室に送付。全て、世田谷村の近未来計画のエスキスである。いささかの疲労を覚えて休む。七時半起床、下の畑の様子を見てプノンペン、北京行の荷作りをする。暑いプノンペンと寒い北京行で服装が難しい。短パン、Tシャツとロングコートを一つにまとめる。十四時二〇分中国南方航空で広州へ。この航空会社はチベットの活仏の寺等に多額の寄進をしていた事を思い出す。チベットのあの活仏、毎日平穏な日々を送っているかな。夜にはプノンペンに着いているだろう。もう一度畑を見て廻り、発つ。
世田谷村日記 制作ノート 11/22
 R031
 十一月二十一日
 深夜三時過目が覚めてしまい、メモを記している。世の中の激動振りは凄惨な位だが、私自身の身体能力がすでにそれに反応しきれていないような気がする。昨日取材したフジノンのレンズ研磨工のHさんの人生を想像するに、ここ五〇年の間の技術革新は余りにも目覚ましく、Hさんの身の廻りから、フィルムも写真機も姿を消して、フッと気が付いたら四〇年間レンズを磨いていたという実感だろうか。しかし、このデジタル化、バーチャル化一方向への急変が生活の質のどの辺りを揺り動かしているのか、我々はそれによって何の恩恵を受けているのか、解らぬままの変化ばかりではないのか。ジョージ・ルーカスの映像は、デジタルカメラの進化によってもたらされた。そして、その特殊カメラのレンズを磨いたのがHさん達、レンズ磨き工である。ルーカスのエンターテイメントの質の中枢はレンズ磨きの古い技能によって支えられていた。フォン・ブラウン博士によるロケットの発明の初源がエンターテイメントであった歴史を思い起こせば、技術革新をうながしている源が人間の極めてシンプルな情動でしかあり得ぬのも、又、了解せざるを得ぬとすれば、我々の文明の実体は大花火大会である事になりかねぬ。イヤハヤ、実に文明、技術というのは怪しいものだ。実に不可解であり、同時に単純極まるな。
 九時再び目覚める。快晴。下の畑へ。山東菜の芽を間引く。チンゲン菜の芽も。間引くくらいならまかなきゃ良かったとも思うくらいの量を間引く。地球上の人類にもこんなシステムが動いているのかなと思う。ホウレン草の芽、二〇日大根の芽も出てきた。何よりサヤエンドウの芽が吹き出したのが嬉しい。百円ショップの種もそれなりに頑張ってる。しかし、この後の作業は何をやるんだろう。しばらくは天気任せ、土任せでゆくしかない。一時百姓の真似事で言ってはいけない事だが、お百姓は忙しい時とヒマな時の落差があり過ぎる仕事だな。サラリーマンはその点コンスタントにほぼ忙しい。しかし、自分のやってる事の全体が視えない。その点では百姓のような仕事に将来性はあるな。百姓は実に色んな事が出来る、まさに百の姓なんだろう。どうやら、私にはロシア型のダーチャ(自給自足農園)も沖縄の畑(同様に自給自足菜園)も不要のようだ。まだ解らないけれど。世田谷村の上の畑と下の畑で充分過ぎる。
 R030
 十一月二〇日
 八時起床。風邪も抜けそうで、今日はなんとか動けそうだ。河野君よりストーブの図面送られてくる。予想していたよりも、はるかに良いモノを作っているので驚く。早速彼とやり取りして世田谷村プロダクトその一になるだろう、ゴミ燃焼ストーブの製作に入るつもり。
 「都市史研究 14 」送られてくる。伊藤毅先生のグリッドについて東大でのレクチャーを聞いた事があったが、「中世新都市バスティードをめぐって」等の論考を読むと、あのグリッド論が着々と展開されているだろう事が知れる。都市のイデーを総合的に体現するものとしての中世以降のグリッドと、近代建築を枠づけるグリッドが同じ地平で論じられる時に、近代建築、バウハウス・スタイルは歴史学の中に包摂させるに違いない。産業革命に代表される科学の進歩の背後に、より強大なイデーの形象化への歴史、進化論とは少し違う骨組みがあるのだろう。伊藤毅先生の成果を待ちたい。伊藤さんの論理の行先を勝手に類推するに、建築の歴史の枠の外、あるいは背後に都市の枠が広がり続けてきたとすれば、これは並々ならぬ事ではある。ある意味では表象論的建築論をコケにしてしまう可能性を持つからだ。都市史という新しいフィールドが本格的に機能してくるようになると、建築や都市に関する怪しい評論の類は、その基盤が無い事を、白日の許にさらされる事になるだろう。
 十四時前大宮着。駅近くのデパートの上で一人昼食。ポムの樹というオムライス専門店でランチセットのオムライス。客はほとんどが女性で、そういう味付けであった。しかし、紅茶、サラダがついての値段は安い。ビックリする位に。大宮価格だな。十五時前迄音の神殿4の原稿書く。「音の神殿」はアト四年でどうしても建てたい、作りたい物体の物語りだ。その初期エスキスは何日か前にネットに発表しておいた。当然、プロジェクトの実現までは紆余曲折があろうが、そこに辿り着くまでのストーリーを先ずは書いてしまおうという算段なのである。デパートのレストランフロアーには占いコーナー開運館 E&E まであって、占い師のオバサンが二人、とり敢えずは手持無沙汰にしていた。十五時過大宮駅T氏S氏とカメラマンと合流。フジノン工場へ。フジフィルムの子会社である。フジフィルムは急速なカメラのデジタル化で多角経営化しており、その一部門の取材である。広報の方々の立会いのもと、レンズ研磨工のHさん52才に色々と話しをうかがった。入社してほぼ四〇年弱、この径一筋というか、このレンズ磨きの仕事一本でやってきた人物である。十八時過まで取材。外に出たらとっぷりと陽が暮れていた。
 R029
 十一月十八日
 七時日経BPオンライン原稿書く。一時間程の畑いじりと朝食を経て、十二時前修了。三〇〇〇字程の栄久庵さん論となった。石山研のネットに道具寺論を連載しているので比較的楽だと思っていたが、そうはいかなかった。文字を書くのは不思議極まる作業だな。下の畑の赤カブの芽らしきも出ていて、畑はがぜんにぎやかになってきた。昨夜はシカゴ在住のアフガニスタン人デービット兄弟と夕食をコリアン料理屋でとったが、タフな人達であった。ヤワな日本人は次第にガンジがらめになりつつあるのではないか。栄寿司で夕食。
 十一月十九日日曜日
 どうやら風邪をひいてしまったようだ。終日抗生物質を呑み、寝込んだ。寝込みながら考えた。今日一日三階のBEDから三〇米以上の距離を歩かなかった。しかし、ウェブサイトは一日に日本語圏も入れて世界中から一万クリック程の訪問がある。我々の情報は数千km飛び歩いている。私は寝込んで動けぬが私の情報は勝手に動き廻っている。一人歩きしている。
 夜半雨、赤カブの芽が出かかっているのだが、種が流されなければ良いのだが。福岡市長選自民山崎氏敗退。沖縄は自民が勝利。オリンピック騒動はこれで一段落した。
世田谷村日記 制作ノート 11/20
 R028
 七時少しばかり仕事の後、下の畑に出てチンゲン菜の芽の間引きを少々。松崎町大沢温泉秘話4送信。制作ノート送信。再び畑へ。市民農園の芽の出方を観察後少休。静けさのパビリオンはいきなり第一次案と異なる平面形が出てきてしまった。音の神殿への道のりであろう。何日か振りで銅版画に少し取り組み、午後研究室へ。打合わせ、諸々の伝達。週二回のウェブサイト更新がようやくペースを刻み始めたが、まだぎくしゃくしてるな。
世田谷村日記 制作ノート 11/17
 R027
「伝統論争に巻き込まれそうになる。」
 プノンペンの渋井さんと連絡。ウナロム寺院の僧正よりひろしまハウスの仏足の上の屋根をもっとカンボジアの伝統によったものにしなさいとの事で急遽工事はストップしてしまった。デザインの修正に一週間程かかるから、オープンセレモニー時には仏足上の屋根は乗らぬ事になった。遠いプノンペンの事で、すぐに出掛けて話し合う事もできず、しばらくは時の流れに任せるしか無いだろう。現地の工務店から僧正のスケッチを送ってもらう手配をしたが、プノンペンで仕事しなければならなくなった。完工式ではなく、デザインミーティング行だ。しかし参加者はすでに多数集まっているので、オープニングセレモニーは予定通り行う。昔だったら大騒動だが今は何とか乗り切るしかないと覚悟するだけ。思うようには、いかぬのカンボジア的典型であろう。伝統様式の屋根スタイルは現地の工務店に任せるしか無いだろうが、二つの小屋根が連続してくれればそれで良い。かえって良い建築になるかも知れぬ。
 R026
 十一月十六日 早朝鬼沼風力発電塔のスケッチすすめる。来夏建設が決まったので力が入る。又、ガラスシェルター、長いシェルター、高床棟の位置もほぼ決定したので、よりリアルな進め方ができるようになった。百米の高低差を克服するアイデアがいるな。下の畑で土いじり少し計り。昨夜の雨で、畑の土に太陽の光があたりもうもうと湯気が昇っているのを見る。雨も太陽も土もやっぱり大変なエネルギーを持っているな。世田谷村制作ノート二点送信。午後、人事小委員会、教室会議。
世田谷村日記 制作ノート 11/16
 R025
 午後M2ゼミ、河野鉄骨来室。鬼沼風力発電塔打合わせ。夕方五反田TOCへ、T社長と打合わせ。鬼沼計画のプログラム等を話し合う。良い方向へ行きそうである。社長と遅い晩飯を一緒して二十二時過世田谷村に戻る。雨が降ってくれたので畑には良かった。夜の菜園を眺める。
 R024
 十一月十五日 来週のプノンペン→北京→九州のスケジュールが決まったので、一日一日がタイトになるだろう。早朝ようやく陽の差し込み始めた下の菜園に出て畑の様子を見る。松崎町役場の誰だったか、作物は畑にくる人間の足音で育つと聞いた事があるのを思い出した。一時間程土いじりして汗をかく。半結球山東菜が一気に芽を出した。道具寺考7送る。日本人の習性から考えるに建築、特に住宅デザインは工業デザインの世界に属するようになるだろう。すでに開口部をはじめとして大方のそれはなっている。多様で、しかも制度の高い工業デザイン的部位をコンピューターによってアッセンブル(設計)して、時間に換算可能な労働対価を自分に、そして他人に支払うような社会になるのではないか。開放系技術はそこに新種の労働の質を見出せるかどうかの理論的試みである。
 R023
 十三時研究室丹羽君すでにサイトを変更してくれていた。少しは解りやすくなったろう。ヨハネスが世界各地からのウェブサイト訪問者数の状況をデータにしてくれた。ウェブサイトは世界と連絡している事が数字を介して理解出来た。二年生製図中間講評会に出席。発表者、すなわちマアマア出来の良い学生であろう十三名中十名が女子学生で男子は三名のみ。この学年は静かな革命を起こすのかも知れない。又、そうあって欲しい。今の、実に底の浅い実利世界、すなわちグローバリズムをくつがえす可能性があるとすれば、それは女性だろうという直観を現実に眼の当りにしている如き幻想にとらわれたりもした。でも、幻なのだよコレモ。十八時編集会議、来週のサイト構成を決める。二〇時過世田谷村に戻る。
 R022
 十一月十四日 七時上の菜園に生ゴミを埋めに上る。ついでに又もススキ刈りに挑む。下の菜園の土おこしを九時前まで。世田谷村のパソコンで石山研をヒットしてみたら、誠につまらぬ入口が出てきて、やはり改新したゲート他は進入できなかった。何の為の努力であったのか憮然とする。これでは訪問者は逆に減る筈だ。我身の不明を恥じる。それぞれの読者のパソコン事情に考えが至らなかった。
 R021
 十一月十三日 九時より研究室へ。昼佐賀の梅木氏に会った他は終日卒論発表会。計画系全研究室の発表を聴く。二十一時迄。午前中丹羽君よりウェブサイトのヒット数データ受け取り、ページ改新の結果ここ一週間サイト訪問者が減った事を知らされる。基本的には改新した部分を皆さんが素通りしてしまっている事が夜に判明した。エネルギーを掛けている部分がパスされて、更新されていない旧トップページがスカスカの形で残ってしまっているので、外から見ると石山研のページは動かなくなった印象があるに違いない。丹羽君にシステム変更を求めたい。あるいは内容を充実させようとした事自体に無理があったのかな。新潟市長選は篠田昭氏が圧勝で再選された。来年四月の政令指定都市の初代市長が確定し、田園都市構想が一歩前進する事になる。農村研究会のワークショップも本格化させたい。
 R020
 十一月十二日日曜日 昨日、参会者に配られた大住広人のハルニレ雑記は、彼の父親の私史を描いたハルニレの本よりも私には面白かった。ヘンリー・デビット・ソロー観が私とは大分違うなと痛感する。早朝二時間程菜園いじり。チンゲン菜の芽が吹き出て、これから先どうやって育てたら良いのか途方にくれる思いだ。それでも赤丸二〇日大根なる種を新しいウネ一条にまく。宇都宮のトーホク(株)清原育種農場が発売元である。宇都宮発売の種のウネが四条世田谷村にできた事になる。区民農園までブラリと長グツのまま歩く。早朝から数名の皆男性の老人が畑の手入れをしている。丹念で上手な人、野菜より花の人、私に似て途中で放り投げた人、全く手入れしない人の畑があり、面白い。少なくとも野菜の名前くらいは少し覚えなくてはならないが、植物、動物関係は頭に入りにくい頭の構造になっているので難しいだろう。午後、土いじり用の小スコップ、スキじょうろ、鎌等を買いに商店街へ。入手したかった小さな道具は結局百円ショップで購入した。園芸用の種迄売っているから、専門店は大変だろう。だいぶ前に店を閉じた安田金物店の老夫婦を思い出した。一代交配ほうれん草、絹さやえんどう、ついでにスイートピーの種も求めた。いづれも広島県の大創産業が発売元である。しかし、生産地はアメリカと記してある。いづれの種子も色鮮やかでトロピカルな人工着色らしきが施されていて、少しばかり怪しい様な気もするが、解らない。自分で栽培した野菜だから安全だとは、この種の色を見ると解らないぞと思う。しかし、今は解りようが無いので結局全部ウネに撒いてしまう。今年の種まきは、あと一ウネを残して、これで修了。ちなみに二年前に屋上菜園に撒いて見事な開花を見せてくれた八重矢車草は宇都宮のトーホクのもので、生産地はオランダとアメリカに別れていた。種は遠くからやってくる。夕方、屋上に上がり、上の菜園の手入れをする。流石に、一日を畑三昧で過ごし、疲れた。初めて、屋根の上と地面の畑の双方に手を入れた。疲れ切って、二Fに横になりながら奇妙な実感に襲われる。頭の上の畑と足の下の畑とのサンドイッチ状の空間に自分が挟まれている知覚が生まれている。古今亭志ん生の愛宕山フィーリング。自分の頭の上に出来た池に飛び込んじゃう、ような感じなんである。身体の延長として現われる空間の知覚というのはこんな感じなのだろう。身の廻りの空間をより親密に知っているという自覚への意識だなコレワ。
 R019
 十一月十一日、朝、雨である。雷も鳴っている。畑仕事が出来ぬので、机上の仕事に切り換える。少しガッカリしている自分がいる。昨日聞くところでは、線路向うのH氏の菜園は赤カブの芽がすでにバアッと吹き出しているそうで、殆ど同時期にまいた世田谷村ではまだ一向に気配も見せぬというのは明らかにおかしい。今日、H氏が指導に来るらしいが、水のやり方がまずかったと彼は言ってるらしい。チンゲン菜よ、目を覚ませ、本格的な冬になっちまうぞ。と、ブツクサ言ってる内に雨が小止みになったので、畑におりてみると、何とチンゲン菜の芽がそれこそドーッと出ているではないか。一番早く、ウネではない平らなところにまいたのが、芽を出してくれた。小雨の中、少し計りの土いじりする。大沢温泉秘話3、書く。 世田谷村制作ノート記す。夕方、烏山で八大建設N社長と待ち合わせ、竹橋の毎日新聞社へ。大住広人氏の会に出席。正式名は大住広人をかこむ毎日新聞がんばれ祭。闘いの軌跡と展望のパンフレットが配られた。古い左翼の匂いがあってとまどう。会の後半は司会も代わり、労働組合のOB会臭が消えてホッとした。馬場昭道、中島上人等に会う。今度、機会があったら南無の会にも出てみるかと考える。佐藤健が遺してくれた遺産だからな。大住さんの新著「史記のススメ」サンパウロ社発行¥二二〇〇の出版記念会も兼ねていた会であった。
世田谷村日記 制作ノート 11/11
 R018
 夕方、シャルルと久し振りの再会の挨拶。北京その他の資料渡す。シャルルは山口勝弘門下生の有数のメディア・アーティストであるが、その基盤が元々、国際的であるという特権を持つ人間だ。クセナキス→ジョン・ケージ→高橋悠治という日本での音の世界の古典的ラインを踏まえながら、グローバルな思考が日常的な、彼のアイデンティティーに着目したい。メディア・アートの概念的仕切は、中国に於いては毛筆による伝統的絵画以外は全てメディア・アートとしてくくられているという、彼の考えが面白かった。インターナショナルにというフィーリングは、それに対面する人間の物腰によって決められ、枠付けられるのは歴然としている。それは個々の人間の外に在るものではなくて、個々の人間の価値観の内の日常性の働き方によって示されるのだ。つまり、あらゆる人間は、隣りのオバサンも、その隣りの家の日本のオジサンも、すでにハッキリと日常的なインターナショナリズム、それは死語となっているから、グローバリズムの内海に生きている事を、しっかり自分に説き聞かせねばならなん、そんな時代なのである。
 R017
 夕方迄教室会議。何しろ議題が多い。十八時迄。十一月十日早朝、道具寺考5音の神殿3、そして世田谷村制作ノートを書く。七時過下の菜園に出てクワを振り廻して汗をかく。ウネを少しのばした。チョッとは畑らしくなってきた。まだチンゲン菜の芽は出てこない。汗をかいて早朝から耕している菜園のウネが少し曲っている。ウネとウネの間隔も、うろ憶えの知識によるのと、あとは勘である。大体十坪程の菜園らしきにウネが必要なのかもおぼつかない。それに、菜園は南面しているので、頭の中での陽当りは充分な筈だが、実際に掘り起こした地面に立ってみると、陽が当るのは午前中だけで、午後は垣根のさざん花や、つばき、金木犀、梅の樹等にさえぎられて陽蔭だらけになってしまう。お百姓さんが樹を嫌うのが、少し解ったような気もする。世田谷村の垣根は仲々美しい垣根であるとは思うが、菜園にとっては害をなしているかも知れないのだ。チンゲン菜の芽が姿を見せないので、垣根のカゲのせいかなと疑い出しているのだ。下の菜園を耕し出してから、又も屋上の菜園はほうり放しになってしまった。午後、研究室。夕方、クリストフ・シャルル来室。音の神殿プロジェクトの下準備である。
世田谷村日記 制作ノート 11/10
 R016
 夕方、大学に隣接した戸山公園を散策。ウェブサイトの新しい試みの為の取材。夜、その取材で得たものを書く。都市の楽しみ方、ステージ1・戸山プレイパーク。公園は、異物、異形の蠢く密林である。十枚書く。当初予定したモノとは異なる方向に行ってしまったが、面白そうだ。朝の土いじりで頭に少し弾力が戻ったのかも知れない。十一月九日、朝土いじり。まだチンゲン菜の芽は出てこない。松崎大沢の仕事に手を入れる。昼前研究室へ。ミーティングの後、教室会議。建築学科は所属学部が創造理工学部となり、理工学部は三分割された。西谷章教授が本部で要職に就く事になり、建築学科はここ数年内に将来の基本ヴィジョンを固め、思い切った改革を具体的に実行し得るチャンスを得たと思われる。李祖原は来週北京。北京での打合せのスケジュール調整に入る。
世田谷村日記 制作ノート 11/9
 R015
 十一月八日。昨日の午後は改変したウェブサイトの点検。情報量は数倍になったが、まだうまく編集されていない。丹羽君の一層の工夫を待ちたい。今日も早朝、道具寺考4を書き、幾つかのプロジェクトのエスキスを進める。九時半より、下の菜園作りに汗をかく。一時間のつもりが十一時までやってしまう。二つの畝に半結球山東菜とやらの種を蒔いた。どんな野菜か良くは知らぬのだが、今の時期にギリギリに蒔けるのではないかと思って、やってみた。この種も宇都宮の会社が発売元だ。
 R014
 十一月七日早朝というよりも深夜、道具村論3松崎大沢温泉秘話2書く。フィンランド・サイレンス・パヴィリオン、エスキスを頭の中で。まだ紙に描き移す事はしない。これが一番面白い時間なのだ。
 栄久庵さんの道具村への論考や松崎秘話のメディア作りが延長されて、一つの建築像を結ぶはずである。
 早朝二時間ほど土いじり。畝を整えて、チンゲン菜の種を蒔く。四〇日から五〇日程で収穫可能であると、種袋には書かれているので、正月は自分のチンゲン菜を食べる事になるかも知れない。畝の谷をトカゲが一匹直線に走って行った。トカゲの動線を作ったのか。
 佐賀新聞のU氏と連絡。森正洋先生の件。夫人も健康がすぐれないとの事。小さな計画を作ったので進める。森先生のプロダクトの何がしかを継承するつもりだ。午後遅く研究室へ。
 R013
 十一月六日 早朝昨日掘り返した畑に、ウネを作る。ウネは理論的に南北に刻んだ。前の畑の地主百姓のところは東西にウネを入れている。地表に万遍なく日照を得ようとすれば、やはり南北だろうと思うのだが。風通しもあるだろう。ウネの南の猫の額程のところにチンゲンサイの種を実験的にまいてみる。近頃人気の高い中国野菜と種袋に書かれているが、イタリア産である。発売元は宇都宮市のウチダ。表示によればタネまきのギリギリの期限であるようだが様子を見てみよう。朝食はおむすび二ヶとワカメ。トロロとイクラの混ぜ合わせ少々。全て何処から来たのか不明であるが少なくとも防腐剤は入っていないだろう。建築を考えるのと、菜園を考えるのとは同じ世界であるような気もするし、正反対の何者かが、働かざるを得ない気分もある。マア、屋上菜園よりはハードな事は確かだが、屋上は屋上の良さがあると思いたい。しかし、屋上ではシソとか小松菜ぐらいが関の山かな。
 R012
 十一月五日 日曜日 七時過よりスコップで土掘り起こし。休み休み九時迄。朝早く散歩する人の多い事を知る。犬を連れてる人も、いつもクソをさせるところに私がスコップやツルハシなんかも振り廻しているのでギョッとしている。しかし、犬の方は習性を変えられずに、モジモジ、いつもの処でクソをしたそうにしているのが面白い。朝食後昼過迄掘り返しを続け、汗をかく。近所でブドウをガレージ周りに作っているNさんが通りがかりに寄ってくれて、立話し。今日も山吹の小木を、もう一株移した。予定通りの広さを耕して修了。午後近くの園芸屋へ。数種類の種を購入。左官金物店の専門店が烏山にあり、そこでクワを購入。ブティック PAKI の主人と話して帰る。PAKI は烏山随一のセンスの良い店で、何と森正洋先生のおワンを商品として置いてある。来週はウネ作りに取り組んでみるつもり。夕方、近くの区民農園を見て廻る。二〇〇区画近くあり、一区画が3mX6m位。皆さん驚く程に丹精を込めて色々と栽培している。皆さん私よりズーッと上手で丹念でもある。お百姓の作る畑との違いはこの工芸的丹念さにあるようだ。百姓にはこの丹念さが無い。こんなに丹念に畑に手を入れていたら体がもたないだろうし、その情熱もあるかどうか。市民農園の日曜百姓に本格的な農園を与えるのを考えたら良いのだ。陽が暮れる迄観察を続ける。
 R011
 十一月四日 早朝庭を一巡り、と言ってもたかだか数歩なんだけれど。昨日の成果を見て廻る。手を入れてみると樹木や土が違った世界に視えてくるから変だ。昼前新宿オゾンで日経BP・T氏講談社S氏と栄久庵憲司さん取材。若いカメラマン奮闘して、良い写真撮ってくれたか。栄久庵さんの話しは相変わらず面白いが、他人にこの面白さを伝えるのは難しいだろう。日経のオンラインは十月にオープンして一日五〇万ヒットだそうで、今も急増中との事。活字メディアは極めて厳しい未来であろう。ハゲ天で天丼の昼食。午後大隈会館芸術学校の集り。その後、設計製図講評会。先生方と会食。私は明日の土いじりがあるので早目に退散。
 R010
 十一月三日 制作メモが段々、日記の主役になり始めているので、おのずからこちらの日記のスタイルが明快にならざるを得ない。朝、エスキス制作の後、屋上に上り、ススキ駆除に二時間も奮闘する。ススキの葉で手を二ヶ所切る。昼過迄下の庭の手入れ。とても下の庭の全ては出来ないので、南東の一角3mX5m程の雑草を刈り取り、又その一部の土を掘り起こした。以前家が建っていたところなので、取り壊しの際の瓦のカケラ他のゴミが埋められていて、スコップがガツン、ガツンと音を立て続け、仲々大変だった。大変ついでに壊したまんまに放っておいた垣根の手入れも。手入れといってもそこらにあった材料での遊びみたいなもの。犬のクソを放置するなという区提供の札もぶら下げる。世田谷村の南には変な未舗装部分があり、犬の便所になっているのだ。山吹の小木を移植。近くのH氏が自分の家の菜園作りでジャマになったチェリーセイジの株を持ってきて下さったので、それも植え込む。ここ迄やると意地になり、西のフェンスのとりつくろいを軽パイプの埋め込みで行い、繁茂していた毒ダミ取りもやってしまった。程良いところで休止する事ができず、フラフラになる迄やってしまう。我ながらバカだぜと思いつつどうにも止まらないのである。
 午後遅く歩いて十分程の線路向こうのH氏のところの菜園を見に行く。H氏は七〇才。今もバリバリの現役社員。気になって見に行ったところ、マア、同じ位の面積の土が掘りくり返されていて、スキが放りぱなしに転がされていた。氏もブッ倒れて寝込んでいるのであろうとホッとして帰る。土の掘り返しで競争する必要はないのであるが、気になるのだ。夜電話したら、冬まき大根の種をまく予定だと息まいていた。氏は以前畑作りの経験があるようで、間引きの仕方とタイミングがコツであると、とてもアンタには無理だぜの口振りであった。こうなれば私も大根やるぞと決めた。まず冬まき大根とやらの種があるのかどうか、H氏情報は極めて怪しいので調べなくてはならない。体中が痛み、気分まで悪くなり、夜は早く寝た。
世田谷村日記 制作ノート 11/3
 R009
 十一月一日 午前中世田谷村で作業。地下にこもる。午後毎日新聞ひろしまハウス in プノンペンインタビュー。学芸部の女性記者で随分勉強していて、押され気味の取材になった。夕方遅く近江屋で渡邊、カイと話す。自分でも変だよコレワと思う位にホームページの編集に力を入れているので、その事に対する批判を聞きたかった。週毎にプロジェクトも当分の間は増加してゆくし、編集の全体を時間軸とコンピュータの枠内映像のユニットの双方で考えなくてはならぬので当然シナリオが必要になってくる。スタティックなデザインとは異なる、ショートスパンの歴史的現実感が必須になってくる、と色々と変な考えをすすめているが、読者は誰も理解してくれないだろうという。予測通りの反応であった。しかし、面白い事を考えている自信はあるので、解ってもらえるような工夫を重ねてゆきたい。コンピューターの中に建築的概念が立ち上がってくるのを考えてはいるのだが、できるかなァ。
世田谷村日記 制作ノート 11/2
 R008
 十月三十一日 夕方六本木国際文化会館で日フィン・デザイン協会会合。ヘルシンキ芸術工科大学長ソタマ氏、栄久庵憲司氏等と歓談。パビリオン・オブ・サイレンスのサイトがヘルシンキから八十五km南西に位置するフィスカルス・ヴィレッジに決定した。フィスカルスは今は芸術村として高名なところで一六四九年に創立された。当初は溶鉱炉と鍛鉄工場を中心とした製鉄村であった。十九世紀にヨハン・ヴォン・ユリンの主導で今の村が建設された。近年職人、デザイナー、アーティストがこの村の美しさ、環境に魅せられ移住するようになり、芸術村が形成されている。来年春にサイト調査のスケジュールになりそうだ。栄久庵さんは道具寺道具村建設に字義通り命がけだから、私としてはこの計画には集中しなければと覚悟もしている。ソタマ氏は何か大変な勲章を受章したらしく、そのお祝いの会もかねた。
 R007
 十月三一日。昨日夕方九州の高木正三郎君来室。研究室OBでは一番良い育ち方をしている人物だが、地方に一人でいると、どんなに強くても時に不安になるのだろう。しかし、その不安こそが創造の素になるのを知るのは、不安が過ぎてからなのだ。三十七才になったOBと対面していると、どうしても先生の口振りになって、頭が高くなってしまいがちだが、敢て創造という威丈高な言葉を記して、つまり恥をしのんで、激励したい。そろそろ研究室OBが四〇才の峠にさしかかるので、以前より考えていた選抜OBリーグを組織し始める潮時かも知れぬ。
 早朝屋上に上り、茫々と生い茂ったススキをブッた切る。富士山の現場から持ち帰って少しは屋上に風情をと思ったのだが、これが甘かった。他のクジャク草等をススキが駆逐してしまい、野菜づくりどころでは無くなってしまった。イイ気になって一人良がりしていると不様な事になってしまう、の典型であった。
世田谷村日記 制作ノート 10/31
 R006
 十月二十九日 日曜日
 九時前河野君来る。富士嶺へ同行。十一時前富士嶺観音堂着。屋根にあがり天水受の流入口を点検する。この建築は屋根一枚の全てで雨水を受け、それを一つの大きな受け樋で受け、地下の受水槽に貯水するという工夫がなされている。つまり屋根は雨水受けの役割をしている。これがデザインの大事なポイントであった。何故なら、この建築が立てられた場所には水道が引かれていないからだった。その受水槽に天水が充分にたまらないという事が起きて、それで出掛けた。観音堂への来場者が多過ぎて、水の消費量が過大になったとも思われるが、何とか手を尽くさねばならぬ。一の試みをしてみようと決めた。上手くゆくと思う。観音堂の西にはK君が立派な野菜畑を作っていて、それが良かった。十六時世田谷村に戻る。河野君と三階テラス部の補修、そして、二階、一階、地下階の工事展開についてラフな打ち合わせ。仕事場を再び世田谷村に移す準備を始める。一階、仕事場への入口は、特別なデザインにする積りだが、どれ程それをストレートに表現するか思案のしどころだ。四階外テラスに富士嶺の帰途手に入れた草花を植える。十七時半近くの栄寿司で河野君と夕食。広島の木本君と同様にこれからの大事なもの作る人だから色んな話をしておかねばならない。今日は早朝銅版画の次のシリーズも始める事が出来たのでマアマアな一日であった。
世田谷村日記 制作ノート 10/30
 R005
 夕方、プノンペンのN氏来室。One Sail Project のモデルを見てもらい、写真を渡す。One Sail Project の01モデルは新宿OZONEでの栄久庵憲司氏の道具寺道具村建立縁起展に出品するのでご覧いただきたい。N氏と新大久保近江屋で会食。相変わらずのフーテンの寅さんで、老いてますます寅次郎だ。何をいさめても、何を忠告しても一切受けつけない。説得しようとしているこちらの方が馬鹿に思えて来るから不思議だ。多分、本当はN氏の言う事の方がまともなのだ。まとも過ぎて、変に視えてしまう、その視えてしまう私の方が、妙な小ざかしさの中に住んでいる、そこ迄は自覚しているのだが、会話は山手線の内廻りと外廻りの双方に乗り別れの状態を繰り返すばかりだった。日本ハムのマイケル中村投手の動作は実に面白い。これはスポーツ選手の突然変異的進化を表している。
 R004
 編集会議に随分な時間を割いた。我ながらコレワ変だが、変な事の一部には必ず価値がある。ホームページの一新振りにそれは表現されるから、眺めていただきたい。十月二十五日も又丹羽君を交えて編集会議。丹羽太一編集長は頭は正常だが、手足が不自由な特異性を持つ。頭と身体が少し離れている。私の考えるところ人間の進化の方向を凡康な正常らしきを生きている我々よりも、余程良く示している。それで丹羽編集長のページの趣向はどんどん知的な洗練の方向へ行こうとする。だって、頭の人なんだから、それは実に自然な成行きだ。まだ体が動きたがっている我々との間に距離が生まれる。その距離こそが我々のページの AESTHTIC の原生林であろう。
 R003
 杉浦康平先生に教示いただいた観音の意味を再読。サンスクリット語では、音を観るという極めて現代的な不可視世界の眼前化を具象化した菩薩の名は Avaloki tesvara 。本来は観察することに自在であるという意味を持つと言う。Avalokita は観る事。isvara は自在。svara は音の意である。サンスクリット原語の合成過程で、漢語に訳される際に観音という、概念的な造語が成されたようだ。鳩摩羅什以前には光世音と訳され、随唐時代には観自在と訳されていたようで、とすれば訳者の想像力が観音という世界を案出させたとも考えられる。音を観るとは、突きつめれば言葉を観るという事でもあろうから、デザインの根源を突いた概念ではなかろうか。音の神殿計画の基盤の一つになるだろうが、もうサンスクリット語から漢語への変成過程を勉強する時間はない。
 R002
 昼より夕方まで研究室ミーティング。夜南青山 白井工房にて銅版画にサイン入れ。明けて二十四日、午前、音の神殿シナリオ作り。午後、多摩プラザの山口勝弘氏訪問。山口先生は変わりなく制作を続けておられた。感服する。二、三用件を相談。夕方杉浦康平事務所へ。山口、杉浦氏共一つの言葉の断片から全体を見透す力を持っているので、短時間でも得るものが大きい。しかし、両氏共切り拓いている世界の次世代への継承が難しいという難問を抱えている。存在の独自性自体が抱え込む難問である。深夜、ここ数日の記録を記す。世田谷村日記も六年になるが、この習慣の是非は自覚的でありたい。自己批評に尽きる。
 R001
 愛知県蒲郡へ、幻庵主榎本基純通夜。川合花子さんにお目にかかり、久し振りに川合健二邸へ立寄る。MSP店舗開発機構社長野口善己氏、中谷礼仁氏通夜にて会う。義理堅い人達である。二十一日深夜東京に戻る。川合邸に在る空気は何も変わっていない。健二さんが居なくなって、少し温もりが増した感もある位だ。花子さんの存在の大きさだろう。中谷氏には川合花子の事をキチンと論じていただく事を希望する。女性の深閑とした生命力、知性の大きさを花子さんは感じさせる。榎本基純氏の死は私に殊更な感慨をもたらせた。30数年の時間がカチャリと一巡した風がある。この実感は生かしたい。二十二日午後葉山N氏宅。沖縄の話し等。
2006 年10月の世田谷村日記

世田谷村日記
HOME

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2006 all rights reserved
SINCE 8/8/'96