(今後新たに「週報 -GAYAの制作記録-」ページがはじまります。)
2015 年 5月
昨日20日に上海より帰国し、羽田より現場に直行した。
雲南省プーラン族の集落での計画の事はとてもすぐには書き切れぬので、他に別枠を設けて記すことにした。
日記としては「中国雲南編」2より、として続けたい。
「儀式と建築」は若輩の頃、つまりまだうわづり続けていた頃に、当時は教師になりたての頃であったが、よく考えもせずに学生
達に卒論のテーマとして与えようとしたものであった。
日本の東北地方での祭事作りでもあった唐桑半島での「唐桑臨海劇場」づくりの実行もあり、それは身近な現実でもあった。
が、しかし、それを持続することが出来なかった。
遠く中国雲南省での計画がその継続になれば、何よりの事でもある。わたくし奴の実践のなかでは「伊豆西海岸松崎町の仕事」「東北
、気仙沼、唐桑での仕事」つまりは俗に言い、また言われるところの「まちづくり」の仕事は中々に密度を高くし続け、なおかつ眼に視えるモノとして
実現するのは困難な事でもあった。
それを今、千に一つの機会を得て、遠く中国の、しかも山岳少数民族の集落づくりへの参加として「作品」化できようかの機会を得たのである。
長年の夢の一つでもあったネパールでの仕事「キルティプール計画」は大きな政治力学の中で立ち消えになりつつあったから
それに賭けようとしたこれも夢の復活なのである。夢という甘い言葉を恥ずかし気もなく使っているが、夢は夢であり、これはヴィジョンの総体
でもある、と胸を張りたいのである。
夢の全ては決して甘ったるくはなり得ない。むしろ困難さの中から土煙りをたてて立ち上がる類のモノである。
中国雲南省編
4月17日 早朝景邁山の木造ホテルで目覚める。5時過である。まだ外は暗い。
昨日は本当に身体がどうなることやらと心配になった。上海でほとんど眠れていなかったのがこたえて、疲労
が極度にたまったようなのだった。
西双版纳空港から車で走り続けて、一度も休息なし、三時間程。高度は1500メートル程の高地であった。
7時過ホテルのシャワーを使う。驚くべきことに熱湯が出る。
この村の印象の何よりあ異常に豊かであること。迎えに空港まで出てくれた青年達の車が高級車種のBMW、
メルセデスベンツであったのは杭州の満覚路上山庄グループと同様であったし、この高度の山岳民族集落なのに
木造の立派なホテルのシャワーから熱湯が早朝から使える。
まだまだ詳しいことは早とちりになりかねぬがやはり「茶」の、しかも高級茶の生産、出荷地であるからなのだろう。
この豊かさが山岳高地民族の同じ範疇に属するであろう、ネパールの山岳高地の人々の生活とは世界を全く
異にしている。
昨夕、到着したばかりであったし、いささか疲れてはいたけれど、身体の命ずるままに古い集落の中心地とも思われる
地区を歩いた。そして、コレは凄いなあと思い、身体の命ずるままに大判のスケッチをした。
スケッチしながらの印象であるが、ここはわたくしの『バラック浄土』時代の理想の地、そして人々なのではないかと
言うことだった。そしてその印象の大半は貧しさからではなく豊かさからやってきている事でもあった。
昨夜、高平哲郎のウェブサイトをのぞいた。タモリと中洲産業大学について、いやそうじゃないJAZZについてのページが面白くって長いことステイした。
このあたり、高平哲郎の口ぶり、すなわち考え方がホンの少し乗り移っているなあ。
高平哲郎の義理の兄、小野二郎はたしか、たったの42才で急逝した。パジャマ姿の高平哲郎と話しながら、突然プツンと逝ったと言う。知らせを聞いてかけつけたら、そのパジャマのまんまの高平から、そう聞かされた。だから高平哲郎との付き合いは小野二郎が入口を開けてくれたのだ。と、実にそう今更ながら考える。
小野二郎は自分でウィリアム・モリス主義者を名乗った男であった。イギリスの労働者、リヴァプールあたりのブルーカラーの生態について書いた本に晶文社の『紅茶を受皿で』がある。
鶴見俊輔がアメリカ社会を精通した高度な批評家であるとするならば、小野二郎はイギリス社会に通じた高度な批評家であった。その突然の不在がどれ程、今の日本文化の水準の低調と退屈を生み出したか。計り知れぬものがあると、わたくし奴は感じている。
そう言えば哲学者の木田元も生松敬三と共に小野二郎を気にっていた。鈴木博之(建築史)と小野二郎の激論も又、忘れられぬ記憶である。鈴木博之も小野二郎もイギリス文化に根を持ってもいたから、やはり煙たかったのであろう。どうしたって男は同分野で、覇を争う習性を持つからなあ。柄谷行人のウィリアム・モリス評価も遠回りして、小野二郎の存在があったやも知れぬ。
とにもかくにも誠に惜しい人物を早くに我々は失ってしまった。だから、パジャマで小野二郎を見送った高平哲郎には頑張ってもらいたいのである。
我々の「飾りのついた家」組合もだから、頑張りたい。
上海の趙城埼さんより送られてきた「中国雲南省景邁山芒景部落茶文化施設計画概要」を読み、想いをはせる。
設計者の一番楽しい時である。
中国は近いを思っていると、とんでもない目にある。雲南省西双版納までの上海からの飛行時間は約5時間とあり、東京上海よりもはるかに遠い。今度の目的地はほぼベトナムとの国境地帯である。海抜1400mの丘陵地帯であるから夜は涼気に包まれるであろうが、昼陽中は暑いだろう。
伊東忠太、田辺泰はこの辺りからベトナムへ、そして印度へと長駆足をのばした。
驚くべき健脚である。
予定では雲南省西双版納空港より車で3時間走ったところが計画地景邁であるようだ。送られてきた民家、集落の写真を眺めるに南方系の姿、形をしているモノが少なくはない。ジャワあたりの匂いが少しある。装飾、文様には海洋文化の風が吹いてもいるようだ。
最近はわたくしは旅にカメラを持たずにを決めている。
稲田堤の現場が竣工間近なので若いのはそこに残した。今度の雲南行は一人の旅とした。だから記録は全て大判の画用紙のスケッチが頼りである。
5日ほどの旅だけれどスケッチには相当のエネルギーを費やすことになるだろう。そろそろ無駄な動きを封じて体力を温存したい。
昨日9日19時より三軒茶屋桜一で高平哲郎以下総勢8名集まる。総合指揮高平哲郎、構成演出、舞台美術、キャラクターデザイン、株式会社よしもとクリエイティブエージェンシー執行役員他である。
高平哲郎より計画の概略説明があり、22時迄話が弾んだ。
「若い人よりも、古い知り合いを集めた」
との高平哲郎の話が印象的だ。いいチームになるのではないか。
「クリント・イーストウッドは枯れないね。ますますいいよ」
彼らもわたくし同様いささか年をとった。しかし創作を続けている同年代には国の内外を問わず大きな関心を持つようだ。
夕陽のガンマンで役者としてスタートしたクリント・イーストウッドはダーティ・ハリーでその役どころを完成させ、しかも若さが売りの境遇から脱却をはかった。カントクの二本道を歩き始め、マディソングンの橋などでカントク+役者の道の大筋を作りおおせた。しかし、どうやら彼等の話に耳をすませていると、今もまだ自己開発を続けているようだ。
高平哲郎は「まがい」をテーマに自分の道を展開させ続けた。「まがい」は何かを演ずる事の中心である。「笑い」の中心に近いのかもしれない。演ずるだけでなく、演じさせる枠組みを設定するのもそれに通じるであろう。このところ建築にのめり込み過ぎである。映画でも視ようかと思ったり。
午後になって最後に残っていた鉄柱がエントランスに建て込まれた。何処と言って正面らしきの無い建築であるが、入口部分は洞穴の入口状の姿になってきている。鉄の重い折板のつらなりが人間を吸い込むように招き寄せている。重量のある鉄を多用しているが全体として生物的な様相を呈している。この感じはわたくしの建築としては初めて得られた物質だろう。現場で予測していない事態に直面して、切り抜け切り抜けしているうちにこうなった。
この建築は決して近くは無い東北で鉄製の部品を製作し、それ等をこちらの現場チームが組み立て、大半を溶接した。だから当然の事ながら予想もできぬ間違いやらが出現した。それを現場で当意即妙とはいかぬ。四苦八苦しながら工夫を重ね切り抜けた。そうしてようやく全体の姿が視え始めたのである。
それ故、机上でのコンピューターによる機械製図の如くから、わたくしの実感としたら、著しく逸脱している。そんな生々しさが建築を、自分で言うのも間抜けであるが、生々しく新鮮なモノに変化させている。
わたくしの初期作品である「幻庵」「開拓者の家」と極めて酷似しているのだ。
生々しさは、設計者にとっても身近な驚きや感動に通じるのである。
建築の実物はコンピューターの作図通りに進まぬ事が多々ある。長い製作の時間を含めて。これは時間を含めた四次元の世界に属するからだ。
人間の頭だけでは対応し切れぬ複雑な生命体のようなものである。この作品においてわたくしは一度は断念していた「幻庵」「開拓者の家」の系譜を生きたものとして引きずり出したのだと実感している。
「幻庵」も「開拓者の家」も一軸の建築である。一方向にしか延びることのない、すなわち展開できぬ限界もあった。それ故にこそ強い物体であったのだが、この建築は多方向に展開できる方策を手中にすることが出来たのも何よりであった。
と大いに自慢するのである。
今更、自分の可能性を卑下したり、シニカルに考え込む愚は犯すまい。建築は幸いなことにクライアント、他の多くの存在なくしては世に存在することはない。そんな、時に不可能性のかたまりの現実として社会科される。
だが、時にほとんど偶然の神のとりはからいで、それが可能性へと逆転する事もあるのだ。この建築の現場がまさに、それそのものであるように思う。ここでは時に木工大工が鉄細工を手伝ったりの変則も出現した。工期、工費の切迫した由縁でもあったが、日本の木工技術は鉄工の重量に抗する力らしきを十分に持つとは感じられない。この感じは恐らく地震、火災他の災害に対する総合的なひ弱さにも通じるものではあるまいか。
9時稲田堤厚生館福祉会理事長会議室。世田谷での保育園に関する打ち合わせ。10時半より近くの星の子愛児園現場事務所に移る。前橋よりの市根井立志を交えて2階保育室の木工造作に関して打ち合わせる。11時半終了。
現場では2階内部に組んでいた足場材の取り外し工事が始まり、比較的大きな空間が現れてきた。一般的に言えばこの空間を獲得するのに設計者としては四苦八苦してきた筈だが、今度ばかりはもっと複雑な体験をしているように感じている。
小さな建築だが、入口から1階ピロティの鉄の洞穴状の空間、あるいは鉄の重い床の重力を感じさせる部分を通り抜けると、グルリと方向を転じて、旧本館と新館の狭間に出現した迷路状の空間を振り返る。この建築は人間の動きと実現できた空間とが密接な関係を持っている。
小建築なのに都市の一部を動いている感がある。いつもながら仕事量の少ないわがスタジオなので、この一作に全力を傾注した。もう少し多くの仕事を同時進行させていたら、少しは努力を拡散できただろうに、、、と悩ましい。しかしながら4月に入ってからどうやら珍しく幾つかの仕事を同時進行させねばならぬようになり、一点に力を凝集させてばかりもままならず、肩からスーっと力が抜けてしまう状態に入り込んでいる。この状態が続いて、わたくしの、のめり込みグセが少しは矯正することができればとも思うが。ただただ身体を酷使する方へと進む気配も濃厚で、身体は大事にしないといけないと言いきかせるのだが、どうなることやら。
高平哲郎さんより東京オリンピックまでの大きなイベントについての詳細が送られてきた。
昨日は稲田堤現場より都立大学へ廻り、恒例の安西直紀の家の桜の花見があった。顔見知りの人も少なくはなく、新しい人にも会えて面白かった。安西家の桜は目黒区の保存樹指定が二本。堂々たる古木である。 この花見の会はすでに6年になるのだろうか。年々歳々安西直紀の成長と共に良い花見の会になっている。何年か前からご両親、大おば共々、会に顔を見せて若い人達にとけ込むようになっている。 昨年、彼が突然大隈講堂のわたくしの退職記念の会で、「都知事になるぞ」宣言をやらかしてしまい、皆さん覚悟したようである。
その代わりに伸ちゃんの烏山神社での宴の話が持ち上がったのが収穫であった。
ネコおやじ、こと石森のダンナの精魂こめた完全にオンチの唄に笑いころげているうちに生まれた話である。これは地域の縁結びの神の役割として健全なモノである。ひと肌ぬいでもいいかなと思う。
上海の趙さんより雲南省のブーラン族の家族よりプーラー茶の体験文化施設を作りたいとの話が持ち込まれ、巡ってわたくしにその設計をやらんかの話となった。茶畑とは何かと縁がある。
今朝、はるばる出掛けてみようかと決心する。稲田堤の現場が仕上がりの4月15日〜4月19日にお茶の神様を祭る大きな祭があるので、その時に雲南に来るようにとの事である。
どうやらわたくしは中国に於いても周縁民族文化にひかれるクセがあるようだ。そう決め付けるのも良くは無いのだが仕方ない。プーラー茶は古馬茶道の茶を指している。
本日4月2日は午後に現場定例会議がある。昨日厚生館福祉会のベテランの方々や理事長と打合せ終了後、役所近くの居酒屋で一杯やった。先生方は入園式であったようで、気持も高揚しておられたので楽しかった。やはり長年子どもたちの世話をされ続け、教えもしたり、教えられたりもするのであろうから、偉そうに言うが人間としても大変立派な人格になっておられ、それに心打たれた。もう長年のお付き合いなのでそんな事も言えるのだが。
しかし、子育ての現場は実に総合的な大問題が発生しており、これも又、偉そうな事を言わせていただくが国の盛衰にも関わることである。その意味では子育ての予算を充足させつつあり、道路工事等の従来の土木インフラ事業の予算を少し計り減少させたらしい世田谷区の政策は決して間違ってはいない。世田谷区役所には今6000人の職員が働いている。88万人の区の人口に対して、146.6人に一人の割合になる。決して実感として少ないとは言えぬ人数であるが、その4人家族とすれば36.6家族に一人の割合で存在する職員が十二分に機能しているのかは良く分からぬ部分もある。区と都の行政区分も住民には明らかでない部分もあるだろう。具体的に言えば都議会議員と区議会議員の明快な機能区分があるのか、どうか?知りたいところである。
GAのインタビューがあるので一応昨夜はアレコレ考えてはみたがインタビューは相手のことだし考えてもママならぬ事も多いだろうと止めにした。GAは二川幸夫が亡くなり、ゴッドファーザー2ならぬ二川由夫が二代目となった。ペーパー出版は例外なく苦難の径を歩んでいるようだけれど、出来るだけの事はしなくてはいけぬ。新建築社とは事実上完全に縁を切ったがそれには何の未練もない。二川由夫には頑張ってもらいたいだけの事である。しかしながら、ウェブサイトが建築的新傾向を作り出すかは、これは全く期待できぬ。先日インド・バローダでのワークショップで感じた事だが、インドの建築学生も日本の学生以上にコンピュータには精通しており、プレゼンテーション他の作業のスピードは速くなっている。しかし、インドの伝統と言えるのかどうかは知らぬが、やはり土着なのであろう部厚い文化的風土の粘りつく如くの力は否応もなくそれぞれの身体に内在化している。そう簡単にはコンピューターの一律な表現力ですくい切れるものではない。恐らく、ムンバイの国際フォーラムに集まった学生たちとは異なる種族にすでに属しているのではないかとも考えた。
インドには地域性と言うのはともかく、スクールの色分けの如くが確実に在る。バローダの建築デザインアカデミーに目星をつけたのはその意味でわたくしなりには成功であった。このスクールには色濃い歴史、伝統の血統が学生の集団性の中に在る。集団性を今風に格差と呼んで一向に差し支えない。
アーメダバードにはドーシのCEPTが在るが中途半端なエリート主義が学生達を無個性に貶めている。教師の才覚の不足であろう。バローダはアーメダバードから車で一時間程のところであり、日本で言えば東京郊外である。
日本では東京以外はすでに荒廃の兆が著しい。しかし、スクールと呼び得る何かはそんな荒廃(廃墟)の中から立ち上がってくるのではないか。と、いきなり実感を吐露する。
今日のインタビューではそんな事を少し計り話せたら良いのじゃないかと、今ようやく考えをまとめつつある。
屋根は草屋根ぶきとするので、軽くフワリの感じとは遠く、目一杯荷重に耐えられるように極めて重く作りつつある。
床、そしてこのうねる屋根の重さの表現がこの建築の要である。
折板と格子状の面材の組み合わせは構造設計家梅沢良三の得意とするところのモノである。このスタイルがよりみがきがかけられ実に安定したモノに昇華されている。細い柱とぶつかる処にいささかの工夫を要した。それがデザインのポイントになっている。
部分的にはわたくしの大好きな東大寺法華堂の、奈良時代と鎌倉時代がブツカル接合部状が出現した。強いディテールになっている。
3月30日 日曜日
9時前稲田堤現場。市根井、明建築のアキラさん、渡邊、佐藤が待ち構えている。何とか二階の工事空間をあけて移動タワーを組み込んでいる。足場を渡して
竹照明の吊り込みにかかる。予定通り(設計図通り)の3本と、つけ加えて西側に一本を架構した。
京都高台寺の傘亭、時雨亭で竹の架構の生々しい生命感は知っていた。ただしここでは竹は架構に非ず、水平に宙を走らせる照明としてデザインした。コンクリート
チューブが空を走るのは磯崎新の大分県立図書館で知っている。同じようにチューブ状が空を走るにしても、こちらは竹という生々しい、いわば自然の材である。屋根裏は
しかも荒々しい鉄の架構がムキ出しになっている。溶接の跡が焼け焦げて生々しい。そこに太い竹筒を走らせるのである。周囲は全て未完の生々しい工業化材である。
この取り合わせが良いのか、どうか現物で試験したのである。
何とも違和感に溢れた組み合わせである。全体の様子が把握しかねて、大きな鉄のネットに果物トレイ・リンゴ用を設計通りに取り付けて天井に吊るしてみる。全員がかりの仕事に
なった。1ユニットだけではまだわからず、もう1ユニットもすぐに作成し、これも天井に取り付けてみる。鉄のネットのしなりを利用してリンゴ・トレイの集合も
しなっているのが面白く、そのしなりを利用することにした。現場での気まぐれにも見られかねぬ実験の成果である。
果物トレイ、太い竹筒共に建築に取り込んだのは恐らく初めての事であろう。初めての事は不安も大きいけれど何かを決断する勇気が必ず要求されて、その一瞬が実に重い
時間となる。駄目なら全てを考え直さねばならぬ覚悟はしていたが、、、。
壁の仕上げ、床の仕上げの完成を想定し、同時に修正して、そのすぐには眼に視えぬ関係の網の目の中に実験を再セットしてみる。それで、ようやく、
何とかなるだろうの感を得た。二階の壁の仕上げはホンの少しの修正が必要だろうと考える。この修正作業は頭の中でほとんど瞬発的に発生してくるので、中々
他人に伝えることは難しい。しかしこの困難さが設計のダイゴ味でもあるのは確かな事でもある。各部位の物質の仕上げと呼ばれる表面の様相は、又、複雑な関係の力学
を持つ。その眼に視え難い力学を読み取らねばならない。
二階の各部屋(南側の)はホンの少しの夕方の光と、そして朝の光を充分に受け取るので、その光の性格も熟考しなくてはならぬ。西の陽光には金色が、
朝の光には無色の透明さが似合うのだけれど、建築には極めて常識的な機能が不可欠であるから、そう簡単に処理は出来ない。
しかし、ようやく空間の一部は把握が深まったような気がするのが前進であった。
このスペースは完成する迄、手も気も抜けぬと、それだけを自覚して現場を去った。
雨樋の工業化部品がムキ出しになった取り付け金物の見苦しさに耐えかねて、これも頼み込んで職人たちに、その見苦しさをカバーするべく6mm筋と9mm筋を横長に溶接してもらった。紅のパーライトモルタルに少し溶接の焼けこげが出来たけれど、それも工業化製品がアッセンブルされただけの物体へ、人間の手の跡が残されたと思えば実に美しく視えてくる。
佐藤も渡邊も通りの人の溶接の火花除けの整理で道路に立たせたが、この作業の意味は決定的に重要なものなので記憶にとどめるようにしてもらいたい。
工業製品の集積と、それに非ざる物体との境界をまざまざと体験した筈なのだから。
そんなわけで昨日は工事現場の南と北で犬と遊び、鉄と遊びとても面白かった。
3月25日 15時世田谷線松陰神社前駅より歩いて3分程の保坂のぶと後援会事務所開きに出席。
15時の会はいわゆる市民の方々の集会であり、18時よりの第二回目の会が
議員や各種団体の人々の会と仕分けされている。わたくしは家内と
二回とも出席した。全く異なる世界の会であり、選挙の裏、表の世界である。
第一回目の会では保坂のぶと世田谷区長より話すようにとうながされ、スピーチした。
これでわたくしの今度の地方選の世田谷区長選でのスタンスはハッキリした。ヤルと決めたら
徹底してヤル。
第一回、第二回の会共会場は人で溢れた。政治家はこの熱気らしきが良いメシの種なのであろう。
第一回の会は和気に溢れ、第二回の会は戦う姿勢が形になって出た。
副区長をはじめ多くの区議も出席した。
議会でいつもおなじみの対立関係にある日本共産党の区議のあいさつに一同湧いた。
「今度、初めて予算案に賛成した。」とのことである。公明党区議の姿は見えないのがいささか
心配であるが多くの会派は味方についたようである。連合東京議長、世田谷地区労議長等のあいさつ
が続く。拍手の大小でその人の実力がしのばれる。これは会を二回に分けねば
ならぬのを知る。第一回の会はいわば浮動票の世界で、第二回目の会は組織票
の世界である。
これからの選挙は大小問わず浮動票の動きが制するような気もするが、それに対する
確固たる戦略があるのか、ないのかは知らぬ。AKBの選挙とはやはりちがうのだと信じたいが、どうか。
かなり広い二階の床が宙に浮いている。重い床なのが良い。
重い二連柱と変形正面構造も的確に空間を支配している。旧本館に接しながら
の増築工事であるが、スタイルは一新させた。繰り返しはわたくしの性に合わぬ。
それに何の為に作っているのかと言えばそれは創る喜びの為だと言い切れる。
もうそんな年齢になったのである。ゴチャゴチャ言い訳を言ってみても仕方ない。
自分の中にスリルと言える創作のダイナミズム、少しばかりの躍動感が湧かなくって
は設計なんて作業はやってられない。
幸いこの建築はわたくしの作品小史の中でも新しい地平を切り拓くものになるだろう。現場
でそれを実感した。ワイマール、バウハウス大学ルーフライトギャラリーでの
「MAN-MADE NATURE展」で発表した考えの筋道がようやく実現できたのである。
口先ばかりで終わらないで良かったと胸をなでおろす。
昨日は現場に山形県飽海郡遊佐町よりシブヤ工業の渋谷芳郎さんがたずねてくれた。この現場の鉄骨部分を製作してくれた。部品を送り続けてくれたのだが、組み立て現場を見て見たいと部品同様にはるばるやってきてくださった。自分の作ったモノがどう組立てられているのか眼で確かめてみたかったのであろう。職人の面白ここに在りである。東北にはまだこう言う人間が居るのだなあ。
わたくし達の作業も日々、自分達で考えてみたモノがキチンと組み上げられるのかの確認したいの連続である。同族の方と会えたのである。アトリエ海の佐々木君吉さんより、一度工場に来てやって下さいと言われていたが、その機会を逃してしまっていた。やはり年齢だろうが脚力が衰えているのだ。その不義理をカバーしてくれた。
建築が出来上がったらうかがって、次の仕事を依頼できたらそれに越したことはあるまい。
3月23日 6時前離床。空は薄紅色に明けそめている。良い天気の1日になりそうだ。今朝は現場に星の子愛児園新館玄関正面の大黒柱(※建築のページ8(2014年10月27日)参)が運び込まれ、すぐに建てられる予定である。イソイトと見に行かねばならぬ。この柱の設置が建築全体のスケール、オリエンテーションを決める要である。その事を確認するだけの事だが、これも又、設計者の特権である。誰も知り得ぬ事なのだが、建築だって実は生き物と同じなのだ。背骨もあればセキズイもある。この柱は京王稲田堤とJR稲田堤を結ぶ都市のクサビである。人々の生活にひっそりと基準を与える。
16時現在、現場小屋で天井の竹照明、くだものトレイ(リンゴ用)の取付に関して打ち合わせ。竹もくだものトレイも初めて扱う部品なので手探り状態である。うまくゆけば面白い天井になるだろうし、うまくゆかなければ全部を考え直さねばならない。早急に実験してみることとする。
今日(3月20日)も起きたら10時であった。これは眠り過ぎである。昨夜は新宿味王で趙さんより杭州でのプロジェクト、
満覚路上山庄の状況を問うた。マア不思議な複合体を作ったクライアント達の仕事であるから、スンナリスムースに進む筈
も無いだろうが。わたくしとしては趙さんの調整能力を信用するしかない。彼は上海に戻りクライアント集団と再調整し、
すぐに報告をもらうことになった。
政治家修行中の安西直紀は今議員秘書として働いている。1年半後の参議院選が彼にとっては一つの人生の山場かな。どんな山場
なのかわたくし奴にもハッキリとはしない。けれども直感としてもそうであろう。その頃までには自分自身の選挙の場、つまり戦う
場を決めてゆかねばならぬ。ちなみにこの4月の地方選挙では彼とは陣営を異にすることになった。わたくしは世田谷区長選は
保坂展人支持だし、彼は自民党支持である。マア、しばらくは別々になるしかあるまい。
17日にはGAYAにウェストエネルギーソリューションの岡本克己さん他が来所。世田谷式保育園の太陽光発電について相談した。屋根他に太陽光発電装置を設置したい旨を説明。その後稲田堤の現場へ廻り、18時半第二回目の住民説明会のため北烏山1丁目へ。この日の説明会は前回のようには荒れずに穏やかなな会になった。
18日は9時前に現場。増床部分のパーライトモルタルの吹き付け具合を職人達と作業混じりの相談。
左官の仕事にはいささかの関心と経験があるので面白い。良い色と凹凸具合に仕上がるだろう。園の北側道路は朝夕大変な人通りとなる。通勤通学の味気ない一時にチョッとしたプレゼントになれば良い。勿論、子供達も喜んでくれるだろう。
我々の保育園は街中の人通りの中に在る。人々に与える日々の街の感触とでも言うべきは余程大きいのかも知れぬ。未来の建築はアントニオ・ガウディの毛深さの中に在ると言ってのけたのは、批評家として一級であったサルヴァドル・ダリであった。
この日はその一端を実感した。
GAYAに戻り、先日の大谷美術館でのわたくしの銅版画展の資料を受け取り、六本木へ。上海からの趙さん、上海朵雲軒集団の張董事長、他スタッフの皆さんとの食事会。すぐにわたくしの銅版画から付合いを始めるのには無理があるなと実感する。
石山友美の「誰も知らない建築のはなし」の話題を持ち出した。
「ウチの映画館で上映したらどうか」
となり、これからどうなりますか。
久し振りの六本木界隈であったので行き帰り異邦人の如くに眼をキョロキョロさせる。
千歳烏山とは全く異なる国のようであった。
小さい工事なので現場に入っている職人全て、それぞれの個性や力量を見極めるのは容易である。現場事務所を借りてスタジオGAYAの定例会議も行う。取り組むべき物件がそろそろ能力の限界まで達してきている。若い人には良い体験であるけれどわたくし奴にはやはりキツイなあ。でも、しかし仕事があるのは実に何よりの事でもあるから、頑張るしかない。
夕方、世田谷村に戻り「世田谷式保育園」のスケッチを進める。制作記録にONしたい。ささいなコトの記録は年々重要なモノになっている。
久し振りに聞く蓮見牧師の話しは相変わらずピシリと背筋が通っていて良かった。
昨夜の説明会のルール無しの場末のプロセスまがいの乱脈は無い。
やっぱり日本の高度経済成長期以後の市民像に背骨が欠けてしまっているのが歴然とよくわかるのである。
背骨、すなわち価値観であり、人間個々のアイデンティティと言うべきか・
恐らくこれは勉強して得られるモノでもない。何者からか遺伝され、継承され続ける習性に近いモノがある。
11日はNARITAに早朝到着した。その足で稲田堤の現場に出掛けた。職人たちがお帰りなさいとあいさつしてくれて、やっと戻ったなの実感あり。カタロニア・ヴォールトにヒントを得た屋根の架構が半分程出来ていた。JR側の壁も出来ていた。
12日は現場から世田谷区役所に廻り、新しい世田谷式保育園の打ち合わせ。世田谷区の子ども・若者部保育計画・整備支援担当課の皆さんと。
13日は現場定例会議の後、三軒茶屋で開かれている林のり子さんの、「ブナ帯・ワンダーランド」展へ。三軒茶屋・キャロットタワーの3、4階を使った大がかりなモノであったのに驚く。林さんにご案内いただいたが、もう一度ゆっくり一人で観なくてはと考えた。それだけの価値がある展示である。
17時半よりの第2回世田谷まちなか観光協会協議会に少し遅れて出席。保坂展人区長、世田谷区商店街連合会会長・桑島俊彦さん等にあいさつ。
----の日々であった。
高平哲郎さんより、何だか滅法面白そうなプロジェクトが持ち込まれそうで楽しみだ。
で、本日14日となった。
今日は夕刻、世田谷区での保育園建設に関しての住民説明会がある。
クアラルンプール22時半過。ラーメンとコーヒーを空港内ショップでとり待合ラウンジで一息ついている。
ほぼ10日振りに多くの日本人の顔を沢山見て、やはりひどく驚いた。驚いている自分にも驚いている。
実に皆同じ姿形をしているのだ。
クアラルンプールという処がわたくしには典型的なトランジット都市であるのだけれど、その空港に群れている日本人
観光客はそれにも増して架空の人種の如くに見えてしまう。
プノンペンのひろしまハウスの建設現場の隣の宿舎には大きなテラスがあった。その吹きさらし
の場所でメコン河やウナロム寺院の本殿塔[ストゥーパ]を眺めながら過すのは何よりの時間
であった。
深夜、犬の遠吠えを聴きながら銀河を見上げていると遠い日本の事を、不思議な国、すなわち
植民地の如くに想ったりしたものだ。
横光利一が初めてのヨーロッパ行で、ヨーロッパ文明、文化に打ちのめされ、日本には何も無いと思った
りしたのとは、あの感慨はだいぶんちがっていた。
そう考えないと、わたくしのアジア主義らしきの枠組がつまらぬ日本主義と同じモノになりかねぬ。
横光利一はそのナイーブな(感覚主義者)思考を、恐らくは克服しようと帰国後、ほぼその一生を
かけて旅愁[りょしゅう]を書き続けた。(※『日本の家郷』福田和也)
しかし、夏目漱石がその文学という形式自体がヨーロッパのモノであったことに自覚的であったようには、その
実現の大枠の形式に対して批評的自覚を持つには至らなかった。しかし、ともあれ一生をかけて
旅愁を書き抜いたのである。
わたくしの、時に噴出してしまう日本嫌い、日本人嫌いは実ワ自分自身がよって立つ日本の近代建築が根深く
植民地的様相を内在させるのを知るからである。その居たたまらなさが、その中に居る自身の身の置きどころの
不定形らしき、あるいは不在の自覚が、海外での日本人グループの姿を視るのを恥じさせるのであろう。
今、その旅を終えようとしているインド行は大事な旅であった。何よりも、インドにスタジオGAYAの活動拠点
を持つ事になったのが、旅を旅にとどまらせずに定着点の構築へと向けさせようとしているのが、自分
にも重い。これからも何が起きるのは知らぬけれど、これがアジアの旅の到達点であり、同時に再出発
のゲートでもある。
バローダでは居れば居る程に何か仕事が発生しそうで用心しなくてはなるまい。
が、石を投げても、投げてもポチャリの音も聴こえぬ日本とは何という違いなのだろう?
そう言えば、昨日ここにアーメダバードからやってきたラジーフも忙しそうであった。
忘れぬ前にムンバイでのDIS.ARCHITECTURE と名付けられた国際会議の断片を記しておこう。
昨日6日にはここの学長であるNirav Hirpara と話し合いを持った。GAYAの佐藤研吾をSchool of Architecture Vadodara Design Academyの教員(客員)にすることで
合意を得た。
正式な肩書きの名称は日本に帰る前迄に決めたい。以前より考えていたことなので、とりあえずは良かった。
GAYAの近未来も面白く展開できるだろう。
ワークショップの参加者はインド側21名、日本側7名である。始まりには適切な人数だ。
3月3日 TRIDENT HOTELの一室で目覚める。インド時間6時半。
361°というのが今回招かれたボンベイでのカンファレンスの名称である。意味はまだ良くわからない。
そう言えば有泉さんには絶版書房のアニミズム紀行シリーズの印刷他をお願いしていた。だからアニミズム紀行9号はチョッと
頑張って出版記念パーティをすることに、今決めた。勿論、会場は長野屋食堂である。南廻りの旅はベラボーな考えを出してくれる
ではないか。
3月2日深夜にムンバイに着いて、インド時間3月3日0時20分ボンベイ、トライデントホテルにチェックイン。
2月28日の旧古川庭園・大谷美術館での坂田明ジャズライブは中々の盛況であった。ジョサイア・コンドル設計
の洋館のダイニングルームとコーヒーブレイクには控え室をもうひとつ使用した。
本格的な洋館と坂田明の音楽は予想通り見事にドンピシャリであった。
坂田明も年相応に成熟した。彼本来の前衛的モダーンJAZZの世界は更に道を究めつつ、日本のとは言いたくないが生まれ故郷
の瀬戸内海の船道、漁師の唄やらも交えての絶唱が見事であった。
モダーンJAZZの故郷はアフリカだ。アフリカ原住民がドレイとしてヨーロッパの連中に新開地アメリカに連れてこられた。
中南部で綿つみ他の重労働に従事した。その辛さ苦しみが唄となり、音として結晶したのがブルースであり、ソウルである。
黒人達の一部がそれを更に拡張したのモダーンジャズである。
アメリカは資本主義の他には何も無い。特に歴史文化的な厚みはそうだ。ミュージカルとモダーンジャズとフランク・ロイド・ライト
の建築を除いては。
日本のモダーンJAZZプレイヤーは実のところまことに妙な位置に立っている。アメリカの黒人プレイヤーがラッパを吹き、太鼓をたたくのは
まだわかる。故郷アフリカへの遠い憧憬(ノスタルジー)であるから。しかし日本のそれはどうか?アフリカに黄色いサルが
居る筈もないのと同じに、何故、極東の島国にて、アフリカ原住民のドレイにルーツがあるモダーンJAZZをやるのか?
黒人の腕にぶら下がって歩きたがるガン黒ギャルの類と全く同じなんではないか?
なんて大きな疑問をわたくし奴は隠し持っていたのである。
JAZZの連中から「お前の近代建築だって大した違いはネエだろう」
と、言われればまことにその通りで面目ない。面目も白黒もありはしない。
坂田明の最近の大転回の動きは、そんなわけでわたくしには切実な問題を共有していたのである。
日本の近代建築の原点の一つである、ジョサイア・コンドルの古川邸で坂田明のモダーンジャズを聴いてみたいと考えたのは、
そんなジュリアス・シーザーもどきの、シーザーならぬシリアスなコチコチ頭のでっち上げもあった。これぞ筋金
入りならぬ、針金入りの一人芝居なのでした。
坂田明の音楽の2月28日の全体は、そんなわたくしの頭デッカチな細径の、この道の数少ない旅人の影しか見えぬ枯野に、
ああ坂田も歩いているんだな、と思わせるひとときなのでありました。
磯崎新の岩波の著作集の、今のところの白眉は第五巻の和様に関する巻なのであるが、磯崎新の論考は実に濃密だが、
そしてこれは日本の近代建築家の到達点の至高の論でもあろうと思わせるけれど、それは坂田明の2月28日の古川邸での日本の
モダーンJAZZの到達点と、どうかなと思わせるのでした。日本の近代建築は日常の、
人間の生活の中にひそむ感性を巻き込めるまでには登りつめていないから。
ヨーロッパにはカテドラルの歴史が在り、これは我々には、残念ながら無い。モノとしての手札も何も無いのである。
昨日の大谷美術館には伊豆松崎町、安良里から森秀己夫妻、藤井晴正夫妻が訪ねてくれた。
「那賀川の岩のりは今年まったく駄目でした。」
松崎町の那賀川は潮の満干のバランスで良い岩のりの宝庫なのだが、それが今年はうまくいかなかったそうだ。
「今年の漁は良かった」
とハンマ(藤井晴正)は言う。彼は遠くオホーツク海まで大型船を出す船頭だ。それぞれの海に、それぞれの事情があるのだな。
それにしても松崎町(伊豆西海岸)の古い友人達の話を、コンドルのバラ園のまだ咲いていない丹羽を窓の外に眺めながら聞いていると
まるで夢の中にいるようであった。
昨夕厚生館福祉会近藤理事長より世田谷での新築保育園の事業者として正式に選定されたと、稲田堤の現場にて知らされた。良かった。
GAYAも何かと忙しくなるだろう。
インドに出掛ける前に世田谷式子育ての一環としての環境空間についてのチーム作りをまとめたい。
わたくしの銅版画は総数25点、コンドルの洋館に、意外や意外しっくりと納まり、安心した。勿論わたくしの主観の内の事ですがね。ともあれ、展覧会のテーマを「窓の内、窓の外」としたのは良かったと自己満足する。自分で満足できなければ何事も始まらぬ。
インドのWSはほぼ定員を超えようとしているので昨日で〆としたい。大谷美術館での坂田明ライブ(石山展での)も今週で〆とする
良い建築は誰でも出来る。わたくしは凄いモノを作ります。
東北から部品は続々と送られてくるが、少しの狂いがあったりで現場の職人達は悪戦苦闘している。しかし、冷気の中現場にはようやく熱気の如くが立ち込めてきて心地良い。実物を作るのはわたくしではなく、彼等だから、その熱気は心して大事にしなくてはならない。
18日となり、月末は目一杯のスケジュールとなり、体調を整えておかねば乗り切れぬ位だ。各プロジェクトの全体調整をすませてアトリエ海、現場担当との打ち合わせに、稲田堤へ。
インド、バローダデザインアカデミーWS他の細部が決まり対応したい。インドでの活動の拠点の一つに育てたい。
昨日、たまたま日記340にあいだみつおの悪口を書いてしまい、正直な発言ではあるが、やはり悪口は悪口で後味は悪く気分としては尾を引いた。又、又、悪口雑言に輪をかけるようだが、同じ商業主義の只中の住人であろうが、横尾忠則とあいだみつおとは少し計り異なる。絵面、字面はまるで別世界じゃあないかと、馬鹿馬鹿しいと思うであろうが、わたくしの馬鹿眼には同族と写るので仕方ない。
まだ上手に言えないのだけれど、横尾忠則は自然に模写してしまう自分の手の器用さに呆気にとられている如くがある。模写、すなわち自己表現、古い言葉で言えばオリジナリティの欠落である。すなわち、その欠落に呆気にとられる程に自己批評が強い。横尾忠則の製作の気持ちの中は、つまり中身は何も無いのである。それを自身知り抜いている。だが製作を止めることはしない。自己の空無を知りながら、空無の上塗り、装飾の如くの絵描きを続ける。
一方、あいだみつおの書は同様に商業主義世界にどっぷりつかっているが、それに対して横尾の如くに自身、呆気にとられている。すなわち批評が完全に欠落している。
言葉の端々に自らの矮小さ、卑小さを言いながら、それは一途に商業主義的ポーズでしかない。それを描く字体、字面が、それこそ嘘をつくことなく物語っている。
ここ迄言えば、今度は悪口の後味の悪さ、すなわち胸クソの悪さは無い。もう一度書いて良かった。
これは気持ちをほぐさねばいかんなと思い、それで建築現場に出掛けた。
わたくしには日々、月々、年々と揺れ動きつづけるモノづくりしかない、を自覚したからである。かくの如き日記を記している場合じゃないとも思うが、これは習性になってしまってるので急に止めたら身体に悪かろうとも思い、いましばらくは続けることにする。
朝方、栄久庵憲司、追悼文をこのサイトに書く。大きな人物であった。(2月11日)
2015年2月8日、栄久庵憲司氏が亡くなりました。
謹んで哀悼の意を表します。
(日記は1日休みます。)
恩師でもあった栄久庵憲司氏が亡くなった。わたくしはウーンと若い頃短期間ではあったけれど栄久庵憲司等が創設したGKインダストリアルデザイン研究所に身を寄せた事がある。間近に声を聴き、飲み、指導を受けた。そして、自分はGKのような民主的チームには向いていないなと思い知り、離れた。
しかし、後年その事をいささか恥じた。そして栄久庵憲司が多様に展開させた日本デザイン機構、世界デザインフォーラムの動きに参加させていただき、少し計りの恩返しめいた事をさせていただきもした。
遠くから、近くからの屈曲した師弟関係であった。一方的にそう想う。
栄久庵憲司は民主的なGKという共同設計とも呼ぶべき組織を作り上げた、しかもカリスマであった。そういう大矛盾を自ら内に持った作家であり、デザイン共同体の思想的バックボーンであり、組織者、運動家でもあった。その矛盾にも満ちた存在形式に真骨頂があった。
世に名高い数々の工業デザインの歴史的名品はともかく、わたくしは栄久庵憲司の「道具論」にはじまる、数々の未完のプロジェクト群を代表作として推したい。
「道具寺」「道具村」の構想は日本近代の、これも又大矛盾を内在させた大きな目標とも言うべきでもあり、ヴィジョンでもあった。
延々と脱亜入欧の近代化の大道を歩き続けた日本近代のデザイン史において、それは建築におけるメタボリズムと並び称されるべき思想でもあった。
栄久庵さんは負けず嫌いでもあったから、並び称されると言ってしまえば口惜しがるだろう。勝り、劣ることは無いと言い直したい。
栄久庵憲司の「道具論」「道具寺」「道具村」の一群を振り返れば、仏教に象徴される東洋的思想と、欧米の一神教的思想の共生である。この考え方は日本現代のデザイン思想としても前人未踏の、いまだに未開の荒野でもあり続けている。
栄久庵憲司死去の報を、わたくしは今すすめている小さな児童施設の建設現場で接した。高い足場に登るのはそろそろ用心せねばならないと痛感している時でもあった。そして、このわたくしの最新作とも呼ぶべきは栄久庵憲司の「道具論」他の、わたくしなりの建築的実践であった(ある)のを直截に理解した。そして納得もした。
栄久庵憲司のGKでの仕事場には世界中で集めた、そして贈られた子供のオモチャがゴッタ煮の如くに集積されていた。そこに居ると不思議な安心感が襲うのを何度か体験もした。
子供の如き稚気と大人の合理精神とが栄久庵憲司の中では同時に併存していた。
栄久庵憲司の「玩具考」「遊び論」を一度聴きたかったなあと、残念に想う。
が、しかし、日本の近現代デザイン史の中で、栄久庵憲司は過不足のない、大きな足跡を残して去った。
ありがとうございました。
2014年 2月
石山修武
こんな事をいきなり書き始めてしまったのは我々の小さな現場が今日寒い底冷えする中で小さなガウディ建築のような気持ちになったからだ。
良く知られるように聖家族教会の足許に小さな保育園の建築がある。我々の計画もその屋根の形状はこの小建築の屋根をモデルとした。ガウディ建築に拒否反応をおこす少なからぬ近代建築家達の多くもこの建築に対しては好意を持つ者も多い。
何故ならばそれが保育園という、ある意味では近代的でもある目的(社会的機能)を持ったからだ。
10時から階下の地面に置いたテーブルでちょっとした打ち合わせがある。銅版画展の細密な事務についても進めたい。インドのワークショップにはアジア地域からの参加もあるようなのでしっかりしなくてはいけない。
本日2月6日は昼過ぎに旧古川庭園大谷美術館に出掛ける。わたくしの銅版画展の再びの打ち合わせの為だ。文化財での展覧会であるから勝手なことは出来ない。敬意を払わねばならない。昨日佐藤がジョサイア・コンドルの一次資料を調べてきたので、それをベースにささやかな展示計画のプロポーザルとなろう。
昨日は西武高田馬場線(新宿線)入曽駅となりのつぼみなる焼鳥屋で佐藤と昼間から一杯やった。細長い小径のような店で烏山の長崎屋よりもプロレタリアートの一杯飲み屋であった。狭山・MACHIDA・ARCのプレゼンテーションが大過なく終わり、次のステップに進むことになったので、ホッとして、じゃヤルかとなったのだ。ギョーザ、ピータン、チャーハンそして焼鳥各種と品数が実に多く、安い。そして程々に美味なのであった。MACHIDA・ARCの工事が始まったら通うことになるであろう。
午後には古来渡来人の多く棲みついた埼玉県に出掛けて、町田さんにMACHIDA ARCのプレゼンテーションをする。
昨日は白井版画工房の白井さんと庭で梅の花を並んで眺めたのがとても良かった。
今日は昼頃に星の子愛児園の二つの現場の進行状況を見に行く。一つはリノベーションによる増床であり、もう一つは一部解体を含んだ増築工事である。前橋の大工市根井立志が木造の建方のために今日早朝から現場に入っている。この二つの工事によって建築がより複合化され周囲の雑然とした典型的日本郊外風景に、ささやかであっても一服の清涼剤になってくれれば良い。
それにつけても増改築の仕事は難しい。
昔、登山に没頭していた頃には、休息日が実に大事であるのは骨のズイまでたたき込まれたものだ。キチンと休息をとらねば本格的な登高は不可能であった。いささかのヒロイズムの懐古交じりに振り返れば、極度に高度で困難な登攀(登高)の前にはゆったりとした休息が必要であった。それでないと登高の感覚が鈍いモノになり、事故をおこす。要するに登高に於いてはそれは死を意味していた。建築設計においても、同様が言える。
日本の北アルプス程度の、それもデレデレとした尾根歩きを目標とした登山(これは登高とは異なる)と、例えば谷川岳の壁を登るのとでは、それはまるで世界が異なるのである。谷川岳は標高からすれば、マア、土手みたいなモノである。しかし、その岩壁を登高するのには極度の困難がともなう。
おそらくは世界でも稀にみる「登高」を身近に感じる事ができた山なのである。
高才の無い建築家なんてのは考えられぬのは良くわかる。大家と呼ばれる画家も同類なんだろうか。凄腕の画商がついているのかな。
昨日30日は早朝に降りしきる雪の中、東北から鉄骨と、アトリエ海の佐々木さんが到着した。酒田の鉄工所製作の、鉄骨とはすでに言い難い部厚く重量のある鉄コンである。佐々木さんがいればこその、コレはすでに作品だな。
こんな大口をたたくのは今手掛けている作品はある種の水準を超えてゆくだろうの確信があるからだ。フニャケ切った時代に小さくともガツンとしたホンマモノをどうしても作りたい。
狭山の町田ARCの製作に関してもアトリエ海の参加をお願いした。
今日は29日で鈴木博之の一周忌の会が四谷の寺である。大阪から安藤忠雄がわざわざ上京するので、わたくしも出かける。彼は義理堅い男だ。あの寺には梅の花は咲くのかな。鈴木博之は寒い季節に亡くなった。だから、梅の花が似合うような気もする。
ウーンと若い時に作った幻庵の主人であった榎本基純は、ある日突然植木屋の弟子入りしましたの報をよこしてビックリさせてくれたが、最近はその気持らしきはよおくわかるような気もする。庭で植木屋さん達を眺めながら打ち合わせをしたが、良い時間であった。
制作ノート、工作ノート1月26日にONしているような、町田ARCの構造打ち合わせを今日27日朝に梅沢良三構造事務所と行う。
しかし、長崎屋に通いつめるのは中々に精神的にシンドイのである。ここは烏山有数のバス・ストップセンター前でもある。沢山の通勤の人々、買い物の人々が並んでいる真ん前にある。真紅のデカノレンをブラ下げている。客の大半はいわゆる常連さんばかりだ。わたくしだって、ここに最初に踏み込むのにはエイヤの勇気がいった。
大谷美術館 石山修武銅版画展 作品展示、竹垣細部
2015年1月25日
大谷美術館での銅版画展で、わたくしはアレコレ考えた。ジョサイア・コンドルのスケッチからヒントを得たいと考えたり、そして和風の生垣もどきを、あの重厚な洋館の中に小さく作ってみようかの考えに辿り着いた。まだ答えがハッキリ視えたわけではない。
大谷美術館 石山修武銅版画展 作品展示のアイデア
2015年1月24日
インド・グジャラート州バローダ、デザインアカデミーでのワークショップへの日本の学生参加の呼びかけに、1月24日現在幾つかの大学から10名弱の応募がある。
あんまり多くの学生の参加は望ましくないし、密度の深い接触も不可能になるので、今月一杯で募集は打ち切りたいと考えている。
デザインアカデミーの学生達は素晴らしい才質と気質を持っている。是非共、その美質を日本人学生に体験してもらいたい。
インドの近代化も急である。しかし、彼等にはそれに呑み込まれぬ深いインドの大地に根ざした伝統がある。それに接してもらいたい。
在っても読まぬ本に戻る。昨夜、コレワつまらぬと放り投げていた本をヒマにまかせて読んだら、コレが意外や意外、面白かった。何故、印象がこんなにちがってしまうのだろうと考えた。コレは単純にわたくしの知識が少し計りこの本の著者の見識に近附いていたからに他ならない。沢山の知識を得たならば、恐らく、つまらないと捨てる本はそれほど多くはないだろうな。
失礼になるやも知れぬので書名と著者名は記さぬ。一時的であったにせよ、つまらぬの印象を記してしまったから。
この本の中に紀州熊野、那智の開山に名が挙げられる裸形上人がある。青岸渡寺蔵の上人座像を写真で見るにこれは明らかに日本生まれの人間とは遠い。
裸形上人は仁徳天皇の時代(313-399)にインドから渡ってきた。縁起に記されているようだ。恐らくは島伝いに黒潮に乗ってこの地に来訪したのであろう。この裸形上人像が「忘れぬ前にインド絵日記を、その16」に描いたインド・ベンガル湾に面したプーリの屋台のオヤジにそっくりなのである。
インドの屋台のオヤジ諸君は皆、日本に渡来しておれば上人とうやまれたのではあるまいかの妄想さえしてしまう。
短絡してはいるが、それ故に明々白々でもあるのだけれど、これから書き残したい。インド絵日記 その18からの数遍は、わたくしのアニミズム紀行9号のスケッチ遍でもある。つまり、すでに8号迄進めてきた思考の旅の続遍なのである。
つまり、他人の振り見て我身を直そうかと言うこと。他人のブログ状をのぞいて、品がネェなと思うのは、恐らくはそれ以上にわたくしの日記だってそんな風に見られているのである。70才になって、幸い春が来れば71才である。今更、品がネェなとバカにされたって、それはそれ仕方だってないのである。だから、少し計り直せるところは直してみたいと考えた。
どお、直してゆけるかは、これはわたくしの力量にかかわることで、いささか覚つかぬ。
1月18日
石牟礼道子はこの映画に於いて、水俣、福島原発の破壊、東北大津波、そして江戸時代の島原の乱を重ね合わせる思考を展開している。流石である。この大きな伏流は日本の近代化への批判が構造としてあるのだが、強い説得力を持つように考える。
建築思潮分野での近代批判、そしてそのゆり戻しとしてのモダニズムの平板極る復権の小史を、何ともみじめにコケにして見せる迫力を持っている。
石牟礼道子は人間の身体を底深く犯し、破壊する元凶としての、そして不治の病としての近代化、そして技術万能、結果としての拝金主義への痛切な、ほとんど信仰にも近いと言えよう、深い生物的な感性を基に大きな批判を深めている。
この批判は批判のための批判では無い。深みに於いてそんな水準の知性ではない。人間の生命に対する、誰も異を唱えることが不可能な感性、情動を伴った結晶度を表現し得ている。
1月17日
十時東中野ポレポレ座。森繁
建さんと待ち合わせて、石牟礼道子メッセージ「花の億土へ」を観る。映画制作の藤原書店社長藤原良雄さん、監督金大偉さんにもお目にかかった。
1月16日
佐藤が進めようとしている小さな庭の計画は以前構想していたドリトル先生動物園倶楽部に通じるモノがありそうだ。今朝話し合ってみよう。
四月の開園時に小さな子供たちの手に触れられるような虫なんかの場所があったら面白い。これを冊子にしたら良いかもなあ。
少なくとも竹の生垣のデザインだけは頑張らせよう。
1月15日
場所は移り、時も移ってはいるが3月に開催するインド・バローダのデザイン・アカデミーでのワークショップは、佐賀でのスクールの延長戦みたいなモノである。
日本の学生達にも少し計りのアナウンスをした方が良いかも知れぬ。善は急ぐべし。早速本日アーメダバードの飯田くんに相談することにしたい。
1月14日
狭山町町田邸のスケッチを進める。コルゲートチューブの使用はなくなったのでむしろ自由になった?植物とビオトープを建築に組み込むのを提案してみようと決めた。2案のスケッチと、コルゲートチューブを使用した第1案とも呼ぶべきを、GAYA制作ノートにONすることも決めた。
GAギャラリーでのHOUSE展にはほぼこんなモノを出典することにしたい。
1月12日 成人の日
人生はとてつも無く面白い。30年の歳月は長くもあり、ホンの一瞬でもあった。74才のクライアントと、70才の建築家が再びあいまみえたのである。夢と呼ぶには、いささかの土埃も立ちはしたけれど、それでもやはり夢としか呼びようが無い、これは夢の続きなのであろう。
2週間程後に第一案をお見せしましょうとなり、お別れする。
町田靖治訳、トニー・ハーゲンの名著『ネパール』(白水社)、『おじさんたちの冒険』(木村幸治著、山と溪谷社)をいただいた。
1月11日 日曜日
「ルーテル神学校」は年をとらねば理解、と言うよりは感じ入る事が出来ぬ類の建築であり、同時に若い、青春と呼ぶ卑猥極まるホルモン発情期の年代には、なかなか理解、共感不能な建築でもある。
わたくし自身は早稲田建築の教師時代に、早稲田建築の伝統の要であった村野藤吾の名を冠した、卒業設計賞であった村野賞を廃止した張本人であった。
それは村野藤吾の名を借りた俗物の群でしかなかった村野会への強い反発があっての事であった。新建築社の馬場璋造、建築家・菊竹清訓等の反発もあったけれど、引かなかった。その事は今でも間違っていたとは考えてはいない。しかし、生半可な事ではなくって、覚悟の上のことではあった。
しかし、ルーテル神学校を再体験して、俺は間違っていたのかもしれないと、一瞬たりとはいえ考えてしまったのも正直なところではあった。
で、再び村野藤吾の建築譜を短時間ではあったが再学習した。そして、ルーテル神学校が村野藤吾の全作品中では、むしろ特異なものであった事を再確認した。精確に言えば数少ない作品の系譜であった事を。
ルーテル神学校は実に見事な建築であった。いささかの自分自身の建築体験の積み重ねを経てわたくしはそれを実感した。
村野藤吾設計 ルーテル神学校 感想1
村野藤吾設計の、都下三鷹のルーテル神学校を見学したいと考えた発端は、先に述べたように、その1969年の創建当時にもすでに反時代的でもあったその外装の仕上げ材であるパーライトモルタル仕上げを参照したいと考えたからである。
何故か?
前述した如くに裏通りと表通りが逆転したからだ。あんまり人の眼に触れる事もない建築の裏側とも呼ぶべきが逆転して表側に露出したからである。
見学した村野藤吾ルーテル神学校の外装パーライトモルタルも又、すでに補修され、テラテラの塗装剤がかぶせられていた様で、創建当時の面影はすでに無かった。
が、しかし、現在進行中の一律にツルツルピカピかな工業化主義的建材の氾濫の只中では十二分に、際立って、又も反時代的とも呼ぶべきニュアンスを表現し得ていたのである。ニュアンスとは何か。人間の感性の骨格とも呼ぶべき人間存在のインフラストラクチャーである。感性を芸術的骨格と言い換えても良かろう。
思想史家・生松敬三の遺産でもあったやも知れぬ哲学史を体系として把握した日本の哲学者であった木田元の考えである反哲学の始まりであるニーチェの、芸術は理性よりもより深い人間存在の根源であるとの思想に基づいた「芸術」である。木田元によれば反哲学的体系であり、その系譜に思想史としては包まれている。
「つづく」
先ほど三階のトイレに上がったら天窓から三階のフロアー一面に月の光が白く溢れ返っていた。李白の詩そのままであった。李白の如くに故郷を想ったりの才はわたくしにはないけれど、ウムウムとは感じ入ったのである。
失忘症だな。
夜が明けそめて、東の空は薄黄紅で美しい。松の樹のテッペンにムク鳥だろう黒い塊がとまり、空に揺れている。武蔵であればたちどころに筆をとるだろうが、眺めているだけ。
1月8日 昨日の午後、旧古河庭園内の大谷美術館で大谷美陽子さん、事務長の片江信吉さんにお目にかかり、わたくしの「銅版画展」について具体的な事のディテール(細部)についての打ち合わせをした。何とか期間内に坂田明のライブもやれそうである。
再訪してこの場所で展覧会をやる事の意味が実感として身に迫り、力を尽くして対応せぬと赤っ恥をかくなコレワと、覚悟も決めた。ジョサイア・コンドルの晩年の名作でもあり、庭園は小川治兵衛の手になる。鈴木博之が天から眺めているのは必至であるから、ただただ流されてゆく類のモノには出来ない。
1月7日 7時離床。すぐに狭山町田さんの家のスケッチにかかる。9時終了。昨日2点のスケッチはしていたのだけれど、説明的なものでしかなく自分が得心していなかった。若い人に説明するのには程々なのだが、自分を励ます類のモノではなかった。
1月6日 インドから連絡入り、3月初旬から10日間程インド行きになりそうだ。
祭事の実際をなにがしか積み重ねてきた。いよいよ自分自身の祭事に取り組むことになる。頑張りたい。
1月5日 昨日の山中湖日中友好の会は中国人が30名日本人が30名のバランスがとれた会となった。小さな集まりであったが今年の動き初めでもあり幸先が良かった。何事も無駄は無いと信じることにしたい。
GAYA制作の記録のはじまりのページを振り返ってみよう。星の子愛児園の本館と、今工事中の増築棟の完成予想図がONされている。そして2014年9月20日のページにはgoogleから引いたJR稲田堤と京王稲田堤を結ぶインフラストラクチャーと呼んでしかるべき、前述の通勤道路がクッキリと浮かび上がっている。この道路は今の都市に重要である。都市の中心部へ向かい、その中心部から郊外へとUターンする、それが人生の如くの人々にとっては重要極まるモノである。
この乗り換え道路と呼ぶべき小さなインフラストラクチャーは現代の都市・東京の典型的な産物なのだ。
それ故に2014年9月18日のスケッチがGAYA制作ノートの始まりのページに呈示されていた。今年の始まりのミーティングはこのスケッチと2015年元旦のスケッチを巡って話すことから始めることにする。