110 ひろしまハウス in プノンペン
カンボジア製のレンガの手触りや、重さを再び実感している。
Eメールのやり取りでプノンペンの現場は進行している。勿論、手違いがある。窓の大きさの変更が上手く伝わっていなかったり、様々な行き違いはある。しかし、現場で何年にもわたってレンガ積みのワークショップを続けたのが、今になってようやく生きている。あの素材が積み重なって建築になっているのだから、少々の事ではびくともしないぞという自信だ。
この建築は重い。存在自体が限りなく重い。骨格自体が厳然として在る。だから、少しばかりの変化には耐えられる強さを持つ。
窓が少しばかり寸法ちがいに出来たりは平気な強さを持つ。アジアの古典的な建築に見られる尊厳の骨格があるから、少しの事では、どうともない。
友人の中川武教授がアンコールワットの遺跡を修復している。彼も、何年にも渡って、石を積み直し、レンガに触れ、実感としてそんな感じを得ているのではないかと勝手に憶測する。
歴史家の実感であろう。
石山修武
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難波和彦氏
109 人工環境
リチャード・バックミンスター・フラーのドーム理論の行き着く先の一つが、完全に外界と遮断された世界である事を先ず指摘しておきたい。フラーがアメリカ海軍への入隊を果たせず、数理的エンジニアリング世界へと進んだ事は知られている。フラーの思想はそのはじまりから強いシステム志向に貫かれていた。エンジニアリング・システムが理想的に具体化され、眼に視えるようになったものが実は軍であり、戦争のシステムであり、兵器でもある。一つの目的の完遂の為にシステムは構築されようとする。
究極の兵器でもある原子力潜水艦の人工環境の有り様は一つの目的へのシステム志向の理路整然とした答えなのである。一つの目的とは敵に勝つ事であり、敵を壊滅させる事である。絶対として仮定された目標の為に、あらゆるエレメントが配置され、システムとして統合される。システム・デザインの妙は仮定された目標への最短距離の探求にある事は間違いない。現代の兵器デザインはグローバルな政治、経済を目標にするシステム・エンジニアリングの華なのである。
難波和彦の「箱の家」について考える。箱の家は難波の師であった池辺陽の世界をある意味では結晶化させている。「箱の家」の日本での歴史的系譜を粗く述べれば、先ずセキスイハイム(オリジナル)が挙げられよう。これは東京大学建築学科博士課程に在籍していた大野勝彦のプロデュースになるもので、コンテナサイズのスペースユニットを生産単位として大量生産し、総合的な生産システムの核にしようという考えであった。生産システムの核とは住宅の生産量だけでは量産のシステムに乗り得ないから、もっと広範なスペースユニットとして、建設産業の新しい軸にならないかというビジョンを持っていたのである。論としての先駆者としては住宅産業論の内田元亨、物的な試みとしてはナショナルの東方洋雄等がいた。大野は内田研究室の考え方を、企業との橋渡し役として動き、実現させてしまった。セキスイハイム・オリジナルは年産六〇〇〇戸程の実績を上げる迄になる。やがてコンテナサイズの箱に屋根が架けられ、他メーカーとの差異も自然消滅し、更に商業的には成功する事になった。屋根を架けたりのデザインには山下和正氏等、建築家が参加していたと聞くが定かではない。大野が考えたスペースユニットを新産業とする、今風に言えば新しいビジネスモデルを作るという夢は崩れたのである。
敢えて建築畑から難波和彦の「箱の家」を見れば、それは大野のセキスイハイム・オリジナルが、ユーザー・ニーズを代表するらしき、ゆるふんデザイナー建築家達の手によって、見る影もなくズタズタになった建築の近代の夢の、リヴァイヴァルなのである。
ゆるふんデザイナー建築家達について補足する。ゆるふんとは、勿論ふんどしがキリリとしめられていない、だらだらして覚悟が決まっていない状態の略である。社会的には、もてはやされている人々に多い。今で言えば、生活派、カジュアルな・・・。おいしい生活派とでも呼ぼうか。歴史的には合間、合間に顔のぞかせ、俗な風潮を作り上げたりする。
いちいち名を挙げるのは、はばかるが、実に多い。圧倒的多数と言っても良い位なのである。
インテリア・デザインの世界を例えれば、非常に解りやすく、倉俣史朗以降のほとんど全てのデザイナーには「歴史的」な価値はない。全て、ゆるふんデザイナーである。
難波は勿論、ゆるふん建築家ではない。そうでないからこそ、「箱の家」を今更唱えるのだ。ではその覚悟の程は、と、その歴史的ふんどしを見据えてみよう。
つづく
石山修武
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108 山口勝弘展の印象
鎌倉近代美術館の山口勝弘展は私には殊更なものであった。それは現代美術の意味そのものを再考させる力を示すものであった。
芸術家は何ゆえに芸術家であるのか。現代社会に一般的に流布する風評から、ある種のズレを示す価値観を持つからである。現代社会の風評の総体が作り出しているのは、風評自体が一つの世界を形作り、人間個人の意志では抗し得ぬ力を持つものになっている、その事実である。敢えて風評という古めかしい言葉を使うが、これは今風に言えば、勿論、情報である。しかし、山口勝弘展の印象は私に情報という言葉を使わせるのを恥じさせる力を持っていたのである。
すでに世間に知られている事だが、山口勝弘は一時病に倒れ、今はリハビリ中の身である。
幸い、山口勝弘とは面識があり親しくしてもらっていた。それでリハビリ中の山口の身辺を訪ねる事ができる。特権である。えばる事でもないが、そういう私的な特権がある。その事を介して、私はゆっくりとではあったが人間の生きるという事、そしてある種、特別な人間の表現せざるを得ぬ事が確実に在る事を痛切に実感した。つまり芸術家が芸術家であり得る事の核心を視たのである。
鎌倉近代美術館の展示は初期作品の実験工房時代、ヴィトリーヌ、メディアアート、ビデオ作品、オブジェまで、ほぼ山口勝弘の七〇数年の歩みを網羅したものであった。その点では名をなした芸術家の名門美術館での大回顧展であるとも言えよう。しかし、常に新しい分野の表現に本能的に関心を示し続け、関係を持ち続けた山口の真骨頂は驚くべき形で、この回顧展の形式をとった展覧会でも表明された。
つづく
石山修武
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107 廃墟に昇る太陽
山口勝弘先生より記念にと贈っていただいたドローイング開封。廃墟に昇る太陽と題され、デジタルへの反逆、アナログアートとの文字が附されている。
不思議な事に、以前持っていきなさいと言われて、いただいて帰った「カタロニアの夕暮」と題された絵と同じ色調であり、使われている色のマテリアル感というか、手触りのようなものが全く同一である。カタロニアの夕暮は先生の気持が穏やかで、静かな時に描かれたものであろう。一方、今度贈って下さった「廃墟に昇る太陽」は先生の気持が何かに深く揺り動かされ、絶望の近くまで降下し、台風の渦に巻き込まれ、その後に再び平安な気持ちをとり戻された様な風が描かれている。
私にとって重要なのは、この二つの絵が私へのメッセージだと自分自身で直観している事だ。
山口勝弘の芸術家としての魂を私は信じる。倒れてからの先生の諸作品を私はまだ本物の芸術家がこの世に居るのだと、驚きの眼をもって眺めている。山口さんは私に何を伝えようとしているのだろうか。安手の意味論を山口さんは嫌うが、山口さんのこれらの絵には今の意味を超える意味があるように思えてならぬ。今の意味を超える意味とは色彩とフォルムの融合によるシグナルの響きだ。これらの絵から伝わってくるのは音楽と酷似している何者かである。
「ひろしまハウス in カンボジア」に表現したいと希求しているものと、廃墟に昇る太陽とは多分同じ核を持っているだろうと信じる。
廃墟に昇る太陽を本当に視たのはひろしまの被爆者達であろう。住民が居なくなったプノンペンの廃墟から、それでも昇る太陽も又、誰かが視ていたのだ。
山口勝弘にはまだ「ひろしまハウス in カンボジア」の話はしていない。今度会ったら、少し、してみたい。
石山修武
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106 Buchen Weld 収容所
ワイマールのバウハウス大学に滞在していた時に友人のJ・グライター教授に案内されて、ブッヘンヴァルドの旧ユダヤ人収容所施設跡を訪ねた。ヒトラーはワイマール市がお気に入りで、何度も訪ね、ナチ本部施設を作った。又、市内の広場に面したエレファントホテルの二階バルコニーから演説するのを好んだらしい。バルコニーに立ってみるとヒトラーの気持がわからぬでもない。一万人位の群衆がギッシリと埋め尽し、演説に熱狂するに適したスケールなのだ。ヒトラーは演説を続けながら次第に群衆が陶酔するのを実感し、それに同化し高揚していったに違いない。その高揚の挙句の果てがナチズムの暴力であり、第二次世界大戦でありユダヤ人大量虐殺であった。
ブッヘンヴァルトのユダヤ人収容所は一部の建築を残し、今は無い。しかしユダヤ人を大量に運び込んだ汽車のレールは残り、ガス室も様々な殺人装置も残されている。グライター教授はこういう処を案内するのはドイツ人としては辛いのだが、しかし義務なのだと言ったのを覚えている。日本人の忘れ易さと少し違うな、と初めての実感であった。
ブッヘンヴァルトのユダヤ人収容所跡の近くには今、巨大なハイテク風車が回転しているのが眺められる。環境立国を実現しつつあるドイツの現実の姿である。風車をゆっくりと回転させる風が、吹き渡って収容所跡の広大な遺跡の草々を揺すっている。歴史は厖大な死者の声によって積み重ねられるものだ。風力発電による環境立国に正面切って取り組む今のドイツとユダヤ人収容所の風景とは連続している。少なくとも、その事は自覚しなくてはならない。
風のある風景を我々は得てして、諸行無常の抒情とも誤解される、諦念の表れとして受け取りかねぬきらいがある。ブッヘンヴァルトの風景は広島の原爆ドームにつながり、そしてプノンペンのしろしまハウスの風景にもつながっている。
石山修武
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コラム的連載 「近代能楽劇場」 はこちらで
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104 ひろしまハウス
ひろしまハウス in カンボジアの日干しレンガの朱橙とベトナム製レンガ、タイルの茶橙と、赤道直下の日光の輝きが作り出すだろう空間は、幻庵が巨大になったものになる筈だ。幻庵の透けた太鼓橋がひろしまハウスでは西に向けて直線に駆けるブリッジになった。コルゲートはレンガのシェルターになり、林立するコンクリートのストラクチャーになった。それだけだ。何の変わりもありはしない。
石山修武
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103 Special
小林崇さんに会った。氏は一九五〇、六〇年代の映画をDVDにしたり、アウトサイダーアートを映像化したりの活動を続けてきた人物である。そんな事を地味に、かつラディカルにやっていた。たまたま韓流ブームがあった。その中の往時の大映ドラマみたいなのが、何十万本のスケールで爆発的に売れたらしい。建築のシリーズは、ライトでもカーンでも三千本位が関の山だったらしい。ガッポリ、金が転げ込んだ。彼等が面白いのは、そのガッポリ転げ込んだ大金でマイナーな、しかも本当にやりたいメディアを立ち上げてしまえと決断した事である。普通は韓流ドラマで当てたら柳の下の二匹目、三匹目のドジョウを追い、少しばかりの小金を得て疲れて、家を一軒買ったり、アルファロメオを買ったりの愚を犯す。
その彼等のメディアが三月末に発売予定の Special である。たまたまのアクシデントで得た金で、ユニークなメディアの出版を思いつくところが、実に現代的である。テーストは確然としている。オタク的にはっきりとしているが、パアーッと社会に開いている。
実に開放系技術的メディアなんである。
「マ、何号まで続くか解りませんが、続くところ迄やってみます。」
と、言うのが格好イイ。
肩をいからせていない。しかし、やりたい事はヤルという姿勢である。
こういうメディアを埋もらせないようにしたい。乞、注目である。
石山修武
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102 藤野忠利さんからの絵はがき
藤野忠利さんから定型郵便が届いた。藤野さんは異形のメールアーティストで、その大半の郵便物が非定形であるから、これは珍しい。
エジプト、ギザのピラミッドが遠くに見える。車が一台豆粒のように走っている。スピード感は全くない。森閑として音も無い。蜃気楼の如くである。間近に白いロバが自分の影を食べるよう砂漠に頭をすりつけている。影は小さい。真昼に近い時間なのだろう。ヒメネスのプラテーロと私のロバ、プラテーロは栗毛で耳飾りのリボンをつけ、花飾りを身にまとうと飛びはねるような可愛らしさの結晶、極彩色の世界だが、藤野のロバは恐らくピラミッド見物の使役なのだろう。小さな労働者風で、それがとても良い。グレーと薄茶色と白の世界である。背中に妙な赤い座布団状のものを背負っている。この荷物ならロバには軽くて苦役ではなかろう。赤い座布団には白く、大入りの文字らしきが染め抜かれている。何だ、コレワ。
アーティスト藤野の夢は大入りだ。お金がザックザックと入ってくる大入り。現代っ子センターやミュ−ジアムに子供がゾロゾロ大入り、それが彼の見果てぬ夢である。関西を中心の具体のアーティスト達はいかにも関西らしい金銭に対する独特の物腰を持つ。金銭の日常感覚。あがめるでもなく、高見から馬鹿にする振りでもない。そのヒューモア感覚が風景を一瞬歪める。ピラミッドを背にしたロバの背に大入り袋とは何であるか。その意味とは、と考え始めるのは俗であると藤野は言いたいのだろう。ピラミッドやロバと比較すれば人間は実に俗な存在である。毎日を俗にまみれて暮らさざるを得ない。金が無ければパンも買えぬ、電車にも乗れない。ガソリンも買えない。ロバの背中の大入りマークはそんな喜劇をアッという程見事に示している。藤野にはロシナンテに乗って風車に戦いを挑むドンキホーテの面影を見なければならぬのか。ピラミッドだけであれば単なる絵葉書。それにロバが加われば、ひどく感傷的な安手の意味がまといつく。その背中に大入りマークで、我々は何となく世界を笑う小さなエネルギーを得る。
石山修武
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「空にぬける風」木本一之
101 新年の手紙
木本一之様 広島大学医学部同窓会のオブジェクト「空にぬける風」、君の山の中の工房から見える空と風はこんな形をしているのかと感じ入りました。穏やかな落日の輝きにも似た色が良いと思います。こんな色の壮大な落日の風景をデカン高原で視入った記憶があります。風がこんな形に視えるのなら、水はどんなだろうかと思いました。お願いしている九州のプロジェクト、そんな風に考えたらどうでしょうか。エントランスから入って左手にある吐水盤、そして中潜りの左の大きな桶も要するに水の通路です。「地にぬける水」じゃないですか。水の扱いはカルロ・スカルパが見事です。ヴェネチアでスカルパの水ばかり見て歩いた事があります。バウハウス大学のJ・グライター教授がニーチェの研究家で、ニーチェがヴェネチアで棲んでいたアパートまで連れていかれたりしたんですが、もうニーチェはいいから、スカルパを案内してくれと頼んだら、一夜彼はスカルパのヴェネチアでの処女作であるレジデンスに案内してくれました。その家のオーナーと知り合いだったのです。若いスカルパはヴェネチアの街の一角の住居の隅から隅までギッチリとデザインしてました。息がつまる位に。君が見たら仰天しそうなメタルの細工も随所にありました。ドアも家具も何から何までスカルパのオリジナルでした。驚きました。でもあんまり感心しなかった。年を取り、経験を積んだ後のスカルパの、微妙に流れ動く空間が無かった。次の日に見て廻ったスカルパはどれも良かった。皆、水と共にあったからです。ヴェネチアは水の上に浮いた都市です。水の干満と共に都市が息をしている。つまり水の動きと共にヴェネチアも動くのです。年を経たスカルパはそれを体得していた。それ故スカルパの水の造形は常に動きを内在させている。九州の建築は小さなモノですが大事なモノになります。特に水とからむ空間が重要です。君にお願いしている二つの水に関わる部分はこの建築の要なんです。「空にぬける風」の写真を拝見して、こういう風が視えるのなら、こんな風に水を視てくれればよいのにと思い当たりました。僕の方からスケッチを送ったりして君の自由を閉じ込めていたのかとも考えました。一度、君なりの、水の形を考えてみてくれませんか。正月でまだのんびり気分が抜けにくいかも知れませんがひとつやってみて下さい。お願いします。池は全て淡路の山田脩二のいぶし瓦で仕上げられます。露地もエントランスも同様です。
ゲートのデザインは当初案の僕のモノを捨てます。君の「空に抜ける風」の風格でやってみたらどうでしょう。まさにゲートは空に抜ける風ですぜ。ただし、セキュリティは優先して下さい。風だけでなく泥棒盗人まで抜けたら困ります。
一月二日 石山修武
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