084 渡辺豊和の復活
渡辺豊和さんが日曜日の朝世田谷村に訪ねて来られた。豊和さんは今六十七才になっている。多くの歴史上の建築家は七〇才前に生涯の名作を残している。いかに寿命そのものが延びているとは言え、ソロソロ土俵際だ。豊和さんは最後のふんばりの準備をしているように見受けた。
聞けば、ここ十年程建築を建てていないとの事である。何故だかは聞かなかった。尋ねても仕方ない事だから。豊和さんは変わらなくているから、時代が彼を斜視しているのだろう。それにしても十年の空白は長い。異様である。その異様さが、しかし、いかにも渡辺豊和風でもある。空白そのものに意味があるようにさえ思ってしまう。
毛綱モン太が居なくなってから、豊和さんは完全に孤立してしまった。彼等が目指そうとした建築スタイルはバウハウス発の西欧モダニズムのそれとは少し計り異なっていた。何処が違っていたかと言えば、彼等の建築にはイスラム風のドームが多用されていた。そのドームはパラディオのものでもなく、ブルネレスキのものでも無かった。又、アメリカンモダニズムのB・フラーのドームでもなかった。彼等のドームは明らかにイスラムのものだった。
毛綱は博覧強記の男だったからルネッサンスの人間復興の気運に精通していた。しかし、彼の造形はそれからは外れているところに本質があった。彼は根深くバナキュラーな造形物への関心があった。師であった向井正也の影響もあったのだろう。
渡辺のドームのもとはイスラムだろう。イスラム建築の数学的特質、幾何学の精緻さからは遠いが、ヨーロッパ近代にあき足らない気持ちの強さが、意識の内外で、より遠いヨーロッパの外へ、砂漠の国のスタイルへと向かわせたのである。
今いるところにあき足らない、我まん出来ない。その性向が二人の造形を強く異風なものへと仕立て上げた。特に渡辺は後年、ムー大陸やらの神秘主義的世界へ傾倒した時期があったが、それもそんな、イマにあき足りない性向が強過ぎるからだ。
渡辺の怪著の一つに「縄文夢通信」がある。土グモ族なる縄文族の存在に焦点を当てた古代史ミステリーである。ホントかよ豊和さんとつぶやいてもしまう物語だが、終わり近くに述べられているイメージは素晴らしかった。うろ憶えを要約する。
土グモ族は大型の土塁建築をつくる。巨石文化も持っていた。日本列島に広範に拡がる同族のネットワークを作り上げていた。彼等は小高い山や丘の上にピラミッドを築いた。ピラミッドは王の墓では無かった。情報通信網の為の装置だった。
土グモ族は遠い場所の同族への通信にピラミッドを使った。古代中国のノロシ台、塔のように使った。ピラミッド状の構築物で火を焚き、それをピラミッドに反射させて光通信を送った。そのネットワークは精密に構築されていた、と言うのだ。
渡辺は一時期、三角形に整った山を見ると、アレは古代のピラミッドであると自信を持って言明し、とうとうと言い張り、旅のつれづれの友人達を悩ませた。私だって、渡辺の妄想に過ぎぬと考えていた。しかし、そう思い込んだ渡辺の想像力は素晴らしいと思った。その想像世界自体に現実とは分離した価値がある。
渡辺を単なる妄想かであると考えている、普通の多くの俗人に、それを言うのは面倒臭いので黙っていた。
渡辺の想像力の世界は、彼の手になる現実の建築世界よりも、余程見事な世界なのだ。
豊和さんは十年間現実界に建築物を建てなかった。現実社会が彼の、建築家の想像力をうとましく考え、しかも恐れたからである。渡辺さんは縄文夢通信で光の、情報の空間構築を予見していたのである。そして、二〇〇一年9・11テロ以降の世界の現実、すなわちアメリカ資本の帝国主義的世界観とイスラム世界の対立をも予見していた。だからこそ、渡辺は真の異形として社会からの孤立を余儀なくされたのだ。
そう考えてみると、渡辺建築は現実界への復活の巨大な糸口をつかむ事ができるのである。その糸口に関して、ようやくにして視界が開けてきたので、何かの形で示したいと考えている。
縄文夢通信のような形式で、重量のない建築の様式を借りて。
石山修武
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