カバーコラム 石山修武 
 


 
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利根町の百笑園
利根町のまちづくり −百笑園

100 二十一世紀型農村研究会について 2
『国富消尽』対米隷従の果てに
 吉川元忠・関岡英之  PHP 研究所発行一五〇〇円税別

 読後感2

 経済にうとい者として、この書物を要約してみる。二〇〇五年にマスメディアを介して社会をにぎわせたライブドアや楽天による日本型大企業の買収問題は、本格的な外資つまりは米国資本による日本経済支配の入り口にしか過ぎない。
 ライブドアや楽天が動かした巨大なマネーはアメリカンマネーであった。。アメリカは財政、経常収支共に赤字の「双子の赤字」国家である。そのアメリカに何故、そんなマネーがあるのか。帝国循環と呼ぶ金が廻っているからだ。その金は実は日本の金である。第一段階では日本の生保マネーを吸い尽した。今、日本の中堅、小、生命保険会社のほとんどが外資系に買収されている。アメリカは双子の赤字国家なのに何故そんな事ができるのか、それは日本がアメリカ国債を買い支えているからだ。日本のトラの児であった貿易収支の黒字、国富をアメリカの$を支える為に使い果たしつつある。プラザ合意で円を切り上げられ、それ迄の貯えを減少させた日本の富に、わずかに残されているのが国民一人一人がコツコツと貯蓄した郵便貯金、簡易保険である。それを小泉純一郎首相は郵政民営化は構造改革の本丸であるの掛声と、小泉劇場の成功によって、三百五十兆円の日本マネーを、アメリカに献上しようとしている。マスメディアが抵抗勢力としてバッシングした郵政民営化反対議員こそは国益派なのであり、竹中平蔵大臣は米国のエージェントである。あめりかは「年次要望書」によって郵政民営化を強く要望していた。民営化はその圧力に屈したものに他ならない。
 アメリカ社会は消費立国社会である。その消費立国こそがアメリカの双子の赤字のベースである。その消費の形式を日本に浸透させ、アメリカン・グローバリズムのシステムに吸収するのがアメリカ、すなわちアングロサクソンの経済戦略である。
 日本がそれに抗して民族文化の自律を願うならば東アジア共同体構想を超えた、「汎アジア共同体」こそがそれに対抗する道である。中国はすでに日本の対米従属を反面教師として把握している。又、日本と中国のみぞは深い。東アジア共同体構想で米国に背後から操られながら中国とアジアの盟主の座を競うのは得策ではない。日本は調整役くらいが似合っているのだ。イスラム圏も含めたヒンドゥ文化圏、インドも視野に入れた、一調整役の思想の構想が必須である。

 吉川、関岡両氏がいささか性急に述べようとしている、我々に伝えなければならぬと思い込んでいるのは何だろうか。その事に関心を持った。又、両氏に指摘される通りに、僕も渦中は小泉劇場の典型的な観客の一人でもあった。その事にも関心を持った。
 両氏をこのように突き動かせているのはアメリカン・グローバリズムに対する危機感である。その危機感は何処から湧き上がっているのか。国益は決然として守らねばならぬ、明らかに強過ぎる米国のシステムに対抗せねばならぬという情動は一種の民族主義である。一昔前であれば民族主義=ナショナリズムの定式があり、第二次世界大戦の負の記憶と共に、かくの如き発言は単純に保守反動として切り捨てられた。しかし、今、我々はソビエト連邦の崩壊を歴史として体験している。コミュニズムは全体主義として批判される。そんな歴史の現実の中で関岡の論は、対米グローバリズム、対アングロサクソンつまり世界最強の勢力への弱者の対抗の姿勢という、極めて倫理的でもある不思議な歪みを見せる。その歪み、ねじれにある程度同意させられるところが歴史なのである。

 関岡の論を更に要約する。
 郵政民営化は誤りである。それはアメリカン・グローバリズムを益するのみで国益を損じる。その国益というのは東アジア共同体構想を超える汎アジア共同体構想によって保証されるべきだ。

 極めて魅力的な視点を持つ本書は次の二点をより展開すべきであろうとの私見を読後に持たせるに至った。  一、郵政民営化の考えはアメリカの年次要望書に記載された一九九五年以前に、小泉純一郎首相が郵政大臣時代にすでに発想されていた。それ故結末の小泉劇場の愚はとも角、何故、小泉純一郎という大衆政治家がアメリカの圧力以前に民営化を唱えていたかを解明して欲しい。
 何故ならば小泉首相の地元は日本の有力な歴代首相の中では初めて都市域を地盤にしている。しかも横須賀は日本の米軍軍港でもある。原子力潜水艦、原子力空母の寄港地でもある。ペリーの黒船が今に継続している歴史を持つ。政治家小泉純一郎のメンタリティの多くはそんな横須賀的性格に色濃く染められているに違いない。それは又、同時に僕等の精神の奥深くに棲みついているものでもある。恐らく、著者の関岡の中にもある。その自分の中のアメリカを棚に上げて小泉劇場を批判するのは片手落ちではないか。私達の中のアメリカについて考究して欲しい。それは劇場型政治、メディア劇場と化すであろう大衆動員型政治についても考える事になるのではないか。
 二、汎アジア共同体について、ここに描かれているのは余りにも大まかな考えである。その考えには私も同意するが、この論はやむを得ぬ事ではあろうが用意周到なものとは言い難い。更にこの構想の理論的肉付けが欲しい。関岡のキャリア、ライフスタイルを概観すれば、この道の構築が彼のライフ・ワークになるのではないかと予感出来る。このヴィジョンにディテールが無いと、アメリカン・グローバリズムには対抗できないだろう。
 石山修武

 世田谷村日記 017

 

利根町の桜並木
利根町のまちづくり −桜並木

099 二十一世紀型農村研究会について 1
『国富消尽』対米隷従の果てに
 吉川元忠・関岡英之  PHP 研究所発行一五〇〇円税別

 読後感

 「マネー敗戦」「アメリカの産業戦略」等の著者である経済研究者吉川元忠氏と「拒否出来ない日本」の著者関岡英之の対談形式をとった共著である。関岡英之は慶応義塾大学法学部卒業後、東京銀行(現東京三菱 UFJ 銀行)に入行。北京駐在員等を十四年間経て退職。その後、私の研究室に在籍し、修士課程を修了後、フリーライターとして自立した。経歴を紹介したのは関岡英之のライフスタイルとも言うべきものが本書の基調低音と極めて密接な関係を持つと思われるからである。
 経済畑を歩いてきた関岡が何故建築畑に興味を持ったのかは良く知らぬ。私の研究室に在籍したのは、私が強く誘ったからである。彼は学部の私の講義の聴講生だった。二百名程の学生に埋もれて名前も顔も知らなかった。たまたまレポートを全員に提出させた。二百名のレポートに目を通すのは仲々辛い。脳内が白くなってくる。しかし、奇跡にも似た確率で関岡の書いたモノと出会った。中国大陸、及び台湾の地政学上の考察が書き述べられていた。他の紙クズの群とは全く違う質を感じ取った。私の教師生活では幾つもないマア、出会いだった。すぐに私は関岡に大学院進学をすすめ、彼は研究室に入室した。入室して、設計その他デザイン的思考を伝えたいと考えたが、すぐにその方面には才が無い事が判明した。ハッキリした才を持つ人間の取るべき径は、おのずから明らかなのである。
 で、彼はなるべくしてライターになった。
 私的な関係を述べたが、これは彼のキャリアが持つリアリティとでも呼ぶべきものを指摘したかったらだ。関岡は銀行員の着実さと、それを捨てて新分野にトライする精神を共に持つ。デザインの方はまるっきりアカンかったけれど、彼はキット、設計だ、計画だなんてのは実に非論理的世界だと見切りをつけて、そこからも去ったに違いないのである。
 前口上はこれ位にして本書に関して述べる。
本書は七章にっよって構成されている。
 第一章 着々と進む日本企業買収の環境整備
 第二章 外資によるM&Aの新時代
 第三章 郵政民営化の真実
 第四章 深く静かに進む米国の日本改造
 第五章 アメリカの対日圧力を振り返る
 第六章 二十一世紀の日米金融バトル
 第七章 日本のポスト・グローバリズム戦略
 である。
 あとがきに代えて、の最終項に関岡がのべるように、吉川元忠は本書刊行を目前にして亡くなられた。つまり、この内容に単純に現れている、現小泉首相体制への余りにも明快な“否”の宣言は、これから吉川元忠氏亡き後は、ほとんど関岡が一人で背負わなければならない。つまり、関岡は現時点では明らかな反体制の現実的な論理の表現者なのである。反体制という表現の仕方は古い。この表現は社会がまだシンプルに正反、二つの勢力に分けて考えられる時代に容易に成立していた。ところが、今の日本では全くと言って良い位、反体制なんて言う体制どころか、個人の言説だって無くなってしまっている。
 関岡氏の言説は、明らかにチョッと昔だったら、すなわち三十年位昔であったならば、明らかに保守反動の歴史観としてしりぞけられていただろう。それが、本書の読後感としたら、歴然とした現体制批判として総体化されているように思われる、そんな現在というのは何なのか、と言うのが僕の最も驚いてしまうところの事なのである。
 それを解りやすく言えば、二〇〇五年度の最大級の出来事であった国政、すなわち秋の衆議院選挙である。小泉純一郎首相がデジタルな手法、すなわち、イエスかノーかを振りかざし、結局、選挙を大勝し、郵政民営化の径を国民合意の下に押し進める事になった歴史的事件についてである。まだ記憶に新しいが、選挙はマスメディアの動きを含めて、小泉劇場と呼ばれる形式の中で進められた。
 この本は、その小泉劇場の流れに隠されてしまった、意図的なのか、非意図的なのか充分には今のところ解らぬ動きが、どんな構造を持っていたかを、先ず我々に解き明かそうとする書物なのである。
 つづく
 石山修武

 

086 - 089, 94, 96, 98 −コラム的連載 芸術はゴミか はこちらで

堀尾貞治と藤野忠利

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堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ

 

090-093, 95, 97 −コラム的連載 今、噂の「近代能楽劇場」について はこちらで

近代能楽劇場 近代能楽劇場 近代能楽劇場 近代能楽劇場

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森正洋先生を悼む
森正洋:平茶碗

085 森正洋先生を悼む
 世界水準の器 佐賀の気風で 若者よ「美の日常」を継げ
 佐賀新聞より転載

 これからの日本の将来に不可欠な人物を、また私達は失った。佐賀の森正洋先生が七十七歳で亡くなってしまったのだ。哀しさを通りこして、不安を覚えるほどの空白感の中にいる。しっかりとした道標を失い、霧の中に置き去りにされた感がある。
 東京に居る私は、佐賀の森先生にお目にかかる時間は大事な、他の何モノにも代えがたい時間であった。佐賀県の支援を受けて三年間、毎夏・春の三週間程、私は佐賀でワークショップを開催した。ドイツのバウハウス国立大学との共催だった。
 バウハウスは近代デザインのはじまりと言って良い学校であり、その歴史をくむ人達と、現代の思想、哲学、文化芸術、デザインを広範に共に考えようという試みだった。佐賀県の度量があって、はじめて出来た事ではあるが、今振り返れば、良くあんな事が出来たなと、つくづくと思う。
 森正洋という佐賀の人物がいて始めて可能な事であった。先生が居なくては、あのような国際的にも先端的なことは出来なかった。森正洋先生は人物も、作り続けた多くのプロダクトも字義通り国際的で、時にその水準をはるかに超えていた。
 そんな人物、そしてモノがローカルな佐賀に存在したのは驚くべき事でもあった。何故、森先生は佐賀に在り続けたのか。それは森先生が佐賀の気風、風格をあまりにも深く持ち続けたからだ。
 あまりにも深いモノは視え難い時がある。佐賀もそうかも知れない。佐賀には日本を代表する陶芸文化が大きく在る。それ故に森正洋の真の価値を見損なってきた嫌いがあるように思う。
 「英才は故郷に容れられぬ」の説もあるが、森先生の人物、プロダクトは深く佐賀の産物であったが故に超一流の国際性を備え、その評価も高かった。その事実は、これからの佐賀を支えなくてはならぬ若者達の巨大な道標である。佐賀の風土、歴史、文化気質が深くつきつめられると、それはいきなり国際的な価値になるというモデルである。
 先生がデザインされた多くの日常用品、食器を私は多く愛用している。床の間に飾ったりはしていない。その斬新生、論理性はあくまで近代そのものの表現である。手びねりの陶芸品には無い品質を持つ。しかし、その美しさは、近代性を超えた独自なモノを同時に備えている。それを私は畏敬を込めて、SAGAモノと呼びたい。
 佐賀の若者達は、佐賀人である事の誇りを、先生の残した美の日常に見ることができる。地域の近代的産業に根ざしながら、同時に十二分に国際的であり得るという、大きな指標が残されたのである。佐賀の若者達はそのオペレイションを逃してはならない。
 日々の食事に、これからも森正洋先生の珠玉の器達を使い、森正洋先生と共に生活できる事は幸せである。佐賀人・森正洋の教えを受けた事も大変な財産である。何とか、それを引き継ぎたいとさえ考える。しかし、今は途方もなく哀しい。
 石山修武

 

渡辺豊和の復活

084 渡辺豊和の復活
 渡辺豊和さんが日曜日の朝世田谷村に訪ねて来られた。豊和さんは今六十七才になっている。多くの歴史上の建築家は七〇才前に生涯の名作を残している。いかに寿命そのものが延びているとは言え、ソロソロ土俵際だ。豊和さんは最後のふんばりの準備をしているように見受けた。
 聞けば、ここ十年程建築を建てていないとの事である。何故だかは聞かなかった。尋ねても仕方ない事だから。豊和さんは変わらなくているから、時代が彼を斜視しているのだろう。それにしても十年の空白は長い。異様である。その異様さが、しかし、いかにも渡辺豊和風でもある。空白そのものに意味があるようにさえ思ってしまう。

 毛綱モン太が居なくなってから、豊和さんは完全に孤立してしまった。彼等が目指そうとした建築スタイルはバウハウス発の西欧モダニズムのそれとは少し計り異なっていた。何処が違っていたかと言えば、彼等の建築にはイスラム風のドームが多用されていた。そのドームはパラディオのものでもなく、ブルネレスキのものでも無かった。又、アメリカンモダニズムのB・フラーのドームでもなかった。彼等のドームは明らかにイスラムのものだった。
 毛綱は博覧強記の男だったからルネッサンスの人間復興の気運に精通していた。しかし、彼の造形はそれからは外れているところに本質があった。彼は根深くバナキュラーな造形物への関心があった。師であった向井正也の影響もあったのだろう。

 渡辺のドームのもとはイスラムだろう。イスラム建築の数学的特質、幾何学の精緻さからは遠いが、ヨーロッパ近代にあき足らない気持ちの強さが、意識の内外で、より遠いヨーロッパの外へ、砂漠の国のスタイルへと向かわせたのである。

 今いるところにあき足らない、我まん出来ない。その性向が二人の造形を強く異風なものへと仕立て上げた。特に渡辺は後年、ムー大陸やらの神秘主義的世界へ傾倒した時期があったが、それもそんな、イマにあき足りない性向が強過ぎるからだ。
 渡辺の怪著の一つに「縄文夢通信」がある。土グモ族なる縄文族の存在に焦点を当てた古代史ミステリーである。ホントかよ豊和さんとつぶやいてもしまう物語だが、終わり近くに述べられているイメージは素晴らしかった。うろ憶えを要約する。
 土グモ族は大型の土塁建築をつくる。巨石文化も持っていた。日本列島に広範に拡がる同族のネットワークを作り上げていた。彼等は小高い山や丘の上にピラミッドを築いた。ピラミッドは王の墓では無かった。情報通信網の為の装置だった。
 土グモ族は遠い場所の同族への通信にピラミッドを使った。古代中国のノロシ台、塔のように使った。ピラミッド状の構築物で火を焚き、それをピラミッドに反射させて光通信を送った。そのネットワークは精密に構築されていた、と言うのだ。
 渡辺は一時期、三角形に整った山を見ると、アレは古代のピラミッドであると自信を持って言明し、とうとうと言い張り、旅のつれづれの友人達を悩ませた。私だって、渡辺の妄想に過ぎぬと考えていた。しかし、そう思い込んだ渡辺の想像力は素晴らしいと思った。その想像世界自体に現実とは分離した価値がある。
 渡辺を単なる妄想かであると考えている、普通の多くの俗人に、それを言うのは面倒臭いので黙っていた。
 渡辺の想像力の世界は、彼の手になる現実の建築世界よりも、余程見事な世界なのだ。

 豊和さんは十年間現実界に建築物を建てなかった。現実社会が彼の、建築家の想像力をうとましく考え、しかも恐れたからである。渡辺さんは縄文夢通信で光の、情報の空間構築を予見していたのである。そして、二〇〇一年9・11テロ以降の世界の現実、すなわちアメリカ資本の帝国主義的世界観とイスラム世界の対立をも予見していた。だからこそ、渡辺は真の異形として社会からの孤立を余儀なくされたのだ。
 そう考えてみると、渡辺建築は現実界への復活の巨大な糸口をつかむ事ができるのである。その糸口に関して、ようやくにして視界が開けてきたので、何かの形で示したいと考えている。
 縄文夢通信のような形式で、重量のない建築の様式を借りて。
 石山修武

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