設計製図のヒント
石山修武
>>>設計製図のヒント 石山修武研究室M1ゼミ  情報時代の建築表現
「待つ力」
加藤詞史/建築家・早稲田大学建築学科助教

わたしたちは「待つ」ことの概念が確実に変化している時代にいる。携帯電話は、待ち合わせのスタイルを変え、コンビニやファーストフードは、生活の中で食の占める割合を変化させた。コンピューターや介護の問題など、数え上げればきりがない。

設計製図は、すぐに見えない答えに立ち向かう。そこにあるものは、数多くの不確定要素と連関する複数の正解、答えは1つではなく、時間が必要とされるものばかりだ。

現代のスピード感を受け入れるとき、無力を感じる局面もある。しかし、決して建築をあきらめない。

あらためて自分の学生時代を振り返ってみると、エスキースで教師から受けた言葉は断片的であり、具体的なデザインやアイディアは、ほとんど記憶に残っていない。受けとったものは、アイディアや言葉ではない何かであったと思う。難しい顔をして学生の拙い図面に向き合っていた師の「雰囲気のようなもの」が強く印象に残っている。

エスキースで交わされた言葉は、「どう使うのか、何が見えるのか、こう進むのか」といったプランに関する断片的な質問と、そこから紡ぎ出される空間のイメージに終始していた。

今になって思い返してみると、学生に空間をイメージさせるとともに、師は自分なりの空間(設計案)をエスキースの場で、つくっていたのだと思う。

若い学生にとって、はっきりと理解できないこの真剣勝負は、あまりにもあっけなく「判ったよ」の一言で終わった。

家に帰り次のエスキースまで、何を「判ったよ」と言われたのか自問することになる。そして、その中から何かを掴み取ろうと努力していた。

数週間後、考えた精一杯を模型に託し、意気揚々と次のエスキースに臨む訳だが、この2度目のエスキースは「君のはいいよ、もう見たから。」の一言であまりにも、あっけなく終わる。

この「いいよ」がまた問題であった。若い学生は「いいよ」が「良いよ」なのか「つまらないからもう見たくない」の意なのかを探ろうとした。その点では昨今の学生とは大差ない。

その場では、この師の持つ緊張感から、すごすごと引き下がるしかなく、後から眼光を思い起こしながら「いいよ」の意を察するしかなかった。

この答えを探る、求めるということに全く意味がないことは、いくら探ってもそれが、自分の答えでないことに気づく提出直前、自分なりの答えに至った時であった。

エスキースの場には、作る人が持つある種の緊張感が横溢していた。そして重要なのは、つくることへの畏怖をこの独特の「雰囲気」をとおして受け取っていたことだと思う。

もう1人、この教師に比べれば、若く一本気な教師が印象に残っている。

この師もまた、作る人であった。彼は多くを語っていたし、熱心で面倒見も良かった。自邸に仲間数人とともに自分を招き、つたない論に付き合ってくれることも一度や二度でなかった。

その言葉は少々空を切っていたように感じられることもあったが、やはりその「雰囲気」から学んだものが重要であったと思う。

そこで、彼は、彼の目の前にはっきりと見えている解を説明し示そうとは、決してしなかった。常に視界に入るか入らないかのギリギリにある問題を、引き寄せて語ろうとしていたように思う。

学生にとってそれは難解ではあったが、物事に取り組む姿勢、態度を受け取っていたように思う。

現代社会が求めるスピード感の中、先の教師たちのように粘り強く「待つ」ことが出来ているだろうか、目の前にある答えや成果を急ぎすぎていないだろうか(これは、学生、教師ともにであるが)。また、かつて受けたつくることへの畏敬の念、雰囲気のようなものを学生へ伝えられているだろうかと自問自答することも多い。

様々な局面で性急に答えが求められる現代、情報を巧みに操作して答えを添わせてくる学生と、それに応えまいとして応えてしまう教師、時代に即応する能力とは別の、助走を長くとる「待つ力」を養う仕組みが必要であろう。

それは、モダニズムが失った「ルイス・カーンの階段」のようなものかもしれない。

ルイス・カーンは「私は始まりを愛する・・・」の中で階段について次のように述べている。

階段にはたくさんの踊り場がつくられなければならない。そしてその踊り場は、真に部屋足らんと志すものでなければならないのである。

踊り場はまったく素晴らしい存在であり、そのおかげで同じひとつの階段が老若を問わぬすべての人にびとに用いられるものとなるのである。

老人が少年と階段を登っていって踊り場に達したとき、そこには窓が、それも出来得れば窓際のベンチが、それに願わくは本棚が用意されるべきである。

かくて階段を登りつつ老人は少年に語りかける。「私はいつもあの本を読みたいと思っていたんだよ。ね、あれだよ」(訳:横山正)

今、登ろうとしている階段は、部屋足りうる踊り場を志したものだろうか、そしてそこには、窓やベンチ、本棚が用意されているだろうか。

言わぬが花かもしれないが、老人は教師であり少年は学生である。

「待つ」ことは、今日的な課題の一つである時間を扱うことにもつながる。

設計製図のヒント早稲田建築3年第四課題公開講評会

この「環境と景観」と題された村松映一氏を中心とした、竹中工務店設計部長五名の先生による課題は、丸ノ内の旧長銀隣、プレスセンター・ビルの在る土地に、世界企業としてのスポーツ用品メーカーの本社ビルを設計せよというものだ。

スーパーゼネコンと呼ばれているゼネコンの設計部ならではの出題である。出題にあたり、村松映一氏より出題主体の竹中工務店とは、という竹中工務店の歴史とアイデンティティに関するレクチャーがあり、又公開講評会に於いても、再ミニレクチャーがあった。

その中で村松氏は竹中工務店を「匠」の歴史の上に論じられた。

私は日本の建築設計の将来を、一、匠として、設計職人として、二、エレガンシーな文化的価値の創出者として、三、文化的総合としての建築デザインとして、四、もう一つの径の建築設計として、の四つの径にしかないと考えている。一、と二は極めて近似しており、一つの枠にくくる事もできる。三、四も同様である。

それ故、学生諸君の設計作品も、その幾つかのグループに分類して講評してみたいと考えた。この考え方は一つの価値観の上に並べて、一番、二番、すぐれている、すぐれていないというこれ迄の評価方法を変えてみたいと考えたからだ。竹中工務店の先生方もいくつかのグループに分けて講評する事には同意された。

第一グループ坂根、小倉、宮沢、渡部を私はエレガンシーを潜在的に求めている群として考えた。

特に、坂根、小倉のものはその傾向が顕著である。

ここで言うエレガンシーとは近未来の傾向、近未来の時代の感性である。又、日本の歴史の通奏底音とでも言うべきものでもある。磯崎新はこれを和様化と呼んだ。歴史的に日本人の得意な才の呼称である。竹中の先生方のクリティークの中に秀逸なものがあった。一見何もしていないような印象がある、シニカルに見える、等の鋭い指摘で、実にこれは又、日本の近代の造形文化の特色であり続けた。

これは決して否定的にとらえてはならぬ性格で、私はそれをエレガンシーとして評価した方が未来があると考える。ただ、これはすぐにとは言わずとも、その事自体を意識しないと、その資質を深化させる事は出来ない。日本の経済力は未来にわたって低成長である。これを適正成長と見極めて、洗練に洗練を重ねる方向である。「匠」のスピリッツでもあろうか。

第二グループ石井、葛野、遠藤、安部、のモノは第一グループとは対比的に、何か、それは結局のところ私的なアイデアを実行しようというモノで、その基盤はスポーツメーカーの本社というのをテーマにしようとしたもので、それ故に当然の事ながら商業性とでも言うべきものが表現されている。この中では石井のモノが健全で面白い。スポーツ→変形トラック→トラックの表現を建築全体の主調にしている。

石井のモノと坂根、小倉のモノを並べて考えるとその性格が歴然と浮かび上がるであろう。安部のモノはロシア構成主義を参照している事を意識できるようになったらもう一つ先に進めるだろう。

第三グループ竹見、及川、高橋のモノは第二グループと同じにくくっても良いが、もう少し保守的な感性のフレームがかかっていてそれ故に、コマーシャルな匂いが少ない。及川のモノは一グループに進んでゆく可能性がある。建築的骨格が直観的にとらえられている。

第四グループ松岡、田村、竹花、五月女、小林、はいずれも冒頭のカテゴライズでは三、四に属する。三の新しい総合というのは松岡がプレゼンテーションで述べた庭園様式に関する考案や、竹花の第三課題の連続的思考上にある。田村の考案は建築の保守性を基盤としているが、それをトレーニングの初期に意識化できれば、進めるのではないか。

最後の小林のモノは私が全作品中最も関心を持ったが、プレゼンテーションに力が不足していた。小林のモノは1グループの小倉、坂根のモノに通ずるモノがある。企業の活動形式を丸ノ内という場所に表現しようという社会モデルが示されている点でとても面白い。エレガンシーへの趣向もあり、良いと考えた。五月女のモノは、これは我執にとらわれたアナクロである。五月女はもう少し他人のアドヴァイス他に耳を傾けて、それを受容するキャパシティーを得なければ、大きな誤りを犯すだけに終わるのではないか。今のところ彼の耳はロバの耳である。

私の文章の師匠である山本夏彦は旅をしない人であった。そしてロバは旅をしてもロバだとの寸言を残した。

総じて、有能な人材は他者の言う事を良く聞く才能を持っている。それを私は東大との合同課題で痛感した。聴く耳を持つ人間には、我々も色々と考えを述べたくなるモノで、それが大学教育の本質だから。教師はその為に存在している。

一月九日の早大建築2年日本女子大住居2年、合同講評会に出席して 2

設計製図教育は建築教育に於いていかなる位置を占めているのか。早稲田建築教室に即して考えれば、それは総合的位置、より現代的に言い直せば分野横断的な意味合いを持つ。歴史、計画、都市計画、構造、環境、材料施工の諸分野全てにまたがる唯一の計画フィールドなのである。

建築学生などのアマチュア世界ではなく実際の建築設計もまさにその歴然たる現場である。デザインは構造、設備、材料、施工を常に総合して、勘案せざるを得ぬ総合の実践の場として出現する。

この厳然たる実際が学生にはうまく理解されていない。グローバリゼーションすなわち近代化=普遍化イコール資本主義社会が求めてきた信仰の中心を成立させているのは、貨幣の交換価値へのあやういと言わざるを得ない信仰だが、その交換の実体は人間の労働の分業化、専門化である。こう記す事は重要な事である。少なく共、学生には考え込んでもらいたい。学生達が、特に一九八〇年頃から今に至る迄に対面し、その潮流の中に生かされているのも、その信仰とよりプラクティカルにはそれを生み出している生の分業、専門分化によっている。

敏感な者も学生達の現実がそうであればそうである程にその傾向を感じ取り、あるいは結局はその分業化によって生を成り立たせているそれぞれの家庭環境から、嗅ぎ取り、その歴史の中へ埋没してゆくのを宿命づけられている。つまり囲い込まれている。

設計製図はおのずからなる総合性、全体性を帯びざるを得ないので、彼等の大半はその意味さえ理解できぬモノとして外部に出現してしまうのである。しかし、建築設計という西欧の史的概念の中枢は圧倒的な「私的全体性」(※鈴木博之・参)への希求として在る。それは、凡夫も、別の次元での学生と同類と思われる都市内常民も含めて、あり得る限りの非分業化、つまり全体性へのヴィジョンとして存在せざるを得ない。

クセで話しが、モノの初源へ戻り始めている。学生諸君、若い教師諸君は、鼻白み始めているだろうから、実際的な話し振りに戻そう。

「日本の建築教育の惨状を想う」とかつて述べた、今巨匠、かつてラディカルであった磯崎新は、ラディカルであった頃の頂期に、「君たちの母を犯し、父を刺せ」と、今考えても物騒な、激しい言を建築ジャーナリズムに吐いていた。

若い世代の建築家が製図教育に参与することの意味はありや
早大建築・非常勤講師、石山修武研究室設計スタッフ渡邊大志

こんな話しがある。早死にした中上健次が早大文学部教授でもあった三田誠広ら数人の作家との対談の中で私小説について述べている。当然中上は現代の私小説の堕落を批判し、私小説にさえなれていない現状を憂うとともに、その責任の一端をその作家が立っている日本の文壇自身に問うている。本来の私小説とは例えば田山花袋の『蒲団』のように、わたくしのアイデアをだらだらと垂れ流すことではない、その因は日本の小説の歴史の浅さとそれを自覚できる文壇、つまりそれを指摘できる批評家の不在によるものではないか、と中上は述べている。(精確ではないかもしれないが、私なりに要約するとこうなる)

それに対して三田は終始、私小説をわたくしの個人的な体験と感性という極めて脆弱な認識でしか捉えておらず、中上が本当に語りかけていることが全く理解できていない。そして中上も三田も私小説という共通の言語を介しているにもかかわらず対談は一切の交差をみせることなく終了する。

最も興味深いのはこの完全なすれ違いを三田はすれ違っていることにすら気付いていない点である。

「僕はいつもまじめに話しているのに、何で君と話すといつも冗談になっちゃうんだろうね」(これも私の意訳である)という一言で中上はそういう三田を切り捨てている。

三田のすれ違っていることにすら気付かない感覚こそが、消費の平板さが生んだ産物であり、最大の問題である。そして三田は、早稲田建築で言えば、作家にして製図教師でもある私に近い形式の存在でもある。自戒し、用心しなくてはならない。何時、中上のような本物の抜身の刀に切り捨てられるかわからない。

私はものを作りたいと思う最も若い世代に属する。若いというのは、客観的にみれば本格的なことをまだ何もなしていないということでもあろう。つまり私も今の学生と同様に戦後日本に刷り込まれたアメリカ型消費社会の申し子の枠内にいる。それは1960年代以降顕著になる。私が生まれ育った時代の経過は、大量生産・消費社会が加速度を増しながら日本に浸透していった経過そのものであった。モノは考え作るものではなく買うモノであった。つまり差し出すモノではなく受け取るモノであった。そしてそれらはすべからく大量生産されているものであった。そうして身の廻りの豊かさらしきを満たしてきた。物質的豊かさがそのまま人生の勝者、すなわち江藤淳の言う、得をする者としての人間であった。それが消費社会の申し子の内実である。

コンピュータが開発され、パソコンが各家庭に流布され切ったのは私の中学・高校時代である。それから15年あまりで、あらゆるものをクリック一つで手に入れることができる時代にまでなった。もう今の学生たちは、パソコンがあることが前提の時代に育った世代である。

こうした常に消費することの豊かさらしきが、ものを永遠に大量生産し補給し続けることによって維持されている構造に私自身も意識的になれたのは極く極く最近のことである。それは例えば毎日出すゴミの量が変わらず、あるいは増えて続けることに気がついただけのことであったが、それまでそれらがどこから来たのかを考える想像力に欠けていた。

私はこの三年間、学部三年生の早大・東大合同課題に携わってきた。そこで思い知らされたのは、現代の閉塞感を拭い去る具体性を示せない教師の力量が学生たちの設計に対する情熱を奪う一端を担ってしまっていることであり、そして学生達の成果には教師の力量がそのまま反映されてくることであった。教師とは当然私のことである。それを三年目の今年、痛切に感じた。

学生たちがエスキスに出してくるものは確かにどれも本格的な思考の兆しが見えないという点で均質であり、消費的傾向であるという意味で私の学生時代よりもテクニシャンな者もいた。驚いたことに、二年前に目にした二年生の製図パネル60人分が貼られた教室の壁一面が、表参道のファッションビルの並ぶ風景と酷似していた。プレゼンのテクニックと思い付きのアイデアを完全に設計と勘違いしていたのである。わたくしのアイデアを垂れ流し、それを消費的傾向というパッケージで包む。教室はそういうもので溢れていた。

早稲田ではプレゼンのテクニックは既に二年生の製図時には先輩から体得しており、三年生でそのテクニックに塗れたプレゼンや模型を疑ってみた形跡は見当たらなかった。すると彼らは二年生から三年生の一年間伸びていないのだ。程々にやれば傷つかないことが本能的に刷り込まれ、彼らの手は自動的にアメリカ型消費社会によって動かされていた。

学生からは何も出て来ない。教師はこのようなときにどのような言葉をかけるべきか、正直三年間で一番とまどった。実際私はそれほど製図が出来ないであろう学生に対して毒にも薬にもならぬ抽象的なアドバイスをする愚を犯した。それは私自身の問題である。

今の学生の心象風景、少なくともその潮流のメインストリームはスーパーフラットと呼ばれた一時期の傾向に端を発していると思われる。スーパーフラットとは、要約すればコンピュータの画面のことである。奥行きの無い、焦点を結ぶ事の無く、だらだらと垂れ流す日常へ突入したのはこの時期からである。日本画的世界と言えば聞こえは良いが、それは時代の潮流であって創造ではなかった。つまり消費の平板さの産物を特異なことかのように見せる一種のパフォーマンスでしかなかったように思われて仕方が無い。

村上隆や村上春樹といった、何億円、何百万部も売り上げる作家を生んだ根は同じところに潜んでいる。つまり、彼らはマーケットがマーケットの都合で作り出した機能的商品である。

それを象徴するのが出版社による村上春樹の新刊本の販売戦略であった。村上春樹の最新作である『1Q84』は発売前に初版は売り切れ、すでに増刷されている。記憶によれば書店に並んだときには第三刷まで刷られていた。そして発売と同時に何百万部突破という広告が打たれる。

村上春樹の小説には何も書かれていない。読んだところで何の参考にもならないし、何かの役に立つことはない。しかしその読者層、それが世界中の中・高・大学生を中心とした若い世代であるのだが、は始めからそのようなことは村上に期待していない。彼等は何も書かれていないことを承知で村上春樹世界を楽しんでいる。その世界は実は自分達の日常でしかないのだが、こうしてスーパーフラットは戦後資本主義に根を下ろし易く加工された。そして本家アメリカ消費社会の申し子であるマイケル・ムーアに映画『キャピタリズム』の中で銀座大通りを資本主義のディズニーランドと揶揄までされ、村上春樹も隆もそこに機能的商品として陳列されているのが現在である。

空虚である、何も成さないことに溺れたい。それの何が悪い、何の為に頑張らねばならぬのか、というのが現代の若者の消費的感性の本音であろう。製図とは、三田の言う側のわたくしのアイデアの垂れ流しとしての私小説であるという曲解と、それが何に対してすれ違っているものであるかすら知り得ない初歩的素養の欠如である。

それが大学の設計教育の現場にまで侵入してきた。

繰り返すが、私を含む若い教師は抽象的な言葉で着飾っても本質的には学生と変わるものではない。それが年も見識も違う年輩の教師に紛れて大学の製図教育に参与する意味はどこにあるのか。それは消費の平板さに一度は塗れた者だからこそ示すことのできるものがある以外にない。それから完全に自由であり得た者は私の世代以降にはいないのだから。

小林秀雄が蘇我馬子の墓である石舞台古墳を訪れたときのことを書いている。もし日本に来た渡来人が木工職人ではなくて、石工であったら日本は凄まじい石造文化を築いたであろうと。

冒頭で記した中上が言う私小説、当然それは若い教師や学生がわたくしのアイデアを垂れ流すものではない本来のそれとして、小林がもう一つのあったかもしれない未来の存在を感じたことの可能性を私は信じたいと思う。

確かに私はアメリカ型消費社会の恩恵を被り、生まれながらに都市をgoogleで検索するように視る性質を備えている。今の学生もそうであろう。しかし、そういう感性を持った者こそが再び物質への執着へ降下していくことによる可能性もあるのではないか。

私は古典建築を訪れると、よく思うのである。この柱や、床はかつてここにいた歴史上の人物を実見し、彼はこの柱に手をやり、何か重要なことを決断したのだろうと。するとたちまち建築は時間を超えて立ち上がるのである。それは小林の言う無私の精神を超えて、元々私のない世代の私性の可能性かもしれないと思うのだ。少なくとも建築家である全ての教師は、己が本気で建てる気が無い前提のアドバイスを学生達にしてはならない。

学生達が製図教育を受け、若い教師が声を掛けるとき、元々建たない物を設計しているのではないという自覚を両者共に持つ製図教育のイメージの必要性を痛感する。

一月九日の早大建築2年日本女子大住居2年、合同講評会に出席して

恐らくは両校合わせて百数十名の学生達、そして教師達の膨大なエネルギーがかけられたであろう製図を眺め、学生達のプレゼンテーションを聞きながら、いささか考えさせられた。

印象を総合的に、しかも単なる印象批評ではないように端的に要約すれば、「教師も学生も共に漂流して霧の中に居る」。勿論私も。

私の知る限りでは日本の設計教育そのものを初めて正面から批判したのは磯崎新である。

「日本の設計教育の惨状を想う」1975年。新建築の住宅設計競技の、これはクリティークとも言うべきであった。日本人若手設計者、及び学生のこのコンペ自体への取り組み方そのものへの批判である。振り返れば、あの批判は製図教育という日本的制度そのものへの批判であった。あの批判を私なりに要約すれば、モダニズムの移入による日本の近代建築の形式そのものを何等、疑う事なくして、追従しているに過ぎない。つまり、裸形の思考の力、コンセプトがない。そのようにフィールドが用意され得ない。そう要約する。磯崎特有の日本土着批判であり、単純な輸入商社としての教育批判でもある。

このコンペは主に建築学生を対象とする、アイデアコンペで、全く実現する見込みもなく、ざっくばらんに言えば設計製図の競技であった。一商業ジャーナリズム主催の商業的催事でもあり、むしろ、それに隠れて学会、あるいは設計製図の現場を担う教師からのキチンとした反論はなかった。無視の体を装ったのである。意図的な無視は最大の関心であるのは社会の通り相場である。

憶測するに、多くの設計教育者が無関心の仮面の裏で深く反応したのである。当時の磯崎は自他共に許すラディカルであったから、当時としては当然な批判であった。自らの建築的思考の形式を踏まえてのそれは実践論であった。

この日本の設計教育批判は、しかし、その後、今にいたる迄、ジワリ、ジワリと設計製図教育の現場に影響を与え続けた。

設計製図にコンセプト、つまり思考する能力を若い教師が求めるようになった。磯崎がそれを言うのはむしろ自然であるが、それを、つまり深く思考する事を良く肉体化しない大半の教師が、それを真似して浅くなぞるという事態が多くの教育の現場でおきたのであった。特に教師・学生共に知的向上心がまだ大きい大学にその現象が起きた。

早稲田建築、日本女子大住居もその一つであったろう。

時代は動く。一九八〇年代、九〇年代、二〇〇〇年に入ってのここ 10 年、建築は動かず、自閉した。設計製図教育も当事者が無意識のうちに自閉して、自動回転を当然繰り返す。思い付きに過ぎぬ考えと、右へ習えの自動再生産的デザインが結びついた平板極る、設計製図の風景が出現して、今に連続した。

昨日の発表会、講評会はその典型である。

磯崎新の日本の設計教育批判は、ゆっくりと中和され、初歩とも言えぬ、思い付きコンセプト(アイデア)と多様性の兆も視えぬ、消費的デザイン、ファッションにまみれたのである。

ないものねだりは、当事者としての私には許されない。具体的にどのようにしてゆけば良いのかを考えたい。何とか少し提案ともしたい。

一、デザイン・設計を本当に好きな人材、すなわち個別な才質を持つ人間を発見する方法に自覚的になる。二年生はこれにつきる。これは教師の責任である。

二、大半の、繰り返しデザインに安住したい、つまり均質になることを欲する学生には、近代建築様式を繰り返し模倣させる。一種のデザイン職人を養成する軸を設ける。一、と二、は別世界であり、半端にごちゃまぜにしない。これも立派な道である。繰り返しは、繰り返しの経験的美を産み得る。

三、教師にも向き、不向きがある。個別への志向も才質も無い人間が、それを発見する事はもともと不可能であるから、中途半端な指導をいましめる。磯崎のいうような事を体現し得る教師は実に少数である。又、多かったら本来の意味がない。単純に言えば、発見型の小グループと繰り返し型の多数グループとに、分けた方が良い。昨日視た初歩的製図らしきは、何と半年間の長時間をかけている。初めの二ヶ月くらいは才質の見極め期間とした方が良ろしいのではないか。2年生の半年位は、早稲田の場合は設計実習のカリキュラムがあるので、その成果を参考にすればそれは不可能な事ではない。鉄は熱いうちに打てだ。スポーツ選手と同様に。

四、一般教養の広さ、深さの必要を説く。これは一、二、のコース共に必然である。担当教師にもそれを旨とするレクチャーを課す。

十二月二〇日 2

理念はともかく、一時さて置こう。それで、とにかくは十二月十八日の中間講評会となった。ちなみにこの第四課題の最終提出は一月十五日である。

私の知見する範囲では竹中工務店設計部の四名+村松氏は実によく準備され、充二分な指導を行って下すった。毎週レクチャーが開催され、その後4テーブルに分かれて綿密な対話、指導が繰り返された。恥ずかしながら、そのエネルギー他は我々専任教員の数層倍とも考えられる。

しかし、中間講評の率直な印象は極めて均質化された、たいくつなモノの発表が大半であった。大変なエネルギーを割いていただいている事への感謝故に、私も必要以上に率直な印象と感想を述べておきたい。

一、Aクラスになるであろう作品が極めて少ない。

二、Bクラスが肥大化しており、それがほど良く充実している。

三、Cクラスからはい上ってきそうな作品がほとんど見当たらない。

設計製図教育であるから習慣的ではあるが成績をつける、採点する必要がある。それでわかりやすくA、B、Cという誰でも解りやすい仕分けをしている。

三年の設計製図は早稲田建築では教師にとっても、学生にとっても重要な意味を持っている。

昔はAクラス、A+クラスの作品を連発する人材は、これは自然に建築家らしきになるのであろうと考えられていた。それでも、その確率は極めて低く、5年に一人、あるいは十年に一人くらいの割合いでスター建築家らしきを早稲田は輩出してきた。大体スター建築家らしきは設計製図が上等だからといってなれる、あるいはなる者ではない。体力気力、商才、機略が必要であり、これはしかも誰も教える事ができない。

私が製図教師になった 20 年昔、一九八〇年代後半の頃は、まだ学生達にもその気風がかろうじて残っていたように思う。しかしアレは余熱であったかも知れない。それで私も、ほとんど年令の同じ同僚の教師もそれを無意識、意識下に於いて踏襲した。

十年程経った、一九九〇年代、直観的にスター建築家はもうあんまり必要ないかも知れぬの空気が時代を通底した。若い世代の停滞もあり、依然としてスターはいってみれば年寄りばかりで、変わり映えもしなかった。建築ジャーナリズムの衰退がそれに輪をかけた。メディアは特に、設計製図の学生達はすでにコンピュータを存分に手にし始めていた。

今世紀になって、その傾向は徹底的に明快になった。学生はあらゆる情報をコンピュータを介して手軽にしかもスピーディに得る現実となった。つまり、学生自体の脳内風景が極めてユニヴァーサルで均質なモノで埋まり始めたのである。近代化=普遍化=グローバリズムの歴史が不動のモノになったとも言える。

その歴史、そして現実を認識したからこそ、我々教師も又、スーパーゼネコン、設計部のエキスパート達にそのユニヴァーサリズム、グローバリズムの現実を学生達に身をもって示し、伝えていただきたいとも考えたのである。我々のグローバリズムは観念的なもので、スーパーゼネコン設計部エキスパートの方々のそれはまさに現実そのものだと考えたのである。

そして、設計教育は予想通りに、なされ、予想以上の成果を挙げたのである。

皆、ほとんど同じになった。ユニヴァーサル初歩傾向というべきになった。つまり、それが、二、Bクラスが肥大化して、しかもそれが充実している、途中経過になったのである。必然的に、一のAが見当たらない、Cというドロップアウト枠外者も少ないという現象になった。

つまり、教師陣は最良の教育を施したのだ。ユニヴァーサル空間を求めて止まぬ経済戦線の最前衛に立つ身なのだから。

しかし、それが端的に出過ぎている事も確かである。アッという間に皆同じになった。これは現在の建築設計業界の傾向と余りにも酷似し過ぎている。

それが中間発表で歴然として浮上したのである。人間は不思議な者で、事実に身近に対面して、そして触れてみなければ、事実を現実として認められない。私だって、そうなるだろうとは観念的、抽象的に予想し得ていたのだが、それが現実となるとやはりうろたえるのであった。

つづく

十二月二〇日 1

早稲田建築学科三年生の第四課題の出題と指導を、スーパーゼネコン5社設計部の設計本部長クラスの方々の手にゆだねようと決めた。教室会議にも報告し了解を得た。

この試みの初年度、今年は竹中工務店設計部の4名の部長、マネージャー各氏と最高顧問前副社長村松映一氏が5名態勢で取り組んで下さる事になった。

何故竹中工務店設計部からの始まりとなったか、それは明快な理由で現稲門建築会会長が村松映一氏であり、部厚いOB会の理解と支援が得られる事を望んだからである。次年からのローテーションは稲門建築会主導で決められる事も大方は理解されている。

又、何故、社会人の組織的活動のエキスパートであるのなら、組織事務所内のOB人材にゆだねたらという考えもあるのだが、これは熟考の末に退けた。現設計製図教育の実質的な担当者である専任教員の資質、設計方法と大きな開きがないと判断したからだ。

設計、施工を組織として有機的に実感している人間が、現設計製図担当教員に無い、あるいは不充分であるやも知れぬ視点から設計製図教育を見る必要について、その可能性について考えたからである。

私はかつて「現代の職人」晶文社の中で、建築家安藤忠雄を現代の大棟梁として考える視点を提出した。それ故に彼は国民的ヒーローになり得たと。早急な議論を敢えてするが、建築家、近代建築、設計教育というモデルは全て西欧ヨーロッパからの直輸入のものであった。大学校というモデルもそうなのだから、仕方の無い様々は確かにあった。しかし今や、それは可能性のキャパシティーに達し限界状態になった。

民主党による政権交代自体が、大きくとらえればそんな枠組みの中でとらえ得るのである。実際現政権は明治維新以来の革命だと広言もしているが、それはさておく。

設計施工を体現していたのは江戸末までの大工棟梁であり、棟梁の中のマネージメント能力の大なる者が様々な意匠の中でゼネコンを興したのである。つまり、その始源は極めて日本的なモデルであった。建築家はヨーロッパからの直輸入モデルであり、早稲田建築設計教育モデルもそうだった。

建設業界、設計業界の今の深刻な不況は、実は極めて構造的なものである。現政権の「コンクリートから人へ」というスローガンの内実はとも角、それは社会全体の歴史的きしみと呼べるものからの声なのだ。

私達が考えた設計製図教育のほんの少し計りの改革らしきは、昔の産学協同の考えに基づくものばかりではない。より広く、深く建築、建築家、それを目指してきた設計製図教育を文化的水準に、あるいはわずかなりとも文明論的水準へと本格的に接近させなくてはと考えたからに他ならない。

試行の最中のこの課題、竹中工務店設計部による「丸の内に建つ、世界企業であるスポーツビジネス会社の本社ビル」の出題に際し、村松映一氏は竹中工務店の所在のアイデンティティーは匠の精神であると明言された。この言明は私共が考えようとしている事と重なり合うのである。

設計製図のヒント 石山修武研究室M1ゼミ  情報時代の建築表現
設計製図のヒント 4 東大・早大共同設計製図課題 '09
設計製図のヒント 3 東北大学建築学科四年石山スタジオ '09
設計製図のヒント 2 難波和彦さんとの討論
設計製図のヒント 1 東大・早大共同設計製図課題 '08
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