新 制作ノート 石山修武の断片志向
石山修武研究室

2009年9月14日、夕方、新大久保近江屋にて

「今日は全体のページの構成と雑談と呼んでいたこのページの機能について話しましょうか」

「最初に言っていた雑談とは何なのか、ということですね」

「そう。現在サイトの項目が六項目くらいある。それらを一通り読み流していて、何故かに明快な答えは出る筈もないんだけれど、一番望ましくないのは全体が暇つぶしみたいに受け取られること。

今、全ての項目を書くのに大体一時間半から二時間くらいかかっている。頭が一番働く朝の時間を割いて書いていて、ウィークデーは日記のみ書いている。でもね、その日記が最近は三十分で納まらなくなっていて、四十分くらいかかる。それだけの時間を一番良い時間の中から割いているわけ。一日十六時間くらい起きているとして、結構良い時間を割いている。必然的に自分としても何のためにやっているのか、というのは大事な問題なんだよね。

それで、先日親しい友人からそのことについて指摘があった。『何故、雑談というページが出てきたの?』ってね。以前日記に白足袋の話しを書いた時には反応してくれていた。でも雑談のページはそうではなかったということだと思う。まあ、S教授は懐疑的ですね。ということは、全体が雑談になっているのかを自己点検しなければならない。彼のような頭の明晰な人は軸というか、構造がはっきりしていないと受け付けない。彼は四〜五年前くらいに今年の三冊というちくま書房の今年の回顧というアンケートで世田谷村日記のことを書いてくれていて、ウェブサイトが出版に即している可能性があると書いていたのはキチンと覚えていますよ。まずはこの雑談のページの機能とは何なのかということから始めようか。機能というのは、実利ね。僕にとっては自分の観念に筋道をつけていくことが今のところの実利で、でもそれはお金にならない。絶版交信は絶版書房の宣伝のつもりでやっていて、遠回しに『買って!』と言っている。あのページから、今度2010年にベイシーで展覧会をやることになったし。そういう具体的な機能があるページとこの雑談がどうやってからむのかということ。コラムには書きたいこと、好きなことを書いている。

君はどう思うの?」

「僕は、『雑談とはこうです』とは言わないつもりでいました。つまり解釈しない」

「それでも親しい友人に聞かれたから、君の言うように単純に言うべくもないが、言うべきだろう。今の石山研のページにとっての課題は読者の層を広げていくということでしょう。分かり易く言えば、もっと若い人達、高校生や学部生も読める部分を作る。我々の建築のクライアントでも各役所の人以外は読んでいないですよ。K社長は読んでいるけど、T社長は読んでいない。お寺とか農園を頼んでみようかという人は読んでいないんですね。今日、ヒット数の数字を見ましたけれど、システムを変えるとそれが数字に表れるのに大体三ヶ月くらいかかる」

「具体的に絶版書房の読者層を広げることを考えると、現在は三百人くらいまでは買ってもらえるようになっています。それを四百人や千人に広げていくためには建築とは関係のない普通の人にも知ってもらう必要がありますよね」

「部数というのは値段が制限するからね。二千円以上の本は今の時代は仲々売れませんよ。絶版書房の手作り本を二千五百円で売るというのは時代に逆行している。だから一つ一つにドローイングを描いているわけだから。グローバリゼーションというのは千五百円でどれくらいのものを作れるのかということです。二千五百円の自家製本は五百人が限度であることは分かっている。

今はipodとか、今日のGAのインタビューでもビデオで撮っていましたよね。コンピュータを中心とした世界で雑談を活字にすることが有り得るのかという疑問が生じる。雑談と言うスタイルの中でどれだけキチンとしたことをしゃべれるのかということになると、しゃべったことがそのまま活字にできる人は少ないよ」

「活字じゃないというのは、消えていく、つまり残さないことを前提にするということでしょうか?」

「雑談の機能を考えなくてはならないということは確かだね。雑誌の時代には六誌くらいがあった。建築、建築施工、建築文化など、雑誌が建築家を育てたし、六誌あれば一誌くらいには拾われた。若い人や二世ではない人にも出ていく芽があった。それが今は無い。

黒川紀章の利休ねずみ(※1)以前に可能性をみる若者が出てきたのは、そういったこともあるだろうね。僕の一つ下の世代に当たる五十代の建築家は銭もうけ、ビジネスの世代でしょう」

「雑談の機能となると、先ずはタイトルを変えるべきではないでしょうか?タイトルを変えれば、自ずと雑談ではないスタイルになるのではないでしょうか?」

「今日の君の結論としては、タイトルを変えれば良いということね。気まぐれコラムも本当のコラムにしようかな。若い人にはおもねない、でもちょっと複雑におもねる。(笑)こないだN教授に『石山さんは小説派だから古いんだね』と言われたことは忘れていないからね。彼は映画とかそういうのが新しいということなんだろうけどね。趣味趣向が古いと言われたらその人間は死んでしまう」

「開口健が昔、『食卓は笑う』だったと記憶していますが、そういう本を書いていましたよね。ああいう感じはどうなんでしょうか?」

「開口健は今はだめでしょう。(笑)君がこないだ僕に聞いてきた『石川淳と中上健次の位置づけはどうなんでしょうか?』という質問は非常に良い質問だったね。僕もこないだ『六道遊行』を読み返してみたけれど、何のためにこれを書いたのかと聞きたくなるよ。狂風記とかね。

さて、タイトルはどうしましょうか?」

「『目障りデザイン』なんて慧眼ですよね」

「『室内』は山本夏彦さんがほとんど全部決めていた。『お話したいことがある』とかはどう?あるいは『そばとワイン』とか?」

「それこそ開口健じゃないですか?」

「そりゃそうだ。(笑)では、『石山修武の断片志向』にしましょう。気まぐれコラムというのも変えよう。日本はある時期まで長編にコンプレックスがあった。源氏物語みたいにデレデレと同じことを書いていくことしかできなかった。日本人にドストエフスキーは書けない。それで長編待望論というのがあったんだよ。それができないということになって、短編思考の究極の形でコラムということになったわけだ。コラムでは朝日新聞の『天声人語』が一時期の金字塔でしょう?でもあれは書き手が違ってきた。今は毎日新聞の『余録』の方が上だろう。日経や他の新聞はコラムを書ける人材すらいない状態だね。金子兜太さんのような近代俳句の先駆者でも定型短詩に対する不安はあるでしょう。五・七・五、エピグラムへの不安。芭蕉は漢文思考だから不安だったろう。

まあ、そういった色々なことを踏まえてコラムは『確信犯的コラム』ということにしましょうか」

※1  利休ねずみ考

1970年代後半に黒川紀章が提出した論考。大阪万博を経てまだ若かった黒川紀章が時代の寵児になりかけていた頃の論文である。利休ねずみと呼ばれる独特の色を介して、その背景に西洋建築とは違う構造をみようとした画期的な論であった。一般に建築という概念は西洋から輸入されたものであると考えられているが、日本にも近代建築とは異なる建築あるいは立体概念があり、合理主義とは異なる構造を有していたことを考えようとした先駆的なものであったと言える。千利休、菱川師宣から始まってソンタグのキャンプにまで至る平面と立体を巡る言説は、やや荒々しいながら立体としての建築とはなんであろうか、と考えようとしていた。

メタボリストと近代建築史において現在位置づけられている黒川が世界に輸出した概念が他にもあったのではないか、という視点が現在の若い世代の一部の黒川支持にあるのではないだろうか。

2009年9月10日、夜、新宿台湾料理味王にて

「では、今日もインタビューやりましょうか。今日は何についてやりますか?」と、石山。

「2019年の世田谷村とか、将来のライフスタイルについてはどうでしょうか?」

「ライフスタイルね。若いときは山だったけれど、前にも話したように登山というのは冬の一番厳しい時に登るものなんだ。だからキチンと防寒して、足をくるんでしまわないと死んでしまう。四百メートルのビルを登る人がこないだニュースになっていたでしょ。彼は非常に軽装備で、短パンで登っていた。でも、あれは木下サーカスみたいなものだよ。人工物であるオフィスビルを登るのは大して難しくない。同じ事をひたすら繰り返しさえすれば良いのだから。山はそうはいかない」

「あれはエンターテイメントということでしょうか?」

「あれが新しいエンターテイメントなのか、あるいは僕が古いのかはよくわかりませんけどね」

「最近、ホームページにやたらと農園が出てきますが、石山さんは農園が好きなんですか?」

「今やっている菜園は、農業ごっこだと思いますけど、ずいぶん昔からやりたかったんだとは思いますね。僕は原っぱ好みだから。昔から雑草が生えて風がそよいでいる場所は好きだった」

「それは育った環境によるのですか?」

「人間の好みや趣味・趣向、センスはいつから形成されるのか、という疑問は興味深い問題だけど、たぶん少年期の影響もあるだろうと思いますね。創作というのは全部経験だと思う。つまり、資質ではない。これは大事なところね。

世田谷村が一応完成したときに、二川幸夫さんと伊東豊雄さんが来たときに面白いやり取りをした。世田谷村の屋上は当時雑然とした畑でね、伊東さんは『もう少しキチンとした方が良い、例えば芝生を植えるとか』っていう感想を述べた。二川さんは『お前、これが地だな』って言ったんだな。僕は芝生より雑草の方が好きなの。何故かっていうのではない。芝生は土の養分を吸い取るし、雑草が生えないくらい芝生は強い。それはね、こういう事なんだ。

『ゴルフ場はいけない』というのは当たっているところがある。ゴルフ場は生態系としたら絶対に良くない。よく建築のランドスケープというと芝をやるでしょう。あれは僕はほぼ絶対にやらないと思う。芝生できれいにするよりも、雑草の調整力に委ねる方が良いのではないかと直観がありますね」

「今の話しは水の神殿との関係もありますか?」

「水の神殿はね、何度も言うけれど小さ過ぎた。庭園ではイサムノグチのイサム家(※1)がやっぱり一番すごいと思う。芝生と竹やぶとか、小川、枯山水までが全部入り交じっている。北海道のイサムのモエレ沼公園は、実物はまだ見ていないけれど、イサム家の方が良いと思うね」

「それは時代ですか?」

「良いというのは、時代というのがあると思いますね。庭でも建築でもその時代と関連があるね、絶対に。ベンヤミンのアウラとか、アポリネールのグウ、中島美幸が『時代は廻る』とか言うようにね。(笑)僕と渡邊君の時代はやっぱりずれている。若い世代に真理があるのが近代だった。もし近代以降というのがあるとすれば、それだけではないだろうということかな。

ヨーロッパからアメリカに亡命したメイ・サートンは知っている?」

「いえ、知りません」

「女性ですけどね、彼女は『庭園は五十歳を超えないとできないし、わからない』と言っていた。区民農園の平均年齢は七十歳くらいだからね。僕が区民農園に行くと若いんだから。(笑)三十代くらいの本当に若い人も何人かいるけど、若い人は確かに風景から浮いているね。『お若いの、ちょっと早いよ。』って(笑)」

「若い人が浮いてしまうのは何故でしょうか?」

「僕が一番仲が良いのは八十四歳のおじいちゃんなんだけれどね、三メートル×五メートルの菜園をいじっている姿なんか、すごくかっこいい。地面と野菜と一体になっていて何の衒いもないんだな。そのおじいちゃんに『なんでこんなことやっているのですか?』って聞いてみると、『仲の良い友達が五人いて、彼等はみんな特攻隊で死んじゃった。』とか、ごっつい答えがゴロッと出てくる。

それで、庭についてだけど、野菜を作るのと庭とはちょっと違うと思う。例えば、君は断片志向04でワンダーフォーゲルに注釈を付けていたね。僕は尾根歩きが嫌だった。思い荷物を背負っての水平移動をするには体力が無かった。それで岩登りの方へ行った。それって庭園づくりに似ていると思わないかい?」

「どういうことでしょうか?」

「ワンダーフォーゲルをずっと好きな人と岩登りを好きな人は違う。若い頃は岩登りの方がワンダーフォーゲルより上だと思っていた。でも今は、ただただ別世界なのだと思う。125区画の区民農園の人達はみんなすごい。色々な独自の工夫をやっていて、お金がかかっている。どこかから無農薬野菜を買ってきた方が手間もかからないし、はるかに安い、なんてことが起きている。それでは、なんでやるのだろうか?結局、それは面白いから。朝六時から自分の体に蚊取り線香をぶらさげている変な風景は、岩登りとかそういうものと何か似ている変な世界じゃないかい?渡邊君は逆にどういうことが面白いの?」

「まだ僕は野菜とか実物よりも抽象的なものへの興味の方が強いのだと思います。雅楽や竜笛の趣味もその辺りから来ているのかなと。実物は抽象的なものに付いてくると思っている節があるかもしれません」

「立原道造(※2)なんかを今読むと、やっぱり幼いと思うな。かれは抽象好みのヒーローでしょう?」

「石山さんは農園をやっているときに、畑や野菜と会話しているとか、岩登りをしているときに山とコミュニケーションしているといった感覚はあるのですか?」

「山とコミュニケーションなんていうのは全く無かったね」

「では、山登りをしているときはどういうことを考えているのですか?」

「登っているときは怖いだけだね。あとは、自分の資質が良く解る。なんでこんなことやっているのかとは一切考えないね」

「それは、以前話していただいた危険なトップを誰もがやりたがるというのと同じ真理でしょうか?」

「その通りだね。トップを登る人は、何メートル落ちたら死ぬから、と考えてハーケンを打っていく。つまり、デザインしていく。ラストはそれを支える。山登りで激しい事を達成出来ないチームというのは、このトップとラストが明解に分化されていない。つまり、トップとラストが入れ替わったりする。みんなトップをやりたいからね。

あの情熱は一体なんだったのかというと、それはヒロイズムではない。ロックバンドがライブハウスで演奏するのではないから、有能な人程誰にもしゃべらない。こないだあの山に登ってきたよ、なんて絶対言わない。(笑)そして、誰も見ていない。でも、あの不思議な情熱だけはなつかしい。

、、、これは、渡邊的に強引に結びつけようとし過ぎているね」

(爆笑)

誰も評価しない、夢中になってやっている情熱のもとは何なのか。好奇心じゃないし、ヒロイズムでもない」

「石山さんは宮沢賢治の『農民芸術論』に対しての是非はどうなんでしょうか?肯定的なのですか?」

「結城さんと農園のプロジェクト(※3)をやろうと言ったとき、農民芸術論だけは出すのを止めようと話した。政権は民主党になったし、芸術って言ったらもうダメなんだな。君もそういうことをサッとわかるようにならなきゃね。(笑)芸術と言うよりも小林秀雄の言う実行家でしょう。芸術ではなくて、それを無目的な実行、つまり報酬が無い実行と呼ぶ。マルローの『何故山に登るのか、そこに山があるからだ』なんていうのは、何言ってやがんだよ!って感じ。(笑)

例えば、政治家って何のために政治をやっているのか?功名心か?」

「権力欲とかもあるでしょうね」

「岩登りとかももしかしたら権力欲かもね。より高いところにっていうね。それを人が見ているか、そうではないかというだけの話しでね」

「なるほど」

「小林秀雄の実行家というのは、実際菊池寛の事だよ。菊池寛は文学者達を食わせた。文藝春秋を作って、芥川賞も作った。

先日、石山研OBでK建設のM君が来たよね。彼は現場監督なわけだけど、現場監督というのは経済性と合理性を追求していく。僕はもう有能な現場監督と無能な現場監督くらいはすぐにわかる。多くの現場監督は、まだ実行家にまで至っていない。アトリエ海の佐々木さんなんかは、実行家。その差異はなんだろうか?

それは、単純な組織にとっての利益とは違う価値観を持っているということ。他人が設計したものでも、何かを達成していく、つまり実行していくことに喜びを感じる人のこと。それは他人が立てたプランでも構わないんだね。何しろ、実行していく。鬼沼の現場で佐々木さんにもインタビューしてみたら、良いよ。答えないだろうけど。(笑)」

「職人さんも他人が設計したものを作り上げるのに喜びを感じていると思いますが、職人さんは実行家ではないのですか?」

「職人さんはもっと純粋な人達。実行家はもっと複雑な人なんだよ。

今日のインタビューはまとまらなかったな。でも失敗した雑談も良いかもしれない」

「失敗したものにも構造はあるとの考えですね」

「例えば、『メクネスで見た日時計(※4)とインドの寺院と韓国の河回村の何に一番惹かれるか?』という質問に対して、次の三つの答え方がある。

1、みな同じように惹かれます

2、序列をつけて答える

3、そういう質問自体がよく理解できません

『どれが一番惹かれているか?』という質問の構造は、1に近い。その場合、その外の世界にはどういう差異があるのか、という問題を考えなければならない。そうすると、世界はどんどんわからなくなっていく。そして経験を積むほどわからなくなっていくはずでしょう。すると、わからないと答えるのが正解か、それとも2で答えるのが正解か。好み、趣向、美学とか、物を作ることの原点に関わってくる。僕は、あるときはインド、あるときは韓国と答えるかも知れない。でも、区民農園でメクネスを思い浮かべはしないな」

「趣味、趣向というのはものすごい問題ですね」

「少しは伝わったようだね」

※1  イサム家

香川県牟礼町にあるイサムの住居とその庭園。イサムノグチはアメリカでは日本人とされ、日本ではアメリカ人とされるような、生まれながらのコスモポリタンであらねばならない葛藤を抱いていた人物である。イサム家に置かれるエナジー・ヴォイド(1971)のような作品はそのような彼の内部の屈折の力を表現しているようでもあり、庭園そのものもイサム本人を体験しているようでもある。

フレデリック・キースラーの銀河系計画でキースラーがピカソを扱ったように、イサム家は混血の彫刻家であり、作庭家であるイサムの最も銀河系的な空間であり、これによってイサムはコスモポリタンのデザインという一分野をも確立した。

※2  立原道造(1914〜1936)

若くして夭折した詩人であり、建築家。詩人としては堀辰雄の影響を受ける。抽象性の神髄である美学的世界は詩のみでなく、建築にも向い、岸田日出刀の研究室に属する。一学年後輩である丹下健三は、立原道造が夭折したときに「今、私たち二人が会おうとなって待ち合わせ場所を決めるならば、立原さんは軽井沢で会おうと言い、私は銀座で会おうと言うだろう」と二人の立ち位置の差異を表現する弔文を寄せていることは興味深い。立原はあくまで世俗にまみれぬ堂々たる詩人としての建築家であって、丹下健三は堂々たる建築家であろうとした。閉塞感が蔓延する現代において立原道造の人気があるのは、その辺りのためであろう。

立原道造を脆弱であると読むとすれば、その人物が立原を軽井沢的な人と、自分との相対化の上に把握しようとしているからである。

※3  農園プロジェクト

二十一世紀農村研究会のこと。当時の記録は石山研ホームページ内を参照。この活動は集会としての形式は途絶えているかのようであるが、活動のための素地づくりは進行中であり、石山は形式を変えての再開を模索していると思われる。

※4  メクネスの日時計

モロッコ、メクネスにあるムーレイ・イスマイル廟の日時計のこと。イスラム建築である廟のパティオ状の庭を囲む漆喰壁の一部が凹凸に立体化した日時計として造形されている。日時計の時間は正確ではなく、狂っていた。つまり、この廟をデザインした者は日時計によって時間を把握することよりも、廟に日時計があることに意義を見出していたと考えられる。

偶像を禁止するため、イスラムのモスクは通常は純粋な空のスペースであるが、廟には棺が安置されているため、通常のイスラムモスクとは若干様相が異なる。ここで置かれた日時計の機能は偉大なムスリム王の廟という建築の性格を太陽あるいは宇宙の運行の中で捉えるとき、その運行の観測の中心が廟であるとするための不動のポイントを定めることであったと考えられる。

2009年8月26日、昼過ぎ、新大久保近江屋にて

「日本の場合は大きく分けて穂高派と谷川派にわかれる。

穂高派というのは大学の山岳部が主体になっていて、いわゆるヒマな金持ちね。大島亮吉、慶応の山岳部だけれど、『涸沢の岩屋のある夜のこと』なんていう文を書いたりしてね、なぜ山に登るのかなんて議論していた。ロマンチックな方ね。岩屋でのアマチュアの議論」

「白樺派みたいですね」

「そう、まさに白樺派。(笑)

それで谷川派というのは、夜行日帰りの山なのね。上野駅から夜行電車で出て、次の日に帰ってくる。谷川っていうのは日本で一番難しい山。つまり死ぬ確立が高い。特に一の倉沢は垂直よりも岸壁が手前に倒れているところがある。そこから何百メートルも宙吊りになって死んでいる遺体を、自衛隊がそこまで登って行けないから遺体を射撃して落っことしたこともあった。まあ、ここに登ったら死ぬとわかるくらい陰惨な山なの。谷川派の多くは工員さんだった。上野駅の近くだから。工場から通っていたから、月曜日の朝には工場に戻らなければならないし、工員さん達はお金がない。だからサッと登って帰らなければならない。でも、彼らは志は高かったから難しいコースを行くんだよね。何しろ早く登って、早く帰る。建築で言ったらリバプールのアーキグラムのよう。お金がないから、ハーケンも手作りで、自分の工場で作る。能力が全然違う。大学の山岳部をはるかに超えていた」

「すごいですね。石山さんはどっち派だったんですか?」

「僕の場合は中学から初めて高校三年生から大学がピークだったね。僕のザイルパートナーだった鈴木マサミさんは日本のトップ24位には入っていたな。早稲田の岳人会だった。僕も谷川にいって落ちた経験ありますよ。

次第に社会人からスターが出てくる。古川純一さんとか。ランキングもわかります。どのルートを登れる奴かっていうことね。それで、大学の山岳部はアマチュアになった。槙さんのマナスル山以降、今の主力は社会人でしょう」

「面白いですね」

「この話しは三人(※1)とも面白いって言ったけど、書くのは大変なんだ。(笑)」

「さらに続きを聞かせて下さい」

「例えば、ある時期の八千メートル級の山は国家の威信がかかっていた。チョモランマ(※2)はイギリスのエドモンド・ヒラリーに登頂された。彼はニュージーランドで養蜂をやったりしていて、実はたいした登山家じゃない。

アンナ・プルナはフランス隊によって制覇された。そのとき隊を率いていたのがヘルマン・ブール。モーリス・エルゾーグは凍傷で指をほとんど失ったりしていた。つまり、対イギリス、対ドイツ、という具合に国家の威信を賭けて競っていた」

「アポロ計画みたいですね」

「そう、アポロ計画!今日は君、冴えてるね(笑)。このときはまだ宇宙船なんてなかったから山を競っていた。

ヘルマン・ブールも足の指を失ったりしたけど、最後はブロードピークを一人で登って死んじゃう。超一流の登山家はF1のドライバーと同じだから、一流はみんな死んじゃうわけ。アイルトン・セナは安全速度を天才だから超えていくんだな。セナに対して有名な二流にはジャッキー・スチュアートっていうのがいたでしょ。彼はいつも二番だから、生き残る。登山の世界でも前衛はみんな死んでいる。リオネル・テルーという人がいて、彼は『アルピニスト岸壁に登る』(1959)というドキュメント映画にも出ていた人ですけどね、その映画では垂直の氷壁を彼がどうやって登って行くかというテクニックが撮られていて、彼は登るのが非常に上手かった。彼もまた、その一年後に墜落して死んでいるんだよね。四百メートルの垂直に立っている岸壁なんだから、そりゃ死にますよ。

ガストン・レビュッファには文才があった。彼は詩人であり、アルピニスト。その頃にあった登山映画『真昼の星』で、彼は『登山家は昼に星を見れる人種である』と建築家みたいなことを言う。彼は針のような岸壁を登って行って、その重心移動が美しいんだよ。でも彼は生きる人だろうな。

日本の植村直己は登山家じゃなくて探検家だろうな。日本には山がないからね。岸壁はあるから、最初から登山はバリエーションだった。それはモダンデザインから発生した建築の世界と全く同じでしょう。モダンデザインもヨーロッパから移植されたし、日本の登山もヨーロッパから移植された。日本の場合は、どこの山も登ったら、必ず誰かいたのね。(笑)」

「(笑)なるほど。その表現はわかりやすいですね」

「富士山に登ったら修験者が居たりとかね。僕が八ヶ岳の阿弥陀岳の北壁に登ったときは、冬に登ったんだよね。これは僕が登山を止めようと思ったきっかけの一つなんだけど。僕は難しいところから行く癖があるから、より難しいルートで登って行くわけ。登っているときは、自分では大変な思いをしているという自覚がある。そうして死ぬ思いして登ったら、御座敷いて物売りしているオヤジが居たの。そのオヤジに『お兄ちゃん、何してるの?』って言われた。(笑)それで、必死になって登って、辺りを見回すとハイキングしている人達がぞろぞろいるんだよね。建築のデザインもそういうところがあると思いますよ」

「そうですか。今日話していただいたような事を踏まえて、私のような若い世代にとっての可能性は何かありますか?」

「渡邊君みたいな次世代ね。ヒマラヤは六千メートルの高度がある。これはヨーロッパアルプスより高い。それを登山家は完璧な登山装備で登った。でも、それはヒマラヤでは峠でしかないの。つまり、六千メートルという高さはヒマラヤでは子供がヤクを連れて裸足で越えて行く高さなんだよね。それを完璧な装備をしたヨーロッパの登山家達が横目に、馬鹿という目線で見ていた。僕も登ったときはスニーカーだった。でも足の指先に唐辛子は入れていたかな。チベット人のシェルパと一緒に登った。アジアでは六千メートルは羊飼いの少年少女が裸足で越えて行く高さなんだよ。

この抽象性は良い抽象性。そこにあなたみたいな黄色人種の可能性がある。これは僕の世代では出来ない。次世代の可能性だろうな」

※1  三人

磯崎新、小野次郎、津野海太郎の三氏のこと。雑談01を参照。

※2 チョモランマ

チョモランマはチベット語の発音である。英文名であるエベレストはインドの宗主国であった、イギリスの英国インド測量局長官の名前に因んで付けられたという。チョモランマはそもそも神の山とされ、誰も登ってはいけない禁断の山であった。それを地元の人々がチョモランマと呼んだ。そのような山に対してイギリス人が長官の名前を付けるという愚行とも言える命名をしたことにモダンデザインのヨーロッパ型登山とアジアの登山とは呼ばれない山のある生活の構造的な差異を視ることもできよう。神に対する畏怖を込めてチョモランマと呼ぶことに対して、X-1といったデジタル記号をふる感覚でエベレストと名付ける。命名という事が最大のデザインであり、かつ、極めて構造的な問題を含む事を改めて知る。

2009年8月26日、昼過ぎ、新大久保近江屋にて

「今度は、せっかく山の話しが出ましたから、その話しから始めましょう」

「雑談01では、石山さんは三人の方にしかその話しを本格的にしたことはなかったということでしたね」

「山の話しはね、書くのはすごく大変なんだよね。話すのは大変じゃないから。今のところはすごく難しいところで、よく言われているのは物書きが講演会で金を稼いだら終わりだと。何しろ書くのは大変。時間がかかり過ぎる。君が記録してくれるスピードにビックリしたというのはそういうこと」

「以前、絶版書房交信57〜60に書かれていたのには本田勝一さんの話しなどがありましたね」

「では、本田勝一さんから始めましょうか。あそこで書いていたのは、要するに登山の世界にもジャーナリズムがあるということですね。そして階層もある。『岩と雪』は高度なロッククライミングの世界を書いていた。ロッククライミングは高度な世界なんだよ。登山の世界では、高度=死ぬ確立が高いということね。『山と渓谷』という本もあった。ワンダーフォーゲル(※1)は丘を越えて旅をするといったようなものだったけれど、それは要するに水平の登山。ワンダーフォーゲルはドイツではナチズムとも結びついていた。高度な登山は結局垂直の世界だから、当然日本には存在しないし、スポーツ登山はヨーロッパアルプスから始まったわけ。つまり登山家も建築家もみんなヨーロッパから輸入されたわけだ。君は登山ってしたことあるの?ないでしょ?」

「富士山と駒ヶ岳を登ったくらいですね」

「あれは登山とは言わない。富士山は誰でも登れる。対して、マッターホルンに登れる人はある程度の危険を賭して登る種類の人が登った。日本という場所にはスポーツ登山はないわけ。日本の場合は、始まりは修験道だから。

日本人で初めてヒマラヤの八千メートルクラスのマナスル登山をしたのは、槇有恒さんの隊だった。槇文彦さんの親戚(※2)ね。槇さんは大登山隊を組んで、日本人が初めて八千メートルの山を登ったわけだ。そのとき主体となっていたのは大学の、つまりアマチュアの山岳部。ポーターやシェルパを含めると何百人という大組織だった。それでまずはベースキャンプを組んで、それから第一から第四まで、そしてアタックキャンプと登って行く。それから登頂。つまりこの形式は金がかかる形式だった。それがヒマラヤの八千メートル登山のスタイルだったわけだ。ところが、そこに革命が起きる。

現代になってメスナー(※3)がヒマラヤを一人で登ってしまった。しかも、無酸素で。無酸素というのは酸素ボンベを付けないっていうことね。単独行でやってしまった。つまり組織登山に対して一人の才能のある登山家が登場した。エレベストというのは実はたいした山じゃない。あれくらいは、一人で無酸素で登る山だ、というのがそれ以降の定説になってしまった。

有能なクライマーというのは岸壁を登れる人なんだな」

「石山さんはどういったスタイルをとっていたのですか?」

「僕の場合は沢登りから始めた。沢登りは身軽なんだ。重い荷物を背負うのは嫌だった。それから沢登りというのは登山靴を履かない山登りで、でも非常に危険なもの。僕は中学から始めた。高校のときは図書館でヘルマン・ブールの『8000mの上と下』を毎日読んでいた。ヘルマン・ブールは単独行が好きな人なんだ。岩登りで一人で登るのは大変なことだよ。

普通はロッククライミングは二人チームで登る。トップとラスト。四十メートルのザイルが一番長いザイルだった。想像してみてくれよ。垂直の岸壁で四十メートル落ちたら死にますよ。支点を打って進んで行くから、二人チームであれば落ちてもほどほどで済む。トップという最初に登る人の方がはるかに危険なんだけれど、不思議と誰もがトップをやりたいんだな。どちらがトップを務めるかはかなりシビアな問題で、前の晩にはどちらがトップをやるかを気にし過ぎて口に出せないくらいだった。誰が見ているわけでもないのに、僕も僕のザイルパートナーもいつでもトップをやりたかった。ラストは支えていればいいから、楽なのね」

「なるほど。トップはその名の通り前衛ですね」

「ただし、ヘルマン・ブールは単独登板者だった。渋谷の松濤美術館と同じ字の松濤明(まつなみあきら)は単独行が好きな人だった。でも、最後に一人ではなくって、二人で登って死んだ人だよ。自分より弱い友を庇って死んだんだ。自分より弱い友が凍死して、それを庇って一緒に死んだ。『共に逝く松濤』って遺書を残してね。ロッククライミングは壮絶なドラマでもある、時にはね。そのロッククライミングをベースとした高度な登山に風穴を空けたのがさっき話したメスナー。彼の出現で集団登山はバカらしいということになってしまった。本田勝一はね、世界で一番高い山であるエベレスト(チョモランマ)が登られた時に『登山というスポーツは終わった』と言った。本田は京大山岳部出身で朝日新聞に勤めた人。カナダエスキーの取材やベトウィンのドキュメントを朝日新聞に書き続けた。彼はメスナー以前のクラシックな登山観の持主だった。結局登山家はみんなプライドでやっているから、でも観客はいないんだ。『そこに山があるから登るんだ』なんて、おセンチなことはないよ」

「ますます建築と似ていますね」

「そうかも知れないな」

※1  ワンダーフォーゲル

運動としての野外活動のこと。主として登山が挙げられるが、必ずしも登山のみに留まるものではない。登山を過酷なスポーツと視るか、金持ちの趣味として視るかによってワンダーフォーゲルと登山の境界は大きく揺らぐ。ナチズムと結びついたと一般に言われるのは登山に個人主義を視ようとした当時の社会への反動からであった。水平の登山と呼ぶのは身体運動としての登山よりも社会運動としてのワンダーフォーゲルの隠喩である。

一元的に解釈する愚は犯せないが、ベルリン五輪に代表されるようにナチズムとスポーツの結びつきは深く、一般に言われる国威発揚のためのオリンピックと個人に端を発したワンダーフォーゲルの共通点は煽動には身体的興奮が必要であるというゲッペルスの意図であったと思われる。

※2  槇文彦さんの親戚

槙文彦氏は竹中工務店の大株主である。文彦氏の母方の祖父がその筋に当たる。有恒氏は文彦氏の父方の系列であるが、秩父宮サロンに代表されるビューロクラシー階層の登山を結成した初期の人物である。

※3  ラインホルト・メスナー(1944〜)

詳しい人物像は石山の会話から次第に明らかにされるだろうが、メディアへの露出は他の登山家の追随を許さない。登山をメディア付きで考えようとした初期の登山家であるということもできるだろう。また、メスナーがパドヴァ大学の建築学科を出ていることも興味深い。この辺りの建築と登山の交感は今後次第に明らかにしていきたいところである。

雑談03:2009年8月26日、昼過ぎ、新大久保近江屋にて

「今日は僕から始めましょう」と石山が切り出す。

「まずは25日のページの印象からお互いに話し始めましょうか。率直に言ってどのような印象を持ちましたか?」

「ページをコンピュータで改めて見てみると、ただの内輪の事情の垂れ流しにならないようにしなければいけないなと思いました」

「それは、一番避けなければならないけど、そうとばかりは言えないところがコンピュータメディアにはある。僕はチョット別の印象を持ったな。内容が雑というのではなくて、もうちょっと何とかできないかねというような。それでも、昼頃のインタビューが夕方には原稿になって上がってきていて、二時間くらいだよね。その早さには正直びっくりしましたよ」

「どういう風に進めて行くのか、全体の枠組みは何か考えはありますか?」

「それは次第に示して行けばいいと思うんだけれど、本にはしたいと思っている。つまり、ペーパーメディアね。コンピュータのページの面白いところはどの位の数の人が読んでくれているのかが瞬時にわかるところなんだ。読者の息づかいがわかるくらいまでにようやくなってきた。それから、全体の枠組みを示すことはトップページでやるから。とにかく昨日はラーメン屋の雑談をまとめてもらって、まとめるのに二時間というすばやさにはびっくりしました。それが今日(8月25日)ページに掲載されている。この早さは世田谷村日記と同じくらいで、量、つまり占めているページははるかに多いよね。それには可能性があると思う」

「しかし、石山さんは何故エネルギーをこんなにかけているのでしょうか?」

「日刊の雑誌を作っているようなものなんだよね。今日のホームページのヒット数(※1)は総ヒットで二万弱でした。これは夏休みが終わりになり始めていることもあるとは思うけど、我々が書く項目が多いのが理由でしょう。書くほどヒット数は多くなる。それから大切なことは、我々のページに読者が滞在してくれている時間がかなり長くなっていること。多分十分くらいでしょう。多くの人が一日十分滞在してくれるというのは大変なことなんだよね。まあ、雑談のページをまとめた効果は明日出るだろうから、楽しみだね」

「ホームページの功罪というか、そういうものは必ず何にでもあると思うんですが、どういうところに一番可能性を感じているのでしょうか?」

「自分の作ったもの、ページもそうだと考えていますから、それが日々数字で反応がわかるというのが一番面白い。逆に一番つまらないのは、やっていることがお金にならないことだね。たとえ二万ヒットしてもお金にはならない。お金のこととも絡むけれど、絶版書房はコンピュータと確実に連動した本としてやっていきたい。今はその準備段階。

逆に君はどう思っているの?」

「石山研のページは絶版書房の読者とかをみていても、かなりページの読者も洗練されている気がしますね」

「難しいことを難しく書くことが好きな人、やさしいことを難しく書くことが好きな人、難しいことをやさしく書くことが好きな人、やさしいことをやさしく書くことが好きな人、大体この程度に読者がグルーピングされているのが実情でしょう。ネットは釣り堀みないなもので、ネット社会のコミュニケーションの入り口には立てているくらいのものでしょう、現状は。絶版書房の常連はおおよそ三百人、柄谷行人さんのNAM(ナム※2)は終わりの頃は会員百五十人(※3)だったようだからね。柄谷さんの読者のような階層、つまり難しいことを難解に読みたい人は限られているよね。我々のような建築畑の人間はビジュアル系の人間だから、そこまで言説で突き詰めて考えることはできない。いずれにしてもどれだけの人が読んでいるかすぐにわかるのは大事にしたいと思う」

「それで、今日は一回目の印象をお互いに率直に述べようという趣旨ですが、そういう読者に対してどうであったと思いますか?先程、内容に異和を感じたということでしたが、、、」

「僕の印象は、本当に雑談的過ぎた。多分、絶版書房を読んでくれている人は『何やってんだろ?』と思うだろうね。そうじゃない人達には、どういうふうに入っていっているかね」

「それはやはり話している内容がということですか?」

「本当のところはね、みんな内容には関心がないのではないか。関心がないというのは、ヒット数に内容がどのくらい影響しているかということなんだけど。それよりも形式とか、文体の方に影響されるのではないだろうか。形式というのを具体的に言うと、例えば注釈とかね。スランに注釈が付けてあったけど、もう少しチョコチョコ注釈が付いていると、若い人達はヘェーって思うのかもしれないね。まあ、古い田中康夫風だけれど。(笑)

結局、今やれるだけの最大限を尽くすことしか無い。

僕達は新種かも知れぬ知的消費者と対面してるんだ。インタビューは面白くなるかつまらないものになるかは聞き手次第だからね。僕だってそんなに引き出しがあるわけじゃないから。でも、自分自身の引き出しの数は理知的には考えられない。考えれば、考えるほど、考えようがないという、そのことだけがよくわかる。だから雑談の形式にはプログラムが立てられないし、立てない方が面白い。プログラムなんてのはただの予定調和的想像でしか有り得ないんだ。プログラムから自由になりたいね」

※1 ヒット数

石山研の一日は前日のホームページのヒット数のチェックから始まる。この習慣は、少なくとも石山本人は十年近く続いている。ヒット数は総数の他に各項目別、国別で数字がわかるようになっていて、それをみると読者の皆さんのライフスタイルも何となく想像することができる。このヒット数の変化が今のところ石山研と皆さんのコミュニケーションである。

※2 NAM(ナム)

哲学者の柄谷行人氏が起こした「資本と国家に対抗する社会運動」(この定義の仕方は『建築がみる夢』石山著・講談社2008年、に寄せられた柄谷氏の論文より引用)。多岐の分野に渡った著名な知識人が参加した。NAMは2003年で解散したものの、現在連載中の『「世界共和国へ」に関するノート』へとNAMの思想は柄谷氏の中で成熟をみせている。

※3 会員百五十人

最盛期には七百人を数えたとされるが、石山のいう百五十人とは本格的な読者ということだろう。数字の是非はともかく、日本を代表する知性である柄谷氏が起こした運動に反応したのは、結局みんな柄谷氏の読者であったことに石山は絶版書房をなぞらえている。

2009年8月26日、夜、新宿台湾料理味王にて(聞き手:渡邊大志)

昨日出した雑談のページは後ほどキチンとお互いに検証するとして、君ね、あのタイトルは代えた方がいい。絶版書房の読者の皆さんは目が肥えている方が多いからね。緊張して気を抜いちゃいけない。まあ、それはともかく、今日はこっちもちょっと酔いが回っているし、ざっくばらんに聞きたい事を聞いてもらって結構」

「昨日のページをコンピュータで改めて見ましたけれど、枠組みというか、それこそ形式をこのページで示していく必要があるとお考えですか?」

「まあ、それは二、三回やって段々明らかにしていけばいいでしょう。それで、質問は?せっかく酔っぱらってるフリしてるんだから、早くして下さいよ。(笑)」

「本当のプロっていうものについて聞いてみたいと思うのですが、建築家というのは全てを建築に結びつけて考えているべきなのでしょうか。つまり、建築と建築ではないものの区別はありますか?例えばイチロー選手なんかは本当のプロなんだと思いますが、彼が全てを野球に結びつけているのでしょうか?」

「あえて建築とそれ以外の区別を付けようとは思わないけどね。最近は建築が中心になっていないように意図的にやってはいるね。例えば磯崎さんとか二川さんは全部建築になるんだな。大昔友人だった石井和紘はチャールズ・ムーアが食事中にパンをちぎった形で建築を語ったと言っていたけれども、よくよく考えてみればそれは可笑しいと思った。『建築の解体』と言った磯崎さんのようなある種の天才でも建築が中心。僕は建築も中心。衒いに聞こえるだろうけど、ここで食っている台湾料理も中心。さらに言えば、二川さんは建築だけしか写真に撮らない。二川さんは人間を撮らないで、建築だけを撮る。僕は人間が入っていないと世界じゃないと六十歳を過ぎてから思うようになった。アムステルダムの孤児院(※1)を撮った写真家が有名だけれども、初めて建築写真に子供が登場した。つまり人間が主役になった。あれは建築写真の革命だったけど、後に続かなかった。例えば利休、織部、遠州の茶室だけを写真に撮っても意味が無い。それではただの小屋掛けでしかない。そこに主人と客、つまり人間がいて初めて茶室は空間になるということ。

せっかく酔っぱらっているのだから、もっと面白い質問して下さいよ」

「石山さんは昔から文学少年だったんですか?」

「僕は漢文少年。父も祖父も漢文学者だったから。今の質問はつまらんな。酔っぱらいに対してする質問じゃないね」

「未来の話しをしろと、、、」

「そう、そう。構えないのが一番難しいけれど。村上春樹の『1Q84』がバカ売れなのはおかしい。ジョージ・オーウェル(※2)の知性と似た様で反対。僕はまだジャック・ロンドン(※3)とか、日本で言えば深沢七郎かな。本格的な労働者達の描いた空間を実物としては見ていない。ビートルズやこないだ亡くなったマイケル・ジャクソン、ブルーカラーと黒人から出てきた空間や表現というのがあった。建築というのは結局権力の表現だから、それが政治的にしろ、商業的にしろ。今の体制では労働者の空間といいのは発生しようもない。僕が変なのはそういう体制とは違う体系があると思っちゃったところだね。日本の建築家達が僕くらいちゃんと考えているのか?と思うね。多分、数人しかいないんじゃない。今日は酔っぱらっている振りしてるからね」

「その権力というものにどうやってコミュニケーションしていったらいいんでしょうか?」

「それを思弁的に考究した人間はあまりいない。磯崎さんはちょっとやってけど、すぐに引き返した」

「それは何故ですか?」

「それをやっちゃったら建築が作れないからだよ」

「昨年の世田谷美術館の石山展のときに新聞で石山さんの事を大衆的前衛と書いている記事がありましたけど、、、」

「それは僕にかなり批判的だな。大衆というのはコンピュータ世界ということ。僕等の読者はすでに建築のジャーナリズムをはるかに超えている。本当は既存のメディアを相手にする必要はない。ただ僕のメディアは広告料を倫理的に取っていないというだけだろ。自分のコンピュータのサーバーが大学に属しているから、広告を取らない。大学のコードを外したらいつでも取るよ」

「それは、やはりお金が動かないと社会性がないということですか?」

「半分はね。もっといい質問してくれよ」

「、、、。どうも僕は平明にずるずる行く質のようです」

「いい質問というのはデザインだからね。僕はもう何百人もインタビューしているから、インタビューのプロよ。はったりや演技もデザイン。長くずるずるというのはグローバリゼーションだろ。僕の世代は時代を逆転する意気込みでやってきた。でも逆転なんか出来ようがない。それでも気持はまだ逆転倒立なんだな。君にはそこまではまだ要求しないけれど、あいかわらず時代をチョット疑問に思うところはあるな」

「どういう職種というか、人達が今の世の中を一番デザインしているのでしょうか?」

「それは世界の色々な地域、アフリカ、チベット、EU、旧共産圏等の地政学によって違いがあって、普遍解というのはないだろ。ネーション、国家というのがいくつあるのかわかりませんけど。そういう抽象的な質問には抽象的な答えしかできないね」

「では、それとグローバリズムは矛盾しませんか?」

「歴史的に世界最強の論理は近代化でしょ。日本の歴史家だと鈴木博之が『都市へ』を書いている。近代化=普遍化をオリジナルモデルとすることが均質化へとパラレルに移行している。中国が中国なりのグローバリズムの中でチベットを封殺しようとしている。中国は八十八民族あるからね。その中に普遍というスローガンを掲げて、それをはばかれるのか、否か」

「国という概念はまだ続くと思いますか?」

「あと百年や二百年は変わらないでしょ。そういう国家の存続の可能性やいかにというような考えはソ連の共産主義が崩壊したときに無くなっている。グローバリズム、つまりお金による普遍化を国によってプロテクトしようというのは有り得ない。金は人間よりも自由に国境を超えているよ、今でも。これはセルバンテスのドン・キホーテ(※4)そしてサンチョ・パンサだけれど、そういうことに疑問を感じているということを表現しているだけ。『世界はこういう風に行ってはいけない』と一〇〇〇対一くらいの戦いをやっているんじゃないか。そんな悲喜劇を許してくれるのは表現という文化的なフィールドだけなんだよ」

※1 アムステルダムの孤児院

アルド・ヴァン・アイク(1918〜1999)設計の孤児院「Burgerweeshuis」(1955)のこと。同一単位の繰り返しによって作られた平面計画は日本のメタボリズムとの関係も指摘される。現在でも未だ有効な建築原理の雛形の一つである。さらにこの建築が注目に値する理由はこの建築を撮った建築写真によって明らかにされた。雑誌『a+u』誌に掲載されたバウハウスの写真家による写真は子供の視点で撮られていた。子供を単なる大人の縮小として描いた西洋絵画と異なり子供のスケールで作られた建築であることを明解に示すため、写真には子供が登場する。それは建築写真の中心は建築であるという常識を覆すものであった。

それに対して建築写真家・二川幸夫氏はルイス・カーンの建築を撮影するために、周囲の木が枯れるまで待ち続けたという。

※2 ジョージ・オーウェル(1903〜1950)

言わずと知れた『1984年』の作者。小説、評論の他、イギリス生まれの作者自身の体験に基づいたルポルタージュでも重要な作品を残す。特に『パリ・ロンドン放浪記』(1933)に描かれているような浮浪者からロンドンを見る視点は後のアーキグラムやビートルズの誕生を予感させる素地作りにも貢献した。

※3 ジャック・ロンドン(1876〜1916)

開拓時代のアメリカの匂いを強烈に放つ小説家。自伝でもある『ジャック・ロンドン放浪記』では、タダで蒸気機関車に乗る方法や、浮浪者との共同生活等、新興国アメリカの文化を労働者階級に見ようとする視点を描いている。

※4 ドン・キホーテのサンチョ・パンサ

誤解を恐れず、敢えて注釈を記す。騎士道の元に奇行を繰り返すドン・キホーテとそれを諭そうとするサンチョ・パンサの関係はどちらが正当な思考の持主であるか判断し難い点において絶妙である。サンチョ・パンサが自分の愚かさが故にドン・キホーテの奇行に付合っているのは作者セルバンテスによる演技であろう。ドストエフスキーによってロマン主義的解釈がなされているが、本文ではサンチョ・パンサが自覚的ではないながらも、ドン・キホーテを包含する知性の持ち主の意で引用されている

2009年8月25日、昼、新大久保ラーメン軒にて (聞き手:渡邊大志)

始まりは晩夏の昼、一本の電話で起きたことでありました。

「石山です。これから昼メシにしましょう。いつもの新大久保駅前の近江屋ではなくて、ガードの手前にラーメン屋があったでしょう。そこに二十分後でどうですか」

「ラーメン屋ですか。近江屋じゃないんですね。ガード手前の。わかりました」

「そのときに、チョット僕にインタビューしてもらえますか。今のトップページについて。四つくらい質問の項目を考えておいて下さい」

「エッ、インタビューですか?・・・。とにかく準備してうかがいます」

毎日会っている人間に改まってインタビューというのは、やってみると意外と難しい。決して短くはない付き合いは、いつの間にか軽はずみな発言を互いに容認することにつながりかねない。みなさんも近しい方に試してみて下さい。何気なく口にしている一言、一言に妙に気を使うはめに陥ります、私のように。

この突然始まってしまったインタビューはそんな不才の人間が年長者の意図に翻弄されつつも起こした拙い記録であって、それでも皆さんに公開してしまうのは、私が皆さんの媒介になれればと願ってのことなのです。ハイテク時代のイタコのようなものでしょうか。

「それで、質問は考えました?ちょっとメモ見せてくれる?」

「はい、これです」

「もっと簡単な質問から始めた方がいいね。それはね、レベルを落とせって言っているのではないんだよ。わかりますか?例えばね、いつもメシは近江屋なのに、なんで今日はラーメン屋なんですかっていう質問はとても面白いのになあ」

「はあ、そういうものですか。いつも抽象的過ぎると言われるもので、、、」

「抽象性には良い抽象性と悪い抽象性があるからね。誤りが構造性を帯びてくれば良いのだけれど」

「ううむ。相変わらず難しいことをおっしゃいますね。では、気を取り直して早速今の質問からお願いします。実は僕もなぜ今日はラーメン屋なのかな、と真っ先に思っていたのは本当にその通りなんです」

「それはね、ここしばらく近江屋で会合とは呼べない一見無駄話のようなことをやってきたけれど、半分くらいはそれが単なる無駄だということがようやくわかってきたんだよ。あえて無駄と言うのはね、記録しないということにつきるんだ。話しの十分の一くらいは大事なことを話していると思うんだけれども、それは記録しないとダメなんだね。今日何故ラーメン屋なのかっていうのは、ガード越しの近江屋に対してガードのこちら側を選んだのは意図的なのね。まあ、これまでの無駄話の歴史が作り出した習慣が、近江屋というのは記録しない場所であるということだけを作り上げてしまった。今は本当は何だって記録出来る時代なのに。それで、今日はラーメン屋にしようということなのだよ」

「それは、場所を変えれば話しの内容も変わるということなのですか?」

「場所を変えるとチョットは緊張するでしょう?私と君の関係みたいに、長く続くと弛緩する、つまり緩むから、この少し計りの緊張が必要なのです。これ、テープに録ってるの?」

「録ってません。でも、なぜ記録しようと考えたのですか?」

「記録した方が良いと考えたのは、自分の年齢の問題があるのは確かですね。あと長くて三十年、短くて十年。一刻一刻を記録しておきたいと思ったのはそういうこともあるね」

「石山さんは世田谷村日記もそうですけれど、記録に関しては執拗ですよね。でも不思議だとも思うのは、日記のような自分が生きている間のものはわかるような気もするのですが、失礼な話し、ご自分がいなくなってからの記録の意味というのは、どのようなところにあるのでしょうか?」

「それはね、例えば鈴木博之さんのような歴史家が記録をすれば、それは誰にでも了解できる歴史になるわけだけれども、僕が記録してもそれは歴史にはならない。でも、一つ一つの小さい話しの断片だって、それには価値があると信じている自分がいるのも確かなんだよね」

「それは、記録の形式というか、そういうものとも関わりがあるのでしょうか?」

「それは大いにありますね。僕が記録の形式と言ったときの、形式。建築の形式とか、視覚芸術を言う時の形式ね。その形式は非常に大事な問題だと思っていて、形式と言うのはそれぞれの枠組みがあるということだから。もう世田谷村日記の読者もご存知のように、近江屋で一服するのも形式に育ってきたからね。でも、それは、繰り返しになるけれども、記録しないと価値がない。ただただ消えていってしまうだけだ」

「石山さんは、世田谷村日記の原稿はいつも手でお書きになるけれども、公開されるときはコンピュータを使われてご自分の原稿は公開しませんよね。石山さんはその形式をコンピュータをメインに視ていますよね。それは何故でしょうか」

「それは今のトップページに図像の連続として表現しているんだよ。現代とは、普遍の時代、近代の延長、グローバリズムであって、それはもう否定することは不可能だよ。でもね、自分はそういう時代とは明らかに異質なものであるという強い自覚はある。自分は異質なものであるというその異質を形式として表現するためには、コンピュータに接しなければならないが、それと同時に距離を置く必要もあるんだなあ。だからコンピュータは毎日チェックしていても、キーボードは必要にならない。僕にとってはコンピュータというのはコミュニケーションそのものであって、それ以上でもそれ以下でもないのだよ」

「少し質問の内容を変えますが、石山さんが実際に作られているというか、描くという行為をされていることに即して聞かせて下さい。例えば、絶版書房に描かれているドローイングと石山さんが世田谷村でされているようなドローイングには形式の問題も含めてどのような差異があるのでしょうか」

石山、醤油ラーメンを食べつつ、少し考えた後で

「君の今の質問を僕なりに転倒させて要約すると、実際に建物、それを最近は立体と言い換えているのだけれど、それを建てることとインタビューには何か関係があるのか、ということかな?」

「そうとって頂いても構いません」

「うん。それは恐ろしく関係があるね。君、ラーメン食べた方がいいよ」

「あ、すいません。食べているとメモが出来ないので」

「それはね、情報時代の建築空間とは何かを示そうとしているということなんだけどね。いいかい。情報は建築にはならない。建築は情報にすることはできるけれども。今までの建築とは別体系の立体が発生していて、それに誰も名前を付けられていないということだけなんだよ」

「今、別体系の立体とおっしゃいましたけれども、それは今回のトップページには何か反映されていますか?」

「それはされようとしていると答えたい。今のトップページのこれからの展開は自分にはとても大事なんだな。それは自分の考えを整理しているというのではなくて、考えを純化、純粋の純ね、していくとそれ自体が新しい空間になるということなんだよ。文学空間でも、建築空間でもなくてね。まあ、俗に言う情報空間。建築は情報を表現することはできない。情報建築や情報時代の建築なんていうものはない。しかしながら、情報と建築あるいは都市が絡み合って生まれる新しい空間はある。それを表現したい、ということなんだ」

「その別体系の立体と聞いて、思い出したのですが、先日山のことをページに建築に重ねて書かれていましたよね。あれは、僕でなくても、みんなが面白く読んだと思うのですが」

「山のことを話したのは今までで三回しかないのね。一つはチベットに一緒した時に磯崎新、もう一つはウィリアム・モリス主義者の小野次郎、それから最後の一つは晶文社の編集長時代の津野海太郎。彼らは心を許した人達だから、一番大事なことを話している。皆年上の人達だからやっぱり緊張してね。一生懸命話した。それが三人が三様に面白いって言っていた。『石山、お前登山家だったのか!』って(笑)。この話しは次第に君も好きな三島由紀夫の文武両道の話しになっていっちゃうから、今日する話しじゃないでしょう。いつかやりましょう。サイトに書くのは努力がいってね、スピードが遅いし、面倒臭くて十分の一も書けてない」

「では話しを元に戻させていただいて、石山さんのウェブサイトと他のページはどう違いがあるのでしょうか」

「今君は大変な愚問をしているよ。それはね、僕は他人のページを知らない」

(爆笑)

「でも、チョムスキーのページは娘のコンピュータでのぞいた事がある。僕は他人のページは知らないというのには意図的なんだ。つまり、コンピュータを使ったコミュニケーションの差異性には興味が無い。知れば知ったで影響されるだろうし、でも自身で伝わりにくいと信じている僕の考えを二百人くらいの人にはどしても伝えたい。

中学生の頃に読んだ早川書房の『宇宙人スラン』(※)という本があって、確かアイザック・アシモフに対抗するもう一人の有名な人の本だったけど、誰だったかな。その本では一つの種族が巻き毛を額に持っている。このときの種族とは、建築が好き過ぎる種族とか、実物を好き過ぎる種族というときの種族と同じものね。その種族が全体主義みたいな奴らから殺されてゆく。全体主義からしてみれば、個別性を自覚している人種は危ないのね。それで殺されていく。主人公の少年の頃に母親が捕まって処刑される。それで自分の巻き毛に特殊な種族である自覚と誇りを感じる。そういう本を読んだのを、何故か覚えている。覚えている自分は信頼できそうなんだ。その特殊な種族というのから、世田谷村日記の『ある種族へ』とつながっている。圧倒的少数者である自覚ね。でもそれはそれを自覚した少数者がいなくなったら世界は絶望であるという自覚でもある。

これで、もう一回分には充分じゃない?」

「そうですね」

「今度近江屋でメシを食う時にも必ずこの形式を入れる。休んでいる時の会話に意外と宝石が埋まっている。でも、それだけでは骨組みは作れないんだなあ。だから何とか結晶させたいと思うのだな。建築や立体に。そろそろ今日は最後の質問にしようか。君、ラーメン伸びるよ」

「それでは最後の質問なのですが、石山さんは白足袋とかツトムとか動物と一緒に暮らしていますよね。それは単に動物が好きということなのか、それとも何か他の意味があるのですか?」

「それは昨日も映像ゼミの打合せのときに出た『猫の映像を撮って物を言う』というのが今の流行だという事位は知っている。俗っぽい日常性の表現。僕はその立場には絶対立たないよ。だから、自分の家の猫や犬を素材にして物事を考えようということはとりあえず無い。ただ、自分の考えとしては、川合健二さんから『人間はメメズと生きている。ミカン畑も掘ればメメズが出てくるし、ミカンもメメズが育てている。』と聞いた経験は頭の中では理解し始めているね。ただ、そんな考えだけが進み過ぎると建築の形式が消える」

「えっと、最後のところがよく分からないのですが」

「つまり、メメズの建築、ゴキブリの建築というのは人間に考えられるわけがないということだよ。亡くなった黒川紀章さんが言っていた共生というアイディアと人間はかけ離れた生き物だということ。そこが建築という立体の面白いところだよ。建築という立体は人間のものだけなんだな。これは君、仏教の問題へ進んでしまうから大分あとに廻そう。次回のインタビューから少し展開方法を考えて下さい。次回は何の話ししましょうかね」

※ 正式なタイトルは『SLAN』。1940年に早川書房より刊行され、人気を博した。

同作品中の「スランだ!殺せ!」の異能者への迫害文句には多数派の既成概念によって作り上げられた現代社会を揺るがす者への畏怖が表現されており、SF界のみに留まらない社会的な影響を与え続けた。

作者のA・E・ヴァン・ヴォークトはカナダ生まれ(1912)のアメリカ人。アリストテレス論理学への批判に影響され「非Aの世界」(ナルAの世界)を著す等、SFの古典を多数残すが、疑似科学や新興宗教に傾倒する不安定さがあった。

石山修武研究室
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