八月十七日の和文TOPページは、GKによるキッコーマン醤油の醤油差しと、森正洋デザインによるG型醤油差しの二点の写真。とする。TOPページの説明は、別送する石山の森正洋九州での大展覧会用に書いたモノ(八月十六日)の一部を、実に短く佐賀新聞U氏に断って了解をもらい、抜粋する。了解はいただいた。
「私の家の食卓に森正洋の食器が顔見せぬ日は殆どない。頂きモノの高名な陶芸家の作品らしきは数点あるのだが、それ等は桐の箱に仕舞い込まれて何処かに隠れてしまい、生活の場には出てこない。
戦後プロダクトデザイン史、実はそれはまだキチンと書かれていないのだが、それ故に今は直観的に言うしか出来ぬ。しかし、プロダクトデザインの文化的意味合いについての体系的な論述が少な過ぎる事実の指摘は間違いない。デザイン史上の傑作であるキッコーマン醤油の醤油差し(GKデザイン一九五八年)は勿論食卓には欠かせない。そして森正洋デザインの醤油差しもモダーンな美学と工場内の育成された職人の技能に対する評価の結晶として食卓の風景に不思議な力を与えて止まぬ。G型醤油差しと呼ばれるモノだ。
二つの醤油差しの姿形に私はこの半世紀の日本近代の歴史を、そしてこれからの未来を視る。」
この文章は私のプロダクトデザインを始めるゲートである。
又、絶版書房通信は、アニミズム紀行4に描き込んだ、「時の谷」に水が溢れ、「時間の倉庫」が水中に没した如くのドローイングを ON する。
アニミズム紀行と実作との関係を最初は少し、抽象的に、しかし思わせ振りだけは決してせぬように、示してゆく始まりとする。
絶版書房交信の文章は、絶版書房通信として短いモノだが送付する。十八日に、交信は更新する。図柄は溢れた水に写った光景のドローイングである。これはアニミズム紀行4の中に見開きで入れた石山の銅版画のオリジナルに鉛筆、鉄筆で引っかき傷を入れ、更に手を入れたモノを使用する。この文章は今日(十六日)送付するが、掲載は十八日迄待つ事。
日記にも書いた如くに、一年位の時間をかけて文章はエピグラフの如くに短く、簡明に、ただしできるだけ誠実に思わせ振りは除去する努力だけは続ける。
以上、我々のコンピューター画面の編集について、私の考えである。
九月になったら、もう少しスッキリとした立体が画面(映像)に立ち上がるような工夫をしたい。
イヤ、十八日のページにはアニミズム紀行4のドローイングの前に、昨年描いて世田美に展示した、鬼沼の地名デザインに関するドローイングの方が良いので、そうしましょう。
時の谷のドローイングは次回に廻す。
すでにある種の実体を産出するモノ。立体としての建築を含む視覚芸術一般に於いて、様々な島宇宙の如きが出現しているのではないか。私が今ここで島宇宙と呼びたく考えているのは、普通に言えば小集団性への帰属への基本的性格と言っても良い。
レオナルド・ダヴィンチのモナリザの前に足をとめ、凝視する人々と、マルセル・デュシャンのモナリザまがいにニヤリとする人、更には茶器の涙やらの、名前にひかれる人々、長谷川等伯の絵に見入る人々は同じ種族とは言えぬ。
あるいは一人の人間の中にそれ等がバラバラのままに混在している。今日はデュシャンの複製をオヤと思い、明日は茶器に眼を細めたりもする。
そうさせている。あるいは、その傾向は加速度的に増大していると思われるが、そうさせているのは情報の速力、特にコンピューターによるハイスピードな情報の交通であり、同時にそれを又、消費する。忘れてゆく速力の増大である。
今、我々は、忘れるために情報を受け入れている。で、仲々大変だなあと思うに至ったのは、どうやらそのサイクルを拒否しようとしても、全く身動きならぬ現実でもあるのが確かにあるのだ。
つまり、このサイクルの光景そのモノをなぞり、まがいのまがいをモデルとして作り出す事だけに可能性は在る。
先日、口述した学会の部会雑誌への、フィリップ・ジョンソンのまがい性の現代的意味というのはかなりストレートに情報のまがいモノの積極的意味合いを述べたものだ。渡辺仁史研の若い人材が書き言葉に直してくれて、口述、翻訳的編集と削除の手が、もう一つ入ったので、むしろ、このように一人だけで書いているモノよりも面白く読めるかもしれない。あの若者に感謝しておく。良い編集である。
いずれ、活字になったら、新制作ノートに再録したい。
八月六日
石山修武
制作ノートという呼び名で仕分けしたページには原則として、なにかを作る為の、リアルな作業を記録、同時に公開してみようという主旨からであった。
今、現在、私のサイトは
二、絶版書房通信
三、制作ノート
四、設計製図のヒント
等に分かれている。
でも、書き手は私一人である。好きで始めた事ではあるが、これは仲々に大変なのだ。でも、お蔭様と言うべきか、自然に書く速力は速くなった。
と、同時に垂れ流し感も深まるのだった。ネットへの私事らしさの公開に対して、単純な見返りを期待しても甲斐は無し、と言うのは痛切に自覚している。
一の「日記+ある種族へ」はこれからも5年位は単独で書き続けようと考えている。これは私一人で書かねば意味が無い。
ただ、前にも述べたが、日記に「ある種族へ」と、キッチリ付け加えたのが、私にとってはとても重要である。
社会に骨格らしい骨組みが視えない現実になったという考えがこうさせた。ほとんどが、日常生活さえも情報と新しいモノの様に考えられているカオスに融け続け、生活の実態さえ見失い始めているように感じる。
ここで飛躍して言うが、ここでいう日常生活の実態はアニミズムだと、いずれ私は言い切ろうとしている。
ホラ、ケイタイ電話の飾りやら、ケイタイそのモノに対するアニミズムの匂いです。それはいずれ。
二は絶版書房の宣伝である。
これは出来れば、順次、他人に、スタッフに書いてもらおうと考えている。一人で書き続けぬ方が良い。だから、通信と呼んでいる。
四も、段階的に若い先生方に任せてゆきたい。その為の人材は育成している。
設計製図のヒント、及び、絶版書房通信は、それ故に複数の人間で書く事になろう。
で、三の制作ノートである。
今の健康な状態が幸いにも、長く続く事が出来るならば、この制作ノートは順次、ネット使用から、古い印刷文化の世界に戻してゆくつもりである。
制作ノートは五年以内にペーパーメディアに移します。
今のこれは、それへの前段階であると自分で理解しようと務めている。
つまり、制作ノートはいずれ、私の仕事の中枢の一つになると、実に勝手に、妄想的に思いつめているのです。
このページは、だから予行演習として、のぞいていただくと少しは面白く読めるかもしれない。
ただ描きたいモノを描こうとするドローイングらしきを達成した時の感じは何とも言えぬモノがある。手足は画材で汚れに汚れて、しかし決してイヤとは言えぬ画材の臭いに包まれる。自身がいかにも生物の一種族である事を自覚できるのだ。
表現なんて言う意識ではなく、猫が足で顔をなぜ、かいて満足してる感じに近い。あるいは、犬が満足して尾を振っている感じかな。
昨日、今日と二点かなり大きいのを描いた。何を描いているのか全然解らない。丹念にパステルで大判の紙に下地の図形を先ず塗り込める。最終的には眼に直接写らないけれど、この下地が無いと表面の図形が浮いてこないのだ。
建築で例えれば土地を作っているようなものか。それが無いと立体が立ち上がらない。
日本には、遺跡、廃虚の類が身辺に一切無い。だから僕はこんな風にして下塗りとしてその遺跡を塗り込んでいるのだと思う。
本来、あらゆる立体=建築は廃墟、遺跡の上にこそ積み上げられるべきものだろうと考える。人間のつくり続けてきた文明文化の累積の上に構築されるからである。
近代建築様式はヨーロッパ文明文化をベースにしている。ヨーロッパに独自な様式であった。ヨーロッパ様式と言えるのだがその生産性の良さ故に普遍性、つまり世界性を持ち得た。
しかし、あの様式はローマ時代の遺跡、廃墟の上に立ち上がるという文化的なイコン性をも強く所有していた。
僕のドローイング、昨年の二〇〇八年のものはさておいて、最近の二〇〇九年、六月から始めたものは、そんな事を考えながら描き続けている。でも、ドローイングに建築らしきはほとんど出現しない。埋められている。
つまり、今やっているドローイングは平面ではない。厳密に言えば、と言うよりも僕の意識の上では立体に近いモノなのである。
地球は一個の星であり、その表面の、表面そのモノ自体の厚さは実に薄いものに過ぎない。その薄さと比較するならば、紙の上に描いている塗り厚は随分と厚い。その塗り厚の積層の中に僕は立体を視ようとしている。
藤野忠利様
最良に属する表現は俗に言う遊びであるのでしょう。その意味では遊びは万人の共有する自由であるべき精神の極みであるのは私も了解しているつもりです。
私だってそれは遊びたい。でもそれは実に困難な事でもあります。ひょんな事から私は建築の仕事に入り、気がついたら四〇年近くになっていました。この仕事は不自由の極みです。何故なら他人の為のモノを作るからです。あるいは社会の為のモノを作る楽しみと、それに倍する不自由さがつきまといます。やればやる程、その不自由さの壁が立ち上がって視えてきます。
それで、私はドローイング、銅版画、描画の類を意図的に始めました。これは私の明らかな遊びです。
私の遊びはあんまりお金もかかりません。手近にある箱を壊して得る厚紙や、何かに、これ又手近にあるパステルやクレヨン、絵の具の余りかす。墨などで描くからです。
藤野さんのはお金がかかり過ぎています。堂々たるキャンバスに職業画家の絵ノ具ですからね。
僕のやり方の方がむしろ現代的なんじゃないかとさえ想う時もあります。そこらにある物に描けばいいのではありませんか。それだけで、充分ではないでしょうが、多分にお金、つまり制作費用の不自由さからは時に解放されるのではありませんか。
以前、現代っ子センターで見せて頂いた、流木の小片で作ったオブジェクトを憶えています。立派なモノでした。あんな風なやり方をもう少し考えてローコストに作り続けたら、僕は本当に面白いだろうと思います。
アレも少々、手間ヒマがかかり過ぎて、いかにも芸術作品狙いのところが非芸術的である、つまり枠に嵌って、その不自由さが眼につきました。
今でも、毎朝、早朝の散歩は続けているのでしょうか。海岸はあらゆる漂流物の宝庫の筈です。特に木片の一つ一つはそれ自体が地球が産み出し続けている作品ですからね。
藤野さんの身の廻りにはいつも子供達のさんざめきがあります。
これも又、うらやましい限りです。メキシコやイタリアの女の絵も良いけれど、もっと身近なところをサッと驚くようなスピードで何使っても色鉛筆でも、クレヨンでもいいから描いたらどうでしょうか。
藤野さんは、60 過ぎて何やら描き始めた私よりもズーッとプロなんですよ。プロ過ぎる。私だってお金ありませんよ全然。だから画用紙や紙箱の裏に描いています。素人だから、別にキャンバスに油絵具で描くのが絵だと思ってませんから。
もうお互いにそれ程多くの時間が残されている年令ではありません。それを考えつめると、我々はもっと自由になれる筈です。どうせ死んでしまうんですから。万人それからは決して自由になれない。それだから刻一刻を大事にいつくしんで生き抜きましょう。
こうやって藤野さんに、七才も年上の敬愛する友人に手書きの文章を書き、送らせていただく、余計な事、余計なお世話だって、私の表現です。これだって作品なのです。
現代という恐ろしい不自由な時代の芸術は、私はそういう面白い、不屈の可能性を持っているのだと確信もしています。
身近なモノで、本当に遊んでやりたいものです。
どうも、二〇年も教師やってますと、頭が高くなってしまう悪いクセが出てしまって、年上の友人に説教している風が出て、我ながらイヤなんですが、大兄にはそう言わせえるモノがあるようです。悪文、失礼、お許し下さい。
七月二日早朝
石山修武
木本一之様
梅雨もそろそろ明けそうで、スカンと晴れた夏の空が待ち遠しいこの頃です。
私の初めての海外旅行は韓国の旅でした。もう三〇年以上も昔の事でした。下の関港から関釜フェリーで時間をかけて辿り着きました。色々な体験を得ました。建築や彫刻、そして焼き物、工芸も沢山見ました。念願であった慶州吐含山石窟庵も見学しました。
しかし、三〇年以上の年月を経て、記憶が増々、強く、色形空間、つまり脳内風景として育ちつつあるのは、その旅で視た、猿すべりの花の色の鮮やかさ、カンナの花の色の烈しさでした。そしてそれを際立たせていた深い空の色です。
その後、世界中で様々なモノを見、又、体験しました。沢山の人間達とも会う事ができました。それ等が今でも私の制作の土となり畑になっているのを感じます.恐らく木本さんも同様であろうと推測します。
初めての海外旅行で若かった私の感受性も全開状態であったと思われます。視、触れ、歩き、出会ったほとんどのモノを吸収していたのだと思います。
年月はそれ等を押し流し、薄めます。
しかし、その力に抗して残るモノは強い。あの時に視た、そして、感じた猿すべりの巨木の花の鮮烈さ、そして農家の庭さきにキーンと音がする位に在った、カンナやほう仙花の花、そして空。空虚と呼んでも良い程の深いブルー。
不思議な事に、これ等は時間に負ける事なく、年々歳々、強く、ハッキリとしたモノに育っています。殆ど石造のロマネスク建築と呼びたい程に強いモノとして、脳内にモノとしてあるのです。
木本さんとの共同作業も、少しづつ年月が積み重なり始めています。いつの日か、アノ猿すべりの花や空程に強い鮮烈さを作り出したいものです。
山里の工房で独人作り続ける木本さんには現代の、俗人には無い鮮烈な姿を視てきました。独人は大変です。これは大変としか、言い様が無い。
先日、京王稲田堤の厚生館に設置された「ざくろの街灯」に再会してきました。
自然の生垣の花々に埋もれて「ざくろの街灯」はすっかり、生垣に馴じんで、在りました。ざくろにはクモが巣を張り巡らせて、虫と一緒になっていました。上手く育っているなと思いました。
ざくろの中の朱だいだいの実の色も良かった。次は、少しでも、私が視たさるすべりの花と空の虚空の状態まで進みたいものです。
えらそうに言っていますが、じゃあどうすれば良いのか?私にも良く解っているわけではありません。
ただ、日々、モノを作り続けるしかありません。五年以内にベストに限り無く近づきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
伊豆の温泉用に作っていただいた葉っぱのプロジェクト、そろそろ陽の眼を見せてあげる機会が得られるように努力したいと考えています。屋上に金属の植物、花、生物らしきが群れているような状態を考えています。
必ず、飛び切りに良い物を作りましょう。我々は、ようやく、幾つかのモノを経て「ざくろの街灯」「鬼子母神」まで辿り着いてきました。少しづつ積み重なっているように思います。ゆっくりと、しかし着実に育ってゆきたいものです。
突然ですが、季節の変り目のあいさつ代わりに。
七月一日
石山修武
六月二十七日、大きな荷物が届く。宮崎の藤野忠利さんからの作品2点である。
いきなり、画面のサイズが大きくなった。流石にプロである。画布、板、絵の具等のマテリアルの扱いは手慣れている。手慣れ過ぎて藤野忠利は画塾のオヤジになっていたのだが、3号、4号の2点はそういう日常生活の中の手慣れた感じをベースにしながらも、何か伝わってくるモノはまるで違うのだ。
あんまり、ほめると、すぐにのぼせ上がる人なので、用心しなくてはならないが、今のところ、どうやら今度は本気になって、自分の才質を全てぶっつけてきているのが知れる。
ハッキリ言っちまえば、1号、2号は同時にものした私の一号、二号の方がかなり良かった。これは自分で勝手に価値づけているのだから間違いない。
K1やキックボクシング等の試合であれば、三名のジャッジは三本とも石山側に手を上げるだろう。私も圧倒的に自信を持ち、少しばかりゆとりを持って藤野忠利に「やせ絵描き、負けるな一茶、ここにあり」てな感じで、我ながら、いささかゆとりを持って、老残の画家を激励していた。
ところが、今日、受け取った2作品は、私の小生意気なゆとりを、全部ではないが失わせ始めたのである。何しろ相手は老残と言えども、本職の絵描きである。それが、どうやら本気を出して、かかってきているのである。
大入りアートとか、どてらオブジェの陳腐さは何処にもなぜか見えない。すなわち画商根性の、どうやらかなぐり捨てて、やってきているのが直覚できる。今回の試みで藤野忠利が方法的に成功しているのは、数年前に作成した、多分駄作の作品の上に、新しいモノを積み重ねているところにある。その事に意識的である事は作品の日付が二重に記されているので知れる。
このペースで制作を続けたら、キャンバス代、他の画材代は大変なものになるだろうから、この方法はとても合理的である。
前の、つぶしても良いモノを再生しているのである。画家の藤野忠利の再生プロジェクトとして誠にストレートである。直裁な方法の発見である。古今、多くの画家がやってきた方法ではあるが、今の藤野忠利には、これ以上のやり方はないのではなかろうか。
この方法が何処迄続くのかは知らぬ。 その意味では、これからの作品の行方がとても興味深い。
私の一心不乱に制作全体、建築も含めて、取り組まないと、それこそ藤野忠利に置き去りにされるかも知れぬので、ヤルゾ。
石山修武
藤野忠利氏より2号物質作品送られてくる。手紙も同封されている。どうやら一週間に一作のペースで制作する速力のようだ。一号二号共に小キャンパスに幾何学的小断片を貼り込み、一号はモノクロ、二号は赤、黒、黄の彩色がなされている。断片は二号迄は全て非曲線である。断片は 5mm 程の厚みを持つ。断片の厚みに対しては彩色は施されていない。
スチレンペーパーだろう、貼り込まれているのは。建築設計では模型作りに良く使う材料なので、見慣れたものである。
2号迄を見た印象だが、これは変化の仕方そのモノを見よと、それが主題になるのであろうか。この先が楽しみである。
私が描いた1号は、「品川宿走馬燈籠計画」であった。
すでに私の脳内にはボーッと発光するあるプロジェクトが生まれ始め、うごめいている。品川周辺まちづくり協議会、会長の堀江新三氏にはまだ話していないのだが、品川宿の神社仏閣を使用する「市」の計画を作り始めていて、これも追い追い公開してゆくが、藤野忠利と石山修武の二人展をその中に組み込もうと考えている。
走馬燈籠の巨大な奴、ネパールで視たグルグル廻る銅筒状のモノを、ギャラリー状に出来ないかと、つまり発光体自体を映像化して、映画の如くに人々に観てもらうのを考えている。このアイディアの一号をドローイングとして描いた。この先どう展開するのかは解らない。
発光体とノスタルジーが軸になるのではないか。
藤野さんの2号には、珍しくていねいな私信がそえられていた。私信なので内容は公開できぬが、どうやら藤野忠利の父親は石造り屋、石彫り職人であったようだ。その父親の姿を想い起こして、モノを作り続けたい、と結ばれていた。
七十二才になって、父親のDNAを身体に掘りおこしたのかも知れない。この辺りがテーマになるのだろう。DNA。
六月二十四日
早朝、石山修武
宮崎の藤野忠利さんより、交信物第一号が送られてきた。私も反応してすぐにドローイングを描いた。丸々一日かかった。「品川宿走馬燈計画」の第一号である。すぐに藤野忠利通信物一と共にこのサイトで公開しようとも考えたが、少し待つ事にした。まだ藤野忠利の制作の速力がつかめないし、最終的なまとめの形式に関してもハッキリしていない。
時間軸を組み込んだネット上のギャラリーあるいは「市」のようなのをイメージしている。
しかし、これはネットのスピードで垂れ流し続けてはまずいという直感を得た。
何かキッカケがあると、しかもそれが小さくとも具体的な何かであると、大事が起き得るのを知っている。わたくしにとって、今度の藤野忠利との交信物の連続制作はそのキッカケになるであろうとも予想している。
藤野忠利は関西の具体派の最若年の画家である。当年七二才。山口勝弘は八〇才、瀧口修造を中心とする実験工房の一員であった。山口勝弘は今秋、ロンドンでの「実験工房」展の準備に追われている。
でも、それは昔の事、歴史世界にすでに属する。歴史は大事である。全ては歴史を基礎にイリュージョンとして組み立てられる。が、時には振り返りつつ、強引に前へ進む必要がある。振り返らねば一文の価値も無いけれど、後髪を引かれながらも、ベリッと前へ動く。前ばかりではなく、左、右にも動く事も大事なのだ。
ネット上のギャラリー、あるいは「市」のようなのをイメージしている、と書いたが、実はそのイメージ自体もすでに現代では化石状のものになっている。ネットは速く、何事を伝達するにも容易である。個々人に何の参入障壁も無い、つまりパソコンを持つ人は誰でも出来るという本格的な良さを持つのだけれど、裏腹に、ネットには深く引き込まれるモノがない。少くとも私にとってはそうだ。
ここ迄書いてきて、突然、我孫子真栄寺の馬場昭道から電話がかかってきた。
「藤野さん、送ってきた?」
昭道氏も実はこの件に深く関わっている。藤野さん同様に宮崎県出身だから。宮崎県というのは徹底的に保守保身の精神風土ではあるが、面白いのは気質はメキシコなのである。気分はラテン・アメリカ。精神構造は高天ヶ原、つまり高千穂、要するに天孫降臨なのである。
「えらい真面目な絵送ってきたよ。白と黒だけのね」
「ハアッ、そりゃ石山さんが色々言うんでそれにまどわされてるんだ」
「そんな事はないだろう。でもナア、藤野さん本当にイイモノ持ってるんだけどナア」
「そうなんだよ、メキシコの女の人の印象やら、イタリアの女性達の絵を描いたらいいんだよ」
「そうか、女か、明るくね。そりゃいいかも知らんネェ」
マ、そんなに簡単なモノじゃないだろうけれど、藤野さん何でもやってみたらいいんだ。もう、と言うべきか。まだ、と言ったら良いのか、七二才なんだから。本当に自由になってみたら良いのだ。それが実は一番困難な事でもあるのだけれど。
その自由への渇望と、困難さを描いたらいいんだけれど、言うはやすし、描くは困難極るのだ。
白と黒だけでメキシコの女を描くのはいいかも知れない。
でも、これで動き出しては駄目なんだ。ひと踏んばりして、後を見わたす必要がある。藤野さんは。
鬼沼の「時間の倉庫」を原型化する作業をすすめている。アニミズム紀行4に発表するプロジェクトだ。
あんまり、まとも過ぎるプロジェクトなので仲々、ささいな手掛かりがつかめない。過度にまとも過ぎては手が動かなくなるものだ。で、チョッと肩から力を抜く必要を感じた。しかも、軽い感じではなくって重い感じ。必須、あるいは必然の重い扉をギイッと開ける手つきで、そんな風に考えたのである。
丁度、世田谷村の三階テラスで大事に育てていたツタンカーメンのさやえんどうが、カラスに略奪されるという大事件が起きた。ツタンカーメンが永遠の眠りについていたヒツギの中に入れられていたサヤエンドウの豆、恐らくは黄泉の国を旅するための食料であったろう。それが奇跡的にDNA操作等で複元され、その豆が育てられ何がしかの人々の手に渡る事になった。大賀博士のハスの花と同じ伝である。
私のところに、それが幾つか辿り着いた。柳田国男の海上の道どころか、エジプトの死者の国からの旅を経てである。
歴代のツタンカーメン・シンジケートからの申し伝えにより、昨年の 10 月 24 日に種をプラントにまき、冬をこした。一月に伝えられた通りに芽がでた。そして春になり美しい紫色の花を咲かせた。勿論ツタンカーメンのエンドー偽物説も強い。私はそれはどうでも良い。本物だと思った方が楽しいではないか。何しろ三千四百年の時空を超えて、ツタンカーメンの黄泉の国旅行の弁当が、今、私のところで花を咲かせているのである。
何人かの友人に自慢したら、ほぼ二名程が反応してくれた。少なくとも彼等は冷笑はしなかった。一人は歴史家であり、一人はジャズ喫茶のオヤジである。
で、私はうかつにもこの二名にツタンカーメンのエンドウ豆なったら、あげるよ、と宣言してしまったのである。愚かであった。まさかカラスに略奪されるとは予想もしていなかったのだ。
しかし、現実は厳しい。私がホンの一瞬見せてしまったスキをついてアメンホテプ四世系軍団とも、ダーク系闇のベーダー系とも知れぬ、カラス軍団の空襲により、ツタンカーメンのエンドウ豆は大量に、七、八さや略奪されてしまった。
幸い、手許に5つのサヤエンドーが残り、悩んだ結果私は思い切って二つのサヤエンドーを前記二名の友人に贈与する事にした。約束してしまったのだから仕方ないのだ。
幸い、私は愚者ではあるが、転んでもタダでは起きぬ常民の、いささかの血は引いている。貴重な種を失うのなら、その失う儀式をキチンとやってやれと考えついた。
つまり、このツタンカーメンのさやえんどうの種の入った、サヤのサヤ、つまり、ひつぎを作ってやろうと思いついた。そして、さらに、そのひつぎを納める墓、すなわち、建築の中の建築をデザインしてみよう、二つ必要なのだから、それぞれ塔と洞穴の形にしてみようと思いついた。
自分で作ってみようとも考えたのだが、実は、世田谷村の三階テラスには、二つのツタンさやえんどうがまだ残っており、私は昼夜それを守る為に心血を注がねばならない身ではある。とても建築模型など作っている時間はない。エンドー豆の方が大事だ。
で、研究室の院生に、やってくれとこれから頼んでみるつもりなのである。
断られぬように、これからヘリクツだって、キチンと考えてみるのである。
区民農園ナンバー 72 区画の老人の年齢は 86 才。自宅に庭が無いので区民農園をやっているのかと憶測していたら、これがとんでもなかった。
「ゴーヤなんて育ちますかね」と尋ねたら、「あー、とっても良く育ちますよ。家で二〇〇本作ってます。もう藤棚みたいな棚まで作って」と大ビックリな答えが返ってきた。
私奴のK2菜園のゴーヤらしきは、芽を出したか出さぬのか解らぬ位のがチョボチョボ、せいぜい十本に満たぬ位であるから、それと比較すれば、この 72 区画の老人は豪農ではないか。小さな身体が急に大きく見えるのだった。
「何処のお生まれですか、東京ですか」
「イヤーッ違います。私鹿児島の奄美です」
「アーッ、やっぱり。もしかしたら沖縄の方ではないかと思ったんですよ」
前回のノートに、いきなり沖縄の長寿者研究の為の百数十名のインタビューの件を思い出して記した事、そのいきなり思い出した訳が解った様な気がしたのでした。人間の、いきなりにはみんなそれなりの理由がある。やっぱり。
「奄美では、何か作物おつくりになってたんでしょうか」
「私、農家の出ですから、何でも自分で作ってました」
ホラホラ、この老人は絶版書房2号で紹介したカンボジア・プノンペン、ウナロム寺院のナーリさんと同様に、私の理想像のモデルなんだよ。私の嗅覚もまんざらではないな。まだ。とゾクッとする。コレ、相当イケるぜ。
「戦争の終りの頃に、特攻隊にとられましてね」と 72 区画老人は問わず語りに、語り始めた。アトはただただ聞いて、覚えていれば良いだけ。
「同期の六人で生き残ったのは私だけです」
「ホーッ」
「私だけ台湾行かされたんです。他のは沖縄とインドネシアで、それで皆、死んでしまった」
「台湾に行ったのが幸運だったんですね。」
「そう、今、思えばね。陸軍だった。ホラ、ボートに爆弾積んで、突込むの、あったでしょ」
油壷の月光ハウスの周辺にある、これも気がかりで、中に潜り込んだりもした、岩穴を掘った格納庫群をハッキリと思い浮かべる。特攻艇光洋の岩窟格納庫である。人間魚雷回天のもあった。つい先立っての事だ。
偶然が、偶然で無くなり。思い付きに連鎖の糸が結びつき始める。
もしかしたら、老人はあの洞穴を掘った当人であるやも知れぬではないか。
「戦争終わって、生き残っちゃったものですから、台湾でチョッと土地借りて、自活農やってました。それで暮してたんです。ブタも飼ってました」。
自活農という言葉がどうやらあるらしい。
自分の家の庭で二〇〇本のゴーヤを育て、なお区民農園で野菜を作ろうとする。86 才の老人。この老人に聞いておくべきは、実に沢山ありそうだ。
先週、区民農園でとても印象的だった 72 区画の老人が今日(四月十九日)も農園に十時半頃姿を現わす。小柄な方で、子供用自転車で農園に通っている模様。再びすばやくその作業の姿をスケッチする。この方の農作素振りは絵になるのだ。
「絵をやっているんですか」
と、尋ねられ、いささかの会話。まだお名前は聞かぬ方が良い。今日は十四時位迄、ここで作業を続けるらしい。それ迄にキューリとトマトを植え込む準備だけはすませるのだと言う。
おそろしく密集させてサニーレタスとホウレン草を育てているが、それを移して、そこにキューリとトマトを植えるとの事。
なる程、これが同じ苗床には同種の野菜を繰り返さないという菜園のルールだなと気付く。本で読んで知った事は頭にしっかり入らず、わたしのK2菜園は今年も去年もルール忘れで、入り乱れている。
これで、ようやくこのルールは身体が覚えるだろう。
三宅一生がルーシー・リーの陶芸について、日常の生活で気付いた事が、そのママ、作品になっているところが強いと言っていたが、こんな事であるのだろうな。私の菜園づくりの始まりを考えてみるに数十年前の、イタリア、サン・ジミアーノを尋ねたとき、早朝、農場ばかりをスケッチしていたのを急に思い出した。有名な塔の群ではなくって、そこらの、でも実に美しい農園の農機具や小屋らしきを夢中で、早朝の霧にまかれて描いていた。つまり、あの頃にはすでに今の趣向は強く生まれてあったのだろう。
いきなり、老人が「喰べ切れないんで困ってるんで、持ってって下さい」と言い出す。「では、一つだけ下さい」となり、大きなサニーレタスを三つもいただいてしまう。
これで 72 区画の老人と私は、マア知り合い状態にはなるのであろう。沖縄での長命な老人達百数十名のインタビューの事も思い出される。アノ、インタビューもまだ日の目を見ていない。
夕方、再び農園に行く。80 区画の方より「先日6Bの鉛筆忘れて行きましたよ」と渡される。どうやら、この方は設計を業としておられる方のようである。25 区 42 区の方々も黙々とやっている。25 区画の方は最高齢者かもしれない。
昨年夏世田谷美術館で発表したプロジェクトの一つ、「チリ建国二〇〇年祭、モバイルシアター計画」が動き始めている。モバイルがテーマの会場計画なのでモバイルしてもらわなければ困るのだけれど、先ずは良かった。
チリは南北にとてつもなく細長い国土を持つ。イタリアが北と南に政治も文化も分かれ易いのと同様に、いやそれ以上に何もかもが分断され易い地勢を持っている。現在もチリ北部、中部、南部とでは置かれている状況に少なからぬ差異が存在している。
良く知られる如くにチリの歴史は悲哀に満ちたものでもある。アジェンデ政権の崩壊とピノチェト政権への移行の歴史は、キューバ革命と対の様相を歴史に刻み込んだ。現政権は女性大統領であり、着々と民主化への径を歩み続けている。
我々の構想はチリのパルパライソの会場をモバイルシアター、モバイルパビリオンとするものだ。100m X 100m のパビリオンをモビリティのテーマでまとめようとしている。
その前段階での日本でのチリ建国二〇〇年祭の展示会も又、モビリティを建築的主題としている。チリから日本の会場にモバイル・ユニットが移動してくる。そして様々な場所に出現し得るように考えられようとしている。その会場の一つに、早稲田の創造理工学部キャンパスとアトリウムを予定している。
今のところ今秋には三台のモバイル・ユニットがチリから運び込まれ、アトリウム内とドッキングされ、全長 100m 程の展示スペースとして構成される予定である。
展示会の主題は「チリの可能性」、ラーニング(学ぶ)、コミュニケーション(交流する)そしてライフスタイルと三つのフィールドを軸とするアイデアがある。
ラテン・アメリカの民衆が一般的に持つライフスタイルの骨格は、日本近代のそれとは異る。日本のそれが、スピード、繰り返し、正確に、であるとすれば、ラテンはスロー、自由に、おおまかに、であろうか。俗論ではあるけれど、コレワ。
この違いは興味深いものがある。
急ぎ過ぎて、どうやら失敗しつつある国日本と、スローにやってきた国チリ。そして、どうやら近未来、すなわち 21 世紀は、日本はどうしても生活自体をスローに、エレガントにせざるを得ないと思われる。
それ故に、展示の主題は「チリの可能性」、そのライフスタイルとなるのではないかと考えられる。チリ政府への主題概要は四月末に提出する。
四月十二日に猪苗代の鬼沼、時の谷の、時間の倉庫の起工式で改めて設計を見直す。
時の谷の庭園計画はゆっくり時間をかけて進めねばならぬし、コチラもチョッとは造園の勉強をしなくてはならない。
勉強は面白いから、近代和風庭園を鈴木博之氏に学ぶという方法もあるのだが、彼は厳しく指導するだろうと予想されるので、しばらくは無手勝流でやろう。
近代和風庭園は小振りの寺をやる時にやってみたい。
「時間の倉庫」は地中の建築でもあり、それ故に光を介した時間を主題としている。
大方の設計は修了し、確認申請もおりたが、これからの実物化に並々ならぬ努力を傾注しなければならないだろう。 内、外共にコンクリート打放しの建築である。最近のコンクリートは少し計り工芸的に流れ過ぎている。安藤忠雄氏の影響力である。内外、そして、床の一部もコンクリートのまんまの建築であるから、その仕上がりを十二分にコントロールしなくてはならない。南西の壁2枚、北東の壁2枚の仕上がり、色調、ツヤ、手触りを少し変化させる。大きくは変えぬが、視る人が視たら歴然とわかる位には変化させたい。
変化させつつ、一脈通じなければならぬから何で統一させるかだな。
その統一の方法、更には具体的なブツを想定している。不動点と真北の軸、北極星への軸として、立体的に表す。物として、表せぬ部分を照明の立体配置で表すのを試みる。
平面的な軸の表現は容易だが、立体的な軸の想定は、ともかく、それの具体化が仲々むづかしい。神秘主義にならぬように。神秘主義とは独人よがりということである。
つまり、真北の軸と、猪苗代湖、さらには安達太良山に向けた建築の軸を、やはり建築のコンクリートに刻印しなければいけない。「時間の倉庫」なんて気取った意味も無くなる。コンクリートに関しては、この二つの軸を具体的にブツに昇華させるアイデアをつめるかに、他ならない。
部厚いスケッチブックを持ち歩いている。遠くへの旅の時は沢山スケッチできるのに、東京での普段の生活ではスケッチ量は少なかったのだが、新制作ノートを公表するようになって急に、と言うか着実にスケッチの数は増えてきた。他人の眼を意識するというのは大事な事かも知れない。
創作物のスケッチと気にとめた風景や人物のそれとが、交互に描かれている。
創作物のスケッチを沢山したいのだが、そううまくはゆかぬもので、そんなに沢山のアイディアが湧き出るものでもない。では風景や人物のスケッチは、創作物のエスキスの為の準備運動みたいなものなのかと考えれば、どうやらそうとも限らないようだ。これはこれで独立した種族に属するものである。
面白いもので、人物やらのスケッチが続くと、これではいけないと創作物のスケッチが半ば意識的に始まるのである。
これも新制作ノート再会の役得であり、今度はそれが意識されているから、方法化の域まで進むかも知れぬ。
ヒマラヤの高峰K2である。そのK2の頂きに3本の行者ニンニクを植え込んだ。立派に成育する迄に2年はかかるらしい。今年の冬が勝負だろうが、この行者ニンニクは高山、寒冷地に成育するものであるらしいので、むしろ盛夏の方が危ないか。
天候の異変は植生に迄及び始めていると言うがこいつのDNAはどうそれに対応できるのだろうか。
鎌倉時代の再建大仏殿の立役者である俊乗坊重源に関心があって、少しばかり修験道の事をかじったりもした小史が私にはある。
今春私の研究室を卒業したA君はその私の関心に関心を持ってくれて、修士論文で山岳修験道場の事を調べ、遂には比叡山、千日回峰修行した、しかも2度も成し遂げた酒井阿闍梨のインタビューまで成し遂げたのであった。久し振りの高い水準の修士論文であった。
しかも彼はその研究を続けたいと、新聞記者になった。日本アルプスの山岳に近い信濃毎日新聞である。私の友人であった佐藤健の遠くからの影響もあったかも知れない。
だとすれば世田谷村K2菜園に築いたヒマラヤの峯K2のミニアチュールの頂に植えた3本の行者ニンニクにも、それぞれ名を付けるべきだろうと思う。
一番左の若いのはA君、中央は佐藤健、そして右端のは、重源と名付けたい。新旧入り乱れて山はうっそうとしてきたな。