石山修武 開放系技術論

石山修武研究室

世田谷村日記

最新の開放系技術論は世田谷村日記

開放系技術論 13 「生垣」36

「笹子トンネル災害を考える」

12月2日に起きた、山梨県大月市、甲州市にまたがる中央自動車道、笹子トンネルの事故は極めつけの人災事故であろう。9人の人の命が失われた。笹子トンネルは全長約4.7Kmの関東地方のインフラストラクチャーの交通網の重要ポイントである。自動車用のトンネル本体から吊り下げられたが、幅1.2mの天井板が270枚落下した。笹子トンネルは1977年開通した。その後充分な点検、メンテナンス作業は行われていなかったようだ。天井板の位置が地上走向面から5mの高さにあり、視認だけの点検が35年間続いたようだ。

この事故は決して見逃す事が出来ない。何故なら日本の土木工事に敷衍する問題を持つからである。以下にその理由を列記する。

一、このトンネル工事、事故は明らかに人災である。福島原子力発電所の3・11事故が明らかな人災によって発生したのと、奥深く通底する問題を持つ。

人災であると指摘するのは二点。

一、 設計ミスではないか。

二、 コンクリートは永遠ではない事はすでに建築分野では自然とも呼べる認識になっていたが、土木分野ではそれはどのように考えられているのか?あるいはいないのか。

一、 設計ミスと考えられる要点は二点。先ずこの天井板設置方式によるトンネル内空気の吸気、排気の浄化システム自体が正しいものかどうか。

次にどうやら、この天井板設置方式自体にメンテナンスの方法に対しての工夫が欠如している事である

この高速道路が開通する以前にわたくしは笹子トンネルを自転車で越えた事がある。その時に旧トンネル内の空気の汚濁にいささか驚いた。マスク無しではとても通れぬ位であり、長大なトンネル内の空気浄化が欠かせぬモノなのを知った。この平板をトンネル内に吊り下げる方式は現在日本に11ヶ所採用されている。この方式は建築で言えば天井裏換気である。長いトンネルには途中何ヶ所かタテ穴が掘られてその垂直な小型トンネルでトンネル内の空気の換気されている。いずれにしてもこのタテ穴式トンネルにトンネルの汚染空気を集める必要がある。平坦な天井板を並べる以外の方式にうといが、コンクリートの断面型がほぼ露出したトンネルも少くはないから、側壁から吸排気する方式もあるのだろうし、トンネル内にロケット噴射装置状が吊り下げられている方式もあるようだから、他の方式への移行が望ましいように思われる。トンネルというチューブに天井板を貼り付けると言うのは直観的にうまくは無いなと考えてしまう。吊り下げ金物の老朽化の問題ではあるまい。

二、コンクリートの寿命の問題も含めて、土木工事自体の寿命の問題については、より大きな問題を含まざるを得ない。福島原子力発電所の設置、そしてそのメンテナンスも含めて原子力安全神話らしきが歴然として在った事は、今は我々の共通認識である。そして、この笹子トンネルの大事故も又、同じ基盤を持つのである。土木工事の安全神話である。

そして日本全土にコンクリートを中心とした土木工事は蔓延している。今でもそれは続行しつつある。原子力発電所の事故の最大なモノは核分裂を起こさせる炉の損傷。すなわち原子炉のメルトダウンである。これが起きると周辺の土地は30万年の単位で元に復帰する事ができない。しかも、その恐ろしさは眼に視え難いのである。

笹子トンネルの大事故の基本は、わたくしはコンクリートの老朽にあると考える。経年変化ばかりではなく、東日本大震災等の地震によるトンネルの本体自体の歪みや、破損もそれには含まれる。何年も前にロスアンジェルス大地震後にアメリカの高速道路が破壊して崩壊した事があった。日本よりも高速道路建設は早くから始められたから、その後のコンクリート土木工事の耐久性への研究他はどんな状態なのか知りたいところではある。しかし、いつの世も重要な国家のインフラストラクチャーに関する情報は全てが公開されてはいないだろう事は当然、我々は知らねばならない。

そして、コンクリート工事もその老朽化の現実は眼に見えにくいものである。眼に見えにくいモノはいぶかしい。1995年、阪神淡路大震災で我々はその眼に視えにくいモノの実体を目の当りにした。コンクリートの巨大な高速道路、港湾施設の脆弱を知った筈である。巨大なインフラストラクチャー程に我々人間の眼に視え難いモノが巨大に在る。

論理上はダム、トンネル、橋梁、ハイウェイを含めたあらゆる土木工事物件の寿命は有限である。その現実に、更なる現実的対応をもって処するには?

コンクリートの土木建築物の廃棄、再生の方法を現実として考えなければならない。我々の新国立競技場プロポーザル案には、それに対する糸口を示している。

2012年12月4日 石山修武

開放系技術論 12 世田谷式生活・学校通信37 「生垣」35

新国立競技場の設計応募案、これは今、ウェブサイトに順次案の公開を開始している。東京オリンピック、アジア競技大会で使用された国立競技場がすでに在る。その是非はとも角として、設計競技に於いて求められたのは現競技場の完全な廃棄と、それにより出現する巨大な更地に新競技場を新築せよという事であった。スクラップ&ビルドのサイクルの再現である。

我々はその現競技場の破壊、廃棄は所与の前提として受け容れた。しかし、大構築物の廃棄、ゴミとして捨て去る事には異を唱えたいと考えた。2011年3月11日の東日本大震災、津波による太平洋沿岸諸都市、町村落の崩壊は大量のガレキを生み出した。その巨大な量の全ては2012年末現在いまだに大方が未処理のままである。沿岸広域に巨大なガレキの山を出現させている現実がある。その現実、これは建築の、そして土木工事の成果そのものへの文明史的に重大な意味が在ると考えていた。建設物総体の寿命は勿論有限である。無限ではあり得ない。あらゆる地上の構築物はいずれゴミとなるのがセオリーである。しかし、そのゴミ、ガレキの山の捨て方に大きな問題がある。東京の巨大なゴミ捨場である夢の島なる人工島自体がゴミの島である事を考えなくてはならない。しかも都市の廃棄物の最大量の物体は地下の汚泥を含めて、圧倒的に建設資材である。

新国立競技場建設によって発生する巨大過ぎる廃棄物、ガレキ、汚泥の総体は何処に捨てると言うのであろうか。我々はこの問題は重大であると考えた。環境の問題を考えよという命題中最大級な問題であると考えた。そして得た答えが、現国立競技場を廃棄する事で発生するゴミ、ガレキ、他の大半を現国立競技場を含む、サイト(敷地)周辺に再構築、再生させるというアイデアである。産み出される建築のゴミの山を敷地内に再び納め切る事としたいと考えた。東日本大震災の余りにも尊い教訓は破壊によって大量に発生するゴミ、ガレキはそれ自体を分別再処理せぬ限り到底処理し得ぬという現実である。少し計り飛躍した言い方に聞こえようが、大量過ぎる程に発生したガレキは、それ自体を更に砕き、細分化して別種の物体として再生せぬ限りガレキのママに放置せざるを得ない。使用済みの核燃料の廃棄の問題とはその深刻さの存在論的意味は異なるが、大きな基本は同様なのである。海洋への廃棄による埋立はすでに東京湾の生態系を破壊して久しいという事はすでに共有すべき認識である。それ故に、我々は現国立競技場の廃棄物は国立競技場自体のサイト内で閉じるサイクルを持たせたいと考えた。

この考えは圧倒的に理が在ると信ずる。

2012年11月15日 石山修武

開放系技術論 11 世田谷式生活・学校通信36 「生垣」34

建築生産組織、つまりは家を建てるという事であれば中小工務店、建築物であればゼネラルコントラクターの現場での建設労働の質のあり方、すなわちそれは形式を意味するが、変えられないか。が開放系技術の主目的である。

抽象論では解りにくい。極めて赤裸々な具体的記述を先ずは取りたい。先に述べた、近年の具体物の制作方法について述べよう。

北海道、音更町の「水の神殿」の庭園を含めての建設、この設計・デザインは我々がやった。この建設は第二次世界大戦中の戦闘機の格納庫、掩体壕の作り方をモデルにした。戦争は敗色濃厚となり専門の技術者、職人がすでに得られなかった。それで中学生をも含む非専門者集団が動員されて掩体壕が作られた。非常時には束の間のユートピアらしきが出現する。それを我々は2011年3.11の東日本大震災の復興の現場でも再び知った。1995年の阪神淡路大震災に於いてもその束の間のユートピアは瞬時出現したのである。

中学生の労働奉仕でもこんな凄いモノが出来るのかは、関東でも千葉周辺の掩体壕の調査で感銘を受けていた。開放系技術のイメージモデルになり得るのは知っていた。非専門労働者の手でモダニズム教条の学習とは異なる形式のモノが出来るのではないかのアイディアがそのモデルを基に出来るかも知れぬ。永年チャンスを待った。又、宮城県での幾つかの仕事を経て、アトリエ海との交流を得ていた。アトリエ海は佐々木君吉氏が主宰する職人集団で、多能工をチームとして編成し建築生産の現場を合理化しようとするものであった。現在の建築現場は余りにも多く、細分化された専門職が労働力として入り込み過ぎて、それが総体としての建築の価格を法外なものにしている。有能な多能工の育成は建築生産のあり方を変える一筋の糸になり得ないかが佐々木君吉氏の考えであり、わたくしも賛同していた。北海道の仕事に東北の職人を送り込むのはコストがどうなのかと危ぶまれたが、依頼者も又合理的なる経済人で四国から新規商品開拓を目指して北海道に進展した人物であり、地元在来工務店の工事見積りとアトリエ海の見積りを比較検討して、アトリエ海に工事を委託した。多能工が津軽海峡を渡ったのだ。

「水の神殿」を要するに、敷地内の土で型枠を作り、その土の山の型枠にシートをかぶせて、鉄筋を編み、コンクリートを打つ。コンクリートの養生が終えたら、型枠(と呼ぶより雄型としての土の山なのだが)としての土を掘り出し、大きなドーム状空間を得るというものだ。使用した土は庭園の土手として利用した。

コンラッド・ワックスマンのスペース・フレームのアイディアも又、土の代わりに工業製品を使ったものである。高度に工業化された部品はその組立てに専門家を必要としないという逆説らしきを引き起こすのだ。R.B.フラーのドーム理論も又同じなのだ。フラーのドーム理論は後にヒッピー達(非専門職)の知るところとなり、多くの木造ドームが作られ、ひいてはコロラドの砂漠にドロップシティと呼ばれる工業製品の廃材で作られた小複合体が製作される迄になったのである。

東日本大震災、津波により破壊された諸々の小都市や町集落は大洋に流され、アメリカ西海岸迄ゴミの山が漂着する現実を我々は知った。又、都市は一瞬のうちにガレキになってしまうのも知った。ゴミの問題は21世紀の最大級の問題であるのは言う迄もない。我々の都市は法人企業の営む各種経営体の現場、工場から排出される工業製品がアッセンブルされた現実でもある。

R.B.フラーのドーム理論による成果、金属工業製品による巨大なフラードームがシリアの砂漠で残骸になっているのに対面した事がある。あの光景は今想えば「ふたたび廃墟になったヒロシマ」の磯崎新のドローイングの先の光景であった。砂漠へと工業製品のガレキがすでに回帰していた。

コンラッド・ワックスマンのスペース・フレームによる飛行機の格納庫と、実ワ、我々の北海道音更町の「水の神殿」とは近い。共に格納庫として軍の、戦争の兵器の一つとして考えられた。ワックスマンは金属を想定し、日本の追いつめられた技術者は土を使ったその差異があるだけだ。

東日本大震災により出現した巨大なガレキの山に関して我々にはささやかなプロジェクトがあるが、今ここではガレキの後始末を考えつめた考えを御紹介する事で開放系技術論をスタートさせる事にしたい。

新国立競技場国際コンペティションの応募案の一部、ガレキによるマンメイド・ネイチャーのビジョンである。

2012年11月13日 石山修武

開放系技術論 10 世田谷式生活・学校通信35 「生垣」33

この論は創作論であり、静的な論のための論ではない。それ故、わたくしの近作のモノ、建築に限らず創作物の、できれば全てを貫く創作方法であって欲しい。

あらゆる創作には論と同様に前例がある。必ず継承例があり、系統樹らしきが描かれ得る筈だ。そう考えれば、わたしの創作論らしきが継承したいと考えているモノや論考には母体の断片らしきが在る。

R.B.フラーとイサム・ノグチの関係とも言うべきが、その関係そのものが母体であると、先ずは仮説を立ててみたい。それを更に踏み入ってみる。フラーの換骨脱胎としての川合健二の創作方法。そしてイサム・ノグチの素でもあるブランクーシの彫刻群、及びそれが及ばなかった自然との溶融体、すなわち日本的庭園の在り方との、又しても関係そのものに行き当る。日本的庭園の周囲の環境との接属の方法が、わかりやすく言えば生垣である。

我々の製作物でその生垣、そして開放系技術世界が最も端的に表れているモノは今のところは2009年に北海道音更町に作庭した庭であり、工作物でもある、「水の神殿」と名付けられたプロジェクトである。その計画は2009年に完成した福島県猪猫代湖畔の「時間の倉庫」の、これは未完だが、建築物をとり巻き、包み込もうとした庭の計画に遡行する事ができる。

現在進行中のモノとしては東日本大震災の津波により破壊された宮城県気仙沼市の安婆山植樹計画(2012年)があり、ベトナム・ダナンでの庭都市計画がある。又、応募案に終ったが国立新東京スタジアムの計画、これはC.Y.LEE、G.ツィンマーマンとの共同作業により生まれたが、その計画案も含めたい。

2012年11月10日 石山修武

開放系技術論 9 世田谷式生活・学校通信34 「生垣」32

はじめに

この論は不定期に連続させる。自身の備忘録として記すが、他に少しでも役立てばとも考えての事なのは今更言う迄もない。書き方は意図的に断片化を目指す。河原の石コロ群程の広がりは得ようにも得られまいが、ガレキの一片であろうと、目指したい。それを組み合わせて楽しみ、考えて下されば望外の満足も得られよう。作業を進めるに従って、順次自分でもガレキの再構成を試み少しはましな全体へ組み変えようとは考えているが出来るかどうかは知らない。

なので全体の形は意図的に放置している。それは述べておきたい。意図されたバラバラである。

しかし、考えの軸だけは述べておきたい。できるだけ身の廻りの技術、デザインから始める。そして時に脳内光景と呼ぶしかないある種映像、言葉の姿を変えたモノに及んでゆく事、それはその時々の偶然とも呼ぶべきの手にゆだねたい。

この方法だけが大きな軸である。

アポロ11号がアームストロング船長を人類初の地球外惑星の衛星である月にその足を着地させた。そしてアポロ13号が月への到着に失敗した。乗組員が小さな事故が起きた宇宙船の故障を、地球との壮大な通信、切実極まる交信の下、船内にあったガムテープやらで手づくろいして、小さな縫いモノ仕事の如くをやって、そして母なる宇宙船地球号に帰還した。

あの二つの事件、対になってようやく一つの黙示録的啓示とも言うべきを残した。それも今は昔のことである。

わたくしのこの開放系技術論はどうやら、あの出来事を振り返ってみようとする意欲の許に再始動する。人間は、と言うよりわたくしも又実に愚かだ。大事な事は、それが大事であるからこそ大きく忘れやすいものだ。

生垣に関する小エッセイを30回続けて、それとの連続を考えついたのは、小さなわたくしにとっては、アポロ13号の宇宙飛行士たちの必死のガムテープによる、宇宙船修理と同じようなものなのだ。偶然に頼る、場当たりな対応の仕方に過ぎぬ。でも、このような方法しかわたくしには無い。少なくとも、それこそ自分自身の思考を、自分の手のひらに納められる安心さは他に得られない。では、少しづつ日記を記す如くに始めたい。

2012年11月9日 石山修武

開放系技術論 8 世田谷式生活・学校通信33 「生垣」31

生垣を巡る考察は世田谷式生活・学校に参加して下さっている人々への少々肩ひじ張ったお話しとして展開させている。31回目のここに来て何故そんな原則を振り返るかと言えば、どうやらわたくしの方でその原則を忘れて勝手に遠くへはじけ始めているからだ。

もう一度、そもそもの始まりに話しを戻したい。何の為にこんな事を書き続けるかを自己確認する必要がある。

 

世田谷式生活・学校は東京の世田谷地域には世田谷なりの、それらしい生活スタイルらしきがあるや、無しやの主題を巡って出発させた。

そんなモノは無いと、世界は皆音を立てて同質へ向けて雪崩れ打っている、が正論であるのは知らぬわけではない。みんな同じ、極限すれば大消費型生活の中に居て、不安を感じ始めてもいるだろう。人間はそれ程に今に安住する程に愚かな者ばかりではない。だから実ワ、皆が皆そんな現実を、これじゃあどうしようもネェな、ナイワネと感じているのも又、確かなことではあるまいか。

 

わたくしの、このウェブサイトの全体は、今は少し計り錯綜としてきている。どうしようもネェなと感じているわたくし自身の最大級のどうしようも無さは、実ワ、そこに現われている。気取って言えば露出している。その、どうしようもネェなの最大は世田谷村日記と併走させようとして始めた筈の開放系技術論ノート日記らしきが停止してしまっている事だろう。開放系技術論は紆余曲折してはいるがわたしの考え、及び行動の中心軸の一つである。それを自覚して始めようとしたのではあるが、自分の能力不足を最大の因として今は停止している最中だ。その無惨さは、停止の野ざらし状態は見ての通りである。

が、おっとどっこいなのである。

世田谷式生活・学校の巷談の如くに始めた生垣に関するおしゃべりは、コレはわたくしが構想していた、つまりホラを吹いていた「開放系技術論」の一部であると、今日、ようやくにして気付いた。そのように意識したのは今朝だ。その前は意識できなかった。

だから、中途は省くが結論として、今日のこの生垣31から、これを停止していた、影の日記にしようと目論んでいた開放系技術論として、これ迄のささいなモノに接続したい。

つまり、生垣ノートは開放系技術論の重要な章立ての一つになるだろうを、今確信したのである。わたくしの確信のもろさはすでにサイトの読者諸氏の知るところではあろう。でも、もろさを自覚しているからこそ、時にそのもろさを取りつくろう、昔で言えば針仕事、つまりは身近な、でも総合的でありたいと言う一念への視線がこれじゃあ駄目だぜの状態を復興計画へとかり立てさせもする。

今日のこの「生垣」31を影の日記の停止状態であった「開放系技術論」に接続して下さい。

2012年11月7日 石山修武

世田谷式生活・学校通信32 「生垣」30から前の記事をお読みになる方は、コチラをクリックして御覧下さい。

開放系技術論 7

技術論6で示したわたくしのドローイング(スケッチ)は熊谷市の代島さんの家づくりの予定地に初めてうかがった際のものである。都市、あるいはその郊外の典型的な大量消費型生活の容器である商品性の内に抜き差しならぬ位に呑み込まれてしまっている場所(敷地)では無かったのが、とても大きな救いであった。

大雑把過ぎる土地見学での結論を言ってしまえば、わたくしは消費型の個人住宅を設計する意欲はもうすでにない。とやかくの理屈は述べぬが、それを設計する意味を全く見出す事が出来ぬ。それを為す事が多くの人々の生の意味と結び付いていると言う実感が全く持てぬのだ。

わたしの住宅である「世田谷村」の、ほとんど唯一の現代的意味合いは、これが私有住宅からの脱却の方法らしきを得ようとして構想された事に尽きるだろう。紆余曲折なアレコレの思考を経て今はそう考えるにいたった。本能的に私住宅を世田谷村と呼ぼうとした、その命名には唯一の意味らしきがあった。

この意味とは、わたくしにとっての創作の意味であり、同時に当然ながらその意味ができるだけの社会性を帯びて欲しいと言う事でもある。

 

熊谷の代島さん代々の家(代島家の意味である)の土地と屋敷林と長屋門を持つ母屋そして広々とした畑を見学して、ここならば「世田谷村」の次に行けるやも知れぬと直観したのである。わたくしの住宅設計のあるいは小建築の遍歴は世田谷村に於いて自閉した、と考えていた。自閉とは随分へりくだった言葉だが、えばって言えば自己完結である。アニミズム紀行7で書いた如くに治部坂のキャビンの設計に始まり、幻庵、開拓者の家を経て、世田谷村に至り、もうこの先は自己模倣しかあるまい、それなら、わたくしのする事では無いと腹をくくっていたのだ。

代島さんの御両親も含めた一家の印象はおいおい述べる事にして先ずはその土地のたたずまいである。この土地には先ず大きな神話学的スケールの風景があった。遠くに二荒山、赤城山、榛名山の雪をかぶった山容が眺められた。(日本という命名以前の裸形の土地神話)古代では二荒山と赤城山は犬猿の仲で争いが絶えなかったと言う。他にもここから眺められる山々の神話は実に宝庫と言うべきなのである。この神話的風景を代島さん一家に別の形で、つまり建築的構想を介して供せないかと先ずは考えた。

次に代島家代々の屋敷との関連で、遠い将来、これから設計するモノとの組合わせで、この地域の私的公共施設になり得るスケールがあると直観した。これは代島さんから御夫妻が将来ここに老人介護の機能を作り出せないかの意志があるのを、すでに聞いてもいたからなのだが。

更に、いただいたデッカイごぼうをつらつら眺めるに、ここは荒川の流れが作り出した沖積層でもあり、野菜が良く育ちそうである事。すなわち世田谷村では仲々うまくゆかなかった野菜づくりがここでは充分過ぎる位に可能であるようだ。

研究室では新潟市に協力して「越前浜農業体験ワークショップ」等も開催し、食と農への関心をかろうじて持続してきた。そのかろうじての細々とした持続を小さな形に出来るやも知れぬとも考えたのである。

 

以上を短く要約すれば、公共財としての私有住宅と言う事になろうか。これを更に要約したのが「開放系技術論6」で示した一葉のスケッチと、その命名となろう。

このスケッチを「ごぼう畑のある家」と、少し洒落て名付けようともしたのだが止めた。代島さん一家とさらに少しの考えの交流を深めてからの方が良いと判断した。

 

今は最年少の娘さんからの最初のスケッチと便りを心待ちにしているのである。この娘さんに関して、わたくしは勝手にアルプスの少女ハイジを連想してしまったので記しておく。娘さんも御両親もイヤがるかも知れぬが仕方ないのである。

スペインのグラナダのしかもバスの中のTVで、わたくしは初めて日本のアニメ映画「アルプスの少女ハイジ」に出会った。恥ずかしながら、アルハンブラ宮殿よりも余程感動してしまった。その時丁度、ハイジが初めて屋根裏部屋からカシの樹だったかの大木に出会うシーンであった。バスの乗客のアンダルシアの連中も、勿論ガキも皆固唾を飲んでハイジを見守っていた。運転手迄どうやら見入っていた。良く事故に遭わなかったものだ。それは忘れられない記憶である。赤城山や二荒山が視えたからなのだろうか、代島さんの娘さんばっかりの家族や奥様の印象もあったんだろう、土間もいいけど、屋根裏部屋の窓から山を見せてあげたいなと考えてしまった。

2012年3月30日 石山修武

※ 1 伝承では、巨人ダイダラボッチが土盛りして作った山とされる。土を掘った跡は榛名湖となった。榛名山が榛名富士と呼ばれるのは、このとき富士山、浅間山とともに作られたためである。ダイダラボッチが土盛りしている途中で夜が明けてしまい、土を盛るのを止めてしまったため榛名山は富士山より低くなった。柳田国男はこのようなダイダラボッチ伝承を全国から集め『ダイダラ坊の足跡』を著した。国土形成神話が村びとに親しまれる構造には民俗学の学問たる由縁が顕著に表れている。ダイダラボッチはそのアイコンであった。

※ 2 男体山と赤城山の神々はそれぞれ大蛇と大ムカデとなって争い、男体山が勝ったとされる。戦場ヶ原の地名はこのことに由来する。負けた赤城山は老神温泉で傷を癒して男体山に反抗した。老神とは負けた赤城山の神であり、男体山は隣接する女峰山と対で名付けられた。地名をたどると、地形、方位に表現される地勢のインフラストラクチャーが連続していくことがわかる。男体山には二荒山神社が、赤城山には赤城神社があるのもそのためである。

※ 3 原作はスイスの作家ヨハンナ・シュプリ(1827-1901)によって1880年に書かれた児童文学。シュプリはゲーテの著作『ヴィルへイム・マイスターの修行時代』と『ヴィルへイム・マイスターの遍歴時代』に影響を受けており、原本タイトルもこれを模倣している(『ハイジの修行時代と遍歴時代』)。これをアニメ化して「アルプスの少女ハイジ」とした。ハイジは少女の容姿でありながら、その表情には母性があり、黒い目の奥には父性を同居させたアイコンとして描かれた。アルプスの山々はそのようなハイジの総合を描写した。一方で、キリスト教の視角から山への回帰を願うハイジの志向はアニメでは排除されている。

※ 4 ハイジの「アルムの山小屋」の屋根裏部屋には干し草がたくさん積まれ、丸窓が開けられている。ハイジは干し草のベッドで眠るが、雪が降ると丸窓から雪が入ってきてしまう。屋根裏の丸窓はハイジに結晶化されたキリスト教史観から来る純粋性(善ではない)と、学習というややもすれば社会的背徳を孕む概念との微妙な接続点であったとも言える。

開放系技術論 6

「代島さん一家の土間とその囲い」(※1)

 

より詳細については、すぐに開放系技術論7で述べます。

 

代島さんへ

代島さんにお見せする前に、そして代島さんの娘さんからの最初のお手紙を公表する前に、このようなドローイングをお見せすることにしました。

その理由は、代島さんとの個別な関係から生まれる価値には、同時により多くの方々への価値があると考えるからです。

 

※ 1 このドローイングに表現されている柵状のモノはアイヌ民族はチャシと呼んだようである。

「フュステル・ド・クーランジュの『古代都市』に、竃のすわる土地は神の土地で、その周囲には垣根をめぐらされなくてはならず、“家族に所有権を保証するものは家の神”だ、とあります。もちろん当時のギリシアには、カソリシズムなどはないわけですから、ギリシア人の感覚は今のお話しのバスクに近くてもおかしくはないですね。」

網野善彦、姫田忠義対談より。網野善彦の発言。

代島さんが土間が欲しいと直観し、それに反応してわたくしが土地見学に際して描いた最初のスケッチの囲い=柵はこんな古層まで時空を超えて地下水脈を通じているものであるやも知れない。

3月30日 石山修武

開放系技術論 5

先日銀座TSビルでの坂田明のライブでの事。杉並の渡辺さん一家がいらして下さった。坂田明もたしか埼玉県の一軒家にメダカやミジンコと一緒に住んでいる。ライブは東日本大震災の被災地気仙沼復興支援のためのものだった。渡辺さんの杉並の住宅(※1)はわたくしの研究室で設計した。2011年3月11日以前、すなわち大震災、津波、原発事故以前の開放系技術型の住宅である。

渡辺さん一家の子供たちもライブには来てくれた。皆大学生になっていた。この子達は実ワ、渡辺邸建設にあたってはまだ実に幼少ではあったけれど、自分の家の建設に少し参加してもらった(※2)。

それはとも角、その子供達がどうやら皆、建築の径に歩み始めているらしい。お母さんが、それがとても嬉しいと言って下さった。小さい時に自分の家づくりに少しは力になったのが恐らく影響しているらしい。ほんの少しだけれど、自分のやってきた事を悪くは無かったのかと考えた事ではあった。

 

渡辺一家の家作りではわたくしは子供達に自分の居たい場所は出来るだけ自分で考えてごらんと言った。でもこれは仲々に難しくて上手くはいかなかった。デザインってのはそれ程わたくしが考えていた程には容易なモノでは無いのを知った。子供に仲々出来ぬのを万人に向けて開放するのは空理空論だと知ったのである。

渡辺一家には大工職の経験を持つ御祖父さんがいらした。とてもおだやかな方であった。御祖父さんは床貼り他の施工に参加して下さり、そのオジイちゃんの下で子供達もいささかの活躍をしてくれたのだった。工事現場は子供達にとっては危険の宝島でもある。指を切ったり、足を針で踏み抜いたりの危険は多い。

それを知りながらお母さんは敢えて、子供達を住宅工事の現場に野放しにした。英断であった。

作家の森まゆみさん(※3)に『現代の職人』でのインタビューでお目にかかった時、森さんは「町に子供を野放しにして、町で子供を教育するのが理想だろう」と言っていたのを記憶しているが、町と住宅建設現場は同じなのだ。共に子供らしい好奇心の宝島である。そして共に危うさにも満ちている。渡辺夫人はそれを知りつつ子供達を住宅作りの現場に放り出した。その英断の礎には勿論この大工職であった御祖父さんの存在があったのだ。

わたくしが子供達に自分の居る場所は自分で考えよと言ったのは歴然と空論であった。子供達はスケッチらしきを試みようとしたけれど、それは上手くいかなかった。なぜなら一切のトレーニング(※4)を受けていなかったからだ。何をどのように考えたら良いかの方法を知らなかった。わたくしはその状態を充分に感知していなかった。

一方、御祖父さんは立派な大工道具一式を現場に持ち込んだが、子供達に一切の空理を述べたりはしなかった。カナヅチはこう持って、こう振る。ノコギリの持ち方はこうだ、こうやって切る。の道具とモノに即しての、まさに即物主義であった。

御祖父さんの勝ち。

すぐに子供達は御祖父さんの輩下となり、わたくしの観念的な教室には戻ってこなかった。

子供達にはモノを作るためのスケッチなぞ考えるよりも、そこいらに転がっている木片を切ったり、たたいたりする方がズーッと面白かったのである。

 モノを考える、つまりその作りたい姿をスケッチするよりも直接にカナヅチやノコギリに触れてそれを使いこなす方に好奇心が集中するのであった。現場には近くの子供達も集まってきていたが誰もがそうであった。わたくしの教師としての才が欠けていたばかりでは無い。つまり、直接に素材(木片など)に触れる、それを加工する道具に触れる事が好奇心としては一番で、それをどう形作るか、つまりデザインするかは子供達にとっては二の次、三の次であった。それを今更ながら思い起こしている。

大学生になった彼等は皆建築学科で建築を勉強しているようだ(※5)。でも、小さな頃に御祖父さんの下で木片に触れたり、道具に触れたりの、それこそ最初の感動らしきはどうなっているのだろうか?いささか心配になる。

 

代島さん一家の子供達は皆女の子である。渡辺さん一家の子供達が皆、男の子であったのとは歴然として異なる。

最初に出来るであろう家に住み込むだろう、来年熊谷の高校に入学する女の子に早く会ってみたいものだ。女の子だから、カナヅチ振り廻したり、ノコギリやナイフを使ったりよりは落書きや、塗り絵みたいなのが好きなのかも知れない。そうであれば、最初に会った時が大事だから、早速女の子に与えたい宿題を考えてみたい。あるいは、今は女の子の方が男の子よりも余程元気でエネルギーに溢れているようだから、スコップやハンマーを渡した方が、やっぱり良いのだろうか。

※ 1 オープンテック・ハウス#2、2002年竣工。#1は世田谷村。世田谷村みたいな家が欲しいと言ってくださった渡辺さん一家を中心に研究室のスタッフ、大学院生も含めた建設チームによって、分割分離発注方式で自力建設された。その一部には世田谷村の部品と同じ工業製品が用いられており、鉄骨の構造体も同様に造船技術を転用して製作された。

※2 渡辺さんには3人の息子さんがいて、一番下は当時小学校低学年であった。彼らはシナベニヤやフレキシブルボードを加工して学習机やベットなど、自分たちのコーナー(部屋ではない)を製作しようと試みた。大人に手伝ってもらいはしたが、きちんと実物が完成し実際に自分たちで使用した。

※3 森まゆみ(1954-)は作家、編集者。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊し、地域雑誌ながら一世を風靡する。今では一般化した「谷根千」というフレーズは編集組織の「谷根千工房」に由来する。また上野奏楽堂や旧岩崎邸などの保存を目指し、市民運動の立場からこれを実現した。森の社会に対する一貫した姿勢は、女性特有のリアリズムに根ざしながら、夢想を超える理想像を生活や地域の中に求め実践するところにあると言える。

※4 大学における近代建築教育は大学間の微細な差はありつつも、その大方はバウハウス以来のシステムに拠っている。これは教えやすく、評価基準が明確になるように開発された。そのために近代が100年の歴史を持とうとしている昨今では、画一的、均質と揶揄されがちである。しかしその一方で確かに不特定多数に必要十分なクオリティを浸透させてきたこともまた歴史的事実である。開放系技術は素人でも扱い可能な技術で、誰もが表現することを理想とするが、それもまた近代から生まれた側面を抱えていることから逃れ得るものではない。工業製品の組み合わせに代表される住宅価格への試行は、その前提に立った現代的実践の一形式であり、製図のトレーニングもまたそのような形式を発見できればこの矛盾は解決されるはずである。自力建設の場に従来の設計専門家が関わる意味はそこのところにある。

※5 注4で述べた大学における近代建築教育のもう一つの側面である。教育が技術と思想のどちらを教えるべきであるのか、日本の建築アカデミーは長年二分されてきた。関東大震災直後に佐野利器の「デザインは婦女子のすること」発言に代表される実務主義を否定することは困難である。東日本大震災から1年を経た現在の状況はこれに酷似している。しかしながら、開放系技術は人間の生命を守るという建築本来の使命を求めるからこそ、守る対象である人間一人ひとりの個別性に特化するのであり、表現行為を行わない人間は存在しないからこそ、まだ教育を受けていない人種である「こども」に多能工の始源像を求めるのである。

 

注釈:渡邊大志

開放系技術論 4

1.決して遠くはない未来へ向けて、新しく作る住宅と古い今御両親が住んでいる農家(※1)を合わせての地域の高齢者ケア私設センターになり得る住宅としての設計

2.代島さんのイトコさんに焦点を求めながら地域サービス業としての住宅の作り手=旧来の大工職人、工務店らしきのモデル化を試みる

以上2点を代島さんの住宅を設計する上での出発点としたい。しかしながらこれ迄の経験では設計者がクリアーに立てようとする仮説はあくまでの仮説に終始しかねない。立ち向かう現実はクリアーな仮説をみじめなモノに見せるのが常である。かくなるクリアーさは最初から少し薄汚れた形式にしておいた方が良ろしいのである。つまり、わたくしはこれ迄必要以上に小建築=住宅設計に方法的継続をもって取り組んではきたが、どうやらそれは現実にはあんまり受け入れられはしなかった。その現実を一方的に間違っていると居直るのはこれもクリアーだがひ弱過ぎる。それ故に少し計り設計方法のモデル自体を意図的に非クリアー、非明快なものに準備しておきたい。実に守旧的な平面計画、小建築の形姿に関するスタディの準備もしておきたい。その準備の核は土間である。代島さん夫妻は土間がどうやら欲しいらしい(※2)。この土間像は代島さんの実家の農家の土間が原点にあるようだ。

 

2013年の春、つまり娘さんが熊谷の高校へ入学出来るように住宅建設のスケジュールは決められている。つまり竣工迄1年しかない。学生時代、住居論(※3)を著した吉坂隆正先生(※4)から住宅設計をするにはその土地の春夏秋冬を体験しなければならぬと教えられた。先生の仕事場は有名であった自邸(※5)の庭にあった。プレファブの現場小屋みたいなモノであった。沢山の人間が入り込んでまさに飯場小屋の趣があった。夏暑く冬は寒いのであった。先生の御宅も断熱材などは無く裸の重量ブロックだけが外と内を境界づけるだけであった。四季の移り変わりはそれこそ身にしみたであろう。それで住宅設計に際しては春夏秋冬の土地の様子を体験せよと教えたのであろう。

今、流行の消費型住宅は高断熱、高気密で室内気候は四季折々とは無関係とは言わぬがそれとの断絶を一義としているのは間違いない。

 

わたくしの室内気候に対する考えの第一は、梅雨というシーズンの無い北海道は明らかに別として、日本列島の大方はアジアモンスーンの類型に属しているという事だ。恐らく地球上でも稀な穏やかな気候帯に属する。

別の言い方、考え方をすれば大方の住宅を作りやすい土地は建物を建てる前に、すでにアジアモンスーンの大自然のシェルターがかかっていると考えても良かろう(※6)。このシェルターの恵み、つまりは自然そのものを屋根として最大限に意識したい。

屋根、庇はだからシェルターというよりも二次的なフィルターの如くに、観念としては意識したい。デザインは第一に意識である。少しどころか大いに性急ではあるが、時間はあと1年しかない。急がねばならない。娘さんの高校入学の方が、シェルターかフィルターかの考案よりは大事である。

そう言えば、代島さんの娘さんに関してだがどうやら彼女は新しい家の住人の最初の一人になるような話しもあった。おじいちゃん、おばあちゃんの実家を仮住まいして、そこから高校に通学するのも考えられるが、しのびない。やはり両親がついていてあげたいという訳だ。おじいちゃん、おばあちゃんの家には大きな長屋門(※7)があるようだ。代島さんは高校生の頃は長屋門のひと部屋で過ごした体験がある。その自室の階上にはごっつい小屋梁が丸見えの屋根裏空間があり、その隠れ場所のような感じがとても好きだったと言っていた。そう言えば彼はカンボジアの「ひろしまハウス」を撮影した時には床に寝ころんではるか上空の屋根裏を熱心に撮り続けていた(※8)。

屋根裏の小屋組に強いノスタルジーがあるのやもしれぬ。

 

アジアモンスーンのシェルターを意識する、つまり天然の屋根を意識するって事だが、そうすると、当然、大地の問題になる。つまり土間である。

 

伊豆の江川家の土間、そしてその上空にかけられた大架橋は良く知られている(※9)。あそこの土間に豪然と立ち上がっていた大黒柱と、土間のカマド、そして諸々の土間に関連する神棚の記憶が鮮明によみがえってくる。

※ 1 代々熊谷に続いてきた代島家には、かつて養蚕をやっていた古い母屋が残っている。代島さんは桑の木に囲まれている風景が記憶にあるそうで、この母屋や周囲の果樹園などとの組み合わせも計画に含まれている。

※2 代島さんの奥さんは生活とかかわる文をテーマにした随筆家である。代島さんが奥さんの希望として最初に述べられたものは、1階に土間、2階はバラックのようになっていて色んな人が泊まれる、ことであった。

※3 『建築学体系』第一巻 彰国社、1970年 は吉阪隆正による住居論から始まる。今和次郎の「日本の民家」に流れを組む「ヒューマニズムの建築」という早稲田の本流の視点から、都市の住居論の端緒に家政学を置いた。その上で、自身のル・コルビュジェの下で学んだ体験から生活と住居の関係を「24時間の周期の中で分業される3つの行為」と「各生活行為の行われる3つの場」によるマトリックスを用いた類型学によって従来の生活学に変わる学問を目指した。

※4 吉阪隆正(1917-1980)は建築家、早稲田大学教授。スイス大使を務めた父親の家に生まれる。1950年第1回フランス政府給付留学生として渡仏し、1952年までル・コルビュジェのアトリエに勤めユニテ・ダビタシオンの現場などに携わった。アトリエには当時クセナキスや前川國男、坂倉準三らがいた。登山家でもあり、その後早稲田で教授として教鞭を執るが登山のためにあまり授業には出て来なかったとも石山は反芻している。代表作に八王子セミナーハウス、ヴェネツィア・ヴィエンナーレ日本館など。

※5 ル・コルビュジェのドミノ理論を踏襲した鉄筋コンクリートによるラーメン構造を骨格とし、柱梁間は重量ブロックを積層して塞いだ建物。周囲には池のある庭があり、池に面した開口部のみに有機的な形態を用いた。

※6 アジアモーンスーン気候のシェルターの考えは、川合健二から引き継いだ住宅用エンジンのアイディアなどにも見ることができる。3.11.を経験した現在、その考えはクリーンエネルギーを用いたエネルギー供給システムなどと結びついて、建築と都市を横断する視点がより鮮明になった。

※7 この長屋門は行田の忍城の裏門であるとの説もあるらしく、近くの小学校に通うこどもたちが毎日その前を通って行く。

※8 ひろしまハウスは2006年に竣工式を迎えたが、その後ウナロム寺院の要望によりカンボジア式の屋根が架けられた。三段式の屋根が仏足のさや堂として屋上に増築された。2階の吹き抜けからは今は仏足の裏越しに細い無数の柱が天空へ伸びて屋根を支えているのが見える。

※9 伊豆の江川家は韮山に代々続いてきた名家で、江戸時代は代官を務めていた。木造民家や蔵を含めてた建物群が当時のまま保存されている。中心の母屋には1261年に日蓮聖人が書いたとされる棟札箱が残されており、築700年以上とされる。そこには50坪を超す大土間があり、その地面は赤土、砂、石灰に苦汁を加えて練りたたき固めたものである。木造の大架構が大かまどを含めた土間全体を覆う無柱空間は民俗学の分厚さを空間で体現しているかのようである。

注釈:渡邊大志

開放系技術論 3

我々が名作と知る住宅、つまりそう教育されてきた、そして教育してきた諸々。例えばル・コルビュジェのサヴォア邸、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸、等は設計者はその土地を見て設計を開始したとはとても考えられない。土地の前にある種のイデーらしき(※1)が建築家の側に確実に存在していた。一方、フランク・ロイド・ライトの落水荘、アルヴァ・アールトの夏の家、等は土地が先ずあって、それに触発されて、土地との関係作りを前提として住宅建築が発想されている。

両者は全く別の種族に属する。更にわたくしはそれとは別の種族に属そうとしている。

代島さんの住宅を設計するに当り、3月中旬には土地を学びに埼玉県熊谷に出掛けようの予定にした。わたくしとしてはその土地を見学する前に何等かの準備はしたいと考えている。でもそれは平面図のイメージであるとか、小建築の姿形だとかを用意して行こうと考えているのではない。今度はそれを意図的にやらない。でも平面図のアイデアや小建築の姿形とは別の何ものかを用意して出掛けようとは考えている。それが何であるかが、かく言う「開放系技術論」の重要なポイントなのである。

先日お目にかかった代島さんはこんな事をおっしゃった。

「実家のある地域にはイトコがいて、ソーラーパネルの取り付けやら、色々な雑工事やらを地域サービスの形でやってるんです」

この方には是非ともお目にかかる必要があろう。住宅=小建築の建設に最重要なのは設計と同様に、あるいはそれ以上に建設会社、工務店、大工職人さん達の建築生産組織(※2)らしきである。いくら良かろうモノをデザインしても、実際にそれを作ってくれる人々、組織がキチンとしていなければ良いモノが出来るわけも無い。そして現代ではそれを見つけ出すのが途方も無く困難である。先ず理想的な職人さんに出会う確立はゼロに等しい。理想的な職人とは、かつてわたくしが『現代の職人』(※3)で書き続けた如くの像である。しかしながら振り返って考えてみてもアレで取り上げた現代の職人中に大工、棟梁らしきはすでに皆無であった現実が在る。現実は直視しなくてはならぬ。あの本ではほぼ10年をかけて職人らしきを訪ねたが、家を作る伝統的な意味合いを持つ職人らしきには遂に出会えなかった。つまり、わたくしが理想としたい職人さんは家つくりの大工達には居ないと覚悟しなければならない。

代島さんがイトコさんの話しをなさったのはできれば協力させたいの意があるのだろう。大工職人というよりも地域サービス職のイメージが強い方であるらしいのは良い。

 

現代に於いて、最も理想形に近いプロフェッショナルはいきなり言うが老人介護のデイケア等に従事している人間達ではないか。かつて、わたくしは多能工の如きモノ作り人間像を思い描いた事がある(※4)が、あれは見果てぬ夢幻であった。

 

代島さん夫妻もそれ程遠くない未来、隣りに在るご両親の大きな旧農家を使用して老人介護センターの如き場所にしてゆきたいの希望もあるようだから、その夢に対して、今から少しづつ人脈、地脈作りをするのもプランとしては良いのではなかろうか。

だから、今度の久し振りの住宅設計のプラン(平面図)はすぐには用意しないけれど、3月中旬までにはもう少し広々とした、そんな計画に向けたマスタープランの如くは用意したい。
 1.地域老人介護センターに向けての前進基地の人脈、地脈作りのマスタープラン
 2.地域サービス業としての家作りプロフェッショナル(イトコさんを中心とする)イメージプラン
 の二つの大方を用意したい。

 

以上の目的の為にインターネットを上手に使った情報集めをする(※5)。熊谷市を中心とした埼玉県域に情報収集のいくつかの拠点を得なくてはならぬので早速それに向けて動けるようにしたい。

3月2日 石山修武

※ 1 一般にはル・コルビュジェは近代建築の5原則やドミノ理論が前提にあったとされ、ミースは俗にユニヴァーサル・スペースを前提に説明される。しかしながら、コルビュジェのそれはサヴォワ邸との前後関係に疑念の余地もあり、また、ミースの建築は神社にも近いとも言われ、ユニヴァーサル・スペースなどという単純な理屈だけで説明がつくものでは到底ない。

※2 歴史家の渡辺保忠は『日本建築生産組織に関する研究』(1959)において、日本の建築史を建築生産史の観点から描き直そうとした。開放系技術もこの点を引き継いでもおり、日本の建築生産史へのまなざしは具体的には現場の職人さんの組織化という実践に結実する。

※3 石山修武『現代の職人』晶文社、1991年。

※4 石山修武『秋葉原感覚で住宅を考える』36頁「素人でも家は建てられる」晶文社、1984年を参照。近年では『住宅建築』2002年10月号「石山修武とオープン・テクノロジー」建築資料研究社、などを参照。

※5 石山修武「開放系技術論2」注6を参照。

注釈:渡邊大志

開放系技術論 2

住宅設計の依頼に来室された代島さんと、設計他を引受ける前段階の大枠、あるいは基盤(※1)について話し合う。

代島さんからは建設予定地、大方の予算。そして、こんな風な事考えて欲しいという概要。そして実家である熊谷市での代島家(※2)の歴史、将来住宅が建てられて後の地域に働きかけ果していきたい高齢者のケアーハウスとしての遠い将来、実家の再生案も含めた新住宅とのコンビネーション、イメージ等をうかがった。新鮮な事が少なくなかった。ご両親が保有するいささかの広さを持つ畑での野菜づくり、又、本職でもある映画、映像作りのいわゆる小屋にもなり得たらなあの希望もうかがった。

東京での今の暮しを一度片付けて田舎へ進出するのだとの強い意志がある様だ。奥様の著作二冊と、代島さんの著作一冊もいただく。

大方望んでおられる事は把握できた様に考えたが、まだ生活体験の薄いスタッフにいただいた本を通読するように指示した。

 

わたくしの方からの設計他を引き受ける条件としては、
一、設計のプロセス、つまり代島さん御夫妻とのやり取り(※3)を、守らねばならぬプライバシーの枠を熟慮した上で社会に公表させていただく事。
二、社会に意味ある作業を第一とする事、つまり建築雑誌等に作品として発表する等の枠の外での仕事(※4)にする。
三、設計料とは異なる方式(※5)での我々の労働への報酬を考えていただく。
の三点をお話しした。

三点共にこれ迄のわたくしの経験の外に在る考えなので、実はまだ不明の部分が多いのであるし、代島さんとて充分に理解されたわけでもあるまい。それ故に具体的な作業を進めながら少しずつ明快にしていこうとなった。
四、もう一つ、これはわたくしの青くさい抽象論でもあるが、住まいを作る事はそれぞれの人間の生き方の表現なのであるから、依頼主も設計作業に参加、自己表現すべきである事(※6)も話したが、これはまだ具体性にとぼし過ぎて代島さんはむしろ色々と要求して、それで出てきた答えに住んでみたいとの事であった。

依頼主の夢(※7)、あるいは意志を依頼主がどんな形式で表現すれば良いのかの提案をしてみる必要がありそうだ。二〇一三年三月迄に娘さんの学校の件もあり、一部住み込めるスケジュールが条件である。三月中旬に我々より最初の提案をし、同時に敷地見学他を行う事になった。本日は土地写真を沢山いただく。

これで、これまでのお附合いとは別に著作を介しての人物、土地、予算、工期はほぼ把握できた。

代島さん(依頼主)が帰られた後で研究室としての具体的な対応案を先ずどのように考え始めるかを相談する。
一、インターネットに依頼主とのコミュニケーションをどのように表現していくか。
二、どのようにその公表の了解を得るかを具体的に考えようとなる。
一に関しては、現石山研のウェブサイトでの位置のデザイン(※8)。これはすぐに決定した。
二については、公表前にやはり依頼主の了解を、しばらくは実験的に取るべきであろう。お互いの信頼関係がしっかりとしたら、これは少し省略しても良いかも知れない。ともあれ社会性を持たせる事が第一であろう。

3月1日 石山修武

 

昨日の代島さん(依頼主)との話し合いを想い起してみる。話し合いの中から具体的デザインのきっかけを得られるとすればである。こんな言い廻しをせざるを得ぬのは、やはり理論と個別解との関係(※9)がそれこそ十分に理論化されていないからだろう。

開放系技術論の中枢は誰でもデザインは可能(※10)だという事である。そしてデザインの上手下手は、端的に言えば高級低級の階層の外にデザインの意味を発見しようとする事でもある。何故ならデザインの高級低級、上手下手は方人に潜在する表現欲=自由への意志を閉じ込めてしまう方向に軸を持ちやすい。そしてそれはモダニズム=近代デザイン教育=建築デザイン教育によって作り出された基準が基幹になっている(※11)からである。近代デザイン教育、建築設計教育にたずさわる人間達の集団的意志は極めて守旧的=自己保身的である事が多いのである。つまりデザインを評価せねばならぬから、当然ある基準を持たねばならず、その基準自体がそれ程に理論化もされていないままが事実なのだ。

 

昨日の話し合いで、例えば代島さんからは「土間があって、その廻りに何かが配される感じ」という要求があり、興味深かった。しかしモダニズムの枠の内には土間は無い。今はいい加減な多様化が哯われてもいるが、俗な多様化と、わたくしの言いたい個別化とは全く異なる。

バウハウス(※12)にルーツを持つモダニズムと、日本風モダニズム(※13)には大きなズレがあった。京大(※14)の西山夘三の寝食分離(※15)の理屈、生活改善運動の如きが日本風モダニズムでもあった。そしてそれは同じ京大の建築教育の創始者の一人でもあった藤井厚二の営為(※16)とは全く異なるものであった。東工大の建築教育のバックボーンであった清家清の営為(※17)は西山と藤井の折衷主義とでも言い得ようか。それ等のいずれもがバウハウスのイデオロギー(※18)とは大きな距離があった。そして多くの住宅作品がその大折衷主義、歴史としての意識せざるゴチャ混ぜ主義の如くから生み出され、日本の住宅表現のどうにもならぬ主軸となったのである。

3月2日 石山修武

※ 1 西洋的近代を江戸期の枠組みに接続させた日本の建築・住宅生産システムにおいて、町の工務店からゼネコンと呼ばれる企業形態に至るまでの設計施工方式が現在の大きな基盤となっている。原理的に考えれば、この枠組には設計料という概念は存在し得ない。そのため本来設計事務所というデザインを商品とする職能組織はこの枠組の中で対価を求める名目が立たないはずである。これはデザインが施工技術の中にあった江戸の大工棟梁の職能と性質に拠る。開放系技術もまた住むことの表現(=デザイン)は住まい手(=作り手)にこそなされるべきとして、設計料を否定する。しかしながら、その理論はそれ故に素人でも施工可能なほど容易で安価な技術によって支えられるべきであるという部分に、中間マージンを含む設計施工体系と根本的に異なる原理がある。しかし、その場合の設計主体の労働への対価の新しい意味が創出され、共有されなければならない。

※2 代島さんからは、祖先に代島久兵衛という和算の算術師がおり、久兵衛が作った算学の問題が神社に奉納され文化財となっていることや、行田の忍城の裏門が実家の長屋門となっていると子どもの頃に聞かされたことなどの歴史が話された。

※3 やり取り、つまり交信はアーキグラムによって近代建築史の中で一つの建築の雛形として確立された。開放系技術は、より多くの建築の専門職ではない人たちに容易に、安価に住宅を建設することを可能とさせる技術を配布することにもその実践の一端があり、独立した価値を持つものだと考える。そのために今回、代島さん夫妻と私達の交信もネットを介して読者のみなさんに同時中継している。その対価は0円である。

※4 ここでの「枠」の外とは、開放系技術論1の注1にも記したような建築家の自己擁護的な世界での価値に終始することによる建築的価値への疑念を含む二重の反芻を呈示する。

※5 本稿の注1と併せて、設計料と呼ばない対価の呼称を考案する必要がある。このことは従来の設計業務を基盤とする限り設計家の自己否定になりかねず、開放系技術の実践をオペレーションする立場にもまた確固たる理論が用意されるべきである。この点は次第に明らかにされていくだろう。

※6 そのためには、依頼主(建築の専門技術を必ずしも持たない人間)にも扱うことの出来る技術を提供することへの解決が必須である。これには二つの原理が考えられる。一つは剣持玲の規格構成材理論に代表される、仕組みそのものを変えること。これには工業生産された建築部品を生活者に役立てるためのより直裁な流通形式の考案が含まれる。もう一方は、情報技術に代表される技術の進歩による解決。建築を包囲する技術は、そこに住まう人間に比して加速度的に進化してきた。これについて松村秀一は「技術と人間の間の美しい関係」の必要性を指摘している(『INAX REPORT 188』内「大きな問いを立てる建築家」)。特に、開放系技術の伝達が初期の「D-D通信」からこのウェブサイトへと変化しているように、コンピュータによる情報収集、情報編集能力の飛躍的な向上を開放系技術実践の唯物的「現場」にどう具体的に取り込めるかは目下の課題であろう。

※7 夢について石山は世田谷村日記を介した生活の中で度々言及する。特にJ.L.ボルヘスにあるような構築性と溶融性を融合した媒介(メディア)としてみれば、代島さん(依頼主)の夢は我々の夢でもある。かつて石山が伴野一六邸に見出したように、開放系技術が生産・流通の論理の奥に表現が宿っていることを意識するために敢えて注釈をつける。

※8 2012年3月2日よりトップページの8つのタグの上に開放系技術論のタグがプカプカと浮いている。思考を一軸で表現するのは単純かもしくは過激かのどちらかであり、放射状は中心性が表現され過ぎる。以前石山研のトップページは螺旋状に描かれていたが、今回は浮いている。その意は建築のデザインと同義である。

※9 この関係を理論化するために単純化してしまえば、注6で記した前者は普遍化のための規格化となるだろう。しかし注6の後者におけるコンピュータによる複数の端末の多様性(つまり私たち)を考えれば、普遍化のための個別化の必要はそれほど無理なく理解されるのではないだろうか。

※10 その生産・流通体系との関係は注1で述べた通りである。創作行為との関係は注14に記す。

※11 近代デザイン教育のシステムはバウハウスによって確立された。結果的にそれは生産し易く、教え易い形態を採用した。教え易いことは評価がし易いことにつながり、これが容易に機能主義を合理主義と結びつける誤読を招きやすい歴史があった。

※12 モダニズムは具体的にはグロピウスがドイツから大西洋を渡ってハーバードへ移ったことでアメリカ型のグローバリズムと結びつき世界システムとなった。しかしそのモダニズムは初期バウハウスの建築教育運動の一側面しか表現していない。

※13 オリジナルな活動の後にアメリカ文明と結びついたバウハウス発のモダニズムをさらに日本は矮小化せざるを得なかった。これには敗戦国となった日本の戦後と同潤会に代表される住宅不足の早期解決が求められた中で、経験主義的な手つきで理論を触らねばならなかったことの当然の結果でもあった。

※14 武田五一が東大から京都工繊大へ移る形で東京から西へ移り、その後京大建築学科を創設したことに京大の根深い歴史的構造がある。その京大の西山が日本風モダニズムを採用したことは、東大の佐野利器、早稲田の佐藤功一ら各建築学科の創始者(佐野は辰野の弟子)である武田五一の同時代人の性質と相対化して考えると理解しやすい。

※15 食寝分離は生活を学問する姿勢から生まれたものであったが、肝心の生活が民俗学的なそれとは全く異なる戦後庶民の「お茶の間」生活を基盤としたため建築理論の骨格になり得なかった。後に東大の吉武研がこの経験主義的な側面をそぎ落とし、システムに割り切ることで51C型という全く似て非なるものを呈示したことがそれを証明している。

※16 藤井厚二の代表作聴竹居(1928)は京大のもう一つの歴史的側面である。日本の風土を基盤とする美学の上に近代を打ち立てようとした藤井の営為は、藤井を呼んだ武田五一の東大に対する雄健蒼勁ぶりがうかがえる。

※17 清家は自邸「私の家」にコンテナを1つ置いていた。そこにはコンテナの持つモビリティーやグローバルスタンダードとしての単位性などへの関心はなかったように思われる。詳細は石山修武の清家清ノート(『住宅建築』2008年1月号)を参照。

※18 ここでいうバウハウスのイデオロギーとは、グロピウスの亡命によってアメリカ文明と結びついたモダニズムを指すだけではなく、アーツ&クラフツの流れを組むアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデやグロピウスと対立したヨハネス・イッテンなどの初期バウハウスの包括的近代建築教育の発芽を指している。ここでは、これらの優劣よりもむしろ日本の住宅表現の主軸がそのいずれよりも厳密に精査されなかったことが問題であった。

注釈:渡邊大志

開放系技術論 1

母の家(※1)の建設で予定していた開放系技術論(※2)の実践的展開(※3)が、母の死によって少し遅れた。母の終のすまいの具体としての構築が不要になったからだ。わたくしの理論らしきはそれくらいのモノであったかと忸怩たる気持にも襲われた。まだまだ理論らしきは実人生よりも高次なモノであるの気分が抜け切らぬのだ(※4)。

それはそれとして、本日どうやら知人が訪ねて来る予定になっている(※5)。住宅の設計(※6)の依頼のようだ。

わたくしの自邸である世田谷村の自力建設(※7)以来、住宅設計はしないと決めていた。でも高齢だった母の依頼は断われる筈もなかった(※8)。母がお前の作る家で死にたいと言うのを、断われるわけが無い。実ワ、色々と考えて実行に移そうとする寸前に母の命が尽きた。しかし、アレは死んだ母には申し訳ないのだが実現しない方が良かった。開放系技術論の実行たらんと考えたのだが、自分でも納得できる水準のアイデアではなかったのだ。アイデアの水準くらいは自分で測定できる位にはなっている。あのアイデアは二流のモノであった(※9)。

今日訪ねてくる依頼者らしきは知人である。それ程深い附き合いがあるわけではないが、共にカンボジアの「ひろしまハウス」(※10)に訪ね、彼はTV番組の制作をした(※11)位の仲である。でも「ひろしまハウス」は今のところ開放系技術の実践としては「世田谷村」と並んで双璧なモノであり、彼はそれを体験している。彼もTVカメラを介して何らかの表現だってなした(※12)。だから、わたくしの考えらしきの一端は知る筈だ。

この依頼は引受けるつもりだ。チョッと住宅らしきの仕事から離れ過ぎたなの反省もある。

開放系技術の考えは住宅に関するモノでは決してない(※13)。もう少し広々としている。そうであって欲しい。しかし、逆説の匂いが我ながらしないでも無いが、住宅を含むモノでなければ空理空論に終るであろう。それが人間のためのモノや考えのデザインに関わる理論(※14)の枠組みである。人間のため、生きるためのモノ(※15)に関わろうとする者の基盤でもある。

 

今、今日お目にかかるであろう依頼主との話しの枠組みを想定し始めている。そしてこの想定そのものが開放系技術論のはじまりそのものであるのを確信した。それ故にその想定自体を広く、それこそ開放するのが良いと考えるに至ったのである。

東日本大震災後、三陸海岸気仙沼市の安波山鎮魂の森計画も、この三月には始動できるまでにこぎつけた。安藤忠雄さんの支援無くしては実現できぬものであった。気仙沼の人々と共に安波山お色直し100年計画とも呼ばれるデザインに参加するが、コレも又広い意味では開放系デザインの実行(※16)でもある。

3月1日 石山修武

※1 ル・コルビュジェの「小さな家」(1925)、ロバート・ヴェンチューリの「母の家」(1963)、毛綱毅曠の「反住器」(1972)など、近代建築史において建築家は母の家を建築家の母の家であることが持つ枠組みを表明せざるを得ない宿命の中で戦ってきた。それは建築家の自邸にその表明の場が代表される、自身の後天的思考の結晶を自己相対化するためのツールとして「母」という具体を扱うことに大きく拠っている。石山は母の家をその構造の外に持ち出すことから始めることを意図していたと思われる。

※2 開放系技術論のルーツの一端は川合健二のドラム管の家での実践と歴史家・渡辺保忠の「工業化への道」に代表される理論を結びつけるところにある。石山は度々レヴィ・ストロースのブリコラージュやB.フラーのジオデシック・ドームなどに言及しながらその断片を述べてきた(『生きのびるための建築』NTT出版、2010年 など)。1999年のギャラリー間での「開放系技術世界」展でも示されたように、「ひろしまハウス」と「世田谷村」での実践において結晶化させつつあったその理論体系は、常に現在進行形の状態を思考のモデュールに包含するところにも開放系と名付けた構造が宿っている。

※3 柄谷行人は『建築がみる夢』講談社、2008年 の収録論文「石山と私」において石山の世田谷村の活動を建築家世界の中で「唯一ほっとした」と評している。その真意は実行家としての建築家像にあった。

※4 2008年のジャズ・ミュージシャン坂田明との対談の中で、2013年の世田谷村の模型を眺めながら「人間は理屈では生きられない。理論は生活に負けちゃう。」と二人は談笑混じりに合意している(その様子は2008年8月1日、NHK「新日曜美術館」で放送された)。その笑いには趣味・生活は時に理論を超えていく、つまり「理論らしきは実人生よりも高次なモノである」と考える自己を笑うことの必要性、もまた未完の状態を胚胎する開放系技術の実践の基盤にあることを体現していた。

※5 2012年3月1日、13時より15時30分まで最初の打ち合わせが行われた。ここから既に開放系技術の実践のドキュメントは始まっている。

※6 この文意での「住宅の設計」という語彙には、いかに建築を定義付けるかという近代特有の意識が建築家たちにあった歴史的背景がある。

※7 世田谷村は分割分離発注方式によるマネージメント及び多能工と名付けた職種を横断する職人や素人集団によるセルフビルドによって建設された。石山自身が住みながら手を加えていくため、現在も未完の状態にある。

※8 注1に記した建築家にとっての母の家の枠組みを外すことには、石山にデザインが私より下手だと言い放つ母の存在が中心にあった。その詳細は絶版書房・アニミズム紀行1号、及び本サイト新制作ノート「母の家始末記」「音の神殿10-13」などを参照のこと。

※9 母の家は、倒れた母の生命を維持させる母の部屋の設計から始まり、搭状の建築が複数並ぶ形式に至っていた。

※10 ひろしまハウスはレンガ積みツアーなど、世界中からの有志による自力建設によって10年の歳月をかけて建設された。その通底には、設計施工はもとよりタイのビルディング・トゥギャザーやフィリピンのフリーダム・トゥー・ビルドの精神がある。

※11 注4に記した番組を制作した施主であり、これは2008年世田谷美術館での「建築がみる夢」展に併せて制作された。

※12 三脚を使わないハンディ撮影によるドキュメントであり、早朝のひろしまハウスがメコン川向うからの朝日で次第にメコン色に染まっていく様を表現したりもした。

※13 ここのところは注6と併せて重要な問題を孕んでいる。石山はそのために母の家を超小型建築と呼んでいた。

※14 民俗学に代表される人間の佇まいを学問する姿勢との接続が建築における今日的命題の一つであろう。住宅はその舞台として最もわかり易い表現である。

※15 「モノ」の語意には、その語源がマナリズムのマナであるとする中西進の説がある。折口信夫が言霊研究で音に宿るアニマを提示したように、人の佇まいそのものを指す。そのためモノは単なる物ではなくモノでなければならない。

※16 小林秀雄は『無私の精神』の中で「実行家」という概念を提示する。そこには実践の中に理論がある本来の創作行為にあるべき姿勢がある。

注釈:渡邊大志

石山修武研究室の読み物