閑谷学校の聖廟を孔子廟を真似たと書いた。そしてその前に閑谷学校は日本最美の学校建築であるとも独断した。
実ワ、中国大陸にそのルーツを持つ日本の伝統建築にはその源流の性格が著しく表れているモノ程に、わたくしは美を感じる事が薄い。特に建築物に於いてそれは画然とする。その理由を整然と言う力は今のわたくしにはまだ無い。でもいつかきちんと言い切れるようにはなりたい。
閑谷学校の聖廟は勿論江戸時代の武家社会を律していた儒教の顕現である。儒教の祖は孔子である。孔子は紀元前551年生まれ、前479年没。中国春秋時代(注1)の人である。とても中国古代史に踏み込む勇気はないが非学非才の身でも孔子の生まれ育った春秋時代の空気に触れる事は出来る。論語を読む事からではない。中国大陸や台湾に保存公開されている青銅器などの造形物に触れる事から、その一端の空気、孔子が生まれ生きそして死んだ時代の空気の香り位は嗅ぐ事ができる。
例えば台湾の故宮博物院収蔵の鳥首獣尊、春秋晩期〜戦国早期、紀元前570〜376は孔子が生きた同時代の優れた造形物である。鳥の首と頭、そして獣の身体を持つ想像上の生物が形づくられている。高さ200mm、口径45mm程の小品の青銅製の酒器である。想像上の生物を形取り、酒器としたところに孔子の時代を生きた人々の気持がよく現われている。
青銅酒器の持主であったろう君子諸公から製作者であった職人達の想像力が見事に表現されている。春秋以前の西周、夏の時代すなわち紀元前2000年〜1000年というような悠久の時の流れの彼方として差支えない歴史に於ける異界と言わねばならぬ世界とは、孔子の生きた春秋時代は画然として違うのだ。幾つかの造形物を体験してそう考える。春秋以前の西周、夏の時代の造形物、それは主に酒器、祭器の類だが、それはアニミズムそしてシャーマニズムの世界から産み出されている。後に鳳凰と龍に集約される王権のシンボルは人々の鳥と魚に代表される天然の神霊と現実界、すなわち天と地を結界する生物として崇敬された。シャーマンとしての王は天界と地霊を結び、その声を告げる聖霊とされた。
春秋時代以前の酒器、楽器に表わされた造形はアニミズムそのものであり、精霊の声を聴くための道具は聖具でもあった。春秋、戦国時代はそのアニミズムが満ち満ちた世界からの転形期であった。
孔子は巨大な転形期を人々と共に生きた。
建築は何時の時代でもその造形が時代を反映する、がしかし人々の気持を反映するのに最も遅れる宿命を持つ。洋の東西を問わず聖廟、聖堂の類が典型である。酒器や楽器の青銅器としての造形表現は、はるかに人々の気持のあらわれとしては、その巨大な器としての建築にはるかに先行し、密着して顕現していたのである。
世田谷式生活・学校のささやかな小話として書いている積りが少し飛び過ぎている。でも孔子が生きた今から2600年前の時代は確実に今につながっている。その事を岡山藩閑谷学校を介して考えようとしている。
少し話しを整理しておこう。
一、 閑谷学校には色濃く生垣的性格が濃厚である。
二、 それ故に閑谷学校は私見だが今の世に日本最美の学校建築であると言い張りたい。
三、 それは生垣の持つ重要な価値を典型として持つ。内に多様性を歴然として持つ、それは生命体(複合体)としての場所をやわらかく隔絶せずに仕切るモノを持つ。
四、 その場所は美学的な意味合いばかりではなくより広く文化的価値を所有している。
五、 儒教の学校であるからこそ内に聖廟そして神社を持つが、これは現代の文化への最大級の批評でもある。封建時代とされる前近代が近代の根底を照射するパラドクス。
六、 まだ書き進めてはいないが、校内には神木にも見まがう巨樹(かいの樹)が二双、人工的に植えられ育つ。閑谷学校の場所を統御しているやに視受けられる。そして四季折々に美しい植物の時間の変化が計算されている。周囲の山並みの老成した趣と同一化できている。
七、 その全体の価値を一言に要約できそうにないが祖霊とも呼ぶべきを含めた何者かへの畏敬が良く表現されているのではあるまいか。
2012年 10月26日 石山修武
注1 春秋時代
紀元前770年から普が分裂した紀元前403年までとされる。春秋時代の名称は、五経の一つで孔子によるとされる編年体の歴史書『春秋』に記述された時代という意味である。大きく三期に分けられ、殺された周の幽王の息子である平王が東周を建てたときから始まる。孔子が生きた紀元前500年前後は中期に当たり、小国外交の時代であった。普、斉、魯、鄭といった小国ごとの実権が君主から中級から下級の貴族(大夫・士)に移り、国単位よりもその氏族ごとの利権関係によって中国大陸全体がうごめいた時代であった。君主を害する新興貴族勢力も現れたため、魯の孔子はこのような伝統的な身分体制の崩壊に憤慨しこれが儒教の端緒となったという説もある。そして、孔子自身は大国同士の衝突を避けるための小国外交の一端を担ってもいた。
注釈:渡邊大志