世田谷区民のライフスタイルを考える会

石山修武研究室

世田谷式生活・学校

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世田谷式生活・学校通信33 「生垣」31以降はコチラをクリックして御覧下さい。

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世田谷式生活・学校通信32 「生垣」30

生垣12で日本生垣三景のホラを吹いた。

一、に修学院の大生垣

二、に伊勢神宮の板垣

三、に春日大社の拝殿からのぞきみる万葉の原生林とした

一と三は正直なところだ。二は不正直ではないが伊勢神宮そのものの成り立ちと同様な作為がある。入れておいた方が後々の話しの進め方も面白くなるだろう位の作為ではある。やはり、その先に建築と呼ばれる作為の固まりに入り込まねばならぬのでその布石でもある。

一の生垣、三の原生林は同種ではないけれど共に広葉樹林に属する樹、芝で成っている。二の板垣および伊勢神宮を囲繞する樹種は針葉樹である。三の春日神社の神体とも思える原生林は藤原家が神としてあがめたと言われる森林である(注1)。日本最古の自然林とも呼ばれているようだ。伊勢の杉木立とはひどく違った印象である。大らかでしかも怪奇である。グニャリグニャとねじれ曲り切った樹木が密生している。その森の光景は拝殿の春日大社の建築よりも太古を思わせる霊気、精気を持つようである。

それはさておくとする。

一の修学院の大生垣と、二の伊勢神宮の板垣とは明らかに異なる美を成し、異なる美意識から成り立ている。

686年に没した(生年不明)天武天皇の意志のもとに作られた(伊勢)神宮と、それから900年程を経た後水尾天皇とでは随分造営意識も、美意識も違うものだと驚かざるを得ない。建築とは言わず、それを産み出したとも考えられる生垣の感触がまるで異なる。どうやら天皇制そのものを作り出した天武天皇と、その900年後の天皇は別の人格美意識らしきの所有者であったかも知れぬ

2012年 10月29日 石山修武

注1

春日大社は藤原不比等が藤原氏の氏神である武甕槌命を春日神として御蓋山(春日山)に遷して祀ったことに始まる。もともと藤原氏は平城京遷都の際に藤原京から厩坂寺を移転して興福寺を現在の地に建立し、これを氏寺とした。そのため春日大社は興福寺との縁が強く、神仏習合が進むにつれて背後に控える御蓋山の森全体に抱きかかえられるように興福寺と春日大社は一体化していった。三条通から続く一の鳥居に始まる参道の軸はそのような歴史を結んでもいる。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信31 「生垣」29

生垣に似た類似品に人垣があり、板垣があり、石垣がある。人垣は無方向な群集の群れに非ず。前にも述べた如くその中に蛇使いとか、奇態なヨガ行者、あるいは大道芸人らしきが居ることが多い。動物を含め多くが、考えつめるならば破戒神、破戒行者、僧が身をやつした類の者がその中に居る。見世物とは本来そのような類のモノであった。異形のモノ達である。

板垣を代表するのは伊勢神宮のそれである。四重に板垣が布置されて、その中心に心の御柱なる異形が秘匿されている。その外は杉木立の荘厳である。アジアの大河とは丸で異なる清澄で透明な五十鈴川で身を清める真似事をして人々は内宮の板垣へと身を進める。ザクザクと砂利を踏む音が響く。森閑とした杉木立。水、砂利(石)そして板垣。20年に一度の式年遷宮による解体と再生のプロセス等を経て人々は伊勢神宮の内には秘匿さるべき何者も無い事をすでに知っている。西行が、何事のおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるると唄った頃より、それはすでに知られていた。

ただ深い杉木立の暗い様相と板垣が同質の素材で成り立っていたのが、逆に日本人のすでに確立されつつあった心性に響いた。板垣は木棺と同様にすぐに腐る。だから板垣はいかにそれが何重にも心の御柱を囲おうとも非常に脆いモノでもあるのは人々は知っていたのである。日本列島の大方はアジアモンスーンの気候帯に属する。おまけに夏、秋には台風が襲来する。雨量は膨大に多い。言ってみれば水と共に生きてきた。水は大地に恵みを与えるが同時に全てを時に押し流し、朽ちさせる。それを我々の先祖はすでに自然への知覚として加剰に刷り込まれている。

北九州を中心に古代より石の墓の歴史が無いわけではなかった。装飾古墳群は全く伊勢とは異なる美学、心性によって製作荘厳された。それは北九州沿岸、あるいは川に沿った内陸部にいたる民族が海を介して、特に朝鮮半島の民族文化と色濃く交流していたのを物語る。

又、伊勢神宮が位置する紀伊半島は古来石の文化が無かったわけではないし(柱1)、心の御柱の異形に頼らなくとも、熊野、大和地方、飛鳥地方には巨石崇拝も交じる山体神の崇敬の念はすでに強かったのである。

そんな古代アニミズムの系譜の中に何故、心の御柱と、それを秘匿するが如くの芝居小屋の囲いじみた板垣が出現したのであろうか。

2012年 10月27日 石山修武

注1

代表的なものに石舞台古墳が挙げられる。蘇我馬子の墓とされており、蘇我氏は稲目の代から百済経由の渡来文化を倭に伝えたことで知られる。小林秀雄は『馬子の墓』において、もし渡来した職人が木工大工でなく石工であったら日本に巨大な石造文化を築いていただろうと述べている。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信30 「生垣」28

 閑谷学校の聖廟を孔子廟を真似たと書いた。そしてその前に閑谷学校は日本最美の学校建築であるとも独断した。

 実ワ、中国大陸にそのルーツを持つ日本の伝統建築にはその源流の性格が著しく表れているモノ程に、わたくしは美を感じる事が薄い。特に建築物に於いてそれは画然とする。その理由を整然と言う力は今のわたくしにはまだ無い。でもいつかきちんと言い切れるようにはなりたい。

閑谷学校の聖廟は勿論江戸時代の武家社会を律していた儒教の顕現である。儒教の祖は孔子である。孔子は紀元前551年生まれ、前479年没。中国春秋時代(注1)の人である。とても中国古代史に踏み込む勇気はないが非学非才の身でも孔子の生まれ育った春秋時代の空気に触れる事は出来る。論語を読む事からではない。中国大陸や台湾に保存公開されている青銅器などの造形物に触れる事から、その一端の空気、孔子が生まれ生きそして死んだ時代の空気の香り位は嗅ぐ事ができる。

 例えば台湾の故宮博物院収蔵の鳥首獣尊、春秋晩期〜戦国早期、紀元前570〜376は孔子が生きた同時代の優れた造形物である。鳥の首と頭、そして獣の身体を持つ想像上の生物が形づくられている。高さ200mm、口径45mm程の小品の青銅製の酒器である。想像上の生物を形取り、酒器としたところに孔子の時代を生きた人々の気持がよく現われている。

青銅酒器の持主であったろう君子諸公から製作者であった職人達の想像力が見事に表現されている。春秋以前の西周、夏の時代すなわち紀元前2000年〜1000年というような悠久の時の流れの彼方として差支えない歴史に於ける異界と言わねばならぬ世界とは、孔子の生きた春秋時代は画然として違うのだ。幾つかの造形物を体験してそう考える。春秋以前の西周、夏の時代の造形物、それは主に酒器、祭器の類だが、それはアニミズムそしてシャーマニズムの世界から産み出されている。後に鳳凰と龍に集約される王権のシンボルは人々の鳥と魚に代表される天然の神霊と現実界、すなわち天と地を結界する生物として崇敬された。シャーマンとしての王は天界と地霊を結び、その声を告げる聖霊とされた。

春秋時代以前の酒器、楽器に表わされた造形はアニミズムそのものであり、精霊の声を聴くための道具は聖具でもあった。春秋、戦国時代はそのアニミズムが満ち満ちた世界からの転形期であった。

孔子は巨大な転形期を人々と共に生きた。

建築は何時の時代でもその造形が時代を反映する、がしかし人々の気持を反映するのに最も遅れる宿命を持つ。洋の東西を問わず聖廟、聖堂の類が典型である。酒器や楽器の青銅器としての造形表現は、はるかに人々の気持のあらわれとしては、その巨大な器としての建築にはるかに先行し、密着して顕現していたのである。

世田谷式生活・学校のささやかな小話として書いている積りが少し飛び過ぎている。でも孔子が生きた今から2600年前の時代は確実に今につながっている。その事を岡山藩閑谷学校を介して考えようとしている。

少し話しを整理しておこう。

一、 閑谷学校には色濃く生垣的性格が濃厚である。

二、 それ故に閑谷学校は私見だが今の世に日本最美の学校建築であると言い張りたい。

三、 それは生垣の持つ重要な価値を典型として持つ。内に多様性を歴然として持つ、それは生命体(複合体)としての場所をやわらかく隔絶せずに仕切るモノを持つ。

四、 その場所は美学的な意味合いばかりではなくより広く文化的価値を所有している。

五、 儒教の学校であるからこそ内に聖廟そして神社を持つが、これは現代の文化への最大級の批評でもある。封建時代とされる前近代が近代の根底を照射するパラドクス。

六、 まだ書き進めてはいないが、校内には神木にも見まがう巨樹(かいの樹)が二双、人工的に植えられ育つ。閑谷学校の場所を統御しているやに視受けられる。そして四季折々に美しい植物の時間の変化が計算されている。周囲の山並みの老成した趣と同一化できている。

七、 その全体の価値を一言に要約できそうにないが祖霊とも呼ぶべきを含めた何者かへの畏敬が良く表現されているのではあるまいか。

2012年 10月26日 石山修武

注1 春秋時代

紀元前770年から普が分裂した紀元前403年までとされる。春秋時代の名称は、五経の一つで孔子によるとされる編年体の歴史書『春秋』に記述された時代という意味である。大きく三期に分けられ、殺された周の幽王の息子である平王が東周を建てたときから始まる。孔子が生きた紀元前500年前後は中期に当たり、小国外交の時代であった。普、斉、魯、鄭といった小国ごとの実権が君主から中級から下級の貴族(大夫・士)に移り、国単位よりもその氏族ごとの利権関係によって中国大陸全体がうごめいた時代であった。君主を害する新興貴族勢力も現れたため、魯の孔子はこのような伝統的な身分体制の崩壊に憤慨しこれが儒教の端緒となったという説もある。そして、孔子自身は大国同士の衝突を避けるための小国外交の一端を担ってもいた。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信29 「生垣」27

江戸時代の儒教を基とした教育は、孔子廟ならずともやはりその学校の創始者の姿形を何かにとどめようとした。閑谷学校は岡山藩主池田光政(注1)の姿形をそこに写し込もうと意図された。孔子廟を模倣した聖廟が置かれ、神社も造営された。学校と呼ばれながらここはある種の聖域とされたのである。

聖域は地形、地政が大事だ。池田光政じきじきの丹念な検分を経てこの立地が選ばれた。

中国山地の山並みは老成した姿を持つ。老生期の山容である。そのおだやかな風景の中に聖域を構えるのはいささか人工の工夫を必要とする。奇異な風景も昼なお暗き大森林もないからだ。閑谷学校の人工の工夫の第一はその石垣である。高からず、低からず頂部に丸みを持たされた石垣だ。この絶妙な石垣の意匠がどのようにして生み出されたのだろうか。実に興味深いが本題とは外れよう。岡山県には日本三名園の一つ岡山城下の後楽園があり、築城技術、造園技術も秀逸なものがあった。又、県内に旭川、吉井川の大河を持ち、台風の通り径でもあったので治水技術も古来進歩していたのであろう。その一端が池田公の聖域とも言える閑谷学校創設に際し密やかに動員されたものだろうか。

この、他に類を見る事稀少とも言うべき石組のデザインは光政の子綱政の造営になる後楽園内の大立石にも通じるものであり造形の妙が生み出される基を想うことが出来る。この丸みを帯びた造形は中国山地の山容と通じるのである。

2012年 10月25日 石山修武

注1 池田光政(1609-1682)

播磨姫路藩第三代藩主で江戸初期の三名君の一人。織田信長の重臣であった池田恒興の次男、池田輝政の孫に当たる。輝政の死去により父と共に岡山から姫路に移り、後に姫路藩主となるが幼少を理由に因幡鳥取藩に減転封となった。1632年に岡山藩主に再転封となって以降、明治維新まで岡山藩主は池田氏となった。光政は学校領を設けて、閑谷学校を藩財政より独立させた。このことは、江戸初期の徳川政権安定のために転封や改易などが頻繁であった時代において藩の存亡に関わらず学校を存続させることを企図した光政独自の政策であった。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信28 「生垣」26

墓地の隣りの学校まで散歩が辿り着いた。足の向くまま気の向くままに近い出多羅目さの結果だろうが、そればかりでも無いかもしれぬ。

祖母の小田春代がまだ明けやらぬ早朝のお百度参りを続けてくれた北向き観音は日蓮宗不受不施派の隠れ寺とも呼ぶべきであった。現在の岡山県は江戸時代不受不施派が少い処ではなかった。徳川幕府は不受不施派を弾圧したが、岡山藩の池田光政は謂わゆる善政が多い名君であった。 不受不施の血を色濃く継ぐ春代の息子達は光政公が創立した藩立閑谷学校の血を引く県立閑谷高校で学んだ。それが誇りであった。

閑谷学校は学校の中に墓所ならぬ聖廟、そして神社を持つ学校であった。

閑谷学校は現在の日本に残る学校建築では最美な建築である。ここで使う美は形態色感に対する美以上の価値を含めたい。 より広い文化的意味も包含する美の可能性を含む。そう主張したい。

閑谷学校の講堂は国宝である。又、校域とも呼ぶべき場所を構成する多くが重要文化財として指定されている。より広い文化的意味とはそれをも含む意味である。

現存する日本に残る学校建築には現代建築のすでに形式と言って差支えない領域の一部分を構成する、今に生まれ生きる建築を全て含めて言おうとしている。

二〇世紀中葉からその世紀末に至る約半世紀の日本経済の繁栄の因は江戸時代の寺子屋を中心とする庶民教育にあったと良く解説される。岡山藩の閑谷学校はその典型である。数学的近代を超える可能性とつぶやいたが、そのつぶやきの素の一つは閑谷学校の建築形式の中にある。

2012年 10月21日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信27 「生垣」25

うちの生垣の内には庭がある。庭師が入るような御大層な庭ではない。庭樹もただただ行当たりバッタリの成り行きに任せた無造作なものである。庭のほぼ中央に梅の樹が在る。もう記憶も定かではないが、ウサギや幾たりかの小動物の死骸が埋められている。

人間の死体が火葬となり、墓地法(注1)によって墓地と定められる以前の墓地はどんなモノであったのかは良くは知らぬ。その形式に何等かの地域性も含めての規則らしきがあったのかどうかも知らない。人間達の住居群の近くに墓場も又群れていたのか。

でも、ここでは極く極く自然に小鳥も含めた小動物の死骸を梅の樹の根本に埋め続けてきた、世田谷村の生垣内の小さな歴史は、小動物ばかりではなく中動物の一員である人間の墓地にも通じるのではないかと思わせる。

あらゆる生物は死に関する儀式らしきを保有するだろう。生の神秘と共に死のそれも生物にとっては共通の最大級の儀式だろうから、それは人間だけの特性ではあるまい。

昔廃校を転々として巡った倉田康男主催の高山建築学校に参加していた。廃校はいずれ解体されるので遠く秋田県藤里の寒村迄遠征した事があった。廃校の隣は墓地であった。お盆の時には墓場には灯明のろうそくが入った提灯が沢山手向けられた。ひどく壊かしく美しい光景であったような気がする。墓場は藤里小学校の校庭を少しばかり狭くした程の広さであった。今想えば藤里町の墓地は小学校と同じ共同体の核の風格を持っていたなと気付く。

墓地の隣りの小学校という配布は誰が考案したのか知り様がないけれど、数学的近代を超える可能性もあったなあと、そう思い出している。

2012年 10月19日 石山修武

注1 墓地法

昭和23年5月31日法律第48号「墓地、埋葬等に関する法律」。その目的の一つに急速な都市化が進む戦後の日本における「公衆衛生」の実践があった。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信26 「生垣」24

聖地・霊場の類に初めて訪ねたのは何時、何処であったろうと記憶を探ってみる。小学校以前、毎夏を過ごした母の故郷、岡山県吉井川のほとりの小集落備前矢田、今は廃線になった片上鉄道の矢田駅の裏手の険しい坂を登った北向き観音の洞穴だろう。アニミズム紀行1にスケッチと共に記録してある。祖母の小田春代が日の明けやらぬ早朝、お百度参りを重ねてくれた不受不施派(注1)の隠れ信仰の場である。

次は1950年に飛び、再び母と共に暮し後に父も合流した都下三鷹市上連雀の貧乏長屋群から近い八幡神社の森だった。これもアニミズム紀行7に記録したので繰り返さない。

次はいきなり二〇代後半だったか、つまり1960年代の毛網モン太と共にした旅の数々、異形の建築シリーズの連載の為の聖地らしきの巡礼の如き旅であったか。

異形の建築を求めた旅は毛網の趣向に導かれたのが正直なところであったが、幾つかの秩父の巡礼札所を巡り、そして日本に当時現存していた栄螺堂(注2)の全てを見て廻った。栄螺堂は聖地巡礼の道筋をコンパクトにパッケージ化した建築の形式であった。

つい先日秩父の笠鉾を見学した。日本各地に残る曳山飾り山車は車輪をつけて山を動かすという神々の荘厳の類だが、それと比較してみれば栄螺堂の諸々は山そのものの神体が建築化され人間が山中を巡回、巡礼する形式であると言って差支えない。螺旋の上方下方への動線を内部化することによって栄螺堂は実に山を形象した形式になり得たのだ。ただ巡礼地、山岳に見られる旗や、のぼり、花飾りなどの道具立てが充分に成熟しなかったので曳山のような解り易さに到達し得なかったのだろう。しかし江戸時代巡礼、そして栄螺堂の建立、参拝の際にそんな道具立てがあったのかも知れぬが残念ながら知らぬままである。

栄螺堂についてはいずれ又考えてみたい。

下北半島の恐山を訪ねたのもその頃であった。

2012年 10月16日 石山修武

注1 不受不施派

日蓮宗における教義の一つでこれに基づく宗派の呼称。1595年に豊臣秀吉が各宗派に出仕を求めたことに端を発し、日蓮宗は受布施派と不受不施派に分裂した。秀吉、家康といった時の権力者による制度支配を拒んだ不受不施派は、その首謀者とされた日奥(1565-1630)の対馬流罪に象徴されるように苦難の道を辿った。

注2 栄螺堂

特に江戸期に創造された栄螺堂の形式は、それまでの水平方向に展開してきた巡礼の空間形式を垂直方向に初めて立体化し、かつ、西欧に見られる数学的均整のとれた二重螺旋構造に留まらない形態の言語を生み出したものとして注目に値する。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信25 「生垣」23

墓所、あるいは墓地について少しずつ書きためてゆこうと考えるに至った。世田谷村の生垣に生息する女郎グモ諸氏の観察も面白いのだろうが、やはりわたくしの才質とは遠い。今更ファーブルを読み直す時間もそれ程に残されているわけも無い。

墓場に内発的な関心があったわけでもない。近代的な常識人そのまんまにわたくしにとっての墓地は当然気味の悪い場所そのものであった。

幻庵主・榎本基純は植木職人にはなったが墓守り(注1)にはならなかった。昔、インタビューで会った事がある東北のネイティブアメリカン、ジェラルド・ワンベアーは墓守りになりたかったと言った。墓場のコケの匂い、大地の香り風の精霊の声に耳を傾けて暮したいと言った。もう20年程昔の事だったけれど、それは年々深く耳に刻まれて重く残る。

建築史家・鈴木博之も墓場にズーッと関心を寄せ続ける人間だ。この関心はジェラルド・ワンベアー程に内発的な、つまりは自分の素姓にまで奥深い遡行に依るものなのかは、いまだに知る事が出来ない。頭の良い男だから若い頃に建築史の分野を自分の棲家にしようと決めた気持の先にそれがあったのやも知れない。

書物と墓場は同一の種族に属する。

10月15日  石山修武

注1 墓守り

墓守りは日本の場合、古代天皇陵から近世の刑死者の埋葬まで含めて広くその存在があった。特に中世においては非人と称された河原者や犬神人と呼ばれる下級神官などが従事する卑しいものとされる一方で、足利義政に寵愛された庭師である善阿弥に代表されるように河原者からは芸能に纏わる人材が多く輩出された。このことは、無名の人びとの亡骸がそれを覆う闇や辺りの風が樹木を吹きずさむ音を含めて佇む風景にみる中世の死生観が、能に代表される夢幻の芸能と深い関わりがあったことを示している。

注釈:渡邊大志

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世田谷式生活・学校通信24 「生垣」22

写真:世田谷村の生垣。

この無目的、故に無作為にも感じられるだろう「生垣」駄文連載も22回目になった。思いもかけず、ここ迄続けてしまってから、例によって、いつもながらと言う事だが少しはキチンと整理した方が良いなと考え始める始末である。

それこそ無作為のまま、つまり自然の恵みのままに、うながされる如くに出鱈目を始めた。そして、それこそ不自然な位に続けようとしている自分を発見する。読者にとっては積まらぬ事だろうが、わたくしにとっては少し計り大事な過程なのである。もう人生にやり直しはきかぬ年令になった。だから、これ迄繰り返してきた、繰り返さざるを得なかった出鱈目振りを確然として、むしろ方法化せざるを得ない。

生垣について書いてみようという、わたくしの出発の無作為は大切なモノではある。でも、その大切さをそろそろ方法化してみせる必要がある。それ位の事は解ろうとする年令にはなっている。

今の「生垣」の書き方には恐らく二つの流れに集約されるであろう。

一、 東洋的場所の想像力の形式について考え継いでゆく事

二、 私的な想像力をある場所の概念の中で抽象化する努力をこらしてみる事

この二つの枠が視えてきた様な気がしている。

一は例えば大和三山や日光、男体山の場所に神性を視る我々の古代に連続するDNAを記述する事であり、

二はそんな聖域らしき場所の霊性を(つまりはアミニズムを視たいと想う)、わたくし自身の気持の中に構造を見極めなくてはならぬという決意である。

この二つの姿勢は決然として分化しているが混然としているように書く事は出来よう。

解りやすく弁ずれば、21にいたり書いているわたくしのクライアントであった幻庵主・榎本基純が植木屋になりたいと願った事について考えを突きつめる事が、一方に在り、若い時から関心を持ち続けた霊場の構造を外から考えてみる事でもあろうか。

それで、以降の「生垣」エッセイ連載はその双方を考え合わせて、生垣と墓所、墓地について、それをいささか遠くの目的地にしながらの、相変らずの駄文を連ねてゆく事にしたい。

2012年 10月14日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信23 「生垣」21

幻庵オーナーだった榎本基純さんの事をもう少し思い出したい。わたくしは彼の植木職人姿を残念ながら見ていない。でも地下足袋で柔らかい土の上を歩くのが気持良いって話はよく覚えている。世田谷村の生垣の内を長靴をはいて歩く感触と同じだろう。車文明の津波状の襲来と席巻以前、つまり日本で言えば一九五〇年代以前、小学生の頃の道路は未舗装であった。土やいささかの砂利交りがムキ出しであった。そして思い起こせば大地らしきの香りが充満していた。夕暮れの空には鬼ヤンマが群遊していた。夜の闇も深かった。闇はうごめいていた。子供達の気持の中にもうごめくモノが棲み着いていたのだろう。。

同じ一九五〇年代、バリ島にはマンダラと呼ばれる天才的なプロデューサーが出現していた。アメリカにはデューク・エリントンがビッグバンドを率いて出現し、共にパリ万博に出演しバリの音楽、舞踏そして片やモダーンジャズを世界に知らしめた。バリ島の音楽舞踏は大半がマンダラが新しく再編集したものであったようだ。アレはそんなに古いモノではない。

バリ島のウブドにマンダラの生家があり、その子供のバグースはバリ島随一とされる踊り手であった。でも男達が裸足で土を踏む事なくサンダルを身につけ、女達がワコールの下着を身につけるようになって、彼等も土から遠ざかった。バグースもジープみたいな車を乗り回すようになり、バリの集落の道の幹線はアスファルト舗装された。マウント・アグンを中心とした謂わゆるバリのコスモロジーも舗装された。

わたくしがバリ島に足繁く通ったのはそのバリヒンドゥーのコスモロジーの崩壊過程を調べてみたいと思いついたからだった。つまり民俗の持つアニミズムの崩壊、要するに近代の敷延との歴然たる関係に関心があった。

同じころにネパールのカトマンドゥ盆地にも良く通った。余程暇を持て余していたのだろう。そしてキルティプールの丘とも出会ったのだった。カトマンドゥ盆地の道は車は勿論入り込み始めていたが、まだ土がムキ出しであり、朝食べるホウレン草には強い香りがあった。

榎本基純さんとはネパールの旅も共にした。好きな処を見せたいという子供じみた気持が強かったのだろう。

2012年 10月13日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信22 「生垣」20

若い時に作った幻庵と名付けた小建築。そのオーナーは榎本基純さんだった。だったと書かねばならぬのはもう何年も前に亡くなったから。

大事なことは充分知らず小建築を作らせてくれ、附き合いをさせていただき、アッという間に居なくなった。今では類まれな出会いでもあったのを知る。人間の大半は愚かであるから生きている時には他に比すべくも無い出会いであるのに気が付かぬ。勿論わたくしもそうだ。

突然居なくなった榎本基純さんは、突然植木職人の弟子入りをした人でもあった。地下足袋をはいて柔らかい地面を歩く感触が好きだと言っていたのを思い出す。コケの匂いが良いとも言っていた。上品な人間であった。

生垣と題したテーマらしきで無駄と知りつつ駄文を書くのは、わたしには備わりそうにない上品さ、具体的には榎本基純さんが備えていた風味を、余りにも遅ればせながら吸い込もうとしているに過ぎぬ。

2012年 10月12日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信21 「生垣」19

 わたくしの腕前ではいかなるデジタルカメラでも生垣に巣を張る女郎グモの網は写真にとれない。それで一枚、クモとその巣をスケッチしてみた。女郎グモと巣に引っかかって浮いている色んな断片らしきはスケッチ出来る。でも巣の網そのモノはスケッチができない。それくらいに細妙にできている。簡単に素描できる位なら、獲物の小生物だって網にはつかまるまい。

2012年 10月11日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信20 「生垣」18

フェズだったかメクネスだったか、北アフリカのイスラムの城塞都市の広場に人垣があった。何だろうと近寄ってみたら人垣の中は蛇使いと、毒蛇らしきが鎌首を持ち上げて商いの最中だった。東京でも人垣が出現している中は、やっぱりウサンくさい類の何者かが商いをしていることが多い。

人垣は、何かをとり囲んで出現する。生垣が良いのは、どうやら、それと言って価値もなく、さりとて毒蛇使い程に胡散臭くも無い、何やら空虚を中にして発生するモノだからだろう。

だから生垣は神社と同じモノに属する。その中には何も無い。せいぜい鏡らしきがあったり、なのである。

沖縄のうたきはその典型である。少しだけ人の手で作られた如くの森の中に完全な空虚が在り、そこに神が来臨するとされる。空虚を囲む森はまさに生垣である。

2012年 10月10日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信19 「生垣」17

祇園祭りの山鉾を模したものの様である、秩父の笠鉾の行事は。京都の祇園祭は祇園精舎、すなわちインド北部の釈迦の生誕地縁辺の行事を恐らくは模したものであろうから、昨日視た笠鉾は遠くインドにその源があるに決まっている。

笠鉾が面白いのはエキゾチックな唐様の社の中に小さな塔を建て、その頂部に恐らくは榊、ナギの樹の小枝を飾り、下に雲の形を模した雲形の台で受けている事だ。つまり歴然とした唐様の上にアニミズムの造形が乗っている。それが要するに動くのである。動く形が動いているのが笠鉾なのである。うごめく水気混じりの大気、すなわち雲を頂きの台とする造形物の積層である。

笠鉾の笠は唐様の建築物をおおう、花の笠状の造形から謂れが来ている。つまり沢山の花びらがヴェールの如くに、滝の如くに唐様の建築を覆い尽している。その造形は見事なモノだ。

ブッダガヤの大塔に代表されるような、インド仏教寺院の石の塔はヒマラヤ山脈の山々を模したものである。その造形はアンコールワットの中央に立つ三つの塔にも及んでいる。秩父の笠鉾の花のヴェール、天から降り注ぐ滝の如くの花片による造形は、だからその源を北インドの古代仏教寺院の塔に持つのであろう。

人間の造形に関する伝達力の大きさ、速さは計り知れぬモノがある。


ところで笠鉾の花のヴェールの花片はやはり蓮の花なのだろうか。とすればあの造形は天から降り注ぐ蓮の花を模したモノであり、ブッダガヤ、カジュラホ等の仏塔を降り注ぐ蓮の花で模した事になり、これは良いアイディアである。

日光東照宮の造営にかり集められた職人集団の表現技倆とエネルギーが、内から唐様の建築を装飾として食い尽くし、同時に樹木、雲、そして花。アニミズムの精霊が建築を情報のヴェールで覆い尽くそうとしている。


しかも、その全体が動く。人間と共にうごめき一つの、そして集合の生命体群となる。

笠鉾はアニミズムの結晶体である。

2012年 10月9日 石山修武

121008

世田谷式生活・学校通信18 「生垣」16

あと三十分程で世田谷村を発ち、秩父に向う。向うたって日帰りの秩父行きだから別に発つというに程大げさなものではない。

秩父という場所柄というか、持たされたイメージと言えば江戸という都市に程近いが山深い村の閉ざされた暗がりかな。秩父困民党やらの歴史もあり、毛沢東の農村は都市を包囲するどころか、農村は都市に略奪されるの図そのままのものではなかったろうか。

わたくしの秩父はしかし、空あくまでも底が抜け切ったような坂本集落のそれである。二子山の峠を越えると八ヶ岳山麓の低い山並みが連なる雄大さへのゲートというのか、峠のこちらの、やはりそれは村なのである。今日は恐らく曇天の一日になろうから、わたくしの秩父とは異なる、すこし暗く閉ざされた山合いの村の感、その空気を味わう事が出来るやも知れない。

生垣にしても秩父にしても何かを囲う、囲われるというイメージは通じている。と、これは明らかな屁理屈である。屁理屈にも山並みとは言わず、ほんの一脈でも通じる何ものかがあれば良いのだが。

マ、期待もせずに発つとするか。

2012年 10月7日 石山修武

121005

世田谷式生活・学校通信17 「生垣」15

律気と呼ぶべきか、小心なのかは知らぬ。あるいは出鱈目なのか自由放胆の区別もつかぬ。一日か、二日生垣の勝手ながらの連載を休んでしまった。休んだの意識も薄い。つまり出鱈目であり自然である。自分勝手で自由でもある。

しかし、何処かにそれでも自分を律したいという自発は在るのだろう。それで今朝は二本目の「生垣」を書こうとしている。又、余程ヒマを持て余しているのを広言するみたいなものでもある。でも、ヒマを持て余して書くのはドローイングやスケッチにしてもこんな文章にしても、やっぱり極く極く自然に何かの役に立っている。人間は生物として喰べねば生きてゆけぬ。それと同じに、つまりメシを喰べるのと、何かを描くってのはどうやら、わたくしにとっては同じようなモノであるらしい。

と、ここ迄書いてきたら空が急に明るくなり一条の光が差し込んできた。まったくの偶然である。が、しかし天の啓示であると考えたって自由なのだ。今、一瞬、神の啓示と書くか〇.五秒程迷った。そして天とした。つまり書いた。この一瞬の迷いと決断は大きな出来事であるやも知れぬ。つまり、ヨーロッパ的思考に属するよりも非ヨーロッパ的思考を選んだのである。東洋的思考と書けぬ自分が居るのも知る。仏教的と呼ぶより、やはり八百八万の、一瞬一瞬を生きる神を頼りにしようとしているのであろう。

光が差し込んでペンの先が紙に写っている。その先端、つまり紙とペン先を流れ出すインキが字を生み出している。字と思考というのも微妙なズレがある様に思うな

今朝はそんな気分になっちまたので、烏山神社に少しは金をもうけさせろと祈ってから出掛けよう。

2012年 10月5日 石山修武

121004

世田谷式生活・学校通信16 「生垣」14

世田谷村の場合と書き始めている。

昔、そう言えばフランシーヌの場合がどうした、こうしたって唄があったなと、書き始めから脱線が始まりそうだ。書く事の無い自分の非才振りをさらけ出すのも変な場合だなコレワと思いつく。

昨日美術館で多くの美術作品を観たりしたので美術作品それ自体が生垣なのだと書こうとして、始めたのだがどうやら気が乗らぬ。別に依頼されて書いていないのだから、気が乗らなければ止めればいいのだ。手持無汰沙になりそうで、これも昨日美術館で何かの記念でいただいてきた小さな桐の箱を開けてみた。ペンらしきが入っている。くれ竹蒔絵物語と名が付けられた、どうやら筆ペンのようだ。書く事が無いので、それではこの筆ペンを使い初めしてみようかと思った。それでスペアーインキのカートリッジをセットしてみた。インキが筆先にしみてくるのを待って試し描きしてみる。仲々良い感触である。今愛用しているハイテックなんとかの名のついたインキペンもなかなかいいんだけれど、すぐにインキが無くなるのが玉に傷なのである。時々字ばかりではなく、ドローイングやスケッチ、これの区別はしていないのだが、を描くので消費量も少なくはない。

それにドローイングの線が固過ぎて、沢山の線を描かねば仕上がりに近附かぬのが難点でもある。つまり、それなりのエネルギーを要し過ぎるのである。

それでいただいた筆ペン、蒔絵物語りの名はとも角、その名に眼をつぶれば、これは丁度ドローイングには適しているなと直観した。これから、秋も深まり、太陽ばかりではなく、人間の方のエネルギーも弱くなる一方であろう。だから省エネの方向を取り入れるのは正しいのである。何々の場合というのは、何々に立ち向へばと同義である。

筆ペン、万年筆の場合、難点はインキの濃さを自分で調節できぬ事だ。つまり所謂薄墨が使えぬ。でも、これはまだわたくしの方の筆使いのテクニックがそれ程ではない、墨の濃さ薄さを入り混じえて描く程のモノにはなっていないので仕方無いのではあろう。

とは言えアニミズム紀行に描き込んでいるドローイングは薄墨まで多用はしていて、人知れず努力は重ねているのだが、コレワ知らぬが華であろう。

書く事が無いままに、ここ迄書いてしまった。実に無駄な事をしている。人生を残り少ないのに残念ではある。

世田谷村の庭は、その立体の構造から庭というよりも、むしろ一階と呼んだ方が良いのだが、小雨が降っていて生垣を巡るのも面倒である。それで二階から一階の樹や草を眺めおろしている。彼岸花の紅の散在と酔芙蓉の薄紅と白、そしてジンジャーの白の取り合わせが絶妙で、それはそれは美しい。

2012年 10月4日 石山修武

121002

世田谷式生活・学校通信15 「生垣」13

飼い猫が床に戻した。いつもの事で仕方ないな、誰か跡仕末しなくてはなと思っていたら、これもいつもの通り自分が踏んづけてしまった。

書く事も無く、これもいつもの事ながら才能まったくネェのに、どうすんだろうとボーッとする。書く事が無い時のいつものように散歩とあいなった。カメラもブラ下げている。何か撮るモノ、コトがあれば記録しておこうとは思っているのであろう。  生垣にはさざん花が二つ三つ花を咲かせ始めている。庭の端っこには彼岸花がこっそり咲いている。何年か前には不吉な位に群生していたのに、今年は少ない。露草は盛んに群れて咲いた。女郎グモ諸氏も相も変わらず手持ち無沙汰に自分の張った網の真中に手足を延ばしている。どれが手で、どれが足なのか解らない。折角カメラ持って出たのだから一枚撮った。クモの巣の網は細妙で丹精が込められている。そりゃそうだろう女郎グモにとっては喰う手段の飾り、つまり化粧でもあるのだろうから。

烏山神社に廻った。

勿論誰もいない。老人が一人小さな洋風の子犬を連れて鳥居のところで迷っている。神社の石段上にわたくしがのさばっているので、こちらの様子をうかがっている。ジイさんその妙な洋風の犬はアンタの人相に似合わないよ、と眼を走らせた。悪意を感じたのか、犬と老人は消えた。神社の境内にはクス木の大木が幾たりか在る。皆、根を土も露わにムキ出している。たっぷり樹間距離があるのにまっ直ぐ育っていないクスもある。世田谷村に自生したクスの樹は、廻りにねじけたマキの樹や、月桂樹、渋柿、他にミッシリ囲まれて、これでは何時迄経っても根は堂々と土に張り巡る事はあるまいといささか心配する。心無しかと言うよりもハッキリと傾いていて電線に触れそうになっている。感電でもしてくれたらビリッと態勢を立て直せるやも知れぬ。今朝は本殿だけでなく稲荷神社にも礼拝した。商売繁盛を本殿に願うのは失礼だと思い、やっぱり稲荷神社にした。神社と呼ぶには小さい。背を伸ばしたまんまで木の小さな鳥居をくぐればゴツンと頭にぶつかる位のモノだ。沢山捨てられている様なキツネの石像は色々なところが欠けていて、哀れというを通り越して、もう知らんぞとふてくされている様だ。それでも小銭を賽銭箱に放り込んだ。ここの神社は、放り込んでも、放り込んでも甲斐性の無い神様で、母は亡くなっちまったし、友人達も病の身が少なくは無い。放り込む銭の高が小さいのだろうと、一時は奮発して札までねじり込んだが何の効用も無い。バカヤロー、いい加減にしろよ!と捨て科白を残し、去った。

2012年 9月30日 石山修武

121001

世田谷式生活・学校通信14 「生垣」12

他人の自慢の多くは聞くに耐えぬ。生垣連載は、コレワ明らかに生垣を介して何やらの自慢話に過ぎぬとは先日友人から冷や水を浴びせられた。友人の冷や水は身体にこたえるが、こたえていたら人間が弱くなってしまう。生垣は勢良いけれど人間がネェ。最近歩くのにも足を引きずる様ではないかと、わたくしならば悪口を並べ立てるだろう。悪口並べたてるのも生垣をグデグデ書くのも、余りみっとも良くないのは知る。しかし、ここでひるんでいては何かがすたるのである。ひるんでいては確かに身体には良くなさそうだ。でも、これは医者に相談する問題では、断じて無いのである。

生垣とはと改まって考えることはすまい。ただ考えるられる限り生垣らしきの、日本三景ならぬ生垣三景を挙げてみたい。マア、生垣派の旗揚げ口上みたいなものではある。

一に修学院離宮の大生垣

二に伊勢神宮の板垣

三に春日大社の拝殿から遠く眺める古代よりの原生林

であろうか。

一は文句のつけようがあるまい。二は少々無理があるが、後水尾天皇が修学院の造営等によって武家・将軍の権勢に対しての批評をモノしみやびの形式を、武家には出来ぬ形式として作り出したのを先ず第一に挙げてしまったので、やはり二の矢は日本美の典型を挙げた。深謀遠慮である。勝手におしんならぬ深謀しているのである。

三はわたくしのライト前ポテンヒットである。これぞ生垣の王なのだが、それについてはいずれ。

2012年 9月28日 石山修武

120929

世田谷式生活・学校通信13 「生垣」11

写真:酔芙蓉の花

生垣の内の梅の老婆木のかたわらに、今では大きく育った酔芙蓉の樹がある。この辺り、すなわち世田谷区辺りでは大木と言って差し支えあるまい。数年前に角をいくつか曲がった先にあるお宅と言うか、アパートの庭に咲いていたのを無理を言ってゆずり受けてきたモノだ。ウチに来た時は実にささやかな、挿木程の小木であったがアッと言う間に育った。驚くべき成長である。

その時期はわたくしが中上健次の枯木灘他を集中して読みふけっていた時期であった。

中上と言えば芙蓉の花である。太宰治には月見草という位の決まりである。太宰は大嫌いな作家だが、中上は好きな部類に入る。しかし、J・L・ボルヘスが花の事など関心が無かった如くの膨大なテクストへの批評的接近には辿りついてはいなかった。だから中上の芙蓉の花は小説の中に出現しても生々しかった。匂い溢れる感があった。匂いが溢れてしまっては物語りの寿命は短くならざるを得ない。それは当り前だ。匂いはアッという間に流れ果て、消えるからだ。マルセル・デュシャンよりもはるかに高度な頭脳の保持者であったJ・L・ボルヘスの言説に一切の匂いや、官能的な気配はない。見事にけずられ切っている。マルセル・デュシャンの諸作品に官能の気配が一切そぎ落とされているように。でも、デュシャンは怪しいのだがね。

それを知ってから、中上健次の後期傑作の一切が読めなくなってしまった。だって文章には歴然たる知性の優劣が表現されてしまうからである。

であるから、昔程には世田谷村の酔芙蓉の花に心を傾ける事も無くなってしまった。

我ながら非日常系の人になりつつあるのを痛感する。

2012年 9月28日 石山修武

120927

世田谷式生活・学校通信12 「生垣」10

写真:天井にまで育ったパキラ。窓の外にはゴーヤや朝顔のツルが見える。

烏山神社の秋の御礼祭も終わり、静かな日々が戻ってくる。涼しくなって三階テラスのゴーヤやカボチャ、そして朝顔のツル共は心なしか精気が劣えてきた。昨夜は二階の月下美人が今年三度目の花を三つ咲かせた。この月下美人は知人が引越すので残さざるを得ぬ株をゆずり受けたものである。花は、そしてその香りは凄みがあるが、ぜい沢を言えば、葉の姿が良ろしくない。エネルギーが皆花の方へ流れ入ってしまったのであろう、この種族は。もう少し進化したら花をつける小枝という風が、しっかりした幹になり、そうしたら全体としたら堂々たる風姿となろう。

天井まで育ってしまいきゅうくつそうなパキラの、これは明らかに大木と呼びたいが、その大木はじつに実を沢山床に落とすようになった。家人がその実をを水につけてビニール製の小鉢10ヶ程に移したら芽を出した。こいつがキチンと育って木となり室内で育ち始めたら、世田谷村は生垣の旺盛さを誇るどころかパキラの森になるであろう。

涼しくなると自然に外の生垣よりは室内の植物群に眼がゆきがちなのはやむを得ない。もっと寒くなったら、今は室内に力無くかけられている知人達の画の数々に眼がゆくようにもなるのだろう。

芸術秋とは良く言ったものだ。

2012年 9月26日 石山修武

120926

世田谷式生活・学校通信11 「生垣」9

写真:農家の生垣から世田谷村へと連続する生垣

歩かなくなったらお仕舞だなあ、というのが身にしみる昨今である。早朝の生垣巡りもほんの数十歩に過ぎぬ歩行ではあるが、これだって歩くの一つだ。

わたくしの謂はゆる脚力は、すなわち足の力、歩く能力と言うのかな、は大したモノではない。特に背筋力が弱いので重い荷を背負って歩くのは実に弱い。昔、まだ20才の頃だったか、40kg以上の荷を背負って穂高岳の2600m程に位置する涸沢まで登った事があった。大きな荷の中にはカボチャが数個入っていた。どうしてカボチャを運び上げたのかはもう忘れた。夕暮遅く涸沢のカールに辿り着いた。もうヨレヨレの限界だって超えていた。背中のカボチャは一つも残っていなかった。一つずつ途中の登りで捨ててしまったのだった。

ヒマラヤを歩いた時にも苦しくて重いカメラを捨てようと思った。その時は強いシェルパが一緒に居て、重いカメラを代りに持ってくれた。こんな事書かねばならぬのも、歩く能力ならぬ書く能力の限界をさらけ出しているからである。書くに事欠いて、生垣を歩くにすり代えた、その仕末なのである。

生垣連載もまだ9回に過ぎぬ。別に中断しても何とがめられる事はないのであるが、人間は意地というつまらぬモノを背負っている。

じゃあ、ヨセバいいじゃないかと誰もが思うであろう。それが自然である。でも、わたくしの取得は非自然である事の自覚がある、その一点だけだからなあ。

2012年 9月25日 石山修武

120925

世田谷式生活・学校通信10 「生垣」8

写真:烏山神社、祭りの朝

早朝、隣りの神社へ出掛けた。日記にも記したが烏山神社の神輿は祭りの夜をどう過ごしているのか気になったから。神輿は居なかった。

それはとも角、やっぱり晴れた神社の朝は清々しい。多くの屋台の小屋掛けも荒々しく残っているが、それでも清々しい空気が流れている。本殿に日章旗がたすきがけにかけられているが、それでも清々しいのであった。

帰りにうちの生垣にも寄った。生垣と神社は通じているなの感を得た。

折角、生垣巡りを始めたのだから、ただグデグデと書き散らしていても仕方ない。これも折角隣りに神社があるのだから、この神社の神域と、うちの生垣の通じているのを書いてみようと思い付いたのだった。どうも思い付かぬと気がすすまぬタイプの人間なのであろう。

2012年 9月24日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信9 「生垣」7

写真:生垣の中の女郎グモ

雨が降っている。

こんな雨の日には生垣の女郎グモ諸氏はいかがしているのだろう。気になって傘をさしてクモの巣探検に出た。

ウーム。

驚いた事に、驚かなくっても良いけれど、全ての女郎グモは雨にも微動だにせず、巣のほぼ中央で手足というか全部の足、又は手を延ばしているのであった。

誠に御苦労様と言わねばならない。何処かに雨を避けて退避しているのは一匹も居ない。マア、クモにとってはクモの巣が家みたいなものなんだから、更に退避する場所も無いのであろうが。

しかし、良く良く眺めれば女郎グモが網を張っている、その巣自体が生垣の内のスキ間に嵌め込まれているので、雨はそれ程には降りかかってはいないのである。もともと家そのものが雨宿りしているのではある。女郎グモにとっては生垣のスキ間は大森林の中のようなものなのだろう。

クモの眼玉に生垣がどう写っているのか知りたいものだが、そもそもクモに眼玉があるのかどうかも、実は知らぬのに気付いてしまった。多分、あるのだろうと予測はつくのだが正確ではない。

いい年をして、知らぬ事だらけである。

鳥瞰図とやらがあるけれど、鳥の眼に人間が考えているような形式でモノの姿が視えているのかどうか?恐らく全く違うのではないかとも思える。だから鳥瞰図というのは正確には俯瞰図とせねばならんのだろうな。

2012年 9月23日 石山修武

120923

世田谷式生活・学校通信8 「生垣」6

写真:庭の真中の柚の樹の老木

生垣を書き続けるために今朝も生垣巡視に出る。雨の後でクモの巣はどうなっているのか気になったから。これでは生垣じゃなくて「クモの巣」だなあと、我ながら主題主義である。本の読み過ぎでバカになっちまってる。

クモの巣は皆、生垣のすき間に張り巡らされている。女郎クモ諸君はデザインのために、自己主張のためにネットを張っているわけではあるまい。エサの小虫やら大虫をとらえんが為に網を張っているのである。だから生垣の風通しの良い風の通り径らしきにそれはある。

生垣のスキ間をふさいでいる。成程なあと感心する。ファーブルの昆虫記でも読み直してみようかと思うも、その本は今はもう手許にはない。今日、出掛けに書店で買い求めようかと思う。生垣巡りは金がかかりそうだと不安がよぎる。用心したい。

さて、そのクモの巣の主達である。女郎クモ諸君。一匹一匹を観るに一匹ずつ皆、衣装らしきが異なるのに気付いた。つまり黄色と黒の派手派手しい、まさに女郎の如くのギンギンな色模様も決して一様ではない。少しずつ違う。

一匹一匹はまさにボッタクリBarのホステスさんみたいな風ではあるのだが、その表情はいちじるしく異なるのである。何故、ボッタクリBarのホステス風に派手なのかと考えるに、これは人間がそれを好むからである。このBar危ないな、やられるぞと思いながら、ついフラフラと吸い寄せられてしまう。そしてそのワナに引っ掛りボッタクられ、虫たちの場合命も落して、ホステスならぬ女郎グモに喰べられちまう。しかし、最近の若い女の服装の女郎グモ振りは凄いな。ほとんど裸で街を練り歩く風なのも居る。まさに女が女郎グモの本性を露出している風でありはしないかと、これはクモの巣巡視の旅の最中に考えた事ではなくって、今机上でペンを動かしながら思い付いた事である。

しかし、女郎グモとは良く名付けたなあ。名付けた人間のえらい。しかし、、正式名称は何と言うのであろうか?と正当な疑問も浮かんでしまう。やっぱり本屋に行かねばならぬのか。少しは勉強しなくてはならんなあ。何事もコレだから人生は短いのである。

生垣巡視が女郎グモ巡視になっちまう。

これはイカンと思い、仕方ネェ今朝は露にビッショリ濡れながら生垣の内にも入り込むかと一大決心。熊方守一を真似て庭を一巡する事にした。サンダルをとげのある樹のトゲが痛えの、痛くネェの、だから言わんこっちゃないのである。トゲを抜いたりで手間取るがやっぱりホンの数歩の巡行なのであった。ズボンの裾は勿論ビッショリ。露草が意外な程に群生していた。群生と言うのは大ゲサだ。多かった位の事である。

庭の真中の柚の樹の老木、恐らく五十年以上の奴の向こう側に、グルリと巡れる径らしきを見事にふさいで、ここにもお女郎さんが、しかもかなりデッカイ奴がネットを張り巡らせていた。一瞬避けて廻るかとも思ったが、たかが女郎一刀両断だと思い切り、網も切り、巣を切り拓いて前へ進んだ。でも全部壊したのではなくって半分位だから、又お女郎は巣を作り直すのであろう。又、明日も来なくてはなるまい。

と、小さな事件もあったが無事、ひと巡りできたのであった。実に花の数々が多いのに驚いた。

2012年 9月22日 石山修武

120921

世田谷式生活・学校通信7 「生垣」5

写真:世田谷村の生垣 クモの棲家

何も書く事も無く、これで生垣連載も敢えなく中断か、それ又良しと思ったが口惜しくもある。それで生垣巡視に出た。世田谷村の一階の空地は雑草がボーボーと生い茂っている。とても中に踏み入れる状態ではない。一週程前に写真を撮った時はこんなボーボーたる状態では無かったのに。生垣の中の巡視はあきらめた。サンダルばきの軽装ではとても入れない。

それなら生垣の外廻りを巡視してみようと歩く。巡視と言っても世田谷村は独立したブロックを形成してはいない。小さな猫の額はどの街区の一角でしかない。だから生垣と呼んでいるのは南と西の二片に面しているに過ぎない。

おしろい花とセージが咲き乱れているのはすでに書いた。いずれ書く事がもっと無くなってきたらこの花の事供は調べて書くことにしたい。南の生垣は流石に陽当たりが良くさざん花もツバキもサルスベリの樹も三メーター以上に育っている。三メーター半位かな。ここの処は二間と書きたいところだが、それ程尺間にこだわる世代ではわたくしは無い。戦後民主主義教育の落し子である。

樹木に関してはいずれ書かねばならぬだろう。しかし実のところ樹木に関する教養が我ながら稀薄に過ぎる。さざん花ににしても児童唱歌の「たき火」だったか、さざん花、さざん花咲いている。たき火だ、たき火だ、楽しいな あたろうか あたろうよ、位の連想しか思い浮かばぬし、ド演歌のさざん花の宿等を思い起こしてしまう実ワ、手合いだ。さざん歌の宿は避けたい。何となく。

それで、いささかを学習せねばと思いつく。大変なのだ、駄文と言えども書き継ぐのは。

この生垣にはドブねずみの類のわたくしでもホレボレとする穏やかな生命の如きを直接に感じ取れるのである。生命の如きなんてヘボ詩人に科白だが、も少し言えば人間の生命の有限と、小ささの自覚をそそのかす力がある。

小説も映画も絵画も、取り敢えず生垣に関するモノは思い付かぬ。

それで、仕方なく生垣を少し細かく点検した。

そしたら、クモの巣が多いのに気付いた。これでは駄文にもならぬので仕方なくその総数を数えてみた。一巡目では7つの巣を発見した。二巡目、つまり南の生垣と西の生垣を行ったり来たりなんだが、二巡目には9つ、何と三巡目には15個以上のクモの巣を発見した。やっぱり、細部を視るには細心さが必要なのだ。15個、と言うより15張り以上の方がいいか。クモの巣は連続しているようなのもあって、巣の集合は錯綜としていて総数を特定できぬのである。大きいのや小さいのやらが勿論である。巣の主であるクモだが、世田谷村の生垣に巣を張っているクモは女郎グモと呼ばれ。黄色と黒のレディ・ガガみたいな派手な奴が大半であると視た。15張り位の数のネットを張り巡らせて、その内13張り程に大きいガガや、小さいガガが手足を延ばして中心近くに居て、獲物を待っている。実に生垣はクモの棲家でもあるようだ。

2012年 9月21日 石山修武

120921

世田谷式生活・学校通信6 「生垣」4

写真:世田谷村の大生垣

いつだったか、声は掛けてはくれなかったが友人が世田谷村を通りかかった。 「熊谷守一の家みたいになってきたな」

の寸評があった。

熊谷守一は往時東京は池袋に居を構えた。構えたなんてものではなく、自由に勝手気ママに絵描きを楽しみ、フクローを飼い、狼と夫人と暮らした。普通の瓦屋根の家で、ただし庭が凄かった。居も含めて八十坪程度の広さであったが庭はそれこそ、うっそうとした大森林の姿を呈する迄に放置された。守一はその庭を日々ブラブラ一周するのが楽しみであったらしい。一周するたって十数歩位のものだったろうが、それだけ一歩一歩自分の森を愛していたんだろう。

わたしんところの生垣だけは熊谷守一の大森林に匹敵する大生垣である。そう想いたいわたくしが居る。守一さんみたいな仙人になりたいわけではない。俗臭プンプンたる自身は良く知っている。女の足を遠眼に視て雲から落ちた久米の仙人どころか、最近は深く潜行しているに違いないドブねずみの類である。

が、しかし。

この生垣にはドブねずみの類のわたくしでもホレボレとする穏やかな生命の如きを直接に感じ取れるのである。生命の如きなんてヘボ詩人に科白だが、も少し言えば人間の生命の有限と、小ささの自覚をそそのかす力がある。

2012年 9月20日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信5 「生垣」3

写真:世田谷村の生垣と錆びた金網。

昨日の本欄で金網の、つまりは金属製フェンスの錆について述べた。物質と言うよりも人間が製造する外気に面する物体は必ず酸化する。つまり錆びる。これは人間の生命が有限であるに通じる。人体の表面の大方、つまりは皮膚であるが、これも必ず劣化する。年を経るとシワが寄ったり、シミが出たりする。ツルツルピカピカな若さは一瞬の間に失せる。だから金属の錆が時に人間の気持ちに懐かしさの如くを呼び起こすのは、これは人間が年を経て、少し汚れて何かが積み重なることを表現してしまうのと同義なのである。

 かって岡本太郎は沖縄の人々の写真を撮って飽きなかった。入れ墨を入れたシワが深く彫り込まれた老婆の顔は、それは感動的なモノであった。又、東北の子供達の写真も撮り続けた。シワの無い、ツルツルした顔の群は、これにも又ひどく感動した。エネルギーが光り輝いていた。岡本太郎自身の顔は、結局終生ツルツルしていた印象が強い。深いシワを刻み込む事が無かった様に思う。

金属のフェンス、つまり金網が錆びて、人間の老人の如くに年輪を刻み、そしてようやくにして生垣の植物群に馴染んでいるのはとても面白い。

金属製品=工業化製品のこれからの、あり得べき姿を暗示しているようだ。

2012年 9月19日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信4 「生垣」2

写真:世田谷村の生垣。朝の光に照らされたオシロイバナの奥に、地名番地の小楯板がのぞく。

世田谷村の生垣はもともとは家人の母が作ったモノだ。その頃は家で犬を飼ったりしていたので生垣だけでは動物は出入自由だ。それではならぬと荒い金網も生垣に混ぜた。その金網は五十年程を経て錆びて、処々にほころびが見える迄に、これも育った。ようやくさざん花やつばきの樹と折合いがつくようになった。金属はさびるのが遅いので耐久性は良いのだが、自然の変転サイクルには馴染まぬところがある。

金網が錆びて、区役所がつけてくれたであろう、ブリキの小さな地名番地の 小楯板も錆びた。錆びて良い風になってきた。要するに世田谷村の生垣はようやく五十年以上を経てなんとか都市内自然の体をなしてきたように思われる。

2012年 9月18日 石山修武

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世田谷式生活・学校通信3 「生垣」 九月十七日、朝の生垣

写真:世田谷村1階土間から見た庭の生垣の風景

昨日思いたって生垣の写真をとった。朝すでに太陽が中央に昇っていた。光の様子が少し暑苦しいなと感じた。それで、今朝六時半頃の陽光で再び生垣を写真にとってみた。

光も風もまことにさわやかである。

でも昨日うるさいくらいにさえずっていた鳥の姿は今朝は無い。

前の農家の畑の生垣は茶の小樹である。それが小さな十字路を挟んで70メーター程続いている。十年程昔迄は世田谷村の生垣とお茶の木の生垣とは小さな並木道のように連続していた。世田谷村の西隣のお宅も生垣であったから、この周辺ではちょっと無い位の生垣の並木道があったのだ。お隣の家がどこかへ引っ越して、そこは駐車場となり、何年かして今の三階建てのマンションになった。

マンションには又、生垣らしきが植え込まれたが、それは以前のものとは比べようが無い。両側からワッとおおいかぶさってくるような緑のトンネル状は無くなった。

でも、惜しんでいても仕方ない。

世田谷村の昨年の夏はクヅの葉に占領されて、それはそれは凄まじい姿になった。それでもいいかと考えてもいたが、やはりこれは化け物屋敷だと自省した。クヅは退治した。それでウチの生垣は復活したようだ。

秩父の山から持ち運んだ山吹の樹はいつの間にか失くなってしまった。美しい花を咲かせていたのにと惜しむが、どこへ消えたのやら。

サルスベリの樹の花はもう秋で、盛りは過ぎたが、見る度に気仙沼の安波山に皆で植え込んだサルスベリの樹々を思い起こす。今年は花を咲かせなかったの知らせが来ていた。来年は見事な花を咲かせてくれるだろう。それが楽しみでもある。

夏が終わった。実に酷暑の夏だった。今は涼しい秋の風が通り過ぎているばかりだ。少しずつ生垣に手を入れて見ようかと又も、思いつくのだが実行できるかどうかは知らない。別にそうしても、そうできなくても、それが自然ならそれでいいやと考えるようになった。

近所の空地に咲いていた草花を掘りくり返して庭に植え込んだりもしたが、その花々は何年か経ったら消えてしまった。矢車草の大株も何処かへ消えた。掘りくり返して運んだ記憶の無い露草が、今はポツリと咲いている。どうして、ここに来たのか知らぬのが居る。

2012年 9月17日 石山修武

石山修武研究室の読み物