石山修武 世田谷村日記

2006 年4月の世田谷村日記
 131
 三月三一日
 他愛無い事ではあるが、今日で三月も終わりか。と、七時前起床。それでも四時間位は眠れたか。朝食をとりチェックアウト。八時前のリムジンで空港へ。九時頃空港着。混雑渋滞を見越して早めのリムジンにしたが、渋滞も無く、早すぎる到着。ラウンジでメモを記す。
 振り返ってみればハードな五日間だったが、良い収穫もあった。あの一等案の、場所のコスモロジーとテクノロジーの結びつきは、韓国にとどまらず、東アジア、そして世界に衝撃を与えるであろう。ろくな建築らしきを実現せずに宇宙に消えたフレデリック・キースラーも、これで再評価されるであろう。まさにエンドレス・アーキテクチャーである。きちんと実現される事を強く望みたい。
 只今、十時半。東京行の便にはまだ時間があるな。
 機内で味に馴染んだコーリア料理を喰べ、十三時半成田着。隣の席の韓国人ビジネスマンの物腰が素晴らしく品位に溢れていた。
 十六時前研究室。福岡他の打合わせ。二〇時より近江屋で難波先生と会食。二十二時過世田谷村に戻る。
 130
 三月三〇日  コミュニケーションが英語のために仲々困難で、疲れるのだろう、夜は熟睡できぬ。色々と考えるとロクな事にはならぬから、それでも早く眠ろうとジタバタして、いつの間にか眠りに落ちる。眠るのも体力の中である。
 七時過起床。コンペの審査評を和文、英文双方で書く。九時前、朝食、ARCのカサッティ氏と。九時半最後のミーティング。一位はフランスの建築家。その他、大半がヨーロッパ、アメリカ勢で日本はいわゆる佳作に一点だった。このフランスの建築家はまだ経験がそれ程あるとは思えぬが、何とか頑張って案を実現してもらいたい。衝撃的なものになるだろう。昼食前、カサッティとホテルの地下街を散歩。十二時半ランチテラスで昼食。十三時四〇分迄。部屋で十四時半迄休み。ラテンアメリカ勢と共に街へ。ようやく仕事を終えて、解放感の中に居る。グラフィケーションの原稿を書くのが出来ないでいる。あと、十数枚書かねばならない。今夜、頑張ってみるか。イヤ、今やろう。
 イタリヤのカサッティ、ルーマニアのANCA、ブラジルのロバート、韓国のChough先生と街に出る。明洞を歩いて、清清ケイリバーの大復元の現場、そして博物館を見る。韓国は生き生きしているなあ。十八時、コーリアハウスへ。お別れディナー。二〇時四〇分迄。五〇分よりコーリアハウスの民族舞踊のパフォーマンスを観て二十二時過ホテルに戻る。メインロビーのBarにミュージシャンが入っていて、飲もうという事になり、ラテン、ルーマニア、日本の組み合わせで楽しくやった。ミラノのカサッティとはこれからもうまくやっていけそうだ。終了したのは翌、一時。朝飯も一緒にやろうというのを朝は早いからと、サヨナラを言う。又、会う事があるやもしれね。
 129
 三月二九日
 七時半起床。八時過十七階で朝食。九時半ホテル発。博物館で第二段階の審査。議論を少ししてから投票。私は、国際コンペの意味、前史ミュージアムの意味、つまり、国家概念が生まれる前の歴史を展示する為の建築である事の重要性について述べた。要するに深い価値を持つ国際性、普遍性であり、ラディカルなヴィジョンの必要性である。
 昼食後投票。どうしても推したい案が一つあり、これには最高点を入れた。昨日決めていた通り。十七時迄、多少の紆余曲折はあったが、一等はぐらつかなかった。二、三等には多少異論があったが、敢えて議論の場に持ち込まなかった。一等を守れれば良い。結果には満足している。日本では、この様なプランは決して一等にはならない。流石、韓国の国際性は日本より余程良い。修了後、博物館の展示を見て、ディナー。疲れたがホッとしている。二十一時グランドハイアットに戻る。そう言えば、今日は小雪が舞っていたな。昨日、今日とソウルは寒い。まだ春は遠そうだ。
 128
 三月二八日
 昨夜はほとんど眠れず。七時前起きて、十七階で朝食。ジュリー全員が集合。七時四五分ホテル発、考古学博物館、 Gyeonggi-Do Jeongok Prehistory Museum の敷地見学。十時過着。トレドみたいな場所だ。現状のプリミティブな考古学パーク見学。周囲の道路には大型戦車、軍用車輌が走り、北朝鮮との国境間近なのが知れる。博物館の建設予定地等を見て、北京博物館へ。十四時着。サンドイッチの昼食後、国際コンペ第一次審査にとりかかる。三百八〇点を見て、十七時過迄に二八点をセレクトする。日本人の応募案は大体似たようなスタイルを持っていて解るような気がした。皆同じようなレイトモダーンのスタンダードの中に縮んでいる。これが今のジャパネスクか。すなわちどれも、力不足過ぎる。これが一等だろうと推したいものは大方、絞った。明日の第二次セレクションはどうなるか。十七時半修了。バスでディナーへ。十八時半コーリアン料理のディナー。二〇時迄。二十一時ホテルに戻る。熱い湯につかってすぐ眠りにつく。明日も早い。
 127
 三月二十七日
 十三時三〇分発アシアナ航空でソウルへ。グラフィケーションの原稿を機中で書くつもり。図形的想像力と言語的想像力とは別の陣地を占めている。今の状態は文字が図形を押している最中だ。どういう事かと言えば、左手にスケッチブック、右手に原稿用紙ならば先ず右手が動くって事。
 韓国は久し振りだ。恐い位に変化しているだろうと予測する。アジアの悲哀だな。
 今、鳥取上空を飛んでいる。機内食でオーダーしたビビンパは昔のコーリアン風味ではない。これでは一般的なフランス料理にも勝てないよ。明日からの考古学博物館の国際コンペでは、東アジアの建築への視点があるものを選ぶつもりだが、出てくるのかどうかは極めて疑わしい。グラフィケーション原稿を書く。十六時十五分ソウル空港着。イミグレーションに時間がかかり十七時前ゲートを出る。出迎えの旅行社の社長と何とか会えて、バスに乗せられる。十八時グランドハイアット 18 Fチェックイン。電話がすぐにかかってきて十九時ディナーとのこと。息もつけませんね。
 十九時過 B1 メインダイニングで関係者のディナー。まだ状況が全て呑み込めたわけではないが、誰がどのような意図を持っているかは大方把握できた。二十二時過迄ミーティング。磯崎さんの福岡のスケッチがFAXで送られてきた。予測通りのスケッチだった。大体彼のインスピレーションについては予測できるようになった。磯崎は建築の背後に、というよりも建築を介して世界を視ようとしているのが良く解る。様々な形式の中に軸を通そうとするのは、巨きな非経済原則とも言える意志だ。経済のグローバリズムがもたらしている新種のカオスに対して切り込めるのは、こういう事しか無いだろう。芸術には、こういう軸を設定するような形式の力は無い。デュシャンのダダイズムに軸のような形式への渇望はない。二十三時福岡からのFAXが研究室より入る。
 126
 三月二十六日 日曜日
 午後、福岡の藤さんより電話あり。十五時研究室へ。日曜日ではあるが、体が休めなくなっている。パラリンピックの報道を視ていると、この、もう一つのオリンピックの大事さを痛感する。
 コンピューターでの交信はどちらかにささいな故障があると完全にアウトになってしまう。便利だが不便だ。明日から国際コンペの審査で韓国に行かねばならぬ。クソ忙しいのだが、これも渡世の義理だ。十六時昨日の磯崎アイデアを福岡なりに考えたプランをメールで受け取る。今晩は眠れないなこれは。
 125
 遅い夕方、福岡でプロ野球パ・リーグのヤフードームでの始球式に出掛けた磯崎さんと電話連絡。WBCのスーパーヒーロー福岡の王さんと、球場で福岡オリンピックを盛り上げてくれただろうと予測する。
 磯崎さんがスポーツ、特に球技が得意かどうかは知れぬが、腕力は抜群だから、始球式はこなしてくれたであろう。ピッチャーマウンドからきちんと球がストーンとベースまで、格好よく投げられたのかと余計な心配していたが、投げたのは福岡市長で、磯崎さんは、キャッチャーの後ろに立っていたのだと、残念そうに本人は言っていた。
 彼は豪速球を投げ込むタイプなので、本当は投げたかったろう。しかし、オリンピック会場の案では、始球式後の打合わせで磯崎はやはり豪速球を投げ、オリンピックの中心会場に一気に軸を与えた。スケッチをFAXで受け取り、安堵の胸をなでおろす。これで、全体プランは一気にグレードが上がった。研究室で私のスタッフ及び日本設計スタッフと打合わせを続けていたが、理想的なプランになるのを確信する。修了後、新宿でスタッフと遅い晩飯を取り、二十三時過世田谷村に戻る。
 124
 三月二十五日、今日は卒業式なのだが残念ながら出られない。夕方、中国人留学生他があいさつに来室するのには時間を割く予定。
 123
 三月二十四日、終日、諸々の打合わせ。福岡との連絡。二〇時より図面再びチェック。大事な事を幾つか決めた。二三時十五分まで。二四時過ぎ世田谷に戻る。世田谷村への径に梅林があって、フッと香りが漂うのがホッとさせてくれる。昼、夕両食を抜いてしまったので、夜食をとる。体に良くないと叱られるが・・・仕方ないのだ。十分程、カバーコラムを書いたのが休みだった。絵も描きたいし、銅版画もやりたいが、駄目だ。才能というのは実にスピードなんだなあ。時間を駆け抜けられるか、どうかだ。
 122
 十五時磯崎アトリエ福岡オリンピック打ち合わせ。十九時三〇分迄。磯崎さんは昨夜イタリアから戻ったばかりだった。中心施設のつめが精密なパズル状になってきた。計画中のこの都市の風景は、まだ誰も視た事のないものになる。
 二〇〇八年北京オリンピックはオリンピック史上最大級の国家の表象・国力の象徴になる。中国はそれを成し遂げて、二十一世紀世界に大きな力を示すことになる。極く自然に、オリンピックの意味が変化する。
 ベルリンオリンピック以来のオリンピックの一つの意味が極められるからである。オリンピックは次の段階に進化しなければならない。その進化すべき過程そのものが福岡オリンピック計画案では示される事になる。
 121
 三月二十三日、昨日は午後日本設計来室打合わせ。その前後、オリンピック関連打合わせで暮れた。頭の中に他のプロジェクトを入り込ませるゆとりが欲しい。全く、これは体力勝負だ。午前世田谷村にて水球、シンクロ他のチェック。メインアリーナ再チェック。十三時三〇分、研究室。メディアデザイン研究所横田さん打合わせ。図面、事業計画書その他整理して十五時磯崎アトリエへ。
 120
 三月二十一日。今日は休日らしい。八時過迄眠らせてもらう。九時1Fレストランで朝食。今日も叉、色々としなくてはならぬ事が多い。とうとう山田脩二の神戸での展覧会には出掛けられなかった。すまん。でも体が限界に近い。十時過、打ち合わせ。カヌースラロームに面白いアイデア出る。ホッケー、フェンシング、アーチェリー、射撃ライフルはうまくまとまってきた。博多湾に面した大自然を生かし、これ以上のものは無いだろう。十四時修了。昼食はとれずじまい。すぐにビーチバレー、トライアスロン、遠泳、そしてヨット競技の会場、競技コースの確認。トライアスロンはコースを歩いた。このゾーンもパーフェクトに近くなってきた。油山のマウンテンバイクのコースも実見。この会場からは、百道のヤフードーム、そして海、向こうに海の中道会場が一望の許に眺められ、福岡の立地条件の良さに今更ながら驚かされる。その足で福岡空港へ。十八時四〇分の便に間に合った。空腹の極みだが、もう我マンしてしまおう。二〇時半羽田着。二十二時世田谷村に辿り着く。
 119
 オリンピック関係打ち合わせの後、十三時浄水のO邸現場へ。足場が外れて全体が現れた。自作をほめる馬鹿もないだろうが良い。形といい色といい上手くいった。十五時過迄、蔭久氏、カンサイスタッフと打ち合わせ。十五時半、オリンピックの打ち合わせに戻る。大人数の打ち合わせが二〇時迄続く。大きな問題は無い。上手くいっている。二十一時、M社穴田氏等と会食。穴田氏とは何となく気が合いそうだ。市役所の連中も合流、少し議論。二十三時半頃、ホテルに戻り、そのまま寝た。
 118
 昨日、米国で行われているWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本チームは韓国チームにようやく勝った。二連敗後の一勝である。この一勝でようやく王監督は面目を果し、一気に長嶋の陰に在り続けた存在から抜け出したよに思う。福岡オリンピックチームにとっても有難い一勝である。この一勝で王監督が大浮上する事は、福岡の力にもなる。王さんの一生の中でも大事な一勝になるのではないか。
 イチローも又、株を上げた。WBCでナショナルチームの一員として一喜一憂するイチローは、これ迄のイチローイメージとは異なるものだった。韓国応援団から「三〇年」発言で大ブーイングを浴びせられ、スポーツ選手本来の闘争心に火が付いたのであろう。イチローにとっても良い一勝であったのではないか。イチローと松井秀喜の関係も逆転するかも知れんな。マア、とに角、福岡オリンピックにとっても貴重な一勝であった。
 八時前、5Fなだ万に朝食をとりにゆく。九時過より再びオリンピック関連の打合わせである。
 117
 三月二〇日、五時半起床。昨日の市役所他のミーティングの印象は、ようやく意志が通じ合い始めたという感じである。
 二〇一六年のオリンピック開催に向けて、幾つかの国で複数のチームが我々同様の作業をすすめているのだろう。オリンピックの主役は当然スポーツ選手達である。十年後のオリンピックの為に、こんな風に知恵を寄せ合い、いささかの汗をかいているのを客観的に眺めてみれば、これは、裏方オリンピックである。八月迄、膨大な数の人間のエネルギーが投入される。この、オリンピック招致準備作業は言ってみれば観客の少ない裏方のオリンピックなのだ。
 116
 三月十九日日曜日、十一時三五分ANA二五一便で福岡へ。今日、明日でやらねばならぬ事は多い。機内でウトウトする。昼食は穴子弁当。十四時過、福岡市役所の方々と打合わせ。十八時過迄。辛さん合流。打合わせ後、夕食。打合わせ続行。市役所の方々も、日曜日ではあるが、多数打合わせに参加され、当然と言えば当然の事ではあるが心強い。東京も同様にやってはいるだろうが、一人一人の人間の顔が見え難い体制で作業をすすめているのだろうと勝手に予測する。気合いは仲々生じ難いだろう。この準備作業も又、オリンピック予選の趣きがあるように思う。我々は現場の、予選に対面する選手や、コーチのようなものだ。
 打合わせ修了後、ホテルのバーで、しばしくつろぐ。この十五分が一日の救いでもある。二十三時半、バスに熱い湯を張って体を休める。
 115
 山口勝弘先生に電話するも、出られず。介護センターで食事中か、あるいは今日午後の鎌倉近美葉山別館でのレクチャーで、すでに出掛けられたか、定かではない。今日の葉山行はあきらめよう。
 生命維持装置としての住宅について、まだ視ていない難波さんの自邸に即してコラムに書く。
 114
 三月十八日、昨夜は難波和彦さんと夕食をとる。南青山の自宅が完成して住み暮らしているそうだ。難波さんらしく完全人口環境になってもいるそうだ。きっと自動記録計測器なぞ持ち込んでデータとりながら生活しているにちがいない。数理の宇宙船なんだろうと予測する。うーんと昔にミサワホームの三沢千代治さんが長生きする家をミサワホームの唄い文句に掲げた事があった。突き詰めれば同じ理屈である。無菌の完全密封されたカプセルであろうか。
 113
 三月十七日、早朝、ひろしまハウスと山口勝弘の組み合わせで何か書けるかもしれぬと思いつく。変な思いつきだ。グラフィケーションの始まりを考える。 
 山口勝弘論書き始めを研究室に送る。論の形になるか、どうかはまだ視えぬ。丹羽君、山口勝弘連続コラムの絵は先生が鎌倉近代美術館の庭に構想しようとしていた能舞台のスケッチをもとに、先生の構想を先ずウチのサイト上に描き上げるようにしよう。それが次第に絵本になっていくスタイルが望ましい。山口勝弘の絵本はそういう形の中で作っていけるだろう。今、山口勝弘先生に電話したら、それは面白いという事だったから。山口先生の能、羽衣の話しを聞いて、その筋で渡辺に近代能楽堂のプロジェクトを進めさせたらどうか。
 112
 NYに居る友美の小論文「収容所としての都市」読む。最も若い世代に自然にあるべき倫理性の骨格が備えられているように思った。今のジャリジャリした建築群はこの世代の本格的な社会学的視点によって完全に一掃されるであろう。
 111
 ひろしまハウス in カンボジアのまとめを頭の中で組み立て始める。折角、長い時間とエネルギーを注入したのだから、良い区切りをデザインしたい。
 110
 午後、講談社園部氏日経BP鶴岡氏来室。春からの新連載の打合わせ。その後雑務。オリンピック関係作業他。二十二時前打ち切る。着々と進行しているが、中味を知れば知る程に深くなり、涯が無い。山口勝弘先生から丁重な手紙をいただいた。展覧会の印象を書いて送りたいのだが、その時間が無い。今晩書こう。月末、KOREAに考古学博物館のコンペの審査に出掛けねばならぬようだ。福岡オリンピックの作業で忙殺されている最中だが、鈴木博之さんからの話しなので、いかねばなるまい。
 109
 三月十五日、朝、オリンピック・ヨットハーバーの案を専門家にチェックしてもらう。手直しする必要があるようだ。
 108
 カンボジア・プノンペンから「ひろしまハウス」の施工プロセスの写真がメールで送られてきた。日本に居ながらにして、ポルポトが壊滅させたプノンペンに建設中の建築の現場を知る事ができる。想定していたよりも少しキレイ過ぎるのがチョッと心配だが、うまくいっているようだ。あんまり、ツルツル、ピカピカにノッペリ、キレイに仕上がっては困る。矛盾に満ちた、不連続な仕上がりが理想である。
 107
 HP編集についてミーティング。編集長丹羽の趣味と私の趣味が時々ブチ当たるのが面白い。古い例えだが桂と日光である。私は時にゴテゴテの日光チックにやれと思うのだが、丹羽は車椅子の紳士であるから、内心そんなのやれるか今更と思っている風がある。丹羽の体の事を考えても、それだからこそ敢えてパワフルな表現が欲しいと思ってしまうのだ。今のページは上品過ぎる。IT時代は決して清風、清流の時代ではない。情報というのは恐ろしくグロテスクで残酷なものでもあるのだ。と、ないものねだりを言う。
 106
 三月十四日、午後、研究室へ。やりたい事は山程あるが時間も体力も充分ではない。三月も半ばである。
 105
 三月十三日、若松氏と久し振りに会う。ウクライナ・キエフでの開発の話しを聞く。今、評判のダビンチ・コード読む。エンターテイメントの世界の構築力の、作家の体力を感じた。マグダラのマリアからキリストには子供がいた事、その秘事を巡るカソリック教会と結社との戦いを描いたものである。ウンベルト・エーコの薔薇の名前の高踏な緻密さは無いが、それにしても作者のダン・ブラウンは体力はあるな。日本でこの類のエンターテイメントを書ける人材はほとんど見当らぬようにも思うが、史学者の鈴木博之氏などは年をもう少し経たら、こんな本を一冊書いてもらいたいね。天皇、皇后墓陵建設に封印された近代日本史とか、飛び過ぎたコンドルとか、日本のインドカレーは何故和風なのか、とか。ともあれ、元仏大統領ミッテラン氏を結社の、レオナルド・ダヴインチ、ボッティチェリ、ニュートンの筋を継承するマグダラのマリア以来の女神崇拝の隠された系譜であると仮想し、ルーブル美術館の逆ピラミッドの下に封印された小さなピラミッドの下に聖杯の謎が秘匿されている、というのは面白い想像力の在り方ではある。女帝問題が今浮上しているが、これは日本史では繰り返しの一部であろうし。
 104
 銅版に取り組もうと、銅板に対面したが、どうにも鋼筆が動こうとしない。夜迄待とうと読書その他。福岡Pに対して私なりの一つの切り口が視えてきた。
 103
 八時起床。少しばかりのスケッチ。六車氏と連絡。オリンピック関連のヒアリング。他。十三時磯崎アトリエ。T氏H氏打ち合わせ。十三時三〇分磯崎氏、研究室スタッフ、他と打ち合わせ。二十一時四〇分迄。今日は十一日か。明日は日曜日だ。休んで銅版画でもやろうかと思うが、どうかな。
 102
 三月十日十三時三〇分磯崎アトリエ。福岡オリンピック打ち合わせ。野村、渡辺、カイも同席。福岡T氏等。二三時三〇分まで。二四時二〇分世田谷村に戻る。今日は磯崎新の新版画シリーズを綿貫さん達と見た。深夜までスケッチ。二時休む。
 101
 三月九日、鎌倉近代美術館の山口勝弘展へ。ヴィトリーヌからテアトリウム迄と題され、今の山口勝弘も含む大回顧展である。展覧会の印象は又別に記すが、充実したものであった。私には第二室の今の山口勝弘がどうしても一番面白く関心があった。色彩が命の力の如くに噴出している仕事である。大船の田谷山瑜伽洞を見て、夕方東京に戻る。夜、福岡のT氏より連絡あり。西麻布でメシ喰おうと言う。今メシは済ませたと言うのだが、マア、気のイイ連中が集まっているから来いという。乱暴である。それでも出掛けた。迷いながらも何とか辿り着いた。慶応大学のラグビー部の連中が集まっていた。OB、監督である。T氏は慶応ラグビーの中興の祖であり、今夜は最近どうしても早稲田に勝てない、どうするかの会のようだった。経済界に強い慶応らしく、日本を代表するような会社の社長連中も当然いた。
 しかしながら私も生粋の早稲田であるから連中の会話の中にアイツ等とか、アノヤローとかの言葉が出ると、体がピクリと反応してコイツ等とか思うのであった。学院時代に早慶七連戦を体験した者としては仕方ないのである。何かしら刷り込まれているんだね。遅くなり、〇時三〇分頃世田ヶ谷村に戻る。
 100
 三月八日、久しぶりに研究室に出る。今日はHPに福岡オリンピックのページを設けさせる。工夫がいるな。書ける事と書けぬ事のボーダーの規準を見定めなければならぬのだけが解っている。留守中の仕事チェック。スタッフは良く頑張っている。福岡も頑張れ。
 ひろしまハウス in プノンペンのページが改良を要する。福岡オリンピックと同じ位に研究室にとっては大事な計画なのだ。カンボジアにどうしてもひろしまハウスを建てたいと考えたのと、福岡オリンピックを実現するのに眼もくらむような汗をかいてみようというのは実は同じなのだと、気付いた。磯崎新は大知識人であるから、汗をかくとか命がけなんて言い方は絶対にしないから、代わりに言う。この件に関しての磯崎の腰の座り方は尋常ではないのである。福岡そして九州の皆さんも腰を据えていただきたい。東アジアの玄関でもある九州が頑張らなくては本格的な日本再生なんてあり得ないのである。二十一世紀の日本は九州から始まる、の気概を持ってやりましょう。ひろしまの皆さんも出来たら福岡九州を応援して下さい。空手形ではない地方分権のはじまりになるでしょうから。
 099
 トモ・コーポレーション社屋検査終了後世田谷村に戻り「力の意志」」原稿書く。十八時終わり永盛氏に送る。昨日の朝日新聞夕刊に山本伊吾氏の「天寿を全うした『室内』」が掲載されていた。そうか天寿であったかと納得する。
 098
 三月七日、「力の意志」の原稿を午前中に書き上げ、十三時半新木場へ。トモ・コーポ社屋一年検査。
 097
 三月六日、十三時津田沼の千葉工業大学へ。修士設計他の講評会。ここの学生の印象はとにかく元気である。変に小さくまとまっていないのが良いのだが、今の時代の日本の学生は小さくまとまっているのが流行だから、明らかに流行からはズレている。本格的な古典を誰も参照、学習していないようなのが気になったが、この元気さは貴重品だ。十九時終了後、古市氏等と会食。藤本氏とは初対面だった。二十三時頃世田谷村に戻る。
 096
 三月六日、九時半約束通り、 SUNRA 「力の意志」永盛氏他世田谷村の書棚取材。本らしい本を最近読んでいないので照れるが仕方ない。屋上、地下と施工中の書庫迄写真をとっていった。十時半修了。
 095
 三月五日、日曜日、八時半起床。荷づくりをして、九時過ぎホテル2Fレストランで朝食。オリンピック関係の新聞報道を読む。十時前チェックアウト。十時福岡けいざい編集長徳永さん取材。徳永さんは 20 年位前の私のDMからのお附合いである。福岡オリンピックについて話す。十一時十五分修了。空港へ。十二時三〇分の便が満席であったが、何故かとれて、東京へ。眠り続けた。十五時四〇分四日振りに世田谷村に戻る。小春日和。増築部分の三面窓にガラスが入り、何だか嬉しい。
 遅い昼食をとり、原稿にとりかかる。
 十九時過キエフの若松氏より電話あり、彼もロシアで頑張っているようだ。
 094
 十時福岡市役所。M社とアウトドアスポーツの細部について打合わせ。アウトドアスポーツ全般に関して福岡の環境、立地は圧倒的に良い。オリンピックは先ず第一にスポーツ選手のためのものであるから、この点は大事だ。十二時三〇分昼食のタイ茶漬は、前に市役所の皆さんと喰べた木造二階の定食屋みたいなところの方がうまかったなぁ。しかし、何を喰べても東京よりは美味だ。特に魚は。十四時市役所 15 階。五時前、磯崎新の計画案の説明。会場には全九州より300名以上の各県知事、市町村長、国会議員の先生方も10数名参集して、大変な熱気であった。全九州の総決起集会の趣あり。これが大事なのだ。
 磯崎説明の、東アジア・コモンハウスの項は充二分にまだ会場に伝わっていなかったが、この構想がいかに壮大なものか、すぐに理解されるだろう。海のすなわち博多湾の全域を会場にするという骨子は、それこそ実に骨太で、かめばかむ程味が出てくるだろう。世界の海洋都市の人々にはすぐに理解出来ることだ。福岡は先ず世界を味方にしたい。小さなナショナリズムを越えてゆくのが、オリンピックの基本理念なんだから。
 二十時磯崎さんと会食。修了後原田氏と打合わせ。難問は解決されそうだ。翌日の一時半まで。ホテルに戻りベッドに倒れ込む。この生活はもうスポーツだな。
 093
 「力の意志」の永盛さん取材の件。三冊の本を選べというのでコラールの「アジアの旅」鈴木博之「都市へ」磯崎新「すみか」をとり敢えずピックアップしたが、世田谷村取材の件は仲々厳しいな。今日、四日は朝から夜迄時間刻みで動かなくてはならないのに、こういう時に限って眠れないのである。朝五時なのに。
 092
 十時2Fレストランで磯崎さんと朝食。福岡オリンピックの実現へ向けてのプランを話し合う。雪が舞ってきた。十二時ホテル発。能古島へ。水上タクシーで渡る。市役所H氏同行。晴れていて実に気持良い。博多湾のスケール、風景、そして感触これはまさにオリンピックに用意されている様なものである。能古島着、アイランドパーク社長久保田さんの案内で島を見て廻る。ギリシャ多島海の如き、あるいはヴェネチアのような風景である。東京には無いものだ。壇一雄旧宅、他を見て、十四時半頃港に戻る。港近くの雑魚屋なる食堂で遅いランチ。時間が停止したような時を味わう。水上タクシーでもどり、十六時福岡市役所へ。磯崎氏、四〇名程の福岡市役所の局長、オリンピック関係スタッフにあいさつ。そして明日の記者発表の内容を一足早く説明する。十八時前終了。私はその後打合わせ。十九時半ホテルロビーで待ち合わせて、食事へ。二十二時三〇分了。疲れたけれど、よい一日であった。三月三日はこうして暮れた。  磯崎氏はタフである。明日も又、ハードそうだ。いよいよオリンピック前哨戦の幕が切って落とされる。研究室よりFAX入っているが返事を送るヒマもなかった。
 091
 久世光彦さんが亡くなった。七〇才の若さである。お目にかかった事はないが、山本夏彦の書くものの中で度々お目にかかっっていた。「年を経た鰐の話」でもお目にかかっていた。情の入った美文家であった。三日の新聞で知った。ご冥福を祈る。
 編集長丹羽君三月六日よりサイトに福岡オリンピックの島を作る準備をして下さい。グラフィケーションの連載、そろそろ本腰をあげなくちゃならない。民主党の永田議員の余りにも深々とした自民党へのおわびのあいさつを、オリンピック金メダリスト荒川さんのイナバウアーに対して逆イナバウアーと名付けた奴の才は仲々凄いものだ。落語の名人の眼だな。
 090
 十二時三十五分の便で福岡へ。羽田で辛さんにパッタリ会う。二時過福岡。Oさん迎え。国際線ターミナルに先に着いていた磯崎さんと短い打合わせ。O邸現場。色出しはOK 。キャナルシティで打合わせ。十九時頃迄。やまなかで磯崎さん等と会食。ホテルには〇時頃戻った。福岡は三月四日 オリンピック招致計画の発表以降異常な盛り上がりを見せるであろう。
 私は手の内はまだ見せぬ方が良いと考えたが、磯崎新は「イヤ、いいんだ、ある程度まで見せてしまったほうがヨイ。IT時代とはそういうものだ」と、大胆である。提案の内容が余りにも画期的なので真似しようもないとも言えるが、真似させてやれとも受け取れる。これでは何言ってるか解りにくいだろうが、三月四日以後、私のページでも福岡スペースを設けるから、東京の皆さんも自由に福岡のオリンピックプランを知る事が出来る。
 089
 李祖原と高田の馬場文隆で夕食。とり敢えず早稲田大学建築学科の三年間の特任教授の任期を終えて、マア、お世話になりましたのディナーとなった。勿論、彼との附合いはこれからも続くので、湿っぽさは全くなく、さっぱりしたものだった。二十一時過世田谷村に戻る。グチグチと何かしらをして翌一時過ぎに眠ろうとする。明日は又福岡だ。一日しか東京には居なかった。
 088
 農文協の甲斐さんが松江市の三島さんを連れて研究室に現われた。三島さんは株式会社つみっくの社長さんで、間伐材の杉を使ったオリジナル商品の説明をしてくれた。ある種の情熱家特有な思い込みが強い人であった。悪い人ではないのはすぐに解った。しかし、事業には人の悪さが必要なんだが。何とか成功してもらいたい。
 087
 李祖原と北京モルガンセンターの件話す。北京の Mr. 郭と電話で話す。北京市とのバトルは終り、中央政府との最終交渉に入ったようだ。李祖原のファイナルプラン作りは終了し、間もなく工事再開との事である。驚くべき強さだ。新聞の論調も、TV報道も間も無く変わるとの事。李祖原としても北京モルガンセンターのプロジェクトは彼の中国大陸での将来を賭けたものになるのは明らかで、トラブルに巻き込まれても微動だにせぬところは凄かった。間もなく北京の奇跡として計画は実現されるだろう。北京オリンピックと福岡オリンピック計画は連動する可能性もある。
2006 年2月の世田谷村日記

世田谷村日記
サイト・インデックス

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2006 all rights reserved
SINCE 8/8/'96