石山修武 世田谷村日記

2006 年5月の世田谷村日記
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 四月二十八日、十四時前、作業室近くのうどん屋で昼食。十四時半、打ち合わせに入る。二十二時迄。遅い夕食、及び打ち合わせ。二十四時了。ホテルに戻り、そのまま寝る。翌日八時起床。朝食。九時オリンピック村、各競技会場打ち合わせ。サンドイッチを喰べながら二十一時迄。会議設計は二、三の問題を除けば八〇点までは辿り着いた。磯崎さんからも新たな指示があり、気合いを入れる。翌三〇日、日曜日、十時打ち合わせ。二十一時半迄。夜食を取り、二十三時五〇分寝る。チームは善戦している。会場計画は八合目だ。アト二ヶ月は総力戦になるだろう。五月一日八時起床。フロに入り、少しゆっくりする。三〇分が有難い。今日は早く帰ろうと思ったが、きちんとまとめてからにしなくては。東京に比べたら、恐らく多勢に無勢だろうが、精鋭部隊に仕上がってきた。八月迄は皆体調に気を付けて戦い抜きましょう。九月になったら勝って皆休もうぜ。その後の世界戦はもっと厳しいからなぁ。
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 四月二十七日、十時研究室雑打合わせ。十一時福岡オリンピック打合わせ。サンドイッチ。十三時大学院レクチャー。十五時半迄。二回分やってしまった。十六時友岡君来室。早稲田は卒業して針灸の学校に三年間通うのだそうだ。若い奴は何考えてるのかな。しかし、理工学部の平板学生よりは面白い。博士課程入室希望者と会う。再び福岡オリンピック打ち合わせ。十九時迄。二〇時前、磯崎宅。福岡オリンピック打ち合わせ。頭はもう、博多湾明太子ヅケ状態である。二十三時四〇分迄。翌〇時半世田谷村に戻る。この四ヶ月は福岡タイムで時が流れ、そのすき間、合間に針穴のように東京が入り込んでいる。二十八日十一時三十五分の便で福岡へ。向い風強く遅れる模様。朝日新聞朝刊に大きく福岡、東京オリンピック招致の件が掲載されている。招致の様々な作業は電通が全てやっていると聞く。記事は三者三様の枠で三人の意見が述べられている。福岡側の意見は東大教授姜尚中氏。東京は福岡オリンピックアドバイザーのS&B食品瀬古。彼等二人は明らかに、福岡、東京サイドの支援の立場がハッキリしている。ジャーナリズムの正道として三人目の人物の意見は公平な立場の人物を選ぶのが常識だろう。三人目の電通OBのスポーツライターはしかし、ハッキリと首都東京の方が盛り上がる等と明言している。オリンピック招致の作業は膨大極まる。東京都からその大半を大金で委託された電通が腕をいかようにもふるうのは何の問題もない。しかし、ジャーナリズムは公平でなくとも、無私である必要がある。三者三様のコメンテーターに電通OBの人物を入れたのは明らかに間違いだ。最初から誌面の2/3が東京サイドになってしまうからだ。空を飛びながら、こんな文句を言う。ケチな文句はつけたくないが、東京VS福岡は明らかに多勢に無勢だ。無勢の側の見方は理念と公明正大である。その双方共に今のところ東京は明らかに不足している。ジャーナリズム、マスメディアも公明であって欲しい。
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 藤森照信対談は当然藤森の独壇場であった。朝早く眼覚めてしまうので早く中村屋にきてお茶を飲んでいた、という話が私には一番面白かった。福岡の話しを一仕切したが、マァ、多分カットされるだろう。しかし彼は良い年の取り方してるよう思う。予定オーバーして十三時十五分迄。TAXIで大学へ。十三時半、大教室で新一年生にレクチャー。ひろしまハウスのパンフレットを配布。十四時半了。十五時中谷礼仁、森川嘉一朗と演習G。十七時了。中国人学生院試希望者と会い、その後、野村等と打合わせ。二十二時半迄。世田谷村戻りは二十三時半。遅い夜食を取らざるを得なかった。
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 四月二十六日、十一時新宿中村屋「東京人」対談予定。藤森照信と。宗教建築が主題らしいが、東京人だから、やはり福岡の話しも是非してしまおう。藤森照信ならそれ位の度量はあるだろう。これから数ヶ月は出来るだけメディアに出るようにして、福岡の力になりたい。昨日、磯崎さんは外国人記者クラブで会見であった。九時前再び起きる。八代建設西山さん、水道屋さん共々来村。工事に入る。オリンピックも大変だが、村も仲々大変だ。しかし、時が経つのが早い。もう四月も終わりか。滝のように時間が流れ落ちてゆく感じである。友人達も皆六〇才を過ぎた。同じ気持でいるのだろう。
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 四月二十五日、学部レクチャーの後、オリンピックミーティング。ひろしまハウス打ち合わせ他。HP編集打ち合わせ他HPはようやく五年にしてまあサマになってきた。丹羽太一、スタッフに礼を言う。HPは新聞仕立てになっていて、毎日更新しているのだが、ようやくバランスがとれてきた。業界誌よりは余程多くの読者を持つ迄にはなっているように思うが、まだまだである。福岡オリンピックのサイトを更に充実させなくてはならぬが、これは少々デリケートな部分があり、注意したい。丹羽編集のテーストと私のそれが時にぶつかるのが面白いのだが、そこまではまだ誰も深読みしてくれない、当然である。今日は福岡疲れで、早々と世田谷村に帰り、二〇時には寝た。村の生垣が、つばき、山吹、あやめ、大根の花の満開で美しい。二十六日五時前起床メモを記し、再び眠る。今週末も福岡行きなのだが、研究室の態勢も組直す必要がある。色々と大変だが、乗り切る積りだ。五時過再び眠りに入る。
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 四月二十四日十二時前代々木、岸記念体育館・日本スポーツマンプラザ。福岡オリンピック立候補意思表明書提出記者会見準備。十三時十五分、福岡市長山崎広太郎、福岡・九州オリンピック招致推進委員会会長鎌田迪貞、福岡県知事麻生渡、北九州市長末吉興一、製作総指揮者磯崎新会見。十四時三〇分了。東京に乗り込んでの会見だから、迫力があった。知事、市長も足並がそろった発言で良かった。昨夜、福岡から帰ったばかりで、まだ身体は福岡モードである。福岡モードって言うのは朝夕の動きが都市とフィットしてるって事。東京は完全にスケールアウトしているので、身体の時間割に慣じみ難いのである。修了後、お茶、磯崎アトリエで小休。十八時麹町で市役所主催の会。山崎市長、磯崎新等と。さて、いよいよ、これからである。東京サイドが全然プランを公表しないので、手の内の三分の一程は公表した我々は、これからの情報戦をどう戦うか、公表方式を続けるか、否かを決めなくてはならない。東京が考えそうな事は全て予測できるが、今のところ、福岡の方が堂々と公表し、横綱相撲を取っているようだ。二十三時四〇分世田谷村に戻る。
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 二十三時前ホテルに戻る。磯崎さんと翌日夕方打合わせの予定を取った。磯崎さんも東京で細部にいたる迄眼を光らせているので、一切手が抜けぬ。福岡はしかし、死にもの狂いでやらねば、合戦にならんのだから仕方ない。今のところよく戦っているが、これからが勝負だ。二十三日、日曜日六時半起床。昨夜はグッスリ眠れた。「ひろしまハウス」のまとめ方を少し考えて頭を休ませる。九時過朝食。十時オリンピック打合わせ。十四時半迄。皆良くやってくれて助かる。昼食、うどん、いなり寿司喰べて(これが仲々美味)空港へ。十六時三〇分の便で東京へ。待ち合いロビーで少し眠ってしまった。十八時半東京着。TAXIで六本木磯崎宅。宮脇愛子さんの展覧会の、今日はオープニングだった。でも九州に居たんで仕方ない。十九時半。打合わせ二十二時前迄。地下鉄で世田谷村に戻る。
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 四月二十一日午後、オリンピック村打合わせ。メインクラスター部打合わせ。十八時過迄。その後九州財界の方々と会食。ホテルに戻ったのは一時半。翌七時起床。打合わせの整理。十時半朝食。十一時半O邸現場。蔭久氏打合わせ。うどん屋で昼食。蔭久さんは奥さんを亡くして今一人暮らしで、朝三時半に起きて博多湾での海釣りが唯一の趣味だとの事。人それぞれに様々な人生があるものだ。十三時オリンピックの打合わせ。十九時迄。その後T氏ファミリーと夕食。奥さんは田舎暮らしが夢なのだそうで、能古島で農園作ったら面白いだろうな、なんて話に花が咲く。リラックス出来て、いささか元気回復する。T氏は博多商人の血をひいていて、典型的な山笠・どんたく人間であるが、私と同様前しか視ない人間であるが、そろそろ農園暮らし、田舎暮らしもいいんじゃないかと、自分の事はさて置いて余計な事を考える。誠に余計なお世話なり。
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 四月二〇日十一時四〇分研究室。幾つかの連絡。十二時人事小委員会。次世代人事は難しいものだ。十四時半羽田空港。十五時半の福岡便を待ちながら、メモを記している。福岡には一週、間を置いたので、沢山の問題をほどかねばならない。十七時過ぎ福岡着。十八時前打ち合わせ。二十三時過了。気が付いたら深夜だった。遅い食事。二時ホテル帰着。
 二十一日七時前起床。八時半朝食。九時半よりN設計他と打ち合わせ。N設計のM氏は仲々の人材なり。昨夜T氏とも意見一致した。メーンスタジアムには彼の意見をどんどん取り入れてゆくのが良いだろう。磯崎さんのスピードにも彼ならついて来れそうだ。要所要所にプロが配される布陣になってきて力強い。あとは市役所である。
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 「にがい涙の大地から」海南友子監督・撮影・編集をページに告知する。海南さんには一度お目にかかった事がある。こんなに若い女性が、シリアスな問題に取り組んでいる事実にいささか仰天した。世の中捨てたもんではないと考えた。多くの人が御覧になる事を期待したい。
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 四月十八日、昨日は午後磯崎アトリエ。夕方小笠原成光氏。典型的に異なる二人の人物と話していると、世界は一筋縄ではゆかぬのを痛感する。磯崎は大教養人、大知識人だ。プノンペンの成光氏は自分の体験、見聞した事から全て話す体験家なのだが、時々二人は似ている。磯崎の日常が異形なものになっているのだろう。氏は大旅行家にもなっている。
 今日は午前、レクチャー。
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 四月十七日、一昨日、十四時より福岡オリンピック打合わせ。磯崎氏と。十七時了。磯崎氏はドローイング続行。昨日は休養。読書。本日、朝刊に広島市の世界遺産原爆ドームの近くに高層マンション建設中に対して、市民より景観として批判運動が起きている報道がある。原爆ドームを見下ろすマンションはすでに完売との事で、業者は建設続行を主張し、市役所も注意はするが、それ以上の事は出来ぬとのスタンスのようだ。「ひろしまハウス・プノンペン」の意義は時と共に大きな意味を持つだろう。日本社会全体が急速にアメリカ化しつつある現実こそが悲哀に満ちているとしか言い様がないのだが、それは突きつめて考えれば建築そのものに商品以上の価値を視ようとしない事につながる。人間の生活自体に深い歴史性があり、その結実が建築である事を知らしめなくてはならぬのだが、それには時代が悪過ぎる。歴史的建造物の保存の問題は実に市民の尊厳の問題でもあるのだが、ラスキン、モリスの思想を再び直視すべきであろう。
 福岡オリンピック案は博多湾が主舞台になる。これも又海を介して深く大陸との交流を続けてきた市民、町民の自治、自由都市の歴史を再発掘するという趣きがある。様々な意匠によって、静かに人間の歴史の尊厳を訴えてゆくしかないだろう。歴史は膨大な死者達の言葉なのだ。今日は、元気も回復したから、一日頑張ろう。
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 四月十四日、今日より大学院レクチャー開始。十時半。二〇〇八年北京オリンピックの事。一九六四年東京オリンピックが都市東京に与えた力について。昨日は夕方、中里和人氏、グリーンアローの小川氏来室。仮称「セルフビルド」の出版の件で話し合ったが、仲々合意には達しなかった。出版業界は大変なのだ。「ひろしまハウス」のパンフレットを院生にデザインさせているが、様になるのには少し時間がかかりそうだ。今週末は福岡行は無理かなと思う。
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 「ひろしまハウス」での渋井修氏送別会の勝手なシナリオ書き始める。チョッと息抜きが必要だ。来年5月渋井さんは永年暮らしたカンボジアを去り、日本に戻る。後に残るは小笠原さん一人という事になる。その送別の会を大きく催事化してみようと考えた。「ひろしまハウス」のオープニングセレモニーはセレモニーとしてキチンと考えねばならぬだろうが、これは極めてプライヴェートなものだ。だからこそ、大がかりにやろう。人間臭いサヨナラが歴史とダブるような。「ひろしまハウス」の建築空間では、ささいな日常生活の身振りが演劇的な姿として視えてしまう構造を持つ。建築の宿命でもある。十五時森川K、中谷礼仁来室。今季設計製図課題及び演習Gの相談、十七時迄。大枠を決める。十七時半ロシアより若松氏来室。北京モルガンセンター、郭氏と連絡。
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 四月十日朝、八大建設西山社長打合わせの後研究室へ。世田谷村にとうとう、レディーメイドの洗面台が入ってくる事になった。トイレ内の手洗いも同様。あんまり、ピカピカにキレイなものは怪しいので、わざと納まりにすき間を作って、いささかの抵抗をする。日々の生活の器具その他によって作られる美学は、重要なのだ。自分の感性を奥深いところで規制するようになる。十五時前、渡辺、カイと磯崎アトリエ。磯崎氏と模型制作、他。十九時迄。その後、夕食をとりながら打合わせ。二十四時世田谷村に戻る。翌十一日十一時研究室。オリンピック村打合わせ。十三時プノンペンの小笠原氏来室。夕方迄、近江屋で会食。この人物の、現代日本社会とのズレは貴重だ。その貴重さを、誰も理解できぬところに、日本社会のパンツのヒモが切れてしまった、ズルズル状態が視えてしまうのだ。小笠原氏は確かに今の社会では化石であるが、化石の理というものもあるのだ。コラムにその辺の事を書いてみよう。
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 十八時近江屋農文協甲斐氏。十九時半東京駅八重洲番屋にて結城登美雄氏等と。 21 C農村研究会。二〇時半迄。二十二時世田谷村に戻る。翌四月八日土曜日十五時磯崎氏、福岡オリンピック打合わせ。十九時過迄。世田谷村に戻る電車で、共同通信の松本氏にバッタリ会う。結城さん森まゆみさんと一緒だったとの事。不思議な偶然だ。何かの縁だろうと考えた。松本氏に「ひろしまハウス in カンボジア」の資料渡す。世田谷村に戻り、遅い夕食。NYの友美、電話で声を聞く。明日は、何だか好き勝手な事していたいが・・・。九日、日曜日は一日寝て暮した。旧友倉本四郎の本を読む。妄想十二番と題された遺作だが、読み返してみると倉本さんの想像力が死を前にして澄み渡っていた事が知れる。驚いた。良い本は時間を賭けて読むものだな。夕方、久し振りに宗柳で夕食。戻ってすぐ眠ってしまった。休むのも仕事みたいになってしまった。
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 四月七日、昨日は昼にデービッド、安藤来室。デービッドは六月迄日本に、安藤は数年をフィンランドで仕事する事になった。どんどん国際化してゆくのが大道だろうが、又、それは個々人にとって、極めて困難な事でもある。個人の力が試されるからだ。多くの人間の挫折の現場を見ているから。しかし、そろそろ日本の外で生き、あるいは生誕地の外で生き抜く力を持つ人材がでてきても良い。教室会議終了後、内公聴会、審査会。その後磯崎アトリエ。福岡オリンピック打合わせ。今日は久し振りに午前中休みを取る事ができて、骨休め。そろそろ北京が動くのではないか。李祖原に連絡してみる。農村研究会、絵本、その他の計画が中断しているのが気掛かり。
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 四月二日日曜日、小雨模様。朝食5Fラウンジで、ゆっくりと新聞雑誌を読む。十時打合わせ、作業開始。十三時市役所スタッフ打合わせ。二〇時過迄。二二時四〇分ホテル自室に戻る。
 四月三日、八時半5Fラウンジで朝食。九時半少し作業。十時半O邸現場へ。打合わせの後昼食。十三時半戻り。作業。十八時半磯崎さんと打合わせ。二〇時半迄。T氏とその後打合わせ。翌、〇時四〇分迄。
 四月四日、六時半起床。七時5Fでコーヒー後チェックアウト。福岡空港へ。十時の便まで満席のため空港内で朝食。十一時四〇分羽田。十三時早大大隈講堂。建築学科新入生へ小スピーチ。その後、中川、西谷両先生と遅い昼食。十七時満開の桜の花の下を歩き、研究室に戻る。プノンペンの「ひろしまハウス」が完成に近づきメールで写真が送られてきていた。
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 四月一日
 十時半羽田。十一時半の便が満席で、十二時四五分の便で福岡へ。T氏等と打合わせ。十九時半迄。修了後夕食。二十三時迄。ホテルに戻り、二四時三〇分就寝。昨日迄のソウル行きがまだ続いている風だ。しかし、T氏と会食中に妙にリアルなアイデアが生まれて、ヨシ、トライしてみようかと言う事になる。このアイデアは北京モルガンセンターの仕事中に発端が生まれてはいたが、今度、福岡で山笠の具体のノンフィクションに仲介されて非常に生々しいものとして再生された。T氏のキャラクターにも、刺激された。
 今日は私の誕生日だったが、一つ実りがあったようで良かった。桜の花を小さく一枝、ホテルに持帰り、一人で誕生日を祝う。
2006 年3月の世田谷村日記

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