石山修武 世田谷村日記

2006 年6月の世田谷村日記
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 十五時研究室。打合わせするも、ボーッとして打合わせにならず。我ながら大したキャパシティじゃないなと反省。福岡から連絡その他ガンガンあり、これでは何処にいるのか解らぬ。サンパウロのマリア・セシリアにメール出す。ロシアのサンクトペテルブルグ情報を得る段取りをする。ストレスは全く無いのだが、研究室のスピード感のスローさが逆にストレスになるようだが、それは仕方ない事だろう。色々と細々した件の相談があるのだが、とても対応できず、申し訳ないが六月十六日迄はとても無理だ。今度、福岡に行ったら、体を二つに分割してデクの方は東京に置いておこうと、馬鹿な事を考えたり、危いな。十九時ひと休み、足を地に着けなくては。
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 五月三十一日。十時前迄眠る。午後研究室に出掛けよう。間もなく福岡オリンピックの作業は第一ステップを終えて、第二ステップに入る。カンボジアのひろしまハウスの仕上げ、開館式の計画、 21 C農村研究会北京モルガンの件を再開する。塩野君からドローイングの督促が届いていた。忘れないようにしなくては。
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 三〇日十時打ち合わせ室。十時半N社打ち合わせ。十三時迄。流石に体のリズム感が失くなっている。リズム感、つまり曜日感覚。福岡空港十四時十分発。羽田着。十六時半頃磯崎アトリエ。磯崎氏打ち合わせ。二十二時半迄。地下鉄で帰る。二十三時半世田谷村に戻る。磯崎より「乞食照信を論ず」という草稿を手渡される。大分前に藤森を書いてるよと言っていたので興味があったのだが、コレハ面白い。こういうのを書く時の磯崎には毒があり凄味となる。今のうちに盗みたい。
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 十時打合わせ、作業。十二時半ざるうどん、いなり昼食。十三時過T氏のすすめで、六月博多座大歌舞伎、十八代目中村勘三郎襲名披露。前触れ、船乗り込みを見物してみようという事になり、キャナルシティへ。いつの間にやらステージ前の席に座らされ、勘三郎、左團次、橋之助等を間近に見物。アレアレと言う間に博多川に浮かべられた八艘の小船の一つに乗せられてしまった。小船の先には勘三郎が座り、私は市の助役他とそれに従うという感じ。川をゆるゆると下る。いたる処、橋の上、川沿いの民家、高層アパート等からたくさんの紙吹雪が浴びせられる。中村屋の声が掛かり続け、勘三郎も実に嬉しそうであった。これでは役者は一度やったら止められないだろう。日差しがきつかった。十四時半過打合わせ室に戻り、N社スタッフ等と打合わせ。東京の磯崎氏と話し。夕方渡辺を東京に帰す。私は居残り二十一時半迄打合わせ。その後M氏等と少しくつろいで、疲れをいやす。再び、今朝チェックアウトしたばかりのホテルに戻り、眠る。三〇日朝八時起床。九時半6Fで朝食。
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 五月二十九日、七時起床。昨日福岡市長、山崎拓氏が訪中し、福岡五輪への協力を依頼した筈だが、首尾はどうか。毎日新聞には小さく、市長の北京への出発が記されている。今日は夜便で一度東京へ戻るつもり。渡辺も疲れ気味の様子だ。そりゃそうだろう。曜日感覚、場所感覚が完全にマヒしてきてる。八時6Fで朝食。プノンペンのひろしまハウスの現場はどうなっているのか気になる。
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 安藤忠雄とオリンピックの件話したが、内容は記さぬ。鈴木博之先生から、福岡に入れ込んでるようだが大丈夫かと心配されてしまった。夜半、世田谷村に帰る。二十七日八時起床、荷作りをして羽田へ。十一時三十五分発の便で福岡へ。昨夜の話しを思い起こして一人で苦笑いする。確かに客観的に見れば実に変な事をしているナア。しかし、福岡に希望はあるぞ、とつぶやく。専修念仏だなこりゃあ。こうなれば神さんでも仏さんでも、誰でも味方につける。十四時前福岡。十四時過秀巧社ビルで打合わせ。夕方より再び打ち合わせ。二十三時迄。遅い食事。翌一時休む。
 日曜日九時半朝食。十時作業室。二〇時過迄。T氏とカキ喰べる。若いスタッフ達合流。修了後、アルド・ロッシ設計、イル・パラァツォのバー、エルリストンでバーボン一杯ひっかけて、二十三時ホテルに戻る。
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 十八時四〇分南青山の難波邸。鈴木博之、安藤忠雄と久し振りに会う。難波さんの自邸及び事務所拝見。一階一番奥の仕事部屋の壁にお祖母さんが敦煌で買い求めたと言う空海、恵果のモノクロの版画があり、強い印象を持った。何故だろう。無機的な箱の空間の、そこにフッと生命の印を感じたからか。二階住居部にも棟方志功の版画、大きなイグアスの滝の写真があったが、これにはその感慨は湧かなかった。スミ黒々とした中国の版画が箱の家にはピッタリなのだ。勝手ながら、箱の家はそこのところを突破口にしたら面白い展開になるのではないか。ちなみに、私の世田谷村には先頃行った韓国伝統の版画があるが、全く似合わない。
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 十時研究室。レクチャー準備。十時四〇分大学院レクチャー。十一時半了。十三時半近くのビルオーナーが自分のビルを学生寮にコンバージョンできぬかとの相談にのる。歩いて三分のすぐ隣のビルだ。以前にも話しはあったのだが仲々すすまなかった。今度はどうかな。野村を置いて研究室に戻る。十四時カイ、アベルとミーティング。十七時半難波邸へ。十八時半会食。
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 二十六日、今日は夕方、鈴木博之、安藤両氏に難波邸で会う予定が入っている。楽しみだ。安藤忠雄は今、東京オリンピックの計画案を作成中と聞く。いわばケンカ相手だ。安藤は裸一貫から、たたき挙げた国民的作家だ。彼がヒーローになる事で実は日本の現代建築家はかつてない大衆的支持の拡がりを得た。その事は安藤の大きな功績である。他の誰も真似する事が出来ぬ。彼は江戸期の天下一職人なのであり、華でもある。天下一は民衆の幻想が産みだす。しかし、古典的な民衆像は今は、大衆という消費生活者になり代わった。ヒーローは今や消費の対象でもある。世間を良く視ている安藤がそれを知らぬわけはない。機を視るに敏である安藤が何故石原都知事の依頼にオメオメと乗ったか。断り切れなかったのだろうが残念だ。これは逃げて逃げて逃げまくるべきだった。あるいはガツーンと断るべきであった。石原慎太郎都知事、あるいは思惑うごめく東京資本に加担して、安藤の出自以来築いてきたアイデンティティにとって何の得があるのか。安藤を支えてきたのは大衆社会、消費社会そのものである。大衆は二つの顔を持つ。あるいは日替わり、週替わりの定見を持つ。権力憧憬と、反権力への情動だ。東京はその双対の顔を持つ。それが石原の言う底力の実体だ。安藤のような時代の華は権力に近附き過ぎた時に、崩れ始めるのが歴史の常である。安藤がどう身を処するのか関心がある。又、ゆっくり聞いてみたい。
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 五月二十五日、十時大学院面接。年々人材は小粒になってゆくな。もう、砂みたいになってしまってる。サラサラと流砂だ。十二時人事小委員会。学内各種選挙の話し。争い事は嫌いではないが、学内政治は興味を持てない。十三時過教室会議。オリンピック村スケッチ続行。会議中は時々良いアイディアが生まれる。カイ、アベルに模型を作らせる。十六時N社G氏、F社H氏来室。オリンピック村修正。メディアゾーン修正他。福岡に情報入れる。最終便で福岡に帰る両氏と近江屋で夕食。二十一時半世田谷村に戻る。翌二十六日六時半起床。
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 十五時半磯崎アトリエ。福岡オリンピックチームが大勢押し寄せて、各種打合わせ。二十二時過迄。二十三時新宿にてH氏と遅い晩飯。二十四時了。翌一時前世田谷村に戻る。
 二十五日朝大学院面接。合間にオリンピック村のデザイン修正。カイにモデル作りを指示。分刻みのスケジュールになってきた。今夕、モデルを福岡チームに渡す予定。
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 二十三日、午前中八大建設西山社長来村。母の部屋が仕上がったので工事費精算する。八六才の母はやってもらった仕事は現金で払いたいと古いのである。十四時磯崎アトリエ。福岡オリンピック打合わせ。 10+1 スタッフ打合わせ。十六時過了。オリンピック村の一部の手直しスケッチをおこす。渡辺が福岡に出掛けたので、彼へのオペレーションをクリアーにしなければならない。今週末はカイを送り出すつもり。
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 帰りの新幹線でウトウトしながら考えるに、福岡と新潟は風景はもうそれ程違いはないが、地政も、何よりも人間が異なるのが実にハッキリ感じられて愉快であった。新潟市もサミット誘致で大阪、京都、神戸と対抗しているそうで、それも面白かった。福岡はオリンピック、新潟はサミットか。街にロシア人の姿があるのも福岡とは異なるが、東アジアに開いている点では同じである。関西の都市なんかに負けて貰っては困る。しっかり張り合いましょう。十九時二〇分頃東京着。新大久保近江屋で福岡・カンボジア他の打合わせをして世田谷村に帰る。
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 五月二十二日、六時半起床。朝の温泉につかる。この岩室温泉の高島屋のフィーリングは伊豆大沢温泉ホテルのそれと良く似ている。伊豆松崎町の依田さんから話しを聞いた様な記憶もある。大沢温泉の仕事も進めなければナア。研究室より福岡のアイデアのFAXが入っていた。私のアイデアをスケッチして、今朝連絡取る。朝食を済ませ、当家の高島和子さんにロビーで確かめたところ、やはり依田家とは古い附合いであるとの事。大変な奇遇であった。八時四十五分岩室温泉高島屋を発つ。十時前市役所。市長に再会。十時市役所幹部八〇名程に話しをする。十二時前了。市長と役所内で昼食。十三時過燕喜館へ。十八名程の若手実動部隊と討論。十五時修了。さて、どうなりますか。僕としたら、もう中途半端な事だけはしたくないので、新潟市が本気でやるのなら、本気で附合うし、それでなければやらない。市役所の方に色々と案内していただき、十七時十一分の新幹線で帰京。仲々、ハードな二日間であったが、面白かった。
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 アット言う間の、もう二十一日。七時半起床。朝食、豆腐、フキの茎。荷造りをして東京駅へ。九時二十八分発のトキで新潟へ。新潟市に 21 世紀型農村について話す予定。及びケース・スタディの現地視察。十二時前新潟着。市役所の方が迎えて下さって早速バスに乗って廻る。海岸沿いに走り、三、四カ所見学する。十七時過迄。途中より新潟市長合流。十七時半頃より、市長、地元の方々と会食。二〇時四〇分了。今日は卷地域を視察。ワイナリー・カーブドッチ社長さんは仲々のナイスガイ。ベリー農園阿部の青年は中国人のワイフ共々頑張っていて心強い。東京の若者には居ないなこのタイプは。大型ハウスでみつば他を水耕栽培するグリーンプラント巻の社長さんも脱サラで始めた仕事だが、足が地にしっかり着いていた。越前浜集落のダーチャ・スクールの可能性はある。市の取り組み次第であろう。
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 疲れて腹ペコだが、今夜中に石山研スタッフにプランの変更に対応するように指示しなければならない。機中でオペレーション・スケッチをする。ハードではあるが、面白い。羽田には二十二時頃着か。
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 五月二〇日、九時半5Fレストランで朝食をとっていたら磯崎さんとバッタリ会う。何か、物いいたげで、暴の前の予感あり。十時作業室ミーティング。中心メンバーが総ぞろいして色々と打合わせをしているところに、磯崎登場。予感は当り、中心地区の配置その他大巾に変更するアイデアを切り出した。四ヶ月前から磯崎が言っていた事なのだが、マア、色んな事情で仕方なかろうと、あいまいに進めていたポイントを全て突かれ、ガンとして動かぬ。昼食のザルうどんを挟み、延々とハードな打合わせ。十四時秀巧社ビルにて第二回ワークショッップ。福岡のメダリストを始めとする、名アスリート、コーチ、役員の方々の様々な意見、アドヴァイスをいただく。皆、良い意見を下さった。計画に反映していきたい。十六時半迄。作業室に戻り、再びハードな打合わせ。しかしながら、磯崎の言う事は基本的には正しいので、プランの変更を決める。これはアト二週間は数十名のスタッフは眠れぬ日々になるであろうと決意する。しかし、程々にまとまったものでゆくよりは極上の案でまとめるのに異存は無い。二〇時過迄打合わせを続け、心残りではあったが作業室を去る。二十一時十分の便にすべり込む。我ながら、ハードな状況に居るなと思うが、存分に楽しんでもいる。又、前線も皆、意気盛んで心強い。晩メシは喰えず仕舞いであった。しかし、磯崎の筋の通し方を又も見せつけられ、六〇過ぎて言う科白ではないが、勉強になった。彼との仕事で、マア、いいだろうは禁句だ。疲れて機中で眠る。腹ペコである。
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 浅い眠りで四時過目覚めてしまう。風呂にゆったりとつかり、頭を洗う。寝ても覚めても福岡で頭が一杯になってしまてる。要注意だな。秋田藤里小学校の7才の男の子が殺された件がどんより気持に沈み込んでいるのが解る。一九五〇年からの高度経済成長の小さな決算だろうか。少年の小学校で三五年前に何言う事のない充足した時間を過ごした事があるので身近にこの事件を感じざるを得ない。あの町で七才の少年が首を絞められて何ものかに殺されるとは、時代は不気味な暗黒の中にいる。と、つかの間のもの想いにふけっていたが。
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 十九時過福岡着。二〇時5Fで先着の磯崎氏と会う。いささかの打合わせの後、近くで再び打ち合わせ。二十二時過迄。磯崎氏仰天すべき生命力を示す。食欲を比べれば私は誠に野のユリのようなものだ。しおらしい(笑)。ホントに流石にビックリした。秦の始皇帝並みの旺盛さだなコレワ。その後T氏と少し計り話し、二十三時三〇分頃ホテルに戻る。
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 五月十九日、十時四〇分院レクチャー。十二時打合わせ。十四時二〇分広島市平岡敬さん来室。ひろしまハウスの打合わせ。オープニング披露は十一月頃と決めた。カンボジアの渋井さんに電話、直接色々と話す。平岡さんとは近日中にもっとゆっくりと話したい。福岡オリンピック支援を広島の平和団体に平岡さんを介して頼む。十五時十分設計製図。三〇分過、アトを任せて退出。中谷、森川に任せておけば良いだろう。十七時二十五分羽田発福岡便に間に合う。機内のニュースで秋田の小学生男児殺害事件の舞台が、アノ、藤里小学校である事を知る。二〇代後半の夏の高山建築学校の藤里小学校である。あの男の子は僕等が生活していた木造校舎ではなく、新しい校舎で勉強していた。周囲の環境も三〇年前と比べてズーッと便利そうに開発されているのが知れた。しかし藤里小学校の男の子は何者かに殺されている。もしかしたら、川に落ちて死んだ女の子も殺されたのかも知れぬ。僕等が共に生活した古い木造校舎や運動場、そして周囲の地域には、幼児殺人等想像も出来ぬ、安定感があった。秩序があった。地域の共同体に支えられた、自然があり、生活があったと、今更ながら痛感する。アノ、藤里で幼児殺人事件が起きたのか。建築家は一体何をしてきたのか。関係無いとは、言えぬぞ。コレワ。
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 十八日、昨日は東京で一日中福岡と附合った。福岡オリンピックの二本の記者会見である。磯崎さんはキチンと全てこなした。東京との多勢に無勢の戦いに、堂々の振舞いである。最後はアトリエ近くのレストランで打合わせ、翌一時世田谷村に戻った。北京の Mr. K、李祖原とも連絡。次のステップに臨む。今日は一ノ関、ベーシーの菅原正二に電話してみる。十二時前自宅に電話したら案の定咳交じりの菅原が出てきた。私もこのところ咳に悩まされているが、菅原さんもであったか。しかし、それ以上でも、それ以下でもなく、しかし気になる。非常に気になる。何が気になっているのか知れぬが、フット気持がざわめくのである。
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 十七日午前中は流石に休む。菅原正二の「聴く鏡」読み続ける。オーディオの音に、それこそ一生をかけた菅原の不思議に満ち溢れた本である。
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 午後便で東京へ。夕方近江屋で打ち合わせの後二十二時世田谷村に戻る。ベーシーの菅原正二より「聴く鏡」ステレオ・サウンド送られてきていて、早速熟読。又夜も眠れず。よい本である。
 翌朝八時半起床。十時三〇分研究室。同四〇分、レクチャー。十一時四〇分迄。十二時より雑打ち合わせ。沢山。個々の内容は思い出せぬ位。夕方、磯崎氏より連絡あり、次の段階の打ち合わせ。これから先、六段階に分けて驚くべきアイデアを出し続けるスケジュールを決める。東京はこの波状攻撃に耐えられぬであろう。まだ三〇%位しか中身は発表していないから、アトは当分、ふせる予定である。東京は真似したくても、もう不可能になる。
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 五月十四日日曜日十時打合わせ室。日本設計と打合わせ。昼食は川端でチャンポン。八番山が出番を待っていた。こういうシンプルさがオリンピックにも欲しいね。十七時迄打合わせ。カゼ気味で、遂にカゼ薬、ヴィックス。体温計を渡される。情けない。晩飯はT氏の心づかいで鉄板焼。沢山ニンニクを入れられてしまった。これではかえって体に悪いぜと思ったが、おいしく喰べた。これからの作戦を立ててホテルに戻る。早く眠る。翌十五日は八時過迄ゆっくり眠り続けた。のんびりして、十時5Fで朝食。
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 五月十三日、五時過目覚める。頭髪を洗い、メモを記す。何やらオリンピックに関する妄想がとめどなく現れては消える。これは少し危いかも知れない。しかし、危うくてもヨシ一直線に行くしかない。九時5Fで朝食。十時前作業室へ。磯崎、市役所他打合わせ。昼食後秀巧社ビルへ。福岡オリンピック招致委員会主催のオリンピックアスリートの皆さん、そして市民たちとの、公開ワークショップに出席。磯崎全体構想のレクチャー。私は各会場の説明、他。福岡は全てを市民に公開してゆく。東京にそれが出来るかな。二Fで山崎市長他と打合わせ。十八時迄。その後山中で夕食。磯崎氏帰京。T氏と諸々の打合わせ。二十四時頃ホテルに戻り、バタリ。
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 五月十二日十時四〇分院レクチャー。打合わせ。十五時設計製図レクチャー。十六時退。十八時三〇分羽田発JAL便で福岡へ。ANAが満席で夕方便取れず、JALは空席があった。一度開いた格差はおさまり難いか。二〇時過福岡着。ホテル、チェックイン。作業室へ。発表された東京の案など見て、何も無いのに驚く。何が格か、笑わせるな!という感じ。週刊文春の猪瀬直樹の「福岡にはオリンピックは出来ない。」という記事に対する市役所の抗議もかなり強硬に出るらしい。猪瀬が今の時期に何故あのような駄文をモノしたのか背景を知りたい。評論家が小泉チルドレンになったら、どうするのか。磯崎さん上海より到着。二十一時過食事しながら話す。磯崎の情報収集力は凄まじいものだな。猪瀬はミカドの肖像で本格的デビューを果たした評論家である。小泉内閣の不可思議の一つ、道路公団民営化問題その他で、中核に入り込み、いつの間にやらすっかり体制に馴染んだようだ。今度の実に不可解な小論も、すっかり体制に馴染んだ猪瀬の論客としての体多落をよく示している。かつて、栗本慎一郎という気鋭の評論家がいた。経済人類学という領域を示し、「パンツをはいた猿」などの著作がある。政界に進出して、一時話題にもなったが、今はどうか。どうやら猪瀬にも、その気配がある。来年の参院選か、何処かの知事選に出るのじゃないか。惜しい人材を失う事になるな。二十三時磯崎さんと別れ、T氏と下で話す。二十四時過部屋に戻る。
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 五月十一日、十一時午前中世田谷村。T氏に連絡したら東京に居るとの事。皆激しく動いているな。感心する。藤森照信氏との対談はほとんど手を入れずにすんだ。まとめた編集者の才だな。ひろしまハウスの朱色に関するコラム書く。
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 十三時より打合わせ、来客が続く。十五時Gスタジオ、中谷礼仁、森川嘉一朗と。学生の育ちの遅さにいささかいらつく。Gスタジオはもう両先生に任せた方が良さそうだ。夕方福岡にデータを送る。いろいろといらつく事が多いが、努力して平穏にゆきたい。二十二時半世田谷村に戻る。
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 五月十日八時起床。もうろうと眠気が続く。十一時の打合わせはキャンセルしよう。少休したい。今日はもう十日か。
 昨日の話しではロシアは二〇一六年オリンピックはプーチンの都市サンクトペテルブルグが大本命と読んでいるとの事。ヨーロッパもアメリカもロシアのオイルとガスがノドから手が出る程に欲しいから、それに同意せざるを得ないだろうというのがモスクワの情報との事。大本命サンクトペテルブルグ、対抗リオデジャネイロ、ニューデリー、シカゴ、ヒューストン、サンフランシスコ、そしてマドリッド。こう並べてみると東京には地政的利は無い。矢張り磯崎の言うように大ダークホース福岡、東アジアとのネットワークを前面に出すのが突破口だろうな。オリンピック自体の改革すなわち原点、初心に戻そうという磯崎の考えは正しい。それを鮮烈に出せというオリエンテーションは揺るがせないだろう。と、もうろうとしたままの頭で繰り返す。仲々、大変だ。
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 五月九日、十時四〇分学部レクチャー。午後は雑用に暮れる。オリンピックミーティング。書類、図面が膨大な量で整理をしないと混乱するな。真栄寺馬場昭道より電話もらう。昨日夢みたそうで、声を聞こうとしただけだと言う。有り難いような、縁起でもないような。体は充分に耐えられそうだが気持の息を抜いてやらなくては。若松氏来室。七月にロシアに行くことにする。夕方、近江屋、再び研究室に戻り、オリンピックワークを見て、二十三時世田谷村に戻る。明日は午前中休ませてもらう。
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 五月八日、十時作業室。打合わせ十六時迄。十七時二十五分の便で東京へ。十九時羽田着。二〇時磯崎氏と打合わせ。二十二時半了。二十三時半世田谷村に戻る。山口勝弘先生より封書届いていた。お元気そうで何よりである。知的好奇心も相変わらずで、本物のアーティストの凄味を見せつけられる。福岡オリンピック騒動で色んなプロジェクトが休断してしまっているが、仕方ない。
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 再び八時迄グッスリ眠る。今日は日曜日か。九時四〇分朝食了。十時打合わせ開始。十二時半磯崎さんと連絡。十三時半Tさん親子と昼食。十五時打合わせ再開。二十一時半迄。二十二時遅い夕食をとりながら又話しは打合わせ風になってしまう。八日七時起床。今日は夜、東京で磯崎さんと打合わせする予定。十時作業室。
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 六日早朝四時に目覚めてしまう。時々こういう刻があるな。少し計りスケッチをして再び眠る。八時二〇分起床。九時前朝食。三〇分作業室に行くも、まだロックされて誰も居ない。それはそうだ。世間は連休真只中で、十年先のオリンピックの為に走り廻っている方が異常だ。部屋に戻り、小休。十時前より打合わせ。昼食のサンドイッチとお握りをほおばりながら続行。市役所スタッフを交え二〇時迄。二十一時前、前線のスタッフ三名と夕食。マア、言ってみれば前線との晩飯である。二十二時過修了。宿舎に戻りバッタリ寝る。七日も早朝四時前に一度目覚めメモを記し再眠す。旅行続きのような人生だな。
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 十三時過ぎ福岡空港着。作業室近くのうどん屋で三色うどん食べて、作業室へ。皆、待ち構えていたが別室でSさん、市役所のメンバーと打合わせ。その後本格的打合わせに入ろうとするが、何故かペースが少々ゆがんで軌道に乗らず。東京側には友人の安藤忠雄が正式に加わったらしい。昨日、福岡市長に連絡してきたとの事。安藤らしい身の処し方である。しかし安藤のカンも鈍ったとしか言い様がない。世界戦では東京は惨敗必至なのを知らんのか。二〇時過迄打合わせ。その後、T氏と食事、雑談二十二時半迄。ホテルに戻りすぐ眠る。
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 四日も情報集収。午後ひろしまハウス・ドローイング習作を始める。平和で安穏なプロジェクトであるが、内にいささかの狂風も吹いているのを自覚する。今、プノンペンは猛暑であろう。パキスタン・モヘンジョダロの猛暑にインダス河のゆらぐかげろうとなって浮いていた古代遺跡をハッキリ思い出したり、オリンピックの戦いの合間の平安か。夕方福岡より何本かの電話入る。五日、八時過起床。充二分に休息したので、又、ヤロー。コノ、ヤローって感じ。朝食をたっぷり取って羽田へ。トンカツの野菜煮こみ風とシメサバの玉ねぎ添え。十時半羽田空港。十一時三十五分の便で福岡へ。
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 三日はオリンピック関連各種情報収集に暮れる。世田谷村を一歩も出なかった。要するに、オリンピック招致合戦とは本当の姿を何処迄公開できるかの戦いだなコレワ。福岡、九州はでき得る限り公開性を旨とすべし。東京のこれ迄の非公開的性向は歴然としている。それをとやかく言う積りは今のところは無いが、いずれ近く問題としたい。JOCによる国内予選の実像は良く公開されている。これはOK。しかし、次のIOCによる世界戦の実体はどうか。百を超える世界各国の票数によって開催国は決定される。大阪が横浜を退け二〇〇八年オリンピックの世界戦に出た時の獲得票はわずか六票。北京は四四票であった。他はトロント二〇票、イスタンブール十七票、パリ十五票。大阪はドン尻であった。それで二回目の投票からは対象から外された。ビリは外されるのである。二回目の投票で北京は五六票を獲得して、二〇〇八年の開催国になった。IOCレベルで中国の影響力がどれ程のものか、今は精緻には知らぬ。しかし、中国のアジア、アフリカ諸国への影響力は極めて大きい。中国は東京には決して投票しない。すでに中国側が福岡支持を明言している。それは対中国に強硬な石原東京都知事が知事でいる限り続くであろう、確実に。世界戦に登場するであろう、各国都市の顔触れを見廻してみる。二〇一六年オリンピックは中国の動向が開催国を決めるであろう事位は誰でも、すぐに解る。中国の意向がキーポイントなのは歴然としている。それ位の初歩的な事は見越して福岡は立候補している。東京に世界戦の戦略はありや無しや。マア、無謀で勝算の無い挑戦だと思う。この辺りの極めて初歩的な事情をマスメディアは当然知っているだろうに。IOCレベルで勝ち抜くポテンシャルを持つのはアジアの百五〇万小都市、福岡・九州しか無いのである。そぼ理由はおいおい、述べる。
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 五月一日、十時作業室。まとめの打合わせ。自分なりの段取りをしてHさんと昼食。再び打ち合わせの後十六時半の便で東京へ。機内で眠る。十八時半羽田着。二十一時磯崎さん打合わせ。磯崎は全てを見通しているから、私程楽天的にならない、そこが大将の辛いところだろうと想う。二十三時了。二十四時過世田谷村に戻る。翌二日八時起床。十時半学部レクチャー。連休の合間で学生数も少ないので、だからこそ良いレクチャーをしたが、セキがひどく、話すのが少々辛かった。しかし、レクチャーをさぼり始めたら、とことん、さぼりそうで意地でやっている。レクチャーどころじゃないのは解り切っているのだが。午後、ドオーッと音を立てる如くに各種打合わせ。送信。綿貫さん塩野君来室。ひろしまハウスを主題とした展覧会をやる事になる。ドローイングの紙をドシリと渡されてしまう。M0ゼミ三〇分程。その後福岡オリンピックへの戦略を私なりに再考する。二段三段構えの戦略を要する。
2006 年4月の世田谷村日記

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